禁欲規則に関するテーマで重要なのが、では誰が患者やバイジーに、直面化を迫ったり、耳の痛い助言をするのか、ということだ。「あなたは~についての意識化を避けていますね。」というコメントや、「あなたのやったことはこういう点で問題だったね。」「ここはこうした方がよかったですね。」という直接的な助言はいかに伝えられるべきかという問題だ。いくらその言葉を飲み込んでも、いずれは伝えなくてはならない場合がある。そうでなければ治療者やスーパーバイザーとしての役目を果たしたことにはならないことにもなるだろう。
こんな例を考えてみよう。私がある患者Aさん(30歳代後半の男性、とでもしよう)と治療関係にある。彼は常にあるジレンマに悩んでいるとしよう。(ちなみにこれは創作である。私の現在のクライエントさんの誰も、自分のことを言っていると思われないような例にする。)Aさんはいつも自分の身の丈より一歩高い目標を持ち、それが実現するつもりになり、実際に挑戦しては失敗して失望することを繰り返す。そして「自分はどうせ駄目なんだ、取るに足らない存在なんだ」と落ち込む。その挑戦とは、たとえば就職活動でも、論文を応募するのでも、異性に声をかけるというのでもいい。いつも期待をふくらませては失敗し、死にたくなってしまうという繰り返しのAさんは、自分を見つめ直したくて私との治療を開始したとする。
治療者として週に一度Aさんと会っていると、おそらく彼のこのパターンが繰り返されていくのを私は目のあたりにすることになる。彼は理想的な自己イメージを思い浮かべ、失敗をして落ち込むというプロセスを、セッションの中で実況中継のように報告するかも知れない。その際、分析的な立場に立ち、禁欲規則に従った治療はどのようなものになるだろうか? おそらくAさんの話を聞き、彼が陥っている病理、例えば現実の自己像を否認する傾向、それにより他人を見下したい願望や、一気に立場を逆転させて勝者になりたいという願望を指摘することになるだろう。その際Aさんが夢を追う姿を評価したり、失望した際の気持ちを汲み、慰めの言葉をかける、ということはむしろ避けるべきであろう。分析的な精神療法の教科書的は、そのような治療態度を推奨するはずだ。
さてAさんの治療者としての私はどうするだろう?おそらく20年前ならこの禁欲規則に従った治療を行ったかも知れない。でも今なら違う。どのように違うかはよくはわからない。ただ禁欲原則とは全然違う関わりを持つであろうことは確かだ。
そもそも30歳代後半まで繰り返したAさんの行動パターンは、治療などで大きく変わりはしないと考えたほうがいい。治療者との出会いがよほど大きなインパクトとなり、彼の人生観を変えるに至るのでない限りは同じことが続くだろう。そして私がAさんに「また同じ過ちを繰り返そうとしていますね。」と指摘することは、おそらくそれが直接間接に周囲から指摘され、そして何よりも彼自身がそれを自分自身に呟いているであろうから、あまり新しいメッセージとして彼の心に響く可能性は少ない。
私はおそらくAさんの行動パターンをいろいろな角度から見ようとするであろう。Aさん自身も、周囲の誰も思いつかないような説明の仕方を試みるかも知れない。そのプロセスでAさんが本当は人から評価されたことがなく、その為に他人をあっと言わせたいと思い、本来は自分が不得手なことにまでも力を注いでいるということが見て取れたら、私はAさんが自分らしさを自然に発揮できるような能力を一緒にさがそうとするかも知れない。彼が評価してもらえなかったことを評価することもあり得るだろう。そしてもちろん彼がどうしても見ようとしない問題点があったら、そのことも指摘するだろう。要するに…… 治療はとても「禁欲規則」で縛られてしまうべきものではないのである。
一つここで明確にしておきたいのは、Aさんが自分の行動パターンを変えるほどのインパクトを与えるのは、残念ながら治療者の言葉ではない可能性が高いということである。治療中にあっても、Aさんは同じ問題を行動に映し続けるであろう。彼はAさ結局は同じ行動パターンを繰り返しながら、現実と行き当たって学ぶことを通して変わっていくのである。治療者はそのプロセスを一緒に体験し、考えることしかできないというのが正直なところなのだ。
このAさんの代わりに、民主党の小沢さんが治療を受けているという状況を想像してみる。(まず彼がカウンセリングに通ってくるということはありえないだろうが、何故かそれが起きていると仮定するのだ。) 彼がしばしば示す民主党を壊しかねないような行動を抑えることなどカウンセラーには不可能なのであろう。彼は現実に突き当たってもうこれ以上動けないところまで突き進み、何かを掴みとり、そして何かに失望する。カウンセラーはおそらくそれを見守ることしかできない。でも治療者が患者の人生を変えようと思うことそのものが、僭越と言われても仕方がないことなのだ。
ところで「これじゃ治療者の役割などないのではないか!」と言われそうである。その人にはこういう言い方をすることにしている。治療者としての関わりが「現実」となれば、それは治療的なインパクトを持つ可能性があるのだ。 ではこの「現実」とは一体なんだろう?(続く)
2011年4月7日木曜日
2011年4月6日水曜日
治療論 その1 (改訂版) 昨日の続き
ちなみに「洞察や理解は別のところか訪れる」ということの意味について。私には罪悪感に関する持論があり、それは「罪悪感は、基本的には『許され型』である」というものである。罪悪感に関して、精神分析では「処罰型」と「許され型」という分類の仕方をする。前者は悪いことをした時に罰せられることではじめて罪悪感が植えつけられるという考えで、後者は人に許されて初めて罪悪感が芽生えると考える。前者がフロイトのエディプス理論にたった罪悪感の生成のされ方、ということになるから、分析理論の中では常識の部類に入る。
しかしこの問題も当たり前に考えれば、後者が本来の罪悪感の生成のされ方だということになる。だって悪いことをして、罰せられることで得られるのは、「こんなことをしたら、処罰されるんだ。」という学習であって、罪悪感そのものではない。(もちろん罰せられることで、自分がしたことが罪深いことであったという自覚が生まれる、という場合は別である。)罪悪感は相手が苦痛を味わっていて、自分が何の報いも受けていない(ないしは許されてしまう)という状況で自発的に起こってくる感情だからだ。すると治療でもスーパービジョンでも、「厳しいこと」や「叱責」によって得られるのは、「こんなことをしたら怒られるんだ」という学習効果でしかない。いやそれならまだいいが、「こんなことをしたら、この先生は怒るんだ」という学習だとしたら、もっと悪い。「この先生の前ではこれはしないでおこう」ということであり、決して汎化されない学習でしかない。「この先生の観ていないところでは堂々とやろう」というのとあまり変わらないからだ。
私は世の中で起きる叱責、説教、小言、アドバイスの大半がこのような形で無意味に行われていると感じる。そしてそれは残念ながら、精神分析における「解釈」にも当てはまってしまう。解釈の内容がいかに真実をついていても、いや真実をついているからこそ聞く人に痛みを持って体験され、その結果として叱責と同様の意味を持ってしまう。そしてその大半は無効なものとなってしまう。こんなことをしていて空しくないはずはないのだ。
私はフロイトの「禁欲規則」が意味のないものとは考えない。むしろ彼がこれを言い出したことで、考える材料を豊富に与えてくれていることに感謝するべきであると思う。ただしフロイトはあまりに人を理想化し、「人間は苦痛に耐えても真実を求める」ということを自分以外にも当てはまるものと勘違いしていたように思う。
では洞察はどういうときに生まれるか。他人から許されたときに、治療者が一番肝心なところに触れなかったときに、そこに安心感が生まれ、心の余裕が生まれる。その時に人はやっと自省する力を取り戻す。防衛に使われていたエネルギーが使用可能になるからだ。その時に実は他の人から見れば明らかであり、自分だけが否認していたような何かが見える。「自分ってなんて意地を張っていたんだろう?」とか「相手の痛みをあまり考えていなかったんだな。」などの素朴な発想が可能になるわけだ。
しかしこの問題も当たり前に考えれば、後者が本来の罪悪感の生成のされ方だということになる。だって悪いことをして、罰せられることで得られるのは、「こんなことをしたら、処罰されるんだ。」という学習であって、罪悪感そのものではない。(もちろん罰せられることで、自分がしたことが罪深いことであったという自覚が生まれる、という場合は別である。)罪悪感は相手が苦痛を味わっていて、自分が何の報いも受けていない(ないしは許されてしまう)という状況で自発的に起こってくる感情だからだ。すると治療でもスーパービジョンでも、「厳しいこと」や「叱責」によって得られるのは、「こんなことをしたら怒られるんだ」という学習効果でしかない。いやそれならまだいいが、「こんなことをしたら、この先生は怒るんだ」という学習だとしたら、もっと悪い。「この先生の前ではこれはしないでおこう」ということであり、決して汎化されない学習でしかない。「この先生の観ていないところでは堂々とやろう」というのとあまり変わらないからだ。
私は世の中で起きる叱責、説教、小言、アドバイスの大半がこのような形で無意味に行われていると感じる。そしてそれは残念ながら、精神分析における「解釈」にも当てはまってしまう。解釈の内容がいかに真実をついていても、いや真実をついているからこそ聞く人に痛みを持って体験され、その結果として叱責と同様の意味を持ってしまう。そしてその大半は無効なものとなってしまう。こんなことをしていて空しくないはずはないのだ。
私はフロイトの「禁欲規則」が意味のないものとは考えない。むしろ彼がこれを言い出したことで、考える材料を豊富に与えてくれていることに感謝するべきであると思う。ただしフロイトはあまりに人を理想化し、「人間は苦痛に耐えても真実を求める」ということを自分以外にも当てはまるものと勘違いしていたように思う。
では洞察はどういうときに生まれるか。他人から許されたときに、治療者が一番肝心なところに触れなかったときに、そこに安心感が生まれ、心の余裕が生まれる。その時に人はやっと自省する力を取り戻す。防衛に使われていたエネルギーが使用可能になるからだ。その時に実は他の人から見れば明らかであり、自分だけが否認していたような何かが見える。「自分ってなんて意地を張っていたんだろう?」とか「相手の痛みをあまり考えていなかったんだな。」などの素朴な発想が可能になるわけだ。
2011年4月5日火曜日
治療論 その1 (改訂版) まずは「禁欲規則」について真剣に考えよ
精神療法はいかにあるべきかについて考える際には、フロイトの「禁欲原則」について、特にその功罪について真正面から捉える必要がある。
ある高名な分析家の先生なら、精神分析の技法論には次のようなことを書くはずだ。「精神分析においては患者の願望を満たしてはいけない。すなわち患者に愛情を与えたり褒めたりすることは慎まなくてはならない。治療者は患者が見ることを避けていた無意識内容に直面化するのを手伝うことが、その本分なのだ。」。いわゆるフロイトの禁欲規則 rule of abstinenceの考え方である。でもこれって、治療本来のあり方だろうか?何かが違う。それが私の出発点といって言い。
この禁欲規則、どうでもいいと思っている治療者も多いが、私には無視できない問題である。というかこの問題に真剣にこだわっていない治療者は、私としては力不足の表れだといいたい。
精神分析を一生の仕事と考えていた私としては、治療とは何か、人を助けることとはどういう事かについて常に考えてきたが、このフロイトの禁欲規則をどのように捉えるかはもう30年来の重大な問題である。フロイトが100年前に提案した規則など、どうでもいいのではないかと思うかも知れないが、治療者の中にはこの規則をかたくなに守ることで、本来の治療者としての力を発揮できない場合が多いのであるから、この問題は深刻なのである。
日常生活での体験も、学生やバイジーさんとの体験でも、ましてや治療場面でも、私は厳しいことをほとんど言わないし、また言えないでいる。言う資格がないと思うことも非常に多い。でも彼らを正直な気持ちで評価したいようなことがあれば、おそらくかなり頻繁にそれを口にすると思う。つまり禁欲規則とは逆のことをしているのである。そこにやましさはない。それはなぜだろうか?
もちろん学生やバイジーさん、患者さんに注文したいことは時々ある。「それはちょっとどうかな」と思うことも実はよくある。それを言わないとすれば、その一番の理由は、その「どうかな」という判断が実は非常に怪しいことを知っているからだ。上司に指導を受けたり注文をつけられたりという体験を少しでもお持ちの方は、それがかなり恣意的で理性的には受け入れがたいものであることが実に多いことをよく知っているであろう。私がバイジーさんの報告内容を聞いて「えっ、それってどうかな?」と思う際、そのかなりの部分が、実は私の側のバイアスや好みに起因しているものであることがわかっている。
ただしもちろんバイザーとして、先輩として明らかに注文をつけるべきことも当然あるだろう。(それはそうである。だからバイザーの役割を負っているのである。)そこでその言葉を飲み込む二番目の理由。それにより患者やバイジーが落ち込んでしまうからだ。もちろん患者さんが一時落ち込むことは、その後の成長につながるかも知れない。でもそれが一種の抑欝的な反応を引き起こし、その間患者さんの精神的な活動が冷え込んでしまうことの方がより問題なのである。他方長所を指摘し、評価することは彼らに生きるためのエネルギーを与え、彼らが自らを見つめるための精神的な余裕を持つことにも繋がる。そう、治療とは相手の自己愛をいかに守りつつ治療者としてのメッセージを伝えるか、という綱渡りなのである。禁欲規則とは、そこら辺の微妙な問題をかなり大胆に切り捨てた規則なのだ。
言葉を飲み込む第三の理由。人は注意されたことはたいてい聞かない。聞いているふりをすることは多いが。私自身がそれをこれまでやってきている。洞察や理解は、おそらく全然別のところから訪れることが多いのだ。
さて以上の三つの理由が解消されていると感じた場合、私は意見を言うことになる。おずおずと、あるいは注意深く。それでも後で言われてしまう。「あの時は先生にずいぶん怒られました。」
だから怒ってないって。
ある高名な分析家の先生なら、精神分析の技法論には次のようなことを書くはずだ。「精神分析においては患者の願望を満たしてはいけない。すなわち患者に愛情を与えたり褒めたりすることは慎まなくてはならない。治療者は患者が見ることを避けていた無意識内容に直面化するのを手伝うことが、その本分なのだ。」。いわゆるフロイトの禁欲規則 rule of abstinenceの考え方である。でもこれって、治療本来のあり方だろうか?何かが違う。それが私の出発点といって言い。
この禁欲規則、どうでもいいと思っている治療者も多いが、私には無視できない問題である。というかこの問題に真剣にこだわっていない治療者は、私としては力不足の表れだといいたい。
精神分析を一生の仕事と考えていた私としては、治療とは何か、人を助けることとはどういう事かについて常に考えてきたが、このフロイトの禁欲規則をどのように捉えるかはもう30年来の重大な問題である。フロイトが100年前に提案した規則など、どうでもいいのではないかと思うかも知れないが、治療者の中にはこの規則をかたくなに守ることで、本来の治療者としての力を発揮できない場合が多いのであるから、この問題は深刻なのである。
日常生活での体験も、学生やバイジーさんとの体験でも、ましてや治療場面でも、私は厳しいことをほとんど言わないし、また言えないでいる。言う資格がないと思うことも非常に多い。でも彼らを正直な気持ちで評価したいようなことがあれば、おそらくかなり頻繁にそれを口にすると思う。つまり禁欲規則とは逆のことをしているのである。そこにやましさはない。それはなぜだろうか?
もちろん学生やバイジーさん、患者さんに注文したいことは時々ある。「それはちょっとどうかな」と思うことも実はよくある。それを言わないとすれば、その一番の理由は、その「どうかな」という判断が実は非常に怪しいことを知っているからだ。上司に指導を受けたり注文をつけられたりという体験を少しでもお持ちの方は、それがかなり恣意的で理性的には受け入れがたいものであることが実に多いことをよく知っているであろう。私がバイジーさんの報告内容を聞いて「えっ、それってどうかな?」と思う際、そのかなりの部分が、実は私の側のバイアスや好みに起因しているものであることがわかっている。
ただしもちろんバイザーとして、先輩として明らかに注文をつけるべきことも当然あるだろう。(それはそうである。だからバイザーの役割を負っているのである。)そこでその言葉を飲み込む二番目の理由。それにより患者やバイジーが落ち込んでしまうからだ。もちろん患者さんが一時落ち込むことは、その後の成長につながるかも知れない。でもそれが一種の抑欝的な反応を引き起こし、その間患者さんの精神的な活動が冷え込んでしまうことの方がより問題なのである。他方長所を指摘し、評価することは彼らに生きるためのエネルギーを与え、彼らが自らを見つめるための精神的な余裕を持つことにも繋がる。そう、治療とは相手の自己愛をいかに守りつつ治療者としてのメッセージを伝えるか、という綱渡りなのである。禁欲規則とは、そこら辺の微妙な問題をかなり大胆に切り捨てた規則なのだ。
言葉を飲み込む第三の理由。人は注意されたことはたいてい聞かない。聞いているふりをすることは多いが。私自身がそれをこれまでやってきている。洞察や理解は、おそらく全然別のところから訪れることが多いのだ。
さて以上の三つの理由が解消されていると感じた場合、私は意見を言うことになる。おずおずと、あるいは注意深く。それでも後で言われてしまう。「あの時は先生にずいぶん怒られました。」
だから怒ってないって。
2011年4月4日月曜日
治療論 25 治療者のモチベーションが「感謝されること」でないとしたら
よくテレビで「天才外科医●●医師」についてのドキュメンタリーを放映している。私はこれが結構好きである。ただし私の「公式チャンネル」はNHKなので、間違って別のチャンネルのボタンを押してしまってたまたま目に映った場合の話である。
私の印象に特に残っているのは、脳外科医の福島孝徳先生についての番組だ。彼のことをここで実名で書くのには何の問題もないであろう。何しろ福島孝徳記念病院のHPには、「病に苦しむ患者様のために、最高の医療環境を提供する―「塩田病院附属記念病院」は、「神の手」と称賛される世界最高の脳神経外科医・福島孝徳ドクターのアイデアを反映した国内で類例のない病院です。」とあるのだ。
彼の番組を見ていてわかりやすかったのは、彼が「患者さんに感謝され、喜ぶ顔を見ることが力になっている」ということを述べていたことだ。それはそうだろう。彼があれほど殺人的な診療日程をこなすのは、刻一刻彼を待っていて、彼の偉大なメスの力により恩恵をこうむる人々からの感謝があるからこそである。そして彼のことを「感謝を望むなんて、なんて自己愛的な人だろう」などとはぜんぜん思わない。むしろ非常に納得できるのである。
ところでこのことを精神療法に携わる治療者に置き換えたらどうだろうか?たとえば精神分析家が「私は患者さんがよくなり、感謝されることが治療の原動力になっています」と言ったら、おそらく分析仲間の間ではNGであろう。彼は「自分の逆転移をまず自覚しなさい」とでも言われるのがオチだろうからだ。ところが患者さんから感謝されたいという願望を自覚し、それを乗り超えた、より完成された分析家が、福島先生と比べて倫理的に高いレベルにあるといえるだろうか?全然そんなことはないのだ。
このことはある重要な点を指し示している。少なくとも「患者さんがよくなり、感謝されること」を目指していない分析家は、「何か別のもの」を目指してるということになる。それは人によりさまざまであろうと思う。そしてその中にたとえば「精神分析的な治療を正しく行うこと」による自己満足が含まれるとしたらどうだろう?私はこれも悪くはないと思うが、そのことも十分分析の対象にすべき逆転移として扱うべきであろうと思う。
私の印象に特に残っているのは、脳外科医の福島孝徳先生についての番組だ。彼のことをここで実名で書くのには何の問題もないであろう。何しろ福島孝徳記念病院のHPには、「病に苦しむ患者様のために、最高の医療環境を提供する―「塩田病院附属記念病院」は、「神の手」と称賛される世界最高の脳神経外科医・福島孝徳ドクターのアイデアを反映した国内で類例のない病院です。」とあるのだ。
彼の番組を見ていてわかりやすかったのは、彼が「患者さんに感謝され、喜ぶ顔を見ることが力になっている」ということを述べていたことだ。それはそうだろう。彼があれほど殺人的な診療日程をこなすのは、刻一刻彼を待っていて、彼の偉大なメスの力により恩恵をこうむる人々からの感謝があるからこそである。そして彼のことを「感謝を望むなんて、なんて自己愛的な人だろう」などとはぜんぜん思わない。むしろ非常に納得できるのである。
ところでこのことを精神療法に携わる治療者に置き換えたらどうだろうか?たとえば精神分析家が「私は患者さんがよくなり、感謝されることが治療の原動力になっています」と言ったら、おそらく分析仲間の間ではNGであろう。彼は「自分の逆転移をまず自覚しなさい」とでも言われるのがオチだろうからだ。ところが患者さんから感謝されたいという願望を自覚し、それを乗り超えた、より完成された分析家が、福島先生と比べて倫理的に高いレベルにあるといえるだろうか?全然そんなことはないのだ。
このことはある重要な点を指し示している。少なくとも「患者さんがよくなり、感謝されること」を目指していない分析家は、「何か別のもの」を目指してるということになる。それは人によりさまざまであろうと思う。そしてその中にたとえば「精神分析的な治療を正しく行うこと」による自己満足が含まれるとしたらどうだろう?私はこれも悪くはないと思うが、そのことも十分分析の対象にすべき逆転移として扱うべきであろうと思う。
2011年4月3日日曜日
治療論 24 の続きの続き 「患者様」はさすがに言わない
それは私だって一方では治療者、医者などと言いながら、「患者さん」と「連発」することには抵抗がある。治療者と患者は英語でthe therapist and the patient とシンプルだ。どうして患者に「さん」をつけるのだ、逆差別ではないか、といえばそのとおりなのである。ただしたとえば「患者呼ばわりされたくない」「私を患者扱いするの?」という表現が成り立つ以上「患者」の立場が「できることなら身をおきたくない」ものであり、だからこそ「患者」という呼び捨てにはそれこそ「コンデセンディングcondescending 」なニュアンスがつきまとう。それを少し和らげる意味での「さん」づけなのだ。だから私は「患者様」とは言わない。(というか、医者と患者様、という言い方をしている著作を見たことはないから、言わずもがななのだろうが)。
私は土居先生のコメントはおそらく一昔前の医者の態度と現在のそれとの違いを反映しているように思う。一昔前は、医者は、治療者は偉ぶっていた。社会の扱いがそうだったのである。高等教育を受ける人が非常に限られていた時代は、医学部を出て医師の資格を取るのは稀有のことだったのである。その時代に、「医師と患者は対等である」と主張することは誰にも違和感を与えていたのであろう。しかし時代は移り、人は意味のない権威に必要以上の敬意を払うことをやめるようになってきている。時代はとにかくそれまで守られてきた非合理的な慣習が消えていくという方向にしか流れないのだ。
その文脈で言えば、私は心理士さんたち(どういうわけか「さん」、がつく。原因は不明である)が患者さんについて語るときに使う敬語が非常に過剰に感じてならない。スーパービジョンのときにも「~と患者さんがおっしゃった」と報告されると、それを余計なものに感じる。これは私が今度は「土居先生的」になっているということなのだろうか?
私は土居先生のコメントはおそらく一昔前の医者の態度と現在のそれとの違いを反映しているように思う。一昔前は、医者は、治療者は偉ぶっていた。社会の扱いがそうだったのである。高等教育を受ける人が非常に限られていた時代は、医学部を出て医師の資格を取るのは稀有のことだったのである。その時代に、「医師と患者は対等である」と主張することは誰にも違和感を与えていたのであろう。しかし時代は移り、人は意味のない権威に必要以上の敬意を払うことをやめるようになってきている。時代はとにかくそれまで守られてきた非合理的な慣習が消えていくという方向にしか流れないのだ。
その文脈で言えば、私は心理士さんたち(どういうわけか「さん」、がつく。原因は不明である)が患者さんについて語るときに使う敬語が非常に過剰に感じてならない。スーパービジョンのときにも「~と患者さんがおっしゃった」と報告されると、それを余計なものに感じる。これは私が今度は「土居先生的」になっているということなのだろうか?
2011年4月2日土曜日
治療論 24 の続き
昨日の治療論では治療者の「上から目線」の話をし、サリバンの言葉で終わったが、実は一つずっと気になっていることがある。それは故・土居健郎先生にかつてもらった手紙についてである。私が岩崎学術出版社から出した「脳科学と心の臨床」という本が土居先生に献呈本として送られ、それに対して先生からいただいたものだ。12月8日付けになっているが、「脳科学と心の臨床」の出版は2006年だったので、その年の12月の手紙ということになる。どこかに書いたが、聖路加国際病院で、私は数年間土居先生のオフィスをシェアさせていただいた。つまり先生のいらっしゃらない曜日に使わせていただいたわけである。だから土居先生は短いメッセージを水曜日の私の勤務日の前日に、よく机の上に置いておいてくださった。問題の手紙は以下の内容だった。
「脳科学と心の臨床」を通読しました。これまでの本にも多少その傾向があったのかもしれませんが、本書には特にcondescending であるのが目立ちます。これは「患者さん」の連発に現れます。私はこの呼称が嫌いで、患者には必ず姓を「さん」づけて呼びます。もっとも以上は主観的なことですが、客観的に見て、心理臨床家の先生方が、これだけの脳科学の知識がないと臨床の質が落ちるとは思いませんが・・・・・。しかしともかく貴君の勉強ぶりにはいつもながら感心します。
12月8日 土居健郎 岡野憲一郎様
慢ではないが、私は土居先生にこのような形でも、あるいは学会などでもお褒めにあずかったことはないので、全体のトーンがポジティブでないことは問題にはしていない。それよりもよく私のようなものに律儀にお手紙を下さったものだと思う。
「この本はあまり臨床家には必要がないのでは?」という辛口のコメントにも「先生、ちゃんと読んでくださいよ。」などと心の中でツッコミ(畏れ多いことながら)を入れているから大丈夫である。しかしこの手紙で気になるのは、土居先生が私の「患者さん」という書き方をcondescending (見下し、上から目線)と表現していることである。どうして患者さんと呼ぶことが上から目線なの?
ただし辞書を改めて引くとcondescending には、「わざと腰を低くした」という意味もあると知って少し納得がいった。聖路加の別の先生にも確かめたことだが、土居先生は患者さん、という呼び方を嫌っていらした。シンプルに「患者」と呼べということらしい。これまでたいていの本で「患者さん」とやっていた私などは、いつも土居先生をいらいらさせていたに違いない。(続く。)
「脳科学と心の臨床」を通読しました。これまでの本にも多少その傾向があったのかもしれませんが、本書には特にcondescending であるのが目立ちます。これは「患者さん」の連発に現れます。私はこの呼称が嫌いで、患者には必ず姓を「さん」づけて呼びます。もっとも以上は主観的なことですが、客観的に見て、心理臨床家の先生方が、これだけの脳科学の知識がないと臨床の質が落ちるとは思いませんが・・・・・。しかしともかく貴君の勉強ぶりにはいつもながら感心します。
12月8日 土居健郎 岡野憲一郎様
慢ではないが、私は土居先生にこのような形でも、あるいは学会などでもお褒めにあずかったことはないので、全体のトーンがポジティブでないことは問題にはしていない。それよりもよく私のようなものに律儀にお手紙を下さったものだと思う。
「この本はあまり臨床家には必要がないのでは?」という辛口のコメントにも「先生、ちゃんと読んでくださいよ。」などと心の中でツッコミ(畏れ多いことながら)を入れているから大丈夫である。しかしこの手紙で気になるのは、土居先生が私の「患者さん」という書き方をcondescending (見下し、上から目線)と表現していることである。どうして患者さんと呼ぶことが上から目線なの?
ただし辞書を改めて引くとcondescending には、「わざと腰を低くした」という意味もあると知って少し納得がいった。聖路加の別の先生にも確かめたことだが、土居先生は患者さん、という呼び方を嫌っていらした。シンプルに「患者」と呼べということらしい。これまでたいていの本で「患者さん」とやっていた私などは、いつも土居先生をいらいらさせていたに違いない。(続く。)
2011年4月1日金曜日
治療論 24. 人は皆それぞれ少しずつ「おかしい」ことを前提とする
日頃患者さんたちや職場の同僚や友人たちと会っていて思うのは、みんなそれぞれどこかアブナイ面を持っているということだ。表題のように「おかしい」と言い換えてもいい。一見ごく普通に社会生活を送っている人の個人的な側面に分け入ると、皆バラバラの知識や能力をもち、バラバラなりに与えられた役割に適応し、しかしそれが小さな破綻をきたすときにはかなり子どもっぽい、ないしは不適応的な防衛を用いる。人は皆不完全なのだ。社会適応を遂げている人たちは、その不完全さを職業遂行の際は、何らかの形で補うことが出来ている、というそれだけである。
このことがどうして治療論に結びつくというかといえば、人は不完全であるということを治療者が前提としない限り、患者を分かることは出来ないであろうということだ。私はケース検討などでいつも不全感を感じるのは、まるで患者が病理の固まりのように議論をすることである。論じている人間もまた不完全なのに。「不完全な人間が他人の病理を論じることはいけないことなのか?」と言われそうであるが、そういうわけではない。ただ自分が病理がないかのような前提にたった議論は、完全に「上から目線」になり、患者との関わりのあらゆる相にそれは表れる。そしてそれは必ず患者に伝わり、その分だけ治療に通うことが憂鬱になり、自己価値観の低下に繋がる可能性があるのである。それは治療という名を借りた権力の濫用に繋がるのである。
私がことあるごとにこの問題にこだわるのは、やはり昔から人から指図をされたり、指導されたりすることがことさら苦手で、「上から目線」には我慢ならなかったからだろう。もちろん理想化の対象から指導されるのは悪くはない。ある種の心地良さもあるかもしれない。しかしその理想化は、その対象をよく知らないことから来る。その人をさらによく知り、その人の不完全さを知った際には、少なくともその人の言うことに唯々諾々と従う事が可能なレベルの理想化は維持できなくなってしまうのである。私は相手に徹底して対等な態度を取ることを望むであろうし、それが得られないことを耐えがたく思うだろう。(だから若い頃からしばしば上司や先輩と喧嘩をしたものである。)
治療論のはずがエッセイになりかかっているが、言いたいのは次のようなことである。いわゆる作業同盟や治療同盟は、その基底に「対等さ」があるはずであり、その成立の基本にあるのは、治療車が自分を(患者と同様に)不完全であると認識するということである。ハリー・スタック・サリバンは言ったではないか。We are all much more simply human than otherwise (翻訳はすごーく難しい)と。
このことがどうして治療論に結びつくというかといえば、人は不完全であるということを治療者が前提としない限り、患者を分かることは出来ないであろうということだ。私はケース検討などでいつも不全感を感じるのは、まるで患者が病理の固まりのように議論をすることである。論じている人間もまた不完全なのに。「不完全な人間が他人の病理を論じることはいけないことなのか?」と言われそうであるが、そういうわけではない。ただ自分が病理がないかのような前提にたった議論は、完全に「上から目線」になり、患者との関わりのあらゆる相にそれは表れる。そしてそれは必ず患者に伝わり、その分だけ治療に通うことが憂鬱になり、自己価値観の低下に繋がる可能性があるのである。それは治療という名を借りた権力の濫用に繋がるのである。
私がことあるごとにこの問題にこだわるのは、やはり昔から人から指図をされたり、指導されたりすることがことさら苦手で、「上から目線」には我慢ならなかったからだろう。もちろん理想化の対象から指導されるのは悪くはない。ある種の心地良さもあるかもしれない。しかしその理想化は、その対象をよく知らないことから来る。その人をさらによく知り、その人の不完全さを知った際には、少なくともその人の言うことに唯々諾々と従う事が可能なレベルの理想化は維持できなくなってしまうのである。私は相手に徹底して対等な態度を取ることを望むであろうし、それが得られないことを耐えがたく思うだろう。(だから若い頃からしばしば上司や先輩と喧嘩をしたものである。)
治療論のはずがエッセイになりかかっているが、言いたいのは次のようなことである。いわゆる作業同盟や治療同盟は、その基底に「対等さ」があるはずであり、その成立の基本にあるのは、治療車が自分を(患者と同様に)不完全であると認識するということである。ハリー・スタック・サリバンは言ったではないか。We are all much more simply human than otherwise (翻訳はすごーく難しい)と。
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