2018年5月7日月曜日

精神分析新時代 推敲 72


少しフロイトに戻る

 脳科学的な心の在り方を説明するうえで、ここで再び先ほど触れたフロイトである。彼は中枢神経の単位としての神経細胞を発見したと言ったが、その意味ではフロイトは脳科学者であった。脳科学者としてのフロイト、といわれても読者の方はぴんと来ないかもしれないが、彼は純粋な理科系の研究者から出発していたのだ。ニューロンという単位を発見した彼は、さっそく仮説を立て始めた。そして φ と ψ という2種類の神経細胞があって、φ の場合にはそこで信号の流れがせき止められ、ψ の場合にはここを通過するという理論を立てた。この2種類の神経細胞があるという仮定をもとに、そこから心の在り方を一生懸命組み立てようとしたのだが、さすがにこれだけでは全然無理だった。このころウィーンを中心に発展していたのは、いわゆるヘルムホルツ学派の考えである。その信奉者であったフロイトが依拠していたのはいわゆる水力モデル hydraulic model であり、そこでこの「流れる」「せき止める」という概念が出てくる。つまり抑圧、あるいは抑制によってリビドーという一種の流体の圧力が鬱積すると不快になり、それが解放されると快につながるという非常にシンプルな理解の仕方をしている。フロイトの脳の在り方を絵にするとこんなふうになると思う。パイプがこのように並んでいる。この絵はルイス・タルディという人の作品だが、おそらくフロイトの打ち立てた心の理論はどちらかというとこれに近かったのではないかと思うが、こんなことを言ったらフロイトは怒るかもしれない。
  ともかくも脳の研究が可能になる前は、脳の組織を顕微鏡で見ても細かすぎて一見アモルファスで何も細部の構図が見えないとなると、そこにはまだ解明されていないまでも、ある種の規則性を持った構造やメカニズムが存在し、そこで心が生じていると考えられていた。おそらくその複雑さの程度が分からなかったからこそ、ある種の単純で決定論的な動きを想定することもできたのだ。ところが一見均一に見える脳の実質を顕微鏡で拡大してみると、すでにそこにぎっしりと脳細胞や神経繊維が詰まっていることが分かったのである。そして脳全体に1千億個という膨大な神経細胞が存在していて、その一つひとつの細胞から別の神経細胞にいくつつながりがあるかというと、10とか100どころか、100010000のオーダーであることが分かったのである。この数は大変なものだ。1千億の結び目があって、それぞれが10000の他の神経細胞と連絡を取っていることになる。この複雑さをおそらく私たちは想像することすらできないのである。脳とはそういう宇宙みたいな存在だということがわかってきた。
さて脳のどこの部位とどこの部位が実際に結びついているのか、ということについては、まさに研究が始まったところという印象を持つが、最近ではその問題を扱う connectivity (脳内結合関係)という学問分野が成立し、学会も存在する。その研究成果の画像を紹介しよう。これは脳を2000ぐらいの部位に分けて、どの部位とどの部位がつながっているのかということをコンピュータで図示したものである。他の部位とつながっている数が多い部位は、より大きなドットが描かれている。これを見る限りは後頭葉や角回あたりに大きなドットが集中していることがわかる。また拡散強調画像というものがあって、水分子の流れを追いかけていくと、神経線維の流れが撮れるという(202、省略)
 私がここで主張したいのは、脳というのは巨大な編み目構造、ネットワークからなる情報処理装置であるということだ。とんでもない膨大なネットワークから成立する脳。そこから心はどういうふうに生まれてくるのか、皆さん不思議に思わないだろうか。私にとってはこの問題について、何人か導き手になる注目すべき先達がいて、その一人がジュリオ・トノーニというイタリア出身の方である。以下に彼の理論を少し紹介しよう。

2018年5月6日日曜日

精神分析新時代 推敲 71


プラセボの話に戻るならば、それが実際に痛みを鎮める効果を持つときは、本物の鎮痛剤と同じ効果を持つということになる。決して「気のせい」ではないのだ。プラセボが痛み止めとして効く場合には、決して「気のせい」ではないということが、脳の活動の可視化によってはじめてわかるというわけである。ちなみにこのプラセボ効果は、脳内麻薬物質の拮抗薬であるナロキソンで低下することが分かっているという。これなどもますます「気のせい」ではなかった証拠ということになるだろう。
 脳の可視化によって我々がひとつ教えられたことがある。それは患者さんの話をもうちょっと素直に聞くことだ。プラセボの問題にしても、その他の様々な身体症状も、内科で何も異常な検査所見が見つからないと、その後は「症状は精神的な問題で引き起こされます。ウチでは治療の仕様がありません。精神科に行ってください。」となり、その精神的な問題とは、あたかもそこにないもの、気のせいで生じて来ているものというニュアンスを与えられてしまう。しかしこれらには明らかに脳科学的な基盤が与えられている。患者さんの心のせいではないのだ。脳の可視化によってわかってきていることは、患者さんの言っていることは大概は本当だったのだということである。
アスペルガーの脳科学
 ここで少し脱線であるが、私が最近臨床上考えさせられることの多いアスペルガー障害についても論じてみたい。アスペルガー障害を持つ患者さんはいわゆる「定型発達」とは異なる脳の部位を使って情報が処理されていることが分かっている。彼らはわざとことさら人の気持ちがわからないように振る舞っているだけでではなく、実際に人の心を理解することが不得手というわけであるが、彼らはその代り、通常の人が使うのとは別の脳の部位を用いて、人を理解しようとしていることが最近の研究で示されているという。ここに示しているのが、その研究から引用したものである。図201a (省略) は顔面を認識している時の脳の活動部位で、bは物体の認識をしている時だ。ここではアスペルガー障害の人の場合に、通常の人に比べて右の下側頭回という部位の活動が増えて、右の紡錘状回が減るということが起きている。要するに脳の違う部位を使ってアスペルガー障害の方は物を識別しているということをこの研究結果は示しているのだ。これに関連して、アスペルガー障害では脳の中のいわゆる「共感回路 empathy circuit」に障害があるとされている。それはVMPFC(腹内側前頭前野)という部位を中心としたものだ。普通の人なら人の心を理解する際はこの共感回路が活動を高めるわけだが、アスペルガー障害の場合はここがうまく働かない。すると共感が難しいというのは脳の器質的な問題というふうに研究者が主張するのにも理由があるわけである。これらの研究を受けて、いわゆる発達障害が親の養育によるものであるという従来一部に見られていた考えに対する反証が示されていることになる。
 以上いくつかの例を示し、脳の可視化が我々の心の理解に及ぼす影響について示したつもりであるが、実は脳科学が私たちに心の在り方を明らかに示してくれている、というには程遠いと言わなければならない。せいぜい、「脳でも何かが起きているのだから、患者さん本人の『気のせい』とばかりは言えない」という以上の具体的な何かが示されているのは程遠いと言わなくてはならない。むしろ脳の一つの活動を取っても、様々な部位が関与しているらしい、ということが示されていない。要するに可視化が進むことでいかに脳の活動が複雑なのかということがわかったとしても、それ自体が脳の在り方をどの程度教えてくれるかと言えば、むしろその謎は深まったとさえいえるだろう。



2018年5月5日土曜日

精神分析新時代 推敲 70


このスライドも同じ精神科のテキストに載っているものですが、初期のCT画像はとてもぼんやりしている。出血している部分がようやく分かる、といった程度だ。ところが最近はMRIで非常に鮮明に見え、しかもfMRI(機能的MRI)などになると、まるで動画を見るように、脳で起きていることを刻一刻示すことができるようになっている。この間のテクノロジーの進歩は、そこまですさまじいのである。ただし、どことどこがどのようにつながっていて、どういう機能分化をしているかということになるとほとんどわからないのであ
る。 
 この事情をもう少し具体的に示そう。ここに示したfMRIの画像は、被検者が幸せに感じている時と悲しい時は脳のどの部位が興奮しているかを示している。異なる感情状態のときは、興奮の場所が全然違うだろうということは理解できるが、感情をつかさどる辺縁系以外にも、脳のいたるところに点々と興奮している部位というのは一体何を意味するのだろうか。つまり、脳の中ではある一部がある機能を担っているのではなく、ある一つの感情、行動を成立させるために、脳にはいろんな部分の情報網やインプットがあるのだということを示しているのである。脳の機能がいかに複雑で込み入っているかということを示す一つの例と言えるだろう。
 脳の可視化が進んだ結果として、こんなことが分かり、それが臨床的に役に立ったといういくつかの例を挙げよう。例えば患者さんの訴える幻聴がある。幻聴というのは一種の幻であって、「気のせい」だと考える人さえいる。つまり聞こえていると信じ込んでいるから聞こえるのであり、本当は聞こえていない、という考え方である。ところが幻聴のある患者さんでつまり本人が幻聴の際に後頭葉の一次聴覚野の活動が検出されているということが研究ではわかっている。一次聴覚野には普通耳から入った信号が入ってくるわけですから、そこに興奮が見られるということは、本当に声として体験されていたのだ、ということが分かったことになる。
 あるいはプラセボ効果やノセボ効果についてである。プラセボ、すなわち偽の薬を飲んでも痛みが軽くなるとはどういうことなのか? では実際に何が軽減したり低下したりするのか。例えば乳糖の錠剤、つまり薬効のない錠剤を飲んでもらって痛みが軽減した被験者がいるとする。その患者さんはプラセボ効果を示しており、この患者さんは気のせいで痛みが軽減しているだけだろうと思う人がいてもおかしくない。ところがfMRIで見ると皮質の様々な部位であたかも実際に鎮痛剤を飲んでいた時と同じような変化が起きていることがわかったのである。さらに私が個人的に面白いと思ったのは、被検者に安いワインを飲ませて、これは高いワインですと伝えると、美味しさを感じた際に興奮する部位である眼窩前頭皮質の活動が増すという報告がある。


2018年5月4日金曜日

精神分析新時代 推敲 69

最近の脳科学の進歩は目覚しいものがあるが、何と言っても1980年代以降、脳の活動が可視化されるようになったということが大きい。機能的MRIPETなどの機器のおかげである。とにかく患者さんの心にリアルタイムに進行していることが脳のレベルでわかるようになってきている。最近、ディープラーニングがまたまた注目を浴びるようになってきている。なにしろコンピューターで絶対に人間を追い越すことはないと思われていた囲碁の世界で、AlphaGoというプログラムが世界のトッププロに勝ってしまった。それを通して、ではディープラーニングというのは一体なんなんだろうということが我々の関心を引くようになったわけである。ディープラーニングをするAlphaGoは、囲碁のルールは教わっていない。囲碁の何たるか、これが囲碁だ、ということを理解する、いわばフレーム問題をバイパスしているわけだ。ただこう打たれたらこう打つ、こういう手に関してはこれがベターだという情報を星の数ほどインプットしている。そうすると囲碁の正しい手が打てるようになる。そこに教科書的な意味での学習はない。
実はこの学習方法は、人間のそれと同じであると言ってよい。人間も実は学校以外では学習はしていない。なぜなら赤ちゃんは学校に通うはるか以前にたくさんの情報からこういうアウトプットがあり得るということを一つ一つ学んでいくわけだからである。すなわち我々の脳はディープラーニングをするものなんだというふうに考えるとわかりやすい。そしてそのような心の在り方は、フロイト流の考えとはかなり異なることが分かってきている。
 ここで歴史的なことにも少しだけ触れよう。200年前は脳の中というのは、亡くなった方を解剖して見るということでしかわからなかった。ポール・ブローカというフランスの医者が、失語症の人の死後脳を集めて剖検した結果、前頭葉の後ろのほうに欠損があった。そこでその部位をブローカ野と名付けることとなった。ここが梗塞、あるいは事故などで破壊された時に失語が起きる。だからここに運動性の言語中枢が局在しているんだということがやっとわかったのである。実は1800年までこういうことすらわからなかったのだ。そして過去200年、特に過去数十年でなんと多くの知見を我々は得たのかということだ。
 本書の読者の中には、「気脳写」という言葉をご存じの方はおそらく非常に少ないと思うが、私が精神科医になった1982年に、精神科のテキストを見ると、気脳写像というのが掲載されていた。脊髄から空気を入れると脳脊髄液の中を上がって行き、側脳室に空気が入っていき、それがレントゲンに映る。この一部が押しつぶされたり形がゆがんでいたりしたらそこに何かの病変があるのだろう、ということがぼんやり分かるというわけである。その技術がいつまで用いられていたかはわからないが、私が精神科医になった1982年にはまだ精神科の教科書にそれが載ってた。それほどまでに苦労して脳を可視化しようとしたわけである。

2018年5月3日木曜日

解離の本 23


3.原家族によるトラウマの理解

家族にとってこの障害を受け入れるためには、患者さんがその原因と考えられるトラウマを体験している可能性があるという事実も同時に認めなければなりません。人間の体験するトラウマには事故や天災によるものも引き起こされるものですが、最も深刻なものは、人によってもたらされたものです特に信頼している、あるいはすることが運命づけられているような家族から与えられたトラウマは、人を信頼するという私たちの持つ最も重要な機能を奪いかねないからです。
現在では家庭内での虐待が広く論じられ、解離の病理との深い関係も知られるようになったため、家族は身内に解離性の病理を有する者がいると認めることに強い抵抗を覚えます。解離の症状を持つ子供を抱えた両親は自分たちの子育てを否定されたと感じ、困惑、自責、憤りなどを覚え、「我が子のためによかれと思い」「懸命に」「誠実に」「しつけのために」という一心で子育てをしてきたと主張したい思いに駆られます。
治療者はこのような家族の訴えを否定せず、出来るだけ決めつける態度を控えて、中立的な態度で耳を傾けます。家族状況や親子関係で生じるトラウマに、単純な加害-被害関係をみることには慎重であるべきです。患者さん自身も必ずしも自らの育った状況を虐待とは結びつけて考えてはいないものです。
2章で述べたような親子関係のトラウマについて、家族にも同様の理解が得られれば理想的ですが、親自身がそれまでの自らの生き方を否定しかねない観点を受け入れることには、相当な困難が伴うものです。それを求めるよりは、加害的状況を作り出している家族と物理的に距離を取り、患者さんが自分自身について客観的に考えられるような条件を整えることが優先されることもあります。
患者さんと家族を引き離すべきかどうかの判断は、極めて難しい課題です。明らかな加害-被害関係がある場合を除き、家族へ説明や情報提供を心掛け、できる限り理解を深めてもらう努力をすべきでしょう。患者さんの年齢や心理的自立度、家族を取り巻く現実的かつ心理的状況などを総合的にみて、いくつかの選択肢を双方に提示することもあります。患者さんが成人している場合は、とりあえず家族と付かず離れずの距離にアパートやマンションを借りて住むという方法もあります。



2018年5月2日水曜日

精神分析新時代 推敲 69


新しい心の概念としての「新無意識」

ここで非線形的な心のあり方を反映するようなモデルをご紹介したい。実は非線形的な心の在り方は、私たちの心の持つごく基本的な性質であり、それ自体が心の構造を指し示すものではない。100年以上前にニューロンを発見したフロイトが、そのニューロンには二種類ある(φ、ψニューロン)という仮説を設けたわけであるが、それが彼の有名な意識、無意識、あるいは超自我、自我、エスといった心の図式へとつながったわけではなかった。後者は彼が独自に考え出した心の構造の仮説であった。それと同じように、心の在り方が非線形である、という基本的な性質から心の構造を具体的に構築することは出来ない。しかしその心の在り方はおそらくフロイトが考えたものとはかなり異なるものになるのである。幸いそのような心を「新無意識new unconscious」という概念を用いて説明する試みがある。そこでこの概念について説明したい。
すでに本章で触れたことだが、精神分析に限らず、心理療法一般では、療法家はいろいろなことに因果論を持ち出す傾向にある。「あなたのこの症状にはこういう意味がある」、「あなたの過去はあなたの今のこういう行動に反映している」のような意味づけをするということがすごく多いのだ。漠然とした因果論や、根拠が不十分な象徴的な意味づけは、精神科医でも心理士でもある程度は避けられないであろう。この因果論に基づいた思考には長い伝統があり、脳科学の知見とはなかなか融合しないという事情がある。精神医学においては薬を使うために脳科学的なことは十分わかっていなくてはいけないのであるが、医師はなかなか勉強する余裕がないという事情がある。他方では臨床の場面での患者さんの振る舞い、言動というのはいわば生ものであり、常に予測不可能である。そこでそのような患者さんを扱うために、とりあえずは因果論、理由づけに頼ってしまうわけだ。
 ちなみに「新無意識」は私の造語ではない。れっきとした著書が出版されている。(Bargh (Eds.) The New Unconscious.  Oxford Press.) これを紐解けばわかるとおり、たくさんの論者が、最新の脳科学に依拠した様々な議論を持ち出し、結局「新無意識」そのものについて書いている人はいない。そこで私なりにその新無意識の輪郭だけでもお示しできるように試みたい。


2018年5月1日火曜日

精神分析新時代 推敲 68


20章 神経科学と精神分析
神経科学と心理療法
初出:『臨床心理学』第17巻第4号(20177月刊行)
近年の神経科学の発展には目覚ましいものがある。PET(陽電子放射断層撮影)やfMRI(磁気共鳴機能画像法)等の脳機能イメージングの技術の発展とともに、得られる実証的なデータは膨大である。それとともに私たちは心の働きと照合されるような脳の活動をリアルタイムで追うことが出来るようになってきている。
しかし私たちが日常的に行う精神療法は、その脳科学的な進歩に見合うほどの発展を遂げているだろうか? 臨床家は依然として自らが信じる学派の理論に基づいた見立てや治療を行う。そして異なる学派間の対立も絶えない。その意味では脳科学時代の精神療法は、その両者の有効な架け橋が欠如しており、あるいは前者の成果が後者にほとんど反映されていないことが特徴といえよう。
脳科学の進歩が示唆する心の在り方
最近の脳科学は心についての新たなモデルを示しつつあると言ってよい。そして脳科学に基づく治療論はフロイトが精神分析の理論を提示する前に提出を試みたことであった。ただし当時の脳科学の知見は極めて限定されていた。フロイトは中枢神経系がニューロンという微小な単位により構成されているということのみを手がかりにして、リビドーの概念を元に心のモデルを構成したが、その時代ではそれが限界であったといえる。現在の脳科学が示す心のモデルの代表的なものは、ニューラル・ネットワークモデルに依拠したものであり、そこで繰り返し示されるのが、心の複雑系としての振る舞いであり、精神活動の持つ非線形性(Rose, Schulman, 2016)に基づく働きである。非線形性とは原因と結果の大きさに直線的な対応関係がなく、心に働くいかなる原因も、それがどのような種類や大きさの結果をもたらすかは基本的には予測不可能であるという性質をさす。その心の性質は脳の活動が安静時においてすでに見せるいわゆる「通時的な不連続性」(Northoff, 2016)という性質によっても間接的に裏付けられている。
このような心の捉え方は、従来の伝統的な精神分析理論にはあまりなじまないものである。分析治療においては治療者が患者の連想内容からその無意識内容を見出し、それを解釈として提供する。それは抵抗に遭いつつも徐々に患者に洞察を導く。そこには心がある種の連続性を有しつつ展開し、無意識内容が徐々に意識化されていくプロセスを前提しているを考えられ、それを「漸成的な想定epigenetic assumption」とも呼ぶ立場もある(Rappaport, Gill, 1959, Galatzer-Levy,1995)。
従来の精神分析理論においては、分析作業とはすでに無意識に存在している欲動やファンタジーを発掘する作業として捉えるという考え方に基づいていた。しかし最近の分析理論においては、無意識内容はむしろ臨床場面において生成されるという、いわゆる構成主義的な考えが提唱されつつある。それらは分析において解釈によりそれまでの「未構成の経験 unformulated experience(Stern,2003, 2009) や「未思考の知 Unthought known(Bollas, 1999) が生まれるという考え方に反映されているが、これらは事実上心の非線形的な在り方への注目ともいえる。
心の持つ非線形性の一つの表れとして、サブリミナル(識閾下の)メッセージの例を挙げよう。私たちの心は意識されないほどの短時間の感覚入力により大きな影響を受ける。Bargh (2005) の研究によれば、たとえば「協力」に類する単語と、「敵対」に類する単語をそれぞれ別のグループの被験者にサブリミナルに提示した後に、他者との協力あるいは競合が必要となる課題を実施すると、前者のグループでは協力的な行動が増加し、後者では敵対的な行動が増加するという。あるいは老人に関係した、たとえば白髪とか杖などの単語をサブリミナルに提示すれば、記憶テストの成績が低下したり,実験終了後にドアまで歩いていくスピードが遅くなったりするという。これらの研究の一部には、再現不可能との批判もあるものの、私たちの心の働き方の一側面を捉えていることは確かであろう。私たちの心は実に様々な内的、外的な刺激を受け、その時々で予測されなかった言動をとるものの、それを因果論に従ったものであり主体的に選択したものと錯覚する傾向にあるのである(Bargh, 2005)

非線形的な心のモデルが示す治療方針
上述した非線形的な心のモデルは、様々な意味で心理療法のあり方にヒントを与える。このモデルでは心の連続性や内的外的な諸因子との因果関係はあくまでも限定的なものとしてとらえられる。治療関係の在り方は、二つの複雑系の間の交流であり、互いの言動や無意識的レベルでのメッセージが互いに影響を及ぼし合う、一種の深層学習のプロセスであると考える。治療者が行う介入は、意図せざる要素を多く含むエナクトメントとしての性質が強く、患者に及ぼされる影響も正確な予想は不可能になる。
このような心の非線形的なあり方との関連で富樫(2011)は、従来の精神分析理論では、治療者と患者の関係を一つの閉鎖系と見なし、そこで生じたことが主として転移の反映としてみなす傾向にある点を指摘する。実際には治療関係とは開放系であり、患者を取り巻く様々な関係性や外的要因との動的な相互作用が生じている。
筆者は個人的にはこのような治療の在り方は関係論学派のI.Z. Hoffman (1998) により提案されている弁証法的構成主義の見方により包摂されているものとみている。この理論は治療関係において生じるものは常に過去の反復の要素(「儀式的 ritual」な側面)と、新奇な(目新しい)要素(「自発性spontaneity」の側面)との弁証法であると捉える。このうち後者が心の非線形性により生じる心の予測不可能性に対応する。もし治療場面において生じることをこのように弁証法的に捉えた場合、治療者は患者の無意識を解釈したり将来を予見したりする役割から離れ、患者と共に現実を目撃し体験する立場となる。
複雑系として臨床状況を捉えることは、そこに何ら確かなことは見いだせず、治療の行方も不可知である、という悲観的な見方を促すわけではない。むしろ治療場面における偶発性や不確かさを患者と共に生きることの意義を見出すような治療者の感性を育てるという意味を有するのだ(富樫、2016)。そしてそこで否応なしに関わってくるのが治療者の主観性という要素である。治療状況が刻一刻と展開する中で両者が様々な主観的な体験を持っていることは確かなことであり、治療関係は二人の主体のかかわりであるという了解から出発することで新しい治療の在り方が考えられるであろう。実際に関主観性理論の立場や関係精神分析では、両者の主観に基づく治療論が提唱されている(Benjamin, 2005, Stolorow et al, 1987)。ただしそこで具体的に考えられる治療的なかかわりのあり方については、また別の機会に触れたい。