土居と同じ路線のウィニコットの脱錯論
土居のこの議論はウィニコットのそれとほぼ重ね合わせることができる。「原初的没頭」にある母親が、乳児の欲しいものを差し出すことで、乳児は自分がそれを魔術的に創造したという錯覚を起こし、それが乳児の万能感を持つ。乳児は徐々にそれが叶わないことによる「脱錯覚」を体験することで、対象としての母親を見出し、現実を知る事になる。 「まだ一度も授乳を経験したことのない赤ん坊を想像してみよう。空腹感が生まれ赤ん坊は何かを思おうとしているところである。赤ん坊はニードから満足の源を想像する用意がある。だがしかし,そこで何が期待できるかを赤ん坊に示すための体験がまだない。もしこの瞬間に母親が赤ん坊が何かを期待しかけているところへ彼女の乳房を置いてやるなら,そしてその子に十分な時間が与えられ多分匂いの感覚とともに,口や手であちこち触りつくせるなら,赤ん坊はちょうどそこに見つけられたものを‘創造’したのである。ついに赤ん坊は,現実の乳房がまさしくニードと貪欲さそして原初的な愛の最初の衝動から創り出されたものであるという錯覚を得る」(Winnicott, 1964,p.90)
ほぼ同様の文脈でフェレンツィやバリントは「一次愛」や「受身的対象愛」について論じた。土居は精神分析の世界でも、彼らの概念が「甘え」に相当するものであることを知った。
フェレンチが「タラッサ」において提出し、更にバリントにより引き継がれた「受け身的対象愛 passive object love」(Balint,1968, Ferenczi,1924)の概念は「他者から愛されたい願望」として表現されるが、土居はこれが事実上甘えについて論じているとし、バリントも土居との文通の中でそれを肯定した。後にバリントはこれを primary love と言い換え、土居はこれを「最初の愛」「根本愛」などと訳した。このように考えると土居の言う「甘え」は普遍的に存在すると考えざるを得ない。