ここからUSPTについて少し勉強する。小栗康平先生や新谷宏伸先生の提唱するこの技法は、「タッピングによる潜在意識化人格の統合」(新谷 宏伸 (著, 編集), 十寺 智子 (著), 小栗 康平 (著)(2020)USPT入門 解離性障害の新しい治療法 -タッピングによる潜在意識下人格の統合. 星和書店.) という研究所で私も以前から注目していた。本書では私が今検討している人格の統合ということを治療の最優先事項として掲げているという点で画期的な書である。ちなみにUSPTとはUnification of Subconscious Personalities by Tapping THerapy (タッピングによる潜在意識化人格の統合) の頭文字である。この治療の眼目として創始者小栗先生が唱えるのが、「表出してくる憑依人格の存在を通して生きることの意味まで深く考えさせられる事」であるとする。(同書p.2)ちなみに小栗先生は「マイナスエネルギーを浄化する方法ー精神科医が明かす心の不調とスピリチュアリズムの関係」(2010)という書も出されており、それが本書の共同著者である新谷宏伸先生(現USPT研究会理事長)の心をつかんだとある。本書では新谷先生が小栗先生のもとに言わば弟子入りして第三者の視点から本技法が生まれた経緯が書いていることが興味深い。それによると小栗先生は人格変換をEMDRを用いつつ行った結果「両ひざのタッピング」が最適だとの結論に達したという。そしてさらにある治療者A先生により人格の統合には「背部(肩甲骨のあたり」をタッピングすることがいいと伝授されたとのことである。そして両膝への左右交互のタッピング」で人格変換を手早く行い、背部のタッピングで人格を統合するというUSPTの原型が出来上がったとする(p.13)。何かフロイトがカタルシス法から前額法を経て自由連想法に至った経緯を思わせる様で先を読むのが楽しみである。
2024年9月7日土曜日
2024年9月6日金曜日
統合論と「解離能」7
さてここからはForrest の説である。Forrest, KA (2001) Toward an etiology of dissociative identity disorder: a neurodevelopmental approach Conscious Cogn 10:259-93. 彼によれば、現在のところ、解離に関してもっとも有効な理論は、Putnam のDBSの理論だという。しかしその背景となる生物学的なメカニズムは説明されていないという問題があるとする。彼は人間が自己の異なる部分を統合する機能として眼窩前頭皮質OFCを含む前頭前野を挙げている。人が持つ幾つかの機能を、同じ人の持つ複数の側面としてとらえ、「全体としての自分 Global Me」を把握する際にこの部位が機能するという。そしてそれが低下すると、多面的な存在が個別なものとして理解され、Aさんという自己の異なる側面がAさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識されてしまう。これが自己像に対して行なわれるというのが彼のDIDの生成を説明する理論の骨子である。 「結局Aさんはいろいろな側面を持っている」という風にAさんを厚みを持った、多次元的な存在として把握するのであるが、OFCの機能低下により、それを逆に個別なものとして理解し、相互を別々のものとして理解すると、Aさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識してしまう。そのことを、自己像に対して行なってしまうと、自己がどんどん分裂していく、という説だ。
ただどうもこれはDIDの本質を捉えていないような気がする。この体験では自己像がいくつかに分かれる、という説明にはなっても、心がAに宿ったり、A’に宿ったりという、複数の主体の存在を説明していないように思えるのだ。いったいこの問題に手を付けている理論はあるのだろうか?
眼窩前頭皮質とは眉間の奥にある脳の部分であるが、共感とか情緒交流などの話によく出てくる脳の部位。以下OFC)の機能が、虐待により非常に損なわれ、そのことにより行動依存的な自己像が統合されず、それがDIDの病理を生むという。すると例えば矛盾するやり取りの際に「側方抑制 lateral inhibition」が生じないことで、統合できないというのだ。
側方抑制は視覚について最初に報告されているというが、一つのニューロンが刺激されたとき、その周囲のニューロンがパルスを発生するのを抑制することを意味するという。視覚では、物体の境界を認識するのが容易になるという効果になる。物体が網膜のような二次元に投射された場合、物体の境界というか物体の淵で、光のコントラストが生じることが多いが、このようなコントラストの認識が容易になる。要するにある体験を持つとき、その輪郭を際立たせるようなメカニズムのことだ。
こんな例を考える。二卵性の双子の姉妹がいる。しかもとてもよく似ている。親しい人は二人を別々の人として体験するために、かなりの側方抑制を行うだろう。例えば顔の輪郭について、その際の部分を強調して体験することで、「二人はよく似ているけれど、よく見ると全然違う」。ここにOFCが関与しているとしよう。もし側方抑制が十分でないと、いつまでたっても二人を区別できない。では今度は一人の人間が、異なる顔を見せるとしよう。昨日との違いは、側方抑制の低下により強調されず、いずれも一人の人間として統合されたイメージに向かう。この場合は側方抑制が抑制される必要がある。そう、統合に必要なのは抑制の抑制というわけだ。ではいつも同じ人と思っていた人が異なる側面を急に見せたら? いつも優しい父親が全く異なる凶暴な側面を見せたら? 脳は一生懸命側方抑制を抑えることで、「両方とも同じ父親だ」と体験するだろう? でもそれが限度を超えたとしたら? 脳はおそらくそこで二人を別人と捉えることは出来ない。その代りこちらを別モードにするかもしれない。つまり体験する方の主体に別モードを準備するという.
2024年9月5日木曜日
統合論と「解離能」6
さてHowell 先生が依拠する説としてあげていたPutnam のDBSの理論と共に上げていたKelly Forrest という学者の説。少し復習が必要だ。 先ずPutnam 離散的行動状態理論(Frank W. Putnam: Dissociation in Children and Adolescents: A Developmental Perspective. Guilford Press, 1997
これは基本的に人間の行動は限られた一群の状態群の間を行き来することと捉えており,DIDの交代人格もその状態群の中の1つであるとする.交代人格という状態は,その他の通常の状態とは違い虐待などの外傷的で特別な環境下で学習される.そのため,交代人格という状態とその他の通常の状態の間には大きな隔たりと,状態依存性学習による健忘が生じると考える.Putnam(1997)にとって精神状態・行動状態というのは,心理学的・生理学的変数のパターンから成る独特の構造である.そして,この精神状態・行動状態はいくつも存在し,我々の行動はその状態間の移行として捉えられる.乳幼児を例にとれば,静かに寝ているノンレム睡眠時が行動状態Ⅰ,寝てはいるものの全身をもぞもぞさせたりしかめ面,微笑,泣きそうな顔などを示すレム睡眠時が行動状態Ⅱ,今にも寝入りそうでうとうとしている状態が行動状態Ⅲ,意識が清明だがじっとして安静にしている状態が行動状態Ⅳ,意識が清明で気分がよく,身体的な動きが活発な状態が行動状態Ⅴ,意識が清明で今にも泣きそうな状態が行動状態Ⅵ,そして大泣きしている状態が行動状態Ⅶといった具合になる.そして状態が増えれば,それだけ行動の自由度が増す.
これらの状態は互いに近しいものもあれば遠いものもあり,いわば1つの部屋の中に離散的(離れて)に付置されている状態にある.そして,その状態間を行き来するための経路は,たとえば行動状態Ⅰと行動状態Ⅱはともに行き来可能だが行動状態Ⅰと行動状態Ⅶの間には経路は存在しないといったように,ある規則に従って定められている.この行動状態の構造が,個々人の人格を定義するものとなる.
上記のような状態群は,大抵の乳幼児には観察できるものであろう.しかし,被虐待児の場合は,その他にやや特別な行動状態群を形成する.虐待エピソードのような恐怖に条件づけられた行動状態は,血圧・心拍数・カテコールアミン濃度などの自律神経系の指数の上昇といった生理学的な過覚醒と連合している.それは極めて不快で,我々の大部分にとっては日常体験の外に存在するものである.上記Ⅰ~Ⅶの行動状態を“日常的な行動ループ”とすれば,虐待エピソードで獲得された状態群は独自の性質をもつ“外傷関連の行動ループ”といえよう.この2つの行動ループは,いわば同一の部屋には納まるものの互いに離れたところに付置し,そのために行動全体がまとまりをなくすという状態になる. 心理的外傷を負った子どもが,それを想起させるような刺激に遭遇し感受性が高まると日常的な行動ループにいても外傷関連の行動ループを活性化させ,一足飛びにその状態へスイッチングする.しかし日常的な行動ループと遠く隔たった場所に存在する外傷関連の行動ループは,いつでもそこへ接近が可能なわけではない.情報というのは,多かれ少なかれ状態依存的な性質をもっているため,外傷関連の行動ループにもそれを獲得したときの状況と類似した状況であると認識しないと接近が困難である(このことは,第三者から見て外傷状況とは類似しない状況でも,本人が似ていると認識すれば接近してしまうということにもなる).ゆえに,外傷に関連する行動状態と日常的な行動状態とを結合する経路は,他の経路と比べると滅多に使われない.このように,異常な解離状態とは日常的な行動ループから遠く隔たった場所にある行動状態群で,かつそこへの接近がいつでも可能なわけではないものということになる.その典型例がDIDにおける交代人格である.
Putnam(1997)の説は,虐待などの特殊な状況での意識状態が,普段の意識とは離れたところに存在するという解離の基本骨子は引き継ぎつつ,そこに行動状態群という概念をもち込み,これまでDIDの成因論において中心的には扱われてこなかった状態依存学習を前面に強調した点が独創的である.
2024年9月4日水曜日
統合論と「解離能」 5
Winnicott が最後に残した草稿には、こんな文章がある。 「私は私たちの仕事について一種の革命 revolution を望んでいる。私達が行っていることを考えてみよう。抑圧された無意識を扱う時は、私達は患者や確立された防衛と共謀しているのだ。しかし患者が自己分析によっては作業出来ない以上、部分が全体になっていくのを誰かが見守らなくてはならない。(中略)多くの素晴らしい分析によくある失敗は、見た目は全体としての人seemingly a whole person に明らかに防衛として生じている抑圧に関連した素材に隠されている、患者の解離に関わっているのだ。」(Winnicott, quoted by Abram,2013, p.313,下線は岡野) 思わずエーッとなる内容だが、これを補足する様に Abram は論じる。「Winnicott の理論では、自己は発達促進的な環境によってのみ発達する。その本質部分がない場合は、迎合を基礎とした模造の自己 imitation self が発達し様々な度合いの偽りの自己が発達する(それについては真の自己と偽りの自己に関する自我の歪曲」(1960)という論文で論じてある。)そしてよくある精神分析では解離されたパーツ、すなわち偽りの自己の分析にいたらないのだ。(Abram p.313) 私は勢い余って太文字強調したが、Abram を読んでいると、Winnicott の偽りの自己の議論は事実錠解離の議論ということになる。少なくともAbram の筆致によれば、そしてWinnicott の記述を字義とおり取れば、彼はどうやら今の解離の議論を半世紀以上前に先取りしているということになるが、本当に信じていいのであろうか? ちなみにWinnicott の論文を解離という視点から読んでいくと、色々考えさせられてしまう。「対象の使用」という概念にあるように、他者は(主観的に構築された他者像)ではなく objective object (客観的な対象)という意味を持つが、これは別人格のあり方そのものではないかと感じる。別人格の振る舞いの意外性はまさにsubject のそれなのだ。思わず次のような論文のタイトルが浮かんでくる。「交代人格 alternate identity はsubjective object (主観的な対象)なのか、それとも objective object (客観的な対象)か?」これまでの考え方では前者だが、Winnicott 的に言えば、後者ということになる。常に新奇性を提供して来るからだ。
2024年9月3日火曜日
統合論と「解離能」4
ところでこの議論、解離能の話とは逆行していると言える。最初は分裂しているのが人のこころだ、とすれば解離とは「元に戻る」ないしは「先に進めないでいる」ことを意味するし、治療の目標は当然ながら統合ということになる。 しかしこれは解離の最も不思議な現象である人格の創出、出現という問題を解決することにはならない。これは当たり前の話であるが、解離というのはもともと最初から分かれているものがくっつかない、という問題では決してない。最初あったのもが別れる、あるいは最初あったものの他に出来る、という現象である。そしてそれが解離能の概念につながる。この議論はだから解離する能力、すなわち「解離能」という概念に逆向しているといえる。 ではウィニコットはこの理論にどのように関係しているだろうか。ウィニコットは最初は断片的だった自己が統合されていくプロセスを論じている。ちなみにウィニコットも似たような考えを持っていた。ウィニコットは自己の発達過程で確かにそれまで分かれていた断片が融合するプロセスを論じている。その意味でPutnam 先生の分散行動モデルDBSに近いといえる。しかしこんな言い方をしているのだ。 「私の考えでは、自己self (自我ego、ではなく)は、私自身であり、その全体性は発達プロセスにおける操作を基礎とする全体性を有している。しかし同時に自己は部分を有し、実はそれらの部分により構成されているのだ。それらの部分は発達プロセスにおける操作により内側から外側へという方向で凝集していくが、それは抱えて扱ってくれる人間の環境により助けられなくてはならない(特に最初において最大限に、である。)」(Abram, .313) Abram はこのプロセスは母親による発達促進的な環境 facilitating environment により成し遂げられ、そうでないと母親との迎合による模造自己 imitation self が出来上がるばかりであるという。つまり偽りの自己のことだ。 私が思うに、Winnicott のモデルはどうも発達過程での「部分→統合」というのとも違う気がする。彼は自己が確立してから、非自己が生まれるのだ、とも言っている。ということは内側から外側に向かって一つ(自己)になった後に非自己が分化していくが、その過程で偽りの自己も出来上がっていくという印象を受ける。部分 → 統合体 → 分化(自己、非自己)というより複雑なプロセスを考えているように思われる。 考えてもみよう。赤ん坊が母親に同一化するプロセスでは、自分と母親の相違には気がつかないだろう。そのうちに「あれ?何かがおかしい」となるはずだ。解離は自己の成立後に生じるはずである。それがもともとバラバラな状態のまま統合できない、というモデルとは違う。Winnicott が防衛的な解体という時は、やはりこの全体→部分に分かれる というプロセスが想定されているらしいのだ。
2024年9月2日月曜日
Gartner 先生の講演
このブログは数日前のものが反映されているが、昨日(8月24日)はパシフィコ横浜で開かれている心理臨床学会の男性の性被害に関するシンポジウムが行われた。私は討論者として参加したのであるが、たくさん得るものがある一方では、少しもやもや感が残る内容であった。
男性の性被害の問題はこれから多くのことが明らかにされるべきことであり、その分野を切り開いたガートナー先生の功績は多大なものである。しかし実際の臨床で出会う被害者の大半は女性であることも確かである。
数日間ブログで示した通り、私が実際に関心を持ち、また困っているのは、男性の性加害性を女性の被害者にいかに伝えるかという問題である。それをガートナー先生にぶつけてみたのである。しかしこれについて先生の答えは、以下のようなものであった。
「性加害という問題から離れて、虐待者が被虐待者に対して虐待を働く際の力動について説明してはどうか?」
なるほどと思った。そして彼は言った。
「虐待者が実は弱い存在であり、それを反転克服するために行うのが虐待である、という風に。」この方針は有効である一方で、被虐待者にこう言われてしまう可能性もあるだろう。「それは虐待者の言い訳に過ぎない。被害者である自分たちにとっては何の慰めや謝罪にもならない。」つまりこの説明である程度納得がいく場合もあれば、とてもいかないということもあるであろう。
講演が終わり、同じ討論者の西岡さんたちとその後の食事に向かう際にガートナー先生にもう少し直接疑問をぶつけてみた。「先生は男性の性加害の問題についてどう思われますか?」
それに対する先生の答えは意外なものだった。
「私は男性の性被害者について専門に扱ってきました。しかし男性の性加害者の専門ではありません」。エー、だって男性である私たちはある意味では当事者ではないのですか、と言いかけて私はそれ以上は言わなかった。これほどまでに、男性の専門家に、男性の性加害性について意識を向けることは難しいのだ、と理解した経験であった。
ともあれ企画者の吉川真理先生、辻河昌登先生にこのような機会を与えていただいて、深く感謝する。
2024年9月1日日曜日
統合論と「解離能」3
Putnam 先生の discrete behavioral states (DBS) とは次のようなものだ。彼はそもそも人の心は統一体 unity としては出発しないという。人の心は時間をかけて統一体となるというのだ。そして人間の行動の構成要素ないしは自己状態 self state は連合的な経路 associative pathaway により繋がっていく。ところがトラウマによりこの経路が障害され、それぞれの自己状態は最初の状態に繋がったままになってしまうという。 逆にそれがないとそれぞれの部分は文脈から独立して(context independent) 存在するようになる。そしてHowell 先生がトラウマの例として出しているのは次のような例だ。ある男の子が背の高い男性にたたかれる。多分養父だったり実父だったりするだろうが、上級生かもしれない。するとその自己状態は文脈化されずに、ほかの背の高い男性を見ておびえてしまうというのだ。ところが解離の程度が弱い場合には、文脈的に使用できる contextually available ほかの自己状態にサポートしてもらえるであろうという。 このような考えについて Stephen Mitchell もこう言っているという。「精神分析により、より統一された自己が達成されるのはいいが、人格がまじりあうことが、互いに移行する葛藤的な自己をコンテインする能力に優先されるとは思えない。」 Watkins はこんな頼もしいことも言っているという。「それぞれの人格を fuse する必要はない。正常の人格もそうではないのだから」 そしてHowell はかなり本音を語っている。「だいたい、integration という語は問題だ。ラテン語の integer は単位とか単体unit or unity であり、統合という概念はワンパーソン心理学の概念なのだ。」関係論的な立場の人にとっては、一人心理学といわれると「終わって」いるといわているようなものなのだ。
一番大事な文章。「contextual interdependence 文脈的な相互依存という概念は、解離対統一という対立項を回避することができる」。と Howell 先生はおっしゃる。Howell 先生は統合否定論者だといっていいだろう。