2025年5月22日木曜日

遊びと愛着 推敲 9

 精神療法は愛着の問題に向かっている

ここで精神療法は愛着の問題に向かっているということについて述べたい。最初分析の世界ではスピッツやボウルビーは外れ者扱いをされていたことは興味深い。ジョン・ボウルビーは英国精神分析界という立派な出自を持っていて、ロンドンでトレーニングを受けてメラニー・クラインの弟子のリビエールから分析を受けたが、どうしてもクライン理論になじまなかった。彼はどうして母子関係の愛着の問題が精神分析で見過ごされるのか全く分からなかった。動物における愛着行動はまさに早期の母子関係の重要さを証明しているではないか、もっと動物行動学から学ぶべきだ、などと考えたのである。彼自身が幼少時に寄宿舎に入れられて、母子分離のつらさを身をもって体験した人だったということも大きい。 しかし実は全く同じことを考えていたウィニコットなどは、クラインやそのほかの精神分析の大御所に忖度して、「ボウルビーのような存在は迷惑だ」などと言っていたのである。そして愛着理論はその後、メアリー・エインスワースやメアリー・メインといった精神分析とは関係ない研究者たちの手を経て、分析から離れていった。さらに一般心理学、実験心理学のフィールドで極めて盛んに論じられるようになったのだ。

 さて精神分析の世界では、人間がいかに変わるか、心の構造的な変化を起こすかについて、そこに転移や解釈といった、治療者と患者の間に生じる力動と、それの知的操作により得られる洞察という、いわば認知的なプロセスが重要であるという議論が盛んにおこなわれた。しかしその限界がいろいろ検証され、同時に生まれた米国の関係精神分析の流れにより、洞察よりは関係性、ということが叫ばれるようになった。つまり治療者が患者にどのような知的な解釈を伝えるか、ではなく、患者とどのような関係性を持つか、の方が重要だという機運が高まってきたのである。 こうして精神分析でも二者関係の情緒的なつながりの重要性ということが叫ばれるようになった。これは早い話が治療者患者の関係を母子関係になぞらえることになるが、実は転移の解釈という文脈にも、その転移自体が養育状況に似た深い情緒的な関係性の中で生じるという議論があったことは興味深い。ただフロイトも愛着段階については論じなかったこともあり、エディプス期以前の議論には抑制がかかっていたことも確かである。

さてやがて精神分析と愛着理論がいよいよ繋がるわけであるが、そこには二人の人間が関係していた。彼らにより愛着の問題は精神分析の舞台に引き寄せられたのである。
一人はアラン・ショアである。彼の登場により、愛着がうまく行かなかったことでどのような精神のダメージが生じるか(いわゆる「愛着トラウマ」)について脳科学的に詳細に論じられることとなった。そして何よりも二人目のピーター・フォナギーの登場である。彼はメンタライゼーションの理論を提示したのだが、彼のすごいところは愛着の問題が精神の発達の根源にあることを見抜き、それをウィニコットの理論を引きつつ論じたことにあった。メンタライゼーションは非常に巧妙に、ウィニコット理論と愛着理論と、愛着トラウマの理論を結び付けたのであった。

最近では「愛着を基盤とした精神療法」(J.Holmes)などが提唱されている。(その提唱者であるHolms は、治療者―患者の脳生理学的な同期 synchrony を重視し、それが治療における変容性を持つ瞬間 mutative moment に重大な影響を及ぼすと考えている。そしてそのために治療者は徹底した受容 radical acceptance を心がけ、分析的な解釈に先立つものとして患者の情動や関係性の世界の保障 validation を重んじるべきであるとする。さらに同療法ではメンタライゼーションは前頭葉-扁桃核の神経連合を促進するものとしてとらえられている。

2025年5月21日水曜日

週一回 その5

 我が国の「週一回」の議論の特徴とその限界

 これまでの我が国の「週一回」の議論は、ある一定の学問的なレベルに至っていることは明らかであるものの、それはある限定された前提に基づくものということが出来る。そこでは治癒機序として基本的には Strachey や Merton Gill による here and now の転移解釈の重要性を重んじるという立場に立つのだ。そしてそこでの「コンセンサス」、すなわち「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」の根拠としては、週4回という治療構造では「供給が十分」であり、「週に一度のセッションではそうではない」(2023, p.67)ため、週4回では容易に転移の収集が出来、それを扱うことが可能であるものの、週一回ではそれが難しいということである。

 ここで二つ問題をあげるとしたら、まず第一には、この「週4回では転移解釈が可能で週1回では難しい」という線引きはやや恣意性ではないか、という点である。もちろん「コンセンサス」の内容は、一般的な傾向としては言えるかもしれない。ただし転移の集積は週4回という設定を設けることで自然と生じるのかと言えばそうではない。週4回でも患者の抵抗が大きく情緒的に深まらずに疎遠なままの関係もあれば、週一回でもより充実した深い関係性が築かれることもある。しかしこの議論に立ったとしても、「週1回」で転移が扱えないという結論は導かれず、せいぜい「より難しくなる」という表現の方が妥当であろう。そしてもしPOSTのように「転移をそもそも扱わない」という方針を最初から取るとしたら、そこでは数少ないが転移が扱えるような治療状況を切り捨てることになり、大切な治療の機会を失うことではないか。むしろ妥当なのは、週何回会うかに関わらず、転移の収集の程度を見ながら、それを扱うかどうかを判断することであろう。岡田の砂金の比喩を用いるならば、たとえ金の鉱脈の中心(週4回)ではなく周辺(週1回)でも、砂金が存在する限りはそれを収集された場合は、それに応じて分析的な治療を行うことが出来るのであろう。それは最初から砂金を探さないという立場とは異なる。

 ただしこの第一点目は、「コンセンサス」への決定的な反論とはならないであろう。それを相対的なものとして割り引くならば、「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」は依然として妥当であると言えるからだ。
 しかしここでいう恣意性、ないしは蓋然性の問題は様々な形を取りうるという点も付け加えておきたい。そもそもフロイトが週6日で患者と会っていたことを考えると、週4回はすでに「薄まって」いるはずだが、その議論はなぜか乏しい。また最近ではアイチンゴンモデルが変更され、国際的には週に3回も分析的なトレーニングとして認められることになったが、そうなると「週4以上では」という議論はどうなるのだろうか。また藤山氏が語っているように、週2回はすでに週一回よりはるかに分析的であるという見解もある。(個人的には私も賛成である。)するとますます「週4回とそれ以下」という線引きは相対的、恣意的ということになりかねない。

「コンセンサス」の第二の問題は 数十年前に提唱された Strachey の提言を現代まで持ち越している点である。現代の精神分析においては、治癒機序の議論も多元的になりつつある。ヒアアンドナウの転移の解釈のみが治癒機序であるという考え方は1970年代以降メニンガーにおけるPRPの結果を受けて大きな再考を余儀なくされてきた歴史がある。それを現在の議論にそれこそ「平行移動」して論じることには問題があろう。この点については、以下の章で再び扱うことになる。


遊びと愛着 推敲 8

 あらゆる精神療法は遊戯療法である

このテーゼがますます最近意味を持ってきているのは、愛着の問題が注目を浴びているからだ。人間関係の基盤に、愛着の形成やその不全の影響が考えられるようになって来ている。そしてその関係でたとえば「愛着を基盤とした精神療法」(J.Holmes)などが提唱されている。(その提唱者であるHolms は、治療者―患者の脳生理学的な同期 synchrony を重視し、それが治療における変容性を持つ瞬間 mutative moment に重大な影響を及ぼすと考えている。そしてそのために治療者は徹底した受容 radical acceptance を心がけ、分析的な解釈に先立つものとして患者の情動的で関係性の世界の保障 validation を重視すべきであるとする。さらに同療法ではメンタライゼーションは前頭葉-扁桃核の神経連合を促進するものとしてとらえる。なぜこれが重要かといえば、じゃれ合い(1)で獲得されていたはずの相互性が治療場面で問われるからだ。それが基盤にないと出会いやふれあい、さらには二者関係としての治療関係は成立しないだろう。しかしこれは従来の精神分析的な考え方とはあまりに異なるものというべきかもしれない。

じゃれ合いを通して何が成立するか

何よりも不思議なのは、相手が傷つけてはいけない自分になること、そして場合によれば相手は自分を犠牲にしても守るべき存在となること。つまりは愛他性の獲得となること。私がこれを愛着だけでなく、じゃれ合いにその本質を求めているのは、愛着はなんとなくそれが「静的」なニュアンスを伴うからだろうか。愛着形成により人は他者を信頼して、自分の生きる意味を与えてもらう。CPTSDではそれが不全となり、自分の価値を持てず、相手とかかわることが出来ない。じゃれ合いはこの一見静的なプロセスの中で実際に生じている現象を描いているからだ。


2025年5月20日火曜日

遊びと愛着 推敲 7

 昨日の続き。

動物どうしのじゃれ合いはきょうだいとの間でも、番う相手との間でも見られるようになる。そしてそれはラボのケージに入っているラットと人間との間でも再現される。こうしてじゃれ合いは科学的な研究対象となっているわけだ。
そこで研究者たちが発見したのは、それがラットの生後何週間かの間に見られること、そしてそれが強烈な快感を及ぼすらしいこと、そしてそれが適応的であるらしいということである。それはじゃれ合いを経た動物がその後ストレス耐性を得て、不安が軽減されるという実験結果から推察されることであり、そしてそこにはじゃれ合いの幾つかのルールないし規則性が有ることも分かった。例えば交互性などである。つまり一方的な追っかけ役、と言うのはなく、だいたい均等に、やって、やられてを繰り返すのであり、だからこそ快感なのであろう。反転現象こそが面白さの源泉なのである。

じゃれ合いのグラデーション

そこで「遊戯療法」に少し近づく。人間においてもじゃれ合いは同様に適応的ではないか、という仮説のもとに研究が進められているが、どうやらこちらの方はもう少し込み入っている。子供の親とのじゃれ合いはしばしば子供の暴力性と結びつくという。特にネガティブな感情が伴ったり、親の優位性が保てなかったりする。このことから仮説として浮かび上がるのは、じゃれ合い、ないしは遊びのグラデーションである。二種類を考えたら、それぞれのニュアンスや意味あいは違って当然だからだ。

じゃれ合い(1)

まず生直後の母子間のじゃれ合いは、愛着の段階で生じる。そこでは最初は力の差は絶対であり、そこでのやり取りはおそらく子供が将来子育てをする際に役立つことを学ぶ。つまりは対象を自分の一部とみなすという体験である。子は親を思いやる。つまり親は子供に同一化する。子供は同一化される体験を有するが、同時にその親を本気には攻撃しない、つまり「じゃれ合う」という体験を有することで、親に同一化するという体験を持つ。するとそれは自分が親になった時に子を思いやる(同一化する)体験の素地となるはずだ。あるいは性愛性とも関係する可能性が有る。その場合は少し違った形での同一化であろうが。ともかくも相手を同一化の対象とみなして接するというプロセスが、このじゃれ合い(1)だ。

じゃれ合い(2)

その後のじゃれ合いは思春期に至るまでに生じ、相手を思いやるというレベルと相手を仮想敵ないしはライバルとみなすレベルの両方がまじりあう段階になる。それは最初はそれまで愛情を注いでくれた親からの手痛い扱いやあからさまな攻撃性の表れの形をとり、子はそれを自分が独り立ちするよう促されていると受け取って親元を離れるかもしれない。またきょうだい通しの間のかなりラフなじゃれ合いは、実際に狩りの練習の意味を持つかもしれない。そこにはいじめに近いものも含まれよう。そこでは自分の攻撃性の限界を試し、それが発揮された際の効果を見極めるという意味を持つ。これが重要なのは、実際の狩りでは自らの攻撃性は十分統制されていなくてはならないからだ。狩りの相手はおそらく憎しみの対象では必ずしもない。むしろ感情すらない「モノ」扱い。最小限の力の発揮により仕留めるべき相手なのである。余計な感情の暴発はかえって命取りになりかねない。これは例えばボクシングのスパーリングや実際の試合、武道における組手や試合に相当するかもしれない。
このように考えるとじゃれ合いは攻撃性や性行動の練習、というよりは、よりニュアンスを持ったものとして理解されるべきかもしれない。性行動の方はともかく、攻撃性は、オスどうしのメスをめぐる争いと、捕食のための狩りという二種に分かれるべきであろう。じゃれ合いはその予行演習を行っているのだ。

ともかくもじゃれ合いは生直後の、愛着に含まれ、母親との間で行われるものから、その後のきょうだいを通して行われるものまでにグラデーションがあると考えるべきであろう。すると前者は必須のもの、子育てに必要なもの、後者は他の個体の脅威となるべきもの、あるいは狩猟に用いられるものという意味を持つのだ。


2025年5月19日月曜日

遊びと愛着 推敲 6

 「遊びと愛着の推敲」は6まで来たが、もともとの文章はここで終わっていた。つまりこれ以上は推敲するものはないので、本来は「遊びと愛着8」として再開する(つまり推敲する前の文を書き進める)べきだが、もうこのまま推敲で行ってしまおう。

まず原題を思い出しておこう。「遊戯療法と精神療法- 両者の懸け橋としての愛着理論」

これまで考えてきたことを振り返ってみる。「じゃれ合い(RTP)」は人間を含めた動物レベルで、特に哺乳類で顕著にかつ普遍的に見られる現象である。それは感情を持つ生命体が育つうえで最初に通る段階だろう。あらゆる動物が他の個体とのかかわりあいの中で生きていく以上、その基礎を作る段階の通過が必須となると考えられる。そして私たちにとって極めて印象深いのは、この時期に成立した関係性は半永久的だということである。 この時期に人間が養育者として接した動物はおそらく死ぬまでその人間に強烈な愛着を示す。特に驚くべきなのは、人と人との間のそれをはるかに超えたレベルでの関係の深さである。例えば遠くから「育ての親」である人間を見つけたライオンは、まるで磁力に魅かれる砂鉄のようにその人に引き寄せられて駆け寄り、飛びかかる。もちろんライオンにとってはその胸に飛び込んでいるつもりだ。そしてそこでは身体的な接触はある種の決定的な意味を持つ。それは人と人との関係以上でさえある。(成獣となったライオンとその育ての親である人間との間で見せるような感動的な再会のシーンを、人間の親子が見せることなどあるだろうか?)

ここでの特徴は生後しばらくの間に生じたであろう身体的な接触の影響の大きさであり、そして再会の際もその身体接触が、大きな快感とともに求められ、成立することである。ここで私たちが興味深く感じるのは、例えばライオンのように、見知らぬ人間には攻撃性を向けるであろう、そして私たちがその意味で最も恐れの対象となるべき成獣が、まるで子供の様に人間にじゃれつき、甘える姿である。そう、ライオンが自分の何分の一ほどの大きさになった人間に(見かけ上)襲い掛かり、戯れようとするのはまさに「じゃれ合い」の再現といえる。そしてその時はライオンは爪を肉球の下に格納する。(正確に肉球の「下」かは知らないが、あくまでもニュアンス、である。)
じゃれ合いでもし相手を傷つけたとしたら、その痛みは自分の痛みになってしまうはずだ。つまりライオンは相手に同一化し、「共感」しているのであるが、どうしてそんな複雑なことが成立するのだろうか。私たち人間は共感がいかに複雑で難しく、人間でさえもしばしばそれを十分に発揮することが出来なくなることを知っている。しかしその極めて複雑なことをしない限りは動物は子供を育てることが出来ない。だからなのだろう。さもないと魚類のレベルで飢えをしのぎながらメスによって岩肌に植え付けられた卵に新鮮な海水を送り続けるオス(何の魚だったっけ?)や、冷たい風に耐えながら卵を温め続けるなんとかペンギンのような芸当は出来ない。
こう考えると動物の親たちは、「大きな思いやりを有している」というよりは、脳がそれを自分の一部として認識するのはないかと思う。自分の身を守ることと、子孫の身を守ることは、生物学的に差が生じないような仕組みが成立しているのだろう。
最近脳の同期化ということが言われ、「他」と「自」については脳で興奮する部位が違うと言われているが、そうなるとじゃれ合いの対象はそもそも「他」としては認識されないのではないか。といって「自」でもなく、おそらく「他」と「自」の両方が共鳴するような対象となるのではないか。

2025年5月18日日曜日

週一回 その4

 週一回に関する「コンセンサス」とPOST

 藤山氏の提言は、週一回の心理療法においては、転移を扱うことの難しさを説いていたわけだが、我が国における議論はその提言に概ね賛同し、それを受け入れる方向に向かっているという印象を受ける。山崎氏の論文(2024、p73)にはこの藤山の提言をより精緻な論述で支持する形をとっている。
 山崎氏は Meltzer や飛谷氏らの論文を参考に、「転移の集結」(転移がおのずと集まること)と「転移の収集」(転移を能動的に集めること)という概念を使い分ける。そして分離を体験するための密着な体験が週4回以上に比べて得られないために転移の集結が生じにくいというD.Meltzer の見解を支持する。さらに山崎氏はそれを例証するような臨床素材を示している。氏は週一回のケースにおいて転移が当面性を有していなかったにもかかわらず、その解釈をすることによる能動的な「転移の収集」を試みて失敗したという治療経過を示す。そして氏が「転移の収集は転移解釈によりなされる」という考えを「週一回」に「平行移動」させたことがその原因であったとする。

 山崎氏はこれまでの「週一回」に関する議論を総括したうえで、以下のように述べる。「『週一回』は『分析的』にするのは難しいという結論が出ているといっていいだろう」(2024,p20)。つまりこれは最近の複数の分析家や精神療法家の間のコンセンサスであるというのだ。そしてそれにもかかわらずこれまで彼らの多くが「『週一回』は『分析的』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきた」のだという(2024,p19)。そしてここで現実に直面する必要を説いていることになる。ここでこの山崎氏の提言を「コンセンサス」と呼ぶことにする。

 そのうえで山崎氏が提案するのは、精神分析との違いを明確にしたうえで、「週一回」それ自身が持つ治療効果について考えることである。彼は便宜的に「週一回」を【精神分析的】心理療法と精神分析的【心理療法】とに分ける(2024,p22)。このうち前者は「週一回」でも分析的にできる、という平行移動仮説水準のレベルにとどまっている。そして後者をPOST(精神分析的サポーティブセラピー)としている。つまりは「週一回」を「コンセンサス」をもとに概念化したものが、POSTというわけである。

 このPOSTの概念的な位置づけについては、山口氏が以下にまとめている。それによると分析においては【分析的】では転移を集めるが【心理療法】(すなわちPOST)では「転移―逆転移についての理解は治療者のこころの中に留め置く」(岩倉ら、2023)という。それはまた転移を「拡散する」とも表現されている(山崎、p81、山口p246,247)。というのもPOSTはなるべく転移を扱わないというのが一つの方針としてあげられるからだという。そしてPOSTでも転移は起きるが、扱わずに「心に留め置く」という。他方では【分析的】は要するに「準」精神分析だから、無意識も転移も扱うということになる。

 このPOSTについては「POSTー精神分析的サポーティブセラピー、岩倉他著、金剛出版、2023年)に詳述されている。そこではPOSTは以下に定義されている(p4)

 ①目標は適応状態の改善である。②無意識については扱わず(言及せず),意識を大切にする。

③転移一逆転移についての理解は治療者の心の中に留め置く。④見立てや理解は常に精神分析理論に基づく。⑤自我に注目し、自我を支持する、つまり退行抑止的に関わる。⑥自我にかかっている負担軽減を目的として,必要に応じ環境調整やマネジメント作業を行う。⑦自我を支え、補強することを目的として,励まし,助言などの直接的な介入も用いる。⑧転移を扱わないため,治療構造や頻度,終結についての扱いは柔軟で多様である。

 転移逆転移は、POSTの治療者は心には思っても扱わない(言及しない)とある。かなりあっさりと転移を扱うことをあきらめた感があるが、それはPOSTにおいては「『無意識の意識化』や内省の促進を期待するのではなく」、「『前意識の意識化』によって自分自身や自分のパターンの認識が広がり、結果として他のPOST技法と同じく発達促進的に作用する」事を目指すという(p178)。そしてPOSTでは解釈を「心に留め置く」解釈と「伝える」解釈とに区別する。「心に留め置く解釈」には「今、ここでの転移解釈」が、「伝える解釈」には一般的な解釈や転移外解釈が含まれる。この伝えるか伝えないかに関しては、Roth(2017)のレベル1~レベル4の転移解釈のレベルの考えを援用している。1、とは転移外解釈、2は非特異的転移解釈、3は今、ここでの特異的解釈、4は逆転移を含みこんだ理解に基づく3,ということになる。

 このレベル1→4とは結局どれくらい深いか、どれくらい無意識レベルに踏み込んでいるか、ということになる。そしてPOSTが、1,2についてのみ「伝え」、3,4は「心に留め置く」ということは、1,2は前意識レベル、3,4は無意識レベルということになる。ここで少し理解しづらいのは、「今、ここ」の解釈は3に属するからPOSTでは扱わない、という点である。たとえば「だれかにそばにいてほしいと思っていたのですね」は2であり扱えるが,「ここで私にもそばにいてほしいと思っていたのですね」だと3になり、それは伝えない、ということになる。


2025年5月17日土曜日

遊びと愛着 推敲 5

  次にラットにおける研究を離れ、人間にとってのRTPの意味を調べてみたい。それは果たして発達促進的なのか、それとも暴力を誘発するものなのか? 実はこの議論がなかなか定まらないということなのだ。参考としては以下の論文を用いる。

Smith, P. K., & StGeorge, J. M. (2022). Play fighting (rough-and-tumble play) in children: developmental and evolutionary perspectives. International Journal of Play, 12(1), 113–126. この論文によれば、RTPはラットなどの哺乳類の遊びと通じることもあって様々に研究されているが、その人間にとっての意味は議論が多いというのである。RTPが攻撃性をコントロールし抑制するかについては、動物ではそうであろうが、人間の場合にはそれほど単純ではないというのが、ごっこ遊びや対象遊びとは異なるのだ。後者は人間の子供の情緒発達にとって、これまでは肯定的にみられていたのである。

 確かに考えてみると、じゃれ合い(RTP)がその動物の将来の本格的な狩りに役立つとしたら、それは勇敢な戦士を生むということにはならないか。私はごく単純に、RTPは人間にとってもその攻撃性をコントロールするうえで重要である、という結論を予想していたのだが、そう簡単にはいかないことは理屈からもうかがえるのだ。以下に人間にとってのRTPについて二つ目の論文を読んでみる。

Veiga, G., O’Connor, R., Neto, C., & Rieffe, C. (2020). Rough-and-tumble play and the regulation of aggression in preschoolers. Early Child Development and Care, 192(6), 980–992. 

 この Veiga の論文によると、以前はじゃれ合いは攻撃性の制御に結びつくと言われていた時期もあったという。しかし最近の研究では、就学前の子供の攻撃性のコントロールの問題は重要だが、じゃれ合いがこれにポジティブな影響を与えているか、それともネガティブなのかは議論が多いという。先ほどのSmith の論文と似た論調だ。そして彼らの研究では4~7歳の少年少女に関して言えば、家でも学校でもじゃれ合いは感情のコントロールとマイナスの相関があったという。また父親とのじゃれ合いでネガティブな感情の表出はやはりネガティブな相関があったという。そしてじゃれ合いが長ければ長いほど、情動調節は悪かったという。

 私はこれらの見解は分かる気がするが、一つ不明なのは、ネガティブな感情が多く表出されるほど攻撃性のコントロールがなされないという所見だ。そもそもじゃれ合いでネガティブな感情は普通は体験されないはずである。どんなじゃれ合いを彼らは観察していたのだろう。
この研究を読みながら、私は一つの考えを持った。よく手の付けられなかった不良がボクシングや空手を学び、素行が良好になり、身を持ち直したという例を聞く。これなどは不良同士の喧嘩→ボクシングや空手を通じての、上級者優勢の「じゃれ合い」(スパーリング、組手)→ 自身が上級者になる過程での攻撃性のコントロール、というのと似ていないか。そしてボクシングの試合、空手の組手などは、実は攻撃性とは程遠いということをご存じだろうか。ボクサー同士の仲は、計量時に最悪なように思える。体重計を前にしてお互いにどつき合いが発生したりする。ところが試合後両者はたいていは闘争心を捨てて抱擁し合うのである。このように考えると真剣勝負とは違い、試合や組手はじゃれ合いに似ている、という仮説が浮かび上がってくるのだ。

もう一つのFlanders の論文も読んでみる。

Flanders JL, Leo V, Paquette D, Pihl RO, Séguin JR. Rough-and-tumble play and the regulation of aggression: an observational study of father-child play dyads. Aggress Behav. 2009 Jul-Aug;35(4):285-95. 

 この研究では特に父親と子供の間のRTPについて論じている。この論文でも、従来はRTPは自己統制に貢献するということが示唆されていたが、それについて改めて検証をするという。そしてその意味では、先程の二本の論文に似ている。この研究では2歳から6歳までの家での親子のじゃれ合いについて、85人のケースについて調べたという。そして父親が優勢でない場合には、これが子供の暴力に結びついているという結果を伝えている。

 これを読んでいて、いろいろな疑問がわいてきた。動物にみられるじゃれ合いでは、追っかける方と追っかける方が交互にスイッチするのが理想ということだった。もしそうだとすると、父子の場合も平等が原則ではないかと思うのだが、それではだめで、父親が優勢でなくてはならないということになる。この矛盾はどこから来るのだろうか。
 私はここにはグラデーションが存在するのではないかと思う。つまり母子の間で起きるような初期のじゃれ合いは愛着の形成に関与し、勿論平等である。しかし子供が成長するにつれて、RTPは父と子の権力争いに似た様相を呈するのではないか。つまりplay としての意味が薄れてくるわけである。そして父子のじゃれ合いは本気度を増していく。
 私の知っているケースでは、中学2年の息子と父親の争いはかなり熾烈である。そして明らかに父親が力で息子を抑えるということでバランスをとっているように思える。というか、父親は劣勢になった時点で子供をコントロールする力を半ば失い、相手にならなくなるようだ。その意味ではVeiga や Flanders の研究結果は至極もっともという気がするのである。 しかし一歩間違えれば、父が優勢な深刻なじゃれ合いは虐待になってしまいかねない。そう、じゃれ合いの議論は遊びと虐待の間の微妙な領域に私たちを誘い込む可能性が有るのだ。

ところで「じゃれ合いはグラデーションを形成するのではないか」という私の仮説については、おそらく攻撃性以外にも性行動についても言えるのではないかと思う。通常はじゃれ合いには相手を押さえつける、英語で言うと”pinning” (ピン付けする)という特徴があるが、これは性行動において動物同士で、オスがメスを押さえつけるという行動を模していると考えられる。すると一方が他方をpinning するという行動は性行動へと移っていくグラデーションを形成している可能性がある。 もちろんその結果として単なる戯れが性行動に移ってしまうという場合があり、これは正常な性交渉の始まりを形成する場合があるものの、一歩間違えるとこれが性加害に繋がってしまう。これもRTPと似ている。

しかし考えてみよう。この種のじゃれ合いが幼少時に一切経験されないとしたら、思春期以後の性行動は、いきなりのぶっつけ本番、遊びを含まない危険な行為になりかねないか‥‥。或いは性行動の起こし方がそもそもわからずにその種の行動を回避するということになりかねないのではないか。後者はいずれもデジタル世代で直接の身体接触による遊びが乏しい場合に生じてきかねない問題である。  ともあれ相互性と平等性に基づく筈の性的な関係が性加害になってしまう状況を考えてみよう。じゃれ合い にみられるような平等性が失われ、一方から他方(通常は男性から女性)への強制や脅迫が生じる。playfulness の喪失である。