2015年7月7日火曜日

自己愛(ナル)な人(25/100)

アスペルガーの当事者は、どのようなことを思っているのか?「権田真吾著:ぼくはアスペルガー症候群」(彩図社)」は、機能が高く社会適応を果たしている当事者が内側からアスペルガーの世界を描いているが、とても参考になる。そこにもアスペルガー型自己愛を理解する上でのヒントが多く書かれている。
 著者(Gさん、としよう)は同僚の高機能自閉症と思われる女性社員Iさんについて描く。
Iさんは仕事の腕は確かなのだが、言動に少々問題がある。会社が推奨している目標管理について「気に入らない」といった発言を社内で平気でするのだ。本人に悪気はないらしく、言った後もあっけらかんとしている。ある日、僕がトラブル対応で他部署に行ったときのことだ。そこの部署の女性社員からこんなことを言われた。「Iさんって、おたくの社員?ちょっと気に触る発言があったのだけど・・・」(p77)
こんなエピソードを語りつつ、Gさんは自分の体験に触れる。
「かく言う僕も、暴言を吐いてしまって苦い思いをした経験がる。ある日僕は業務が立て込んでいて不機嫌だった。そこへ、多拠点から業務依頼があり、僕は「まあいいけど、何でそんなこと引き受けなあかんの?」と文句を言ってしまったのだ。すぐに「しまった!」と思ったが、後の祭り。上司に呼び出されてこっぴどく叱られた。たとえ虫の居所が悪かったとしても暴言はいただけない。ビジネスマンなら感情のコントロールを的確に行う必要がある。」(p78)

 IさんもGさんも、これらのエピソードを通して会社で相手に「なんて傲慢で自己チューなナルなんだろう?」と思われている可能性がある。人の評価は恐ろしい。一度出会っただけでも、あるいはそれだからこそ、そこでのひとこと、態度は決定的な印象を与える。
 もちろんこれだけで両者をアルペルガー的なナルシストと決め付けるつもりはない。しかし彼らが時に自己愛的と思われる際のひとつの特徴を表している。それは自分の姿を外側から見る力が、最初から、つまり生まれつき乏しいということだ。それはどういうことか?
 ここでサイコパス型と比べてみよう。彼らには理想的な自己イメージと同一化した際の満足があった。それ自体は自己愛の定義そのものである。そしてそこに同時に虚偽、嘘、自分を大きく見せるための偽りの姿を臆面もなく表にさらし、周囲をだましおおせた。他方のアスペルガー型には、虚偽の要素は少ない。むしろ虚偽のなさ過ぎ、自分のさらけ出しすぎ、なのだ。サイコパスが他人にどう見られるかを徹底的に知り尽くし、それを武器に使うとしたら、アスペルガー型は、他人にどう見られているかを感じ取れないので、「これをここで言ったらマズイ」「ここでこのような振る舞いをしたら、自分はこんな見られ方をしてしまう!」というアラームもなりようがない。自分をチェックできずに思ったとおりのことを言ってしまう。
 もちろん「思ったまま」を表現することそれ自体を一概に否定できない。というよりは本音、本心の部分は、それを抑え付ける事で精神のバランスを失う可能性がある。だからそれを仕事の後の飲み会で気の置けない同僚に愚痴ったり、家族に話したり、あるいは独り言を言ったりして処理をする。しかしアスペルガー方では、その独り言の部分を社内で、それも聴かれてはいけない人の前でポロっと口に出してしまうというところがある。人はそのような行為を「空気が読めない」せいだと表現したりするのだ。

2015年7月6日月曜日

自己愛(ナル)な人(24/100)

サイコパス的なナルシシストの記述。ずいぶん引き伸ばした気がする。
今日からは
アスペルガー的なナルシシスト
である。
アスペルガーという名前は日本では散々広まった挙句、「もうその名前は使われなくなった」とまで言われることがある。しかしそんなことはない。バイブル「DSM-5」からその名前が抜けたというだけだ。ただしそれにすぐに従う必要はない。それはあまりにあからさまなアメリカ追随の傾向と言えるだろう。
 そもそもDSM-5の傾向、つまり人の名前を冠した病名(ミュンヒハウゼン症候群、アスペルガー障害、レット症候群、などなど)を回避して、なるべく一般的で馴染み安い名前にするという方針自体が、一つの流行であり、私たちはそれにすぐ左右されてしまう傾向がある。それに一度使われてしまっている病名を、一般名にすること自体が面倒だということがある。それもまた何年後かの「DSM6」では変えられてしまう可能性があるのだ。DSM-5ではアスペルガーの代わりにASD(自閉症スペクトラム障害)が掲載されたが、これは事実上アスペルガー障害(というかそれを含んだ広い障害の総称)というわけだ。アスペルガー概念がなくなったわけではなく、呼び方が変わったということである。それだってもう一つのバイブルWHOICD-12でどうなるかはわからない。
ともかくも・・・・。このアスペルガー障害を持った人たちも、時々すごくなるに見えてしまうことがある。こんな例を示したいが、もちろん詳細はかなり粉飾してプライバシーを保護してある。
事例)
米国で出会った40代の白人女性Bさん。海外体験だから、比較的自由に書ける。学校の数学の教師をしていた彼女は、これまでも赴任先で様々な問題を起こし、職を失いそうになっていた。Bさんは愛想を振りまくタイプではなく、どちらかというと無口で黙々と授業の準備をすることが多く、職場でも無愛想で周囲はどのように話しかけていいか困ってしまうことが多かったらしい。それに大学院の数学科でかなり優秀な成績を収め、研究者として残る選択肢もあったというBさんは、そこら辺の高校教師には負けないというプライドもあるらしい。
 さてBさんは話し相手が見つからずに、人知れず寂しさを抱えていたらしい。その結果うつ気味になり、誰かに精神科に会うことを薦められたという。そして私に会うなり、かなり強引に私に毎週の30分の面接を要求してきた。これは私の多忙な外来では例外的な条件ということになるが、私はBさんの勢いに圧倒され、気がついたらそれを引き受けていた。この面談は彼女の体験する職場での理不尽さを辛抱強く受身的に聞くことの繰り返しとなったが、私にとってかなり辛い体験だった。「Bさん、でもそれは・・・」と相手方に少しでも理解を示すようなことを私が言おうものなら、Bさんは烈火のごとく怒るのである。「先生の意見なんか聞いていません!余計な口は挟まないでください。」
 やがて私はBさんにぞんざいに扱われているという感じがしてきた。Bさんの一週間の予定表のひとコマにされたという感じである。Bさんの不満を吐き出すゴミ箱になった気持である。彼女は面接時間の開始が少しでも遅れると私を糾弾し、また私に書かせた診断書の文言の細かい点について、何度も訂正を要求した。私の英語の問題もあり、これには相当苦労した。
 私はダメもとでBさんを地元の低料金のカウンセリングセンターに紹介した。彼女の前でその隔週の30分を過ごす人物は私である必然性はないと思えたからだ。すると一見大学教授風の風貌の男性心理士に対して「精神の専門家ともいえない心理士に、私の深い悩みはわかるはずない!」と、たちまち初回面接だけで彼を解雇して戻ってきてしまった。私が後からその心理士から話を聞くと、次のようなことだった。「Bさんのこれまでの対人関係について話を聞き、彼女の方にも原因があるのかを尋ねたところ、彼女は突然怒り出し、『初めて会ったあなたに何がわかるの?』と言って部屋を出て行ってしまった」のだそうだ。
B
さんとの治療関係は、私の帰国を期に切れてしまったが、私はあれほど面接の際に緊張し、何とかに睨まれたカエルのような心境になったことはない。そしてやはりBさんはある意味でナルシストだったと感じるのだ。

それ以来私が出会ったアスペルガー傾向のある人たちは、ある特徴を持っていた。彼らはある種の世界観を有していて、そこから物事を見る。そこには一種の達観があり、「人はこのようなものだ」という開き直りがある。でもそれが一方的であり、物事の一面しか見えていないという印象を与える。周囲はそれを伝えようとするのだが、彼らは動じない。むしろ「どうしてこんなこともわからないのか?」という視線を一般人に向ける。それが時にはひどく傲慢な、あるいは自己愛的な印象を与えるのである。
 もちろん彼らは苦しさを抱え、満たされない愛情欲求を持つ。彼らだって人とわいわい騒いだり、友達や恋人と楽しい時を過ごしたい。しかし人といてどうしようもない壁を感じる。自分を異質と感じ、それ以上に周囲が自分を異質に感じていると感じる。どのように異質なのかはわからない。彼らには「ヒカれている、遠ざけられている」という感覚しかない。自分たちの振る舞いが、他人のように「自然」ではないということは感じる。しかしどのようにふるまったら「自然」になれるのかは見当がつかない。彼らは「ふつう」になりたいと思う。自分を「異星人」のように感じる人たちもいる。

見方によっては、アスペルガーの人たちは気が弱く、臆病なのだ。事実非常に引っ込み思案でいつも隅っこにいる人たちもいる。しかし中にはある一芸に秀で、それを通して自分が優れているという感覚を過剰に持つ人もいる。すると変な自信がついて傲慢にふるまうようになる。彼らの能力からすれば、周囲はあまりに平凡でバカみたいに見えるのかもしれない。そのような一部の人たちが、確かにナルシシストの一部を形成しているのである。

2015年7月5日日曜日

自己愛(ナル)な人(23/100)

サイコパス型自己愛の記述が続いているが、決して本としてのカサを増やそうとしているとか、そんなことではない。ゼッタイだ。単にこれは面白いテーマだからだ。 しばらく前に読んだダン・アリエリの「ずる」という本が気になっていた。これもこのテーマに関係している。これをネタにして少し書き足したい。

私たちの中に潜む「サイコパス的自己愛」
                                 
サイコパス的な自己愛について論じることを終わるにあたって、一つ十分に議論していない問題について振り返りたい。結局私たちの中にサイコパス的な自己愛は、どの程度存在するのか、という問題である。
これまでも述べたように、自己愛とは理想的な自己像に同一化して快感を味わう度合いにより判断される。他方のサイコパス性は他人をどの程度侮り、搾取し、時には危害を加えるかという問題にかかってくる。この両者が共存すれば、サイコパス的な自己愛者ということになる。
ではそもそもサイコパスとはどの程度存在するのか? これについてのロバート・ヘアの説は紹介した。大体サイコパスは人口の1%ということになる。他方ドラマのテーマになるような根っからのサイコパス、連続殺人犯になるような極悪人は100人に満たないという。そして全米にいる200万人、日本にいる100万人のサイコパスは、政治家、弁護士、医者、教授、会社重役などの様々な職種の中に紛れ、人を搾取するという理屈である。
 これらをプチ・サイコパスと呼ぶなら、実はそれ以下の小者のサイコパス、言わば「マイクロ・サイコパス」(私の造語である)は、実はそこらじゅうにいて、おそらく私たち自身がそうであるという話がある。
米国の心理学者ダン・アリエリーは人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、しゃまざまな実験を試みた。
 彼の著書「ずる―嘘とごまかしの行動経済学」(櫻井祐子訳、早川書房、
2012年)はその結果についてまとめた興味深い本である。
アリエリーは、従来信じられていたいわゆる「シンプルな合理的犯罪モデル」(Simple Model of Rational Crime, SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるというものだ。要するにまったく露見する恐れのない犯罪なら人はそれを犯すであろうと考えるわけである。しかしアリエリーのグループの行った様々な実験の結果はそうでなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して4であるのに対し、で自己申告をさせた場合は平均して二つだけ水増しし、6と報告することを発見するということである。そしてこの傾向は報酬を多くしても変わらず(というか、虚偽申告する幅はむしろ多少減少し)、また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと、ごまかしは縮小した。その結果アリエリーは言う。 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじてたもてる水準までごまかす」。そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。つまりこういうことだ。釣りに行き、魚を4尾釣れた場合、人は両親の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、家族に6尾釣った(ということは二尾逃がした)と報告するくらいのことはやるというのだ。もちろん「4尾」を「6尾」と偽るのは、まさしく虚偽だ。自分は正直である、という考えとは矛盾する。しかし人間は普通はその共存に耐えられる、ということでもあるのだ。先ほどのSMORCが想定した人間の在り方よりは少しはましかもしれない。しかしここら辺の矛盾と共存できる人間の姿を認めるという点では、かなり現実的で、少しがっかりするのが、このアリエリーの説なのである。
   さてここでこれまで検討した正真正銘のサイコパス型ナルシストと比べてみる。木嶋の心にあった矛盾は、「男性を自分は救済した」と「自分は男性を殺害した」という矛盾であったはずだ。彼女はこの途方もない矛盾を抱えることが出来たという意味では、やはりきわめて病的な心を持っていたということになる。 しかしプチ・サイコパスたちはどうだろうか?米国でエンロンが2002年に破綻した時、一連の粉飾会計操作が行われている間、そのコンサルタントをしていた人たちは、その一連の不正が「見えていて」「見えていなかった」という。これを彼らは「希望的盲目willful blindness」と呼んだらしいが、その性質は本質的には「4尾」と「6尾」の矛盾と変わりない。しかしその矛盾の度合いが、ずっとサイコパスのレベルに近づいているということだ。

このように私たちの中にはマイクロ(私たちの大部分)から正真正銘(日本に100人?)まで様々なレベルのサイコパスたちがいて、自分たちの自己愛的なイメージと、それと矛盾するような現実との間に折り合いをつけて生きているのだ。そして繰り返すが、彼らに共通しているのは、「自分はイケてる」という、時には全く根拠のない感覚なのである。


2015年7月4日土曜日

自己愛(ナル)な人(22/100)

    3/200 に例を追加した。
まず最初に例を挙げてみよう。
ある大学の整形外科のA教授(60歳、男性)は、医局員から結構ひんしゅくを買っている。彼はその地方大学の出身であり、出世頭で業績も確かなものがあるので、教授にはなるべくしてなったのであろう。後輩の面倒見も悪くはない。鷹揚で悪気のない性格もそれ自身は問題ない。でも彼の趣味に医局の全員を従わせようとするのだ。飲み会に行くとA教授の自慢話が始まり、しかも同じ話が多い。国際学会で発表をしたりすると、その後半年間はその時の思い出話が繰り返され、しかも少し酒が入るとそれが繰り返しという認識がなくなる。彼は学生時代にバンドをやっていたというのだが、なんと家で妻と娘を誘い、バンドを結成してしまう。そしてその様子をCDに焼いて医局員に配り、その感想をしつこく聞くのである。
 A教授には著書も多く、テレビ出演も時々ある。その時は医局員はあらかじめその番組を見るようにしつこく言われる。もちろん録画したものがDVDに焼かれる。次の日の昼休みはその鑑賞会になるのだ。A教授は取り立ててイケメンということはなく、むしろナントカ原人を思わせる風貌である。低身長、髪もマスゾエ知事とどっこいどっこいで、女性の医局員やナースが騒ぐということもない。教授と言う立場は大きな力の集中する地位であり、それにしたがって注目を浴び、丁重に扱われるのはむしろ当然であるが、それ以上に扱われるにふさわしい人徳がA教授に備わっているということもない。
 A教授は特に誰に憎まれているという訳ではないが、皆が不思議に思うことがある。どうしてあれほどまでに、自分の書いたもの、話したことを医局員に見せたがるのか、あるいはそうすることが迷惑だということがどうしてわからないか、である。彼の頭には「自分が受け入れられない」と言う発想がないかのようなのだ。
      自己愛な人 9/200 に挿入する部分を書いた。たまたま読み直したオザワさん(仮名)に関する手記が秀逸だったからだ。
ではこのオザワさん(仮名)はその配偶者にはどのように映っていたのだろうか?
松田賢弥:小沢一郎 淋しき家族の肖像  文芸春秋、2013
を参考にしよう。この書の冒頭の、小沢の元妻の書いた手記は、本書の一つのウリである。そこで「和子」は書く。
・・・8年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才を過ぎました。3年付き合った女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引き取れと言われたそうです。それで、私との結婚前から付き合っていた●●●●という女性に一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。小澤が言うには、この●●●●と言う人と結婚するつもりだったが水商売の女は選挙に向かないと反対され、誰でもいいから金のある女と結婚することにしたところが、たまたま田中角栄先生が紹介したから私と結婚したというのです。そして「どうせ、お前も地位が欲しかっただけだろう」と言い、謝るどころか「お前に選挙を手伝ってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな」と言われました。挙句「あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる」とまで言われました。
その言葉で、30年間皆様に支えられて頑張って来たという自負心が粉々になり、一度は自殺まで考えました。息子たちに支えられ何とか現在までやってきましたが、今でも悔しさとむなしさに心が乱れることがあります。」
それから手記では、福島の原発事故の後、県民をおいて自分たちだけが逃げ出すことを考えている小沢氏を情けなく思い、非難する。
「ところが三月三十一日、大震災の後、小沢の行動を見て、岩手、国のためになるどころか害になることがはっきりとわかりました。」
「こんな人間を後援会の皆さんにお願いしていたのかと思うと申し訳なく恥ずかしく思っています。」

いやはや人間もと配偶者にここまで言われると、もう生きる希望も無くなるのではないか。この手記はオザワさん(仮名)の「厚皮」ナルシストぶりをうまく表現していると思うが、これだけの手記を公にされてもし彼が自殺をしたくならないとすれば、それもまた彼が「厚皮」であることの証左だろうか。

2015年7月3日金曜日

自己愛(ナル)な人(21/100)

新幹線の中で、「毒婦」の残りの部分を読んでみた。実はきのう書いた分のせいで、考えが進んだ。木嶋は明らかに自己愛的な要素を備え、サイコパス性を有し、そして女性的な魅力を備えていた。自己愛的な要素とサイコパス性は一応独立したファクターだ。それは昨日の「追加部分」で書いたとおりである。しかしその上で言えば、サイコパス性は、自己愛的な要素を「助長」しているのである。それはどういう意味か。
 サイコパスは不安や恐怖が欠如していると述べた。それが彼らに妙な精神の安定や自信を与えるのである。木嶋佳苗の場合も、傍聴席で見る彼女は落ち着き払い、動揺することが少なく、それが彼女に独特の存在感と自信を与えていた。女性の傍聴者の中には、そのような木嶋に惹かれ、遠方から訪れる人もあったという。ふつうなら自分の運命がまさに左右される裁判に臨み、不安になったり動揺したりしてもおかしくない。ところが木嶋はむしろ自分がどう映るか、どのように見られているかを意識し、髪形や服装や靴に気を配っているようであった。この妙な、おそらく正当な根拠のみじんもない落ち着きと自信は、彼女が生理的、精神的な動揺を感じていないということと深く関係する。誰でも打ち解けた仲間と会話を楽しんでいる時には緊張せずに素の自分をさらけ出すであろう。それを彼女は法廷でやってのける。しかも動揺していないために精神のエネルギーをいかに人をだまし、自分のコントロール下に置くかに費やす事が出来るのである。
では木嶋の自己愛の部分はどうか。彼女は「頭のいい」人間である。自分がなれるはずのない姿は思い描かない。自分が美人でないことは最初から認めている。彼女が特に雄弁になるのは、自分のセックスの能力であり、これについてはよどみなく語ったという。
弁護士:「(男性は)感想を言いましたか?」
木嶋:「はい。今までした中で、あなたほどすごい女性はいない、といわれました。」
そこで傍聴席の空気が変わり、皆がぐっと身を乗り出した、と北原は書く。
「男性たちには、褒められました。具体的には、テクニックではなく、本来持っている機能が、普通の女性より高いということで褒めていただくことが多かったようです。」
社会勉強が足りないために、私は木嶋が言っていることがさっぱりわからないが、なにかとても自慢していることだけは分かる。殺人の被告として証言している女性が、ここまで言うだろうか。ここまで人は自己愛的になれるのだろうか。しかしそれ以外にも彼女はピアノはプロ級、料理の腕も一級品、と自分を売り込み、また実際の実力もそれなりに備わっていた。また彼女の書く字は端麗であったという。
木嶋の成育歴にもほかのサイコパスと同様の特徴がみられる。というか成育歴上の特記すべきトラウマや虐待が見られないという点でである。 木嶋は18歳で上京するまで、北海道の東の果て、別海町で過ごす。製材業を営む父親、ピアノの教師の母親のもとに生まれる。三歳、八歳下に妹、六歳下に弟が出来る。下の子供たちの面倒見のいい、「いい子過ぎる」長女。父親を愛していたが、母親とは情緒的な距離があり、高校時代には一人で家を出て祖母宅で過ごすようになったという。
 以前にサイコパス性は幼少時から見られると書いた。木嶋のそれはさほど目立たない形ではあるが、すでにかなり若いころから発揮されていた。すでに彼女に関しては高校時代から売春に手を染めていたといううわさがあったというが、陸の孤島にも近い狭い町ではあまり派手な動きは出来なかったのであろう。
むしろ才能を発揮したのはお金を引き出す方面だった。中学3年の時、家族ぐるみで付き合いの会った家庭から印鑑と通帳を持ち出し、60キロ離れた根室の郵便局までタクシーを走らせ、300万円の預金を引き出そうとして捕まった。わざわざタクシーで乗り付けた女の子はさすがに職員に不信がられ、そこから発覚したという。しかし3年後の高校3年時には、再び同じ家から通帳と印鑑を盗み出し、現金700800万を引き出すことに成功してしまう。返済した父親はさすがに、自分の娘が手の負えない存在であるということに気が付いたという。この大胆さ、図太さ。人を殺めたという記録はないが、木嶋はすでにサイコパス的才能を開花させていたといっていい。決して「たたき上げ」ではない、もって生まれた才能としてのそれを。                                

2015年7月2日木曜日

自己愛(ナル)な人(20/100)(2/200に追加する部分

ここでこのサイコパスのナルシシズムの特徴は、強調してもし過ぎることはないし、この点が人をだます上で決定的なのだ。ナルシシストはある意味で、すでに自分をだましている。「自分はすごい」と本気で思っている。そうでないと人をだませないのである。

ということで、ここで自己愛の定義について、補強する必要が出来てきたな。最初はあまり考えていなかったことである。

自己愛(ナル)な人(2/200)に追加する部分

自己愛の本質部分は「イケてる自己イメージ」との同一化だ
ここで少しわかりにくいかもしれないが重要な点を述べておきたい。そもそも自己愛としてどのようなものを私が本書で考えているかということだ。
私は学位もちだが、実はかなりイーカゲンな論文に対していただいたものである。その論文で述べたことは、しかし今でも常に私の頭にある。それは、人の自己イメージには、理想化されたイメージと、駄目イメージがあり、その間をショッチュウ揺れているという考えである。
 わかりやすく、「イケてる自分のイメージ」と「やっぱり俺って駄目じゃんイメージ」と言い換えよう。帰って長くなったな。
 人は育っていく過程で親を見て、漫画を見て、ドラマを見て学校の先生を見て、クラスメートを見て「すごいな、あんなふうになりたいな」と思うことがある。一種のファンタジーを抱くのだ。たとえばクラスに成績が優秀な友達A君がいて、いつも漢字テストで100点を取る。「あんなふうになれたらな」。と思うが、同時に「でも自分はまだだな」という現実感覚もある。
 ところがテストで自分も漢字テストで100点を取り、「すごいな、うらやましいな。」と隣の友達に言われたりする。「あれ、僕ってA君みたいなのかな?自分ってイケてるのかな。」と思うとき、少しの戸惑いとともに喜びを感じるだろう。自己愛とはこの瞬間に体験される。それまで自分とは異なると思っていた姿に、自分が重ねあわされることによる快感。でもおそらく翌日のテストでA君はまた100点なのに、あなたは80点しか取れず、「ああ、やっぱり僕はA君じゃなかったんだ」となる。自分の現実の姿と、「イケてるイメージ」はふたたび乖離するのだ。
もちろん自分は現実に100点を取らなくても、想像力を働かせたら、A君になれるし、そのときは偽りの自己満足を味わう。でも次の瞬間には「でも、これって現実じゃないよね」となり、軽い失望を味わう。どうしてこれが「軽い」かといえば、想像力を働かせてA君になっているとき、「これはホントーじゃない」という認識が脳のどこかに存在するからだ。これを現実検討能力という。そうなると偽りの自己満足はそのピークに達することはない。
 ところで人間はこの種の偽りの満足と失望を、それこそ毎日のように体験している。夏の暑い日に汗水流して働く。ふと「仕事が終わったらビールだ・・・・」と一瞬うっとりする。でも「後仕事終了まで3時間だ。がんばらなきゃ」となる。その時ビールをゴクゴク飲む自分を想像しても、それは本当の快感ではない。でもほんのちょっとは快感なのだ。それが、「今目の前にビールはない」という現実検討に取って代わられる。しかしほんのちょっとの快感の先取りをしているので、それを実際に体験しようと、仕事に励む。人の脳はそのように出来ているのだ。
私は脳科学オタクなので、一歩間違うとシチ面倒くさい話になってしまうから抑えておく。結局何が言いたいのか?
自己愛(ナル)の本質部分、というか共通部分は、「イケてる自己イメージ」をどれだけ膨らませているか、それと自分を一瞬重ね合わせたときに、どれほど快感を得るか、ということになる。本気でイチローのような大リーグのスターになることを考えている野球少年は、それをイメージしたときにどれほど嬉しいか、ということでその人の自己愛のレベルが決まる。ここで注意してほしいのは以下の点だ。
どれほどイケてる自己イメージをリアルに体験できるかが、自己愛度を左右する。これはいわば自分をどこまでだませるか、ということにもなる。体力も貧弱で才能のかけらもなくても「俺は将来大リーガーだ!」という少年は、周囲からもトンでもないナルに見えるだろう。それは本気でそのようなファンタジーを描いているという点においてである。でも彼が「俺は町の草野球チームの8番バッターになったる!」と言っても、彼のことをナルとは思わないのだ。それはあまりに現実的で当たり前な「イケてるイメージ」だからである。
 逆に大谷ショウヘイ青年のように、実力、体格、スター性から言って大リーグのスターにいいつでもなれそうな人が、「俺は将来大リーガーだ!」と言っても、誰も彼のことをナルシシストとは思わないだろう。彼が「宇宙一のバッターになる」と言い出したら、話は別だが。
ここに重要な要素は二つある。
1.  イケてる自己イメージがどれほど高いところに位置しているか?
2.  どこまでその自己イメージに同一化して、陶酔する(自分をダマす)ことが出来るのか?
この二つにより自己愛度が決まってくるのであり、ここが自己愛の共通部分、中核部分なのだ。あとはこの条件を満たす様々なタイプが出来てくる。それが私が本書で述べるものである。人をどの程度利用するのか、どこまでそこに反社会性が加わるのか、どの程度「イケてるイメージ」の反対極にある「駄目ジャンイメージ」に苛まれているか、どの程度自分をだましてイケてるイメージに陶酔できるのか、などなどである。そうすると気が弱い、人に迷惑をかけることばかり心配しているナルだっていることになる。この12のどちらか、または両方が満たされているならば。自己愛についてまじめに議論するためには、それらの「隠れナル」も掬い取ってあげなくてはならないのだ。

うーん。やはりわかりにくくなったか。この項全部ボツか。この50分はなんだったんだろう?

2015年7月1日水曜日

自己愛(ナル)な人(19/100)

木嶋佳苗の本がやっと手に入った。今回はこれを参考に書く。順不同だ。

恋愛詐欺のナルシシスト(続)

北原みのり 「毒婦 - 木嶋佳苗 100日裁判傍聴記」 講談社文庫 2013
を読んでみた。裁判傍聴記であり、本人の思考や自己正当化などを見ることは出来ないが、彼女が傍目にどう映っていたのかを知る上で大いに参考になる。結論から言って、木嶋はサイコパス的な自己愛者の一型としての、恋愛詐欺のナルシシストといえるのかということだが、ほぼそう言っていいと思う。
著者は傍聴を始めてすぐに、ある種の木嶋の魅力に取り込まれる。北原の記述を元に少しまとめよう。(ネットからただで拾った情報ではなく、お金を出した本なので、あまり良心の仮借なく、これが出来るのだ。)
 木嶋は逮捕当時34歳、インターネットで知り合った男性たちから1億円以上のお金を受け取り、彼女の周囲では複数の男性の不審死が起きた。マスコミが特に注目したのは、彼女の容姿だった。「どうしてこんな容姿で、男たちを次々にだませたのだろう。もし彼女が美人だったら問われなかったようなことが、まるで大きな問題のように扱われた。」(北原P3)(← 私はまじめだから、やはりコピペには気が引ける。当たり前か。)ところが法廷で見せる彼女の以外に繊細で洗練された身のこなしに驚く。周囲の傍聴人も「意外にイケるじゃないか」「可愛い」などの声が聞こえたという。そして法廷での彼女の服装の選択、書類にボールペンで文字を書くしぐさ、それらの一つ一つの所作が綺麗だ、とまで言うのである。
 裁判では彼女の歯牙にかかった男性とのかかわりが明かされていくが、彼らが彼女に引かれていくプロセスはそれなりによくわかる。メールの文章が量が多く、心遣いもこまやかである。得意の料理でもてなす。自分のセックスの魅力や、誘いかけをさりげなく織り込む。多くの男性が一度会った木嶋に、見かけ以上の魅力を感じ、信頼を寄せていく。そこにあるのは彼女の自信にあふれたしぐさ、料理の腕前、気の配りの細やかさである。それでいて彼女はいつも男性と会う時、すっぴんで会っていたらしい。そして自分の容姿に対する自信のなさを否定しない。むしろ「私は内面を磨いています」という言い方をして、誠実さ、心の美しさ、人間的な魅力をさりげなくアピールするのである。そして男性が木嶋に会う際に同伴した家族などからも好印象を引き出す。
しかし、である。彼女の頭には男性が金づる以外の何物にも見えていない。ビーフシチューを振舞うのと平行して、男性の自殺を装うための練炭をしっかり用意するのである。


私はこの部分を「毒婦」の最初の50ページ程度を読んで書いているのだが、(もちろんちゃんと最後まで読むつもりだ)すでにここまでで、木嶋が腕利きの accomplished サイコパスであることがわかる。なぜ彼女がブランド品に身を包んだり、口紅を塗ったり、脂肪吸引をしたり、付けマをしたりしないのか。それは内面の美しさを「演出」するためだろう。人をだますのにあからさまな仮面をつけるのは逆効果である。内面から誠実さがにじみ出てくるかのように見せることが大事なのだ。そしてそのためには、ある意味で自分が内面から美しく誠実であると信じ込んでいることが必要なのだ。ここ、わかってもらえるだろうか?この点がナルシシズムの真骨頂なのだ。
  彼女は自らを犯罪者、悪者とは思っていないだろう。彼女は確かに人殺しである。人を殺したことを彼女は心の中ではちゃんと認めている。でもその部分と、男性につくし、信頼を勝ち得ている部分は見事に切り離され、別個に成立している。彼女の自伝的小説「礼賛」に見られるような、男性をあたかも救済していたかのような記述(←本が高いので実は買っていないのに、読んでいるかの書き方をしている。私もサイコパスだ。)は、彼女の本心でもあるのだ。