2013年2月17日日曜日

パーソナリティ障害を問い直す(6)


 「解」を読み進める(4

「解」の二番目の章である「埼玉での生活」には、KTの示す「社交的」な面も書かれていて興味深い。これまでも書いたように、KTは自分を見つめてくれている人の存在を、あたかも空気中の酸素のように必要としているというところがある。つまり彼は他人といると快適ないしは安心なのであり、必然的に社交的ということになる。ただその社交性は独りよがりのものであり、自分を利するものでしかないと思われるだろう。自分から他人のもとに寄っていっても、相手にされなかったのではないか。しかし案外そうでない面も示される。たとえば彼はこう書く。
「東京でのイベントで入手できるゲームを頼まれたときには始発で出かけて何時間も並び、少しでも速く青森に送ってあげようとしたり、秋葉原で入手できるCDを頼まれたときには、そのほかにもサービスで関連グッズを詰め込んで青森に送ったりもしました。」
あるいは中古車屋で高い車を買わされそうになった時のことについても、「断ればいいじゃないか、といわれそうですが、断れないのは、その店員が社会との接点になるからです。予算オーバーでも、当時の私としては、その店員の為に『買ってあげた』感覚でした。」
このような行動に見られる彼の対人交流の態度は、お人よしでサービス精神が旺盛のように見える。一緒に過ごす相手にとっても、KTは「いいやつ」として映っていた可能性がある。そもそも彼は高校時代を通して常に友人とつるんでいた(そうしていなかったことがなかった)というわけだが、彼が他人といても常に相手にされていなかったとしたら、そのような「交友関係」(と呼んでおく)は不可能であっただろう。KTが相手の心を自分の心の中で想像し、利他的な行動をとることが出来ないような深刻な発達障害を抱えていた、という想定は必ずしも当てはまらないことになる。この「そこそこに利他的」であり「案外いいやつ」であったKTが最終的に「事件」を起こしてしまったこと、この不思議さ、わかりにくさはより問題の本質に近いのだろう。数日前のグアムでの事件のデソト容疑者も、陽気で明るい性格として通っていたという報道もある。
 この章ではまた、例のロジックも顔を出す。意地悪を受けた「その正社員の間違った考え方を改めさせる為、まずは所属していた派遣会社の上司経由でクレームを付けるという方法で怒りを伝えました。」という文章は、すでに紹介したものに非常に似ている。しかしここでは「それが無視された為、無視できないような痛みを与えようと、無断でやめることが思い浮かんだものです。」と、それが怒りの表現であることを認めている。ところがすぐ後の部分では、「とはいっても、その正社員を痛い目に併せたかったわけではありません。間違った考えを改めて欲しかっただけです。痛みを与えるのはその手段です。」と書いている。
次の章「茨城の生活」でも、この同じ文章が登場する。今度は対象は派遣会社である。「会社は私に、業務上必要なフォークリフトの免許を取らせてやる、と約束しておきながら、そのまま放置していました。」という。そこで「派遣会社の間違った考え方を改めさせるため、無断で工場をやめ、派遣会社が工場から怒られることで痛みを与えようとしました。」とある。
この「茨城の生活」という章ではまた、KTBPD的な側面をにおわす記述が見られる。勤めていた工場の上司が車好きだと知り、サーキットに連れて行ってもらうが、そこで浮いた存在になってしまう。そして「・・・場にそぐわない高性能車に乗っていたこともあって浮いてしまい、楽しめませんでした。・・・ 「自分」がない私ですが、車が好きだと言うことは、私の中で細いながらも芯が通っていたものだったと思います。そんな車が楽しくないものになってしまったことで、自分を支えていたものがポッキリと折れてしまったようなきたしました。」
自分の中に安定したものがなく、空虚さを埋めてくれるものや人に依存し、時にはそれらの人や物に死に物狂いでしがみつくという傾向を、彼自身もある程度は認識していたかのようであるが、この部分はまさにBPDの病理と重なるものと考えていいだろう。

2013年2月16日土曜日

パーソナリティ障害を問い直す(5) 

「解」を読み進める(3)

本書の冒頭の「掲示板を始める」という章にすでに、そのもう一つのファクターは現れる。それは被害念慮に基づく激しい攻撃性である。KTはかつて勤めていた宮城の会社を辞めた経緯についてこう書いている。「人件費がかかりすぎる、という理由で時給から固定給にされて残業代が支払われなくなったこと、指示されて進めていた作業をひっくり返されたことなど、ある上司とのトラブルが原因だったといえます。ただし、ただ嫌になって辞めたという単純な話ではありません。」そして次に問題の箇所が出てくる。
「まず私は、その上司のさらに上司に退職願を提出することで意思表示をしてみましたが、それが通じなかったため、事務所に放火したうえで、消火栓からホースを引いてきて放水し、少し痛い目にあってもらうことで間違った考え方を改めさせることが思い浮かびました」と書かれ、次に「しかしそれは思いとどまっています。同じ事務所には、よくしてくれる先輩や眼をかけてくれる上司もいたからです。そうした人たちには迷惑をかけたくありませんでした。」とある。
 放火うんぬんという部分はその重大さを見逃される可能性がある。このくらいのファンタジーはよくあるし、頭に浮かんでも実行に移さなかったのだから大したことはない、と思われるかもしれない。しかしKTはこのファンタジーを実行するだけの危険性を持っていたことをすでに私たちは不幸にして知っている。その目でこの文章を読むと、この人物がいかに危険な存在かを改めて知るのである。
この短い引用に私が問題と思うのは以下の点である。

1. 「指示をひっくり返された」こと、「上司トラブルになった」ことについての詳細はわからないものの、その報復としての放火という手段が尋常ではないこと。
2. 「少し痛い目にあってもらう」が「間違った考え方を改めさせること」にとって効果的であると信じていること。
3. 「ただ嫌になって辞めたという単純な話ではない」という主張の根拠が希薄なこと。
4. 「よくしてくれた人に迷惑をかけたくない」という根拠のみでファンタジーを実行しなかった様に思えること。
 1. については、こう言っては問題かもしれないが、職場ではよくあることではないか? 雇用者と被雇用者、上司と部下の関係が本当の意味で平等と言えるはずもなく、大体前者から後者への扱いは高圧的で理不尽で、場合によっては虐待的ですらある。それが倫理的に許容されるべきかどうかとは別に、それにある程度は耐えることでしか仕事を維持できないということが多いのが現実である。その様な扱いを受けたことの報復としての放火は人命にかかわることであり、因果応報というには程度が余りに違う。
2. については、同じロジックがこの「解」の中では何度か用いられ、最後にはあの「事件」にまで至る。それさえもネット上での彼の「なりすまし」を行っている人物に対して、「間違った考え方を改めさせること」として為されたという経緯(実はそうなることが先を読んで行くとわかる)から、結果的にこのロジックの異常さも逆照射される。大体人間は他人から「痛い目にあわされる」ことで自分の考えを変えるだろうか? それほど単純なものとして人間を見ているのか。大体他人から「痛い目」にあわされることで反省したり改心したりすることなど通常は起きないことは、自分自身の体験からわかることではないか。ただしそれでも私たちが自分が誤解されたり不当に扱われた際に激しく相手を糾弾するということが頻繁に起きるのは、それが自らの怒りの表現手段となるからであろう。逆ギレはそれなりにカタルシスになるのである。それは相手の考えを改めさせるためではなく、相手を屈服させるために、あるいは相手に痛みを与えるために行うものだ。
3. については、「ただ嫌になったという感情的な理由から仕事をやめたのではない、もう少しそうするだけの理屈ないしは正当性があったのだ」と言いたいのであろう。しかしはた目からはもっぱら感情的な理由が仕事をやめた最大のきっかけであるように見える。
4. については、放火(たとえ直後に消火をしたとしても)という行為の非倫理性、反社会性がまず自らに問われていないのが奇妙である。たまたまその職場で「よくしてくれた」人がいなかったとしたら、放火という行為にストップをかけるものはないかのようである。そして実際の「事件」でも、相手が自分にとって見知らぬ人々であったから(つまり「よくしてくれた」人がそこに含まれなかったから)こそ犯行に及ぶことができた、というニュアンスがあることからも、この論理の異常性が結果的にわかるのである。
このように本書の冒頭の部分ですでに問題とされるべき点は、ことごとく「事件」に結び付いているというニュアンスがあるのである。

2013年2月15日金曜日

パーソナリティ障害を問い直す(4)


「解」を読み進める(2

ところでこの「解」という著作は、B6170ページという薄いものである。そこにKTは「事件」に至るまでの経過を短い章ごとに記載する。どこまで編集者の手が入っているかはわからないが、彼が獄中でしたためたらしい手書き原稿のコピーが部分的に掲載され、それがたしかにKT自身の文章であるという印象を与えている。文章を書く素人のものとしては比較的読みやすく、内容としてもまとまっている。その内容から少なくとも著者の中等度以上の知能レベルと文章の構成力をうかがわせる。
最初の「掲示板を始める」とそれに続く「埼玉での生活」では、KTがネットの掲示板に「依存」していたという状況が示されるが、おそらくKTの病理を知る手がかりになる重要な記載部分と言えるので少し詳しく見たい。その病理とは、彼が孤独に耐えられないということだ。彼に言わせると、彼は孤立とは恐怖そのものであるという。「高校時代は昼間は学校に行き、授業が終わると友人宅に直行して深夜まで遊び、休日は朝から友人と遊んでいました」とし、高卒後進んだ短大でも、寮生活で常に誰かと一緒に過ごし、長期休暇は高校時代同様友人宅に泊めてもらったという。つまり彼は人生の一時期までは、常に誰かと一緒に過ごすということ以外の生き方をしてこなかったことになる。そして埼玉の工場に派遣で働くようになってから、仕事が終わり寮に帰っても寝るには早すぎ、そこで初めて一人ですごす時間が出来た。それが彼にとっては地獄だったというのだ。彼は世の中から自分がたった一人取り残された感じがし、それは「マジックミラー越しに世界を見ているようなもの」であったという。つまりこちらは相手を見えても、相手が自分のことを見ていない。その状態が恐怖となるのだ。
 では彼は心の中に誰かを思い浮かべることでそれに耐えることが出来なかったのか?それについて彼自身が言う。「私が頭の中に友人を思い浮かべても、その友人は私のことは考えていない、と私は感じてしまうのだ」。そしてそのようなKTがその孤独感を癒す方法としてネットの掲示板を利用することが出来ることを知る。掲示板へのメッセージに対して登校すると、それに対して側メッセージをくれる人がいることで、彼はその人が事実上そばにいるのと同じであると感じて、一息つけるというわけだ。
ここら辺の記述は精神医学的にも興味深い。孤独が耐えられない、というのはもちろん程度問題であるにしても、それが以上に苦痛に感じられるという一群の人々がいる。それが境界パーソナリティ障害(BPD)と言われる人々である。KTがその病理を有しているかどうかは別として、それを関連付けさせるような記載と言える。
ただし孤独に耐えられないことが、BPDの病理を思い起こさせると言ったとたん、それとのかなりの相違も感じられるのもたしかだ。BPDの場合、ひとり暮らしが不得手、と言うわけでは必ずしもない。事実多くの人は独居生活を送る。しかし特に自分の意中の人の心が離れていくことに耐えがたい苦しみを感じるのだ。それがあたかも彼女たち(まあ、一応女性のほうが多いので、こう呼ばせていただく)の中に巣食う根源的な空虚さの痛みを思い出させるかのように。
 KTのケースでは、もう少しこの孤独の苦しみは即物的で、単純で、誤解を恐れずに言えば「生物学的」なニュアンスがある。要は孤独を埋めるのは誰でもいいのである。あたかも孤独という痛みが、他人からの注意という膏薬により単純に癒されるようなところがある。でもそれは単純ではあっても強烈で、待ったなしの飢餓感や性急さを生む。そしてそれが「事件」にも最終的に結びつくことになるのだ。
 いささかKTの病理の考察を急ぎすぎる嫌いがあるので、手記を読み進めよう。ただしこの孤独の耐え難さがきわめて重要なのは、これが事件を起こす一つの重要なファクターであったからだ。そしてもう一つのファクターも、実はこの手記のごく初期に姿を現す。

2013年2月14日木曜日

パーソナリティ障害を問い直す(3)


5年前の秋葉原事件を起こしたKTの手記(「解」)を読み始めた矢先に起きた、昨日のグアム島での事件。
「米領グアム島で12日夜に起きた無差別殺傷事件で、死亡した日本人女性は、いずれも栃木県栃木市の上原和子さん(81)と孫の杉山利恵さん(28)と確認された。外務省などが13日明らかにした。殺人、殺人未遂容疑などで逮捕されたチャド・デソト容疑者(21)は現地警察の調べに、「車とナイフで、出来るだけ多くの人を傷つけるつもりだった」と供述しているという。外務省の発表では、日本人は2人が死亡し11人が負傷。現地の病院関係者によると、13日夕の時点で6人が入院し、杉山さんの生後8か月の乳児と3歳児が含まれている。3歳児を含め3人は重傷。上原さんの弟禎三郎さん(72)によると、上原さんらは12日に日本を出発。14日に杉山さんの弟の結婚式を行い、15日に帰国する予定だったという。(2013214 Yomiuri OnLine)」
この事件が5年前の「事件」と状況が似ていることは皆が気が付くことだ。犯人が乱暴に車で現場に乗り付け、すでにその時点で何人かにけがを負わせ、次に運転席から刃物を持ち出し、無差別的に殺傷を開始する。犯人は若い男性、「できるだけ多くの人を傷つけたかった」と証言する。これらの部分は双方の事件に共通する。外国でのこのような事件の場合、すぐ薬物の関与を疑うわけであるが、今のところその種の情報は入ってこない。
グアム島のニュースに触れて、少し不謹慎な考えが頭をよぎった。社会には他人を無差別的に殺傷したいという衝動を覚える人が数は少ないながらも存在し、ごくまれにその中の一人がそれを実行に移す…。この考えを持つのが後ろめたいのは、この行為を社会現象の一つとして、「起きるべくして起きる」と割り切りかねない点である。
上記の考えが倫理的に問題かは別として、この種の(事件)を見る目が大きく二つに分かれることを思い出させてくれる。一つはそれをあくまでも個人の病理として扱う方針。もう一つは社会の病理としてとらえる見方。前者は犯人の精神においてどのような異常が生じていたか、あるいは犯人の個人史の何が事件に結びついたのかを考える。後者は現代の孤立した若者の生き方、ネット社会という開いているようで閉鎖的な空間で人の思考やファンタジーに歯止めがきかなくなるという現象。ネットゲームでの殺戮に慣れ、ゲーム感覚で人をあやめてしまう危険性・・・・といった面に焦点を当てることになるだろう。KTはたまたまその社会の病理を具現化したに過ぎず、KTの予備軍は続々と生まれつつある…という論調になることが予想される。
「解」を読み進めるはずであった私のこの文章は、昨日のグアム島での事件を受けて自由連想なってしまっているが、ここでもう一つ、書くことにこれまた後ろめたさを覚えるようなことを今思い出した・・・・。5年前にあの「事件」起きた時、私が職業上出会う結構多くの人が「あのKTの気持ちはわかる」と私に伝えたことである。もちろん彼らは、あのような事件を起こすことは言語道断だという。そのうえで、しかしファンタジーとしてあのような事件を起こすことは少なくとも彼らにとっては決してありえないことではない、と私は確かに聞いたのだ…。

2013年2月13日水曜日

パーソナリティ障害を問い直す(2)

「解」を読み進める(1)


 「解」について書く際に私は筆者をKTと書くことにする。もちろん彼は加藤某という実名で書いているわけだが、なぜか実名を書くのがはばかられる。それに事件の詳細についてもおそらく「事件」とだけ書くと思う。そうすることで多くのことに目をつぶりながら書くことになるが、それはこの事件の直接の内容に触れることには本当は後ろめたさがあるからだと思う。軽々しく論じられないほどに多くの人々が亡くなっているのだ。
 もっと言えばこの「解」という書が刊行されたことにも疑問を覚えるところがある。人を多数殺傷した人間が、なおかつ自分の考えの表現を持つという機会を与えられていることが信じられない。自己表現は、そうして彼が後に書くように、「誰かが自分のことを考えている」と想像することは、彼を癒す部分があるのである。以下に見るようにどのように本書を執筆することを正当化しようと、そこに利己的な動機が含まれるとしたら、それは許されるのだろうか?このような書は、せめて彼の話を聞き取った第三者が著すべきではないかという気持ちはある。とはいえ、彼の「解」を読んで感想を書く私もある意味では「同罪」なのである・・・・・。
「はじめに」は彼が起こした「
事件」に対する謝罪の言葉から始まる。そして次のような文がある。
「私が自分がどうして事件を起こすことになったのか理解しましたし、どうするべきだったかにも気づきました。つたないながら、それを説明できる言葉も見つけました。それを書き残しておくことで、似たような事件を未然に防ぐことになるものと信じています。」、とこれが正当化の部分である。
彼が「自分がどうして事件を起こすことになったかを理解していた」というとき、それは彼の主観世界において、どうしてそれが必然になったかということを意味するのであろう。私は彼のこの主張を偽りのものとは思わないが、ここまで言い切るある種の naïveté には少し驚く。と同時に彼の中である意味で首尾一貫していたのであれば、確かに「似たような事件を未然に防ぐ」ことに確かに役立つかもしれないとも思う。

2013年2月12日火曜日

パーソナリティ障害を問い直す(1)


ここ両日マスコミをにぎわしているニュース。例のパソコンの遠隔操作事件の容疑者の逮捕に日本中が沸いている。以下にNHKNews Web (210版) を引用する。

「遠隔操作事件 都内の30歳男を逮捕」

パソコンの遠隔操作事件で、警視庁などの合同捜査本部は、都内に住む30歳の男が去年8月、インターネットの掲示板に漫画のイベントでの殺人を予告する書き込みをしたとして威力業務妨害の疑いで逮捕しました。男は「事実ではありません」と容疑を否認しているということです。逮捕されたのは、東京・江東区に住むインターネット関連会社社員、片山祐輔容疑者(30)です。一連の事件では、ウイルスに感染したパソコンなどが遠隔操作されて無差別殺人などの犯行予告が書き込まれ、合わせて4人の男性が誤認逮捕されました。その後、真犯人とみられる人物から報道機関などに犯行声明のメールが送りつけられ、先月5日には神奈川県の江の島の猫の首輪から遠隔操作ウイルスのプログラムが入った記憶媒体のマイクロSDカードが見つかりました。
警視庁などが、猫がいた場所の近くにある防犯カメラの映像を調べたところ、猫に近づく不審な男の姿がとらえられていて、ほかのカメラに映っていたバイクの映像などから片山容疑者とみられることが分かったということです。さらに、マイクロSDカードに入っていた遠隔操作ウイルスのプログラムが、去年8月、漫画のイベントに対する殺人予告の書き込みで使われた遠隔操作ウイルスのプログラムと一致したということです。警視庁は、片山容疑者がこのイベントへの殺人予告を書き込んだ疑いが強まったとして、10日朝、自宅にいたところを威力業務妨害の疑いで逮捕しました。調べに対して、片山容疑者は「まったく事実ではありません」と容疑を否認しているということです。警視庁などによりますと、片山容疑者は以前、インターネットを使った脅迫事件などで逮捕され、実刑判決を受けています。江の島で見つかったマイクロSDカードのファイルには「以前、事件に巻き込まれたせいで、無実にも関わらず人生の大幅な軌道修正をさせられた」と警察や検察への恨みととれる内容が書き込まれていました。警視庁などは、片山容疑者が一連の事件に関わったとみて、詳しい経緯や動機などの解明を進めることにしています。
そしてこの容疑者のプロフィールが明らかになるにつれて浮かび上がってくるイメージが「またか・・・」という印象を私に与える。最近話題になることの多いあの人たち、いわゆる発達障害を疑わせるような人々のことである。特徴的な被害者意識、不特定多数の人々に対する敵意。その被害者意識がネットの世界での他者とのやり取りを介して生まれ、それを実際の他者に対して突発的に向けられた傾向は、さらにある特定の人物のことを思い起こさせる。それが例の秋葉原事件の犯人KMである。2008年、秋葉原で17人もの罪のない人々を殺傷したおぞましい事件。実は彼が手記を発表しており、それを通して彼の心の内面の一部をうかがい知ることが出来るのであるが、その人物像が、ここ一両日話題になっている容疑者と多くの点で一致するのである。たまたまこの手記(Psycho Critique 17[解]JPCA, 2012年)を読み進める必要が生じているので、少し考察をしてみたい。

2013年2月4日月曜日

KIPPのこと

昨日は一日、KIPPでの講義に参加をしてきた。KIPPとはKyoto Institute for Psychoanalysis and Psychotherapy のことで、京都にある精神分析協会である。そこに午前中講師として招かれ、午後はディスカッションに参加させていただいた。KIPPでのディスカッションは、型にはまらない自由なものであり、楽しく時間を過ごすことができた。午前中はアーウィン・ホフマンというアメリカの精神分析家についての講義を行なった。私が最も私淑している分析家である。内容はかなりわかりにくいものであったかもしれないが、彼の提唱する「儀式性と自発性の間の弁証法にこそ価値がある」というメッセージはある程度伝えることが出来たのではないかと思う。KIPPは川畑直人先生のリーダーシップの元に非常にまとまった組織で、学びの気運も非常に高いという印象を持った。