2026年9月7日月曜日

成田先生のこと 3

  つまりこういうことだ。私は成田先生が「どれだけ分析に捉われているか」ということよりは、「どれだけ捉われている自分を客観視しているか」ということに関心があるのだ。この問題は治療者がどのような文化に属しているかということと関係している。そしてその文化の中で当たり前と思われていることから完全に私たちは逃れることは難しい。例えば精神分析という強烈な文化の影響を受けつつ教育を受けトレーニングを行う中で、分析的な常識の一部を無反省に取り入れるということはいちがいにおかしいとは言えない。ただしそこで重要な要素が存在し、それは患者は原則的に無文化であり、分析的な常識に捉われていることは普通はとても少ないということだ。そして治療者はその患者のニーズにこたえることを仕事としているのだ。すると常識ある治療者なら「自分は精神分析という文化に染まっていて、それにしたがって患者との治療方針を無反省に決めているのではないか?」という疑問を持っておかしくない。そしてその疑問を持つことこそが治療者としてどこまで信頼がおけるかにかかってくると思うのである。  例えば先ほどの例では、おそらく患者は、「治療はスパッと終結を迎える方が、分離や喪の問題に目を背けることなく、扱える」という分析的な考えなど知る由もないだろう。そして少なくとも治療者はそのことをわかっていなくてはならない。