次の週の月曜日になって、件の番組制作会社から電話があった。「水曜日の撮影の件はいかがでしょうか?」そうか、やはりそのつもりだったのね。返事をしなかった自分も悪いと思い、「わかりました。でも水曜は外来で、夜にならないと時間が空きません。それでよろしければ。」ということで、水曜の夜7時半に、私が中央線沿線のある駅の近くに借りているオフィスに来ていただいた。代表者のA氏、そして照明さんとカメラ係。スタッフは合計3人で皆若い。名刺をいただいた担当のA氏からしてまだ30歳代といった印象である。私のオフィスは狭く、ソファーをずらしてカメラの位置を決め、背景にラシャ紙のようなものを張って設定するのに少し時間がかかった。その間にA氏から「先生にこんな風におっしゃっていただきたいのですが・・・」と渡されたものを見ると、なるほど台本も大体出来ている。「子供はどうしてうんこが好きか」というテーマで、精神分析でいう肛門期の話をして欲しいとのこと。これは予測していたのである程度期待されていたとおりの話をすることになった。「本当は、子供はウンチがタブーとしての存在であり、また擬似ウンチとしての粘土や泥んこが好きで・・・・」などとちょっと準備していた話をする余裕はなかった。
いよいよ場が設定され、ライトに照らされた私は2分くらいのトークをしたが、時々噛む。こちらは話すときはいつものことなので、気にもしなかったが、やり直して欲しいとのこと。「エー? こっちは噛んでナンボなのに」とか、ショーもないことを思いながら、仕方なく繰り返す。肛門期について話すたびに内容がかなり違うのが自分でも面白かった。さて撮影が終わり、若者が引き上げて言ったのが、8時半前。特に映像がどのような使われ方をするのか、とかギャラとか契約とかの話はなかった。
うちに帰って神さんにただ「取材を受けたよ」と話し、ほかには誰にも話さず、誰かが見たら何かいってくれるだろうかと思った。何も宣伝することはないし、何しろウンチの話だからね・・・・。
ということで数日後実際に放映されたはずだが、どうなったか。
ナーンにもなかったのである。いや正確に言えば、ある一人の院生さんから「先生がテレビに出ているのを昨日見ましたよ。夕方4時半ごろでしたよ。」フーンそうだったのか。昨日か。しかしウィークデイの4時半か?外で仕事をしている人はほとんど見ないだろうな。
結局なんてことはない。ほとんど誰からも反応なし。テレビに出るってそんなもんだ。それはそれで話の種にはなった。
さてこの話はあまりここでは終わらなかった。というよりはここで終わってしまったから終わらなかった、というべきか(相変わらずの持って回った言い方)。それで結局、「テレビ局って、なんだかなー」という私のため息になっていくのだが、それはまた後で。(続く。)
2011年2月28日月曜日
2011年2月27日日曜日
治療論 23 患者の人生に口出しをしない
2月25日(金曜日)の夜、NHKスペシャル「メガヒットの秘密~20年目のB’z~」(2008年に放送したもののアンコール)を見た。そのなかでグラミー賞受賞の松本孝弘の語ったことが印象的だった。彼は稲葉浩志とコンビを組んでいて、相手が出した企画で、「それってアリかよ!」と思うことが度々あったという。ヒットするわけないじゃん。ところがそれがヒットしたりするというのだ。そこで彼が学んだのは相手の出したものには口出しをしないということだったという。これってすごく大事なことだ。これだけ長くコンビが続くのも、実はこのお互いにあまり干渉をしないということだ。あえて言えば、夫婦が長くやっていけるのと似ている。私がよく言う「他人は不可解なり」ということだ。不可解さも理解したうえでそれを受け入れるということが共存共栄のためのひとつの知恵なのだ。お互いに理解しえないことを理解する、ということだ。そこで治療論に飛ぶ。
「治療論 23 患者の人生に口出しをしない」 これって、でもあまり説明の必要もないだろう。ただし読者は「治療者が患者の人生何もいわないなんて、いったいどこが治療なんだよ」と思われるかもしれない。第一患者が治療者に、自分の人生に口出しをして欲しい(つまりアドバイスを欲しい、指導して欲しい)という場合もあるだろう。そりゃそうだ。その場合は、「あなたねえ、治療者に自分の人生に口出ししてもらおうと思わないことですよ」などと「口出し」はしない。黙って「口出し」をするまでである。でもそれは請われて行う「口出し」であり、ある意味では本当の口出しではない。
患者の人生に口出しをしない最大の理由は何か?治療論 6(2010年11月6日)の、「患者の人生の流れは変えることができない」はこの際当てはまらない。第一に「治療者は患者の人生のことなど知らないし、わからない、アドバイスなど出来ない」というわけだ。
「治療論 23 患者の人生に口出しをしない」 これって、でもあまり説明の必要もないだろう。ただし読者は「治療者が患者の人生何もいわないなんて、いったいどこが治療なんだよ」と思われるかもしれない。第一患者が治療者に、自分の人生に口出しをして欲しい(つまりアドバイスを欲しい、指導して欲しい)という場合もあるだろう。そりゃそうだ。その場合は、「あなたねえ、治療者に自分の人生に口出ししてもらおうと思わないことですよ」などと「口出し」はしない。黙って「口出し」をするまでである。でもそれは請われて行う「口出し」であり、ある意味では本当の口出しではない。
患者の人生に口出しをしない最大の理由は何か?治療論 6(2010年11月6日)の、「患者の人生の流れは変えることができない」はこの際当てはまらない。第一に「治療者は患者の人生のことなど知らないし、わからない、アドバイスなど出来ない」というわけだ。
2011年2月26日土曜日
テレビ局って、どうだかなー(1)
最近あった話である。ある番組制作会社から勤め先の病院の広報係に電話があり、私にインタビューをしたいという。何か企画書までファックスされてきて、「つる瓶の何とかかんとか」(実は正式な名前あり、忘れた)という番組の企画の一つだという。そこで「子供ってウンチがどうして好きなの?」というテーマを扱うので岡野先生に精神分析の立場からインタビューしたい」ということなのである。しかもつきましては来週の午後水曜日に撮影にうかがっていいでしょうか?とある。よく読むとその番組は二週間ほど先には放映され、その一週間ほど前に私のインタビューをとりたいという。しかも時間まで指定されている・・・・・。私だって都合があるのに・・・・。そしてそのファックスには、もしよろしければどうか「○○」までご連絡ください、とあった。
私はテレビインタビューには、短いものに二回出たことがあるが、全国ネットというのは初めてだし、第一ハズカしい。顔が出るなんていやだ。出るならモザイクで、などと考えていたが、最近自分でこんな突込みを入れるようになって来た。「だってどうせ誰も注目してないし。」
私は極端にシャイだから町でテレビカメラを向けられてインタビューをされそうになったら、まず逃げ回ると思う。それが全国ネットなんて・・・ありえない、と思っていたが、考えてみると誰でも(といっては大げさだが)テレビに出る時代である。どこかの医師が意見を求められてちょっと出るなんて事は、毎日何度も見ている。それらの人たちの顔や名前をいちいち覚えているわけがないし、そのような一人として扱われて、「いや、待ってください、顔は撮らないでください」とか「ちょっと変装しますから」などといったら、絶対「このおじさん、どこまで自意識過剰なの?」ということになる。普通に出れば、自然に・・・と思うようになった。何度もあることじゃないし、何事も経験だし。
でもやはり気が乗らなかったので、私はこのリクエストを無視していた。だって「子供がなぜウンチがすきか?」なんていうテーマでどうしてインタビューを受けたくちゃいけないの?っていうか、何でオレなの? どうせ3,4日返事をしなければ、向こうはあきらめて誰か別の人にあたるんじゃないか?何しろ6日以内に撮りたいといっているんだから。しかしこれが甘かった・・・・(続く)
私はテレビインタビューには、短いものに二回出たことがあるが、全国ネットというのは初めてだし、第一ハズカしい。顔が出るなんていやだ。出るならモザイクで、などと考えていたが、最近自分でこんな突込みを入れるようになって来た。「だってどうせ誰も注目してないし。」
私は極端にシャイだから町でテレビカメラを向けられてインタビューをされそうになったら、まず逃げ回ると思う。それが全国ネットなんて・・・ありえない、と思っていたが、考えてみると誰でも(といっては大げさだが)テレビに出る時代である。どこかの医師が意見を求められてちょっと出るなんて事は、毎日何度も見ている。それらの人たちの顔や名前をいちいち覚えているわけがないし、そのような一人として扱われて、「いや、待ってください、顔は撮らないでください」とか「ちょっと変装しますから」などといったら、絶対「このおじさん、どこまで自意識過剰なの?」ということになる。普通に出れば、自然に・・・と思うようになった。何度もあることじゃないし、何事も経験だし。
でもやはり気が乗らなかったので、私はこのリクエストを無視していた。だって「子供がなぜウンチがすきか?」なんていうテーマでどうしてインタビューを受けたくちゃいけないの?っていうか、何でオレなの? どうせ3,4日返事をしなければ、向こうはあきらめて誰か別の人にあたるんじゃないか?何しろ6日以内に撮りたいといっているんだから。しかしこれが甘かった・・・・(続く)
2011年2月25日金曜日
治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う(3)
このテーマをもう少し続けるが、「怒りの芽」がなぜ大切かについては、私の個人的な体験を説明するとわかりやすくなるだろう。(このままだときっと誤解を生んだままである。)私のように「気弱」で優柔不断だと、人から何かを頼まれるとそれに流されやすい。限界を設けること、つまり「ここまでにしましょうね」と言うことはどちらかというと苦手で、普段はある種のきっかけが必要だ。そしてそれはある種の感情的な反応である。手短に言えば、相手に対して怒ってしまえばどんな切り方も出来てしまうのだ。知り合いと縁を切る、などという物騒なことは、若いころはいざ知らず最近では自分から仕掛けたことはほとんどないが、もしそうするきっかけがあるとしたら、相手の不誠実さに腹が立った時である。そうすると優柔不断な自分の人格が別人格に変わってしまう感じである。
でも逆にいえば、相手に不誠実さがないのに縁を切るということは普通は起きないということになる。もし知り合いの誰かが何かをきっかけにして世間から石もて追われる身になったら、むしろできるだけ援助したいという立場である。
私は人はいい方だから、何かを頼まれ、その人がまっすぐな人で、まっすぐな頼み方をしてきたら、私は一肌脱ぎましょう、という気になる。大抵は若干だが安請け合いの傾向すらあり、後で苦労したりする。ところが相手の態度や言動に不誠実さが感じられ、「え、それっておかしくない?」と思えてくると、その人にかかわっていることがむなしくなり、むしろ自分の方が大事、という感じになる。
もちろん相手の不誠実を感じるこちら側の自己欺瞞もあるだろう。だからあくまでも私が主観的にどう感じるかということが問題となっているのだ。そしてその際の怒りの源泉は、自己愛的なもの、セルフィッシュな感情だ。つまり相手に侵害された、時間を無駄にされた、利用されたという感覚である。これらにより生じる感情は、怒りそのものではないにしても、そのバリアントと理解している。
怒りないしは「怒りの芽」により相手を拒絶できると言ったが、実際にはそれらの感情に至る前に相手と距離を取り始めていることがむしろ多いかもしれない。ここで受けてしまうと「怒りの芽」がでてしまうなと感じると、最初から拒絶や限界設定を考えるという風にしている。でもやはり自分の(想像上の)感情を決め手に使っていることには変わりはない。
もちろん限界設定には、私自身のパーソナルスペースを必ずしも脅かさないものもある。しかしある行動や要求を許容することが、ある種の社会のルールや、物事の限度を破ることになると、それによる不快感は私の個人的な不快感とあまり変わらなくなって来る。
ここで改めて強調したいのは、「怒りの芽」は非常に主観的で、それ自身の正当性を客観的には証明できないようなものだということである。しかしそれが相手をフェアに扱う、あるいは相手のアンフェアさに付き合わない、不当な要求は聞かない、というある種普遍的な価値判断に使われるというところが興味ふかいのである。
私は法曹界のことは何も知らないが、おそらく裁判官などの仕事においても、最終的にどのような判決を下す際に頼るのは、おそらくこの個人的な感情なのだと思う。これはロボットにはできないことだ。ロボットは最終的な判決にいたるまでの思考や判断の道筋をアシストしてくれるに過ぎないであろう。感情という羅針盤を持たないからだ。
でも逆にいえば、相手に不誠実さがないのに縁を切るということは普通は起きないということになる。もし知り合いの誰かが何かをきっかけにして世間から石もて追われる身になったら、むしろできるだけ援助したいという立場である。
私は人はいい方だから、何かを頼まれ、その人がまっすぐな人で、まっすぐな頼み方をしてきたら、私は一肌脱ぎましょう、という気になる。大抵は若干だが安請け合いの傾向すらあり、後で苦労したりする。ところが相手の態度や言動に不誠実さが感じられ、「え、それっておかしくない?」と思えてくると、その人にかかわっていることがむなしくなり、むしろ自分の方が大事、という感じになる。
もちろん相手の不誠実を感じるこちら側の自己欺瞞もあるだろう。だからあくまでも私が主観的にどう感じるかということが問題となっているのだ。そしてその際の怒りの源泉は、自己愛的なもの、セルフィッシュな感情だ。つまり相手に侵害された、時間を無駄にされた、利用されたという感覚である。これらにより生じる感情は、怒りそのものではないにしても、そのバリアントと理解している。
怒りないしは「怒りの芽」により相手を拒絶できると言ったが、実際にはそれらの感情に至る前に相手と距離を取り始めていることがむしろ多いかもしれない。ここで受けてしまうと「怒りの芽」がでてしまうなと感じると、最初から拒絶や限界設定を考えるという風にしている。でもやはり自分の(想像上の)感情を決め手に使っていることには変わりはない。
もちろん限界設定には、私自身のパーソナルスペースを必ずしも脅かさないものもある。しかしある行動や要求を許容することが、ある種の社会のルールや、物事の限度を破ることになると、それによる不快感は私の個人的な不快感とあまり変わらなくなって来る。
ここで改めて強調したいのは、「怒りの芽」は非常に主観的で、それ自身の正当性を客観的には証明できないようなものだということである。しかしそれが相手をフェアに扱う、あるいは相手のアンフェアさに付き合わない、不当な要求は聞かない、というある種普遍的な価値判断に使われるというところが興味ふかいのである。
私は法曹界のことは何も知らないが、おそらく裁判官などの仕事においても、最終的にどのような判決を下す際に頼るのは、おそらくこの個人的な感情なのだと思う。これはロボットにはできないことだ。ロボットは最終的な判決にいたるまでの思考や判断の道筋をアシストしてくれるに過ぎないであろう。感情という羅針盤を持たないからだ。
2011年2月24日木曜日
治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う(2)
昨日の発言は明らかに説明不足だったと思うので、付け足し。
ある患者さんの治療時間の後に、治療者が待合室を通りがかった際に、その患者さんに呼び止められたとする。彼は治療者に尋ね忘れたことを思い出したので、ほんの1,2分だけ話したいという。治療者はそれにどう応じようかと迷った後に、次の二つの反応をする可能性がある。ひとつはそれに応じる場合。もうひとつは応じない場合。
ただし治療時間以外はいかなる接触も持たないということが規則や前提となっている治療の場合には、治療者が患者さんの呼びかけに応じて立ち止まって話をするということは論外かもしれない。そこで私が想定するのはごく一般的な治療状況であり、患者さんのリクエストに応じるかどうかがその治療者自身によってもバラつきが出てくるような状況であるとしよう。(もちろん1,2分の立ち話、というのでは応じられないという方針は常に決まっているという場合には、その状況を少し動かそう。たとえば30秒だけとか、イエス、ノーで答えられる程度の質問を投げかけられるとか。あるいはその程度の立場話には必ず応じる、という治療者の場合には、その時間を5分とか10分とかに代えて考えればいいかもしれない。とにかく治療者が十分に迷う余地があることを想定したいのだ。)
さてそのような状況で治療者が患者さんからのリクエストに応じずに「いや、この次のセッションでお聞きしましょう」と言い残して去るとしたら、それはどのような状況だろう?何が治療者にそう決めさせているのだろう?
当然治療者の頭には治療構造がある。治療構造を遵守するつもりはあっても、ある程度の柔軟性を持たせたいという気持ちは大方の治療者に共通していることだろう。それに治療者が守るべき治療構造として、その行動が事細かに規定されているわけではない以上(例えば治療室以外に接触をするのはどのような状況において許されるのか、など)、適切な判断をその場で下さなくてはならないことは沢山あるはずだ。
昨日私が言いたかったのは、そのような際に判断の材料になるのは、治療者の感情的な反応である、ということなのだ。昨日は「怒りの芽」、ということを書いたが、それはそのひとつのプロトタイプといえる。1,2分の立ち話を請われたくらいでムカッとする治療者はいないかもしれない。でもそれも状況次第だ。それが治療の後に頻繁におき、そのことについて何度も治療中に話し合われ、「治療時間で扱えなかったことは、次のセッションまで持ち越しましょう」という約束事が出来ているとしたらどうだろう。治療者は「またか!」と思うかもしれない。そのときには患者さんに対して、何かそれまでの話し合いやそれに基づく約束を反故にされた感じ、治療者としての自分の存在を軽んじられた感じ、患者さんに利用されている感じなど、さまざまな気持ちが起きるかもしれない。もちろん実際の状況はそこまで煮詰まってはいないであろうし、その場合は治療者の感じる抵抗や一瞬の不快感はその「怒りの芽」が何倍にも薄まった感情かもしれない。それは面倒くさいという感じ、わずらわしい感じ、程度で済むかもしれない。そしてもちろん治療者はそれを顔には表さないであろう。「面倒くささの芽」「わずらわしさの芽」程度にとどめながら、患者さんのリクエストには応じない方向で対応する可能性が高くなる。
ところでここまでネガティブな「芽」を考えた以上、逆も考えなくてはならない。「うれしさの芽」、もありえるだろう。自分が患者さんから信用されていないのではないか、と疑心暗鬼になっている治療者は、セッションが終わっても話しかけてくる患者さんに喜んで応じたくなるかもしれない。これも感情的な反応であり、確実に何かを伝えていることになる。そしてそれも「芽」にとどめておくべき感情なのだろう。
このように考えると治療構造の順守や揺さぶり、破壊といった問題は、結局は治療者により自分への侵害、挑戦という形で感知され、扱われるということが分かる。治療者の感情的な反応はだから極めて重要な要素ということになる。
ある患者さんの治療時間の後に、治療者が待合室を通りがかった際に、その患者さんに呼び止められたとする。彼は治療者に尋ね忘れたことを思い出したので、ほんの1,2分だけ話したいという。治療者はそれにどう応じようかと迷った後に、次の二つの反応をする可能性がある。ひとつはそれに応じる場合。もうひとつは応じない場合。
ただし治療時間以外はいかなる接触も持たないということが規則や前提となっている治療の場合には、治療者が患者さんの呼びかけに応じて立ち止まって話をするということは論外かもしれない。そこで私が想定するのはごく一般的な治療状況であり、患者さんのリクエストに応じるかどうかがその治療者自身によってもバラつきが出てくるような状況であるとしよう。(もちろん1,2分の立ち話、というのでは応じられないという方針は常に決まっているという場合には、その状況を少し動かそう。たとえば30秒だけとか、イエス、ノーで答えられる程度の質問を投げかけられるとか。あるいはその程度の立場話には必ず応じる、という治療者の場合には、その時間を5分とか10分とかに代えて考えればいいかもしれない。とにかく治療者が十分に迷う余地があることを想定したいのだ。)
さてそのような状況で治療者が患者さんからのリクエストに応じずに「いや、この次のセッションでお聞きしましょう」と言い残して去るとしたら、それはどのような状況だろう?何が治療者にそう決めさせているのだろう?
当然治療者の頭には治療構造がある。治療構造を遵守するつもりはあっても、ある程度の柔軟性を持たせたいという気持ちは大方の治療者に共通していることだろう。それに治療者が守るべき治療構造として、その行動が事細かに規定されているわけではない以上(例えば治療室以外に接触をするのはどのような状況において許されるのか、など)、適切な判断をその場で下さなくてはならないことは沢山あるはずだ。
昨日私が言いたかったのは、そのような際に判断の材料になるのは、治療者の感情的な反応である、ということなのだ。昨日は「怒りの芽」、ということを書いたが、それはそのひとつのプロトタイプといえる。1,2分の立ち話を請われたくらいでムカッとする治療者はいないかもしれない。でもそれも状況次第だ。それが治療の後に頻繁におき、そのことについて何度も治療中に話し合われ、「治療時間で扱えなかったことは、次のセッションまで持ち越しましょう」という約束事が出来ているとしたらどうだろう。治療者は「またか!」と思うかもしれない。そのときには患者さんに対して、何かそれまでの話し合いやそれに基づく約束を反故にされた感じ、治療者としての自分の存在を軽んじられた感じ、患者さんに利用されている感じなど、さまざまな気持ちが起きるかもしれない。もちろん実際の状況はそこまで煮詰まってはいないであろうし、その場合は治療者の感じる抵抗や一瞬の不快感はその「怒りの芽」が何倍にも薄まった感情かもしれない。それは面倒くさいという感じ、わずらわしい感じ、程度で済むかもしれない。そしてもちろん治療者はそれを顔には表さないであろう。「面倒くささの芽」「わずらわしさの芽」程度にとどめながら、患者さんのリクエストには応じない方向で対応する可能性が高くなる。
ところでここまでネガティブな「芽」を考えた以上、逆も考えなくてはならない。「うれしさの芽」、もありえるだろう。自分が患者さんから信用されていないのではないか、と疑心暗鬼になっている治療者は、セッションが終わっても話しかけてくる患者さんに喜んで応じたくなるかもしれない。これも感情的な反応であり、確実に何かを伝えていることになる。そしてそれも「芽」にとどめておくべき感情なのだろう。
このように考えると治療構造の順守や揺さぶり、破壊といった問題は、結局は治療者により自分への侵害、挑戦という形で感知され、扱われるということが分かる。治療者の感情的な反応はだから極めて重要な要素ということになる。
2011年2月23日水曜日
治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う
怒りの問題は「気弱な精神科医・・・」の「汝怒るなかれ」の章とか、このブログの「怒らないこと」シリーズ(2010年8月後半から9月半ばまで)で扱ったことであるが、治療論にはあまり組み込んでいなかった。
時々聞く言葉。「先生に怒られて目が覚めました」(ある患者さんの言葉)とか「子供を叱らないでどうして教育ができようか?」(ある親のことば)とかを聞くと、思わず心が動かされそうになる。怒りには人を啓発したり導いたりする独特の効用があるのではないかと考えてしまう。が、やはりそれでも、怒りの表現はいらない、と思う。治療者にとっては、である。
いや、怒りがあってはいけないというのではない。怒りの表現は時には不可抗力だ。足を踏まれて「痛い!」というのに似ている。最初の瞬間の怒り、私が「怒りの芽」、と呼ぶ感情は、もうこれがなければ人間ではない、というくらいに自然なものだ。そうでないと痛覚のない人間のようになり、足を踏まれるがまま、人に小突かれるままになってしまい、たちまち痣だらけ、満身創痍になってしまうだろう。ただしその「痛い」を口にしない余裕があるのなら、その方がベターである場合が多いということだ。
人は怒りから逃れることは出来ない。人は否応なしにエゴイストであることを避けられないからだ。それがあまりに当然であるために、人は怒りを表現することを正当化する傾向にある。人が怒りを表現するのは、第一に、それが快楽的であり、第二に、それにより相手に復讐を果たすことができ、第三にその怒りを振り返る余裕がない(あるいは余裕を持とうとしない)からである。そして怒りを表現された側(つまり怒られた人)もそれにある程度免疫になっており、そのままやり過ごしたり、耐えたりして毎日を送っているのだ。
親や先生や指導者が、子供や生徒のために何かをするとき、その「何か」が全体として相手のためのものなら、その途中で腹が立ち、それを表現することも「コミ」というところがある。息子を剣道で鍛えようとする親は、子供の竹刀の持ち方や打ちこみの時の姿勢を怒鳴り付けて直そうとするかもしれない。それは怒っているように聞こえるだろうし、実際に怒ることもあるだろう。その度に父親は「待てよ、この怒りは私の何を表現しているのだろう?」などと考えている暇などないだろう。怒りを振り返ることにはエネルギーが必要だし、そのエネルギーをむしろ子供を鍛え上げることのために使うことはおそらく正当なことだろう。しかし怒りは必ずそこにエゴイズムが入り込むために、トラウマとして働く可能性がある。そこが問題だ。
私は治療者とは、自分の怒りを解毒するだけの精神的、時間的な余裕をもった職業だと規定したい。そこにはトラウマが生じる余地は、可能な限り回避しなくてはならないのだ。親にも、先生にも、スポーツトレーナーにもその余裕はおそらくない。しかし一日のうちの限られた時間を患者のために注ぐ治療者は、みずからの怒りを十分に検討する余裕がなくてはならない。するとその怒りは解毒されて、治療者は怒りの代わりに当惑や困惑を表現することになる。こちらの方は怒りの「正当な分解産物」として表現されてしかるべきであろうし、その事情はすでに「怒らないこと」シリーズのどこかで触れてある。
ただしこの治療論の文脈で強調しなくてはならないのは、怒りはシグナルとして、羅針盤としての意味を持つということである。患者さんがに対して限界設定が必要な場合、それを教えてくれるシグナルは、治療者の側の「怒りの芽」である。治療者が治療構造を引き締めなくてはならない時、「怒りの芽」を感じ取ることで、治療構造の綻びを感知するというわけだ。
たとえば患者さんが何回か連続してセッションに10分ほど遅れてきて、しかもそれについて振り返る様子のない時。治療者が自分を軽んじられた気持ちになり、「怒りの芽」が頭をもたげることが、彼の治療的な介入の引き金になるはずである。もちろんそこには個人差がある。患者の遅れに全然お構いなしで、何も感じない治療者の場合はどうか。それでもいいのだ。その治療者は別の仕方で構造を守ればいいだけの話である。
「治療者は怒るべからず、でも怒りをシグナルとして使え」、とは意味不明と思われるかもしれない。ひょっとしたら明日はもう少し補足をするかもしれない。
時々聞く言葉。「先生に怒られて目が覚めました」(ある患者さんの言葉)とか「子供を叱らないでどうして教育ができようか?」(ある親のことば)とかを聞くと、思わず心が動かされそうになる。怒りには人を啓発したり導いたりする独特の効用があるのではないかと考えてしまう。が、やはりそれでも、怒りの表現はいらない、と思う。治療者にとっては、である。
いや、怒りがあってはいけないというのではない。怒りの表現は時には不可抗力だ。足を踏まれて「痛い!」というのに似ている。最初の瞬間の怒り、私が「怒りの芽」、と呼ぶ感情は、もうこれがなければ人間ではない、というくらいに自然なものだ。そうでないと痛覚のない人間のようになり、足を踏まれるがまま、人に小突かれるままになってしまい、たちまち痣だらけ、満身創痍になってしまうだろう。ただしその「痛い」を口にしない余裕があるのなら、その方がベターである場合が多いということだ。
人は怒りから逃れることは出来ない。人は否応なしにエゴイストであることを避けられないからだ。それがあまりに当然であるために、人は怒りを表現することを正当化する傾向にある。人が怒りを表現するのは、第一に、それが快楽的であり、第二に、それにより相手に復讐を果たすことができ、第三にその怒りを振り返る余裕がない(あるいは余裕を持とうとしない)からである。そして怒りを表現された側(つまり怒られた人)もそれにある程度免疫になっており、そのままやり過ごしたり、耐えたりして毎日を送っているのだ。
親や先生や指導者が、子供や生徒のために何かをするとき、その「何か」が全体として相手のためのものなら、その途中で腹が立ち、それを表現することも「コミ」というところがある。息子を剣道で鍛えようとする親は、子供の竹刀の持ち方や打ちこみの時の姿勢を怒鳴り付けて直そうとするかもしれない。それは怒っているように聞こえるだろうし、実際に怒ることもあるだろう。その度に父親は「待てよ、この怒りは私の何を表現しているのだろう?」などと考えている暇などないだろう。怒りを振り返ることにはエネルギーが必要だし、そのエネルギーをむしろ子供を鍛え上げることのために使うことはおそらく正当なことだろう。しかし怒りは必ずそこにエゴイズムが入り込むために、トラウマとして働く可能性がある。そこが問題だ。
私は治療者とは、自分の怒りを解毒するだけの精神的、時間的な余裕をもった職業だと規定したい。そこにはトラウマが生じる余地は、可能な限り回避しなくてはならないのだ。親にも、先生にも、スポーツトレーナーにもその余裕はおそらくない。しかし一日のうちの限られた時間を患者のために注ぐ治療者は、みずからの怒りを十分に検討する余裕がなくてはならない。するとその怒りは解毒されて、治療者は怒りの代わりに当惑や困惑を表現することになる。こちらの方は怒りの「正当な分解産物」として表現されてしかるべきであろうし、その事情はすでに「怒らないこと」シリーズのどこかで触れてある。
ただしこの治療論の文脈で強調しなくてはならないのは、怒りはシグナルとして、羅針盤としての意味を持つということである。患者さんがに対して限界設定が必要な場合、それを教えてくれるシグナルは、治療者の側の「怒りの芽」である。治療者が治療構造を引き締めなくてはならない時、「怒りの芽」を感じ取ることで、治療構造の綻びを感知するというわけだ。
たとえば患者さんが何回か連続してセッションに10分ほど遅れてきて、しかもそれについて振り返る様子のない時。治療者が自分を軽んじられた気持ちになり、「怒りの芽」が頭をもたげることが、彼の治療的な介入の引き金になるはずである。もちろんそこには個人差がある。患者の遅れに全然お構いなしで、何も感じない治療者の場合はどうか。それでもいいのだ。その治療者は別の仕方で構造を守ればいいだけの話である。
「治療者は怒るべからず、でも怒りをシグナルとして使え」、とは意味不明と思われるかもしれない。ひょっとしたら明日はもう少し補足をするかもしれない。
2011年2月22日火曜日
うつ病のシリーズ 本当に最後
うつ病の話を、「積み残し」とか言って引っ張ってきたが、本当に今日で最後にしたい。「新型うつ病」の話に関して、「結局現代人の甘えじゃないの」、「病気のフリをしているんじゃないの?」という論調がいやで(というよりは直感的に、おかしいという気がして)、それを論駁したくてこうして書いてきたというところがある。患者さんの苦しみの軽視ではないの、というわけだ。
そこで最後に書いておきたいのは、自殺率のことである。もしうつ病者の究極の訴えが自殺願望であり、それにしか活路(というのもヘンだが) を見出せないとしたら、それは本当のうつ病であろう。もし「新型うつ病」がうつ病もどきであり、他人に関心を払ってほしいだけ、甘えだけだとしても、それが自殺にまでいたったとしたら、それはやはり心からの訴えであり、苦しみの表明ということになるだろう。
同様の議論は、たとえばボーダーさんなどについても成り立つ。いかに自殺企図が頻繁であり、例え思わせぶりに思えても、実際に患者さんが自殺してしまったら、それを本気にしなかった治療者は障害にわたって後悔するだろう。「彼女の自殺願望は、本当のものだったのだ・・・」と。それにより実際に死んでしまうとしたら、問題である。死んでしまいたいという訴えの何分の一かは本当であったのだろうし、それはボーダーさんの自殺の脅しは真剣に聞く必要はないという議論には真っ向から反することになる。
そこで自殺率はどうなのか?これまでも引用してきた「精神神経誌」の特集号で張賢徳先生がこの点に触れている。彼の報告では、自殺者の90パーセントが精神障害を抱えており、過半数がうつ病であったという。そして「うつ病患者は増えているのか」という本質的な問題についても触れ、それについての二つの可能性について論じている。ひとつはうつ病が受診するようになったから、もうひとつはうつ病概念が拡散したから。その上で彼はやはりうつ病は実数が増加しているという立場を取る。
そして先生の結論はアッパレなのだ。
「内因性でも、それ以外でもうつはうつだ。自殺は起きうるではないか。ちゃんと対応しなくてはならない。」
張賢徳先生に喝采を送り、このシリーズをひとまず終わる。
そこで最後に書いておきたいのは、自殺率のことである。もしうつ病者の究極の訴えが自殺願望であり、それにしか活路(というのもヘンだが) を見出せないとしたら、それは本当のうつ病であろう。もし「新型うつ病」がうつ病もどきであり、他人に関心を払ってほしいだけ、甘えだけだとしても、それが自殺にまでいたったとしたら、それはやはり心からの訴えであり、苦しみの表明ということになるだろう。
同様の議論は、たとえばボーダーさんなどについても成り立つ。いかに自殺企図が頻繁であり、例え思わせぶりに思えても、実際に患者さんが自殺してしまったら、それを本気にしなかった治療者は障害にわたって後悔するだろう。「彼女の自殺願望は、本当のものだったのだ・・・」と。それにより実際に死んでしまうとしたら、問題である。死んでしまいたいという訴えの何分の一かは本当であったのだろうし、それはボーダーさんの自殺の脅しは真剣に聞く必要はないという議論には真っ向から反することになる。
そこで自殺率はどうなのか?これまでも引用してきた「精神神経誌」の特集号で張賢徳先生がこの点に触れている。彼の報告では、自殺者の90パーセントが精神障害を抱えており、過半数がうつ病であったという。そして「うつ病患者は増えているのか」という本質的な問題についても触れ、それについての二つの可能性について論じている。ひとつはうつ病が受診するようになったから、もうひとつはうつ病概念が拡散したから。その上で彼はやはりうつ病は実数が増加しているという立場を取る。
そして先生の結論はアッパレなのだ。
「内因性でも、それ以外でもうつはうつだ。自殺は起きうるではないか。ちゃんと対応しなくてはならない。」
張賢徳先生に喝采を送り、このシリーズをひとまず終わる。
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