やがて私は米国にわたり精神分析のトレーニングを受けるうちに、私の疑問や迷いは実は正しかったんだと思うようになる。 私の中では深まっていったこの境界に関する考察から明らかなことは、私の論じていることは境界(侵犯)の問題には留まらないという事だ。あらゆる人間の些細な言動は、偶発的な側面と必然的な側面を併せ持つ。治療時間に5分遅れることには、偶発的な原因(電車の乗り過ごしなど)以外にも必然的な部分がある。後者は例えばその人の「ちょっとくらい遅れても大丈夫だろう」という気のゆるみのせいかもしれず、それなら5分遅れはある程度意図的に選択されている。ただしこれは「治療に抵抗している」という以外にも「治療を軽んじている」とか「治療者に甘えている」かもしれない。そしてどれがどれだけ関与しているかはとても複雑な問題で解明のしようがない。さらに、である。そのうちのどれが無意識的で、どれが半ば意識的かを知る由もないことが多い。
ただその中にその意味を明らかにすることが治療的な意味を持つものが含まれる。例えばこれまで遅刻のなかった患者が5分遅れて何も理由を告げないとしたら、そこに何らかの非偶発的(必然的)原因がある可能性を治療者は頭に置いて治療を進める必要があるのだ。
このような意味での必然的な些事は境界が定まっていることで、それの乗り越えを感知することが出来、そうすることで意識的に取り上げることが可能になる。その意味で治療が構造を有することは必要なのだ。もし私の研修医時代の精神分析研究会の様に、だいたい8時くらいに始まり、S先生自身が平気で15分遅れてくるような設定では、そこに意味を考えることは出来ないだろう。
このように考えると、巷で言われるような「治療構造は守るべき原則である」のニュアンスが大分違ってくる。治療構造は、守られるべきものとして私たちを縛るという意味を持つのは確かだ。でもそれは「守るべきもの」ではない。それがあることでその存在を意識させるようなもの、である。それは一方で私たちが無構造の世界に生き、なにものにも制限を加えられずに自由奔放に生きるという方向性に対して向こうから「待った」をかけてくるもの、規範、決まり、法律、習慣、不文律などと呼ばれているものである。そして両者のせめぎあいにより私たちの生活は成り立っている。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」、後者を「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と名付けた。分析家のホフマンは前者を自発性、後者を儀式とした。
治療の開始時間について言えば、午後2時(が開始時間であるとしよう)という境界は、それを守ろうとする力と破ろうとする力のせめぎあいが起きることだ。それが生じるようにポンとそこに設定されているに過ぎない。この際開始時間が早まるという事を治療者が選択しないのがふつうであるから、守ろうとする力と遅らせる力のせめぎ合い事が起きる事になる。おそらく治療者の側がその境界をしっかりその場所に留めようと力を入れているだろう。そして患者はそれを遅れるという形で押してくる。治療者は時には力を緩めて境界線を外に広げるかもしれない。患者の側はそれを意外に思って力を緩めたり、逆にここぞとばかり押しまくるかもしれない。つまりそこで色々なせめぎあいが起きるだろう。
たとえば「すみません、ちょっと電車を一本乗り過ごして・・・」と呟きながら遅れて入室した患者に「そうですか、大変でしたね」と治療者が応答するという事で終わるかもしれない。しかし何らかの理由で治療者がプライドを傷つけらてムッとして、「大事な時間が無駄になりますよ…。今度から気を付けてくださいね」と言う。それに対して患者が「細かいことを言う人だな。」と反応したり「しまった。先生に失礼なことをしてしまった。」とヒヤッとしたりするといった境界をめぐる駆け引きが行われ、そのような形で開始時間2時という設定が維持されるのだ。
私が「治療的柔構造」と言う概念でこのような境界の意味を論じた時に、それは単なる数字や決まりではなく、生きた境界であるという側面を重んじたことになる。
研修医時代の疑問に戻ろう。「患者が5分遅れたら、それを抵抗とみなす」という教えはその時は目からうろこであった。でも「それがセイシンブンセキだ」と考えたのは全くの誤りだった。より真実に近いのは次のようなことだ。「治療時間に患者が5分遅れた場合、治療者がそれに対してどのように反応し、それに対して患者がどのように返すか、という一連のやり取りが生じ、それを一緒に検討する事に治療的な意味があるだろう。」
ここには、患者の5分の遅れが、偶発事なのか意図的なものなのか、あるいは無意識的なものなのかを決定する必要は存在しない。どちらでもありうるのだ。しかし治療者がそれをどのように感じるか、そしてそれをどう扱うか(自分の心に留めるか、患者にそれを表現するか)、そしてそれを患者がどう感じ、どう返すかにこそ意味がある。それをなるべく明示的に、つまりお互いにオープンに話すのだ。(もちろんしつこ過ぎてはよくない。患者がそこに意味を見出せない場合には、かえって治療関係に逆効果だろう。)そしてそれは最近の精神分析でよく語られるエナクトメントの理念と同じなのである。