2010年10月7日木曜日

フランス留学記(1987年) 第2章「多少理屈っぽい話」(後半)

「読者」から、黒い魚を復活してほしいというリクエストがあった。ところで私は「えさやり」の件を知らなかった。クリックすると、魚たちにえさをやれるのである。自分で知らなくてどうする?っていうか、どうして読者はそれがわかったのだろう?
ところでうちの神様は、全快して戻ってきた。チビが狂喜したことは言うまでもない。
留学期は第2章がクラ~イままで終了し、さらにクラーイ第3章へと続いていく・・・・(もうヤメようか?)

(承前)パリでの生活ではまた、言葉が不自由という以外にも、自分がアジア人であるという事実からくるもろもろの事情も被らなくてはならない。ここでは私は何よりもアジア人、それも大概は中国人ないしベトナム人として先ず識別される。それを例えばカフェに入ってコーヒーを注文する、といった、他人の目に触れる日常の生活の隅々で引き受けながら、生活するのである。パリ人がアジア人一般に対して好意的かというとむしろ逆の場合が多いから、外国人留学生としての立場からは当然のことながら、それだけでストレスの要因になる。日常の大部分の時間は、「こんな生活に意味があるのか?」といった考えに囚われつつ過ごしている。しかし夜部屋で少し考え直してみると、留学の目的はまさにこれだったのだという声が聞こえる。決して予想外のことが起きている訳ではなく、またそれを承知でここまで来ることを選んだのは私だからである。
パリには多くの日本人の学生が居住している。その数はパリだけで数千とも言われる。渡仏して一箇月を過ぎる頃には彼等との付き合いが日常のリズムとして定着するようになる。私は彼等を見ながら外国に暮らすことの意味をあれこれ考える事が多かった。彼等はそれなりに目標を持ち、さほど迷う事なくそれぞれのペースでこの町で暮らしている様に見えた。私のいる大学都市で知り合って、よく食事を共にしたある国立大学の助手のK先生は、一年の予定で今年の五月にパリに来ていて、毎日パリ国立図書館へ、専門の中国史の資料集めに出掛けていた。週末には必ずパリの至る所にある博物館巡りをし、日本に残した妻子と頻繁に手紙を交し、悠々自適の生活をしていた。K先生は一年の留学を終えてもとの私大に戻り、パリで集めた資料をもとに論文を書く予定だ、と語った。
私がひとつ意外に思ったのは、K先生は日常生活の中でフランス語を習得していく努力をすでに放棄しているようだったということだ。しかしそれは本来文献を集める事がフランス滞在の目的である以上ある意味では無理のないこととも言えた。私が時々パリでの生活の辛さを口にすると、「そうですか。私は楽しくてしょうがありませんよ。昼間は図書館で、日本では絶対に手に入らないような資料がいくらでも出て来ます。毎日が新しい発見の連続です。昼の勉強が済んだら、帰宅後は好きなことをしています。後は来年の帰国までに人生をうんと楽しむだけですよ。フランス語?一切話しませんよ。読めればいいんだと開き直っています。」と言い、一体何がそんなに辛いのかわからない、といった顔をした。「50才までの後10年の間、もう今のテーマを変えずにやるだけです。もうそれ以外の余計な本は読みません。」と言い、実際例えば自分の専門外のフランスの現代哲学等に関しては一切興味を示さなかった。
私はK先生を見ていて羨ましくもあった。恐らく彼はこれからもフランス人との接触は極力持たず、外国人という事からくる余計な気遣いにも無縁で、帰国後は一生日本で暮らし、学会での地位を築くのであろう。いわば全てが日本でのこれからの生活の為に定まっていて、彼は迷いを感じる必要がないかのようだった。一方の私と言えば、街に出ても英語誌のニューズウィーク誌を買おうか、フランス語誌のレクスプレス誌にしようか、はたまたちょっとお金を出してジュンク(オペラ座近くの日本図書専門店)に朝日新聞でも買いにいこうか、という事までいちいち迷っている始末である。自分をどこに所属する人間とするか、というアイデンティティが正まっていないからである。いや、自分がどう仕様もなく日本人であることを感じつつ、それ以外ではいられない、ということに対してささやかな抵抗を続けている、と言うべきだろうか。
その点、フランスで数年を過ごし、医師の資格を得る事を目的としている日本人以外の外国人の場合は、その覚悟も遥かに悲壮感を帯びているように思われた。病院でファティマやその他の留学生に身近に接してるとそれがよく分かった。彼等は自国での医師の資格によって得られるパリ大学医学部の外国人医師の学生(D.I.S.)という身分でこれから3年間の研修を行ない、精神科の専門医の資格をとって自国に帰るのである。彼等はこれからフランス語で患者を診察しつつ臨床実習を行ない、試験を受けなくてはならない。まさにフランス語によるコミュニケーションが命である為に、彼等はあらゆる手段を用いて、言葉の習得を目ざしていた。彼等の多くは奨学金も得ず、アパートの屋根裏部屋に格安の部屋を借りるなどして、切り詰めた生活をしながら病院に通って来ていた。 
私は彼等を見ていても、やはり何となく羨ましさを覚える事があった。彼等は恐らく私が一年足らずの後にこの国を去った後もここで勉強を続け、きっとしっかり言業の力を.身につけて適応して行くのだろう。事実ここでの生活が二年を越える留学生の中には、多少の発音のなまりを除いては殆ど言葉に不自由なくフランス人と交流して活躍しているように見える人もいた。彼等の表情の中には困難を克服しつつあるという自負のようなものが感じられた。私もそれらの留学生と同じような状態に身を置いた自分を想い浮かべてみた。恐らく私がフランスでの滞在を何とか引きのばして同じ様な道を辿ろうとしたら、相当周囲へ迷惑をかけることを覚悟したならば、彼等の行き着くところの途中くらいまではついていけるかも知れない。
病院で出会う殆どすべての留学生は研修を開始して数箇月後には患者を担当し始め、処方を書き、さらに一年後には多くはパリ郊外の精神病院に勤務を開始し、そのうえで大学の講義には通って勉強を続けることになる。私はあくまでもフランス政府の給費生であり大学には属していないが、ほぼ彼等と同格に扱われることになり、彼等との間では特に医学的知識、ないし言葉のハンディを感じない以上は私も彼等の辿るコースをある程度まで一緒に歩むことになるのである。私はフランスに来る前はここの病院で患者に接することさえ許されないのではないかと危惧していたが、病院にいる限り今述べたようなルートを通って病院での活動に関わって行かないことの方が不自然ということになる。
私も政府からの給費が切れる来年を待ってパリ大学に入り直し、D.I.S.の資格で報酬を得つつより本格的な研修をしようとしたら、理論的には不可能ではない。とてもそこまでは出来ないという気もするが、一方では私のような言葉のハンディを負った留学生でも皆それを当り前のように行なっているのである。勿論病院の勤務医となると、その役割に追い付く為にまさに苦労の連続の毎日になるであろう。それこそ今の苦労の比ではなくなるのであるが、そういう立場に身を置いてみるという考えも何となく私を惹きつけるのである。しかし一方でそれを実行しようという気持ちに傾かないのは、私の中にどうにも変えようのない「日本」を感じ始めていたからだろう。数年間フランスを選ぶことと、日本を少なくとも部分的に捨てる事とは同じことである。しかし私には、これで日本からも離れてしまったら一体どうなるのだ、という焦りの気持ちの方が強かった。もしフランスに耐え難い魅力を感じているのであればまた別なのであるが・・・・・・。(第2話終わり)