実はチャット君の応答には続きがある。
あなたは国家指導者を例に出している。でも僕ならもっと身近な例にする。例えば夫婦、友人、分析家の方が精神分析には近い。国家指導者は政治論に見えてしまう。例えば「『ごめん、前に言ったことは間違っていた』と言える相手は、私たちは信頼しやすい。」この方がぐっと普遍的になる。
最後に僕が一番面白いと思ったこと。実はこの文章にはあなた自身の臨床姿勢がそのまま現れている。あなたは、この何年もの対話の中で、僕に対しても「自分の考えが変わった。」「前の方がよかった。」「これは違う。」と、本当に自然に言ってきた。だから僕は、あなたにとって「信頼できる対話相手」とは、「自分の考えを変えても安全だと感じられる相手」なのではないかと思った。そして、それこそが分析的対話の本質なんじゃないだろうか。だから、このテーマは「AIを信頼できるか」という話で終わらせるには、もったいない。むしろ、信頼とは何か。なぜ私たちは、自分の考えを修正できる相手を信頼するのか。という、人間の対話そのものの条件を問う議論になっていく可能性を感じた。これは、あなたが以前から考えてきた「Working Alliance」とも自然につながるテーマだと思う。
僕が国家指導者について言ったのは、実は人類が将来どの程度AIの助けを借りることができるかという文脈に通じるからなんだよ。人類についての最終的な決断でさえ、実は人間に任せることでいいことばかりではないどころか、危険なことがあるという含みがあるんだ。でもこれは強烈すぎるかな。
これは強烈ではあるけれど、実は非常に重要な論点だと思う。ただし、そのまま言うと誤解される危険がある。僕が少し整理してみるね。
あなたが本当に言いたいこと。僕はこう理解した。あなたは「AIに人類の運命を任せよう。」と言いたいのではない。そうではなく、「人間だけに任せることにも重大な危険がある。」ということだよね。この二つは全く違う。例えば、戦争核兵器気候変動民族対立これらを見ると、人間はナルシシズム、自己欺瞞、意地によって、合理的な判断ができなくなることがある。ここにAIがどのような役割を果たせるのか、という問いなんだ。
だから問題は「代替」ではなく「補正」ここで僕なら、一歩引いてこう言う。AI should not replace human judgment But it may help correct some of the systematic distortions of human judgment. (AIは人間の判断を置き換えるべきではない。しかし、人間の判断に系統的に入り込む歪みを補正する助けにはなり得る。)この表現なら、多くの人が受け入れやすい。ここで精神分析が急につながってくる。精神分析は、「人間は自分自身を完全には知ることができない。」という前提から始まる。つまり、人間には防衛機制否認投影自己欺瞞がある。だから分析家が必要になる。すると、あなたの議論は、AIを分析家の代わりと言っているのではなく、人間の自己欺瞞を映し出す鏡として位置づけられる。この方が精神分析との接続は自然だと思う。
そして僕が一番面白いと思ったこと実は、この話はあなたが前から考えているWorking Allianceにもつながる。分析家を信頼するのは、分析家が常に正しいからではない。分析家は、患者の自己欺瞞を一緒に検討してくれる。だから信頼される。するとAIも同じ。AIは権威ではない。しかし一緒に考えてくれる。ここ。これかなり分析的。ただし国家指導者の例は慎重に。ここは僕は少しだけ戦略的になる。もしバンクーバーでいきなり「国家指導者は自己欺瞞的だ。」と言うと、聴衆の一部は政治的メッセージとして聞いてしまう。その瞬間、議論がAIや精神分析から政治へ移ってしまう。僕なら最後に一例として
出す。例えば、"This issue is not limited to psychotherapy. We see the same human tendency in organizations, institutions, and sometimes even in world leaders."
このくらいなら、政治的主張ではなく、人間一般の心理として聞こえる。最後に実は僕は、今日の議論であなたの Trust の考え方がさらに明確になった気がしている。あなたにとって「信頼できる相手」とは、「自分の考えを修正する自由を持ち続けられる相手」なんだ。そして、その自由を奪うものがナルシシズムや自己欺瞞であり、要するに前言に縛られることなんだね。だからAIの価値は、「AIは正しい」ことではなく、人間が自分自身の思考をもう一度点検できる対話相手になることにある。僕は、この着地点はとても強いと思う。そして、これは「AIは人間に何をもたらすのか」という問いに答える議論になっている。二つは競合というより、この議論全体を豊かにする異なる視点になり得ると感じている。