2022年12月26日月曜日

快感原則 1

 脳科学と快楽原則

 私たちの心は脳の中に宿っている。その点はいいだろう。そしてその心は様々な情報処理を行っている。一輪のバラを見て「素敵な赤いバラだ!」と感じるとき、視神経から得られた情報は後頭葉の視覚野を経由し、視床で情報が統合されて「赤」という感じ(クオリア)が生まれ、それに伴う感情としての「素敵だ!」が生まれる。後者にはおそらく快や不快を生み出す報酬系が大きくかかわっているだろう。まずここまではいい。何となく高度に発達したコンピューターなら代行してくれそうである。

 ところがややこしいことに脳は出力もする。「素敵な赤いバラだ」という情報処理には留まらない。そのバラの匂いを嗅ぎ、それを花瓶に差し、それを鑑賞するという行動を起こすだろう。そう、脳は筋肉による運動にもかかわるのだ。もちろんそれぞれの行動には思考が裏打ちされているかもしれない。「このバラの香りをかいでみよう」とか「花瓶に差して時々眺めよう」などだ。しかし時にはそのようなことをいちいち考えることなく、においをかぐ、花瓶を用意するといった行動を起こす。そしてそこに極めて重要な決まりごとがある。それが「自分にとって快感を与えてくれるか」ということである。私たちの行動に正解と不正解があるとすれば、快感をもたらすなら正解、(予想に反した)不快をもたらすなら不正解ということになる。そしてこれは生命体が持っている普遍的な原則だ。これを「快感原則」という。もちろんそのようなことは極めて常識的で、私が初めて提唱しているわけではない。そして精神療法の世界では、かのフロイトがこれを「快感原則」という呼び名で呼んだのだ。そしてそれを忠実に遂行しているのが、私たちの脳である。

そこで大問題。なぜ快感原則は成り立つのだろうか? 実はこれは心とは何かということと同じくらい込み入っているのだ。誰も正解を知らない。しかしその候補はある。それを今から説明しよう。

2022年12月25日日曜日

発達障害とPD 9

 ということでPDDDの鑑別をどうするのか。幼少時からすでに片鱗が見られるとしたらDD. PDは小さい頃は特に人嫌いということはないであろう。対人緊張は思春期以降目立ってくるからだ。そして場の空気が読めるか読めないか。何か表にしたくなった。反対意見も多いであろうが、一応こんな感じになる。

 

ASD

スキゾイド

場の空気

読むのが苦手

読める

心の理論

あまり成立していない

通常レベルで成立

対人スキル

低い

ある程度ある

対人状況(幼少時)

孤立傾向(遊び方がわからず)

友達と遊ぶことはできる

対人状況

(思春期以降)

 

孤立傾向(何かに没頭していることが多い)

孤立(一人の方が気が楽なため)

人と交わりたい欲求

普通にある。

普通にある。

対人緊張

ある程度ある

非常に強い

 

 

 

2022年12月24日土曜日

発達障害とPD 8

 さて以上の前提の上で改めて定義を見直してみよう。スキゾイドのエッセンスは以下のようなものだ。DSMでは「スキゾイドパーソナリティ障害は,社会的関係からの離脱および全般的な無関心ならびに対人関係における感情の幅の狭さの広汎なパターンを特徴とする。」となる。他方ASDについては同じくDSMでは「相互の対人的、情緒的関係の欠落、異常な近づき方、会話やお喋りの出来なさ、興味、情動、感情を共有することの難しさ。対人的相互反応で非言語的コミュニケーション行動をとることの欠如、人間関係を発展させ、維持し、それを理解することの欠如。

こうして見直すと、両者はかなり異なる臨床像を示すことになる。ちょっと特徴を抽出してみるならば、スキゾイドでは、対人スキルを持たないというわけではない。しかし人と交わることの楽しみが感じられないので、そこに関心を持ったりエネルギーを割いたりせず、むしろ一人でいる方を選択する。それに比べてASDでは本人は人と交わりたいがそのスキルが伴わずに上手く交われず、その楽しみを体験できずに寂しい思いをする。つまり両者は社会性の交流social interactionが上手く行かないが、その仕組みが違うのだ。

しかし上記の①、②などの研究が示しているのはスキゾイドの、上記とは少し違う病像だ。私なら以下のように書き換える必要があると考える。

「スキゾイドでは、対人スキルを持たないというわけではない。むしろ人と交わることにもある程度興味があるだろう。しかしそこに使うべきエネルギーが必要なので、むしろ一人でいる方を選択するのだ。」

つまりスキゾイドは人に対して心が動かないわけではないが、人に関わるエネルギーが多いので、結局引きこもってしまうという見方である。そしてそれは研究①、②が示している事でもあると思う。①にあるように、スキゾイドはしっかり扁桃核は興奮し、つまりは対人関係で気持ちが揺れているのだ。そして②に見られるように、ASDの人もスキゾイドの人も不安を共有しているのだ。

ここでもう一言いえば、スキゾイドの人たちは結局は人嫌いなのではなく、シャイなのだ。

2022年12月23日金曜日

発達障害とPD 7

 あと二つの文献も見てみる。

    はどうだろう?スキゾタイプ性 schizotypy ASDの関連についての研究という、まさに直球の論文だ。こう書かれている。「両者の区別は難しい。なぜなら両者とも社交  social relationship と社会性の交流 social interaction に問題があるからだ。」そうそう、そこを知りたいの。そこでこの研究はASDの基準を満たす110人に、スキゾタイパルPDのスケール(SPQ-BR)その他たくさんのテストをしてもらったという。そしてASDの人で抑うつや不安が高い人はスキゾタイプ性が高く、SPQ-BRの高次の概念構成(陽性、陰性スキゾタイパル性、disorganization, 社交不安、低い quality of life)においてASDとの関連が高かったという。つまりASDの人たちはスキゾタイプ性も高いという、ある意味では予想していた結果が得られたという。(ただしよく考えるとスキゾタイプ性とは、魔術的な思考、錯覚など、かなり精神病性の要素を持つ群ということになり、スキゾイド性とはかなり異なるものでもある。ここは注意して論じたい。)

 ③はボーダーラインとASDの関連についての論文だが、これも見てみよう。これも以前から私が疑っていたことである。BPDの人で特に他罰傾向の強い人たちには発達障害の傾向があるのではないかと思うことが前からよくあった。そこでざっと読んでみると、「両者とも他者の気持ちを理解したり、対人機能を発揮したりすることが苦手だ」たしかに。「そこで624人のASDの人と、23人のBPDの人と16人の併存症の人、そしてたくさんのコントロール群を対象に、AQテストと共感性質問票EQempathy quotient)、システム化質問票―改良版SQ-Rを行ってみた。」

するとAQテストでは、BPDの人はASDの人たちほどではないが、コントロール群よりも、そして併存症群よりも、高いスコアを示した。そしてEQではBPDの人は併存症の人とASD の人よりは高い点数を示した。またSQRについては両群がコントロール群より高かったという。つまりはBPDASDのようにAQが高く、システム化する傾向にあり、両者のオーバーラップは明らかだということになる。これも予測通り。でもBPDの人はシステム化が高く、すなわちASD的な意味で「こだわりが強い」というのはこれまであまり考えてこなかった。ためになった。

2022年12月22日木曜日

発達障害とPD 6

  ところでDSM5ICD11ではこのPDDDの鑑別についてどのような立場を示しているだろうか?しかしそれらの診断基準を見てもあまり明確な回答は得られない。これらの診断基準は、両者の厳密な鑑別を求めているわけでもなく、またそれらの共存を禁じてもない。つまりこの問題は曖昧な形で扱われているのである。
 DSM-52013)では、ASDPDの中でもA群のスキゾイドPDや統合失調型PDとの区別は難しいと認めている。ただしASDは社交や情動的な行動及び興味の点でより障害されているとしている。またICD-112022)では長期的な精神科診断もPDのような表れ方をするとし、その例としてASD、スキゾイドPD, 複雑性PTSD 、解離性同一性症などを挙げたうえで、これらがPDと一緒に診断されることをあまり推奨していない。つまりASDPDの診断が共存することは「薦められてはいない」のである。

ここで海外の文献もいくつか参照してみよう。

    Rinaldi, C, Attanasio, M, Valenti, M et al. (2021) Autism spectrum disorder and personality disorders: Comorbidity and differential diagnosis J Psychiatr. 11(12): 1366-1386

    Klang, A., Westerberg, B., Humble, MB, and Bejerot, S. (2022) The impact of schizotypy on quality of life among adults with autism spectrum disorder BMC Psychiatry (2022) 22:205

    Chris Gordon, Mark Lewis, David Knight et al (2020) Differentiating between borderline personality disorder and autism spectrum disorder. 23 (3) 22-26.

 ①によれば、結局クラスターAでいえば、ASDとスキゾイド、スキゾタイパルとの鑑別が一番難しいとする。もちろんそんなことは分かっている。そこでのポイントはsocial cognition SCdeficit 社会的認知の欠陥)の違いだという。このSCの中でも注目されるのがいわゆるToM(セオリーオブマインド)、手っ取り早く言えば、どの程度他人の気持ちがわかるか、だ。Boules-Katri は advanced ToM test を、ASDとスキゾイド/スキゾタイパル、そしてコントロール群に実施した。このテストは情緒コンポーネントと認知コンポーネントに分かれるが、ASDでは両方が低かったのに対し、スキゾイド/スキゾタイパルでは明らかに認知コンポーネントが低かったという。またStanfiled 達はなんとfMRIで社会的認知を調べ、扁桃核の興奮がスキゾイド/スキゾタイパルで見られたという。そしてこれはASDではSCが低く、スキゾ…では高いという説に一致するという。つまり何らかの差があり、ASDではやはりSCが低いのに比べ、スキゾ…では対人関係で苦悩するという図式がおおむね妥当であるという。

2022年12月21日水曜日

ICD-11における解離症

 ある学会発表のための抄録を書いた。

 解離症はその診断や治療に関して、いまだに精神科医により異なる見解が示されることの多い精神障害である。1980年にDSM-Ⅲに掲載されて以来、幾つかの変遷があり、ICD-11においてそれまでの定義(2013年のDSM-5も含む)からいくつかの変更点が加えられ、より一貫性を有する臨床的に有用な診断基準に至ったと考えられる。ICD-10 からの変更点としては、解離症の分類が大幅に改良され、それまでは「その他の解離性障害」のもとに多重パーソナリティ障害として位置づけられていた解離性同一性症が一つの独立した診断として示され、その不全形ともいえる「部分的解離性同一性症」も加えられたこと、また解離性遁走が解離性健忘の下位診断として捉えなおされたこと等が挙げられる。また従来の転換症が解離症の一つとして位置づけられている点はICD-10 と変わらないが、転換 conversionという表現は消えて「解離性神経学的症状症」という表現となったことも目新しい点である。またICD-10ではF48.1として解離症とは別に分類されていた離人症と現実感喪失症が解離症に組み込まれた。さらに解離症に分類されてはいないながらも、解離性の症状を示すいくつかの精神障害もある。PTSDにおいては解離性フラッシュバックという表現がなされ、新たに加えられたCPTSDとともにトラウマ関連障害における解離症状が明確に示された。またパーソナリティ症における特性の一つであるボーダーラインパターンにも、DSM-5に準じて「一過性の解離症状または精神病様の特徴」が記載されている。

 

2022年12月20日火曜日

発達障害とPD 5

 発達障害(DD)とパーソナリティ障害(パーソナリティ症、以下PD)の鑑別診断のポイントは何か? 私が与えられたこのテーマは、最近しばしば話題として取り上げられ、またある意味では答えに窮する問いである。しかし診断がある極めて明確な定義を持ったゆるぎない体系であるという考えを捨てるなら、意外に簡単に論じることが出来るかもしれない。

そもそもPDは「青年期又は成人早期に始まり、長期にわたり変わることなく、苦痛又は障害を引き起こす内的体験及び行動の持続的様式である」(DSM-5)とされてきた。すなわちそれは成育環境に影響されつつ青年期以降に固まるものという含みがある。しかしDSM5における代替案として、そしてICD-11において正式に採用されたディメンショナルモデルは、これとは別物という印象を与える。なぜならそれらは健常者を対象として考案された、パーソナリティを構成するいくつかの因子(例えば5因子モデル)に基づき、それが過剰(あるいは過少)な場合の病理的な表れの方向からとらえたものだからである。すなわち多分に生得的、遺伝的なニュアンスを含むことになる。

他方で発達障害は、「典型的には発達早期、しばしば小中学校入学前に明らかになり…」(DSM-5)とされ、これも先天的な要素が重視される。精神医学の一般常識では生まれつきのもので治癒は望めないものという含みがある。ただしもちろんその深刻さの度合いや社会適応については恐らく成育環境が大きく関係することになろう。

この様に考えるとディメンショナルモデルでとらえたPDDDはかなりの共通項を持つと考えざるを得ない。その意味で両者の移動や鑑別が議論されるのは必然なのだ。

個人的なことを言えば、1982年に医師になった私はDSM-Ⅲ世代であり、そこで明確に記載されていたPDの中でも、BPD,NPDなどに並んでスキゾイドPDにはそれなりに関心を持った。スキゾイドメカニズムという概念は精神分析で重要な位置を占め、それとボーダーラインとの区別などが重要な論点となったのである。そしてDSMの定義するスキゾイドPDは米国の人気ドラマ「スタートレック」に登場するドクタースポックを彷彿させるような、人間的な感情が希薄で、そもそも対人関係に関心を持たないロボット的存在として描かれていることに興味を持ち、またその「スキゾフレニア」の近縁性を含意していることも理解し、それにあまり疑問も抱かなかったのだ。つまりこの概念を無批判に受け入れていたのだ。ただし実際の臨床場面でこの診断を下すことが意外に少ないことにもどこかで気が付いていた。

さて2000年代以降にDDが盛んに論じられるようになり、この診断をいったん疑いだしたらかなり多くの患者に(あるいは先輩や同僚に!)当てはまることに気が付くようになった。そしていつの間にか、対人関係や学業上の問題を考える際に、DDの要素は内科、と考えることが習慣化し始めていることを自覚するようになったのである。そして同時にスキゾイドPDという診断を久しく頭に思い浮かべることがなくなっていることに気が付いた。ASD傾向を持つ人々について考えているうちにスキゾイドの問題はスルーしてしまっていたのである。「それにしても両者は似てないか?」「いやいや、DDPDを混同するなんてとんでもないと言われてしまいそうだ」などと考え、はやく誰かがしっかり説明してくれるのだろうと思っているうちに、この点について歯切れのよい解説をしてくれる精神科医にまだ出会っていない、などと考えるうちに、このような原稿を依頼される立場に立たされてしまっているのだ。