2021年8月7日土曜日

他者性とリフレクティング 

  リフレクティングではオープンダイアローグの最中に、治療者どうしが椅子の向きを変えて向き合い、患者について話し合う場を設ける。ここが一番奇妙かも知れない、と斎藤環さんも書いている。ここで大事なのは、患者に治療者を観察してもらう事であるという。治療者間の対立などもその観察の対象になる。なぜこれが大切かと言えば、「患者がいないところで患者の話をしてはいけない」というルールがあるからだという。そしてそこで患者は尊厳や主体性を与えられた感じになるという。斎藤氏によれば、これはODの根幹部分である。そしてそこでは見えない壁を作り、患者に目を合わせないという。ただしもちろんそこでネガティブなことは言わないことが大事である。何しろ当事者が聞いているからである。ここでリフレクティングは差異を扱うという事が言われるが、それは皆が注意深く色々な意見を出し合うからである。また面白いのは本人に何かコメントを直接するのではなく、リフレクティングで、「彼は~と考えているのではないか?」という言い方をするという。このプロセスでおそらく重要なのは、患者が自分について様々な治療者が異なる見方をしてくれているという事、そしてそこに唯一の正解などないという事であろう。

ここでリフレクティングで守らなくてはならない点が整理される。

  • 話し合われている当事者には視線を向けないこと。
  • マイナス評価は控えること。
  • 共感を伝えること。
  • 患者がいないところで患者の話をしないこと。

 このプロセスが興味深いのは、解離性同一性障害についての治療は、おそらく治療者はどの人格と対話をしていても、それがリフレクティングとしての様相を帯びているという事である。Aさんという人格と話していて、Bさん、Cさんについて言及するとき、Bさん、Cさんはそれを聞いている可能性がある。人格によっては治療場面に姿を現さないために、唯一その様な場面でしか治療者の自分についての考えを聞けないという事になるだろう。したがってリフレクティングで重んじなくてはならないお作法は結局はそこでも重んじられるという事になる。
 この発表では各交代人格はお互いに他者同志という前提に立つが、するとこれは他者との出会いの機会でもあるという事である。そこでは自分以外の人格たちも、そして治療者も他者であり、その心の中をのぞくというプロセスになるのだ。

2021年8月6日金曜日

他者性の問題 5

  柴山先生の本を読んでみよう。彼も他者性のことについて以前からいろいろ詳細に書いている。何しろ彼は精神病理学者なのである。彼の主著「解離の舞台」の中で、「他者の現前性」「行動の抑制」「他者の先行性の欠如」を挙げている。(「解離の舞台—症状構造と治療」金剛出版 p.234)この中で「他者の先行性」とは、Sの場合などに、「他者が自分の考えをすでに知っている」という構造を指す。こころの中で発語する以前の思考のわずかな動きさえも、すでに他者に先取りされて知って、筒抜けになっているというのが「他者の先行性」である。行動を始めようとするとき、まさにそれを他者に悟られ、他者に先回りされるという体験、「聞こえる内容のように考えさせられてしまう」という訴えもそうだ。さらには「統合失調症の幻聴主体は把握できない。不明の主体としてあらわれる。」(P212)ということも、すでにその「他」が絶対他者ではなくなっているということを表しているのかもしれない。とすれば解離における他者性は少なくとも「先行性」によっては特徴づけられないということになる。
 ただしこの議論に問題があるとすれば、それは「SDと違うんだよ」という議論にはなっても、「これがDにおける他者である」という議論にはなりにくいということだ。なぜならDにおける他者は限りなく「普通の他者」なのである。ちょうど脳の中にもう一人いて、その人は別人だけれどその考えが透けて見えるという体験。その人はあくまでも他者なのである。

 ところがSの場合その他者は自分の領域を犯してくるのである。これがいかに正常な自我体験からの逸脱かは強調してもし足りないだろう。例えばAという考えを持つとする。」その瞬間に「Aと思うと知っていたよ」という声が聞こえてきたらどうだろう?少なくとも主体性の感覚は奪われるのではないか。主体性の感覚は、あくまでも私が発動したものという感覚を伴っていなくてはならない。「The sense of agency 動作主体」というのはそのことだ。自分から環境、ないしは他者に働きかけるという感覚がそこに伴っているが、これは物事の因果関係を把握し、理解するうえで決定的な役割を果たすのではないか。赤ん坊が自分で目の前の積み木を崩したいと思う。そして自分がそうしようと思って手を伸ばし、その結果として積み木はばらばらと崩れる。これが正常な動作主体としての体験だ。だからもしそうしようと思っていた時に、母親が手を伸ばして積み木を崩してしまったら、赤ん坊は怒るだろう。また積み木を崩そうと思った瞬間に、積み木が勝手に崩れてしまっても驚くだろう(実は超能力を持っていることが後にわかった場合にはまた別であるが。)おそらく「自分が~する(ことにより世界が変化する)」という感覚と自分は自分である(他とは異なる)とは不可分なはずだ。そのように考えるとSで生じている「他者の先行性」がいかに異様で恐ろしい体験かが分かるであろう。別の人格が自分の中に入り込んでいて、自分という感覚を危うくしてしまうのだ。
 さてDの場合、他者はあくまでも別個の他者として影響を与えてくる。ある考えを押し付けてくる。でもそれはやはり他者なのだ。そしてその他者は個別性を持っていて、決して自分の部分ではない。もし自分の部分であるならば、ちょうど自分という体験のモジュール性を発揮するだろう。例えば胸がなぜかドキドキしだした。足の力が勝手に抜けた。指先にぬるっとした感触を味わった、など。自分の臓器、運動器、感覚器といった自分のモジュールが自分の「手足となって」働いてそのフィードバックをしてくる。これが部分としての働きであり、それが影響を与えてくれるのだが、それはもともとそのように想定していた出来事であり、何ら怖いことではない。ところが別人格は自分の意志を持って、何かを伝えてくる。すなわちそれは決して「部分」ではない。ということは別人格が決して断片や部分ではないということの証左ではないだろうか。

2021年8月5日木曜日

他者性の問題 4 

 ところでラカン理論はどうか。松本卓也、加藤先生の論文を参考にする。

症例Schreberの診断にみる力動的精神病論の再検討
精神神経学雑誌 (2009) 1111021-1040.

必死にまとめると次のようになった。

ラカン派にとっては、主体はシニフィアンの集合からなる象徴界の成立であり、それに欠陥があること、すなわち<父—の—名>という特権的なシニフィアンの排除forclusion du Nom-  du-Pèreという構造的欠陥があるのが精神病であるととらえた。しかしこの特権的なシニフィアンの排除という見方は、1960年代からは、疎外alienationと分離separation という論点からとらえなおされる。前者は人間が言語の世界に篭絡されること、つまり前言語的存在が抹消されることであり、分離は主体の欲動の対象(対象a)が落下させられ、失われた状態である。ここでは<父—の—名>、すなわち父性隠喩はこの分離の操作の原動力である。つまり1950年代に精神病の構造的条件として捉えられていた「<父—の—名>の排除」は、
1960年代には、「分離の不成功」となったのだ。去勢が作動しない精神病では、aの分離がなされていない。これが成功した場合には、正常と地続きの神経症となり、そこでは対象aが欲動の原因—対象として機能し、他者の享楽の対象であることを拒絶する幻想が生み出される。ところがこれができないと、「致死的な享楽の過剰」をせき止められない。すなわちSでは主体の享楽との直接的関係に基づく病理が発生する。享楽は他者の場に見定められ、主体は他者に享楽される対象へと幻覚的に変貌する。それは「女性化し、他者に性的に濫用される」というschreber の妄想もここから生まれる。
 もちろん意味不明なのだが、Sでは象徴機能の手前にいる、あるいはそこに退行してしまった状態と言えるだろう。
 いずれにせよSの場合はすでに主体が怪しいということになる。

2021年8月4日水曜日

他者性の問題 3

 他者性の病理としての統合失調症

 統合失調症でいわれる他者性の問題とは何か。以下は高谷掌子著「私と汝が『絶対の他』であるということ―― 木村敏は西田幾多郎の『私と汝』をどう読むか―――」(京都大学大学院教育学研究科紀要(2020)666982から多くを引用する。

かの木村敏先生は以下のように書いている。

精神分裂病者の自覚においては、いわばこの「汝」の絶対的他者性が問題と化している。「汝」の他者性、「私ならざるもの」性が確立しえなくなっている、と言ってもよい。このことは逆に見れば、「私」が「私」性を確保し難くなって「汝」性の方へと吸収されようとする事態だとも言える。「絶対に他なるが故に内的に結合する」のではなくなって、むしろ、絶対に他たりえないために内的に結合しえず、内的な離反対立が生じる。それは、「汝」性を帯びた「私」と「私」性を帯びた「汝」との離反対立である。(i276

 「木村敏先生、むずかしい、勘弁してよー」と言いたくなるが、私なりに理解すると次のようになる。
 Sでは自分以外のものとしての他者が確立していない。そしてそれは「自」が希薄だからだ。だから「自」が「他」に引き寄せられてしまう。結果として自と他が未分化な状態になってしまう。
 もう少しわかりやすく言うと、「自分」というものが確かでないから容易に「他者」と区別がつかなくなってしまう。
 Sは自我障害だ、とはよく言われたものである。そしてよく取りざたされるのが、Karl Jaspers (1997/1913) の四つの自我機能という概念である。

「能動性の意識」 自分自身が何か行っていると感じられること。
「単一性の意識」 自分が単独の存在であると感じられること。
「同一性の意識」 時を経ても自分は変わらないと感じられること。
「限界性の意識」 自分は他者や外界と区別されていると感じられること。

 つまり統合失調症は自我が障害されているので、そこから他者性の問題が生じてくる、という論法になる。木村先生は「絶対の他」という語は、「あいだ」から自己が成立するために不可欠でありながら、Sでは失われているということだ。ここには西田哲学が関係しているらしい。西田は、「私と汝は絶対に他なるものである」ため「絶対に他なるがゆえに内的に結合するのである」という(西田 1987307)木村先生によれば、結局は精神の病は「あいだ」の病というのであろうが、そのために自己も絶対の他も成立しない、ということになる。確かに他者は他者としてしっかりと距離を置いて向こう側にいてくれるから安心するのであり、ふと気が付いたら横にいた、というのはとても怖い体験になるだろう。

ただし木村先生の記述の中で一つ分からないことがある。

以下は高谷論文からの長い引用。

彼は「妄想的自覚」の症例として、自分が「サイコ機械」だという患者の談話を挙げる。かじゃあは自分が操られているから「サイコ機械」というのではないという。「サイコ機械」が自分になったというのだ。(サイコ機械は僕の体の中に入って、こうやって(紙に字を書きながら)僕の手を使って連絡してくるのです。)そこには操る何者かと操られる自分といった自他の区別はない。いわば「サイコ機械」性を帯びた「僕」と「僕」性を帯びた「サイコ機械」の「離反対立」だけがある。要するに、統合失調症患者にとっては、「あいだ」における自覚に不可欠な「絶対の他」という契機が失われ、自己が他者性を帯び、他者が自己性を帯びている。

問題はこれと、Dにおける「させられ体験」がどう違うか、だ。

2021年8月3日火曜日

他者性の問題 2

 自分の中の他者について

さて自分の中の他者についてどう考えるべきかとなると一挙に話は複雑になる。というのも私たちは自分の中で他者にしばしば出会うからであり、それが精神医学的な症状を形成することにもつながる。そしてここでいう「他者」とは他者の内的なイメージとしてのそれとは異なる問題を指す。そしてこの問題を一挙に複雑にするのが、「他者としての自己」という問題である。昨日は「自分自身についても私たちは真の姿には到達しえない」と書いたが、その意味では自分も他者なのである。
 一番ありふれた、「他者との会い方」を考えてみよう。例えば私たちは例えば夢の中で他者としょっちゅう出会っている。夢に出てきたAさんは独自の動きを見せ、予想に反した言動をする。もうなくなっているはずなのに普通に登場することもある。しかしそれはすべて私たちの無意識が作り出したことである。
 でもこれよりももっと身近な会い方があるという人もいるだろう。Aさんのことを想像してみるのだ。例えばAさんが微笑みかける姿を想像することができるだろう。それは夢の中で微笑みかけているAさんの夢を見るということとそれほど違うだろうか。
 この問題で必ず登場するのは、「でもそれは表象みたいなものでしょ?」という主張である。Aさんがほほ笑むのを思い浮かべるとき、確かにそこに私たちが想像した以上の微笑み方はしないだろう。「Aさんがほほ笑むのを想像してみた。するとAさんが急に怖い顔になった。どうしよう・・・・」という体験をした際、それはすでに通常の想像によるAさんのイメージではなく、夢に出てくるイメージに近い。表象(例えば想像したリンゴ)的、というよりは知覚(目の前にあるリンゴ)的、というわけだ。
 私がよく出すある作家(私の中では村上春樹)から聞いた逸話に、「頭の中に登場人物を浮かべ、あとは勝手にふるまってもらい、それを小説にする」というのがあるが、そうなるとこのような体験はより「他者」と出会っていることになるだろう。これは自分の想像ではなく、創造の産物ということになる。創造とは自分が意図しないようなイメージや作品を作り出すことだとすれば、表象から知覚に移った際はそれが生じるということになる。その意味では夢とはことごとく創造性の産物ということになる。そしてこれを広げるならば、私たちは自分の脳で常に創造されるイメージという他者に出会っているということにもなるのだ。
 ところでこのように考えると、私たちが扱うべき他者とは実は錯覚の産物に過ぎないのではないか、ということになる。例えば作家の頭にAさんを思い浮かべてもらう。そしてそのAさんが作家の中で予想外の振る舞いをしたとしよう。作家は「面白い、これで行こう」とそれをストーリーにするかもしれない。しかし傍目から見たら「でも村上先生、それって結局先生が作り上げているってことですよね。」ということになるだろう。「いやいや、私の頭の中でAさんが勝手にふるまったんだよ」といくら村上先生が言ったところで、私たちはそれを先生の作家としての力量としてしか見ない。とすると実は村上先生が思いついているにもかかわらず、どこかから降ってきたと勘違い、ないし錯覚をすることで、それが表象的、ではなく知覚的な現れ方をしたと感じるだけかもしれない。
 一番直接的な体験を、私は歯医者さんで体験する。抜歯などで強い麻酔を打たれると、その時に自分の顎を触っても「モノ」としての感触になってしまう。私が米国で抜歯をした時、とにかくかなり強い麻酔を打たれるので、数時間はあごの片側が「モノ」になる体験を楽しんだ。ふつう私たちは自分を触ると、触られる感触も同時に体験されて、その部分が自分の一部であるという自覚が生まれる。脳外科領域では右脳の脳梗塞で、左半身が自分ではないものに体験されるという「半側無視hemiagnosia」の状態が知られている。体の半分が突然「他者」になってしまうのである。
 実はこれと深く関係していそうなのだが、いまひとつピンとこない例もここで紹介しておこう。人工的に幽体離脱を体験する方法である。
 目の前のダミーの背中を突っつき、それと同じタイミングで自分の背中を突っつくような装置を作ると、それを誰か別の人がそこにいて自分を突っついていると感じるようになるという。はじめはそのような装置なのだ、と思っていても、そのダミーが自分であり、もう一つの自分がその背後にいるという感じがするようになるという。一種の幽体離脱体験だ。特にそのタイミングを05秒ずらした場合にはそうなるという。ナショナルジオグラフィックス別冊1.「科学で解き明かす超常現象」P.58
 また似たような実験も報告されている。自分の姿を背後から映すカメラを用意し、その映像をゴーグルで見れるようにする。そして誰かに自分のおなかを突っつくという動作を、背後のカメラに向かって突っつくという動作と同期させてやってもらう。これもまた同様の幽体離脱の感覚を生むというのだ。これらに現れたのはある種の錯覚なのだが、前者の場合は、自分がある存在の背中を突っつくという動作が、自分以外の、すなわち他者から背中を突っつかれたという感覚と同時に体験されることにより、

「目の前のダミーは自分だ。なぜなら自分は突っつかれていると感じるからだ」+「でも自分はその自分の背後にいる」= 「自分は二人いる」

となる。また後者では、

「自分が他者から突っつかれる」+「でも自分はそれを後ろで見ている」=「自分は二人いる」

両者とも構造は同じということになる。

2021年8月2日月曜日

他者性の問題 1

 嫌悪の論文、やっと終了した。昨日提出した。今日から新しいテーマ。これはおそらく3か月くらい続きそうだ。

一般的な他者について

他者性の問題というテーマでしばらく書くことになる。ただこのテーマはあまりに膨大なものであり、哲学的でもあり、精神医学的でもあり、心理学的でもありうる。
 まずは素朴な問いから。そもそも私たちは現実の世界の中で他者とどのように出会っているのか。もちろん日常生活で私たちは常に他者と出会っている。ただし私たちは他者そのものではなく、心の中にある「他者像」と出会っているといった方がいい。たとえばよく知っているAさんと会う時、私たちは「Aさんはこんな人だよね」と思っている人と会っている。Aさんが慣れ親しんで、お互いに気心が知れていると思えるような人なら、間違いなくそうだ。だからAさんが初対面の場合には、私たちはものすごく緊張し、警戒するのだ。それはどのように会えばいいのかがわからないからである。「ああ、あの人ね。」というイメージが出来ていず、手掛かりがつかめないからだ。もしその人が、例えばいつも講義を聞いている先生で、その先生のいろいろな話を聞いている場合には、こちらの方はその先生についてのイメージが出来ているので、こちらとしては会いやすいだろう。ところが、まったくその人の姿を見たことがないのであれば、勝手が違う。そして例えば初対面のAさんと、ぎこちなくお互いに警戒をしながら話していくうちに、たまたま同郷であることを知ると、全く違ってくる。「えー、そうなんだ! あの小学校私も通ったんですよ」「○○先生っていたでしょ?」というあたりからAさんは対象像として心の中に実を結び始め、普通の会い方が出来てくるのである。
 Aさんが人間的にも全く問題がなく、人に好かれているとしよう。それでもあなたは初対面のAさんと会う時は緊張するはずだ。それは実際に会ってみないと、どうなるかわからないからである。特にあなた自身がAさんを好きになれるかは、とにかく直接会ってみる以外には分からないからである。たまたま同郷であることを知ったことで、あなたはAさんを好きになる一つの口実を得たことにもなるのである。
 ただし他者イメージを獲得することは、Aさんの他者としてのあり方を変えることにはならないのはもちろんである。あなたがこれまで思っていたAさんは、実は実際のAさんと違っていた、ということはいくらでも起きる。というよりそもそもAさんというイメージは、多面的で複雑なAさんのごく一部だけを取り出したものにすぎないからだ。現実のAさんは実はいくら頑張っても到達できない。(それどころかAさんにとってもわからない。私たちは真の自分にも出会えない、ということになる。)そしてそれが相手を主体として扱うことだ、という議論が、ウィニコットやベンジャミンの論じている内容に通じるのである。

2021年8月1日日曜日

嫌悪の精神病理 推敲 9

 喪失体験のうち特に親しくした人やペットを亡くした際に私たちの心に起きる反応は悲嘆反応と呼ばれるが、それらの中には時間を経てもなおも心をさいなみ続けるものがある。それを病的悲嘆、ないしは複雑性悲嘆と呼ぶが、米国の診断基準(DSM-5)では深刻な悲嘆反応が一年以上みられる場合とされ、その有病率は25%と言われる。その際人は対象が亡くなったという事実をどうしても受け入れられず、死者を恨んだり、みずからが生きていく意欲を失ったりする。時には故人の幻覚を体験したりもする。つまり喪の作業が終わらずに半ば永続的に個人を苦しめることになるのだ。

嫌悪の病理とトラウマ記憶

記憶に関連した嫌悪の病理について、最後に取り上げたいのがトラウマ記憶の問題である。私たちはさまざまな生活場面でかなり直接的で生理的な嫌悪感を生むような刺激に遭遇することがある。それらの多くは過去の特定の体験に結びつき、次第に薄れていく傾向にあるが、一部はそうではない。それどころか繰り返しよみがえり、私たちを苦しめるのである。それがいわゆるトラウマ記憶、ないしは恐怖記憶と呼ばれるものである。
 私たちがしばしば体験するのは、ある事柄や人、生物に対して私たちが時に示す著しい嫌悪感情である。特定の対象や事柄に対して抱く嫌悪感はいったいどのように生じ、いかなる意味を持つのだろうか?一つ明らかな事は、嫌悪感は記憶や学習の産物であるということだ。それはある種の恐怖ないし強烈な不快体験を持つことで成立する。チャールズ・ダーウィンは、天敵のいない環境で繁栄した野生動物は、人を全く恐れることがないためにあっという間に絶滅してしまうと報告している。生命体は恐怖や苦痛を体験することで、特定の事柄は脳に嫌悪刺激として刻印され、それがその後の確実な回避行動を生むのだ。そして人間においてはその脳のレベルでの主役はすでに登場した扁桃体である。扁桃体の外側基底核にある特定の細胞が、その嫌悪刺激のことを記憶し、それ以後に関連した情報を感知すると、すぐさま扁桃体中心核にそれを送り、嫌悪感情を生み出すとともに即座にそれを回避する行動を起こさせる。そしてその反応の神経学的なルートはいったん成立すると容易に消去されることはない。それにより生命体は天敵や有害物質から逃れ、捕食されたり健康を害したりする可能性を回避して生き延びることが出来る。
 このように扁桃体を介した嫌悪刺激への反応は、本来私たちの生命維持のために必要であり、基本的には合目的的である。しかしその嫌悪刺激が繰り返し過去の体験を思い起こさせ、その人の社会生活を損なうほどの苦しみを与えるとしたらどうだろう?
 精神医学や心理学の世界でこの半世紀ほど大きな関心を集めているテーマがある。それがトラウマ(心の傷)による精神障害であり、そこで問題となる忘れ難い記憶が、トラウマ記憶ないし恐怖記憶と呼ばれている。このトラウマ記憶はPTSD(心的外傷後ストレス障害)や解離性障害などの数多くの精神病理と関係している。その中でもフラッシュバックと呼ばれる現象においては、もとになった恐怖体験があたかも今起きているかのように生々しく繰り返し蘇ってくるのである。
 フラッシュバックを起こすトラウマ記憶には通常の出来事に関する記憶とは大きく異なる性質がある。それはその主成分が感覚的、情緒的な反応であり、先に説明した潜在記憶の部分に相当する。そして顕在記憶の部分がしばしばあいまいであったり、忘却ないし解離により意識に上らなくなってしまうということである。トラウマを体験した際、それが恐怖や不安等の強い情動を伴い、激しく扁桃核が興奮するが、それによりエピソード記憶の成立に必要な海馬の活動を抑制することが知られている。すると通常のエピソード部分を欠いた感覚や情緒的な記憶になってしまうのである。 
 ところでトラウマ記憶はなぜ忘れられないのだろうか? その一つの可能性は、それが時間の経過とともに忘却どころか逆に「強化」されてしまうからである。その仕組みの理解のためには記憶が脳に定着するプロセスを知っておく必要がある。通常の記憶は最初は海馬を通して形成され、その後徐々に大脳皮質へと移動していく。それ以降はその記憶は海馬を介することなく思い出されるのだ。そして記憶が海馬の支配下にある最初の12年間は、それが想起されるたちに「不安定化」されることが分かっている。例えるならば、記憶はいったん冷凍された後思い出されることで解凍され、形を変えられたのちに再び冷凍されるのである。そしてその過程で記憶のあるものは消去されていくことが分かっている。そのことはその際に扁桃体において蛋白質の合成を阻害する物質やプロプラノロールという薬物を注入されたり、また海馬の働きを活性化することに促進されることが知られているのだ。ところが記憶のあるものは再び冷凍される際により強化される形で「再固定化」されてしまうのである。それがトラウマ記憶であり、当初のインパクトがあまりに強かったために何度も想起されることで「再固定化」を重ねてより強固なものになってしまうのである。

4.まとめ

嫌悪の精神病理についてみてきたが、本稿ではそこに関連する2つの脳科学的なプロセスを紹介したことになる。一つは快楽体験があまりに強すぎる刺激の場合には報酬系を乗っ取り、それを暴走させ、その結果として快は最悪の苦痛に変える。もう一つはトラウマ体験において、その衝撃があまりに強いために、扁桃核が合目的性を失い、それを決して失われない記憶に変化させてしまうという現象が生じる。このことからわかるのは、私たちの心は、体験を合理的に扱うことが出来る、いわば健常な体験の隙間、閾値があり、それがどちらの方向に振り切れても私たちに深刻な病理をもたらすのである。