2015年6月22日月曜日

自己愛(ナル)な人(10/100)

あれ、いつの間にか /100 になっているぞ。書き間違いか? まあいいや、誰も気がつかないだろう。ブログって、ホンといい加減だなあ。 
シャイ(薄皮)の人が傲慢なナルに見える理由 
薄皮のシャイな男性が、なぜ厚皮の傲慢なナルに見えるのであろうか? それは男性特有の事情なのだ。長年精神科の臨床をやっていると、男性と女性のコミュニケーション能力の違いを感じさせられることが多い。女性は感情をうまく言葉に表現するのに対し、男性は口下手で黙っていることが多い。ある統計によれば、一生の間に女性は男性の3倍話すというが(要出展、どこかで確かに読んだ)、とにかく女性は細かな感情を言葉に乗せるのがうまい。それに比べて男性は黙ってしまうのだ。
 その結果として世の中の多くの妻は、夫が口をきかない、いつも黙っているという不満や訴えを持つことがとても多い。そしてかなり確信を持って言えるのは、男性はシャイであっても到底周囲にはそう映らず、むしろコワモテになりかねないということだ。まあ、プチオザワ(仮名)化、と言ってもいいだろう。青年期を過ぎた中年、壮年にさしかかった男性を思い浮かべていただきたい。彼らはもともとシャイであっても、もう人前で気おくれがしたり、恥ずかしがったりしているということを公には認めるような年代ではなくなる。それに顔にはそれなりにしわが刻まれ、頭のほうも白くなったり薄くなったりで、純粋さ、幼さといった要素は消えてしまう。後は見た目はコワい、というイメージしか残らないのだ。
 しかしそれでも不幸なことに、人前が苦手、新しい人に会いたくない、笑顔を振りまくのは性に合わない、という事情は変わらない。となると対人場面でも挨拶をろくに返さない、ニコリともしない、ということになり、ただでさえコワい顔はますますコワくなる、ということになる。彼らの中にいつか弱く恥ずかしがり屋のボクちゃんは、それこそ飲み屋で酒が回ったときくらいしか表に出ず、しかも酔っ払った親父をやさしく面倒見てくれる人などいない。こうして男性は年をとるにしたがって、ますますさびしくなるのである。書いていて空しくなるな。グチか? 
薄皮のナルを支えるのは、自己表現欲求である
薄皮のナルは悩み多き人々である。人前に出るのが苦手だが、そのような性質を持つ自分たち自身にふがいなさを感じている。彼らは自分の存在を認めてほしい。でもそれでいて人が苦手である。このジレンマが彼らの人生を苦痛に満ちたものにする。
 ただ自分を認めてほしい、自分を表現したいという彼らの欲求は、彼らの支えでもある。これもない場合を考えていただきたい。人前に出るのがつらいし、人に分かってほしくもない。そうなると可能な限り一生引きこもりになってしまう可能性もある。「一生引きこもりなど可能なのか?」とあなたは問うかもしれない。しかし現代の日本は、生きていくつもりであれば社会がそれを支えてくれる。精神科の医療にかかれば、そのルートで障害者年金の需給を受けることにもなろうし、少なくとも生活保護を受けつつどこかの施設で衣食住をまかなってもらえる。事実このような形で引きこもり人口は日本で着実に増えつつある。彼らがそのような状態に陥ることを良しとせず、社会の一員として生きていくうえで、彼らが自分の存在を認めてほしい、という欲求は彼らの希望でもあるのだ。
 ただしここに一つの問題が持ち上がっている。それはネット社会が生み出した現代社会における宿あ(阿にやまいだれ)といってもいい。それはバーチャルな世界で自己表現ができてしまうということである。ある患者さんは引きこもり中にインターネットのゲームにはまり、そこで彼のアバターが頼られる存在となったことで満足してしまう。そして「実際の社会では決してかけられないような言葉をゲームの世界ではかけられる」という体験をし、まさにバーチャルな世界での自己実現をする。彼はこれからいったいどのような手段で、実際の社会に出て行き、手に職をつけ、家庭を築いていくモティベーションを獲得していることが考えられるのだろうか?
 インターネットを介したバーチャルな世界は、薄皮のナルシストにとっては、格好の自己表現の場でもあるとともに、彼らがおそらくは経なくてはならない現実社会での対人体験を回避する絶好の機会を与えているのである。



2015年6月21日日曜日

自己愛(ナル)な人(9/200)

「厚皮」と「薄皮」はしばしば混在している!- オザワさん(仮名)の例
恥を感じる敏感さと傲慢さが共存する例として私の頭にまず浮かんでくるのが、オザワさんだ。201312月に、このブログで次の様な文章を書いた。

・・・この「強面イコール人見知り」説は、私の中では既に自己愛と恥の議論に入ってくる。強面人間がその面相を崩さないのは、周囲によってそれが許されるからだ。人に対して傲慢で横柄でいられるのである。これは自己愛、ないしは自己愛の病理、すなわちNPD(自己愛パーソナリティ障害)の状態である。ここで自己愛とNPDを分けたが、これは実は微妙である。DSMではそれが障害disorder であるためには、それが自己や他人を苦しめていることが必要だが、NPDは周囲が困っていても本人が困っていないことが多い。そして周囲も文句を言えない立場にあるとすれば、一見「誰も困っていない」ことになる。部下や生徒はその人の表情や身振りに敏感になり、その非言語的な意図やメッセージを読み取ろうとする。本人の口下手、人見知りが自己愛の病理とうまく会い、本人をますます怖く見せる。これは自己愛の病理と人見知りの相乗り効果である。

ということで私の頭に浮かぶのが小沢さん(仮名)だ。あるエピソードについて、何年か前に読んだことがある。(この種のエピソードは私の記憶に多く残っているのだが、もちろん典拠を示すことは無理である。それにかなり私なりの脚色が入っている。)あるとき小沢さんがある後輩の政治家と会っていたが、強面を崩さずに打ち解けず、怖い雰囲気だったという。ところがふとしたことからその政治家の出身も岩手県だと分かると、「なんだ、あんたも岩手出身か!」と小沢さんの表情が急に変わってしまい、すっかり打ち解けた雰囲気になったという。何だこりゃ。小沢さんの方も相手を警戒して、というか対人緊張気味になっていたから堅苦しい雰囲気になっていたということではないか。相手の正体がわかって(あるいは分かった気になって)一気に彼の緊張が溶けたのである。
 しかし考えてみれば相手が同郷の出身と知って打ち解けるって、どういうことだろうか?私も対人緊張は強いが、職業柄人と会い慣れているせいか、そして精神科の場合は特にこちらの打ち解け方が極めて重要なせいか、同郷出身とわかってさらに打ち解けるような延びしろはあまり残っていない。やはり小沢さんは変わっているなあ。
 小沢さん(仮名)にしても、自●党の中川秀直さん(仮名)も、強面=人見知りの政治家の存在は紛らわしくて困りものだが、別に政治家に限ったことではない。私の職業上、しばしば出会うが、こちらの挨拶をあまり返してくれない人は医者にも患者にもいる。マンションのエレベーターで出会っても無視する人とか。しかし特に腹が立たないのは、その人が対人緊張が強いことを私が感じるからである。対人緊張が強いと、相手と目を合わすことすら億劫になる。挨拶を交わすことはもっと面倒になる。煩わしいのである。その上に年齢や社会的地位が上がると、「同僚と挨拶をろくにしないことでどうなっても構わない」という心境になる。そのまま更に年を重ねると、無理にでも挨拶をして愛想を振りまかなくてはならない人がとうとうゼロになってしまう。ただしそのような人でも一目を置いて気を使う必要があるとすれば・・・・カミさんくらいだろうか。
事例としてはどうやって書くのだろうか。某大物政治家。若い頃から派閥の領袖に目をかけられ、有能、剛腕の名を欲しいままにした。政治の場面ではしばしば果敢で時には破壊的な行動を起こし、そのために周囲から畏怖の目でも見られる。しかし同時にきわめてシャイで人と会う際の緊張が強い。出来るならカジュアルな対人場面は避けたいと常に思っているようである。その結果として人と会っても仏頂面で特に口も利かないのでとっつきにくいとも言われる。支持団体に顔を頻繁に出すことをせず、徐々に信用を失う。妻を含んだ家族への思慮に乏しく、家の中でも孤立している。苦み走った強面(コワモテ)とは裏腹に、本人は心の底では自分は東北出身の田舎者という気持ちが抜けない。自分は人から好かれていない、人は自分から遠ざかるという気持ちがある

何かめちゃくちゃな書き方だな。まあいいや。オザワさん(仮名)だし。

2015年6月20日土曜日

自己愛(ナル)な人(8/200)

しかしジュリー・ハンプさんのオキシコンティン問題は随分過熱報道されている気がする。彼女を極悪人のように報道するのは、いかがなものか。麻薬入りの鎮痛剤は、米国では頻繁に処方される。私も親知らずを抜いたときに、別にリクエストもしていないのに3日分処方された。飲まずにとっておいたら古くなって結局捨てたが。麻薬の問題は日本人の潔癖症と関係しているのかもしれない。報道されていたように、、麻薬の処方がもっともゆるいのがアメリカ、もっとも厳しいのが日本なのだろう。


薄皮の人たちのキーワードは「恥」である

ギャバード先生の示した「薄皮の自己愛者」の診断基準6は、「羞恥や屈辱を感じやすい」である。実はこれが薄皮型自己愛にとって決定的に重要だ。
 それは恥の感覚である。
 恥とは自分が人に比べて劣っていたり、弱い存在だったりすることを自覚することに伴う、強烈な苦痛だ。そしてそれが特に対人場面で、つまり実際に誰かと対面をしていて起きやすいのが特徴的なのだ。おそらくこの感覚を多かれ少なかれ体験しない人はいないだろう。ただそれが極端な人たちが、この「薄皮」の自己愛の人たちなのである。「薄皮」とは要するに感じやすさ、敏感さ、ということである。ツラの皮が薄い、とは要するに傷つきやすいということだ。
 Cさんのことを再び考えよう。Cさんは基本的に対人場面が苦手である。おそらく非常に相手に気を使い、相手が自分をどのように感じているかが気になって、自分が何を言いたいか、何を感じているかに集中できない。まるで自分がなくなってしまったかのような感じがするのだろう。このような敏感さには、たぶんに生まれつきの性格傾向が関係している。生まれつき新しいことが苦手で、刺激に対してはしり込みするような赤ん坊が見られる。そのような赤ん坊の多くは、将来も引っ込み思案で敏感な傾向を示すようになる。
 ところでCさんの性格で特にややこしいのは、このような感情を人前で体験しているということ自体を恥に思い、隠そうとすることだ。その結果としてCさんはいつも孤高を装い、超然としているという印象を周囲に与える。彼がさびしそうに、人懐こそうにしている場合にはまだいいのだろう。周囲もそのようなCさんに気を許し、時には誘ってあげようと考えるだろう。ところが周囲はそのようなCさんに逆に最初から拒絶されているように思ってしまう。そして余計に距離をおこうとするのだ。ちなみにCさんの同僚から聞いた話では、Cさんはいつも笑顔を見せることが少なく、仏頂面で話しかけにくい印象を与えているとのことだった。
 このようなCさんには、もう一つの強気な、あるいは頑固な側面があるともいえる。それは自分の恥の感情を無理やり押し隠し、強気で押し通すということである。これが彼の対人関係上の問題をさらに難しくしていると言えるかもしれない。それが「面の皮の薄さ」と共存するのか、と疑問をもたれるかもしれない。しかし共存できるのである。「面の皮の薄さ」はもっぱら対人場面で発揮される。彼らに一番苦手なのは人前なのだ。しかしそれ以外では意外と負けん気が強く、意地っ張りな人は多い。
「厚皮」と「薄皮」は表裏一体である
さて以上は「厚皮」と「薄皮」をわざと対立的に描写した。しかしこれは少し極端ともいえる。実は「厚皮」も「薄皮」も私たちがみな少しずつ持っている傾向と言えるのだ。人間は物事が調子よく言っている場面では、結構強気になり、自己愛的な満足を得ることに積極的になれる。しかしそうでない場合にはむしろ自分に自信がなく、恥をかくことにおびえて引っ込み思案になりやすい。この両極端を持つというところが、まさに自己愛の病理なのだ。いわば「厚皮」と「薄皮」は同じ自己愛の病理の両面ともいえる。それはどうしてだろうか?
「厚皮の自己愛は叩き上げ」、という言葉を思い出していただきたい。最初から厚皮な人は例外なのだ。最初はみな薄皮で、上位の人たちにおびえ、あるいは取り入ることで自分の小さい自己愛を満たしていく。そして上に取り入り、下を支配するという階段を上っていく。上に対しては「薄皮」で、下に対しては「厚皮」で対処する両面性を持つことが自己愛な人の生き方である。(もちろんそれがいいとは言えないまでも、多かれ少なかれ、人間社会で生きていくとはそういうことだ。)
もちろん先ほども述べたとおり、生まれつき薄皮の人はいる。その人たちは「薄皮の自己愛者」の一番の候補者といえる。しかし気が弱く批判に敏感というのは、社会の最下層から上を目指す人たちの共通した特徴とも言えるだろう。
事例)
ある中年の内科医。某病院の科長をしているが、強引でワンマンだという評判である。自分の決めたルールには、部下の医師も看護スタッフもすべて従うことを徹底し、気に入らない部下に対しては、しばしば声を荒げて叱責する。しかし大学の大先輩である内科教授を招いての親睦会では、末席に位置して大教授に完全服従の姿勢を取り、その猫なで声に彼の部下一同が唖然とする。立食パーティの席で大教授に食事を取分けて運ぶ課長の姿がとりわけ印象的であり、そこにはいつもの課長とは全く異なる姿が見られた。
このような姿は取り立てて事例として出すまでもないかもしれない。この課長ほど極端ではないとしても、縦割りの社会に生きる人間にはしばしばみられる姿であろう。問題は上に媚びる極端さが、下への態度の傲慢さと比例する傾向にあるということだろうか。

2015年6月19日金曜日

自己愛(ナル)な人(7/200)

薄皮型の自己愛者-隠れナルな人たち
薄皮の人たちは、実はあまり自己愛的な人たちという印象を与えないかもしれない。それは彼らがあまり人前に出たくない、出るのが辛い、という性質を持っているからだ。だから一見人嫌いな人たち、孤独の好きな人たち、という風に見られがちだ。人前に出たがる傾向にある自己愛的な人々とは大きな違いがある。
 しかし彼らもまた敏感なプライドを持ち、それが人から支持されることを強く望み、それが傷つくことを極度に恐れる。その意味では厚皮の人たちと共通しているのだ。
薄皮型の自己愛について論じたギャバードは、次のような診断基準を考えた。
 1. 他の人々の反応に過敏である
2. 抑制的、内気、表に立とうとしない
3.
自分よりも他の人々に注意を向ける
4.
注目の的になることを避ける
5.
侮辱や批判の証拠がないかどうか他の人々に耳を傾ける
6.
容易に傷つけられたという感情をもつ。羞恥や屈辱を感じやすい
ここで気が付くことは、先ほどのDSMによる自己愛パーソナリティ障害の診断基準の9項目のどれにも、かすっていないことだ。つまり薄皮型は、見かけ上一般的なNPD(つまりは厚皮型)とは全然異なる病像を示すことになる。それでいてどこが「自己愛的」なのだろうか。
ここでこのような例として考える症例を提示しよう。
Bさん(30代男性、独身、会社員)は目立たない存在である。SEの仕事はさほど楽しい、ということもなく、また帰ってからも特に趣味もない。結局パソコンでゲームをしたりしてぼんやり過ごす。同僚とのおしゃべりにも加わらず、むしろ超然として女性にも興味がないようなそぶりを示している。孤独を満喫していると思われているフシもある。しかし心の中ではいつも激しい葛藤を体験している。出会う人で会う人、みなBさんのことを無視しているのではないか、と思えるのだ。立ち寄ったコンビニでも、店員の釣銭の渡し方が、自分にだけぞんざいだった気がして深く傷つく。先日は勇気を振り絞って中学時代の同窓会に出席した。すると二次会で入った居酒屋で注文を取りまとめた元クラスメートが、店員さんに伝える際にBさんの注文だけ思い出せなかった。Bさんは自分だけが仲間外れにされ、いなくてもいい存在だと思い、そのことが数日頭から離れなかったという。このようなBさんだが、人との交流を求めていないわけではない。むしろ自分の存在を認めてほしいと強く思う。ただその仕方がわからないのだ。だからアマゾンで本を注文し、自動的に送られてくる注文受注の確認のメールさえ、Bさんはかすかな喜びを感じたりもする。
 このBさんも自己愛者と呼べるのだろうか、と思う方もいらっしゃるかもしれない。実際米国でもこの種の薄皮型自己愛がそれでも自己愛と呼べるのかどうかについては、色々見解が分かれるところだ。人によっては、いわゆる回避性パーソナリティ障害が該当するのではないか、という考えもある。ちなみに回避性パーソナリティ障害とは次のような基準を満たす人たちだ。DSM-5によれば、

1 批判や拒絶に対する恐れのために、職業、学校活動を避けている。
2 好かれているという確信がないと新しい人間関係が作れない。
3 親密な関係でも遠慮がちであり、親密となるには批判なしで受け入れられていると確信したり、繰り返し世話をされるということを必要とする。
4 批判などに過敏であること。
5 不適切という感覚や低い自尊心があるため、新しい対人関係では控えめである。
6 自分が劣っていると感じている。
7 新しいことに取り掛かりにくい。
(以上の基準の4つ以上を満たす必要がある)。
 どうだろうか? DSMの自己愛パーソナリティ障害よりは、こちらの回避型パーソナリティ障害によほどあてはまると言えるだろう。ではどうして薄皮型の自己愛、という概念を設け、このような人々も自己愛の問題と見なすことにどのような意味があるのだろうか?
そこでBさんのことを考えてみよう。典型的な厚皮のAさんとどこか共通点はないだろうか? それは自分を認めてほしい、という強烈な願望なのである。この回避型の基準の2に注目していただきたい。「好かれているという確信がないと新しい人間関係が作れない」とある。これは言葉を変えるならば、自分が拒絶されないと確信できるような相手となら、安心して自分を表現できるということなのである。
 そう、薄皮の人にあるのは、自分の存在を認めてほしいという願望であり、それは厚皮の人と変わりないのだ。ただ彼らは勇気がなくて、それを表に出すことが出来ない。


2015年6月18日木曜日

自己愛(ナル)な人(6/200)

突然得られた権力は、その人を最悪の「厚皮ナルシスト」に仕上げる可能性がある

 「ナルナ人は、基本的にはたたき上げである」と言った。しかし何らかの幸運で(あるいは「不幸にも」というべきかもしれないが)突然の形で権力を得た人間は、そのたたき上げの期間を経ることなく厚皮型の自己愛になってしまうことがある。何度も述べているように、権力を持つと、人は99%このタイプの自己愛になるが、それが準備期間を経ずに起きるのだ。そうするとヤヤコシイことになる。「手の付けられない」自己愛者、つまりは独裁者になってしまうのである。
 シリアのアサド大統領を考えてみよう。2010年の「フォーリンポリシー」誌で「世界最悪の独裁者」ランキングの第12位に選ばれている。
 ネット情報のコピペにならざるを得ないが、だいたいどこも同じような情報を流しているな。(以下に述べる「アサド氏」とはバッシャール・アサド氏を指すこととする。)
 彼の経歴で特徴的なのは、彼はもともとは、大統領であった父親の跡を継ぐ意思もなく、控えめでおとなしい性格を持つ眼科医であったということだ。転機は、後継者と目されていた兄の交通事故死である。それを機会に本来は興味を示していなかった政治の世界に巻き込まれてしまったと言っていい。国際社会はアサド大統領が伝統的な権力の腐敗を遠ざけ、政治改革に着手するだろうと期待していた。
 アサドは大きな波乱なく権力を継承したが、政治的経験がほとんど無いため、あまり最初から国政で主導権を握ることはせず、もっぱら先代以来の首脳が政務を仕切っていたという。アサドは大統領に就任後、みずから新たな閣僚を選任し、「腐敗の一掃と改革」を訴えて、汚職疑惑のあった政府高官を次々と逮捕した。温厚な彼がこれを出来たのは、大統領という地位のなせる技だろう。そして次第に彼は対外的にも内政の面でも、政敵への態度を硬化させていったという。そして例の大量殺人容疑となったのである。しかし同時に、デモを弾圧したり、強権的な政治を続けることを悔やんでいるという。
 ネットの情報も交えながら描いたのだが、あまり説得力はないな。とにかく一旦権力を掌握すると、人はナルシシズムを膨らませて行くという事情を書きたかったのだ。
もう一人の例として書きたいのが、あの北の寒い国のリーダーだ。彼こそいきなり政治の世界に登場し、頭を刈り上げられて人民服を着せられ、独裁者になった人だ。私たちが驚いたのは、自分にとっての恩人であり、育ての親的な存在でもある叔父を処刑してしまったということだろう。現在32歳の独裁者は、おそらく政治的には全くの未知数、というよりは未経験のまま国のトップに立ち、すべての権力を握ったのである。その結果として起きていることは、部下がミスを犯したり、自分の意に沿わない行動を起こした時に、それを排除、粛正するという行動である。
アサドの場合も、寒い国のリーダーについても言えるのは、このブログで言っているような「叩き上げ」ではないということだ。寒い国のリーダーの父親の時代には、それでも部下との間にある種の互恵関係があった。密告した部下を抜擢するという形で、自分の自己愛を満たす人をそれなりに重用したわけである。しかし現在のリーダーは、密告者も「知るべきでない情報を知った」という理由で粛清されてしまうという。なんと恐ろしいことだろう。(現代ビジネス「経済の死角」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43535


2015年6月17日水曜日

自己愛(ナル)な人(5/200)

厚皮型の自己愛は、基本はたたき上げである
(上に媚びて下に傲慢な自己愛者)

厚皮型の自己愛はたたき上げであることが多い。それは「ボスざるがたたき上げである」と先ほど言ったことと同じだ。それはどういうことかといえば、社会の中で最初は上位の人間に使え、おべっかを使うことから始まり、つまりは上位の人間の自己愛が満足するように振る舞い、同時に自分より下位の人間にはしっかり自己愛を発揮し、そうしてしっかり自分の位置を築いていく、ということだ。厚皮型自己愛の人は、昔は巧みなゴマすり、おべっか使いでもあったのだ。それが徐々に順位を上げて、最後には厚皮型のボスにのし上がるのである。
ところでこんなことを書くと、読者の中には、「この現代の平等社会には、人間に上も下もないだろう。」と思われる方もいるかもしれない。しかしそれはとんでもないことである。人間社会は格差社会である。そして人は格差を必要としている。問題はその格差がアンフェアであり、いじめや虐待を含んでいる場合だ。それは何とか防がなくてはならない。しかし人が社会で整然と生活するためには、「順番」はどうしても必要である。そしてそれは言うならば「強さ」の順番なのだ。そしてそこに秩序が生まれ、自己愛が生まれ、そして非常に残念なことに、虐待やいじめの温床にもなってしまう。人間社会とはそういうものだ。 
理想的な格差社会(と言うとヘンな響きがあるが)というものを考えてみよう。たとえばあなたが大学のサークル活動に入る。テニス同好会でも何でもいい。そこでは一年生は最下層に属し、道具運びや部室の掃除などの下働きを任される。先輩の世話を焼かなくてはならない。理不尽な説教にも耐えるということも多少は起きるかもしれない。 しかし同時にテニスラケットの持ち方や素振りの仕方を位置から教えてもらえる。先輩を立て、敬語を使い、席を譲ることで先輩の自己愛を見立つ一方では、あなたは彼らから「かわいがられ」もする。まだテニスの試合経験もゼロで右も左もわからないあなたには、それが心地よく、安心感をも与えられる。
ここで「心のバランスシート」を考えるならば、あなたは先輩の自己愛を満たしてあげる。これは気を使い我慢をする分「マイナス」だろう。しかし可愛がられ、テニスを教えてもらい、時には食事をおごってもらうと言う「プラス」も存在する。それに一年我慢すれば、来年には新入生が入ってきて、少なくとも彼らに対しては大きな顔をしていられる、という希望もあるのである。
ここで「たたき上げ」の意味を確認しておきたい。後輩としてのあなたは、当然先輩に気を使う。部室に先輩が入ってきたら、席を譲るだろう。言葉は丁寧に話し、タメなら「そうだね」というかわりに「そうですね」と言う。先輩が不快に感じていないか、と言う想像力を働かせ、エネルギーをそれだけ使うのだ。それができないと「礼儀知らず」「生意気」「空気が読めないやつ」などと言われるだろう。それに比べて先輩は後輩にはエネルギーをさほど使わない。
 さて学年が上がっていき、最上級生の4年になると、部室で自分が気を使う相手はいなくなるだろう。一番「省エネ」でいられるのだ。黙っているだけで、席を譲られ、お茶も出てくるかもしれない。
ここで後輩に気を使わなくていい、と言う部分が厚皮を形成していると言うことはいいだろう。厚皮とは結局、「鈍感さ」と言うよりは「ここには気を使わなくていいのだ」と言う判断や認知により成り立っている。習慣、と言ってもいい。昔奴隷が存在していたころ、若い女性は奴隷の前で着替えることに気恥ずかしさを感じなかったと言う。それは奴隷を人間と認知しない、と言う習慣があったからこそできたことであり、その女性が特別鈍感だったからと言うことを意味しない。自分の感受性の感度を鈍らせてたと言うだけでもある。だから厚皮それ自体が悪い、と言うわけではない。

しかし省エネでいられるあなたがおとなしくしているかと言えば、そうではない。もうひとつ別のテーマが頭をもたげてくる。それはえらそうにして、自慢話を聞かせ、下級生にイチャモンをつけていびるかもしれない。そのときに、そこで同時に厚皮が悪さを発揮する。相手の気を使う必要がないという習慣や認知がそこに加わると、かなりたちの悪いいじめを起こす可能性がある。

2015年6月16日火曜日

自己愛(ナル)な人(4/200)

厚皮の自己愛者の困った問題 ― 怒りを周囲にぶつけること
私がなぜこの厚皮タイプを最初に論じているかについて説明しなくてはならない。なぜならこの厚皮タイプは自己愛的な人の一つの典型であるとともに、周囲を巻き込んでいい意味でも悪い意味でも大きな影響を及ぼすからである。
その中でも最も困った問題は、この種の自己愛者は周囲に怒りをぶちまけることである。そのぶちまけ方は様々だ。会社の管理職にある場合は、部下を怒鳴りつける。教師の場合は学生をしかりつける。運動部の顧問なら部員をシゴキまくるかもしれない。もちろん親の場合は子供に対する暴力、パートナーの場合は相手へのDVという形をとるかもしれない。
Aさん(30代男性)は、会社の職場の新しい上司B課長とうまくやっていけずに悩んでいた。Aさんが口下手であまり周囲と交わろうとしない彼のことが気に入らないらしい。B課長は新しい職場で早く部下となれようと、仕事の後連れだして飲みに行くことが多かった。Aさんも最初の何回かは付き合っていたが、間が持たず、またしばらく前からアルコールを断っていたこともあり、そのうち誘いを断るようになった。それがB課長の気分を損ねたのだ。それからB課長はAさんだけにはほかの部下とは違い露骨に陰険な態度で接するようになり、Aさんのちょっとしたミスで詰問を長々とするようになった。職場の同僚たちもB課長の行為を一種のパワハラと感じ、陰ではAさんに同情するものの、同じような目に遭いたくないためにB課長の言うことには絶対服従という雰囲気が出来上がり、Aさんはそのうち抑うつ症状を来すようになり、精神科を受診した。

 厚皮のナルシストがプライドに傷がつくようなことを言われたりされたりすると、猛烈な勢いで怒るのはどうしてだろうか? それは相手を叩き、凹ますことで、強烈な恥の感情を和らげることができるからだ。
  厚皮のナルシストは、自己愛の風船をいつもパンパンに張りつめている。それを傷つけられるようなことを言われると激しく心が痛む。それが恥の感情だが、恥は自分が見くだされたり価値下げされたときに生じる感情だ。最近の言葉で言えば、自分が「駄目出し」された時の気持ちである。その時にそれを和らげるのは、相手をダメ出しし返すこと、つまりは叩き凹ますことなのである。相手を叩くことで、自分のへこみを相対的にあげようという、かなり無茶で強引な手段だ。でもそれで当面の恥による痛みは少しは和らぐのである。
 さらにここでややこしいのは、上司にとっては自分の傷つきや恥の感情を周囲に、特に部下に知られることなどもってのほかなのである。それこそ自分の弱さを周囲に示すことになり、そのような事態だけは絶対に避けたい。するとともかくも攻撃に回る、ということしか頭になくなってしまうのだ。
先ほどの例では、上司であるB部長は、Aさんが飲み会の誘いを断ったことで、自分の自己愛の風船を傷つけられた。Bさんのイメージの中では、彼の飲み会の誘いを平気で断る人などだれも存在してはならないのである。そこでB部長は反撃に出る。それがAさんに対する苛めやパワハラなわけだが、実はAさんにとっては、B部長がそんなことで傷ついていることなど想像できない。部下にとって自己愛的な上司はまるで神様のように映ることが多い。つまりきわめて強力で、部下などによって傷つくような存在には思えないのだ。そこで一方的に怒鳴られ、ダメ出しをされる。その時は「なぜかわからないけれど怒られる。きっと自分の方に落ち度があったのだろう」と思うしかない。相手が自分の傷つきやすいプライドのせいで、理不尽にもこちらに「仕返し」をしてきているという構図が読めないのである。
  
「厚皮」は無関心、想像力の欠如でもある

これまでの記述で、私は「厚皮」はその人の性格で、いわば持って生まれたもの、という印象を与えたかもしれず、それなら誤りである。いや、確かに「生まれつきの厚皮」もいるかもしれない。後に出てくる「サイコパス」タイプの自己愛者は確かにそうだ。しかし「厚皮」の多くは、「たたき上げ」である。つまり若いころから「厚皮」タイプのナルシストに仕えてきた人たちだ。ニホンザルの脳波の活動の例を思い出してほしい。ボスざるは脳をあまり働かせないのは、相手に気を使っていないのである。しかし下位のサルは一生懸命ボスざるに気を使う。しかしもともとボスざるは下位にいた時に一生懸命気を使ったのと同じ猿だ。つまり「厚皮」はボスという地位が二次的に作り上げたものと考えることができる。もともと厚皮のサルが上位に上り詰めたわけではない。もちろん小さいころから厚皮のサルもいたかもしれないが、サル社会では「生意気な奴だ!」とたちまち上位のサルにボコボコにされて生き延びることすらできなかっただろう。
では結局「厚皮」は何かといえば、それは上位に立ったものが、周囲の心に関心を示さなくなる、想像力を働かせなくなる、ということに尽きるであろう。どうしてそうなるかは難しいが、社会で支配的な階層に属するようになった人がことごとく「厚皮」の自己愛者としての振る舞いを見せることを考えると、火とは元来、他人の心に想像力を働かせるのは苦手であり、本来は気乗りがしないことだということを表している。想像することとは、一種の精神の労働である。それはエネルギーを必要とし、集中の後の疲労感を生む。あたかも地下鉄で地上階に出るために圧倒的多数の人が階段よりもエスカレーターに向かうように(私も結局いつもそうしている)、人は想像力を働かせなくてもいいのであれば、できるだけそれを避けようとする。
もちろん自分の目の前で苦しんでいる人や動物を見たら心が動かされるのが普通だ。その場合は五感から受ける情報が相手の苦しみへの共感の念をごく自然に起させるからだ。しかし自分がそれを見て見ぬふりをして通り過ぎることが許されたり、他のことに気を取られていたとしたら、たとえ目の前で起きていることでさえ、人は見なかったことにしまえるのである。