そして一定の期間一致 unity の体験を持つことで養育者像はようやく自分とは異なる外の存在として認識され、したがってそのコピーを作って内在化させることができる。つまり子供の心の中での自分と養育者コピーとの結合 unification が起きるわけだ。おそらくこれはかなり生物学的なプロセスであり、脳のあらたな配線が形成されるのであろう。ここで達成されるのは基本的な二者関係であり、reciprocity の成立であり、要するに相手の心に自分を見出し、自分の心に相手を見出すという体験である。これは甘えの文脈では甘えの相互性ということになり、「甘える ⇔ 甘えさせる」が同時に「甘えてあげる ⇔ 甘えてもらう」にもなっているという関係だ。 そのような関係に導いてくれた養育者は、おそらく何があっても自分を大事にしてくれる、自分を優先してくれる存在として、つまりかなり粉飾された形で心に定着する。そしてそれに絶対的に肯定されているという感覚を生むのだろう。そこに至るまでに、子供は養育者が自分を犠牲にしているという感覚が伴ったのであろう。自分よりも子供、という感覚を得られた子供は、その養育者を内在化でき、ある意味ではその外的な養育者をもう必ずしも必要としなくなる。つまり一人の存在として自立できるわけだ。自分は一人であっても、実は結合のおかげで一人でないからこそ、常に安心感を与えてくれる。心に隙間風が入ってこないから寒さを感じないのである。その時人から貶められたり、蹴落とされたりということがあっても、それにより深刻に肝を冷やしたり絶望的になることはない。いや、たとえ一時的に落ちたとしてもたかが知れているのだろう。それはもう孤独ではないからである。 もしここに至らずに成長したらどうなるのか。土居の言葉を借りれば、素直な甘えは育たずに、ナルチシズムに退行した状態となる。養育者は自分のことをすべて肯定してくれるべき存在であると信じ、そうでない姿に対して激しい失望と怒りが生まれる。これは unity をまだ夢見ている状態だ。そしてその怒りがすでに年老いている養育者に直接ぶつけられるのが特徴である。ここで注意しなくてはならないのか、そのような養育者は、まだ正式な対象ではないということだ。ただしここでいう対象とは、対象関係が成立している関係性における相手のことを言う。つまり「内的対象」のことだ。対象関係が成立すると、養育者は既に内側にある。目の前の養育者はは仮の姿でしかない。だから別に亡くなっても、あるいはこちらを深刻な形で裏切ってもさほどダメージはない。「おふくろも年だな」とか「自分にとってのおふくろはもういないんだな」という反応だろう。ただし相手を見る目とか、世界観とかは多少揺らぐかもしれないが。要するに外的対象はまだ実在したとしても、仮の姿、あてにならない、何を言い出すか分からず、つかみどころのない存在である。それは何より「他者」だからなのだ。そう、内在化された後の実在の対象は、もう他者なのである。それはある意味では最初からそうであり、それを自分と同じ存在だと錯覚し、それを内在化させてもらったあとの残滓なのだ。 ただしその対象とは、ある一時期特別な関係が生じ、両方が相手に同一化し、脳をシンクロさせる時期があった。それが愛着期である。その後お互いに他者どうしになった養育者と子供は、おそらく錯覚の時期を彷彿させる間柄である可能性がある。幻覚体験といってもいい。それはある時期の体験をフラッシュバックさせてくれるというだけでその存在価値があるのだろう。 対象関係における対象とは、実在しなくなっても、しっかりと自分の中にコピー,というよりは原本がデータとして入っているから大丈夫なのである。(←ここら辺の記述、かなり誤解を受けそうだな。)私自身の母親も確かにその存在を感じる。そしてその内的対象とは、ある意味では幻覚的な関係は残っているというべきであろう。それは希望といってもいい。