2018年4月23日月曜日

精神分析新時代 推敲 62

スペクトラムの中での柔構造
―ある心の動かし方
さて私は精神科医として、そして精神分析家として、結局かなりケースバイケースで治療を行っています。そして強度のスペクトラムの中で、強度8から0.5まで揺れ動いているところがあります。これはある意味では由々しきことかもしれません。「精神療法には構造が一番大事なのだ」。これを私は小此木先生から口を酸っぱくして言われました。でも私はこれをいつも守っているつもりなのです。ある意味では内在化されていると言ってもいいかもしれません。というのも私は結局はどの強度であっても、一定の心の動かし方をしていると思うからです。そして私はそれを精神分析的と考えています。ここでの私の「分析的」、と言うのは内在化された治療構造を守りつつ、逆転移に注意を払いつつ、患者のベネフィットを最も大切なものとして扱うということにつきます。それが私の「心の動かし方」の本質です。その心の動かし方それ自体が構造であるという感覚があるので、外的な構造についてはそれほど気にならないのかもしれません。
 「ある心の動かし方」はそれ自体がある種の構造を提供しているという側面があるという話をしました。その心の動かし方にはある種の構造がビルトインされています。ですから時間の長さ、セッションの間隔は比較的自由に、それも患者さんの都合により変えることができます。それでも構造は提供されるのです。ただし実はその構造を厳密に守ることではなく、それがときに破られ、また修復されるというところに治療の醍醐味があるのです。そのニュアンスをお伝えするために一つの比喩を考えました。
いつか重構造のことをボクシングのリングのようなものだと表現しました。がっちり決まった、例えば何曜日の何時から50分、という構造を考えると、それは相撲の土俵のようなものです。そこでさまざまなことが起きても、足がちょっとでも土俵の外に出るだけであっという間に勝負がつく。その俵が伸び縮みすることはありません。ところがボクシングのリングは伸び縮みをする。治療時間が終わったあとも30秒長く続くセッションは、ロープがすこし引っ張られた状態です。そして時間が過ぎるにしたがってロープはより強く反発してきます。すると「大変、こんなに時間が過ぎてしまいました!」ということで結局セッションは終了になります。
 このようにロープ自体は多少伸び縮みするわけですが、リング自体はやはりしっかりとした構造と言えます。そしてその中で決まった3分間、15ラウンドの試合を行うというボクシングの試合は、かなり構造化されたものです。そして、本来治療とはむしろこのボクシングのリングのようなもの、柔構造的なものだ、というのが私の主張でした。
 しかし「心の動かし方自体が柔構造的だ」という場合は、ここで新たな比喩が考えられます。同じボクシングの比喩ですが、コーチにミットでパンチを受けてもらう、ミット受け、ないしミット打ちという練習です。
ボクシングの選手はミットで受けてほしい、とコーチのもとにやってくる。コーチはミットを差し出して選手のパンチを受けます。ひとしきり終わると、「有難うございました。ではまた」と選手は帰っていきます。ここにも大まかな構造はあるでしょう。どのくらいの頻度でミット受けをしてもらうかは、選手ごとに異なるでしょう。一時間みっちり必要かもしれないし、5分でいつもの感覚を取り戻すかもしれない。しかしここにもだいたい構造はあるでしょう。それこそ月、水、金の5時ごろから30分ほど、とか。さもないと二人とも予定が合せられないからです。
 さてミット受けが始まると、選手はコーチがいつもと同じようなミットの出し方をして、いつもと同じような強さで受けてくれることを期待する。場所はあまり定まっていないかもしれない。その時空いているリングを使うかもしれないし、ジムが混んでいるときはその片隅かも知れない。夏は室内が暑いから外の駐車場に出て、風を浴びながらひとしきりやるかもしれない。その時選手とコーチはお互いに何かを感じあっている。コーチは今選手がどんなコンディションかを、受けるパンチの一つ一つで感じ取ることができるでしょう。選手はコーチのグラブの絶妙な出し方に誘われて自在にパンチを繰り出せるようになるのでしょうが、時にはコーチは自分にどのようなパンチを出して欲しいかが読み取れたりするかもしれません。その意味ではミット打ちは選手とコーチのコミュニケーションと意味合いを持っています。
 このミット打ちの比喩が面白いのは、選手とコーチの間の一方向性があり、それが精神療法の一方向性とかなり似ていると言うことです。コーチがいきなりグラブを突き出してきて選手にパンチを繰り出すようなことはない。コーチは自分がボクシングの腕を磨くためにミット打ちを引き受けるわけではないからです。だからいつも選手のパンチを受ける役回りです。いつも安定していて、選手の力を引き出すようなグラブの出し方をするはずです。その目的は常に、選手の力を向上させるためです。あるいは試合前に緊張している選手の気持ちをほぐすため、という意味だってあるでしょう。なんだか考えれば考えるほど精神療法と似てきますね。
 そしてこのミット打ちを考えると分かる通り、その構造は、コーチのグラブの出し方、選手のパンチの受け方に内在化されているのです。そこにはいつも一定のスタンスと包容力を持ったコーチの姿があるのです。
ただここら辺で理論的な話ばかりするとみなさんが退屈になりますから、臨床例について話したいと思います。

2018年4月22日日曜日

解離の本 21

家族への対応

1.はじめに

 第1章でも述べたように、DIDの治療ではその症状に気づいた家族からの訴えで始まることは多いものです。交代人格の行動により患者さんの生活には多様な問題が生じ、それにより家族も日常を脅かされています。ただし人格交代の現場に居合わせても、それが詐病や演技であるという疑いを抱いていることは少なくありません。
患者さんの身近に暮らす家族が解離の症状を見過ごすにはいくつかの理由が在ります。一つには解離がそもそも家族に囲まれた環境で生じたという事情があります。たとえば父親との虐待的な関係で人格が生じた場合、その人格は父親の前では表現されることを許されず、またその虐待を理解してもらえない母親の前でも表れることが出来ずに潜伏することになります。その患者さんの家庭は、一定の感情や振る舞いしか許されないような、強固な枠組みを持ち、その中で交代人格たちは外へ出ることを許されずにいる状態といえるでしょう。そして時々別人格が漏れ出し、姿を垣間見させるとしても、その両親により即座に否認され、否定される運命にあるでしょう。
 さらに両親にとって自分の子供にもう一つの人格があると言う事実は、多くの場合まったく受け入れられない考えであるという事情も考えなくてはなりません。一人の人に複数の人格が存在するということは、通常私たちが持つ常識を超えています。そのような現象が起きうることを、DIDの臨床に携わっている人々は受け入れていますが、一般の人々にとってはまだまだ容易には想像できないでしょう。ましてや患者さんの家族の場合には、それが更に難しくなる可能性があります。一般的な知識としてはDIDの存在を知っていても、まさか自分の子供にそれが生じていると認めることは難しいということは容易におきます。
DIDの患者さんでは治療が進み交代人格の存在が確認されてからも、「自分の思い込みではないか」「自分は回りの人を騙しているのではないか」と考え、しばしば病識そのものが揺れ動きます。「自分は病気ではないのでは」と思い込み、治療の必要性を見失うこともあります。自分自身を信じきれず、自己喪失に陥りやすいのが解離性障害の特徴ともいえます。自らの実感への信頼が乏しく、対人不信のみならず自己不信ともいえる状態にあるのです。よって、患者さんの身近にいる家族や支援者に対しては、心理教育的関わりを通してDIDという障害への受け入れを進め、トラウマへの理解をもってもらい、症状の悪化をできる限り防ぐような協力体制を作り出すことが求められます。

2018年4月21日土曜日

精神分析新時代 推敲 61


スペクトラムという考え
そこで私は精神療法の強度のスペクトラムという考えを提示したいと思います。要するに精神療法には、密度の濃いものから、薄いものまで様々なものがありますが、どれも精神療法には違いないという考え方です。私と一緒にやはり30分セッションをしていただいている7人の心理士さんたちの気持ちも代弁しているつもりです。
 このスペクトラムには、一方の極に、フロイトが行っていた「週6回」があり、他方の極に、おそらく私が精神療法と呼べるであろうと考える最も頻度の低いケース、つまり3ヶ月に一度15分が来ます。大部分はこの両極の間のどこかに属するのです。その横軸を、仮に精神療法の「強度」とでも呼びましょう。一番左端はフロイトの週650分の強度10の精神分析です。通常の450分は、強度8くらいでしょうか。週一回は強度4くらいになるでしょう。左端には、私の患者Aさんの、3か月に一度15分が来るでしょう。これを強度0.5としましょう。(フロイトは、なぜ週6回会うのかと問われて「だって日曜日はさすがに教会に行く日だから会えないだろう」と答えたと言います。つまりフロイトにしてみれば週7回が本来の在り方だったのかもしれません。それを強度10とするならば、週4回は強度8くらいにしておかなくてはなりません。)
私が言いたいのは、強度は違っても、それぞれが精神療法だということです。その強度を決めるのは、経済的な事情であったり、治療者の時間的な余裕であったりします。患者の側のニーズもあるでしょう。一セッション3000円なら毎週可能でも、一セッション6000円のカウンセリングでは二週に一度が精いっぱいだという方は実に多いものです。あるいは仕事や学校を頻繁に休むことが出来ずに二週に一度になってしまう人もいます。その場合二週に一度になるのは、その人のせいとは言えないでしょうし、二週に一度なら意味がないから来なくていいです、というのも高飛車だと思います。
私は週4回のケースを持っていますし、週5回の分析を受けたこともありますので、この場でこのスペクトラムを話す権利を得ていると言ってもいいでしょう。そうでなければ「週4回のセッションを実際に受けたり、行ったりしないで、何が言えるのだ!」と言われてしまうでしょう。私はもともとバリバリの精神分析志向の人間ですし、分析のトレーニング中に、特別発注の、当時2000ドルしたカウチも所有しているくらいですから。
このスペクトラムの特徴をいくつか挙げておきます。おそらくその強度に関しては、一般的な意味では時間的な頻度が低下するにつれて弱まって行きます。ただしそれはあくまでもなだらかな弱まり方です。つまり、私はたとえば週に4回と3回で、あるいは週1回と二週間に一度で、あるいは週一回のセッションが45分と35分とで、それこそ越えられないような敷居があるとは思えません。私のメンタリティーに変わりないし、そこには決まった設定、治療構造のようなものが保たれていると考えています。私は精神分析は週4回以上、ないしは精神療法なら週1回以上、という敷居は多分に人工的なものだと思います。そうではなくて、左から右に移行するにしたがって、強度が低まり、それだけ治療は、ほかの条件が同じなら効果が薄れていく。やっていて物足りないと思う。そして俗にいうところの深いかかわりは起きる頻度も少なくなっていくでしょう。それはそうです。何しろ四輪駆動が軽になるわけですから。でも繰り返しますが、軽でも行けるたびはあるわけです。
 このスペクトラムのもう一つの特徴としては、これがあくまでも治療構造上のものであり、実際には週回でも弱い治療もあれば、二週に一度でも非常に強い治療もありうるということです。週回でも6回でも、非常に退屈で代わり映えのないセッションの連続でありえます。藤山直樹先生はその退屈さに耐えることが大事だと言っていますが、それは少しぜいたくな話かな、とも思います。頻回に会う関係は、しかしその親密さを必ずしも保証しません。一部夫婦の関係を見ればわかるでしょう。毎日数時間顔を合わせることで、逆にコミュニケーションそのものが死んでしまうこともあるわけです。逆に二週に一度30分でも強烈で、リカバリーに二週間かかるということはありうるでしょう。そのセッションで探索的、あるいは一種の暴露療法的なことが行われた時にはありうることです。治療者のアクが強い場合もそうかもしれませんね。
あるいは極端な話、一度きりの出会い、このスペクトラムで言えば0.01くらいの強度に位置するはずの体験が、一生を左右したりします。そのようなことが生じるからこそ精神療法の体験は醍醐味があるわけで、週一度50分以外は分析ではない、という議論は極端なのです。私の知っているラカン派の治療を受けている人は、20分くらいのセッションが終わってから「あとで戻ってきてください。もう一セッションやりましょう」などと言われそうです。一日2度、一回二十分という構造など、このスペクトラムのどこにも書き入れる事が出来ません。それでもある社会では治療として成立しているということが、このスペクトラム的な考えを持たざるを得ない根拠となります。
このスペクトラムのもう一つの特徴についてついでに申せば、これには幾つかの座標があり、その意味では一次元的ではないということです。一つはこれまでに話した頻度の問題があります。そしてもう一つは、セッション一回当たりの時間の問題です。これもはてはダブルセッションの90分から5分まで広がっています。さらには開始時間の正確さということのスペクトラムもあります。これもご存知の方はいらっしゃると思いますが、精神科医療には、患者さんの到着時間ファクターがあります。到着時間がいつも早い人もいれば、遅い人もいます。そして医師の診察が先か、心理面接が先かというファクターがあります。たとえば医師が心理面接の開始5分前に、例えば心理面接の始まる35分前に、とりあえず患者さんに会っておこう、と思い立ちます。もちろんギリギリ3時までには心理士さんにバトンタッチできるという算段です。ところがそこで薬の処方の変更に手間取り、自立支援の書類を持ち出され、あるいは自殺念慮の話になり、とても5分では終わらなくなります。心理士としては医師のせいで遅れて開始された心理療法を、定刻に終わらせるわけにはいきません。こうして構造を守るためには起きてはならないはずの開始時間のずれが、実際には起きてしまいます。3時~3時半の予定のセッションが310分に始まった場合、それを3時半で切り上げるわけにはいかなくなります。こうなるとと開始時間、終了時間という、治療構造の中では比較的安定しているはずのファクターでさえ、安定しなくなります。こうして患者さんは、開始時間は不確定的、という構造を飲み込む必要があることになり得ます。そしてこの不確定さ(治療枠の「緩さ」)れもまたスペクトラムの一つの軸です。さらには治療者の疲れ具合、朝のセッションか午後のセッションか、など数え上げればきりがないほどのファクターがそこに含まれます。
それ以外にもたとえば料金の問題があります。一回2万円のセッションから、保険を使った通院精神療法まで。あるいは一回1000円のコントロールケース(精神分析のトレーニング中のだってあり得るでしょう。治療者がどの程度自己開示を厳密に控えるか、だってスペクトラムがあり得ます。ある治療者は事故でけがをして松葉づえをついて患者を迎い入れましたが、その理由を一切聞かれなかったといいます。しかし少し風邪気味なだけで、「風邪をひいて少し声がおかしくてごめんなさい」という治療者だっているかもしれません。この様に治療におけるスペクトラムは多次元的ですが、大体どこかに収まっていてそれが一定であることで、治療構造が守られているという実感を、治療者も患者も持つことが出来るでしょう。

2018年4月20日金曜日

精神分析新時代 推敲 60


スペクトラムという考え
そこで私は精神療法の強度のスペクトラムという考えを提示したいと思います。要するに精神療法には、密度の濃いものから、薄いものまで様々なものがありますが、どれも精神療法には違いないという考え方です。私と一緒にやはり30分セッションをしていただいている7人の心理士さんたちの気持ちも代弁しているつもりです。
 このスペクトラムには、一方の極に、フロイトが行っていた「週6回」があり、他方の極に、おそらく私が精神療法と呼べるであろうと考える最も頻度の低いケース、つまり3ヶ月に一度15分が来ます。大部分はこの両極の間のどこかに属するのです。その横軸を、仮に精神療法の「強度」とでも呼びましょう。一番左端はフロイトの週650分の強度10の精神分析です。通常の450分は、強度8くらいでしょうか。週一回は強度4くらいになるでしょう。左端には、私の患者Aさんの、3か月に一度15分が来るでしょう。これを強度0.5としましょう。(フロイトは、なぜ週6回会うのかと問われて「だって日曜日はさすがに教会に行く日だから会えないだろう」と答えたと言います。つまりフロイトにしてみれば週7回が本来の在り方だったのかもしれません。それを強度10とするならば、週4回は強度8くらいにしておかなくてはなりません。)
私が言いたいのは、強度は違っても、それぞれが精神療法だということです。その強度を決めるのは、経済的な事情であったり、治療者の時間的な余裕であったりします。患者の側のニーズもあるでしょう。一セッション3000円なら毎週可能でも、一セッション6000円のカウンセリングでは二週に一度が精いっぱいだという方は実に多いものです。あるいは仕事や学校を頻繁に休むことが出来ずに二週に一度になってしまう人もいます。その場合二週に一度になるのは、その人のせいとは言えないでしょうし、二週に一度なら意味がないから来なくていいです、というのも高飛車だと思います。
私は週4回のケースを持っていますし、週5回の分析を受けたこともありますので、この場でこのスペクトラムを話す権利を得ていると言ってもいいでしょう。そうでなければ「週4回のセッションを実際に受けたり、行ったりしないで、何が言えるのだ!」と言われてしまうでしょう。私はもともとバリバリの精神分析志向の人間ですし、分析のトレーニング中に、特別発注の、当時2000ドルしたカウチも所有しているくらいですから。
このスペクトラムの特徴をいくつか挙げておきます。おそらくその強度に関しては、一般的な意味では時間的な頻度が低下するにつれて弱まって行きます。ただしそれはあくまでもなだらかな弱まり方です。つまり、私はたとえば週に4回と3回で、あるいは週1回と二週間に一度で、あるいは週一回のセッションが45分と35分とで、それこそ越えられないような敷居があるとは思えません。私のメンタリティーに変わりないし、そこには決まった設定、治療構造のようなものが保たれていると考えています。私は精神分析は週4回以上、ないしは精神療法なら週1回以上、という敷居は多分に人工的なものだと思います。そうではなくて、左から右に移行するにしたがって、強度が低まり、それだけ治療は、ほかの条件が同じなら効果が薄れていく。やっていて物足りないと思う。そして俗にいうところの深いかかわりは起きる頻度も少なくなっていくでしょう。それはそうです。何しろ四輪駆動が軽になるわけですから。でも繰り返しますが、軽でも行けるたびはあるわけです。

2018年4月19日木曜日

解離の本 20


5.構造が揺さぶられる事態への対処
 
治療構造というものは決して不動なものではなく、治療者や患者の都合により動かしたり、患者さんの事情で揺さぶられたりするものです。そしてそれは治療の初期には限りません。治療が進んでいく中で、患者さんの心の様々な部分に潜在していた様々な記憶が活性化すると、様々な感情が湧き、そのたびに治療構造が揺り動かされることがあります。
 患者さんによる治療構造の揺さぶられの一つの典型は、治療者への依存心の高まりです。最初は遠慮や警戒心もあり、主人格が節度を保ち時間枠を守ろうとしているにもかかわらず、そのうち様々な感情を出すことが出来るようになった結果として、治療者に近づきたい、甘えたい、もっと一緒にいたいという気持ちが高まることがあります。すると面接の終わり近くになると子供の人格になり、退室することをしぶる傾向が見られたりします。また治療の半ば近くになりようやく表現でき始めた過去の外傷的な体験が、終了時間に近づいてもおさめられないこともあります。特に面接時間を一回50分に設定することが出来ず、30分で終了しなくてはならない治療構造では、このような問題は半ば必然的に起きる可能性もあります。さらには治療者のふとした不用意な言葉がきっかけとなり、攻撃的な人格や退行的な人格が表れて暴走し、面接が時間までに終われなくなることもあります。そうした事態への対処として、言葉によって表現されない欲求や感情について取り上げることも有効です。交代人格の行動を通して、主人格が自覚できないでいた情緒への気づきを促す方法です。しかしそれを治療構造内で行う余裕がなくなってしまう場合も、少なくありません。

子ども人格をもつカリンさん(40代女性、会社員)
カリンさんは真面目で礼儀正しい女性でしたが、面接の終わりが近づくと必ず子どもの人格が現れて泣き、予定通りセッションを終われない日が多くなりました。ある時治療者は部屋にあった人形を使い、泣き止まない子ども人格をあやそうとしました。何度かそれを試すうちに、子どもの人格は人形を手に取るようになり、自分の気持ちをその人形に語らせる遊びを始めました。人形遊びを通して、カリンさんの子ども時代の様子が再現され、家庭内に起きた出来事が治療者にも理解できるようになりました。
人形遊びが続いていたある日、主人格であるカリンさんが面接に来た途端、それまで思い出せないでいた子どもの頃の辛い体験が蘇ってきたと打ち明けました。そのまま激しく泣き続けました。そしてその日のセッションの終了時間は大幅に遅れてしまいました。しかしこの時の苦しさについて治療者と話し合った後、子どもの人格は表れなくなりました。その後カリンさんの面接が進み、時々子どもの人格が現れて大事なことを話しましたが、以前のように泣くことはなく、しっかりした態度で自分の考えを話すようになりました。

このカリンさんの例では治療者が子ども人格の気持ちをなだめる行動に出たことが、結果的に人格の情緒的解放を促進し、進展のきっかけをもたらしました。しかしそこには一時的な治療構造の揺さぶりや破綻が生じたことも注意すべきでしょう。つまり治療構造が安定に維持されることと治療が進展することは、お互いに両立しないこともあるのです。そしてこのことは、治療構造を守るということが独り歩きして、あたかも一つの治療目標のように扱われてしまうことの危険も教えてくれています。構造を安定させることは非常に大切ですが、それをかたくなに守ることとは違います。柔構造による建築物のように、変化を受け止めて、「しなる」ことで、いわば動的な安定性を発揮することが重要です。たとえば10分遅れてきた患者さんに、5分の延長を提供すという努力もそうです。患者さんの心の不安定さにもかかわらず、いつもと同じに近い体験が出来た、と患者さんが思えることが大切なのです。ただし10分遅れた分を治療者の側が取り戻そうとしたことで、当然治療者にもストレスが加わります。それを治療者の側がことさら患者さんに隠す必要はありません。いわば患者さんの側が失ったコントロールを、治療者が一緒に受け止め、できるだけリカバーをする、という共同作業の体験に意味があると考えてください。

2018年4月18日水曜日

精神分析新時代 推敲 59


16章 治療的柔構造の発展形
治療的柔構造の発展形 ― 精神療法の「強度」のスペクトラム

『週一回サイコセラピー序説 創元社 2017年』 所収 

初めに
フロイトは一世紀以上前に、週6回の精神分析を始めた。それは直ちに精神分析療法のゆるぎないスタンダードになった。現在でも我が国の精神分析協会は週4回以上(さすがにフロイトのように週6回というのはあまりにも非現実的である)の高頻度でのセッション以外は正式な精神分析とは認定しない。ただし週4回とはかなりの高頻度である。しかも期間は年単位である。実際にこの頻度を維持するためには、分析家と患者の双方がそれ相応の生活スタイルを作りあげ、それを維持する必要がある。そして当然ながら、それが出来ない場合も多い。精神分析の頻度をもう少し下げられないのか? 治療期間を短くできないのか? 週一回というのは精神分析と呼んではいけないのか? そのような疑問は精神分析の一つの課題として当然持ち上がってくる。
週一度の精神分析、という当時としては大胆な発想を、それも1930年代に持ったのが、我が国の精神分析の草分け的存在であった古沢平作であった。1932年から33年にかけて古沢はウィーンに留学し、フロイトに直接面会をし、フロイトの弟子の Richard Sterba から教育分析を受けた。その後精神分析を持ち帰った古沢は、わが国で週一回の精神分析を始め、それが私たちの一つのスタンダードになったという経緯がある。
 
そして1993年にいわゆる「アムステルダム・ショック」があった。これは日本でのそのような慣習が国際精神分析協会の知るところとなり、改善命令を受けたという一つの事件であるる。その後はわが国でも国際基準に準じた形で精神分析のトレーニングシステムを整備し、4回以上の、原則的にカウチを用いた構造を精神分析と呼ぶようになった。「週一回でもいいのではないか?」という議論は、事実上棚上げ状態になり、しかし精神分析以外の世界では週一回がスタンダードになるという二重構造が成立した。そしてそのような機運の中で、最近北山修監修の「
週一回サイコセラピー序説(創元社 2017年)が出版された。本章はそこで掲載された論文をもとにしたものである。 
ところでこの本の「週一回サイコセラピー」というテーマは、私にはどうも「謝罪的 apologetic 」なニュアンスを帯びているように思える。「精神分析は本当は週に四回でなくてはならないが、週に一度だってそれなりに意味があります。でも週に一度であるという立場をわきまえていますよ、もちろん正式な精神分析とは言えません、分かっています。」というニュアンスである。しかしそれは同時に一種の戒めでもある。「まさか週に一度さえ守れていないことはないでしょうね。」「週に一度は最低ラインですよ、これ以下はもう精神分析的な療法とは言えませんよ。」という一種の超自我的な響きがあるのだ。さらにこれは時間についても言える。一回50分、ないしは45分以上のセッションでなければお話になりませんよ。それ以下では意味がありませんよ、というメッセージが込められている。
 私は性格上あらゆる決まり事、特に暗黙の裡の決まり事に対して、疑う傾向がある。というよりそれに暗に従ってしまいそうになる自分に対する違和感というべきだろうか。無意識レベルでは付和雷同型で、私は元来権力に弱いのだろう。決まりに反感を覚えるのは、その反動形成だと思う。もちろん何にでも反対するというのではなくて、現実と遊離している決まりごとに対して苛立つ。現実を教えてくれる者にはむしろ感謝の気持ちが湧く。だから私はノンフィクションや自然科学に関しては極めて強い親和性を感じるのだ。心理の世界では脳科学がそれに相当する。まあ、話を元に戻そう。私は「週一度、50分でなくてはならぬ」に反発を感じるのだ。もちろん週一回、50分できたらどんなにいいだろう、という気持ちもそこには含まれる。週回は私は実行しているし、それを理想化する部分が確かに私の中でもある。しかし私が持っている患者さんの多くが、それを満たさない以上、この原則は私にとって非常に不都合なものでもあるのだ。
 先ず私の立場を表明しよう。私の立場は精神分析家であり、そして精神科医でもある。精神分析家としての私は、週に4回の分析のセッションも行っているし、週に一度50分の分析的療法も行っている。しかし二週間に一度の方も多い。また週二日の精神科外来では一日40人強のペースで患者さんと会ってもいる。その上で言えることは、多くの精神療法的なアプローチを行う必要のあるケースと、私は週一度50分のペースでは会えていないということだ。精神科の外来では一部のケースに毎週、ないし二週に一度20分ないし30分会うのが限度である。そしてこの一回に50分取れないという事情は実は精神科医である私だけではない。私は心理士さんと組んでプラクティスを行っているが、事実上通院精神療法の本体部分は彼女たちにお願いしていることになる。そしてそれは毎週一回50分ではとてもまわって行かない。私の患者さんの大部分は定期的な精神療法を必要としている方々である。そしてその数の多さを考えた場合には、一時間に二人はこなしていただかなくてはならないというのが現状である。更には料金のこともある。心理士が一時間会うためには8000円程度の料金がスタンダードだが、それを毎週払いきれる患者さんの数は非常に限られているのだ。
このように私の理想とする精神科医と心理士の共働では、12週間に一度、30分のセッションというのは、事実上のスタンダードなのである。これは私が知っているもう一つの世界、すなわちトラウマティック・ストレス学会で出会う精神科医の先生方も言っていることである。「『通院精神療法』(健康保険で決められた、保険のきく精神療法)を行う場合は、二週に一度30分が限度である」というのが彼らの大部分が持っている印象である。二週に一度30分、というスタンダードはこうして事実上精神科医の間に存在するのであるが、だれもそれを精神分析的とは呼んでくれない。
でも、みなさん首をかしげるかもしれないが、私は大まじめで、二週に一度、30分の分析的な精神療法をやっているつもりなのである。もちろんそれは週4回、ないし週一回50分と比べて、ややパワー不足という印象は否めないだろう。たとえて言えば、精神分析という4輪駆動や、週一度というSUVほどには走れないのだ。でも軽自動車くらいの走りはしている自負はあるし、精神分析的な治療という道を、それなりにトコトコと走っている気がする。私も「それならば運転できますよ」、と思っているし、患者さんも「それくらいならガソリン代が払えますよ」、と言ってくれる。私は軽自動車で多くの患者さんと出会って、とても満足しているのだ。
 どうして私はそのように感じるのだろうか?それは私はその構造いかんにかかわらず、同じような心の動かし方をし、同じような体験がそこに成立していると考えるからである。このことについてもう少し順序立てて説明しよう。

2018年4月17日火曜日

精神分析新時代 推敲 58


第10章    解離の病理としてのBPD
初出:柴山雅俊、松本雅彦編:解離の病理自己・世界・時代 岩崎学術出版社 2012
前章で論じた通り、境界性パーソナリティ障害(borderline personality disorder, 以下、BPD)という概念の由来は精神分析であった。そして最近それとの関連がしばしば論じられているのが、解離性障害、特に解離性同一性障害(dissociative identity disorder, 以下、DID)である。こちらの解離の方は、精神分析の本流からは長い間距離が置かれていたが、近年ようやく分析的な解離理論が語られるようになってきているという事情がある。このBPDDIDも、いずれもが精神疾患として認められ、精神分析の場面にクライエントとして登場する可能性が大きい以上、この両者の関係を整理しておくことは大切である。ただしこの両者の関係は複雑であり、また学会での定説も確立していない。しかしそれを前提の上で言えば、BPDDIDは、その病態としては、ある意味では正反対なものとして捉えるべきであるというのが私の立場である。
 ちなみに欧米の文献は、両者の深い関連性を強調する傾向にある。もともとは両者は基本的に別物と考えられ、特別比較されることはなかった。しかし最近ではDIDBPDは同類であるという主張、あるいはBPDと解離性障害は全体としてトラウマ関連障害としてまとめあげられるべきであるという意見、そしてBPDに特有の機制とされるスプリッティングは解離の一種であるという主張が見られるのである。さらにはDID72%BPDの診断を満たすという疫学的なデータも報告されている(Sar, et al 2006)。私自身の臨床からも、解離性障害とBPDが混同されやすい傾向は感じており、また両者の病理が混在しているようなケースに出会い戸惑うこともまれではない。そのためこのテーマは本書で章を設けて論じる価値があるものと考える。
1.従来の文献から
解離性障害、特にDIDBPDとの比較について、私自身はかつて何度か論じたことがある。そこでは対照表を作るまでしてDIDBPDの違いを強調してある。
 そもそもBPDと解離症状との深い関連性については、米国の精神医学の世界ではいわば公認されている。DSM-5(American Psychiatric Association,2013)のBPDの診断基準の第9項目には「一過性のストレス関連性の被害念慮または重篤な解離症状」(傍点強調は岡野)が掲げられているからである。ただしこの項目を満たすことはBPDの診断の必要条件ではない。つまり解離症状を伴わないBPDも当然あることになる。
 この解離症状をDIDBPDの第一の接点とした場合、それ以外にも両者には二つの接点が考えられる。それらはスプリッティングの機制、そしてリストカット等の自傷行為である。結論から言えば、以上の三つの特徴はBPDDIDの両者に共通して見られることが多いが、スプリッティングにより分裂排除された心的内容が、投影や外在化により外に排出されるか否かにより、両者の臨床的な現れ方は全く異なる形をとると考えられるのだ。
精神病様症状と解離 
  BPDの症例においてしばしば、神経症レベルより重篤な病態を思わせる症状が見られることは、従来から論じられて来た。米国でBPDの概念が提唱されるようになった194050年代は、精神疾患に対する精神分析の応用が様々に試みられたが、一見神経症圏にある患者が、カウチの上で退行を起こして関係被害念慮や異なる自我状態の出現や、離人、非現実体験等の所見を見せることがしばしば報告されるようになった。後の見地からはそれらは解離性の症状として理解が可能であるが、当時はそれらは「精神病様症状psychotic-like symptoms」として扱われた。つまり統合失調症に見られるような症状に類似するという意味である。これは当時主流であった精神医学が、解離の概念をその語彙としては事実上持たなかったためである。実際Adolf Sternや Robert KnightOtto KernbergなどのBPDに関する主要文献は、「解離」や「(性的)外傷」についての記述はほぼ皆無であった(Stone, 1986)。この事情を理解するためには、BPDの概念が生まれた背景を理解しなくてはならない。BPDの概念は前世紀の前半に精神分析的な土壌で生まれたが、そこでは自我の機能レベルを神経症水準と精神病水準に大別する伝統があった。そもそもBPDの「境界borderline」も、その患者が両者の境界線上に存在するという理解を反映していたのである。そしてその概念が形成されるうえで、解離の概念が入り込む隙は事実上なかったのだ。 
 やがて1970年代になり、精神科領域における外傷理論が盛んになったが、それとともに従来のBPDの「精神病様症状」も解離性の症状として捉え直されるようになった。それはBPDそのものを外傷性の障害として捉える動きとも連動していた。なぜならすでに解離性症状は疫学的に外傷との関連が論じられつつあったからである。BPDの中核的な症状の中に解離症状を見出すことは、BPDPTSDなどの外傷関連疾患と同列に扱うことが出来るという可能性を同時に示唆していたのだ。そしてそこで抽出されることになった解離症状の多くは、かつて精神病様症状として理解されたものと、事実上同じものだったのである。先ほど述べたDSM-IVBPDの第9項目はそのような背景で生まれたことになる。ただしその中の「一過性の被害念慮」については、解離性障害における訴えとしては典型的とはいえず、むしろ後述のスプリッティングの機制と関連しているものと考えられる。以上を多少なりとも図式化するならば、以下のようになろう。
  従来記載されてきたBPDの精神病様症状 ⇒ 解離性症状+被害念慮 

スプリッティングと解離 
BPDDIDの臨床像を比較した場合、両者の共通点と相違点は、それらの障害において主として用いられる機制、つまりスプリッティングと解離の共通点と相違点に帰着されるべきであろう。そこでまずBPDに見られるスプリッティングについてであるが、それは他者イメージや自己イメージを良いものと悪いものに極端に分割してしまう心の働きといえる。彼らはしばしば他者を悪意ある、迫害的で攻撃的な人とみなしてそれに対して被害念慮を持ったり、逆に善意に満ちて優しく、優れた人として極端に理想化したりする。そして同様の脱価値化や理想化傾向は自己像にも見られる。
 ただし患者の臨床像の中でもっとも「ボーダーライン的」なのは、それを他者への非難や攻撃や自傷行為などの行動で表現してしまうことである。その行動はしばしば唐突で衝動的であり、その背後には、患者の深刻な不安や恐怖および極端な気分の変動がうかがえる。その苦しさから世界を分割して行動に表現するという事情が理解されるのだ。つまり患者の行動化は、彼らの根幹にある不安感や空虚さの防衛として動員されるものであるが、この様な理解は、Gerald Adler (1985)が提起した重要なテーマであった。
ところで相手をよい、悪い、あるいは敵か味方かに分ける傾向は、程度の差こそあれ、私たちが日常的に行なうことでもある。時にはそれに従って実際に行動してしまうこともあり、それをかつて私は、一般人にも見られる「ボーダーライン反応」(岡野、アラカルト、2006)と呼んだわけである。BPDにおいてはこれがより頻繁にかつ激しい形で表されるのである。つまりBPDにおけるスプリッティングは、投影や外在化により頻繁に表現されることが、その臨床上の特徴なのである。
 それでは逆に「投影や外在化されないスプリッティング」というものを考えた場合はどうなるか?それはむしろ解離の性質に近いといえるというのが私の見解である。DIDに見られる解離の機制はBPDのスプリッティングとはかなり様子が異なる。たとえば男性に接近されると性的に奔放な人格が出てきてそれに対応する、といったように、DIDにおいて何よりも特徴的なのは、それがあたかも外界からのストレスに迎合する形で生じ、患者中ですべて処理されてしまうということである。一般にBPDと解離のスプリッティングとは、その表現のされ方が逆である。前者は相手の侵入的な行為に対して、それに向かい、攻撃する形で生じる。それに対して後者は緊急に生じた外的な出来事に対して迎合し、ストレスを自分の内側に取り込み、自らの状態を変えることでそれに対処するのである。
 このような意味でのBPDDDにおけるスプリッティングの違いについて、Stephen Marmer (1991)は「BPDは対象をスプリッティングし、解離は自己をスプリッティングする傾向にある」と明快に述べている。
解離と秘密、及び罪悪感
 上述のごとく解離の機制を、スプリッティングが生じているにもかかわらず投影の機制が欠如し、ないし抑制されている場合に生み出され、ないし促進されるものと考えてみよう。その場合どのような生育プロセスが考えられるのだろうか?
 まずRichard KluftDIDに関する4因子説(1984)を引くまでもなく、生まれつきの解離傾向はDIDの発症にとって非常に大きな意味を持つ。しかしそれだけではなく、その発症には生育環境の影響を無視できない。そこで決め手となると考えられるのは、虐待者により虐待の事実に関して秘密を守ることを強制されたり、いわれのない罪悪感を植え付けられたりするという場合である。近親者による長期にわたる性的虐待が生じている場合、虐待者はしばしば「もし誰かに話したらただではおかないぞ」などと脅す。あるいは性的虐待を行う以外の場面で過度に優しくふるまったり、「おまえが子供のくせに先に誘惑したんだぞ」と罪悪感を植えつけたりする。これらの事情はいずれも子供の口を封じ、虐待者を非難したり、虐待の事実を客観的に認識したりする機会を奪うのである。
 以下に述べるように解離性障害の生育環境にはさまざまな状況が考えられ、単純にこれらの「対人トラウマinterpersonal trauma」(CSA,CPA、ネグレクトなどの総称)が原因とはいえないが、少なくとも、これらの場合には、投影の抑制は極めて強烈な形で生じるであろう。そしてそれを受け入れて育つことで解離症状を起こすようになった患者は、外在化を主症状とするBPDとは別ものと考えてもおかしくないであろう。
スプリッティングと解離の相互関係

 上記のような考察に基づけば、BPDDIDの病理はスプリッティングのメカニズムを共有しているものの、臨床像は非常に異なるものとなるであろう。ではなぜDID70パーセントがBPDの診断基準をも満たすなどの報告(Horevitz, 1984)が得られるのだろうか。そこには理論上三つの可能性が考えられる。
 第一は、DIDBPDと「誤診」されている場合である。DIDにおいては、それぞれの交代人格の持つ雰囲気、ふるまいないしは対象関係のあり方は互いにかなり異なる。異なる人格が前後して現われた場合は、BPDに特有の二つの自己イメージの共存と誤解されるということが生じかねないだろう。
 第二には、DIDBPDが「合併」している可能性である。つまりはDIDにおける特定の人格の振るまいそのものが、極めて「ボーダーライン的」である場合である。
 第三の可能性はより複雑な問題を含む。それはDIDBPDが同じ病理の異なる表現形態である可能性である。この場合、DIDのみならずBPDもまたトラウマ由来の障害とみなすことになる。これは Judith Herman1990)らの提唱した複合型PTSDの概念に顕著に見られる立場である。
 しかし私個人としては、この第三の見方を極端に推し進めた場合は問題が生じるであろうと考える。BPDはあくまでも多因子的に生じ、そのうち深刻な幼児期の外傷体験を持つ人の占める割合は確かに大きいものの、それがBPDの病理を生む必要十分条件ではないからである。
 2DIDBPDとの関連性に関する疫学的研究
以上はDIDBPDとの関連についての理論的な考察であったが、次にこの問題に関する疫学的な研究について触れたい。これについては従来からBPDの疫学的な研究を精力的におこなっているMary Zanarini (2009)の報告が参考となる。それによるといくつかの研究が、BPDの患者の多くが離人感や非現実体験などの解離性症状を体験していると報告している。たとえばChopraの研究によれば、BPD92%が非現実体験を、85%が離人体験を持つ (Zanarini, et al. 2009)が、これは他の多くの同様の研究によっても支持されている。
 また最近になりDES(解離体験尺度)が研究目的で頻繁に用いられるようになり、精神疾患と解離症状との関係はより広く研究されるようになってきている。そしてBPDの患者にDESを施した際、一般に高い値が得られるということが報告されている。