2016年7月14日木曜日

推敲 1-①

今日から第一回目の推敲に入る
 
(1)頭(シュ)医者(リンク)不埒(ふらち)な夢を見る

赤は加筆修正部分

昨夜、おかしな夢を見た。その中で、私は癌を宣告され、余命いくばくもない。自分でも体力が落ちてきているのがわかる。しかし私は特別死を怖くは思っていない。むしろ楽しみなくらいだ。それには秘密がある。死ぬ前に「最後の楽しみ」が取ってあるのだ。
 思えばずいぶんしゃかりきになって走ってきた人生だった。先のことばかり考えていたような気がする。少しでも前に行けないか、そればかりを考えていた。でも最後はゆっくりと、本当の「休息」を取るというのでいいのではないか。努力の結果として受け取る快楽しか自分に許さないという自分が変わってもいいのではないか?
 ふと目の前の予定表を見る。このところ何も予定は書きこまれていない。カレンダーはまっさらだ。ただ一つだけ、一か月後のある日付に「X」と書かれている。そうだ、この日が私のXデイだと主治医に宣告されていたのだ。でもその日まで待つ必要もないだろう。この時折襲ってくる痛みに耐え続けることを思えば、もうこの世に未練はない。それに私にはまだ「最後の楽しみ」が残されている。
私は傍らの未開封の封筒を開ける。何の変哲もない、少し厚みのある茶封筒。他人から見れば、特に重要ではない書類が入っていて、開ける必要すらなくほったらかされたようにしか見えない封筒。しかしそれは特別な印「x」がうっすらと、でもはっきりとつけられているのだ。中からは小型のリモコンのようなものが出てくる。それと一緒に出てくる注意書き。そこには脳の解剖図があり、数か所に点が打たれている。それともう一つの重要な但し書き。「一度ボタンを押すと、もうこのリモコンを手放せなくなるので、くれぐれも注意すること。」
 私は少しためらったあとに私はその「on」のボタンを押す。それは実は不思議なボタンであり、私の脳の数か所がそれによりごく微弱な電気刺激を受ける仕組みになっている。それは「側坐核」や「透明中核」、「中脳被蓋野」などといった部位であり、いわゆる「報酬系」や「快感中枢」と言われている部位である。私の脳のすごく奥深く、中心の部分に細い電線を通して、電極が埋め込まれている。私の友人の敏腕な脳外科医ドクターS(通称、「時々失敗するドクターX」に極秘で手術してもらったのだ。幸い電極のスイッチとはワイヤレスでつながっているので、リモコンボタンで何とかなる。
ボタンが押された数秒後に押し寄せる言いようのない心地よさ。私は感じた。
「これだったのだ!」
私が長らく求めていたが、決して体験できなかったもの。一種の悟りにも似た境地。最後の到達点。お花畑にも似た、華やかで楽しげな、しかしそれをおそらく数倍は増幅したような境地。もういつ死んでもいい。いや、死ぬのはもう少し待ちたい。この心地よさに少しでも長く浸れるのであれば・・・・・。
ここで私は目が覚めたのである。なんと不謹慎な夢を見たのだろう。精神医学や脳科学の知識がなければ見ないような夢。なんとフシダラな人間なのだ・・・・。
ところで「不埒な」、という表現を使っているが、私自身にはこのような夢を見る根拠がないわけではない。人の一生は儚い。大抵の人が、人間が体験しうる最大の苦痛や恐怖も、最上の幸福も体験せずに、普通の人生を営むのではないか。そして人はやがて老い、力尽き、死んでいく。おそらく病院のベッドでごく少数の人に見送られながら。おそらく彼は10年ほど前だったら、「死ぬまでにあれもして、これもして…」と夢見ていた可能性がある。しかしおそらく彼はその10分の一も、百分の一も体験することなく死期を迎えるのだ。彼がチャンスを逃したからだろうか?おそらくそうではない。いざとなるといろいろな事情があり、できなかったのだ。
後に述べることだが、報酬系を別の手段で刺激することに魅了されている人は大勢いる。覚せい剤などはその典型だ。しかしそのための健康被害や払うべき社会的代償はいかばかりのものだろうか? 夢の中の私は違う。自分の脳の一部を自分でチョイチョイ、と刺激して、少しだけいい気持を味わってこの世を去るのだ。恐らく誰も体験しない「最上の幸福」を味わって。これって死刑囚が最後に一服与えられる煙草に似ていないか?

レバーを押し続けるネズミ
報酬系に少しでも関心がある人にとっては、もはや古典的とも言える実験がある。心理学の教科書には必ずと言っていいほどに出てくるが、念のために振り返っておこう。
 1954年のことだから、私が生まれる二年前だ。米国カリフォルニア大学にジェームス・オールズ教授とピーター・ミルナー教授という二人の学者がいて、ネズミを使った実験を行った。ネズミの脳の様々な部位に電極を入れ、ネズミ自身がレバーを押すことで弱い電気が流れ、脳内のそれらの部位が刺激するという装置を作った。彼らは動物の動機づけを知る上で、網様体賦活系というところを刺激することを考えていたという。そしてその部分に電極を差したつもりになっていた。そしてラットの反応を見ていると、どうやらその刺激をラット自身が欲していることをうかがわせる行動を見せた。そこで彼らはラットをスキナーボックスに入れてみた。スキナーボックスには様々なレバーや信号や、それによる報酬を与える仕掛けが備わっている。そこにレバーを設置し、それを押すとラットの脳の該当部位に信号が流れるようにした。すると・・・・ラットは一時間に2000回という記録的な頻度でレバーを押すようになったのである。

オールズらの実験の興味深いところは、ネズミは寝食を忘れて死ぬまでレバーをを押し続けた、というところであるが、おそらくこの実験が革命的であったことは間違いない。それまでどうやら脳というのは、そのどの部分を刺激しても不快感しか生まず、ネズミはそれを回避する傾向にあると信じられていたということだ。

2016年7月13日水曜日

自傷と報酬系 ④


DSMの非自殺的な自傷行為の記載を見ていて思った。三つの場合を想定していることになる。
(1)否定的な気分や認知の状態を緩和する
(2)対人関係の問題を解決する
(3)肯定的な気分の状態をもたらす
ところがここに、例えばヘロインの離脱の状態は入ってこない。禁煙中でどうしても我慢できなくて、リストカットをしました、という話も聞かない。つまり報酬系がその満足のための物質をピンポイントで求めている時、自傷はその代替手段にはならないのだ。ただしその逆はあるかもしれない。失望体験があったのでやけ酒を飲んだ、とか。家族に会えない寂しさから、覚せい剤に走ったとか(某もと野球選手?

報酬系にはいくつかの状態像が考えられるのではないか? 例えば過剰興奮状態や過少興奮状態。精神的な苦しみを抱えて、自傷行為を求める場合には、ある種の精神的な痛みを和らげるためにその手段が選ばれる。ところがそれは特定の満足手段を有するのかどうかにより性質が異なる。
過少興奮状況にある報酬系には、

1.目標となる物質が存在する場合(動的な不快1) ← 自傷は生じない。(自傷では和らげられない。)
2.目標となる行動が存在する場合(動的な不快2)← 強迫行為を行う
3.苦痛を回避している場合 (動的な不快2)
4.心理的な要因がある場合 (静的な不快)← 喪失体験など。自傷により和らげられる可能性がある。

過剰興奮にある報酬系
1.報酬勾配に導かれている場合(動的な快)
2.現時点で快楽を味わっている場合(静的な快)


2016年7月12日火曜日

自傷と報酬系 ③


自傷行為が始まる機序に関する仮説

やはり仮説がなきゃね。もちろん科学的な根拠はあまりない。昨日バスの中で、そして新幹線の中で考えていたが、やはり自傷行為にはある種のストレス状況が存在していたはずだ。ロレッタ・ブルーニング博士もそのエッセイで書いていたのだが、あるストレス状況で、それに対処する手段がないとき、人は、動物は追い込まれて、ふとしたことからパニックボタンの存在に気が付くのであろう。退屈さの極致におかれたサルは、ふと体に及ぼされる痛み刺激が、通常とは違う感覚を生むことを知る。腕をひっかく、足をどこかにぶつける、などの偶発的な出来事かもしれないが、それで十分だ。腕をひっかいても痛みではなく、何となくほっとして心地よさを与える状態になっていることに気が付く。そうして意図的な自傷行為が成立するのであろう。
このように考えると、自傷行為の成立には、極度のストレス状況、それもおそらくは幼少時に生じたもの、という仮説が成り立つのだ。ふつう私たちはストレス状況に置かれて、ある種の活動を行うことで窮地から脱出する。天敵に襲われそうになったら、物陰に身をひそめたり、必死で逃げたりするだろう。しかし自傷行為が生じるような状況では、ストレスを軽減する具体的な手段が何もない、という事情があるのだろう。退屈さもそうであるし、怒りや反抗心を表出するような機会が奪われていてその状況に耐え続けなければならないこともあろう。その時にパニックボタンが押されるのだ。
痛覚刺激からパニックボタンへの推移の成立は、種々の精神神経学的な障害でも生じることが知られる。自分の唇さえ噛み切ってしまうようなレッシュ・ナイハン症候群など。まあ一種の脳の配線異常ということになるのだろう。そしてもちろん幼少時の虐待状況もこれに相当することになる。
ちなみにDSM-5には付録に「今後の研究のための病態」というのがあり、そこに非自殺的な自傷行為 Nonsuicidal Self-Injury という項目がある。参考までに。

A.その損傷が軽度または中等度のみの身体的な傷害をもたらすものと予想して(すなわち,自殺の意図がない),出血や挫傷や痛みを引き起こしそうな損傷(例:切創,熱傷,突き刺す,打撲,過度の摩擦),過去1年以内に,5日以上,自分の体の表面に故意に自分の手で加えたことがある
:自殺の意図がないことは,本人が述べるか,または,死に至りそうではないと本人が知つている.または学んだ行動を繰り返し行つていることから推測される
B. 以下の1つ以上を期待して,自傷行為を行う
(1)否定的な気分や認知の状態を緩和する
(2)対人関係の問題を解決する
(3)肯定的な気分の状態をもたらす
:望んでいた解放感や反応は自傷行為中か直後に体験され,繰り返しそれを行うような依存性を示唆する行動様式を呈することがある
C. 故意の自傷行為は,以下の少なくとも1つと関連する
(1)自傷行為の直前に,対人関係の困難さ,または,抑うつ,不安,緊張,怒り,全般的な苦痛,自己批判」のような否定的な気分や考えがみられる
(2)その行為を行う前に,これから行おうとする制御しがたい行動について考えをめぐらす時間がある
(3)行つていないときでも,自傷行為について頻繁に考えが浮かんでくる
D. その行動が社会的に認められているもの(:ボディービアス,入れ墨,宗教や文化儀式の一部)ではなく,かさぶたをはがしたり爪を噛んだりするのみではない
E その行動または行動の結果が,臨床的に意味のある苦痛,または対人関係,学業,または他の重要な領域における機能に支障をきたしている
F その行動は,精神病エピソード,せん妄,物質中毒または物質離脱の間にだけ起こるものではない。神経発達障害をもつ人においては,その行動は反復的な常同症の一様式ではない その行動は,他の精神疾患や医学的疾患(:精神病性障害,自閉スペクトラム症,知的能力障害,レッシュ―ナイ八ン症候群,自傷行為を伴う常同運動症,抜毛症,皮膚むしり症)ではうまく説明されない。


2016年7月11日月曜日

自傷と報酬系 ②


報酬系はおそらく細胞死を防いでいる(仮説)あるいは
「自傷行為に至る精神は渇望に似ている」

これまでの私の思考過程を要約すると、自傷行為は、心が限界状況に達した時のパニックボタンである、ということだ。それまでは痛みという不快刺激しか与えなかった自傷行為が、突然自分を救ってくれる行為となる。普段は絶対押すべきでないボタンが、緊急時用のパニックボタンでもあった?報酬系とは駆け込み寺なのだ。そこが発動することで、精神が破滅の危機から救い出される。精神の、というか中枢神経系の、と言うべきであろう。危機状態が長く続くと、神経細胞のアポトーシス(自然死)を起こしかねない時に、報酬系はその興奮を強制的に和らげる。その意味で神経を保護しているのだ。最近の神経保護 neuroprotection は、一つの学会が出来るほどだが、( Global College of Neuroprotection and Neuroregeneration (GCNN))報酬系は絶対に細胞死を防いでいる、というのが私の仮説である。
私の発想は、ここから渇望の問題に飛ぶ。渇望とは何か、は私が昔から考えていたテーマである。脳の中は一体どうなっているのか。たとえば「苦しい…ヤクが欲しい…」は渇望だろうが、「苦しい…おなかが痛い…」とどこが違うのだろうか?プロレスなどで、寝技をかけられ「て苦しい…、ギブアップ…」とマットをたたいてサインを送るときは、渇望と似ている。だが急性膵炎で喩えようのない苦しみには、「ギブアップ」が存在しない。それでお腹を抱えてうずくまるしかない。それどどう違うのか。
幸いなことに極度の苦しみは、そのうちその人の意識を奪う。人はもうろうとなり、そのうち意識を失うということで極限状態に対処するのである。はるか二十数年前、神さんの出産に立ち会ったが、陣痛が始まった時は余裕だったが、そのうち苦しみだし、会話が出来なくなり、うずくまる様になった。これは苦しそうだな、と横で見ていたら、そのうち朦朧となっていったのである。その時点で無痛分娩に切り替えたのであるが、この体験は神さんのトラウマにはなっていない。あれほどの苦しみだったのに。意識には体験できる苦痛に上限があり、それ以上は免除してもらえるというのは見ていて少し安心したが、そこで起きているのは神さんのように意識が薄れるか、あるいは解離のように、意識を痛覚から切り離すというメカニズムである。すると渇望とはそうなる直前の、ある意味では意識が体験できる苦しみの限界ということになろうか。そしてそれに対する出口が用意されているが、得られないということを同時に意識が知っている状態。時々思うのだが、渇望の時の苦しみは、残っている意識で体の姿勢を保ち、周囲の目を気にして普通にふるまうことに限界を感じている状態とは言えないだろうか。極度の痛みを体験している時、人は最終的にうずくまってしまい、その先には意識消失が待っている。ところが人前でその痛みを隠さなくてはならない事情があるとしたら、その時の苦痛は姿勢や表情の維持ということに起因するだろう。通常は自然に出来ていることを一つ一つ随意的にこなさなければならなくなり、言わばその労作がそのまま苦しみとなる。ちょうどマラソンでゴール手前になると、普段は当たり前のように踏み出している一歩一歩が苦痛となるように。
そう、細胞死の話だった。精神医学の基礎知識として言えるのは、神経細胞は過剰な興奮によりカルシウムチャンネルが開いてたくさんのカルシウムイオンが細胞内に流入して、それが細胞を殺してしまうという、先ほどのアポトーシスという現象が生じるのである。報酬系がすることは、快感を提供するというよりは、過剰な興奮にさらされている神経細胞を強制終了してしまうという意味があるのではないか。まさに英語圏の人々が言うところの reduce the tension が生じるというわけだ。その意味では、渇望≒自傷行為に至る状態、ということが出来るのではないか。

2016年7月10日日曜日

自傷と報酬系 ①

自傷と報酬系 

自傷と報酬系との密接な関係は、ここまで本ブログを読んで来られた方にはもはや明らかであろう。世の中には自分を傷つける行為を繰り返してしまうひとがいる。「いろいろなハイがある」の章にもそれは描かれていた。自傷行為の存在は長年心理学者や精神医学者の関心の的であったことは間違いない。それに対する理解の仕方の雛形となったのが、自罰傾向である。
私が精神科医として駆け出しの頃、昔出会った忘れられないケースがある。彼女は20代後半の女性で、最近結婚した同い年の御主人と幸せな日々を送っていたが、徐々に一つの問題が生じるようになった。ご主人が朝出かけることに耐えられなくなっていったのである。ある朝、どうしてもご主人が出かけなくてはならないときがあった。すると彼女は自傷行為に及んだのだ(詳細は割愛)
私は自分を傷つけるということの意味をそれまでまったく知らないでいたが、そこで一つの明らかなことを知った。彼女たちは精神的な辛さに出会ったときに自分の体を傷つけるということである。この一見矛盾した行為が自傷の本質であるということをまだ十分につかめないでいた。
米国でも同じだったが、一つ患者さんが繰り返すことで馴染みになった言葉があった。それは自傷することで reduce the tension が生じる、という言い方である。テンションが下がるということだる。 
この自傷行為について、動物の観察から見てみよう。というのも自傷行為は動物でもしばしば観察されるからだ。たとえばアカゲザルは自分をかむという行為をしばしば見せる。一般に霊長類は極度に退屈すると常同行為をはじめ、終いには自分自身にかみつくという行為に及ぶという。動物がフラストレーションを与えられて逃げ場をなくすとき、それは自分の一部を繰り返し噛むようになるといわれる。(以上、National Geographic Blog
The Science of Self-Mutilation Posted by Rebecca O'Connor in Taboo on June 22, 2012
ある心理学者の書いた記事は、自傷行為について一つの重要なヒントを与えてくれる。ロレッタ・ブルーニング博は Roletta G. Breuning Ph.D は、“Self-Harm in Animals: What We Can Learn From It. Self-destructive behaviors get repeated until they’re replaced.( Posted May 21, 2013 at Psychology Today”Website) で、霊長類の観察を通して、動物が毛を抜く行動は、単なるトラウマやストレスのせいだと理解するわけにはいかないという。サルの子は親が自分の毛を抜くのを見て模倣することもあるという。そしてこれが一種のグルーミングの延長にあるという理論を提唱する。グルーミングは基本的には自分を慰撫する行為 self soothing behavior であることは確かだ。動物はそれを相手に対して行い、社会的な結びつきを深めるが、自分に対しても行う。それが度を外した形で生じるのは、ストレスやトラウマに対してそれを回避する手段がない状況に追い詰められた状態であるというのだ。それは極度のフラストレーションや「テンション」を和らげてくれる、という意味なのだ。
ただここで一つ不思議な現象がある。それは自傷行為は痛みを通常は伴わないということである。それよりはむしろ快感を、ハイを感じさせる。
結局自然が動物に、そして私たちに与えてくれたメカニズムは以下のとおりである。動物が極度のストレスにおかれ、そこから逃げられる手段がない場合(それには極度の退屈さも含まれる。退屈さとは過剰なエネルギーと時間を持っていてもそれを投入する手段を持たない状態だからである) 自傷行為は、精神的な崩壊を防ぐために報酬系を刺激するための手段なのだ。しかし報酬系が直接刺激されるような特別なボタンなどない。そこで非常ボタンが用意されている。それは通常は押されないのは、それが自己破壊的であり、その際は痛みという信号でアラームが鳴り渡り、そのボタンが押され続けることを防ぐ。ところがストレス下では、そのボタンが緊急ボタンとなる。痛みは解除され、直接報酬系に直結するのである。なかなかいい例えではないか。

2016年7月9日土曜日

いろんなハイがある ⑤

スカイダイビング・ハイ
ある芸能人が罰ゲームでスカイダイビングをやらされ、高所恐怖症気味なために、実際に飛び降りるまで大騒ぎだったと言う。着地したところをインタビューしようと近づくと、涙を流している。さぞ着地して安心したのかと思ってきくと「こんなすばらしい体験があるなんて知らなかった・・・・」と感動してないているのである。
スカイダイビングに根強いファンがいるのは、やはり彼らが体験するハイのためだろう。彼らはすべての重力からの開放感を語る。鳥のようになったようだ、というのだ。しかし結局はアレ、報酬系である。
これについて書こうとしていると、面白い論文を手に入れた。Carlson JM, Cha J, Fekete T, Greenberg T, Mujica-Parodi LR.: Left medial orbitofrontal cortex volume correlates with skydive-elicited euphoric experience. Brain Struct Funct. 2015 Nov 7.ひところで言えば、脳の左眼窩前頭皮質の容積が大きい人ほど、初回スカイダイビングで快感を味わうのだと言う。その論文には、それ以外にも以下のようなことが書いてある。
 OFCの中でも特にmOFCは快感と、 lOFCは不快体験と結びついていると言われる。そしてmOFCが大きい人はより大きな快感を味わえると言う報告がある。快感を味わうことの出来ないうつ状態の患者のmOFCの容積は小さくなっているという報告がある。また統合失調症の患者の体験するアンヘドニアはmOFCの容積と逆比例であるという。つまりmOFCは快感の強さそのものではなく、体験から喜びを得られる能力と考えるべきであろう。


OFCと報酬系の関係、ちょっとノーマークだったな。ためになったぞ。

2016年7月8日金曜日

いろんなハイがある ④

首絞めハイ

信じられないだろうが、「首絞めゲーム」「気絶ゲーム」なるものが存在する。要するに首を絞めて脳を酸欠状態にしてハイを味わうというゲームである。英語圏ではchoking game (まさに「首絞めゲーム」, fainting game (失神ゲーム)などと呼ばれる。 欧米だけの問題かと思いきや、わが国でも、例の「阿部定」でひところ話題になったこともある。(これについては少し後に述べよう。) 米国やカナダでは、特に思春期の若者にこのゲームが蔓延し、不慮の事故死につながる例も数多く報告されている。問題は脳の酸欠状態が一種のハイの状態を作り出す可能性があると言うことだが、もちろんそのようにはうまく行かず、また単にハイを得るだけの首絞めが、縊死に至ってしまうという場合も少なくない。想像していただくとわかるだろう。快感を得るために、自室で自分で首にひもをかけて絞める。そのうち快感より先に失神が生じてしまう場合も十分ありうる。その場合は当然手の力が緩み、首の締まりも自然と緩むことを期待する。しかしひも自体が絡まったり緩んでくれなかったら・・・・・、後は死を待つのみだ。実際に若者が自殺を意図したのか、あるいは単にハイを求めていたのかが、検死でもわかりにくい場合も少なくないという。
 首絞めハイの世界は奥が深く、様々なバリエーションが存在するが、一つの違いは、そこに性的な快感が伴うかどうかと言うことである。そうである場合も、そうでない場合もある。少しWIKI様の力を借りよう。「阿部定事件は、1936年に仲居であった阿部定1936年(昭和11年)5月18東京市荒川区尾久待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。事件の猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年520)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。1936(昭和11年)5月16の夕方から定はオルガスムの間、石田の呼吸を止めるために腰紐を使いながらの性交を2時間繰り返した。強く首を絞めたときに石田の顔は歪み、鬱血した。定は石田の首の痛みを和らげようと銀座の資生堂薬局へ行き、何かよい薬はないかと聞いたが、時間が経たないと治らないと言われ、気休めに良く眠れるようにとカルモチンを購入して旅館に戻る。その後、定は石田にカルモチンを何度かに分けて、合計30錠飲ませた。定が居眠りし始めた時に石田は定に話した 「俺が眠る間、俺の首のまわりに腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれおまえが俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない」と。しかし定は石田が冗談を言っていたのではと疑問に思ったと後に供述している・・・・。ナンだ、単なるコピペじゃないか!!

次にこれを入れよう。以前に書いたものと一字一句同じだ。
コンバットハイ
戦争における「人殺し」の心理学 (デーヴ グロスマン (), Dave Grossman (原著), 安原 和見 (翻訳)2004年((ちくま学芸文庫)– 2004年)は優れた情報の宝庫である。
 彼はその中でコンバットハイ、すなわち「戦争中毒」という状態を紹介する。銃撃戦の際に、体内に大量のアドレナリン(という表現が、このような文脈では非常に多いが、正しくはドーパミンということになろう)が放出され、いわゆる戦争酔いになるためだ、とある。しかしこれは極めて危険な状態でもあるという。なぜなら次の一発の為なら破れかぶれで何でもするようになるからだという。ターゲットを倒した時に、快感を覚える人は少なくないという。ハンターや弓矢の射手がそのような体験をする。中、長距離で殺人に成功した場合には特にそうであるという。
 戦闘中に他人を殺めたことで得られた快感を人はあまりに口にしないという。それをしただけでたちまちとてつもないバッシングに遭うからだ。しかしベトナム戦争でそれを体験し、すぐに戦場に舞い戻りたいと思っていた兵士が存在するという。彼らは、戦闘体験を「究極のでかい獲物のハンティング」と呼ぶそうだ。
 私は時々思うのだが、狩猟とはきわめて矛盾に満ちた行為である。射撃をスポーツと割り切り、空中に投げ上げられた標的を打ち落とするのであればまだいい。しかし基本は動物を射止めるのがハンティングである。その名手が反社会性や残虐性を備えているというわけではない。ゴーグルや耳あてを外せば善良なお姉さんやオジさんだったりする。しかしその世界で生計を立てたり、それに熱中したりする人の中には、必ずやこの種の快感を体験する人がいるはずだ。そしてそれは必然的にそうでなければならない。なぜなら狩猟は私たち祖先が、人類の歴史の99.9パーセントにおいてそれを首尾よく行うことにより生きながらえてきたからだ。よき狩猟者であることは適者生存の原則に合致し、私たちのDNAに組み込まれていることになる。しかしそれは同時に殺戮行為であり、獲物に著しい苦痛や恐怖を味あわせるきわめて残虐な行為なのである・・・・・。
 私は別稿で、快感を与える行為は自分の中では倫理的に正当化される傾向にある、という趣旨のことを書いたが、このコンバットハイは、その例外と考えざるを得ない。というのもコンバットハイはしばしば強烈な罪悪感や自己嫌悪を引き起こすことがあるからだ。それもそうだろう。非人道的な行為を犯すことで快感を得るような自分を許容できない人の方が、むしろ「正常」だろうからだ。