2022年12月19日月曜日

意識はどこから来るのか 2

 思考実験である。目の前にかなり精巧なロボットがある。「春(ハル)」という名前だという。収音マイクの部分があるので、話しかけてみる。「お元気ですか?」すると機械的な声が返ってくる。「元気ですよ、Aさんあなたは?」ほほう、こちらの名前も把握しているとは優秀だ。「春さん、だね。いつからここにいるの?」「先ほどここに設置してもらいました。あなたの相手をするというお役目です。」

 思ったより良くできているようだ。そこでその春の樹脂製のツルツルの頭部を少し叩いてみる。すると反応がある。「Aさん、今私を叩きましたね。何か御用ですか?」あまり感じていないようだ。もう少し強く叩いて、また反応を見る。「さっきより強いですね。あまり強く叩くと私に不具合が出るかもしれませんので、を気を付けください。」どうやら春は痛みは感じてはいなさそうだ。

いったん思考実験はここまでとしよう。あなたはおハルさんに「意識」はあると思うだろうか。難しいところだが、私が応えるとすればこんな感じだ。「それはあまり気になりませんね。心はあるかもしれないけれど、まあどうでもいいことです。叩かれても何も感じないようだし、すべてプログラムに従って答えているだけだから、意識があるというのはちょっと想像できませんね。まあ全く可能性がゼロというわけではないでしょうが…」

基本的に私のスタンスはこうだ。「ハルに意識があるかどうかは基本的にはどうでもいいことなのだ。」「勝手に意識とやらを持っているのならそれはそれで構わないけれど。でも春が意識を持っているかどうかは結局はわかりようがないし、それはハードプロブレムの問題に行きつくのだ」。しかしもし私が次のように問われたらどうだろう?「ハルが今よりはるかに精巧になり、実際の人と同じようなレベルでの複雑なやり取りをし、『自分は意識がある』と言いだしたら、どうでしょう?」

これに対して「その問題は、例えば私と同じような脳の仕組みを持った他者に意識があるのか、という問題と同じです。つまりもちろんあると思います。」

とここまで書いて私は自分が何を考えているのかが少しわかった。私はハルがどんなに精密になっても「さっきより強いですね。あまり強く叩くと私に不具合が出るかもしれませんので、を気を付けください。」というような答えしか返さない場合、やはり心とは呼ばないだろうという事だ。つまりある種の情動が生じる事によって心はその意味を持つということである。情報処理をするというだけでは心とは言えない。体をいくつに切られても、それぞれが再生するプラナリアのような生命体に心は存在しないのだ。

2022年12月18日日曜日

報酬系 1

   報酬系と脳科学

 目の前の患者Bさんがこう言う。「あの人と連れ添ってきて幸せだったと思ったことは一度もありません。ずっと別れたいと思っていました。人はあの人のことを素晴らしい人だ、作家であり政治家であり、一種の天才なんだというでしょう。でも夫としての私に何も優しい言葉をかけてはくれませんでした…」
セラピストの貴方は静かに思うのだ。「奥さん、貴方の旦那さんが破天荒だったのはわかります。身勝手なところもあったでしょう。でも彼が味わわせてくれた体験は、おそらく他の人には決して持てなかったものでしょうね。」そして思うのである。夫婦生活での一番の問題は、相手がいつも身近にいることで、相手が与え続けてくれたことに対しては見えなくなり、相手が奪い続けているものだけが見えることなのだろう。人はどうして今持っているものの有り難さを認識できないのだろうか?」そして「自分自身についても全く言えることだ。」とつぶやく。
 単純な例をあげよう。私達は両目の視力が1.0であることを普通は感謝したり喜んだりしない。駅まで自分の足で普通に歩いていき、地下鉄に乗り、仕事場に着くということがどれほど幸せな事かについて歓喜したりしない。でも視力を突然失って途方に暮れている人、変形性膝関節症に悩まされて杖なしには歩けなくなった初老期の方には、普通の生活を送れている人たちがどれほど羨ましく感じる事だろうか?

 何が問題か? 私は報酬系にその責任がある、と言いたい。

2022年12月17日土曜日

意識はどこから来るのか? 1

 意識はどこから来るのか? 脳科学的に問う

 クライエントAさんがこう尋ねてくる。

「父の亡骸を横にしてふと考えたんです。あれほど激しい父親、いつ鬼の形相になるかわからなかった父親もこうして死に顔を見ていると、本当に穏やかなんです。人間っていったい何だろうか、と私はふと思ってしまいます。あのろくでなしの父親の魂が宿っていたからひどい人だったけれど、本当は穏やかな人だったかもしれないな、と」。
 貴方はこう答えるかもしれない。「まさにその通りですよ。別の魂が宿っていたらきっと別人だったかも知れない。でももっとひどい魂ではなかった分だけよかったのかもしれませんね。」こう言ってしまい、Aさんがなき父親に未だに持っている筈に違いない怒りを表現する機会を、今の言葉で奪い去ろうとしていたのではないかと危惧するだろう。
 しかし「脳科学」に偏重気味のあなたは、別の答え方をするかもしれない。「いや、実は目の前のお父さんが持っていた脳が、お父さんその人だったんです。あなただって、お父さんの脳に入っていたらおそらくお父さんの様に理不尽なふるまいをしたかもしれません。」こう言いながら、「いったい自分は何を言っているのだろう?」と訳が分からなくなってしまいそうな気分になるかもしれない。
 心とは何か。意識とは何か。そもそも「私は私である」という体験はどこから来るのだろうか? 宗教家により、哲学者により、あるいはそれ以外のあまたの人々によって、これまで何度となくこの種の問いがなされてきた。いわゆるハードプロブレムである。私達はこの問題についてじっくり考える必要がある。なぜなら私たちは死ぬ運命にあり、死んだらこの私という感覚、すなわち私の意識はどうなってしまうのだろうということにある程度の考えを持たずにはいられないからだ。もちろん別にそんなことは考えなくてもいいと思うかもしれない。でもそれは、死という運命に最後の瞬間まで目をそらしているということになる。これはこれで恐ろしくはないか?あるいは心について扱うことを生業にしているこの連載の読者は、おそらくこの問題にそれ以外の人よりは注視すべきなのだ。なぜなら「死後はどうなるのですか?」と問うてくるクライエントさんに何の助けにもなってあげられないからである。
 「意識とは何か?」についての最終的な結論は先人たちが出している。そしておそらくそれ以上のアイデアは私たちに浮かばないであろう。それは意識とはバーチャルなものであるということだ。「空」と言ってもいい。色即是空の「空」であり、形のないもの、である。

2022年12月16日金曜日

発達障害とPD 4

 以上を前提として対面状況がどの様に体験されるかを、SD(スキゾイド)とASDで比べてみる。SDでは対人場面での間合い、空白を苦痛と感じる。この空白は「しらけ」と言ってもいいかもしれない。対人間の空白、ないし「しらけ」とは一種の臨界状況とみていい。二人の間に広がりつつある空白をどのように、どちらが処理するかの駆け引き、せめぎあいが起きる。これは必要以上に広がると「事故」になる。NHKなどで二人のキャスターがやり取りをしながら番組を進めるところを想像しよう。おそらく二秒くらいの空白はすぐに「しらけ」となり、間違いなく放送事故となるのだ。学生の頃よく教室でざわついている時一瞬空白が生まれると、その後爆笑になるというシーンを体験したことがあるだろう。笑い飛ばすことによりすぐに解消することが出来る空白は、そうやって弄ぶことさえできる。でもSDの人にはそのような芸当はできない。
 ASDでは「しらけ」を解消する能力を大きく欠いている。というよりは白けの感覚がつかめない。彼らが一生懸命何かを話していて、周囲がシラーッとするということはしばしば起きる。要するに「空気の共有」ができないのだ。自分がそこを何らかの形で埋める場合、相手との関係を踏まえてのことではないため、場を台無しにしてしまうということがある。ASDでは
それが生じやすいのだが、結果的に自分が受け入れられていない状態になってしまったという感覚だけはあり、仲間外れになり、寂しく、また自暴自棄、ないしはパニックになる。それが周囲をさらに当惑させる。
 SDではもちろん空気はわかる。しらけは感じるし、それを埋めようとすることの意味も分かる。でも基本的にはそれが得意でないか、またはエネルギーをとても使う。そのエネルギーは彼の恥の感覚からくる大脳皮質の抑制に由来する。彼は友達付き合いが嫌いなわけではないし、その気になったら楽しめる。しかしそれは重力が地球の二倍の天体の上で活動するのにも似てしんどいのだ。しかし例えばアルコールにより大脳皮質からの抑制が取れると身軽になる。志村けんさんは酒が入れば、あるいはバカ殿のかつらをかぶれば身軽になれてスキゾイドの殻を破ることが出来たというわけである。

2022年12月15日木曜日

神経ネットワーク 4

 神経ネットワーク=脳なのか

さて皆さんの中にはさっそく混乱してきている方がいらっしゃるだろう。「え?神経ネットワークって、結局脳のことなの?」

私がローゼンブラットのパーセプトロンの話を前回書いた時(実はまだ書いていない)、それはあくまでも脳の神経細胞をモデルにしたものであった。それを膨大なサイズに広げたものが神経ネットワーク、というわけだが、ではそれは「脳」の等価物なのだろうか?だって「神経」というからには脳細胞のことだろう。だったら「神経ネットワーク」≒脳、ということでいいじゃん。

この点については私も疑問に思い、素人なりに調べてみたのだが、よくわからない。しかしなにか識者の間には「神経ネットワーク≒脳」という了解があるかのようである。しかし断じてそうではない。当たり前である。
 脳はあくまでもブラックボックスなのだ。しかしその組織を研究してみると、どうやらそこに見えてくるのは神経細胞と神経線維ということになる。これらの要素以外には脳の機能に関与していない様なのだ。(実は最近はグリア細胞が情報伝達に関与しているらしいことが分かり、大騒ぎである。)だから脳は結局は神経細胞と神経線維からなるある種の情報網としていいのではないか、ということになるかもしれない。でもそれは正しくない。なぜかと言えば、脳は生体であり、それは必ず揺らぎを伴っているからである。神経細胞と神経線維の間のつなぎ目の多くが「つながるか繋がらないか」で揺らいでいるのだ。
 例えば神経細胞Aと神経細胞Bが神経線維でつながっている、とする。それは模式図的に書けば、
ABであり、ABが一本の線で繋がっているという状態であろう。ところが実際にはAにはそれ自身がとてつもない数の神経細胞からの入力を受けており、またBA以外からとてつもない数の入力がある。またAからBという経路とBからAという経路は、別々に存在することになる。(普通神経線維の情報の伝達は一方向性である。)その上でAからの神経線維はBに繋がっていたり、切れたり、で揺らいでいる可能性がある。つまり「半繋がり状態」でいる可能性が高い。ここがパソコンなどの回路と決定的に違うのだ。

 皆さんは芸能人の名前などで、時々思い出すが、だいたいは忘れているものがあるのではないか。明確に記憶している名前とうろ覚えだったり顔しか知らない人の名前があり、その間には膨大なグラデーションがあるわけだ。(私の場合は、例えば「星野源」さんの名前がどうしても思い出せず、日によって思い出せたり思い出せなかったりする。)別に政治家でも地名でも何でもいい。Aが別の入力を受けている時Bに繋がりやすい、ということがある。Aさんの顔を思い出しても彼の名前(a)が思い出せないことがあるが、Aさんの声を同時に聞くことが出来たらすぐa が浮かんだのなら、Aa のつながりは「半繋がり」だ。なぜならつなぎ目のシナプス部分は揺らいでいるからなのである。(この回の部分は完全にボツだろう。読者が付いてこない。)

2022年12月14日水曜日

脳を裁くことはできるのか? 3

 サイコパスの「悪魔のトリアス」

 扁桃核の不具合による不安や恐怖の軽減、眼窩前頭皮質の不具合による衝動のブレーキが利かないこと、をサイコパスの脳科学的な特徴として示した。それともう一つ決定的な問題を彼らは有していることがある。それが残虐的な行為により快感を得るという性質がある。これは脳の報酬系という部位の持つ特徴、ないしは異常である。私はこの3つを「サイコパスの悪魔のトリアス」と呼んでいる。トリアスとは三つの兆候、三つ組みの特徴ということで医学ではよく用いられる表現だ。少年〇の手記(「●歌」)などには動物に対する残虐な行為が明らかに性的なエクスタシーに通じていて、それを嗜癖のように繰り返してしまう様子が描かれている。(気分が悪くなるため、お読みにならないことを薦める。)
 もちろんこの快感が性的なエクスタシーに繋がらない場合もある。その場合は残虐な行為は単に心地いいというだけに留まることになろう。もちろんそれでも人はその行為を繰り返す。ところが連続殺人のような行為の場合、一回ごとに激しい快楽と達成感が伴うことが多い。そしてそれが性的な快感を呼ぶことでその行為の常習性は決定的なものになるのである。

人はこう問うかもしれない。「それにしてもなぜサイコパスは場合によっては厳しい処罰を加えられるリスクを犯してまで、人に対して残虐な行為が出来るのですか?」

しかしそもそも彼らには処罰されることへの恐怖が欠如している。つかまって処罰を受ける場合には、それはそれで仕方ない、くらいにしか思えないのだ。もちろん扁桃核の不具合がそうさせている。扁桃核は恐ろしいもの、恐怖の対象から急いで逃げることで生体を守っている。「処罰」もその一部である。しかしそれが怖くないとしたら、抑止力はほとんどないに等しい。実際に厳罰化がサイコパスにとってはその行為の抑止にならないということはよく知られる事実だ。

サイコパスの彼らにとっても不快なことは嫌いだ。それは私たちと特に変わらない。そして彼らはそれをできるだけ回避したいのだ。あるサイコパスはその手記で、服役中に自分の刑期がさらに延びたのを知って心底嘆いたという。この様に彼らにもしっかり感情はあるのだ。しかしそれはやはり恐怖や不安とは異なる。ちょうど私たちが朝起きて仕事に出かけるとき、あいにく嫌な空模様で傘をさして駅まで行かなくてはならないことを知った時は、かなりがっかりするだろう。もちろんそれは「嫌」で回避したくなるかもしれない。しかし「恐怖」ではないのだ。そして恐怖や不安が伴わない事柄に対して、私達はかなり鈍感になる。彼らが厳罰が下されることに恐怖を抱きにくいことが、彼らの犯罪の常習性と結びつく。こうしてサイコパス達は、シューティングゲームで敵を倒すのと同じような感覚で実際に人を恐怖に陥れるのである。 

2022年12月13日火曜日

神経ネットワーク 3

 アルファー碁の独創性は本物か?

  ここで一つの疑問を呈してみよう。イ・セドルとの対局でアルファー碁が見せた第237手目は独創的だったのだろうか? 私の見解では厳密な意味では独創的でない。なぜなら結局のところ神経ネットワークで生じる事柄は決定論的(論理的な必然性を伴ったもの)だからだ。コンピューター上で作り上げられる仮想的な神経ネットワークは要するに「揺らぎ」がないからである。そこでどのような新たなネットワークが生まれようと、それは厳密的に言えば偶発的ではない。例の第37手目は、おそらくもう一台のアルファー碁でも算出したであろう手なのだ。そしてそれはそのプログラムが計算した最善の手であり、唯一の「正解」なのである。

ここの点をお分かりいただけるであろうか? ちょうど円周率と同じである。円周率を計算させると一見でたらめな数列が何万、何億と連なるが、同じプログラムで計算している限りは他のパソコンでも全く同じ計算結果を何億桁に及んでも出し続けるのと同じように。

 ところが人間の神経ネットワークは揺らいでいる。そこには偶発的な突然変異の様な事が生じる素地がある。遊びや偶発性がとんでもない発想を生み出すのだ。そしてそれは「正解」ではない。

この様に考えると人間の行う発見にも独創的なものと独創的に見えて実は「正解」なものがあるということに気が付く。ガリレオが天動説に代わって地動説を唱えた。これは「独創」だろうか?おそらく違うのだ。独創とは彼がいなければ恐らく半永久的に作り上げられなかったものだろう。ところが先見の明のあるほかの科学者が結局は至る「正解」だったとすれば、その科学者の頭の中にあるコンピューターが他の人より性能が良かったから、たまたま先に見つけたということに過ぎない。

 それに比べてダヴィンチのモナ・リザはどうか。こちらは「正解」ではないし、彼から数年遅れて他の芸術家が描き上げたであろうものでもない。
 そう、ここが巨大パーセプトロンと生体である神経ネットワークとの相違点なのである。