2013年2月22日金曜日

パーソナリティ障害を問い直す(11) 

「解」を読み進める(9
 うーん、全然連載が終わらない。一向に「解」が見えてこないのである。まあ、そのためにこのブログを使って考えているわけだが。そろそろ内容が、繰り返しになり、飛ばし読みができるようになることを期待しているのであるが。しかしこの作業も、この「事件」でなくなった方々の供養の意味もあるのではないかとも思う。あの忌まわしい出来事を引き起こしたKTの心の流れを少しでも整理しようとしているわけだから。
 第14番目の章「人のせい」以降KTのモノローグがしばらく続く章があるが、その内容は精神医学的に興味深い。この数章で彼は、「事件」に至るまでの自分の考え方がいかに間違っていたかを反省している。要するに自分がいかに「事件」を引き起こすにいたったかについての弁明を試みているわけだが、これを読んでいて少し考えが進んだ。
 この数章に述べられる彼の主張は、自分が以下の3つの誤りをおかしていたと言うことである。

1.        KTが、「自分が悪いか、相手が悪いか」の二者択一式の考えしかできなかったこと。そして彼が結局はつねに「人のせい(相手が100%悪い)」にしてしまっていたこと。
2.        「相手の誤った考え方を改めさせるために、痛い目を見てもらう」ことに固執したこと。
 
3.        相手に対する不満を伝えることで、話し合いの場をもうけることなく、常に直接行動に出てしまっていたこと。

 もしKTがこれらの3点の誤りに気づき、本当に反省しているのなら、そしてそれが今後の彼の行動の変化につながるとしたら(とはいえ今後の彼の人生はもう「ない」はずなのだが)、それは画期的なことではあろうと思う。しかしそれではもし彼がこれらの誤った考えを持たなかったら「事件」を防げたかと言えば、それは別の話だ。しかしともかくも彼の言い分を少し検証してみる。
 まずKTは1.については、自分が常に母親から情報操作をされ、それ以外の考え方に触れることがなく育ったことを理由に挙げる。もしKTの記述が正確だとしたら、確かに彼の母親の態度は問題が多く、あからさまに彼に対して虐待的であったといえるかもしれない。母親は彼の行動に問題を見出した場合、「こちらに4分、向こうに6分非がある」というような考え方をせず、100%相手が悪いという考え方を取る人であったという。そしてそれに基づきKTを処罰したというのだ。そしてこれは2.にも関連することであるが、母親は息子の「誤った考え方を改めさせるために痛い目にあわせる」扱いを常にをKTに対して行なっていたという。それは例えば母親の料理の邪魔をしたときは二階から落そうとしたり、九九の暗唱を間違えた時には、風呂に沈めたりしたという。そしてその仕打ちをされたKTは考えたという。「自分が間違っていたからこのようなことをされるのだ。それを改めるしかない」。これを繰り返してきた以上、KTはそれを他人に施すことにも抵抗がなかったという。
 この部分を読んで私もある程度は納得した気がした。考えを改めるためにある種の懲罰や強制力を加えるという手段は、彼の場合にそうであったように、ある場合には有効なのだ。しかしその場合はそこで感じるべき恐怖や怒りや憎しみが解離される必要があるということなのだろう。そしてこれは上述の3の問題にもつながっていく。他人との関係で自然と持つ感情、すなわち理不尽さや不満や怒りを、私たちはある程度は相手に表明することで、その関係性が過剰なストレスとはならないようにする。対人関係とはそのような意味で力動的なものだ。自分の考えを他者に押し付けると、何らかの反応があり、それにより自分の態度や考えを変更せざるを得ない。そこに介在する重要な要素が感情である。相手の不満や怒り、時には感謝の念が自分の態度を変えるのである。
 KTの記述に何度も出てきて、そのたびに違和感を覚えていた表現、つまり「相手の誤った考え方を改めさせる為に痛い目にあわせる」の意味がここに少し明らかになる。少なくともKTはそうやって生きてきた。痛い目にあうことで、それに反発することなく、交渉することなく、自分の行動を変えてきた。そこに解離され、切り離されていたのはネガティブな感情であり、それが突出した形である日衝動的に表現されるのである。
 ここでKTの問題を少しはなれ、一般的な子育ての状況を考えてみたい。実はこの種の問題は実は常に起きている可能性がある。親は子供を叱る。子供はそれにたいていの場合服従せざるを得ない。問題は子供がそこで怒りや反抗心をもっていないかのように振舞い、また実際にそれを感じていない可能性がある。しかしそれは将来親に対する深刻な怒りや憎しみを生む結果となることが多い。そこで問題となるのが、先ほども少し触れた解離の機制なのである。そこで切り離された感情は、そのときは体験されずに、しかし別の機会に、心の別の場所で体験される。そしてそれは容易にはその人自身に統合されないのだ。

2013年2月21日木曜日

パーソナリティ障害を問い直す(10) 

「解」を読み進める(8)


第9番目の「事件に至るまで」という章以降では、KTのインターネットの掲示板とかかわりに関する記述が増してくる。そしていよいよ「事件」の核心部分に迫って行く。彼が「事件」を起こしたのが、2008年6月8日だが、その一週間前に、彼は事件について「思い浮かび」、秋葉原にナイフを買いに訪れている。しかし刃物屋だと思って入った店が雑貨屋で、そこで面白いアイテムを見つけたKTは、それを職場の友人に買っていこうという考えに夢中になり、「ナイフのことはすっかり忘れて帰宅し」てしまう。ここでは自殺、ないしは殺傷事件という深刻な内容の思考が、ごく些細なきっかけで突然消え、またよみがえるという奇妙な、そしておそらく病的なKTの心の動きが示されている。

 この章以降では、「事件」の直接の引き金になったインターネット上での出来事についても注目したい。とはいえ、私には彼の書いていることが十分に把握できない。スレッドに投稿し、そこに反応してくる投稿者たちとのやり取りに一喜一憂するという体験を持ったことがないからである。しかしもはや現実での人間関係を失ったKTは、この世界に没頭する。そこで彼自身が立ち上げたスレッドで、ある人物に「成りすまし」や「荒らし」といった被害を受ける。そしてその人物とのやり取りがまっすぐ「事件」につながって行く形となる。あるいは少なくともKTはそう説明しているのだ。第10番目の章「思い浮かんだ事件」では、KTはこう断言する。「成りすましらとのトラブルだけが事件の動機だったのは事実です」。

 この「思い浮かんだ事件」という章では、「事件」の原因をKTなりに説明している。彼はこういう。「(私は)成りすましらとのトラブルから秋葉原で人を無差別に殺傷したのではありません。」「秋葉原無差別殺傷事件は、成りすましらを心理的に攻撃する手段です。」この違いはちょっと聞いただけではわかりにくいが、KTはここは重要であるとする。彼はさらにもう一つの区別も強調する。
 「なりすましらはどこの誰なのかわからない人だから、どこの誰なのかわからない無関係な第三者を同一の怒りの対象として殺傷したわけではありません。そうではなく、なりすましらはどこの誰だかわからない為に、殴るといった直接の物理的攻撃も、にらむといった直接の心理攻撃も不可能で、何かを通して、間接的に攻撃をするしかなかった、ということです。」つまりKTがなりすましにできる唯一の攻撃は、スレッド主である彼が大事件を予告し、それを実行することで、自分たちのせいでそんなことが起きた、という罪悪感や恐怖を体験させることであったというのだ。

数日前のグアム島での類似の事件を起こしたデソト容疑者。事件の動機についてほとんど意味のある供述をしていないという。それに比べてKTはこの「解」で何らかの鍵を提供しようとしていることになる。もう少し注意深く彼のロジックを追ってみたい。

2013年2月20日水曜日

パーソナリティ障害を問い直す(9)

「解」を読み進める(7
「解」についての冗長な考察を続けているが、いちおうこれでも考えながら書いているのである。スピードが出ないのは、私がこの本に出てくる彼の思考や感情の記述を十分に追えずにいるからだ。KTの頭で生じていることは、それだけわかりにくい。
 読み進めるうちに、KTの人生の破綻の序章という雰囲気が漂ってくる。不思議なことだが、私の頭の中で、KTの人生は終わっているかのように感じる。KTはその引き起こした「事件」の甚大さからも、到底生きていてはいけない存在だからだということもあるし、おそらく彼の今後の人生の中で死刑執行以外に意味ある出来事は生じてはいけないとも思う。しかし彼は刑務所の中でおそらく安らいでいるだろうとも考える。彼は独房にいてさえも孤独ではないはずだし、もしそうだとすると、やはりそれは問題なのだ。彼が奪った多くの命を償うことは、彼の死をもってしかないだろう。
 彼の手記の「自殺(2)」に進む。順調だったはずの彼の生活は2007年の7月に突然終わってしまう。両親が離婚をしたことをきっかけに、青森の実家を出されてしまったからだ。そして彼の孤独を埋めるための放浪が再び始まり、運送会社での仕事を辞めてしまったこともその追い討ちとなった。
 彼の退職のパターンは大体決まっている。自分が理不尽に扱われていると感じ、被害的になり、会社の「間違った考え方を改めさせるために」何らかの嫌がらせや損害を与えて「痛い目を見てもらおう」と考えるが結局実行に移さず、自暴自棄になり、あるいは職場への当てつけの意味を込めて仕事場から突然去ってしまう。そしてアパートに帰った時の強烈な孤独感が、彼を死に一歩近づける。しかし今度は彼を自殺から救ったのは、兵庫の友人であったという。その友人が半年後に遊びに来るという連絡を入れただけで、KTの自殺の考えはうせてしまったという。しかしこの章に続く「自殺(3)」では、その友人が来るのが実は一年半後ということがわかってまた絶望し、本気で自殺を考えるようになる。この辺が実にめまぐるしい。
 この時の彼の自殺企図の様子は精神医学的に見て非常に興味深い。彼は駐車場で車の中に籠城し、そのまま死のうと思ったが、不審に思った駐車場の管理人に警察を呼ばれてしまう。KTはその警察官に「何をしている」、と聞かれただけで、「久しぶりの人との会話に涙があふれた」という。しかし警官に自殺しようとしていたと告げたところ、「生きていればいいこともある」と言われて「心が凍りつきました」とある。それは「(俺は何もしてやらないけれど)生きていればいいこともある(だろうから、一人で勝手に頑張れ)ということだからです。」ということだ。
 その後また状況は反転する。その駐車場の管理人にそれまで溜まっていた駐車料金を請求されて、今は支払えないと答えたところ、「年末までに払えばいい」と言われる。すると「自殺のことなど、一瞬で消えてなくなりました」というのだ。彼はそれをこう説明する。この言葉はその駐車場の管理人が彼を信用して待っているということを意味する。そうである限り、彼は生きながらえることが出来る。実際KTはそれから静岡で仕事を見つけ、後に仕事をしてできたお金を持って上京し、管理人に返済をしたところ、感謝されたという顛末が語られる。
 他人からのひとことで、ある時は一瞬にして心が凍りつき、別の場合は自殺の考えがすっかり消え去ってしまう。これはいったいどういうことだろうか? もう何度も見てきたKTの心の動きだが、彼の思考の奇妙さがそのたびに浮き彫りになる。彼の心の中の他者イメージにより簡単に寂しさが癒される。章の最後でいみじくも彼は言っている。「約束があれば、孤独でも孤立しません。私が誰かのことを考えた時、その誰かと約束がされていれば、その人の頭の中にも私がいる、と思えるからです。」

KTにおける内的対象の性質
 KTの思考プロセスがどうして奇妙に思えるのかについて改めて考える。精神分析に内的対象という概念がある。わかりやすく言えば、心の中に思い浮かべるある「人」のイメージのことだ。通常はその「人」が自分をどのように思っているのか、つまり愛情を持って見つめているのか、それとも憎しみを抱いているのか、あるいは全く関心を持っていないのか、などが非常に重要となる。その「人」に愛情を向けられていると信じられることで満足するかもしれないし、憎まれていると感じられることに耐えられない、ということもあるだろう。しかしともかくも実際にその「人」が目の前にいなくても、その「人」を心に思い浮かべるだけで、一緒にいる気分になる。そう感じられるだけの能力を、正常な発達を遂げた私たちは備えているのだ。数日前のブログで、「人は本来孤独を恐れるものだ」と述べたが、内的対象を持てるということは、その孤独を癒す最も有効な手段といえる。もちろんそれだけでは満足できず、実在して隣にいてくれる「人」の存在も私たちは必要としているわけだが。しかししばらくの間孤独に耐えなくてはならない時も、ある「人」を思い浮かべることでそれを和らげることが出来る。たとえその「人」は遠く離れてほとんど会うことはなくても、実際にはもう亡くなっていても、「あの人は生前私のことをいつも温かく見守っていた」と感じられることで、内的対象イメージは私たちの心を内側から温めてくれる。
 ところで内的対象と実在する「人」とはどう違うのか?「人」には、その物理的な存在だけでも安心したり、心強く思ったりするというところがある。その人が特に自分のことを愛していなくても、特に関心を持ってくれていなくても、同じ建物にもう一人いるということで安心するということもある。夜中に一軒家にひとりで過ごすときの不安を考えるといい。ルームメイトがいるだけで、たとえその人と言葉を交わさなくても心強く感じるものだ。それを実際の「人」の物理的な存在という側面と考えよう。そこにいるだけでいい、という意味で、である。
 さてKTにとっての内的対象とは、この物理的な側面を持っている、ということを私は言いたいのだ。通常の内的対象は、自分に向けている気持ちが大きな意味を持つ。「ただいる」だけでは足りないのだ。ところがKTにとっての内的対象は、ただ物理的にそこにいる、というだけで安堵感を与えると言うところがある。そこが奇妙なのだ。逆に言えば、内的対象の持つ意味があまりないということになる。心の中の「人」が自分を過去に思ってくれていたのであれば、それで心の中では孤立しない、という事は彼の場合には起きない。内的対象像は、自分の事を心に留めることをやめた瞬間に・・・・・消えてしまうのだ。これは本当の意味で内在化された対象イメージではない、ということになる。内的対象を持つという機能の何らかの異常、欠損、ということをとりあえず考えつつ、まだまだ未完成な考察のまま、さらに読み進める。

2013年2月19日火曜日

パーソナリティ障害を問い直す(8) 

「解」を読み進める(6)

 次の章「青森の実家での生活」では、KTの人生にひと時の安定が訪れる。自殺を寸前で思いとどまった結果として車を大破した彼は、援助を求めて青森の実家に帰らざるを得なくなった。そしてそこでふたたび家族との交流が再開する。彼は運送会社に職を求め、仕事を終えて夜は帰宅するという生活を始める。
 「仕事中、一人でトラックを運転していても、孤独ではあっても孤立はしていません。会社の車を運転していることや、荷物を待っている人がいることが、社会との接点になっていたからです。仕事を終えても実家という帰るところがあります。帰ること、家にいることそのものが、母親のために、と社会との接点になっています。孤立とはまったく縁のない生活になりました。」。
 ここでの孤独と孤立の違いの説明はそれなりに説得力がある。また自分の行動が誰かとの接点を感じさせるものでありさえすれば、それでよかったという彼の記述も興味深い。このような形での孤独感や空虚さの埋め合わせ方は、やはりBPDとは異質という印象を受ける。BPDの場合、特定の誰かに去られるという出来事を通じて、その孤独感が痛烈に感じられるのに対して、KTの場合は要するに寂しさを紛らわしてくれる人なら誰でもいいし、それが絶たれるととたんに苦しくなるという、まるで薬物依存のような傾向がある。(何日か前の記載で、彼がちょうど空中の酸素のように社会との接点を必要とする、という書き方をしたが、同じような意味である。) KTの社会との接点への飢餓は、たとえばゲームや読書など、一定の間自分の興味を満たしてくれるものでは満たされない。あくまでも実際の「人」なのである。単なる「寂しがりや」の極端なケースなのか、この人間は? もちろん精神医学的な検証をしようとしているときに、それを「病的寂しがり」で済ませるわけには行かない。彼が「事件」を起こすに至るには、他のいくつかのピースが考えられるだろう。しかしこの私が仮に名づけた「病的さびしがり」傾向も、一つの重要なピースであることは確かだ。
 ともかくも実家暮らしをしているKTの生活ぶりを見る限り、KTは至極普通の人間のように見えてもおかしくない。他人に迷惑をかける、という感覚も備わっているようだ。「偶然のことですが、車屋にレッカーしてもらって車屋にいることで、車屋が社会との接点になりました。修理もできない車を置いたままピットを占領していては迷惑だと思い、その迷惑をかけている状態を解消するという行動の理由ができたからです。」とある。さらには掲示板で自虐ネタを披露する、ということも学習する。この頃、すなわち2007年の春ごろに彼と接した人は、彼がわずか一年後には、秋葉原であの「事件」を起こすことになると想像だにしなかったはずである。市井の人として淡々と仕事をこなし、しかも他人をそれなりに気遣うことができるKTがどうして殺人を犯すことになったのか?私たちの問題意識は常にそこに帰っていくわけだが、結局それが示しているのは、次のことのようだ。殺人は、「人の痛みがわからない」ことの究極にある、というわけではないこと。通常の状態とは異なる、ある種の精神状態に置かれ、そこでは特定の視点が盲点化され、特定の感覚が麻痺し、特定の目的のために行動がとられる。ただし誰でもこの特異な精神状態に置かれるわけではない。それを準備するようないくつかの条件、私が言う「ピース」があるのだろう。
 私は仕事柄解離の病理に接することが多いが、KTに見られるのも不連続性である。(そんな結論にこの先至りそうである。)

2013年2月18日月曜日

パーソナリティ障害を問い直す(7) 


「解」を読み進める(5 
 ここ数日、「解」を少しずつ読み進めて、その感想をブログに書いている。
4番目の章「自殺(1)」は興味深い章だ。彼は言う。「孤立すれば、自殺はもう目の前です。私は肉体的な死には特に感じるものはありませんが、社会的な死は恐怖でした。ですから孤立の恐怖から逃れるために自然と自殺が思い浮かんでくるのだと思います。」そしてそこから20058月末の、自殺一歩手前に至るまでの経過が書かれる。
 KTは当時孤独を紛らわすために、接客業の女性を買い、出会い系の女性と時間をともにし、ヒッチハイクで話し相手を見つけた。いずれも孤立を一時的に癒してくれるが、どれも本質的ではない。根本的な解決策がない限り、自然と死に向かっていったという。しかし自殺をする、という行為もまたその瞬間までの孤立を回避するための手段として使われることになる。そのために昔の友人にメールでそれを宣言するのだ。すると自殺は彼らに対する「私と一緒にいてくれない、という彼らの間違った考え方を改めさせるため」に「彼らに心理的に痛みを与えるため」のものとなるという。KTはそれを「自殺をしようとすることで社会との接点を作ることができる」と表現する。
このあたりの記述は、KTにとって自殺や他殺という社会にとって甚大な影響を及ぼすような行為が心の中でどのように位置づけられていたかを知る上で貴重である。通常人間は人の命を奪う行為については、それが自分のものであれ、他人のものであれ、最大の抑制がかかるようにできている。それは強烈な恐怖や罪悪感とともに自らの行動目的からは極限までに遠ざけられるのが通常である。私がこの問題を重視するのは、それでも世の中には、「自分の肉体的な死に特に感じるものはない」人たちがいて、おそらくその一部の人たちは、「他人の肉体的な死」についても「特に感じるものはない」ことを意味し、それが他人の「間違った考え方を改めさせる」ために容易に使われてしまう可能性があるということである。KTのように。おそらく孤独を何よりも恐れるという人たちはこの世には少なくないのだろう。というより人間存在は本来孤独や孤立を恐れるのであり、あとは個人個人がそのためにどのような巧妙な防衛手段を備えているかということになろう。しかし自分の肉体的な死に関しては、それを何も感じないという人はきわめて例外的なはずである。孤独も怖いが、死ぬのも怖い、というのが普通なのだ。ということは自分の、そしておそらくは他人の肉体的な死に頓着しないというKTの精神の畸形が、「事件」を考える上でもっとも本質的な問題としてあると考えるべきなのだろうか? もしそうだとするとこのまだ全体の10分の一も読み進めていない「解」の解は、すでに与えられているのかもしれないとも思う。でも果たしてそれでいいのか?死を恐れるというおそらく本能に根ざした部分が、彼の場合スイッチオフされていて、それが「事件」につながった、その理解でいいのだろうか?
 ともかくも「自殺(1)」の章は、予定通り対向車と正面衝突をする寸前だったKTが、登録していた出会い系からのメールをたまたま受信することで、「孤立の解消が期待できた」ためにハンドルを切り、自殺を中止するところで終わる。これもスイッチオフされたように。

2013年2月17日日曜日

パーソナリティ障害を問い直す(6)


 「解」を読み進める(4

「解」の二番目の章である「埼玉での生活」には、KTの示す「社交的」な面も書かれていて興味深い。これまでも書いたように、KTは自分を見つめてくれている人の存在を、あたかも空気中の酸素のように必要としているというところがある。つまり彼は他人といると快適ないしは安心なのであり、必然的に社交的ということになる。ただその社交性は独りよがりのものであり、自分を利するものでしかないと思われるだろう。自分から他人のもとに寄っていっても、相手にされなかったのではないか。しかし案外そうでない面も示される。たとえば彼はこう書く。
「東京でのイベントで入手できるゲームを頼まれたときには始発で出かけて何時間も並び、少しでも速く青森に送ってあげようとしたり、秋葉原で入手できるCDを頼まれたときには、そのほかにもサービスで関連グッズを詰め込んで青森に送ったりもしました。」
あるいは中古車屋で高い車を買わされそうになった時のことについても、「断ればいいじゃないか、といわれそうですが、断れないのは、その店員が社会との接点になるからです。予算オーバーでも、当時の私としては、その店員の為に『買ってあげた』感覚でした。」
このような行動に見られる彼の対人交流の態度は、お人よしでサービス精神が旺盛のように見える。一緒に過ごす相手にとっても、KTは「いいやつ」として映っていた可能性がある。そもそも彼は高校時代を通して常に友人とつるんでいた(そうしていなかったことがなかった)というわけだが、彼が他人といても常に相手にされていなかったとしたら、そのような「交友関係」(と呼んでおく)は不可能であっただろう。KTが相手の心を自分の心の中で想像し、利他的な行動をとることが出来ないような深刻な発達障害を抱えていた、という想定は必ずしも当てはまらないことになる。この「そこそこに利他的」であり「案外いいやつ」であったKTが最終的に「事件」を起こしてしまったこと、この不思議さ、わかりにくさはより問題の本質に近いのだろう。数日前のグアムでの事件のデソト容疑者も、陽気で明るい性格として通っていたという報道もある。
 この章ではまた、例のロジックも顔を出す。意地悪を受けた「その正社員の間違った考え方を改めさせる為、まずは所属していた派遣会社の上司経由でクレームを付けるという方法で怒りを伝えました。」という文章は、すでに紹介したものに非常に似ている。しかしここでは「それが無視された為、無視できないような痛みを与えようと、無断でやめることが思い浮かんだものです。」と、それが怒りの表現であることを認めている。ところがすぐ後の部分では、「とはいっても、その正社員を痛い目に併せたかったわけではありません。間違った考えを改めて欲しかっただけです。痛みを与えるのはその手段です。」と書いている。
次の章「茨城の生活」でも、この同じ文章が登場する。今度は対象は派遣会社である。「会社は私に、業務上必要なフォークリフトの免許を取らせてやる、と約束しておきながら、そのまま放置していました。」という。そこで「派遣会社の間違った考え方を改めさせるため、無断で工場をやめ、派遣会社が工場から怒られることで痛みを与えようとしました。」とある。
この「茨城の生活」という章ではまた、KTBPD的な側面をにおわす記述が見られる。勤めていた工場の上司が車好きだと知り、サーキットに連れて行ってもらうが、そこで浮いた存在になってしまう。そして「・・・場にそぐわない高性能車に乗っていたこともあって浮いてしまい、楽しめませんでした。・・・ 「自分」がない私ですが、車が好きだと言うことは、私の中で細いながらも芯が通っていたものだったと思います。そんな車が楽しくないものになってしまったことで、自分を支えていたものがポッキリと折れてしまったようなきたしました。」
自分の中に安定したものがなく、空虚さを埋めてくれるものや人に依存し、時にはそれらの人や物に死に物狂いでしがみつくという傾向を、彼自身もある程度は認識していたかのようであるが、この部分はまさにBPDの病理と重なるものと考えていいだろう。

2013年2月16日土曜日

パーソナリティ障害を問い直す(5) 

「解」を読み進める(3)

本書の冒頭の「掲示板を始める」という章にすでに、そのもう一つのファクターは現れる。それは被害念慮に基づく激しい攻撃性である。KTはかつて勤めていた宮城の会社を辞めた経緯についてこう書いている。「人件費がかかりすぎる、という理由で時給から固定給にされて残業代が支払われなくなったこと、指示されて進めていた作業をひっくり返されたことなど、ある上司とのトラブルが原因だったといえます。ただし、ただ嫌になって辞めたという単純な話ではありません。」そして次に問題の箇所が出てくる。
「まず私は、その上司のさらに上司に退職願を提出することで意思表示をしてみましたが、それが通じなかったため、事務所に放火したうえで、消火栓からホースを引いてきて放水し、少し痛い目にあってもらうことで間違った考え方を改めさせることが思い浮かびました」と書かれ、次に「しかしそれは思いとどまっています。同じ事務所には、よくしてくれる先輩や眼をかけてくれる上司もいたからです。そうした人たちには迷惑をかけたくありませんでした。」とある。
 放火うんぬんという部分はその重大さを見逃される可能性がある。このくらいのファンタジーはよくあるし、頭に浮かんでも実行に移さなかったのだから大したことはない、と思われるかもしれない。しかしKTはこのファンタジーを実行するだけの危険性を持っていたことをすでに私たちは不幸にして知っている。その目でこの文章を読むと、この人物がいかに危険な存在かを改めて知るのである。
この短い引用に私が問題と思うのは以下の点である。

1. 「指示をひっくり返された」こと、「上司トラブルになった」ことについての詳細はわからないものの、その報復としての放火という手段が尋常ではないこと。
2. 「少し痛い目にあってもらう」が「間違った考え方を改めさせること」にとって効果的であると信じていること。
3. 「ただ嫌になって辞めたという単純な話ではない」という主張の根拠が希薄なこと。
4. 「よくしてくれた人に迷惑をかけたくない」という根拠のみでファンタジーを実行しなかった様に思えること。
 1. については、こう言っては問題かもしれないが、職場ではよくあることではないか? 雇用者と被雇用者、上司と部下の関係が本当の意味で平等と言えるはずもなく、大体前者から後者への扱いは高圧的で理不尽で、場合によっては虐待的ですらある。それが倫理的に許容されるべきかどうかとは別に、それにある程度は耐えることでしか仕事を維持できないということが多いのが現実である。その様な扱いを受けたことの報復としての放火は人命にかかわることであり、因果応報というには程度が余りに違う。
2. については、同じロジックがこの「解」の中では何度か用いられ、最後にはあの「事件」にまで至る。それさえもネット上での彼の「なりすまし」を行っている人物に対して、「間違った考え方を改めさせること」として為されたという経緯(実はそうなることが先を読んで行くとわかる)から、結果的にこのロジックの異常さも逆照射される。大体人間は他人から「痛い目にあわされる」ことで自分の考えを変えるだろうか? それほど単純なものとして人間を見ているのか。大体他人から「痛い目」にあわされることで反省したり改心したりすることなど通常は起きないことは、自分自身の体験からわかることではないか。ただしそれでも私たちが自分が誤解されたり不当に扱われた際に激しく相手を糾弾するということが頻繁に起きるのは、それが自らの怒りの表現手段となるからであろう。逆ギレはそれなりにカタルシスになるのである。それは相手の考えを改めさせるためではなく、相手を屈服させるために、あるいは相手に痛みを与えるために行うものだ。
3. については、「ただ嫌になったという感情的な理由から仕事をやめたのではない、もう少しそうするだけの理屈ないしは正当性があったのだ」と言いたいのであろう。しかしはた目からはもっぱら感情的な理由が仕事をやめた最大のきっかけであるように見える。
4. については、放火(たとえ直後に消火をしたとしても)という行為の非倫理性、反社会性がまず自らに問われていないのが奇妙である。たまたまその職場で「よくしてくれた」人がいなかったとしたら、放火という行為にストップをかけるものはないかのようである。そして実際の「事件」でも、相手が自分にとって見知らぬ人々であったから(つまり「よくしてくれた」人がそこに含まれなかったから)こそ犯行に及ぶことができた、というニュアンスがあることからも、この論理の異常性が結果的にわかるのである。
このように本書の冒頭の部分ですでに問題とされるべき点は、ことごとく「事件」に結び付いているというニュアンスがあるのである。