2015年12月5日土曜日

精神分析技法という観点から倫理問題を考える(1)

はじめに
本章のテーマは、精神分析療法の技法という視点から、倫理の問題を検討することである。一般に精神療法家が備えるべき能力に関しては、そこに技法的な要素が存在することは間違いない。精神分析の歴史においても、しばしば治療技法が論じられてきた。しかし近年になり、精神分析の理論にはさまざまな発展や変遷が生じた。そしてそこに倫理的な問題が重要な要素として絡むようになり、分析的な治療技法を論じることは多くの複雑な議論を生むようになってきている。それは端的に言えば、技法を重んじることと、倫理的な原則を守ることとの間に整合性があるか、という問題をめぐっての議論である。

フロイトの精神分析における治療技法
精神分析においては、その創始者であるフロイト自身がいくつかの技法を提案した。そしてそのことが精神分析における技法の重要性への認識を決定的なものとしたと言える。精神分析の主たる目的は、患者の持つ無意識的な幻想や願望を解釈を通して明らかにすることとされた。そしてそれを目的とした患者とのかかわりは、通常の面接とは異なる特殊性とそれに伴う技法を必要としたのである。
 フロイトは精神分析の基本規則として、まず患者の側の「自由連想」および「禁欲規則」を挙げた。それらは後に匿名性、禁欲原則、中立性の三原則として論じられることが多い(Treurniet, N 1997)。これらのフロイトによる技法論は、歴史的に見ればその重要性が徐々に失われつつあるが、現在でも臨床家の一部には受け継がれているといっていい。
 フロイトによる技法論の展開について、もう少し細かく見ていこう。フロイトは、13の技法論を書いたことが知られる。それらは”Zur Technik der Psychoanalyse und zur Metapsychologie (5.という一冊に収められ、邦語訳でも一書フロイト著作集第9小此木訳、人文書院 1983年)にまとめられている。それらを読むとフロイトが精神分析を確立する過程の様々なプロセスも合わせてたどることが出来る。小此木はフロイトの技法論を手短に知るために特に3つの論文を挙げている。それらは「分析医に対する分析治療上の注意」2と「分析治療の開始について」3そして最も重要なものとして「想起、反復、徹底操作」4である(11
初期のフロイトの治療技法は、無意識内容の意識化という最も基本的な路線に沿ったものであり、また「夢判断」の段階では、夢内容の解釈を与えるのみで十分だと考えていたようである。しかしフロイトはやがて、それだけでは十分ではないという認識を得るようになった。それが患者の側の反復強迫などの抵抗の発見であり、その為に徹底操作抵抗の分析といった介入を考えるようになったのである。それが最も重視する論文「想起、反復、徹底操作」により一定の完成を見たことになる。
フロイトの展開した技法論は、その後何人かの分析家によりより詳細にまとめられた。フェニケルによる技法論Fenichel, O (1) や、わが国でもよく知られたMenninger, K治療技法論(10)は、そのような路線に従って書かれたものである。これらにおいては精神分析が治療法としてすぐれているという確信と、技法論の発展とは深く関係していたと言えよう。

フロイト以後の技法-「基本原則」と「経験則」
フロイト以降の技法論において生じた変化とはどのようなものだったのだろうか? それは匿名性、禁欲原則、中立性という原則に沿ったフロイトの技法をいかに遵守するかという立場から、実際の精神分析の臨床をどのように進めていくのか、その中でフロイトの技法をどのような形で運用していくのか、というテーマへの移行である。フロイト自身はこれらの治療原則を唱えた一方では、実際にはそれとはかなり外れた臨床を行っていたという数多くの報告がなされている(Lynn, 1998など)。この事情は端的に治療原則をそのまま臨床場面に当てはめることがいかに難しいかを表しているといえるであろう。実際の分析療法では、これらの原則が実際にはどのように運用され、臨床に応用されるのか、という議論への移行はある意味では必然であったともいえる。
1960年代の半ばに出版されたグリーンソンのテキスト (6) は最も広く読まれた精神分析のテキストのひとつといえるが、そこに収められた技法には、現在においても臨床場面に応用できるものが多く含まれている。それらの多くの中からたとえば抵抗の扱い方に限定していえば、「抵抗は、その内容に入る前に表層から扱う」とか「転移の解釈は、それが抵抗となっているときに扱う」などの記載がある。ただしこれらは、技法というよりもむしろ分析療法を進める上での経験則ないしは教訓ととらえるべきかもしれない。
 一般に精神分析的な技法と呼ばれるものには、フロイトの述べた技法論およびそれを敷衍したものと、実際に分析療法を進める上での経験則ないし教訓といったものに分けられよう。そこで本稿ではこれらを「基本原則」と「経験則」という呼び方を用いて分けて論じることにする。
 「基本原則」とはフロイトが技法論の中で述べたものであり、本来の精神分析が行われる上で守られるべきルール、という意味である。それに比べて「経験則」としての技法とは、「このように考え、あるいは進めることでより効果的な治療を行うことができる」という臨床経験の蓄積から得られた教え、「それを守ることが効果的であることが知られている」ものという意味を持つ。この「経験則」は時には「基本原則」との齟齬すら生じる。すなわちそれはいかに「基本原則」に乗っ取って精神分析を正しく行うかというよりも、いかに関係性を重視し、ラポールの継続を見据えつつ分析作業を行うかという、より患者の側に立った原則ということができる。先ほどのグリーンソンの技法論にはこの意味での「経験則」としてのそれが多く論じられている。

2015年12月4日金曜日

解釈を超えて(4)

自己承認と発見が同時に起きる

1990年から1995年は私が精神分析を受けていた時代だが、一つ印象に残っていることがある。私の分析家ドクターKは私に一つのメッセージを繰り返し送っていたが、私がなかなか受け入れる事が出来ないことだった。今でもひょっとすると受け入れていない。それは「私が私でいい」ということだった。私が自分の人生の中で起きたことを話すと、彼は「どうしてそう考えるのだろう?」などとドクターKは首をかしげることがあった。(といっても私はカウチに寝ていたので、彼が実際に首をかしげたのを見たことはなかったが。)私が私のままでいい。そういわれてもやすやすとは受け入れられない。私はまだ私でないのだ。これからなるのだ。できることならば…。このことは同時にもう一つの重要な点を示していた。「私は私でいい、と思わせてくれるような人に、これまで出会うことがなかった?」私には小此木先生も高橋哲郎先生もいた。「いいよ」と言ってくれているような気もした。でも私は彼らに「よき息子、良き生徒」としてしか接していなかったのだから、「いいよ」と言われるのも想定内なのだ。いわば条件付きのものなのである。ドクターKの場合は、最初から「いいよ」であったと思うし、私はよき息子であり続ける必要があった。
 おそらくドクターKは私がやろうとしていること、してしまったことを「いいよ」とは必ずしも言っていなかった。しかし私が自己承認を行っていなかったことが、結局私の行動や考え方に表れてしまっているということはうかがえた。自己承認が、「自分は自分でいい」という発見とつながっていた? 精神分析により最終的に行き着くのは、自分が自分であっていいということか? というより自分が自分であっていいとどうして思えないのか、という問題がここに絡んでいる。「あの事があったから?」「あんなことをしでかしたから?」「自分がこんなだから?」「あれもできないしこれもできないからか?」それを一つ洗い出していくことも作業の一つかもしれない。 
今私が書いている自己承認の問題は、実はある種普遍的な問題でもある。どれほど多くのクライエントが、自分を受け入れられず、「こんな私ではだめだ」「生きていく価値がない」「消えたほうがましだ」と訴えることだろう?「自分が自分でいい」とはなんと受け入れがたいことだろうか? そして最終的に得られる(であろう)自己承認は発見なのか?解釈により導かれることなのだろうか?

自己承認。それはフロイトがフリースとの間で、ユングやフェレンチとの間で求め続け、部分的にそれを得られることで発見の糧にしたものではなかったのだろうか?

自己愛の観点から見た治療者の自己開示・推敲 (6)

Bの治療的、非治療的な要素
B 不可避的に生じる自己開示については、B 治療者に意識化されている自己開示、B 2  意識化されていない自己開示、に分けた。ただしここで「不可避的」という表現についてひとこと但し書きをしておきたい。治療者はそれなりの努力により、自分の情報が極力クライエントに伝わらないようにすることもある程度は可能である。しかしそのための努力やストレスがかえってその業務にネガティブな影響を与えるべきではないであろう。そこで治療者が自然で健康的な社会生活を維持しつつ業務を行う上で、おのずと、自然に生じる自己開示のことを「不可避的」なそれと表現していると理解していただきたい。

B1の治療的要素としては、治療者が防衛的にならず、自分に関する事情をことごとく治療室から消し去るような態度を取らないことが、クライエントに安心感を与える。
B1の非治療的要素としては治療者のことをあえて知りたくないというクライエントの気持ちには反することになる可能性がある。
B1とはたとえばオフィスに治療者の私物や写真が無造作に置いてあったり、治療者がクライエントが読んだり購入したり出来る形で出版物を発表したりするような場合である。また最近ではインターネットを通じた自己表現、たとえばホームページやブログ、ないしはツイッターも含まれるであろう。このうちそれがクライエントの目に触れることを十分に意識しているものの多くはB1に含まれることになる。それが治療的な意味を持つこともあるだろう。
  オフィス、待合室などの治療空間は過度に露出的な環境であることは治療的ではないが、治療空間が「無菌的」である必要もない。そこでクライエントの目に触れる可能性のあるものとして何があるのかについて、治療者は十分配慮をするべきであろう。たとえば治療者がオフィスに家族の写真をおいてある場合、それが大きく目立つような形でデスクの上に飾られているか、小さなフレームで本棚の上に目立たずにおかれているかで、かなり意味合いが異なる。もし治療者がことさらにオフィスに物を置かず、貸しオフィスのように生活感が感じられないものを用意しているとしたら、それは治療者の「私の個人的なことは一切知られたくない」という意図をクライエントに感じさせてしまうかもしれない。しかしそうでないとしたら、「私は特に個人的なことを無理して隠そうとはしていません」というメッセージを発していることになり、治療者は防衛的にならず、クライエントをある程度は信頼して気を許しているという雰囲気を伝えるかもしれない。それは治療的といえよう。
もちろんクライエントに「不可避的に」伝わる治療者の個人的な情報が、クライエントに失望や不快を与えることもあるだろう。家族の写真、あるいは個人的な趣味や思い入れが露骨に伝わるような絵画や写真、フィギュア、雑誌などは、治療者の個人的なことは知りたくないというクライエントの願望を裏切ることになる。治療者はこのようなクライエントの反応の可能性に常に注意を払わなくてはならないであろう。
B2についても、その治療的、非治療的な点については、上述のB1に関する議論と類似したものを考えることが出来る。実はB1B2は明確に区別できないものがたくさんあり、そこには一種のスペクトラムや連続体が成立していると考えざるを得ない。治療者がクライエントにどの程度自分の情報が開示されてしまっていることを意識化しているか否かは、治療者自身の注意力や感受性に多く依存する。治療者がスーパービジョンを受けることで、いつの間にかクライエントに伝わっていたことに気が付くこともあるだろう。治療者がセッションの前にオフィス全体を見渡したり鏡にわが身を映すことで、自分では意識していなかった、自分自身についての何かを初めてそこに見出すこともあるかもしれない。たとえば筆者は、クライエントがオフィスに入った時にパソコンの画面に映っていた作業中の文章などにきわめて興味を抱くことを、クライエントから指摘されるまで十部に意識していなかったということがある。
 おそらく治療者が職業的に、ないしは個人的にかかわりを持つ様々なものがこのB1,B2ないしはどちらにも峻別できないようなものとしての性質を有する。そしてそれに対して一つ一つそれが治療的か、非治療的かを判断することは難しい。B自体が結局は自然に起きてしまう、不可抗力的なものであり、そのクライエントへの影響もケースバイケースだからだ。
  結局治療者はBがクライエントに与えたであろう影響について、率直に話す事が出来る環境を作ることが大事であろう。そして自分の意識していなかった情報が患者に伝わっていることを自覚し、できるだけB2B1に代えるという努力も必要であろう。また結果的にクライエントが知ることになった治療者の個人的な情報については、それを必要に応じて治療的に取り扱えるような治療関係を構築しておくべきであろう。
 しかしこのように考えることは、ある一つの重要な疑問を抱かせる。治療者は決して私生活においても気を抜いてはならないのか? 図らずもクライエントの目に触れたとしても恥ずかしくないような生活態度を常日頃から心がけ、品行方正を旨とすべきなのだろうか?この点に関して私は答えを持たない。しかしひとつ言えるのは、クライエントが治療室で想像するであろう治療者像から、実像があまりにかけ離れている場合、それはいずれは直接、間接にクライエントによって知るところとなるであろうということだ。
 ところで私は日ごろからバイジーさんに次のようなことを言っている。「自分のことを話すことが本当の意味であなた(クライエント)のためになるのであれば、いくらでも話しますよ」というスタンスを持ちつつ、最小限のことしか話さないという態度が理想であろうと。これはある種の「非防衛性non-defensiveness」の勧めと言える。
  しかしこれはもちろん「治療者個人にとってトラウマを呼び起こしたり、深刻なコンプレックスに触れるような内容についてまでクライエントに話す用意を持つべし」、ということではない。「いくらでも話す用意がある」といっても無制限ではないのだ。ただし治療者が個人としてあまりに触れてほしくないことが多いような生活を送っているとしたら、治療者の自由度はかなり制限されることになる。
 考えてもみよう。ある治療者がトラウマを抱えていたとする。たとえばかつて人に深刻な裏切り行為をされたという経験だとしよう。そのことを「必要とあらば話せる」治療者であれば、彼はそれを克服して、自分のため、他者(クライエントを含む)のために利用できる程度に処理が出来ていることを意味する。それに比べて、そのトラウマについては決して他人に触れさせないという防衛的な立場にある場合は、はるかに治療者としての自由度が小さいと言わざるを得ない。
まとめ
治療者の自己開示というテーマで論述した。その趣旨は、自己開示は、その是非を全体として問うべきものではなく、治療者が個別的な治療状況でそれを行うか否かの判断を下すべきことである。そしてそのためには自己開示としてどのようなものがあり、それぞれにどのような利点と問題点があるかをよく知っておくことが重要なのだ。さらにこの論文では、この自己開示の問題の背景に治療者の自己愛があるという私の発想を強調した。治療者という人種は、匿名性を守るという方向にも、それを犯すという方向にも走る可能性を持っているのであり、そのことを理解したうえで、この自己開示の問題を捉えなおさなくてはならないという考えである。



2015年12月3日木曜日

自己愛の観点から見た治療者の自己開示・推敲 (5)

ここでA1に関する簡単な臨床例を挙げておこう。

クライエント:先生はご自身の教育分析の際に、セッションに遅れることはありましたか?
治療者:私自身の体験についてのご質問ですね。ええ、私は分析家に失礼にあたるので、決して遅刻したことはありませんでした。

もちろんこの伝え方そのもののよしあしは問えない。この例では上で検討した治療的、非治療的な要素の合計6項目は、おそらくことごとく当てはまるであろう。治療者はそれらをあらかじめ心の中で検討したうえで、実際にこのような介入を行うかどうかが決めることになる。とくにこの言葉は治療者からクライエントへの「私との分析の時間に遅れることも失礼ですよ」というメッセージになりかねない。しかしそうなるリスクの一部は、この問いをクライエントの方から発したが質問したというA1の条件そのものに由来していると考えるべきであろう。治療者は問われるままに、率直に答えたまでということになり、そのような臨床判断もありうるからだ。

A2の治療的、非治療的な要素
A2(治療者が自発的に行った自己開示)の治療的要素としては、A1のそれとほぼ同様と考えられる。ただし治療者がクライエントから問われるわけでもなく自分の情報を提供することで、ギフトとしてのニュアンスはいっそう大きくなるであろう。またそれが治療者のアクティビティの高さを示すという意味がいっそう増すことになる。自己開示の積極的な意義を治療者自身が考えた上での介入、という意味がそれだけ大きくなるのである。
A2の非治療的要素は以下のとおりである。
1.治療者の自己愛的な自己表現の発露となりかねない。
これは自明のことであろう。A1のようにクライエント側から問われた場合は、その情報を少なくともクライエント自身が欲していたことが明らかであるが、A2の場合は、それをクライエントが本来必要としていないというリスクは高まる。場合によってはまったく無用だったりかえって有害だったりしかねない。その点を十分勘案したうえでの自己開示でない場合は、単なる自己愛的な自己表現となりかねないであろう。
2.クライエントの自己表現の機会がそれだけ奪われること。
これは上述の1と連動することになる。治療者の自己開示が結果的に、ないしは事実上彼の単なる自己愛の発露であるならば、その時間は決してクライエントのために使われたことにはならないであろう。
3.治療者のことを知りたくないというクライエントの欲求が無視される可能性(A1の非治療的な要素と同様)。
4.治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとしてクライエントに受け取られかねないこと。A2A1と異なり自発的な自己開示であるために、この要素は一層深刻なものとなるだろう。
A2の簡単な臨床例を示そう。

治療者:(特にクライエントから質問を受けたというわけではなく)ちなみに私は自分の分析セッションには決して遅れませんでした。遅刻することは私の分析家に対して失礼だからです。

 この場合、治療者が特に問われることなくこの自己開示を行ったことで、「あなたも遅刻してはいけませんよ」という警告としてのニュアンスを一層強くする可能性がある。 A1との違いは明白となる。


2015年12月2日水曜日

自己愛の観点から見た治療者の自己開示・推敲 (4)

A1の治療的、非治療的な要素

A1 治療的な要素としては、以下に列挙するものが考えられよう。
1.治療者もまた、自分と同じ人間であるという認識がクライエントに生まれ、過度の理想化を抑制する。
もちろん理想化が抑制されること自体は、非治療的な意味も持ちうる。そこであくまでも「過度の」理想化が抑制されるという場合をここでは論じている。人は相手の姿が見えない場合に様々な姿をその人に投影する傾向にあることは確かである。そこにはネガティブな気持ちも確かに含まれうる。しかし治療者が職業的、ないしは学問的なキャリアを積み、社会的な立場や名声を得ている場合、そして治療時間中にクライエントに敬意を払い傾聴に勤める場合、そこにクライエントの心に理想化が生じる可能性は非常に高い。その際に治療者が一人の人間であるという当たり前の事実がクライエントにより再認識されることの意味は大きい。
2.治療者が治療原則から離れて自分自身を開示したことへの感謝の念が生まれる。
クライエントはおおむね治療者が何らかの規範や原則に従った治療を行い、自分の情報をクライエントに伝えないこともそのひとつであることを感じ取っているものである。クライエントは自分には知らされていない何らかの原則が少なくとも治療者にとっては非常に重要であり、本来なら遵守すべきものであることを想像している。しかしそれでも治療者がその原則を犯してまでも自己開示を行うことは、治療者が見せてくれた特別の配慮として、あるいはある種の「ギフト」として理解される可能性がある。答えた内容よりはむしろ「答えてくれた」ことに感謝するのである。もちろんこれは治療者が「普段は自己を示さない」という背景があるからこそ、それだけ意味を持つことになる。また治療者の個人的な情報がギフトとしての意味を持つほどに貴重なものであるという意味ではない。あくまでもクライエントの側の感じ取り方としてこう述べているのである。
3.治療者の行動や考え方のモデリング、ないしは情報提供の意味を持つ
クライエントからの「~の場合先生ならどうしますか?」「~について先生はどのように考えますか?」等の問いに治療者が何らかの内容を伴った回答をすることで、治療者の考え方、生き方がクライエントに伝わることになる。もちろんそれがクライエントにとって見習い、あるいは模倣をする内容であるとは限らない。しかしその中にはクライエントが自らの考え方や行動に直接的な影響を与えることもあるであろう。

次にA1の非治療的な要素としては以下のものが考えられる。
1.  クライエントの要求を満たすことによる退行や過度の期待を誘発しかねない。
これに関しては敢えて説明するまでもないであろう。治療者の自己開示の非治療的な意義について、それこそ非分析的な立場の治療者や経験不足の治療者からも一様に聞かれる傾向のある問題点である。もちろんこの種の危惧が持たれるにはそれ相応の根拠がある。ただこの問題について敢えて私から「反論」するならば、質問に答えることで退行が生じる気配を感じ取れば、そこで軌道修正するチャンスは、治療者にはたくさん残されているのも確かだということである。退行を生むことを恐れていては、おそらく支持的な介入のほとんどが用いられないことになるだろう。
2.治療者のことを知りたくないというクライエントの欲求が無視される可能性がある。
質問に答えたのに、実は質問をしたクライエント自身がその回答を望んでいなかったという場合がある。しかしこれは致し方ない状況とも言える。治療者がその可能性に思い至らず、重要と思われる質問に答え、結果としてそれがクライエントの失望や幻滅を生んだとしたら、それは仕方のないこととあきらめるべきではないだろうか。
3.治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとしてクライエントに受け取られかねない。
「先生はどのように考えますか?」に対して回答することは、クライエントにとっては強い示唆につながるという可能性についてはすでに指摘した。



2015年12月1日火曜日

関係精神分析のゆくえ(推敲) 3

以下にRPにおいて特に取り上げられているトピックをいくつか挙げたい。それらは

フェレンチ理論の再評価、脳科学、アレキサンダーの再評価、トラウマ理論、解離理論、フェミニズム、などである。こう挙げただけでもRPの学際性は、それが一つの大きな特徴といってもいいであろう。先にRPは無意識の探求という本来の精神分析の在り方を逸脱しているという点について述べたが、RPはその意味では「精神分析的であれ」という縛りを自らに課すことをせず、あらゆる関連分野における知見を貪欲に取り込むという動きがみられる。

フェレンチの再評価

 RPにおいては、フェレンチ理論の再考は盛んにおこなわれている。2008年にはニューヨークにフェレンチセンターも立ち上がっている。わが国でも森茂起による翻訳により、フェレンチの業績が再考される機会が与えられている。同センターの代表はLewis Aron, Adrienne Harris といったRPの代表格ともいえる人たちである。
フェレンチといえば、かのHS.サリバンがその講演を聞いて深く共感し、自らの考えに最も近い精神分析家と感じ、弟子のクララ・トンプソンをブタペストまで送って分析を受けさせたという逸話が思い出される。RPとフェレンチとのつながりは実はその時代にまでさかのぼって作り上げられていたとみることも出来る。
 ダイアローグ誌上でフェレンチの概念の再評価に大きく貢献した人としてFrankel の名があげられる(Jay Frankel, Exploring Ferenczi's Concept of Identification with the Aggressors: Its Role in Trauma, Everyday Life, and the Therapeutic Relationship (2002). Psychoanalytic Dialogues, 12:101-139.
彼はフェレンチの1932年のいわくつきの論文とも言える「大人と子供の言葉の混乱」を取り上げ、そこで提案されている「攻撃者との同一化」という概念が、アンナ・フロイトの同概念よりさらにトラウマ状況において被害者である子供の心に生じる現象をとらえているという。Frenkel は最近のトラウマ理論を援用しつつ、フェレンチの同論文の解読を行う。そこでは同一化のプロセスと解離のプロセスは同時に生じていると説明される。すなわち解離とは攻撃者に対面した現在の恐怖を無きものにするが、それは攻撃者を内側に取り込むことによりコントロールが可能となるからだと説明する。
 
脳科学

ダイアローグ誌に2011年に掲載されたショアの論文は、RPが脳科学的な知見との整合性を求めている事実を示している。(Schore, A.N. (2011). The Right Brain Implicit Self Lies at the Core of Psychoanalysis. Psychoanal. Dial., 21:75-100. )脳科学者であり、分析家でもあるショアは精神分析的な知見がどのように脳科学的な素地を有しているかという問題を追及し、そこで右脳がフロイト的な無意識におおむね相当するという大胆な仮説を提出する。ショアが強調するのは黙示的な情動調節の重要性であり、その不調は第一に早期の関係性のトラウマ、すなわち愛着の問題に由来し、それが精神療法における主要なテーマになるであろうということである。

このようなショアの主張は脳科学と愛着の問題、そしてトラウマの問題を一挙に関連付けるとともに、フロイトにより提示された無意識の概念の重要性を、ほかのどの関係論者よりも強調しているという印象を受ける。脳科学という文脈を通して、現代的な精神分析はもっともフロイトに近づくともいえるであろう。

2015年11月30日月曜日

精神分析におけるトラウマ理論 推敲(1)


精神分析におけるトラウマの理論の発展は、ある意味では時代の必然と言える。関係精神分析におけるトラウマの議論のみならず、クライン派によるトラウマ理論も提出されている。ガーランド編 松木邦裕訳トラウマを理解する 岩崎学術出版社、2011Caroline Garland ed.Understanding Trauma: A Psychoanalytical Approach Karnac Books, London, 1998)
何か聞き覚えのある本だと思ったら、何と私は書評を書いていた!!!2011年のことだ。さっそく思い出してみよう。 
書評:「トラウマを理解する―対象関係論に基づく臨床アプローチ」(ガーランド・C著/松木邦裕監訳,岩崎学術出版社)
 本書を非常に興味深く読んだ。トラウマの問題については、これまでは精神分析はその扱いに一歩遅れているという観があった。現代のフロイト派やクライン派がそれを本格的な精神分析の文脈にどこまで取り入れているかについて、評者はこれまで興味を持ってきた。本書はそれに対する格好の答えを提供してくれている。 
 
本書は1990年代にタビストック・クリニックに創設されたトラウマに関するユニットのメンバーのひとりであるキャロライン・ガーランドが編者となり、8人の臨床家が執筆したものである。本書の構成は、第Ⅰ部「概論」、第Ⅱ部「アセスメントとコンサルテーション」、第Ⅲ部「精神分析的心理療法による治療」からなり、全体が13の章に分かれている。そこには「なぜ精神分析なのか?」「ヒューマンエラーとは何か?」「症例への介入の実例、」「トラウマとグループ療法」などの重要なテーマが並ぶ。
 本書の特徴は一貫して英国のクライン派の立場から綴られていることである。その徹底ぶりは注目に値し、そのような路線でもトラウマの治療論が十分に成立することを教えてくれている。またそこではトラウマを治療することとは、それをトラウマとして成立させている生育歴や過去の対象関係を扱うことであり、そこから生じる転移とその解釈が主たる技法であるという主張がなされる。
 少し内容を要約してみる。トラウマとは、フロイトのいう刺激保護障壁が破られることにより生じ、クライン的にはそれにより外的な出来事が、内的な恐怖や空想の中で最悪なものを確証させることである。その最悪なものとは、保護的な良い対象群の失敗による死やその切迫による個人の壊滅ということだ。さらにビオンの視点からは、トラウマとはアルファ機能の働きが打ちのめされ、含まれている刺激の質と量をコンテインして消化することができなくなって破綻したとき生じる事態ということになる。そして実際のトラウマを受けることは、早期の対象関係上の問題を呼び起こすことになるという前提のもとに治療が行われる。
 実際の介入を知る上で、「第
4章 予備的介入:4回からなる治療的コンサルテーション」は非常に参考になる。この章では症例Aに対する4回の面接の記録が提示されている。そこでは患者の中で外傷により切り離されていた自らの破壊性を「再びつなぐ」ことの重要性と、治療者がそのために保障を与えることへの戒めが強調されている。4回の面接といえども転移についての解釈が重要な位置を占めている点も興味深い。また限りあるセッションを持つことは、失ったもの、人や万能感をワークスルーするという意味をも持つという。
 以上本書の内容を簡単にまとめてみたが、精神分析の立場から真摯にトラウマについて考えるためには、本書はこの上ないリソースを提供してくれることを信じる
トラウマについての分析的な著作としては、ストロローのそれがあった。これも書評を書いたことがあるぞ。引っ張り出してみよう。

(書評) ロバート・D・ストロロウ著 和田秀樹 訳
「トラウマの精神分析 自伝的・哲学的省察」

本書はRobert D. Stolorow 著“Trauma and Human Existence. Autobiographical, Psychoanalytic, and Philosophical Reflections. (Routledge, 2007.) の全訳に、翻訳者の著者との対談、および本書の解説が付け加えられたものである。原著は62ページという非常にコンパクトなものであるが、本書は121ページのそれなりに読みごたえのあるものになっている。
 本書は学術書というよりはエッセイ風という印象を与えるかもしれないが、扱っているテーマは非常に重く、かつ奥が深い。著者ストロロウの主張を集約すれば、トラウマは必ず関係性というコンテクストの中で生じ、私たちが孤独で死すべき運命であるという現実を突きつけるということである。それは「…… 命は有限であり、実存的には脆弱であるという事実を覆い隠すことで、われわれを防護してくれる鎮静的な錯覚というべき、もろもろの信念を粉々に打ち砕いてしまう」(p. viii)のである。この主張を、ストロロウは最愛の妻を失ったことによる想像を絶するほどのトラウマ体験をもとに、ハイデッガーやコフートの理論を駆使して論じていく。自己の体験と理論は、いわば縦糸と横糸のごとく彼の主張を織りなしていくのである。
 簡単に本書の構成を紹介してみよう。
1章「情緒生活のコンテクスチュアリティ」で、著者は自らの精神分析理論を、欲動driveではなく情動affectivityを重んじる立場であるとし、情動はコンテクストの中に存在し、他者との相互性を前提とする、と明言する。その立場は、フロイトにより始められた精神分析の基底に流れる「孤立したisolated mind」という考えとは明確に区別される。そしてそれが、19912月の妻ダフネの死をきっかけに始まった精神的な遍歴の中で獲得した理解であるとする。この章ではストロロウとコフート理論との深いつながりが改めて伺える。第2章「情緒的トラウマのコンテクスチュアリティ」においては、情緒的なトラウマは、それを理解して扱ってくれる人が不在であることに由来し、それ以後変更不可能なオーガナイジング原則が作り上げられてしまうとする。そしてフロイトは「孤立した心」の理論に立って、トラウマを欲動という概念によってのみ説明したが、D. ウィニコットやM. カーンはそれとは異なる見解をすでに有していたという。
3章「トラウマの現象学と日常生活の絶対性」という章は、ダフネの死を発見した朝の記述に始まる圧倒的な暗さをたたえている。彼はトラウマを体験することは、もはや「正常な人」と世界を共有することができないような感覚が生まれたという。そしてトラウマは、愛する人がいつ何時死ぬかもしれないという現実を自覚することにつながり、その孤独を理解してくれるのは、同様のトラウマを体験した人でなくてはならず、それがコフートの言う双子転移の意味することである、という。第4章「トラウマと時間性」では、トラウマを抱えたいくつかのケースを断片的に提出しつつ、表題のテーマに対する考察を進める。フロイトは無意識の無時間性を説いたが、本当に時間を失っているのはトラウマ体験であるということを、著者は自らのトラウマ体験を開示しつつ論じている。自分であるという感覚は、自分が体験を時間=内=存在として持つことであり、トラウマはその統一した自分という感覚をも粉砕するという。第5章「トラウマと『存在論的無意識』」において、著者はハイデッガーの理論に由来する存在論的無意識について論じる。
6章「不安,本来性とトラウマ」は本書の中でもっとも長い章であり、また著者ストロロウの至った境地を雄弁に伝えている。彼はトラウマを、フロイトの外傷性不安と信号不安を両端とするスペクトラムで捉え、そこにコンテクストの概念を導入する。そしてハイデッガーの不安の概念が、死へ=臨む=存在に基礎を置いた不安であるとする。それは外傷により私たちがいやおうなしに直面する徹底した孤独であったという。それをストロロウは、元妻を亡くしたときの、誰からも置き去りにされたような徹底した孤独として表現している。第7章「結語 ― 『同じ闇の中の同胞』」では、この書が担った二つのテーマが繰り返される。すなわち情緒的トラウマのコンテクスト性であり、それが抱えられ、統合されるような相互主義的なコンテクストを欠いたならば、永遠にトラウマとなりうるということである。
 巻末に収められた「ストロロウと訳者の対話」は本書の中でもっとも楽しめる部分の一つでもある。翻訳者和田氏は15年来のストロロウの弟子であるが、その立場から著者の個人的なバックグラウンドについてさらに詳しく聞き出し、ストロロウの理論構成に一層の立体感を与えることに成功している。また同じく巻末の「解説」も読者にとっては非常に有難い章である。これはともすれば難解なストロロウの理論を噛み砕いて説明している。また著者のくわしい経歴について、日本語で読める数少ない貴重な資料といえる。
 私事ではあるが、翻訳者和田氏と評者(岡野)は留学時代を通して旧知である。氏がはじめてストロロウと接したという1993年のカンザスシティでの講演に評者も同席していた。その後氏が自己心理学者として自らを形成していく過程を垣間見ていた立場としては、特別な感慨を持って本書を読んだ。和田氏は精神科医として活躍し、マスコミにも頻繁に登場する著名人であるが、このような緻密な学術的作業を積み重ねる分析学者でもあることは案外知られていない。
 また本書で扱われたテーマに対する評者のかかわりについても触れさせていただきたい。ストロロウと同様に死や人の限りある運命について扱った分析家にアーウィン・ホフマンIrwin Hoffmanがいる。その理論に沿って、評者も現実という概念についての考えを深めたことがある(岡野憲一郎:「中立性と現実」岩崎学術出版社、2001年)。そして「現実」とは、自分がいつ死ぬかもしれない存在に直面することでもあり、その意味では「過激な現実」は外傷的ですらあるという理解に至った。これは本書でのストロロウの主張に近い。ただし違いは、評者が著者のようなトラウマを経験したことがないことであり、その意味では著者の言葉に見られるような重みを欠いているということである。ストロロウの言に従えば、評者は「同様のトラウマを体験した人」ではなく、真の意味で共感することはできないのであろう。
 哲学と精神分析と現実の体験との統合を遂げた本書の価値はきわめて高い。だがどれほどの読者がそれを理解し得るかは未知数である。出版界が不況にあえぎ、舌触りのいい文章しか受け入れない傾向のある現代にあって、このような重厚な内容の書もまた広く受け入れられることを切に願いたい。
  
(岩崎学術出版社、2009, 121, 2,500円+税)