2026年2月17日火曜日

バウンダリーについて 8

 ギャバードさんのある論文 (Gabbard GO. Boundaries, technique, and self-deception: a discussion of Arnold Goldberg's "Some limits of the boundary concept". Psychoanal Q. 2008 Jul;77(3):877-81; discussion 915-9.) を読んで考えさせられた。この論文で彼は、Arnold Goldberg (例のコフート派の有名な分析家であろう)の論文(Goldberg, A(2008)Some limits of the boundary concept. Psychoanalytic Quarterly. 77:861-875.)に対する批判を行っている。ゴールドバーグは「境界侵犯をしても被害者は出ないことはあるではないか」と述べる。つまり境界侵犯は必ずしも罪ではないのはそのような例があるからだという。そして上げるのは次のようなケースだ。

長年にわたる精神分析が終了した後、分析家と患者が結婚したとする。二人は合意のもとにそれを行い、それ以降幸せに暮らしたとする。これは何の問題もないではないか、とゴールドバーグは言う。
 これに対するギャバ―ドさんの反論はとても精緻なものだが、アナロジーとして彼が出しているのを読んで「?」と思った。彼はゴールドバーグの主張は、かなりの飲酒をしても事故を起こすことなく車を運転して帰宅したなら、その人に罪はないのか、というのに似ているという。

私はこのギャバ―ドさんの反論はどこか違っている気がするが、なぜだろうか?

先ず飲酒運転に関して。もし運転手がものすごくベテランで、自分が行きつけのバーでコップ2杯のビールを飲んだくらいでは全く運転技術に支障が出ないことを知っていたとしよう。(実は飲酒運転が合法であるどこかの国で、さんざん経験済みだとしよう。)そして帰宅先はなんと、直線距離50メートルくらい先だ(だったらどうして最初からバーに歩いて来なかったのか、と突っ込まれるかもしれないが。)これは問題だろうか?私だったら大して良心の呵責もなく50メートルの距離を「安全運転」して帰宅するかもしれない。いわばこれは「軽い」違法行為で、結構起きていることかもしれない。60キロ制限の道路を62キロで走行するようなものだ。

分析における境界侵犯の例として同じようなレベルのものを考えてみる。例えば分析家が分析の関係を終了させた後、患者をお茶に誘い、10分ほどよもやま話をして別れたとする。ただの一回だけだ。そしてその後はもう会わないとしよう。これは上の飲酒運転の深刻さになぞらえることが出来そうな気がする。もと治療者と患者が個人的な付き合いをしてしまった点は境界侵犯にあたるだろうが、患者の側に被害はないとみなせるし、その意味ではゴールドバーグの「被害者の出ない境界侵犯」の例と言える。(ちなみに精神分析の世界では、分析家の卵、つまり協会の候補生が卒業して分析家になった後には、自分の教育分析家と同僚の関係になり、一緒にクラスを教えたり、一緒に飛行機に乗って学会に参加したりするのが普通であり、この種の「境界侵犯」は日常茶飯事である。そしてそれが深刻な問題に発展したという話も聞かない。
 ここまでは飲酒運転のアナロジーは説得力がある気がする。しかし‥‥(続く)