2026年2月27日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 1

 バウンダリーとその侵犯の歴史

 私はこの度バウンダリーの歴史というテーマでお引き受けしたが、精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場からは、とりわけ関心を持たざるを得ないテーマである。それらは主として二つの意味においてである。一つにはこれらの治療において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているからだ。そしてもう一つはそのバウンダリーが乗り越えられたり、侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。私にとってのバウンダリーのテーマはこれらに直結する問題なので、これらの二つのテーマについて主として論じる事になる。

 先ずは私の属する世界で用いるタームとしては、バウンダリーはシンプルに「境界」、それが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。

 境界そのものについては、精神分析を行う上でほとんど常に頭を去らない問題である。精神科医としての患者との関りではさほど問題意識を持つことがないとしても、精神分析的な関わりという事になると、なぜこれほど境界が問題になるのだろうか、と思うほどである。これは精神分析という世界が本来的に持っていた関心事であり、概念であると言っていい。精神分析(ここでは精神分析的精神療法も含めて論じよう)的に患者に会う場合は、いつ開始し、いつ終わるか、治療者としての役割はどこまでで,どこから踏み越えてはいけないか、という事は極めて重視される。それは通常「治療構造」と呼ばれている。そして大抵は初心の頃はこれらをいかに厳守するかという事に注意が向けられるのだ。私は精神科医になり、この精神分析のやり方を学んだときは、まるで別世界に来たような気がしたものだ。そしてその理由として教え込まれたのは、境界から外れることにはことごとく意味がある、ということだ。

 例えば午後2時に来るはずの患者が5分ほど遅れる。するとそこには必ず何らかの意味があるのだ、と教えられた。これはそれまであまり考えてこなかったことなので、とても斬新であったことを覚えている。私が精神分析の世界に入った第一歩であった。