2023年1月7日土曜日

精神分析と複雑系 1

精神療法と複雑系

 栄えある学術誌「●●療法」の巻頭言を書かせていただく光栄を得た。そこで改めて精神療法とは何か、という私のこれまでの経験を振り返りたい。

私が米国で精神分析家になったのは2003年である。2004年に帰国して日本精神分析協会でもその資格を認められたのが2005年。続いて訓練分析家になったのはそれあら13年後の2018年のことである。ちなみに訓練分析家とは、いかにも訓練を受けている分析家というニュアンスを与えるが、逆である。精神分析家になるためのトレーニングを受けている先生方(候補生という)の精神分析をさせていただくという大変名誉ある立場であり、いわば精神分析家としてのキャリアーの中では最上位のレベルということになる。 私は現在日本で13名しか存在しない訓練精神分析家の一人として名を連ねているのだ。精神分析の道を選ぶ多くの人が最後にたどり着くこの資格を持っているということを改めて自覚するとどこかに満足感がある。私の自己愛はそれなりに満たされているのだ。しかし同時に私はこのことに後ろめたさもあり、「勘違いしないでほしい」という気持ちにもなる。私はなるべくしてなった訓練分析家とは違うのだ、正真正銘の訓練分析家とは異なるのだということをわかってもらいたくなるのだ。

私が分析のトレーニングを受けたのは米国のカンザス州トピーカというところにある精神分析協会だったが、そこで当時訓練分析家であったそうそうたる先生方の面々を思い浮かべる。そこでの老練の訓練分析家たちはかなり高いハードルをクリアーしてそこに上り詰めていた。いわば精神分析家を主たる稼業として、精神分析家になってからも何例ものケースを扱い、かなりの老境に達してからようやく訓練分析家になったという姿を見ていた。(中にはDr. Glen O Gabbard のように若くして最短コースで上り詰めた例もあったが。)精神分析家になってからそれ以上の地位を目指すということは私の中には全くなかったのである。私の精神科外来の仕事と大学院での教育の仕事でそれどころではなかったというのが正直なところであった。ということで精神分析協会の中でも半ば幽霊会員のようになりつつあった。

「キミも訓練分析家になることが出来るよ。チャレンジしてみたらいいじゃないの」と、分析関係の大先輩A先生から声をかけられたのは2012年ごろだった。私はかつてはAにたいへんにお世話になりその後姿を見ながら精神分析の訓練のために米国に渡ったという経緯がある。候補生→分析家→訓練分析家といういわば出世コースを思い描いていた頃の昔の気持ちがフラッシュバックして「こんな自分でも訓練分析家になれるのか?」という思いでその資格を得るための週4回の分析のケースを再び持ち始めた。それは家庭生活や病院勤務などに様々なしわ寄せを及ぼすこととなったが、気が付くと数年後に私は教育分析家になるための関門をクリアー出来て、晴れて教育分析家になったのである。

さてそこから振り返って何が見えるのか、ということがこの「巻頭言」のテーマだ。

 私が改めて思うのは、精神分析協会というのは一種のヒエラルキーの世界であるということだ。そしてそのヒエラルキーを上り詰めることにはある種の手続きが必要となり、それを踏むことのできた人間が訓練分析家となる。そしてそれとは立派な治療者がそこに上り詰める、ということとは違う力学が働いている。もちろん両者が不一致だと言っているわけではないが、両者は明らかに違う。もし「優れた治療者」があるファクターXを備えているとしたら(実はそんなファクターについてその正体を議論しだすときりがないのであるが、まあ漠然とそんなものを想定することが出来ると私は考えるので、このような仮定をもうけておこう)それをあまり持たない人が十分な知性とモティベーションをもってその「手続き」を踏めば、そしてそれを支えるような時間と資力と家族の支えがあるならば精神分析家に、そしてその上の訓練分析家にもなれるのだ。そしてそのような地位に立った訓練分析家はそのスーパービジョンや訓練分析で権威としての言葉を発することになる。その場合訓練分析家はそのような自分の言葉に込められた権威についてあまり疑問視することがなくなる。なぜなら訓練分析家としてのB先生が、精神分析の候補生や、そのようなトレーニングの素地がほとんどない治療者C先生をスーパービジョンするという構図自体がそのヒエラルキーの中に位置づけられているからだ。そしてそこでは訓練分析家B先生はおそらく高度なレベルで「優れた治療者」(高いファクターXを有する人)として通用し、そのことをもはや疑問視しなくなるからだ。

このようなシステムは問題だろうか? おそらく。しかしトレーニングのシステムを構築する場合、特にほとんどその分析家としての実力を明示する手段がない以上、その実力とは別に、手続きを踏んだ人がヒエラルキーを上り詰めるという側面はついて回るであろう。

私は藤井聡太君のファンだが、将棋の世界のように明白な実力の世界で起きていることを見ているとある種の爽快感がある。「地位の高い棋士」(タイトル保持者、高段者)が「優れた棋士」とまったく一致している世界は分析の世界のようなモヤモヤ感がないために極めてフェアで、かつまた厳しいのである。何しろ永世竜王、永世王位、永世棋王・・・・の羽生さんが、試合に負けるとただの九段になってしまうのである。

2023年1月6日金曜日

発達障害とPD 推敲の推敲

 発達障害とパーソナリティ症(パーソナリティ障害)の鑑別診断のポイントは何か? 私に与えられたこのテーマは、最近しばしば臨床家の間で話題として取り上げられるものの、答えに窮する問いでもある。たしかに私たちは対人関係が希薄で孤立傾向を有する人々に出会う際、このどちらかに迷うことが多い。「しかし発達障害とパーソナリティ症は本来は全く異なるものであり、両者の混同などあっていいのだろうか?」 という声もどこかから聞こえてきそうである。しかし精神疾患は明確な診断基準を有するという考えを捨てるなら、この問題についても意外にシンプルに論じることが出来るかもしれない。

そもそもパーソナリティ障害は「青年期又は成人早期に始まり、長期にわたり変わることなく、苦痛又は障害を引き起こす内的体験及び行動の持続的様式である」(DSM-5)とされてきた。すなわちそれは成育環境に影響されつつ形成され、青年期以降に最終的に成立するものという含みがある。しかしDSM5のⅢにパーソナリティ症の「代替案」として示され、ICD-11において正式に採用されたディメンショナルモデルは、これとは別物という印象を与える。なぜならそれらは健常者を対象として考案された、パーソナリティを構成するいくつかの因子(例えば5因子モデルのそれ)に基づくものであり、多分に先天的、遺伝的なニュアンスを含むことになるからである。

他方で発達障害は、「典型的には発達早期、しばしば小中学校入学前に明らかになる…」(DSM-5)とされ、こちらは先天的な要素が重視される。精神医学の一般常識では発達障害は生まれつきのもので完全な治癒は望めないもの、という含みがある。ただしもちろんその深刻さや社会適応の度合いについては成育環境が大きく関係することになろう。

この様に考えるとディメンショナルモデルでとらえたパーソナリティ症と発達障害は、その病因論の側面からもかなり近縁関係にあることになる。現代において両者の異同や鑑別が議論されるのは無理もないことなのだ。そこで以下に発達障害の中でも自閉スペクトラム障害(以下、ASD)について、パーソナリティ症(以下、PD)との鑑別について論じることにする。

個人的な経験について述べれば、1982年に医師になった私はいわばDSM-Ⅲ(1980年発刊)世代であり、そこでカテゴリカルモデルに従って明確に記載されていたPDの中でも、ボーダーラインPD,自己愛PDなどに並んでスキゾイドPDにはそれなりに関心を覚えた。スキゾイドメカニズムという概念は精神分析で重要な位置を占め、それとボーダーラインとの区別などが重要な論点となっていたのである。英国の対象関係論的なスキゾイドの概念は、口唇愛的な愛情により対象を破壊してしまうことへの不安(フェアバーン)がその基底にあり、アクティブな情緒の存在を前提としていた。

ところがDSM(Ⅲ,Ⅳ・・・)の定義するスキゾイドPDはあたかも感情そのものが欠如しているような描かれ方をしていて、対象関係論的なスキゾイドとは似て非なるものであることが私には気になっていた。DSMではスキゾイドPDは「社会的関係からの離脱および全般的な無関心ならびに対人関係における感情の幅の狭さの広汎なパターンを特徴とする」とされるからだ。つまりDSMのスキゾイドは米国の人気ドラマ「スタートレック」に登場するミスター・スポックを彷彿させるような、人間的な感情が希薄で、そもそも対人関係に関心を持たないロボット的存在として描かれていた。そしてそのスキゾイドという名称が「スキゾフレニア(統合失調症)」との近縁性を示唆していることからも、そのような人々が存在するであろうことにあまり疑問も抱かなかったのだ。ただし実際の臨床場面でこの診断を下したような経験はほとんどなかったのも事実である。そして今から振り返ってみると、その理由は二つ考えられる。

一つは発達障害の中でもASDの概念が脚光を浴びるようになったという事情がある。2000年代以降に広汎性発達障害やアスペルガー障害などの議論が盛んになったわけだが、これらの診断をいったん念頭に置きだすと、かなり多くの患者に(あるいは先輩や同僚に!)当てはまることに気付くようになった。そしていつの間にか、対人関係が希薄で孤立傾向を有する人々について考える際に、まずPDの可能性をうたがうことが習慣化していったのである。そしてその分診断としてスキゾイドPDを考える機会が減ったのだ。そして後述の通り、これは私だけでなく、多くの臨床家が体験している事でもあった。

第二には、DSMのスキゾイドPDに該当する患者そのものが少ないのではないかと考えるようになったという私の臨床体験があった。その頃臨床の場としていた米国で出会う一見スキゾイド風の患者の大半は、その内側に回避的、対人恐怖的な不安や懸念を持っているものである。彼らはそれなりに他者と関わることを望んでいるものの、それに伴うストレスや恥の感情に悩んでいるのである。つまりミスター・スポックのような人は現実にはあまり出会うことがなかったのである。

ちなみにこの第二の問題は2013年のDSM-5の作成過程でも実際に問題となっていた。識者の中には、そもそもスキゾイドPDという診断がまれであり、削除されるべきとの案もあったという。そして結局上述の「代替案」からはスキゾイドPDの姿が消えるかわりにそれが「感情制限型」と「引きこもり型」に解体され、それぞれをスキゾタイパルPDと回避性PDに合流させるアイデアが採用されたという(織部直弥、鬼塚俊明、シゾイドパーソナリティ障害/スキゾイドパーソナリティ DSM-5を読み解く 5 神経認知障害群、パーソナリティ障害群、性別違和、パラフィリア障害群、性機能不全群 神庭重信、池田学 編 中山書店 2014 pp171-174.)。 

さて以上の私の体験と同時に、精神医学ではASDPDをめぐりもう一つの変化が起きていたのだ。それは上述のスキゾタイパルPDが、なんとPDから独立して統合失調症関連障害として位置づけられることとなったのだ。DSM-5では「統合失調症スペクトラム障害及びほかの精神病性障害群」の一つとしてスキゾタイパルPDが加わり、ICD-11では「統合失調症又はその他の一次性精神病(症) Primary Psychotic Disorders」 の一つにschizotypal disorder スキゾタイパル症(つまりパーソナリティ症ではなく)として掲載されているのだ。この論考はASDとスキゾイドPDについて主として論じるつもりであるが、ここに出てきたスキゾタイパルPDについても述べておかなくてはならない。なぜならこのPDASDとの鑑別で最近注目を集める形になっているからだ。

スキゾタイパルPDDSM-Ⅲ(1980)当初から10PDの一つとして掲載されていたものである。これは「関係念慮、奇妙な/魔術的思考、錯覚、疑い深さ、親しい友人の欠如、過剰な社交不安」(DSM-5)を特徴とするものとして、つまり孤立傾向をのぞいたらスキゾイドの定義とはかなり異なり、統合失調症の病前性格や前駆症状という印象を与える(実際DSM-5では統合失調症の病前に見られる状態についても「スキゾタイパルPD(病前)」として分類できるようになっている)。ちなみにこのスキゾタイパルPDの特徴として社交不安があげられているのは注目に値する。つまりスキゾイドPDはミスター・スポックよりは、恥の感情に悩む回避型PD的な特徴を持つことになり、上述の分類の「感情制限型」スキゾイドPDとは必ずしも言えなくなる。結局ミスター・スポックはどこに分類されるべきかがますますわからなくなってくるのだ。

ところで私個人としてはASDとスキゾタイパルPDとの相関について頭を悩ませることはなかった。しかしDSM-5ICD-11においても海外の文献にもASDの鑑別診断としてスキゾタイパルPDが言及されるようになってきている。そこでこの問題についても本稿で触れる必要がある。つまり鑑別診断として主として俎上にあるのはASD,スキゾイドPD,スキゾタイパル(PDということになる。

ところで世界的な診断基準ではASDPDとの鑑別についてどのような立場を示しているだろうか?DSM-52013)ではASDの鑑別診断としてPDは意外にも掲載されていない。しかしPDの記載にはスキゾイドPDとスキゾタイパルPDについてのみ ASDとの異同に関する言及がある。またICD-112022)ではASDとの鑑別としてスキゾタイパルDPD一般、社交不安症を挙げている。ところがそれらの記載を見ても、両者の厳密な鑑別を求めているわけでもなく、むしろこの問題は曖昧な形で扱われているという印象を受ける。

ここで海外の文献もいくつか参照してみよう。ASDPDとの違いについての研究は散見されるが、そこで強調されることの一つは、ToM(セオリーオブマインド、心の理論)ないしは社会的認知(social cognition SC))との関連である。ToMとは要するに他人の心の状態をどの程度理解できるかという問題である。ある研究はASDとスキゾイドPD、スキゾタイパルPDとの鑑別が一番難しいというDSM-5の記載を受けて、両者における社会的認知の欠陥の程度を調べた。Booules-Katri らはadvanced ToM test を、ASDとスキゾイド/スキゾタイパルPD、コントロール群に実施した。このadvanced ToMというテストは情緒コンポーネントと認知コンポーネントに分かれるが、ASDでは両方が低かったのに対し、スキゾイド/スキゾタイパルPDでは明らかに認知コンポーネントが低かったという。またStanfield 達はfMRIで社会的認知を調べ、扁桃核の興奮がスキゾタイパルPDで見られたという。そしてこれはASDではSCが低く、スキゾイドでは高いという説だけでなく、スキゾタイパルPDでも感情は動いているということを示していることになる。

またASDPDとの関連ではボーダーラインPDも話題になる。(ちなみに私はこれも以前から疑っていたことである。ボーダーラインPDの人で、特に他罰傾向の強い人たちには、発達障害の傾向があるのではないかと思うことが前からよくあった。)Gordon, Lewis et al の研究によれば、「ボーダーラインとASDの両者とも他者の気持ちを理解したり、対人機能を発揮したりすることが苦手だ」たしかに。「そこで624人のASDの人と、23人のボーダーラインPDの人と16人の併存症の人、そしてたくさんのコントロール群を対象に、AQテストと共感性質問票EQempathy quotient)、システム化質問票―改良版SQ-Rを行ってみた。」

するとAQテストでは、ボーダーラインPDの人はASDの人たちほどではないが、コントロール群よりも、そして併存症群よりも、高いスコアを示した。そしてEQではボーダーラインPDの人は併存症の人とASD の人よりは高い点数を示した。またSQRについては両群がコントロール群より高かったという。つまりはボーダーラインPDASDのようにAQが高く、システム化する傾向(つまりある種のこだわりの傾向)にあり、両者のオーバーラップは明らかだということである。

 

 

 

考察および結論

私がこれまでに示した考えをまとめよう。私は他人に関心がない、人との関係で心が動かないという人はおそらく例外的であり、「関係が希薄で孤立傾向のある人」の大多数は、他者との関係の中で不安や恐れを抱き、そのしんどさの為に人から距離を置くのだ。もちろん人嫌いで孤独を好む人もいる。でもそれは他人に関心がない、というのとは違うのである。他者で膨大なエネルギーを費やすということを選択していないだけなのだ。

DSM的なスキゾイドPDDSM-5の「代替案」でも外され、それまでスキゾイドPDとして分類されてきた人々の一部は社交不安傾向を帯びた回避型PDに流れたことも、またもう一部が流れ着いた先のスキゾタイパルPDが「過剰な社交不安」を特徴としてうたわれていることもそれを表していると言えるだろう。

そしてさらに複雑なのは、人はたとえ社交不安を感じながらも、他者から視線を浴びたり認められたりすることの快感も同時に持ち合わせていることが多いということだ。そしてそれは「関係が希薄で孤立傾向のある人」を構成するASDPD(スキゾイド、スキゾタイパル、ボーダーライン)においても同様である。ただしそこで私が考えるのは、ASDPD群では異なるタイプの対人スキルの問題を抱えているものと考える。

ここで私は対人スキルとして(1),(2)の二つを提唱したい。対人スキル(1)は対人場面において場の「空気」を読む能力である。ここでいう「空気」とは対人間に広がる心理的な空間であり、そこに広がる「しらけ」という空隙を互いがどの様に扱うかをめぐる心理戦である。そして「空気」を読むには相手の心に何が起きているかを感じ取る能力が必要となる。これが対人スキルの重要な要素なのだ。それが不足していると、相手もこちらの意図を測りかねて当惑し、対人場面は余計に居心地の悪いものとなる。「空気」を読めなくてもその居心地の悪さだけは両者に伝わり、対人場面はより苦痛に満ちたものとなる。

もう一つの対人スキル(2)は、より直接的に対人恐怖心性と結びついている。人には他者に見られても構わない(見せたい)部分と見せることを望まない(隠したい、恥と感じる)部分がある。そして前者だけを相手に見せ、後者を巧みに隠すことが出来れば、対人場面での恐怖や不安は減少し、それだけ高い対人スキルを備えていることになる。それが上手く行かなければ人と接することで恥ずべき自分の漏れ出しが生じてしまうのでそれを回避せざるを得ない。ただし人によってはあまり他者に見せたいという願望がない場合、つまり自己愛的なニーズの低い場合もあり、その場合には他人と交わることにそもそも関心を持たなくなり、結果的にドクタースポック型に近づくのであろう。

以上論じたうえで最初の質問に戻る。対人関係が希薄で孤立傾向のある人々について、ASDPDかという鑑別診断のポイントは何か?

最近の研究が示唆する通り、ASDでは社会的認知が低く、ToMが十分成立していない可能性がある。つまり上記の対人スキルのうち「空気」を読む能力が十分でない。いわゆるスキゾイド/スキゾタイパルPDは、基本的には空気がある程度は読めても、もう一つの対人スキルが低く、恥ずべき自分の漏れ出しの制御が上手く行かず、そのために対人場面をストレスと感じる。

2023年1月5日木曜日

意識はどこから来るのか 3

 ソフトウェアかハードウェアか?

今この頃のことを思 い出しながら、私がどうやって脳科学に行きついたのかを考えるうちに一つのたとえ話に行きついた。これはコンピューターのソフトウェアとハードウェアの関係に似ているのだ。脳というハードウェアに心というソフトウェアがインストールされているとしよう。少なくとも私はそう考えるとぴったりするようなイメージを持っていた。パソコンにこれほどなじみ深くなった私達なら容易に理解できる比喩ではないか。私はパソコンのディスプレイに展開される様々なイメージや音に魅了され、そのソフトウェアはどのようなプログラムにより構成されているかを知ろうとする。無論そのプログラムは複雑すぎてそこに流れる普遍的な原則は知りようがない。何しろそのプログラムを組んだのは誰なのか想像もつかないし、自然に組みあがったものかもしれない。とにかくとてつもなく複雑であり、どの人間も二人として同じプログラムを持っていないのである。

ただそのソフトウェアを研究する際に、おそらく私はそれを動かすPCのハードウェアを構成する細かな部品一つ一つに興味を示すことはないだろう。それは心というソフトウェアを知ることには直接つながらないだろうからだ。例えばCPUを冷却するファンにしても、その回転数がソフトウェアに影響を与えるようには思えない。その様な影響があるとしたら、ファンが壊れてCPUが熱を持ってしまい、ソフト自体が動かなくなってしまうことくらいである。

さて私が馴染み深く思った精神分析理論も、快や不快の原則も、そしてファントム空間論も、そのソフトウェアの動き方を解明する上での有用な仮説を提案してくれているように感じさせた。それは心の本質により迫るような気持ちを私たちに起こさせたのだ。

フロイトの局所論モデルも構造論モデルも、いわばソフトウェアの仕組みを説明するためのものだったということが出来るだろう。フロイトが脳の神経細胞の在り方から心の理論を打ち立てようとして失敗した「科学的心理学草稿」(1895年)の後に、それとは全く異なる心の理論を描いた時、それは脳のハードウェアの議論からソフトウェアの議論へとスイッチしたものとしてとらえられるのだ。そしておそらく私の脳に対する関心も同様のものだった。ところがそれから私が知るようになったのは、脳に関してはソフトウェアもハードウェアも区別がつかないような存在であるということである。ハードウェアとしての脳がそのまま心を構成しているのである。もはや両者を区別する意味は存在しない。

ソフトウェア=ハードウェアとはどういうことか。例えば脳の働きを画像で見ることが出来るようになってきている。すると例えばfMRIによりみることのできる脳の興奮のパターンは、その時心が何を体験してるかにかなり対応している。脳の局所的な興奮のパターン(ハードウェア)は、その人が何を体験しているか(ソフトウェア)をある程度言い当てることが出来るほどに対応しているのである

2023年1月4日水曜日

発達障害とPD 推敲 3

 考察および結論

私がこれまでに示した考えをまとめよう。私は他人に関心がない、人との関係で心が動かないという人はおそらく例外的であり、「関係が希薄で孤立傾向のある人」の大多数は、他者との関係の中で不安や恐れを抱き、そのしんどさの為に人から距離を置くのだ。ミスタースポックのようなロボットのような人間は、皆無というわけではないが少ないのだ。(ひょっとしたらサイコパスのごく一部なそうなのかもしれない。)もちろん人嫌いで孤独を好む人もいる。でもそれは他人に関心がない、というのとは違うのである。他者で膨大なエネルギーを費やすということを選択していないだけなのだ。そしてさらに複雑なのは、人は「視線を浴びることの快感」も持ち合わせていることが一般的であるということだ。その背景に多く見られるのが対人恐怖心性なのである。

ここで私は対人スキルとして12の二つを提唱したい。一つ(対人スキル1)は対人場面において場の「空気」を読む能力である。ここでいう「空気」とは対人間に広がる心理的な空間であり、そこに広がる「しらけ」という空隙を互いがどの様に扱うかをめぐる心理戦である。そして「空気」を読むには相手の心に何が起きているかを感じ取る能力が必要となる。これも対人スキルの重要な要素なのだ。それが不足していると、相手もこちらの意図を測りかねて当惑し、対人場面は余計に居心地の悪いものとなる。「空気」を読めなくてもその居心地の悪さだけは当人に伝わり、対人場面はより苦痛に満ちたものとなる。

もう一つの対人スキル2は、対人恐怖心性と結びついている。人には他者に見られても構わない(見せたい)部分と見せることを望まない(隠したい、恥と感じる)部分がある。そして前者だけを相手に見せ、後者を巧みに隠すことが出来れば、その人はそれだけ高い対人スキルを備えていることになる。それが上手く行かなければ人と接することで恥ずべき自分の漏れ出しが生じてしまうのでそれを回避せざるを得ない。ただし人によってはあまり他者に見せたいという願望がない場合、つまり自己愛的なニーズの低い場合もあり、その場合には他人と交わることにそもそも関心を持たなくなり、結果的にドクタースポック型に近づくのであろう。

以上論じたうえで最初の質問に戻る。対人関係が希薄で孤立傾向のある人々について、ASDPDかという鑑別診断のポイントは何か?

最近の研究が示唆する通り、ASDでは社会的認知が低く、ToMが十分成立していない可能性がある。つまり上記の対人スキルのうち「空気」を読む能力が十分でない。いわゆるスキゾイドPDは、基本的には空気がある程度は読めても、もう一つの対人スキルが低く、恥ずべき自分の漏れ出しの制御が上手く行かず、そのために対人場面をストレスと感じる。

2023年1月3日火曜日

発達障害とPD 推敲 2

 さて以上の私の体験と同時に、精神医学ではASDPDをめぐりもう一つの変化が起きていた。いま述べたスキゾタイパルPDPDから独立して統合失調症関連障害として位置づけられることとなったのだ。ICD-11では「統合失調症又はその他の一次性精神症Primary Psychotic Disorders の一つに、schizotypal disorder スキゾタイパル症(パーソナリティ症ではなく)として掲載されているのだ。ちなみにこのスキゾタイパルPDとは「関係念慮、奇妙な/魔術的思考、錯覚、疑い深さ、親しい友人の欠如、過剰な社交不安」を特徴とするものとして、DSM-Ⅲ(1980)当初から10PDの一つとして掲載されていたものである。つまり孤立傾向をのぞいたらかなりスキゾイドの定義とは異なり、統合失調症の一歩手前という印象だ(実際DSM-5では統合失調症の病前に見られる状態についても「統合失調型PD(病前)」としてこの存在を認定することが出来るようになっている)。ところで私個人としては正直このスキゾタイパルPDASDとの相関について頭を悩ませることはなかった。しかし欧米の文献ではこの両者の区別についての研究も散見されるので、この問題についても本稿で触れる必要がある。このスキゾタイパルPDの特徴として社交不安が上げられているのは注目に値する。つまりスキゾイドPDはドクタースポックよりは、恥の感情に悩む回避型PD的な特徴を持つことになり、先に述べた私の臨床的な体験の第二番目に関連してくるからだ。

ところで世界的な診断基準ではASDPDとの鑑別についてどのような立場を示しているだろうか?DSM-52013)ではASDの鑑別診断としてPDは意外にも掲載されていない。しかしPDの記載にはスキゾイドPDとスキゾタイパルPDについてのみ ASDとの異同に関する言及がある。またICD-112022)ではASDとの鑑別としてスキゾタイパルDPD一般、社交不安症を挙げている。しかしそれらの記載を見ても、両者の厳密な鑑別を求めているわけでもなく、むしろこの問題は曖昧な形で扱われているという印象を受ける。

この言い方だとやはりしっかり区別、鑑別すべしというメッセージにもとれる。

ここで海外の文献もいくつか参照してみよう。スキゾイドPDASDの違いについての研究は散見されるが、そこで強調されることの一つは、ToM(セオリーオブマインド、心の理論)ないしは社会的認知(social cognition SC))との関連である。ToMとは要するに他人の心の状態をどの程度理解できるかという問題である。ある研究はASDとスキゾイドPD、スキゾタイパルPDとの鑑別が一番難しいというDSM-5の記載を受けて、両者における社会的認知の欠陥の程度を調べた。Booules-Katri らはadvanced ToM test を、ASDとスキゾイド/スキゾタイパルPD、コントロール群に実施した。このadvanced ToMというテストは情緒コンポーネントと認知コンポーネントに分かれるが、ASDでは両方が低かったのに対し、スキゾイド/スキゾタイパルPDでは明らかに認知コンポーネントが低かったという。またStanfield 達はfMRIで社会的認知を調べ、扁桃核の興奮がスキゾイドタイパルPDで見られたという。そしてこれはASDではSCが低く、スキゾイドでは高いという説だけでなく、スキゾイドでも感情は動いているということを示していることになる。

またASDPDとの関連ではBPDも話題になる。ちなみに私はこれも以前から疑っていたことである。BPDの人で、特に他罰傾向の強い人たちには、発達障害の傾向があるのではないかと思うことが前からよくあった。研究③によれば、「ボーダーラインとASDの両者とも他者の気持ちを理解したり、対人機能を発揮したりすることが苦手だ」たしかに。「そこで624人のASDの人と、23人のBPDの人と16人の併存症の人、そしてたくさんのコントロール群を対象に、AQテストと共感性質問票EQempathy quotient)、システム化質問票―改良版SQ-Rを行ってみた。」

するとAQテストでは、BPDの人はASDの人たちほどではないが、コントロール群よりも、そして併存症群よりも、高いスコアを示した。そしてEQではBPDの人は併存症の人とASD の人よりは高い点数を示した。またSQRについては両群がコントロール群より高かったという。つまりはBPDASDのようにAQが高く、システム化する傾向(つまりある種のこだわりの傾向)にあり、両者のオーバーラップは明らかだということである。

2023年1月2日月曜日

発達障害とPD 推敲 1

 発達障害とパーソナリティ障害(パーソナリティ症、以下PD)の鑑別診断のポイントは何か? 私が与えられたこのテーマは、最近しばしば臨床家の間で話題として取り上げられ、またある意味では答えに窮する問いである。しかし診断は明確な定義を持ち、それに該当するケースを的確に拾い上げるという考えを捨てるなら、意外に簡単に論じることが出来るかもしれない。

そもそもPDは「青年期又は成人早期に始まり、長期にわたり変わることなく、苦痛又は障害を引き起こす内的体験及び行動の持続的様式である」(DSM-5)とされてきた。すなわちそれは成育環境に影響されつつ青年期以降に固まるものという含みがある。しかしDSM5における代替案として、そしてICD-11において正式に採用されたディメンショナルモデルは、これとは別物という印象を与える。なぜならそれらは健常者を対象として考案された、パーソナリティを構成するいくつかの因子(例えば5因子モデルのそれ)に基づくものであり、多分に先天的、遺伝的なニュアンスを含むことになるからである。

他方で発達障害は、「典型的には発達早期、しばしば小中学校入学前に明らかになる…」(DSM-5)とされ、こちらはもっぱら先天的な要素が重視されるのは当然であろう。精神医学の一般常識では発達障害は生まれつきのもので治癒は望めないもの、という含みがある。ただしもちろんその深刻さの度合いや社会適応については恐らく成育環境が大きく関係することになろう。

この様に考えるとディメンショナルモデルでとらえたPDと発達障害は、理論的に考えてもかなりの共通項を持つことになる。その意味で現代において両者の異同や鑑別が議論されるのは当然のことなのだ。

個人的なことを言えば、1982年に医師になった私はDSM-Ⅲ(1980年発刊)世代であり、そこで明確に記載されていたPDの中でも、ボーダーラインPD,自己愛PDなどに並んでスキゾイドPDにはそれなりに関心を持った。スキゾイドメカニズムという概念は精神分析で重要な位置を占め、それとボーダーラインとの区別などが重要な論点となったのである。英国の対象関係論的なスキゾイドの概念は、口唇愛的な愛情により対象を破壊してしまうことへの不安(フェアバーン)がその基底にあり、見えにくいがアクティブな情緒の存在を前提としていた。

ところがDSM(Ⅲ,Ⅳ・・・)の定義するスキゾイドPDはあたかも感情そのものが欠如しているような描かれ方をしていて、対象関係論的なスキゾイドとは似て非なるものであることが私には興味深かった。前者のスキゾイドは米国の人気ドラマ「スタートレック」に登場するドクタースポックを彷彿させるような、人間的な感情が希薄で、そもそも対人関係に関心を持たないロボット的存在として描かれていることに興味を持ち、またその名称が「スキゾフレニア(統合失調症)」の近縁性を含意していることも理解し、そのことにあまり疑問も抱かなかったのだ。つまりこの概念を無批判に受け入れていたのだ。ただし実際の臨床場面でこの診断を下すことが意外に少ないことも確かであった。

今から振り返ってみると、DSM的なスキゾイドPDがあまり診断されないことには二つの理由があった。

一つはPDの中でも特に自閉スペクトラム症の概念が脚光を浴びるようになったからである。2000年代以降にアスペルガー障害などのPDが盛んに論じられるようになり、この診断をいったん念頭に置きだすと、かなり多くの患者に(あるいは先輩や同僚に!)当てはまることに多くの臨床家が気付くようになった。そしていつの間にか、対人関係や学業上の問題を考える際に、まずPDの可能性はないかと考えることが習慣化し始めていることを自覚するようになったのである。そしてその分診断としてスキゾイドPDを考える機会が減ったのだ。もちろんこれは私だけでなく、多くの臨床家が体験している事でもあった。

もう一つはDSMのスキゾイドPDに該当する患者そのものが少ないのではないかという私の臨床体験があった。臨床的に出会う一見スキゾイド風の患者は実は回避的、対人恐怖的な不安や懸念を持っており、それなりに他者と関わることを望んでいるものの、それに伴うストレスや恥の感情に悩んでいる人たちが大半であるという理解が生まれた。つまりDSM的なスキゾイド、人に関心を持たないドクタースポックのような人は現実にはあまり出会うことがなかったのである。

ちなみにこの問題はDSM-5の作成過程でも実際に米国で問題となっていた。識者の中には、そもそもスキゾイドPDという診断がまれであり、DSM-5では削除されるべきとの案もあったという。そして結局それを感情制限型(→スキゾタイパルPD)と引きこもり型(→回避性PD)に解体するアイデアが採用されたというニュアンスがあるという(織部直弥、鬼塚俊明、シゾイドパーソナリティ障害/スキゾイドパーソナリティ DSM-5を読み解く 5 神経認知障害群、パーソナリティ障害群、性別違和、パラフィリア障害群、性機能不全群 神庭重信、池田学 編 中山書店 2014 pp171-174.

2023年1月1日日曜日

発達障害とPD  15

今日は世の中は元日である。

昨日は午前中3時間ほどかけて部屋を整理したが、整理というよりごみを捨てただけという感じである。整理が出来ないのは子供のころからの悪癖である。最近「よくそんなにちゃんとできますね」と言われることが出来たが、それは必要に迫られて手に入れた本をスキャンしては破棄するということだろうか。幸い私にとって必要な書類や書籍はアイパッドの中に整然と並んでいる。でもこれは、紙のまま持ち続けたらいよいよ収拾がつかなくなることをどこかで知っているからで、かろうじて防衛機制が働いていることを意味する。

ともあれPDFで本を読んで気になって印をつけるということをいわば強制的に身に着けさせてくれたのは、私の8年間の東京―京都往復生活であった。新幹線に何冊も本を持ち込むのはさすがにキツイ。この一種の行動療法の機会がなければ、私はまだきっと言っていたはずである。「やはり紙の本をめくって読まなきゃ、頭に入らないよね・・・」

ともあれ今年もよろしくお願いいたします。

発達障害とPD 続き

ところでそろそろ推敲段階と思っていたこの論文(というより短いエッセイ)だが、少し書き換えなくてはならない。というのもいわゆるスキゾタイパル(統合失調型)PDの方がASDとの鑑別で論じられることが多いというのが分かったのである。つまりこのエッセイの中ではすでに「感情制限型スキゾイド」として登場している。スキゾタイパルは、DSMの定義としては、関係念慮、奇妙な/魔術的思考、錯覚、疑い深さ、親しい友人の欠如、過剰な社交不安である。つまり孤立傾向をのぞいたらかなりスキゾイドの定義とは異なり、統合失調症の一歩手前という印象だ。実際それとの関連は想定されており、DSMではそれが病前にあれば、統合失調型PD(病前)と表示するという指示がある。私はこれについては実際に出会うが、スキゾイドやASDと一緒にするという発想はあまりなかった。統合失調症と結びつけて考えていたからだ。そして興味深いのは、DSMによればスキゾタイパルは社交不安がある、ということなのだ。とすればスキゾタイパルはまさに「感情制限」を行っているのであり、こうなるとますますドクタースポックは存在しなくなってくるのだ。