ともかくもイマジナリーコンパニオン(以下、IC)がこれほど多くの人々に見られるということは、このような解離のプロセスは大多数の人間がほとんどデフォルトとして経験していることになりはしないだろうか?このような心の働きは精神分析ではいわゆる内的対象像として記載されるであろう。いわば「瞼の母」的な存在であり、その人のことをイメージで思い浮かべることができる。時にはこちらから語りかけ、向こうから言葉が返ってくるかもしれない。しかし通常はその内的対象がひとりでに動き出し、ある種の自主性や主体性を獲得することは想定されない。その意味でICは内的対象とは異なる。 念のためググってみよう。 「内的対象とは、精神分析学、特に「対象関係論」における中心的概念の一つです。実在する他者(外的対象)ではなく、個人の心の中(無意識や空想)に内在化され、イメージとして存在する重要な人物(両親など)やその一部を指します。」 つまり内的対象とは実在する重要な人物を心の中に写し取ったイメージである。ところがICはある意味で創造された対象であり、それ自身が主体性を有する。縫いぐるみと会話をしたりするときはそれはあくまでもその縫いぐるみのキャラを持っているわけだ。絵本の「こんとあき」で言えば、「こん」は「こん」であり、実在するそれを心に思い浮かべているわけではない。ここは全く違う。 ここでもう一歩想像力を飛躍させる必要がある。こんが動くとき、そしてあることを語りかけてくるとき、その主体はどこにあるのか。それは結局はあきの脳の中にあるとしか想定しようがない。つまりあきの脳の中にこんの主体が宿っているのである! もちろんこう言うとたちまち反発が来るであろう。「そんなことはないだろう。あきはこんの言いそうなことを想像して言わせているに過ぎない。だからこんの主体性など考える必要はないのだ」。しかしこれはちょうど表象と知覚の区別に似た議論になる。例えばリンゴを思い浮かべる(表象)。そのリンゴを眺めまわしても、何ら驚く部分はないだろう。それはあなたが作り出したからであり、そのリンゴを回してみたら、そこに虫が食っていたのを発見して驚く、ということはあり得ない。もちろん虫が食っているリンゴを想像した場合は別であるが、そこには驚きは伴わない。)。知覚像の場合には、常に自分の想定を裏切る側面を見せるのが特徴である。それが知覚の他者性である。 このように考えると、実はICは実に驚くべき現象であることがわかる。少なくとも解離性人格の存在に驚くのと似たレベルの驚きが伴っても不思議ではない。(もっと言うと夢を見るという現象も、実は驚くべきことである。そこには様々な他者が予想外の振る舞いを見せるからである。)