2018年2月7日水曜日

ローゼンフェルド 推敲 2

ところでクライニアンである、ということはある意味ではフロイディアンというわけですから、欲動二元論から出発しています。つまり性的本能と破壊本能の二元論です。そしてあるタイプの精神病の患者は,性愛的な対象関係と破壊的な対象関係が混同しているとし、これをRosenfeld は「困惑状態 confusional statesと呼び、羨望に対する防衛であるとしました。そして議論を徐々に精神病から重症の人格障害へとシフトさせていきます。そして1960年代からは彼は非精神病的な病理的パーソナリティを持つ「破壊的自己愛」の研究を行ったのですが、これは広義のBPDに該当し、彼の研究は英国における境界例研究の代表的なものであるとされるようになったわけです。彼が挙げている症例では,衝動的パーソナリティ障害,情的不安定性パーソナリティ障害,スキゾイド・パーソナリティ障害,自己愛パーソナリティ障害に該当する重症例が多いとされます。特に治療が成功しそうになったり治療者との情緒的接触や理解された体験を持ったりすると急に自殺企図,反社会的行為,症状の悪化,激しい攻撃性の発露などの陰性治療反応を強く呈する患者群です。こうしてRosenfeld の議論は、精神病というよりはパーソナリティ障害の議論に移っていったのですが、実際の病名に関しては表現は曖昧という気がします。Rosenfeld の論文に常に出てくる、「ボーダーラインと精神病的な状態 borderline and psychotic state という表現がまた悩ましいわけです。ボーダーラインと精神病と、両者を一緒にしているというニュアンスがあるのですが、実際には両者の病態はまったく異なるわけであり、その意味では彼がどのような患者を対象にしていたかについては結局不明であるという印象を受けてしまうのです。ちなみにここら辺の経緯については、以下の論文が多少触れています。
Herbert Rosenfeld (1971). A Clinical Approach to the Psychoanalytic Theory of the Life and Death Instincts: An Investigation Into the Aggressive Aspects of Narcissism. International Journal of Psycho-Analysis, 52:169-178.
Rosenfeld の理論をもう少し掘り下げてみましょう。彼は心の一部に破壊的な理想化された自己の部分が存在し,他の性愛的な対象を求め依存しようとする自己の部分を支配している内的対象関係について論じます。そして前者を「破壊的自己愛組織」と呼んだのです。さてここからが重要で、また Rosenfeld の理論で一番わかりにくいところです。彼はこの部分はしばしば理想化され、また偽装され、スプリットオフされて沈黙していると説明しています。そしてこれは、子供が小さく何もできない無力な存在であることから生まれる全能的なファンタジーであるとも言っています。そしてその場合、親の側の「甘やかしすぎ、特に親の抱えコンテインする環境の欠如」が問題となると言っています。(P71) これを読むとびっくりしませんか? 結局 Rosenfeld も環境因をいっていたのか、ということにもなります。
しかしそれでも Rosenfeld は結局はトラウマ理論には至りませんでした。結局子供は無意識的な罪悪感を背負った存在となる、と記していますが、これは内的欲動論のお決まりの説明です。そしてそのことの説明が、私にとってはもっとも不可解な部分なのです(P87,88) あえてここで書いておきましょう。Rosenfeld によれば「この誇大的な構造の下に隠れているのは、原初的な超自我であり、それは患者の能力や観察や、現実の対象を受け入れるニーズについて、馬鹿にして攻撃する。最も混乱するのは、この羨望に満ちた破壊的な超自我が、善意に満ちた人物に首尾よく偽装することだ。この偽装こそが、患者に罪悪感を生み、彼が前進する際にその障害となる。そしてそれがフロイトの述べた陰性治療反応につながるのだ。」
ともかくもこの視点は Bion の精神病的パーソナリテイの研究とともに,イギリスにおける病理的パーソナリティの研究の基礎となり、Steiner の「病理的組織化」の研究に大きな影響を与えたと言われます。

2018年2月6日火曜日

ローゼンフェルド 推敲 1

Rosenfeldの自己愛論

Herbert Alexander Rosenfeld1909-1986)は、言うまでもなくイギリスの精神科医であり精神分析家です。彼の自己愛理論についてまとめてお伝えするのが私の役どころですが、私はクライン派の理論には全然明るくありません。しかしあえて自分に課題を課すつもりでまとめてみます。
実はこのセミナーは、米国の一部の人たちの考えを示すだけにはとどまりたくないという気持ちがあります。そこで少し国際色を出したつもりで、彼の理論をまとめてみることにしました。幸い最近になって松木邦裕先生から貴重な論文を送っていただきましたので、それが大変参考になりました。
この数か月、Rosenfeld の文章を読みながら、私はいったい自己愛とは何かということをいろいろ考えさせられています。やはりRosenfeld の扱っている自己愛は、私たちが慣れ親しんだ「あの」自己愛とはかなり異なるようです。私たちが自己愛という言葉で思い浮かべるのは、DSM 的、自己中心的で他人を支配する、カンバーグやコフートが言っているような自己愛ですが、Rosenfeld やイギリス学派の人々の自己愛はニュアンスが違うということです。彼らの自己愛の理論はむしろ直接フロイトから来ており、その伝統が今なお生きているのです。その間米国では、自己中心的で他人を支配するパーソナリティ障害としての自己愛、DSM的な自己愛に姿を変えていったというわけです。そこでこれからは後者を簡単にNPDnarcissistic personality disorderの略)と呼ばしていただきます。またこの発表では、私はあえて自己愛とナルシシズムを区別せずに用いることもお断りしておきます。
さてそのフロイトの自己愛ですが、要するにエネルギーが自分に向かっている、自分の中で滞っているという状態として表現できるでしょう。そしてそこに自己はすでに存在します。そこら辺が自体愛とは違うのです。自己愛とは自体愛(つまり自分の体を愛すること)と対象愛の中間、境目という風にフロイトは考えたわけです。だから幼児の発達段階には必ずそれが生じているし、それ自体では良いも悪いもない。いわば状態像としてのナルシシズムと言ってもいいでしょう。ところがDSM的な自己愛は先ほど言ったように、自己中心的で人を利用する、いわばパーソナリティの問題としての自己愛、NPDです。ですからこの二つの自己愛概念はずいぶんかけ離れています。共通する点は、対象がしっかり見えていない、ということでしょうか。するとローゼンフェルトの自己愛の仕事というのは、フロイトの議論と、NPD的な自己愛という概念との橋渡しをしているというところがあります。そしてその上で、Rosenfeld の自己愛論の特徴とは何かを述べるならば、それはフロイトのいった自己愛神経症、つまり精神病、統合失調症を論じたものなのです。そしてその病理としては、フロイトの破壊性や死の本能、それを踏襲したクライン派の羨望や攻撃性をその根拠としてみることになります。ところが米国でのBPDの流れを受け、いやおうなしにRosenfeld の自己愛理論も、DSM的なパーソナリティ障害としての自己愛の議論に引き寄せられることになります。第一統合失調症を自己愛の病理というフロイトの議論にかなり無理があったわけですから。もっと言えば、精神病の病理とは、自己愛、というより自閉ですからね。そのことはRosenfeld もどこかでわかっていたのでしょう。そこでRosenfeld もそれまでのpsychotic という表現から、psychotic and borderline という呼び方をされる様になります。Psychotic とボーダーラインでは全然違うのにそれが同じ遡上で論じられるということがおきています。少し先走ってしまいましたが、ゆっくり説明いたします。
まずはRosenfeld とはどのような人物なのかについて御紹介します。1909年ドイツ出身。フロイトより半世紀遅れてこの世に生を受けました。BionSegalと並んで,第二次世界大戦以後のクライン学派のもっとも重要な後継者の一人とされています。まあクライン派の大御所という感じですね。1986年に死去ということですから、ここにいらっしゃる皆さんの多くが生まれる前にこの世を去ったわけです。つまりかなり昔の人です。後にライバルとなるOtto Kernberg 1928年生まれですから20歳近く先輩です。彼のことはほんの若造、という感じでしたでしょうし、自己愛については俺が先鞭をつけたんだ、という意識が強かったでしょうね。Kernberg自身も自己愛パーソナリティについて論じる際にRosenfeld を引用しています。ただKernbergにしてみれば、僕はしっかり理論化したんだから僕の方が本家だよね、と言うかもしれません。
それはともかく、Rosenfeld はドイツにいる間に小児の情緒障害についての論文で医学博士を取っていましたが、ユダヤ人の医師は患者と接触してはいけない、というヒトラーのお達しがありました。そして医業を続けることができずに、1935年に英国に亡命することになりました。Rosenfeld 26歳ということになります。そして英国に留まるためには何か方法がないかと探し回ったところ、タビストックの精神療法家のための2年コースのプログラムを見つけ、そこに入ることで難を逃れました。そしてオックスフォード近くの精神病院に職を見つけ、後にモーズレーに移っています。最初の病院は典型的なアンシュタルト、つまり病院というよりは収容所で、350人の患者に医者三人、といった感じでした。Rosenfeld は後に精神科医となり、1940年代に慢性統合失調症の患者に対する精神療法的なアプローチに強い関心を抱くようになったわけです。精神医学でも何でも、初期値効果というものがあります。最初に何に出会ったかが、その人にある種の決定的な影響を与えることがあるのです。彼が最初に出会ったのは統合失調症のカタトニーの患者さんだったわけですが、当時はフロイトがそれを自己愛神経症と呼んでいたこともあり、Rosenfeld はいきなり自己愛の病理を扱う運命となったわけです。しかしもちろんこの自己愛は、NPDとは異質のものでした。

さてRosenfeld は精神病の患者さんを扱ううちに、当然の事ながら、ある発見をします。それは精神病の患者さんでも転移が起きるということです。というよりはある種の心の交流を持つことが出来る。これはフロイトの言う「精神病は自己愛的だから転移を形成しない」ということに対してそれとは異なった意見を持つことを意味していました。それを彼は「精神病性転移 psychotic transference」と名づけたわけですが、それを説明する絶好の理論にも遭遇しました。それは彼の分析家であるMelanie Kleinの対象関係理論だったわけです。そしてこの精神病における転移は、Kleinが明らかにした妄想分裂ポジションにおける部分対象関係の迫害不安に満ちた世界が治療者に転移されたものだと主張しました。さらに投影同一化の臨床的な特徴を明らかにし,後の正常な投影同一化の研究の端緒を開いたと言われます。当然ながら投影同一化は私たちみなが多かれ少なかれ持つ傾向ですから、ある意味ではこれは当然のことだったわけです。投影同一化は子供にも、BPDにも、集団にも、あるいは日常心理にもみられるわけですから、この理論を持つことで一気にその理論の及ぶ範囲が拡大することになるわけです。

2018年2月5日月曜日

精神分析新時代 推敲 10

第8章 社交恐怖への分析的アプローチを考える

2011年に書いた論文

そもそも対人恐怖とは

わが国において従来頻繁に論じられてきた対人恐怖(現在では社交不安障害という呼び名がそれに相当するだろう)は、精神分析的にはどのように扱われているのかというのが本章の中心テーマである。対人恐怖と精神分析というテーマについて考える際は、わが国における精神分析の草創期の、森田正馬の姿勢を思い出す。リビドー的な理解を試みる分析学派の論着に対して、森田は果敢に論戦を挑んだと言われる。それから約一世紀たつが、果たして精神分析は対人恐怖を扱う理論的な素地や治療方針を提供するに至ったのだろうか?
 まず精神分析ということをいったん頭から取り去り、対人恐怖とは何かについて論じることからはじめたい。でも最終的に示したいのは、社交恐怖についてもしっかりとした先進分析的な理論が存在するということである。
私個人は、対人恐怖とは「自己と他者と時間とをめぐる闘いの病」と表現することが出来る。対人恐怖は 自分と他者との間に生じる相克であるが、そこに時間の要素が決定的に関与しているということだ。
一般に自己表現には無時間的なものと時間的なものがある。無時間的とは、すでに表現されるべき内容は完成されていて、後は聴衆に対して公開されるだけのものである。その場合表現者の表現は事実上終わっていて、その内容自体は基本的には変更されない。絵画や小説などを考えればいいであろう。両者とも作品はすでに出来上がっている。それが公開される瞬間に、作者は完全にどこかに消え去っていてもいい。それがいつ、どのように公開され、どのような聴衆の反応を得ているかについてまったく知らないでもすむのである。それに比べて時間的な表現とは、今、刻一刻と表現されるという体験が伴う。そしてこの後者こそが対人恐怖的な不安を招きやすい自己表現である。それは以下のような事情による。
私たちは社会生活を営む際、自分自身の中で他者への表現を積極的に行う部分と、なるべく隠蔽しておく部分とをおおむね分け持っているものだ。社会生活とは前者を表現しつつ、後者を内側に秘めて他人とのかかわりを持つことである。このうち無時間的な表現は、上述の通り、それが人目にさらされる際に作者は葛藤を体験する必要はない。しかしそれが時間的なものであり、時間軸上でリアルタイムで展開していくような「パフォーマンス状況」(岡野、1997)では事情が大きく異なる。もしパフォーマンスが順調に繰り広げられるのであれば、さしあたり問題はない。人は自己表現に心地よさを感じ、それがますます自然でスムーズなパフォーマンスの継続を促す。しかし時には何らかの切っかけで、表現すべき自己は一向に表されず、逆に隠すべき部分が漏れ出してしまうという現象が起きうる。そこで時間を止めることが出来ればいいのであるが、大抵はそうはいかない。対人恐怖とは時間との闘いであるというのは、そのような意味においてである。
さて、対人恐怖の症状に苦しむ人は、通常はある逆説的なかの切っかけでではしているという。いるという。現象に陥っている。それは自分の中の表現されてしかるべき部分と同時に、隠蔽すべき分も漏れ出してしまうという現象である。
このようなパフォーマンス状況の典型例として人前でのスピーチを考える。誰でも自分が言いたいことを饒舌に話したいものである。自分が表現すべき内容を、弁舌軽やかに話せているときは気持ちがいいものだ。しかし途中で言葉がつかえたりどもったりして、内心の動揺も一緒に表現され始めたらどうだろう。しかも一度口ごもった言葉は、もうすでに目の前の人の耳に届いていて、決して取り戻すことが出来ないのである。人前で話すことが苦手で、それに恐れを抱いたり、そのような機会を回避したいと願ったりしている人達は多いが、彼らはこのような悪夢のような瞬間を味わった結果として、それに対する恐怖症反応を起こしているのである。
以上は症状として見た対人恐怖に関する議論であるが、対人恐怖にはこれにとどまらない部分が関与していることが多い。それは本来他人の目にさらされると萎縮しやすく緊張しやすい、という性格的な素地があり、他人に対する恥や負い目を持ち、人との接触に際して相手を過剰に意識してしまうというパーソナリティ構造である。それが基礎にあり、そこから顕著な対人緊張症状(赤面、声の震え、どもりなど)を生じて対人恐怖の全体像を形作っていることが多い。このことを私は対人恐怖の持つ二重性として捉えている。ここでの二重性とは、対人恐怖が症状を有する症状神経症という側面と、一種のパーソナリティ上の特徴および障害という側面を併せ持つということである。

対人恐怖に伴う性格的な基盤については、森田正馬(1960)が「ヒポコンドリー性基調」と呼んで論じている。またDSMの疾病分類に従うならば、多くの社交恐怖の患者が、回避性人格傾向、ないしは回避性パーソナリティ障害を有するという事情と同様である。

2018年2月4日日曜日

精神分析新時代 推敲 9

乳児が体を動かし、声を上げることで、それが周囲を変える。例えば手にあたった物が倒れ、また声を聞きつけた母親がとんでくる。ウィニコットはそれが真の自己の始まりであるという。これはあくまでも外界からの侵襲による子供の側の反応としての活動ではないことに注目するべきであろう。自分が動き、世界にある種の「効果」を与えることが、自分が自分であるという感覚、すなわち真の自己の感覚を生むのである。この「効果」に伴う充実感は、例えばRobert White ()の言うエフェスタンス(動機づけ)の議論につながる。彼は生体は自己の活動により環境に「効果」を生み出すことで、そこに効能感や能動感を味わうと考えたのである。

以前プレイセラピーをしていた時のことである。2歳の少年が積み木で遊んでいるところにちょっかいを出してみた。彼がまだうまく積み木を積めない様子を横目で見ながら、私は悠々と 5つ、6つと積み上げてみる。それに気が付いた子供は憤慨したようにそれを崩した。私は頭を抱えて大げさに嘆いて、再び積み始める。子供が再びそれを崩し、私は悲鳴を上げる。そのうちそれが一種の遊びのようになって二人の間で繰り返された。

私の積み上げた積み木に対するこの子供の行為は一種の暴力であろうか?彼は私を攻撃したかったのだろうか? そうではなかったと断定も出来ないであろうだろう。しかし積み上げられた積み木がガラガラ音をたてて崩れることそれ自体が心地よい刺激になって、子供はそれを繰り返すことを私にせがみ、私たちは延々とそれを続けたのでもある。
 この子供が体験したのは何だろうか? 自分が積み木に少しだけ手を触れることで大きな音を立てて世界に変化が生じる。それがごく単純に楽しかったのであろう。これは彼にとっての自らの能動性の確立の役に立ったのであろうが、そこでは彼の神経系の発達、ニューロンの間の必要なシナプス形成と、それに遅れて生じ始めるシナプスの剪定 pruning とを促進したに違いない。もし本能がこの人間の脳の成熟にとって必要なプロセスに密接に結びついているとしたら、自分がある行為におよび世界にある種の「効果」が生じる、というその因果関係の習得はまさに優先されるべき課題であろう。ウィニコットがその活動性と動きの概念を提示した時、まさにそれを論じていたのである。

「動き」と攻撃性、そしてそれに対する抑止

ここから一番誤解を招きやすい点の説明に入らなくてはならない。子供の側の「動き」による「効果」のもっとも顕著なものは、たとえば器物の破壊であり、人の感情の怒りや悲しみなどの苦痛なのである。
 上に示したプレイセラピーでは、子供は私が つまで積んだ積み木を崩してその「効果」を楽しんだ。ではもし 8 つだったら?あるいは塔のように高く積み上げ数十個の積み木なら? それを崩した時はより大きな音がし、それだけ「効果」もそれによる興奮も大きいだろう。そして同様に、あるいはそれ以上に子供がその「効果」に一番反応するのは、実は人の表情であり、感情なのだ。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。自分が泣き叫ぶと、母親が心配顔で駆けつける。積み木を崩すことで治療者が多少なりとも演技的に発した悲鳴も、それに加えていいかもしれない。
人が世界に変化を与え、それにより能動性の感覚を味わうとしたら、他人の感情状態の変化は最もよい候補と言えるというのが私の主張だが、それはどのようにして習得されるのだろうか? それはあくまでも自分の感情体験を通してであろう。自分自身が突然味わう喜びや悲しみや恐怖や痛みの感覚がその「効果」の証拠になる。そして同一化や投影の機制を通じて同様のことが人の心に起こることをモニターするだけで、その「効果」を推し量り、その大きさを感じ取ることができる。
 私たちはみな、しばしばこのような「効果」を人の心に起こそうと試みる。贈りものをしたり、サプライズパーティを仕掛けることで人が喜んだり驚いたりする姿を見ることは単純に楽しいものだ。しかし何といっても最大の「効果」は、他人を攻撃し破壊することに伴うものである。人はもがき、苦しみ、のた打ち回るといった反応を見せるだろう。そしてそこには破壊の極致としての殺人が含まれる。これほど劇的な「効果」はないはずだ。
 もちろん現実の他者に苦痛という「効果」を及ぼすことには強烈な抑制がかかる。それは罪悪感には留まらない。他人を害することは実は私たちにとって最大の恐怖となる。これはおそらく道徳心とか倫理性とかにとどまらない、それよりもはるかに原初的な心性である。道徳心に無縁のはずの動物の社会、たとえばゴリラの社会でも、通常はそこに同種の個体に対する攻撃性への強い抑制が見られることを、霊長類の研究者も伝えている ()。 一般に集団を構成する動物には、相手に対する配慮、あるいは Winnicott の言葉で言えば慈悲 mercy としか言いようのない心性が、本能の一部に組み込まれている。トラの子供たちが爪を立てることなくじゃれ合う時、母トラが子トラの首をそっとくわえて運ぶとき、相手の身体はおそらく事実上自分の身体の延長として体験されているのではないか?そして相手への加害行為には、自らを傷つけることと同等の強烈な抑制が加えられているに違いない。
その結果最大の「効果」を生む加害行為は、想像上の、バーチャルな世界で生き残ることになる。ストーリーやゲームの世界で、攻撃や殺戮がいかに私たちを興奮させ、私たちの精神生活の一部にさえなっているかを考えてみよう。たとえば私たちが親しむ推理小説はどうか?必ずと言っていいほど殺人がテーマになる。人が死なないとスリルが味わえず、面白みが半減するのだ。「〇〇殺人事件」というタイトルの代わりに、「〇〇打撲事件」「〇〇全治一か月事件」などと題された本を想像してみよう。人は店頭で手に取ってもすぐに棚に返してしまうだろう。あるいは囲碁や将棋を考えよう。相手の大石を仕取めたり、王将を追い詰めることは、無上の快感を与えるにちかいない。あるいはビデオゲームを考えればよい。ファイティングゲームでは敵を倒したり、ダメージを与えたりする様なシーンが必ず登場する。これらの例は、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり、破壊したり殺したりすることに喜びを見出しているかを示している。
 私は今でも時々、2008年6月に起きた秋葉原連続殺傷事件のことを思い出す。事件が報道された翌日の外来では、患者さんたちと事件のことがしばしば話題になった。そして驚いたのは、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが、犯人の気持ちがわかる」というものだったのだ。ちなみに私の外来の患者さんたちは特別暴力的な傾向を持つことのない、主として抑うつや不安に悩まされている人々であった。それだけに私には彼らの反応が意外だったのである。私はこの時は非常に驚いたが、今から考えれば少しは合点がいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や物にダメージを与えることは、むしろ全く普通のことであり、むしろそれを現実の世界で抑えているのは理性であり、それが実害をともなわないという認定なのである。

2018年2月3日土曜日

精神分析新時代 推敲 8

すべての源泉としての「活動性」と「動き」

暴力や攻撃性が本能か否かは、心の深層に分け入ることを専門とする精神分析の世界でさえ見解が大きく分かれている。フロイトが破壊性や攻撃性をその本能論の中で説明したことは知られるが、必ずしもそれを支持しない分析家も多い。攻撃性や暴力を本能と見なす根拠はないというのが私の立場であることはすでに述べたが、実は心の世界では「存在しない」ということの証明は難しい。私は数々の凶悪犯罪を犯した人々が存在することを十分に知っているが、それらの人たちの中には、生まれつき血に飢えたかのような特異な行動を人生の早期から示す人も多い。それらの人たちにとっては、攻撃性は本能的なものとして備わっている可能性も否定できないと思っている。そこで私が本章で述べたいのは、幼児期に見られる攻撃性や暴力の大部分は、本能以外で説明されてしまうということになる。そしてそれに関しては精神分析家D.W. Winnicott の立場に近い。ウィニコットは攻撃性を本能としてはとらえず、その由来は、子宮の中で始まる活動性 activity と動きmotility であるという(2)。

<以下追加部分>

Winnicott は Melanie Klein の同時代人ということもあり、また一時はクライン派の一員と目されていたこともあり、攻撃性や死の本能という問題については人一倍関心を寄せていた。しかし最終的にはそれをKlein の様に人間に本来備わった本能と考えることは拒否した。その代りに彼が重視したのは、攻撃性とは注意深く区別された破壊性 destructiveness ということである。これは赤ん坊が手足を動かし、時には結果的にものを破壊するという形をとるものの、赤ん坊が対象を痛みを持つ全体対象としてとらえる前の現象とし、それを前慈悲 pre-mercy とした。そしてそれを母親などの対象が攻撃としてとらえることなく、怒りや報復などを向けないことで(「生き残る」ことで)、子供はその対象を外界に存在する自分とは独立した良い対象として認識していくと論じた。このロジックは非常に美しく、また現実の乳児の心の在り方とも対応していると私は考える。

2018年2月2日金曜日

いかに学ぶか 推敲 1

精神分析をいかに学ぶか?
                    
このテーマを与えられた時にまず心に浮かんだのが、「学びほぐし」という言葉です。これは英語の unlearn の日本語訳ということになっていますが、それは評論家の鶴見俊輔先生(2015年、93歳で没)がこれを「学びほぐし」という絶妙な日本語にしました。これがこの論文のテーマにぴったりという気がします。
学びの最終段階は、必ず一人である
先日あるセミナーで講師を務めてきました。そのセミナーは3人の先生方が「治療関係」という大きなテーマについて連続して講義をするというものでした。しかしあいにく土、日にかけて行われるため、3人の講師が最後に一緒に質問を受ける、ということができませんでした。そしてその後に回収されたアンケート用紙に、ある受講生の方が次のように書いていらっしゃいました。
「患者さんからのメールにどのように対処するかについて、講師Aの言うことと、講師Bのいうことが違っていたので、講義を聞く側としては混乱してしまった。」(ちなみに内容は多少変えた形でここでお出しします。)
この講師Aとはある精神療法の世界の大御所です。そしてこの講師Bとは私のことです。「治療関係」というテーマでの話で、患者さんとの具体的なかかわりに話が及び、そこでA先生がおっしゃったことと、私が言ったことにくい違いがあったことをこの受講生(Cさんとしましょう)が問題にされたのです。私は私の講義で、「患者さんとの連絡用にメールを用いることがあるが、患者さんからのメールに返信するかどうかは、その緊急性に応じて決める」というような言い方をしたと思います。そしてそれに対してA先生はかなり違った方針をお話したのでしょう。ただし私はA先生のお話を聞いていないので、私の想像の範囲を超えません。
私はCさん(および同様の感想を持った方)に対して、混乱を招いてしまったことは残念なことだと思いますが、私にさほど後ろめたさはありませんでした。それよりもむしろ、Cさんの不満は、精神療法を学ぶ上で、非常に重要な点を私たちに考えさせてくれたと思います。それがこの脱学習 unlearning というテーマです。CさんはたとえA先生の方針を最初に聞いて学習したとしても、あるいは私の話を聞いて学習したとしても、結局はどちらの内容に頼ることなく、自分ひとりでこの問題について判断しなくてはならないということです。Cさんは私からメールについて学んだとしても、あるいはA先生から学んだとしても、それを脱学習しなくてはなりません。つまり自分一人で問い直し、自分一人で答えを出すという作業をしなくてはならないわけです。そしておそらくCさんはまだそのことを知らなかったのであろうということです。
もちろんCさんは他のことについてはたくさん学習をなさっていることと思いますし、その一部は脱学習していらっしゃるのでしょう。でもこの患者さんとのメールのやり取り、あるいは電話のやり取り、さらにはセッション外での患者さんとのコミュニケーションのあり方については、彼が一度学んだ後、脱学習する類の問題であることをまだ自覚していないのだと思いました。
精神分析や精神療法の世界では、この脱学習は特に重要になってきます。というのもこの世界では、答えを一つに定めることが出来ないことが非常に多いからです。あるテーマについて、スーパーバイザーごとに、あるいはテキストブックごとに、異なる見解が書かれているのは当たり前だと思います。というよりは講師ごとに、著者ごとに意見が概ね一致しているようなテーマ自体がむしろ少ないのではないでしょうか?
 多くの治療者が共通して賛成することといったら、例えば治療構造の重要性くらいしか私には思いつきません。しかしその治療構造の重要性といっても、具体的な内容、たとえばどこから先を精神分析的な精神療法とみなしますか、という質問になると、たとえば「毎週一回40分」という構造をそれとみなしますか?ということになると分析の先生方の意見は、たちまち分かれるでしょう。

2018年2月1日木曜日

精神分析新時代 推敲 7

7章 攻撃性を問い直す

初出:精神医学からみた暴力
児童心理 69(11), 909-921, 2015-08 金子書房
                     
暴力や攻撃性は本能なのか?
攻撃性の発露としての暴力。これが私たちの社会から消えてなくなる事は夢でしかないようだ。地球上のあちらこちらで殺戮が繰り返されている。東西の冷戦が終焉したかと思えば、局地的な紛争はむしろ多くなっている。テロ行為も頻繁だ。米国では発砲事件が、銃のない日本でも殺傷事件が頻繁にメディアをにぎわしている。
 しかし人が人を殺める、暴行するというニュースが絶え間ない一方では、その頻度や程度はおそらく確実に減少している。古代人の遺骨を見る限り、男性の多くが他殺により世を去っていたことがうかがえるという(1)。国家の統治機構が成立し、民主的な政治体制が整う前には、人が人を害するという行為はその多くが見過ごされ、黙認されてきた。江戸時代の「斬り捨て御免」を考えてみよ。また非民主的な政治体制では国家による人民の殺害こそより深刻だろう。現代社会においてすら、それが通用している場所は枚挙にいとまはない。加害行為の頻度の減少は、文明が進み人間の精神が洗練されたというよりは、むしろ個々の犯罪が公正に取り締まられ、DNA鑑定や防犯カメラなどの配備により犯人が特定される可能性が高まったのが一番の原因ではないか?
私が以上のように述べれば、「人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である」と主張していると思われかねない。しかし私自身は、暴力や攻撃性は人間の本能と考える必然性はないという立場をとる。暴力行為が一部の人間に心地よさや高揚感をもたらし、そのために繰り返されるという事実は認めざるを得ない。ところがそれは暴力が生まれつき人間に備わったものであることを必ずしも意味しない。一部の人の脳の報酬系は、暴力行為により興奮するという性質を有するために、それらの行動を断ち切ることが難しいという不幸な事実が示されているにすぎないのだ。
暴力には様々な形態があるが、このうち一部の暴力は、その根拠が明確であり、納得もしやすい。例えば他者からの攻撃を受けた際に発揮される身体的な暴力などだ。これは防衛本能の一部として理解されるべきであろうし、そこには正当性も見出せる。しかし暴力は時には正当な防衛を超えて過剰に発揮されたり、触発されることなく暴発して、罪のない人々を犠牲にしたりする。私たちが心を痛めるのは、この過剰な、あるいは見境のない暴力行為なのである。「なぜこのような残虐な行為をするのだろうか?」「原因は何なのか?」「再発を防ぐ方法はあるのだろうか?」と私たちは途方に暮れる。そして同時に心の中で次のような疑問を抱くかもしれない。「もしかして私の中にもこのような怒りや暴力が潜んでいて、いつかは爆発するのだろうか・・・・・」。この恐れもまた決して侮れないのだ。

本章は精神分析においてしばしば問題となる暴力や攻撃性の問題に一つの理解の方向性を示すことを目的にしている。私は精神科医であるから、その視点や方向性も「精神医学的」となる。暴力への理解はいまだに錯綜し、未整理のままに多くの理論が提唱されているとの印象を受ける。それは暴力をいかに封じ込めるか、あるいはそのようなことが可能なのか、という議論についてもいえる。そこで私の立場を最初に示すならば、それは暴力を一次的な本能として捉えず、もう少し広い視野から考えるというものである。この点について、以下にまず示したい。