2015年7月14日火曜日

自己愛(ナル)な人(32/100)


今日の部分は、思いっきり自己剽窃だ

自己愛的な人がなぜ怒るのかーそのメカニズム

ナルな人間がなぜ怒るのか。ビル・クリントンはなぜいつもカッカしているのか。そのことを説明しよう。その際これまで出てきた「自己愛トラウマ」という概念が重要となる。なぜなら怒りとは、自己愛トラウマによる痛みを癒すのに最も効果的な手段だからだ。自己愛な人は特に傷付きに弱い。そして怒鳴り散らすこと、人を痛めつけることは、彼らにとって何よりも特効薬なのだ。

【ソウル=豊浦潤一】北朝鮮で政権ナンバー2だった張成沢朝鮮労働党行政部長が処刑されたのは、張氏の部下2人が、党行政部の利権を軍に回すようにとの金正恩第1書記の指示を即座に実行しなかったことが契機になったと20日、消息筋が本紙に語った。
 金正恩氏はこれに激怒し、2人の処刑を命じ、国防委員会副委員長も務めた張氏らに対する一連の粛清が開始されたという。
 部下2人は、同部の李竜河第1副部長と張秀吉副部長。消息筋によると、2人は金正恩氏の指示に対し、激怒した正恩氏は「泥酔状態」で処刑を命じたという。
 部下2人は11月下旬に銃殺され、驚いた2人の周辺人物が海外の関係者に電話で処刑を知らせた。韓国政府はこの通話内容を傍受し、関連人物の聞き取りなどから張氏の粛清が避けられないことを察知した。最終的に処刑された張氏勢力は少なくとも8人いたという。 (201312211041  読売新聞)

私は北朝鮮の政情について特別コメントするつもりはない。ただこれほどの怒りの表現の背後にあるのが、私がいう「自己愛トラウマ」の例であろうと主張したいのである。自分が出した命令に対して「張成沢部長に報告する」と部下に即答を避けられた時、おそらく金正恩は激しい自己愛的な傷つき、「自己愛トラウマ」を体験したのだ。それが彼にこのような決断をくださせたのであろう。自己愛トラウマはそれだけに恐ろしく、またパワフルである。特に誰にとって何が自己愛トラウマにつながるかが読めない場合が多いことも、事態を複雑にする。それだけに私たちはこのトラウマと怒りの関係を十分に理解しておかなくてはならないのである。
「強権を振るう独裁者がトラウマを体験している?それでは彼がまるで被害者であるかのようではないか?」という感想を持つ方がいるかもしれない。しかしここでは自己愛トラウマを体験する人の正当性とか、加害性、被害者性といった問題はいったん脇に置いておく。自己愛トラウマが体験される際、そのトラウマの加害者はしばしば曖昧であったり、加害の意図がなかったり、むしろ立場としては正当であったりする。独裁者が、自己愛的な人間が、凶悪な心を持った人間が、それでも、いや、それだけに自己愛トラウマを抱えてしまうことに不幸が生じる。なぜならそこで生じる途方もないエネルギーは加害行為に向かってしまうからだ。
この北朝鮮での出来事も、もちろん処刑された二人が最大の被害者である。でもこの二人の扁桃の仕方にトラウマを受けてしまったことが、このような取り返しのつかない出来事に発展した。その意味では自己愛トラウマは、全く理不尽なものと言わざるを得ない。

人の怒る仕組み - 怒りの二段階説

ここで怒りが生じるメカニズムに関して少し説明したい。それは二段階説と言い表される。つまり怒りは、第2段階で生じる。ということは第1段階として何かが生じ、その反応として起きるのだ。そしてその第一段階に起きるのが、自己愛トラウマによる心の痛み、というわけだ。
このプライドを傷つけられた痛みが急激で鮮烈なものであることはすでに述べた。そしてそれこそ物心つく前の子供にはすでに存在し、老境に至るまで、およそあらゆる人間が体験する普遍的な心の痛みだ。人はこれを避けるためにはいかなる苦痛をも厭わないのである。しかしこのプライドの傷つきによる痛みを体験しているという事実を受け入れることはなおさら出来ない。そうすること自体を自分のプライドが許さないのだ。
かつてコフートという精神分析家は「自己愛的な憤りnarcissistic rage」という言葉を用いてこの種の怒りについて記載した。最初私はこの種の怒りはたくさんの種類の一つに過ぎないと思っていた。ところが一例一例日常に見られる怒りを振り返っていくうちに、これが当てはまらないほうが圧倒的に少数であるということを知ったのである。
私たちは日常生活でイライラすることが多い。それこそ電車を待っていて、急に誰かに横入りされただけでも怒りが生じることがあるが、その種の怒りでさえも、結局はこの自己愛やプライドの傷つきに行き着くことが出来る。自分の存在が無視されたり、軽視されたりした時にはこの感情が必ずといっていいほど生まれるのだ。たとえレジで横入りした相手が自分を視野にさえ入れていず、また電車で靴を踏んだ人があなたを最初から狙っていたわけではなくても、自分を無の存在に貶められた感じがしたなら、それがすでに深刻な心の痛みを招くのだ。

健全な自己愛、病的な自己愛

さて以上で怒りの二次的、防衛的な意味合いについては一応強調出来たつもりである。私たちは怒りの背後にはある自己愛の傷つきがあるのだ、ということを自覚することで、自分が他人に向けている感情の正当性に疑いを差し挟むことが出来、結果的に怒りを鎮めることができる場合もあろう。「俺って、なんでこんなに怒っているんだろう?よほど自分が傷つけられたのだ」という反省が生まれるからである。そしてその怒りが表現されてしまい、他人の自己愛を傷つけ、それだけでなく精神的に見でも「処刑」してしまい、さらなる怒りの連鎖を招くといった事態もある程度は防げるかもしれない。
 しかしこの種の自覚を深めることで人は最終的には怒ることがなくなり、社会は平和になるのだろうか? おそらくそう簡単には行かないだろう。多くの防衛機制について言えることだが、それには何らかの本質的な存在理由が伴うことが多い。怒りの必然性や正当性についても検討しておかなければならない。恥の反転としての怒りにも、その人自身のプライドや社会的生命を守るという役割は消えてはいないというわけだ。 
自己愛を正常範囲まで含めて考えるのは現代の趨勢でもある。一つの連続体として自己愛を考え、そこには中心に健全な部分を持ち、周囲に病的に肥大した部分を持つというイメージを考えればよい(1)。ここで健全な自己愛とはわが身を危険から守るという一種の自己保存本能と同根だと考えればよい。そしてその具体的な構成要素としては、自分の身体が占める空間、衣服や所持品、安全な環境といったものが挙げられよう。
また周囲の病的に肥大した部分には、偉い、強い、優れた、ないしは常に人に注意を向けられて当然であるという自分のイメージが相当することになる。





この自己愛の連続体を考えた場合、怒りとは、そのどの部分が侵害されてトラウマが生じた時も発生することになろう。病的に肥大した自己イメージの部分が侵害された場合についてはすでに論じたが、正常の自己愛が侵害された場合には、自己保存本能に基づいた正当な怒りが生じる。その際は恥よりもさらに未分化な、一種の反射ないしは衝動が怒りに転化するのだ。そしてこちらは一次的な感情としての怒り、と考えるべきなのである。
ただしここに問題が生じる。自己愛が連続体である以上、それが侵害を受けたと感じたのが健全な部分が病的な部分かは、しばしば当人にさえも区別がつかないことがあるのだ。

混んでいる電車で足を踏みつけられた時の怒りという例を再び取り上げよう。その人が自分の存在を無視されたと感じ、大して痛くもないのに踏まれた相手に大げさに咬みつくとしたら、これは病的といえるだろう。しかし実際に足の甲に鋭いヒールが食い込んだ際の耐え難い痛みのために、反射的に声を上げて相手を突き飛ばしてしまう場合もあるだろう。こちらは誰の目にも明らかなトラウマであり、それに対して生じた怒りは正当なものとして映るはずだ。以上の例は両極端でわかりやすいが、大概の場合、足を踏まれて腹を立てた際の私たちの怒りはどちらの要素も伴った複雑な存在であることが多い。

2015年7月13日月曜日

自己愛(ナル)な人(31/100)







自己愛トラウマは怒りで処理されるークリントン氏の例


アメリカの第42代大統領ビル・クリントンは、私にとって気になる人だった。それは彼の8年間の任期(1992年~2000)が私が米国に滞在中の期間にかぶっていたから、ということもある。というのは彼がこうむったスキャンダルは、あの頃毎日アメリカのメディアを賑わし、それを毎日聞かされているうちにクリントン氏が体験したであろう恥を想像し、同情しながら過ごした時期が長かったからだ。つまり他人ごとではなくなってしまったのである。そして彼のことを私がこの本に書くのはもちろん・・・・彼が比較的典型的なナルシシストだからだ。
Clinton and Lewinsky on a 1998 Abkhazia stamp
クリントンはチャーマーであり、かつきわめて頭脳明晰である。IQ 137と言うのだから大統領としては普通かもしれないが、結構なものだ。聴衆の心をつかみ、魅了する技に長けている。どこで何を強調し、どのような抑揚で話すか、そのことをよく自覚しており、利用しようともする。またいわゆるwomanizer であることは周囲も一様に指摘している。つまり相手の女性に付け入って利用し、自分の自己愛を満たそうとすることがある。発言にウソが多く、それが彼が偽証罪に問われるきっかけにもなった。
 確かに当時49歳の彼が任期中に当時22歳の実習生モニカ・ルインスキーと不倫関係に陥り、あろうことかオーバルオフィスで関係を持ったことは恥ずべきであろう。しかしそれはこんなことをいっては問題かもしれないが、彼の男性としての魅力を表しているといえないこともない。やはり不味いか。
  しかし彼のスキャンダルやそれによる彼の恥の体験は計り知れない。彼は一生、どこで誰にあってもあの「青いドレス」の問題と結びつけられる。彼がいかに優秀な大統領として8年間アメリカの政界に君臨したとしても、彼を見て最初に浮かぶのはあのスキャンダルなのだ。何という不名誉。誰がそんなことに耐えられるだろうか? おそらく彼くらいのものかもしれない。そして彼が自殺することもなく、今度は奥さんの大統領選に精力的に、あるいは過剰な援護射撃をしつつ助けて飛び回っているということは、彼は相当の「厚皮」だということになるだろう。

大統領としての彼は、癇癪持ちでも有名であったという。Frontline と言うサイトに、クリントン大統領の時代の出来事が書いてる。http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/clinton/interviews/myers2.html
それによれば彼は毎朝スタッフに当たり散らすというのが普通になっており、それはSMO, the standard morning outburst.(通常の朝の癇癪)と呼ばれていたそうだ。例のジョージ・ステファノポラス青年などは、真っ先い怒られる役だったらしい。ちなみにこの癇癪は、ヒラリーさんの選挙活動にとっても一つのネックにさえなっているという。ヒラリー陣営が批判にさらされると、夫のビルは癇癪を起してしまい、それが却ってヒラリー陣営の印象を悪くしているというのだ。
ちなみにクリントン氏が最も落ち込んでいる時期であったと言われる1998年、つまり彼の不倫スキャンダルがピークを迎えたころも、一方での彼の怒りは相当のものであったという。もともとは関係ない問題から始まっていたケネス・スター特別検察官による捜査で、どうして関係ないはずのルインスキー嬢との関係について証言されられることになってしまったかについて怒り心頭であったと言われる。
しかしそのような中で大統領としての仕事は極めて有能に淡々とこなし、あたかもスキャンダルなど起きていないかの印象を周囲に与えた。これもまた彼の「厚皮」に関係していたのかもしれない。


2015年7月12日日曜日

自己愛(ナル)な人(30/100)


恥による傷つきはトラウマである

これらの例が教えてくれること。それは自己愛の傷つきは、一種のトラウマであるということだ。これを「自己愛トラウマ」という。それは人の心を委縮させ、生きる力さえ奪いかねない。ちょうど桂文楽のみに起きたように。タイガー・ウッズの場合にはわからない。噂によれば、彼はイップスに罹っている可能性があるという。とするとこれは重症であるし、回復の見込みは薄い。しかしイップスは一種の病気であり、それに陥ってしまったウッズは、運の悪さを認めこそすれ、恥じることなど何もない。(イップスは一種の精神的な病気だというとらえ方をする人もいるが、そんなことはない。練習のし過ぎか、原因不明の理由により、脳の神経回路に混線が起きてしまい、順序立てた運動が出来なくなっているのである。)
さっさとゴルフに見切りをつけて、解説者や実業家や政治家にでも転身すればいいだろう。彼の頭脳や知名度から見て、相当のアドバンテージを持っていると言えよう。
 しかしもしそうなるにせよ、彼が体験する心の痛みは計り知れない。彼はまだこれまで積み上げたプレイヤーとしての経験や名声が失われることになるとしても、とてもそれを受け入れられないのではないだろうか?
どうして恥の感覚はそれ程私たちの心にダメージとなるのだろうか? それはよくわからない。しかしそれはある意味では、体の傷つきと似たような意味を私たちに持つから、と考えることができる。私たちが例えば電車の中で、近くに立っている女性のハイヒールに踏まれたり、隣の人の傘の先が太ももに刺さったらどうするだろうか? 声を上げたり大げさなジェスチャーで反応してその人を排除したり、そこから身を遠ざけたりするだろう。身体はいわば私達自身であり、それを侵襲されることに対しては、私達は全身で反応するのだ。これは生物にとっての自己保存本能であり、それを行わない方がおかしいと言えるだろう。動物だって皆そうする。顕微鏡の下のアメーバでさえ、針の先でつつくと身をよじるようにしてそこから遠ざかるだろう。
しかし私たちの身体は、そこから遠くに存在し、自分に危害を及ぼす危険性のないものに反応することはない。その意味で身体はある大きさを持ち、皮膚という境界を持つ。皮膚を破って侵入してくるものに対しては、先ず痛みや違和感が生じ、それからそれを回避したり撃退するという反応を起こす。そして相手の身体に対しては、それを犯さないように、侵襲しないように、という配慮を持つ。同様の反応を相手に与えてしまい、撃退されないためなのだ。
 さて心を持っている人間は、自分の心についても一種の自己愛的なスペースないしはバウンダリー(境界)を設ける。これは一種のプライドであり、矜持である。そこに入り込んでくるような言葉、振る舞いには精神的な痛みを感じる。自己愛とは結局この心のスペースと言って言えなくはない。ここを破ってくるような言葉や扱いには敏感に反応する。
例えば自分が学校で最上学年、例えば中学3年だったとする。部活に行くと、そこには下級生の部員がいて、彼らには丁寧な言葉で接してくることを期待する。部室の掃除やゴミ捨てを下級生に命令されること等ありえないだろう。自分が命令する立場だからだ。そこで誰か生意気な下級生の部員、例えば中学一年の新入りの部員がため口でなれなれしく接してきたとしたら、きっとあなたは痛みを感じる。それはちょうど自分の自己愛と言うスペースに傘の先を突き立てられたのと同じ痛みを生むからだ。
先ほどの桂文楽やタイガー・ウッズのことを考えよう。彼らは落語界の巨匠として、ゴルフ界のスーパースターとして、自分たちの存在をとても大きく感じ、周りもそのように扱うことを期待する。エレベーターに乗れば、人は「まあ、こんな有名人と乗り合わせるなんて」と驚くだろうし、街を歩けば噂されたり、サインを求められたりするだろう。それに当たり前になっているはずだ。するとある日突然自分のプライドが散り散りになるようなパフォーマンスをし、それをメディアを通してみなに知られたらどうなるだろうか? それこそ街を歩くのでさえ、コンビニに立ち寄って雑誌を買うのでさえ窮屈になってしまうのである。これほどの傷つきの体験はないであろうし、それを私がトラウマと呼ぶ意味も分かるであろう。
この種の自己愛トラウマは、アスペルガー障害の人々にも同様にみられる。アスペルガー障害とはスキゾイド・パーソナリティのように対人関係で心があまり動かず、したがってあまり感動も傷つきもないだろうと思うのは大変な誤解である。確かに彼らは他人の気持ちを読み取ることが不得手かもしれない。しかし自分の心の痛みは普通に、あるいはそれ以上に感じるのである。
 

2015年7月11日土曜日

自己愛(ナル)な人(29/100)

2部 怒れる自己愛者

ここからしばらくは、怒れる自己愛者一般について論じる。つまりタイプ分けした自己愛ではなく、それら一般に共通した怒りの問題について考えてみるのだ。
実はこのテーマは「恥と自己愛トラウマ」という昨年上梓した本(岩崎学術出版社)にかなり触れられているが、そこでの内容をダイジェスト版でここで示したい。読者の方はナルな人たちは人を傷つけ、迷惑をかける人々と理解しているであろう。それはその通りなのだ。しかし彼らの自己愛的な振る舞いには、それなりの理由が、心の力動が背景にある。そのことを理解しないと、なかなか彼らを理解し、うまくかわしたり、いなしたり、逆に操ったりすることが出来ない。まずは「汝の敵を知れ」、である。

自己愛の傷付きほど苦しいものはない

私たちの人生の中で最大の傷つきはなんだろうか? おそらく人前で恥をかくということである。私たちの日常は、いかに恥をかかないか、という思考に支配されていると言っていい。
社会で生きていくためには、様々な行事があり、会議がある。そこに出て自分は一定の役割を演じなくてはならない。そこでの失態は、それがたとえどんな小さな場であっても、恥の経験、自己愛の傷つきにつながる。
それが一対一での商談であっても、その程度は変わるものの傷付きの性質は変わらない。ある仕事上の付き合いのある人と商談を計画する。相手も準備に時間を費やし、自分も資料作りに時間をかける。そしてようやく迎えた会談の場で、あなたは鞄をあけて、けさ机の上から、全然違う書類を取り上げてしまったことを知る。あなたの面目はつぶれ、信用を失い、無駄な時間を費やすことになった相手に平謝りをするしかない。
これだけでもあなたの心を数日間は憂鬱にさせるのに十分かもしれない。しかし相手は一人である。あなたはその失態が会社全体に迷惑をかけるということでもない限りは、一人の人間に対して恥じるだけで済むのだ。
でも相手が大勢で、あなたのパフォーマンスに期待してきている場合はどうだろう? たとえば役者としてのあなたのセリフがトンだら?舞台の真ん中で立ち往生するしかないだろう。その時の体験はトラウマになるはずだ。
私は記憶した内容が突然出てこないことでそのようなアクシデントに見舞われるのは真っ平であるから、そのような仕事についていないことに深く感謝をしている。しかしエピソードとしてそのような恐ろしい話を聞いたことがある。前著「恥と自己愛トラウマ」にも書いた内容だ。

ウィキぺディアの桂文楽の項に次のような記載がある。
最後の高座
高座に出る前には必ず演目のおさらいをした。最晩年は「高座で失敗した場合にお客に謝る謝り方」も毎朝稽古していた。1971(昭和46年)8月31国立劇場小劇場における第5落語研究会42回で三遊亭圓朝作『大仏餅』を演じることになった。前日に別会場(東横落語会恒例「圓朝祭」)で同一演目を演じたため、この日に限っては当日出演前の復習をしなかった。
高座に上がって噺を進めたが、「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門」という台詞を思い出せず、絶句した文楽は「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、深々と頭を下げて話の途中で高座を降りた。
舞台袖で文楽は「僕は三代目になっちゃったよ」と言った。明治の名人、3代目柳家小さんはその末期に重度の認知症になり、全盛期とはかけ離れた状態を見せていた。
以降のすべてのスケジュールはキャンセルされた。引退宣言はなかったものの二度と高座に上がる事はなく、稽古すらしなくなったという。程なく肝硬変で入院し同年1212日逝去した。享年79

想像しただけでも恐ろしい話である。桂文楽がその後急に衰えてなくなってしまったのもよく理解できる。それまでの落語家としての人生が、最大の汚点を残して事実じょう終わってしまったのであるから。
実は私は同様の心配を現在のタイガー・ウッズにも持っている。
彼は歴代2位のメジャー選手権優勝14回、史上2人目のトリプルグランドスラム達成を果たした人間である。しかしあれほど一世を風靡したゴルファーが、2012年に大恥をさらけ出したスキャンダルにまみれ、その後復帰後も本調子といえず、今年(2015年)2月のフェニックス・オープンで自己最悪の「82」を喫し、最下位で予選落ちである。彼のプライドはズタズタであろう。

以上の桂文楽、タイガー・ウッズの例は、自己愛の傷つきを表しており、彼ら自身が自己愛人間であったと主張するつもりは私にはない。ただしそれぞれの分野で名を成した人にはそれにふさわしいプライドや振る舞いがあるだろう。彼らだってその例外だったとは考えられない。そしてそのプライドや自己愛にとって、彼らの失敗はどれほど痛手だったかは想像に余りあるだろう、ということだ。

2015年7月10日金曜日

自己愛(ナル)な人(28/100)

しかし一冊分の素材は結構骨が折れるなあ。まだ半分にも行っていない。


孤高であることも、彼らをナルシシストに見せる
アスペルガー症候群を有する人の中には、特殊能力を有するわけではなく、本人も傲慢に他人に接しているつもりもなく、自分なりに一生懸命生きていても、自己愛的に見えてしまう場合がある。以下に、本当は自己愛的ではないにもかかわらず、そう見えるアスペルガー者の人たちについて書いてみる。
アスペルガー症候群という概念が一般の人の間に、ある意味で過剰なまでに浸透したのはこの20年くらいであるが、それ以前には、彼らはどのように扱われていたのか? 一部の人たちは「ちょっと変わった人」「変人」「オタク」などと呼ばれ、別の一部は、一種の「パーソナリティ障害」という見方をされていた。その中でも代表的なのが、いわゆるスキゾイド(ないしシゾイド)・パーソナリティ障害である。
スキゾイド・パーソナリティの概念には古い歴史がある。少し古い精神医学の教育を受けた私のような人間には、むしろ「分裂気質」という呼び方がピッタリくる。「分裂」とは「精神分裂病」、すなわち現在統合失調症と呼ばれている深刻な精神の病気に通じる概念であり、一部の精神科医はこの分裂気質こそが統合失調症の病前性格ではないかと思われていた。分裂気質とは、孤独を好み、あまり対人関係で感情をあらわさない、孤独な人たちの性格傾向を指したものである。この人を寄せ付けない、自分の世界で完結する傾向が統合失調症の世界に近いと考えらえていたのである。
 ここでスキゾイド・パーソナリティの特徴について、例によって「バイブル」であるDSM-5に掲げられた診断基準を見てみよう。
l         家族を含めて、親密な関係をもちたいとは思わない。あるいはそれを楽しく感じない
l         一貫して孤立した行動を好む
l         他人と性体験をもつことに対する興味が、もしあったとしても少ししかない
l         喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない
l         第一度親族以外には、親しい友人、信頼できる友人がいない
l         賞賛にも批判に対しても無関心にみえる

l         情緒的な冷たさ、超然とした態度あるいは平板な感情

このようにスキゾイド・パーソナリティ障害を有する人々は、生き生きとした感情があまり感じられず、人との関係によるぬくもりを知らず、または好まない人というイメージが感じられるだろう。いわばロボットのような人たち、スタートレックのミスター・スポックのようなイメージを思い浮かべればいいだろう。
 このスキゾイド・パーソナリティに該当する人たちとアスペルガー障害とはどのような関係があるのか。その詳細は不明ながらも、現在ではスキゾイドと従来診断されてきた人々の中にかなりアスペルガー障害が混じっていたという可能性が指摘されている。もちろんパーソナリティ障害と発達障害とは概念の成り立ちが全く異なる。パーソナリティ障害は人格の成り立ちであり、成長とともに徐々に形成され、思春期以降になりおおむね固まるものと考えられる。他方アスペルガー障害は基本的には生まれつきのものである。しかしアスペルガー障害における対人関係上の問題が社会生活上の支障をきたすようになるのは、職場での活動を通してであり、それ以降になって初めて精神科を訪れ、そうとわかる場合が少なくない。それまでは学校では受身的な立場を守り、学業もそこそこにこなしている場合にはあまり明確にそれと同定されないという事情もある。結局幼少時にそれと診断されることがなく経過してきたアスペルガー障害の多くは、成人になってスキゾイドパーソナリティとして分類されてきたという可能性があるわけだ。
 ここまでスキゾイドパーソナリティとアスペルガー障害の重複部分について、あるいは相互の混同について論じてきたのは、このスキゾイド様の表出、つまり対人接触を苦手とし、人と会ってもニコリともせず、マイペースで事を進めようとするという様子が、見方によっては典型的なナルシシストと誤解されかねないということがあるからである。一つ例を挙げてみよう。
事例)

21歳の女子大生Hさんは、最近付き合いだしたという24歳の男性I君との関係について語ってくれた。I君は某有名大学の大学院の数学科に籍を置き、日々勉学と研究の毎日であるという。これまでに数回デートしたことがあるが、しかしその様子がどうも普通の男性と異なる気がし、相談に来たという。Hさんは天真爛漫な女子大生で、可愛らしく愛嬌もある方だが、中学、高校の間、放課後は近所の塾に通いつめて受験勉強に励んでいたこともあり、男性経験は全くない。大学入学後に、初めての学園祭で声をかけてきたのがそのI君だというが、本当は自分が彼を好きかどうかもよくわからなくなっているという。しかしこれまでの短い付き合いから、I君の振る舞いがとても傲慢で、これから一緒にやっていけるのかが心配だそうだ。ちょうど本で読んだ自己愛パーソナリティに、I君が典型的に当てはまる気がし、ますます一緒にやっていける自信がなくなっているという
 筆者も話を聞いた最初のうちは、I君は典型的なナルの自己チュー人間だと思っていたが、話を聞いていくうちに、少し違う側面が見えてきた。彼はおそらく自分の持つアスペルガー傾向のせいで、Hさんにそう思われているらしいということがわかったのである。
 I君は有名国立大に現役合格し、数学科の大学院に進むほどの成績優秀な青年である。これまで女性とのお付き合いはないが、たまたま訪れた女子大の学園祭でHさんに一目ぼれをし、決死の思いで声をかけたらしい。I君のデートの場所の選び方や、そのぎこちない振る舞いから、彼が全く不慣れな状況で四苦八苦している様子が伝わってくるしかしHさんももともと男性経験がないので、そのようなI君の側面を「男性は皆こういうものなのか」と受け取っていた様子がある。Hさんの話によると、I君はとにかく大学院での研究が優先で、デートの時間も授業の合間の一時間半などを指定してくる。時間が来ればそそくさと大学に戻るそうだ。服装や髪形などにも相当無頓着そうで、いつもほとんど同じアイロンの当たっていないシャツを着てくる。デートでは難しい数学の理論について一方的に話されてしまい、Hさんは全くついていけない。またメール交換なども何時も決まりきった短文でしか返事をしてこない。Hさんがバレンタインデーに手作りチョコをプレゼントしたが、ちょうど次の月に迎えたHさんの誕生日に、I君からは何の誘いもなく彼はどうやらHさんが様々に期待したり気をもんだりしていることに全く無頓着のようであった。大学院のレポートの期限が近づくと、直前になりデートをキャンセルするくせに、一度は別れ際に突然ギラギラした目でキスを求めたり体を触ってくることがあり、まったくムードを大切にしてくれないI君の様子にひどくがっかりしたという。
 Hさんは初めての恋人でもあり、また数学科で将来は学者になるというI君の優れた頭脳や知性を神秘的に思う一方では、「とても強引で自分のことしか考えない人」、としてI君をとらえているようであった。彼女の頭には、発達障害ということが発想になく、その可能性を説明することで、少しはI君の振る舞いを理解した様子であった。

2015年7月9日木曜日

自己愛(ナル)な人(27/100)

特殊能力が彼らを自己愛的にする
アスペルガーの人たちは、実際に自己愛を満足してもおかしくない事情がある場合がある。それは彼らがしばしば知的なレベルが高く、学校で好成績を修めたり、趣味の世界で傑出していたり、芸術等で特異な才能を発揮したりするからである。それらが極端な場合はサバン症候群と呼ばれるが、それほどではなくても通常の人々よりかなり優れた力を発揮する、いわばプチサバンともいえるアスペルガーの方は非常に多い。彼らがしばしば発揮するオタク性は、いわばその片鱗なのである。
 彼らの高い知的レベルに関しては、良く知られたことである。与えられた知識を整理して頭に詰め込む作業は、彼らにとってはしばしば快楽的な活動となる。学校の成績に優れるということは、子供にとって大きな意味を持ち、進学校においては大きなステイタスとなる。成績に優れることで、担任から目をかけられることであり、クラスメートからも一定の経緯を払われることになる。それが彼らの自己愛を満たすことも多い。

 私が大学時代に身近に接することができた友人Cは、ある有名進学校の高3になるまでは勉強もせず、クラスにもなじめず、劣等生扱いを受けていたという。このころは自信もなく、クラスでも隅で大人しくしていたというが、たまたま顔を出した化学クラブでDNAについての話を聞いてから生命科学にのめりこみ、たちまち学術書を読みふけるようになった。それとともに英語も一気に語彙数が増え、高3の最後の半年で一気に受験勉強を仕上げて有名大学に入学した。Cにはこれが実に大きな成功体験となったようである。たまたま受けた知能テストでも150台を叩き出し(ただし自己申告である)、「アタマがいい」は彼にとっての一つのアイデンティティになった。それ以降大学でも定期試験に対する勉強を徹底して一種のゲームと認識し、いかに授業に出ずに最小限の勉強で合格するかについて絶対的な自身を獲得したようであった。大学時代はその頃等に下火になっていた学生運動の活動家の部屋に入り浸る一方では、単位獲得のためにあくせく勉強をするクラスメートを完全に軽蔑しきっていた。試験では直前になり彼が「がり勉」と称するクラスメートのノートを借りまくっては最低の点数でパスするということを繰り返した。Cは時々大学の飲み会に出没しては、空気の読めない、「俺はアタマがいいんだ」オーラを発し続け、「あいつの態度は何だ!」と総スカンを食らうという状況になった。結局大学生活でも学生運動でも仲間になじめないでいたが、大学は無事卒業した。しかし卒後に入った企業では案の定不適応を起こし、半ば自宅に引きこもりのような状態で過ごすこととなった。

アスペルガー障害が特異な才能を発揮するという現状はどのように考えるべきだろうか?IQ148以上の人が属するというメンザという組織でも、そこにいる人のアスペルガー障害を持つ割合は、一般人に比べてかなり高率とされる。きわめて大雑把な言い方になるが、アスペルガー障害には、一部の脳の機能低下の二次的な結果として何らかの機能が促進されるという傾向がある。明確な科学的な根拠はないながらも、十分な傍証がある。なぜ盲目の人に音楽の特異な才能を有するサバンが生じやすいのだろうか? 脳梗塞により皮質の機能が損なわれた後に美術の才能を開花させるということが生じるのはなぜだろうか?
 アスペルガーに見られるような脳の局所的な機能低下、具体的には上側頭溝、紡錘状回、扁桃体、内側前頭前野、といった部位の活動の低下が、脳のそのほかの部位の機能の向上に貢献している可能性がある。この種のシーソー関係は良くあり、機能低下を起こしている皮質に別の領域からのニューロンの進入が生じたりする。大脳の皮質でも機能同士が領土の取り合いをしているというところがあるが、アスペルガー障害を持つ人は、社会脳の機能不全ゆえにその働きが高まるという事情が彼らの特殊能力を支えているというところがある。そのためかアスペルガー障害は他の精神科的な障害に伴うようなスティグマ性がやや低いというところがある。自分がアスペルガーであるということは、その分「アタマガいい」というところが若干あり、その成果発達障害の専門家と言われる人々が、「いやあ、実は僕も30%アスペルガーが入っているんです」などと自虐的に言ったりすることにもつながるのだ。(●●専門の○○先生のことではない。)
 アスペルガーの彼らの特殊能力が花開くのは、当然のことながら幼少時、ないしは遅くても思春期前である。サバン症候群の場合には、ごく幼い頃から傑出した能力が明らかである場合が多い。そしてアスペルガー障害自身がそれほど深刻ではなく、むしろそれらの能力の高さを前面に押し出して他人に影響力を発揮することができるのであれば、彼らは自己愛的な満足を得ることもできるであろう。
前出の「ぼくはアスペルガー症候群」の著者Gさんは、小学生のときはいじめに会うこともなく、むしろクラスのリーダー的な存在であったという。発達障害イコールいじめられっこ、という図式が成り立たないことは実は少なくないのである。


2015年7月8日水曜日

自己愛(ナル)な人(26/100)

「空気が読めない」正体
しかしよく言われるアスペルガー者たちの「空気が読めない」という現象とはいったいなんだろうか?「空気」とは結局弱肉強食のこの世界で生き延びるための一番大切な感覚、つまり自分はどの序列にいて、誰に対して取り入り、誰には高圧的に出ていいかという、基本中の基本の感覚に対する感度が低いということだ。これは集団で生きていくうえで決定的な問題を引き起こすし、その人がグループに入っていけなかったり、みながドン引きするような発言をしたり、最終的に虐めの対象になったりする原因にもなる。
ある新入社員である事務の女性が、他の社員のいる前で、上司に当たる部長に対して「でも部長さんって、一見ツンデレですよね。」と発言し、一瞬周囲が凍りついた。
聞いている同僚たちは、一瞬「あれ、この新入社員、部長とデキているのかな?」「この新入社員は実は社長の御令嬢だったっけ?」と思い、そんな事情などありえないと思いなおして、改めて聞く耳を疑った。部長を「ツンデレ」呼ばわりするだけの関係性も、職場での地位も、まだまったくない彼女がそれを言うことで、彼女はその場でどのように振舞うべきかの感覚をまったく欠いている、つまり「空気を読めない」ことを一瞬でさらけ出したことになる。
この新入社員の例は改めて、空気を読むということが私たち人間社会にとって、おそらく動物社会にとってもいかに必要不可欠で、かつ自然なことかを物語っている。いわゆる群生動物は、その秩序維持のために序列を必要不可欠としている。それを守れない個体はすぐにハブかれ、生き残れない。ということは今生き残っている固体はすべてえり抜きということになる。誰が自分より強いか、自分が集団のどの位置にいるのかのモニタリングはまさに生存の条件といえる。かなり高度の機能といえるが、それを社会で普通に生きて行く私たちは、みな備えているのである。
 アスペルガーの人たちの空気の読めなさを集団での位置づけの不得手さと理解すると、彼らが持つ、自分の(集団内での)姿を外から眺め、感じ取るという能力が欠如しているということが改めてわかる。彼らが独り言をぶつぶつ言ったり、素っ頓狂な声をあげて地下鉄のホームを「ヒヤー」とか言いながら笑いを浮かべて行ったりきたりする時、彼らは外側から自分を見る視点をまったく欠如している。
ある見るからにアスペルガーの思春期少年が、地下鉄のいすに座って、周囲の目をはばかることとなく、おヘソの掃除をし、パンツに手を入れてポリポリ掻いていた。頭はボサボサで、くしを入れた形跡も、おそらく鏡で自分を見たという形跡もない。体にはいろいろな道具や財布をぶら下げ、忘れ物を防止しているようだ。手には文庫本を持ち、それを読みこなすだけの知性は備えていることがわかる。

私たちだって時にはヘソの掃除をし、下着の中をポリポリやることもある。独り言も出るだろう。でもそれは一人で部屋にいるとき、あるいはよっぽど気の置けない家族や友達の前で、である。それらのある意味では普通の行為が、公衆の面前で出来てしまうことがアスペルガーの特徴である。これもまた彼らが自分を外側から見れていない証拠だ。
 私たちは集団の中で何かをしたり言ったりする場合は、その直前にそれをシミュレーションしてモニタリングをする。冗談を言うときは、それを心の中であらかじめ一瞬言ってみて、集団からの受けを推し量る。ある事柄について発言する際は、それを言うことがセンシティブな人がそこに含まれないことを確かめる。たとえばある種のマイノリティーについてコメントする場合、その当事者がいないことをあらかじめ確かめておくなど。「空気を読む」ことの正体とは結局そういうことだ。そしてそれを程度の差こそあれ欠いているのがアスペルガーの人たちということになる。すると結果として彼らが自己愛的に見られるとしたら、その多くは誤解、錯覚ということになるかもしれない。