2025年6月6日金曜日

遊びと愛着 推敲 16

 さてここでチャット君の登場である。RTPと快感の関連性についてどのような学問的な理解がなされるかをChatGTP4に尋ねたら、こんな答えが返ってきた。まさに至れり尽くせり、という答えである。

1. RTP(ラフ&タンブル・プレイ)とPredictive Error Minimization(PEM)のつながり RTPとは、子どもたちが取っ組み合いのような遊びをすることで、

  • 攻撃と遊びの境界

  • 相手の反応の予測

  • 社会的な信号(やりすぎかどうか)

などを相互調整しながら体験的に学ぶ、極めて社会的な予測の訓練場と言える。ここにPEMの枠組みを導入すると:遊びの中では、相手の行動の予測誤差(PE)が中くらいであるときに、最大限の学習・興奮が生まれる。(ゴールデンゾーンのPE)

2. PEは「不快」ではなく、「意味ある違和感」でもある

従来、PE(予測誤差)は「期待と現実のズレ=誤差」であり、 多くのPEM理論ではそのズレを最小化しようとする方向(≒不快の回避)にフォーカスされてきた。でも近年の認知神経科学や感情理論では:
🔸PEは不快であるとは限らず、むしろ学習や好奇心、驚きの 源になる
🔸PEが小さすぎると退屈、大きすぎると不安・パニック
🔸ちょうどよいPEが、探索と興奮(エージェンシー)を引き出す

まさにこれが、「PEが大きすぎず、小さすぎず、ちょうどいい場合に、学習を加速させ、興奮を覚える」という視点だ。

3. RTPは、社会的PEの“共創”空間である

  • 子どもたちは、相手の反応を予測しながら遊び

  • その予測が少し外れるたびに、「あ、そうくるのか!」というPEが発生し、

  • それが「もっと知りたい」「もっと遊びたい」に転化していく

つまり:
🔹PEが互いに起こり続ける限り、RTPは“学びの場”として持続する
🔹しかもそのPEは、共感的・社会的文脈で“安全なズレ”として扱われるから、破局ではなく、喜びや興奮として受け取られる

4. 脳神経的にも対応あり(ちょっと科学的)

  • ノルアドレナリン:中等度のPEに反応し、覚醒・注意・探索的行動を活性化する

  • ドーパミン:予測と報酬のズレ(≒PE)をエネルギーにして学習を強化する

→ RTPは、まさにこうした中程度のPEを連続的に発生させる「快のエンジン」だ。

✨結論:PEは「遊び」や「人との学び」において、快と学習の源になりうる!!!


2025年6月5日木曜日

週一回 その 11

この論考、部分的な書き直しばかりしている。比較的簡単にまとめられると思っていたが、決してそうではない。楽に書ける論文など決してないのだ。

海外における治癒機序に関する理論

 ここまでで論じた我が国における「コンセンサス」(「週4回では転移は扱え、週1回では観察のみ」)は海外での精神分析の議論にも見られるのであろうか?結論から言えば、そこには少なからぬ相違を見出すことが出来る。

まずは我が国の「コンセンサス」のきっかけとなった「ヒアアンドナウの転移解釈」に関する議論の歴史について触れる必要がある。米国においても Strachey により提唱された転移解釈(変容惹起性解釈)の重要性についての議論は、Merton Gill の「ヒアアンドナウ」のそれについての議論として「新たな活力を得た」(Wallerstein p.700)と言われる。そしてよく知られる1960年代からのメニンガークリニックにおける精神療法リサーチプログラム(以下「PRP」)においても「今ここでの転移解釈が絶対的に主要な技法である interpretation of the transference in the “here and now” as the absolutely primary technical mode」という Gill の提言は、一種の「信条 credo」として謡われたという(Wallerstein p55)。このPRPの流れ全体から言えることは、精神分析におけるヒアアンドナウの転移解釈の唯一絶対性ということが最終的には証明されず、治療はそれぞれ独自であり、解釈による洞察とともに様々な支持的な要素が入り混じった複雑なプロセスであるということを示したということである(注)。


注)そこでは42人の患者を精神分析プロパーと精神療法に分け、後者を表出的療法、支持的療法として分けて詳細な研究が行われたが、そこで精神分析で開始した患者のうち比較的分析手法が守られたのは10名だけという結果となった。

(以下略)

2025年6月4日水曜日

遊びと愛着 推敲 15

昨日の話の続き。ここで反復性・新奇性の比率をfとしよう。そしてそれが興奮を最大にするような絶妙な組み合わせがあるとして、それをFとする。ここまで書くと、私がこれを遊びの問題に結び付けようとしているのが分かるだろう。そしてFを提供してくれるような二者の交流の一つがじゃれ合い(RTP)であろうというのが私の仮説である。 さてここまで書いたところで、遊びの問題に戻る。RTPは相手が何を繰り出してくるかが、そして自分がそれにどのような反応をするかが未知であり、毎回適度なPEが生じるからこそ面白い。 もし相手を襲い掛かるしぐさがワンパターンでマンネリしてきたとすれば、相手も面白くなくなり、そのリアクションを変えてくるだろう。するとこちらも少しずつバリエーションを増やしていき、fをFに近づける努力をすることで、RTPの炎を絶やさないようにする。こうしてFを維持して自分や相手を刺激し続ける類の活動なのだろう。そしてそれを通してお互いの成長がある。 このRTPの遠い目標は何だろうか。それはPEMであり、世界が、相手が、自分が分かってしまう境地であろう。すると自分と相手は完全に同期してしまい、それ以上の相互作用の余地がなくなってしまう。完全な同期化は、だから一種の関係性の死を意味するのかもしれない。そしてRTPにも、治療にも予測不能性がなくてはならない。それが playfulness というわけだ。治療が playful であるということは、適度のPEを産生することなのである。


2025年6月3日火曜日

小寺関係論セミナーのお知らせ

 恒例の7月の小寺関係精神療法セミナーのお誘いです。私たち(岡野、吾妻壮、富樫公一、長川歩美)はもう14年間この企画を続け、今年で15回目です。今回のテーマは臨床と「性愛性」で、私は「男性の性加害性」の臨床的な意義について発表します。以下にパンフレットを添付します。日時は7月6日(日曜日)ズームにて行います。ふるってご参加ください。

以下はパンフレットのリンクです。

chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/http://kodera.or.jp/pdf/2025/b03_relate_pt2025.pdf

週一回 その10

 結論:現代的な視座から見た「週一回」について

  以上の論述から、世界レベルでのコンセンサスは日本での「コンセンサス」とはかなり異なるものということが出来よう。むしろ英語圏でのコンセンサスは、分析的精神療法の概念が明確に存在し、それが表出的精神療法と支持的精神療法が分けられるというものである。

そして分析ー表出的-支持的の関係はGabbard の示したスペクトラム上に置かれることになる。すなわち精神分析は転移の解釈を重んじるのに対して、精神療法は現実の扱いを重視するという違いを強調する。これは「分析的」であることの強度ともいえるものであり、分析は最強、表出的精神療法は強、支持的精神療法は弱、と言った感じになるのだ。そしてそのうえで言えば、表出的精神療法は質的にも精神分析に近いものとみなされる。ただし面接頻度に関しては、それを明確に規定するものは少ないものの、Kernberg のように最低週2回を最低条件とする立場があるのは確かである。ただし表出的精神療法の頻度をあえて明言はしないという立場が支配的ということが出来る。

 上記のような理解に立てば、は我が国の「コンセンサス」との違いはその頻度の許容の仕方の違いということが言えるだろう。「コンセンサス」が週4回より頻度が低い場合に当てはまるのに対して世界レベルでは、少なくとも週二回は分析的とみなせるという点ではコンセンサスより「緩い」と言ってもいいかもしれない。

そしてさらに最近の動向を反映しているものとして、各機関のHPでの記載を参照するならば、精神分析と精神分析的精神療法との関係について、両者を一つのカテゴリーに属するものとして論じたり、(例:「psychoanalytic modalities of treatment 精神分析的な様式の治療」(Kernberg))精神分析的精神療法の一つの特殊例として精神分析を位置づけたりする傾向がみられる。そして何よりも特徴的なのは、分析的精神療法としては少ない場合には週一回という言及がなされるようになっているということである。ここに至って週一回は分析的ではないという制限は事実上取り払われた(あるいは最初から存在しなかった)ということが出来るであろう。


2025年6月2日月曜日

遊びと愛着 推敲 14

  ここでほんの少し私の持論が入ることになる。というよりか、当たり前のことに私が気が付いたというだけなのだろうが。実は小さなPEは大事であり、生命体に必須なのだ。それが起きない限り人間は体験を持つことすらできない。あるいはその体験は全く面白くないのだ。  例えば卓球でラリーをするとしよう。相手からの球が自分が予想した通りのコースや強さで返ってくるとしよう。何なら精密な卓球マシーンを相手にしている場合を考えるといいだろう。するとプロにとってはこれほどつまらないものはないということになる。退屈以上の何物でもない。だから同じくらいの力の相手だと、思いがけない方向に球が返ってきたりしてわずかのPEを体験し続けることになり、とてもそのラリーを面白く感じるに違いない。  ところが卓球の初心者なら、卓球マシーンにより全く同じコースに球が返されたとしても、こちらの体の反応がバラバラだから、全く同じ体験にはならない。その日の体調によっては、昨日は簡単に返せた球にも全く反応できない場合も起きるだろう。あるいは毎回全く同じコースに同じ強さの球が返ってきているということさえ気が付かないかもしれない。  とにかく向こうからくる球が少しずつ違った新しいものとして体験され、そこには必ずPEが毎回存在するからこそゲームとして面白い。そしてそれを少しずつ練習により最小化していくことで卓球は上達するだろう。  ここでいつも私が考えていることを述べるならば、慣れ親しんだ体験と若干の新奇性の組み合わせが人に興奮や快感を起こさせるのである。そのような体験が人を夢中にさせ、何らかの知識や技能が一気に進んでいく。100パーセント新奇な面ばかりだと体験が成立しない。全く聞いたことのない外国語を一時間聞いても、何も残らないだろう。少しだけ知っている単語があるような外国語だと、少し印象に残り、多少は面白さを感じるだろう。もし母国語だと単語の意味はすべて分かり、ただ内容だけが新奇ということになり、それなりに面白いはずだ。ところがそれを暗唱するくらいに何度も聞いた場合には面白みも感じないはずだ。(ただし同じ話を何度も聞いても毎回違う想念が浮かび、新たな発見があるとしたら、その人は同じルーチンの中に喜びを見出すことが出来る。)  さてここまで書くと、遊びの楽しさのことが思い浮かぶ。RTPは相手が何を繰り出してくるかが、そして自分がそれにどのような反応をするかが未知であり、毎回適度なPEが生じるからこそ面白い。というかRTPとはそのようにして自分や相手を刺激し続ける類の活動なのだろう。そしてそれを通してお互いの成長がある。その遠い目標はPEMであり、世界が、相手が、自分が分かってしまう境地であろう。すると自分と相手は完全に同期してしまい、それ以上の相互作用の余地がなくなってしまう。完全な同期化は、だから一種の関係性の死を意味するのかもしれない。ということはRTPにも、治療にも予測不能性がなくてはならない。それが playfulness というわけだ。治療が playful であるということは、適度のPEを産生することなのである。

2025年6月1日日曜日

週一回 その9

 ところでIPAのスタンスはどうか。驚くべきことに、こう書いてある。「精神分析的精神療法は低頻度(週に1,2セッション)で、対面法で行う。[精神分析とは異なり]治療の目標は特定の問題の解決(例えば関係性や仕事場での問題)、鬱とか不安症である。もちろん転移と逆転移は精神分析と同様に起きるが、患者の人生に直接かかわる問題を扱う一方では、それらはしばしばバックグラウンドに置かれて解釈されない。つまりそれらは患者の人生に直接かかわる問題を扱うことに譲られる。しかし時には後になって、より深い問題を扱うために、回数は頻回になり精神分析に移ることがある。」

エーっ、である。IPAまでそうはっきり言っているのだ。

https://www.ipa.world/IPA/Dev/About_Psychoanalysis/Psychoanalytic_Treatment_Methods.aspx

 ともあれ米国精神分析協会も米国心理学協会も、そして国際精神分析協会も、そのHPでうたっているのは精神分析と精神療法がいかに類似しているかであり、それは例えば「精神分析的精神療法は精神分析と極めて近い。つまり自由連想が用いられ、無意識を重視し、患者・治療者関係を重視することである。」(米国心理学協会のHPより、岡野(2023)で引用)という記載にもみられる。つまり精神分析と「週一回」の間に、「スペクトラム」は存在するものの、「週一回」の分析的な意義は認めているのである。精神分析と精神療法の差別化について「コンセンサス」の形でここまで論じている私たちにすれば、少し拍子抜けという気もする。現代の精神分析の潮流を見るためには、このHPを覗いてみるということが、実は一番手っ取り早いのだ。

岡野 憲一郎 (2023) 精神分析的精神療法の現状と今後の展望 .最新精神医学 28 (3), 195-201.