ところで彼は私が某大学に勤めていた時に、そこの教授として勤務をしていて、顔見知りとなった。だから私にとっては彼に起きたことは人ごとに思えない。(ところで今Wikiで知ったことだが、彼はつい数日前に慢性硬膜下血腫で手術を受けたという。大丈夫だろうか。心配だ。)
ところで彼は数年前にスキャンダルに襲われたが、その経緯が私の記憶に残っている。11年間不倫関係にあったある女性が、彼を突然週刊誌に告発したわけだが、そのきっかけは確か●●氏の方から関係の解消を迫られたことであった。これはとても興味深いことだ。おそらく相手の女性は「私を切りにかかったのね。都合が悪いとこうやって自分の存在をなきものにするのね。やはり彼は私を利用しただけなんだ」と感じたのであろう。彼との思い出がどれだけ楽しく、また彼女も完全に合意の上で付き合っていたとしても、である。(ちなみに一次資料に当たっていないので、かなり私の推測が含まれる。あくまでもそのような事情であった可能性について書いているに過ぎない。)
このような例は実に多いことに気が付く。特に不倫関係にある場合に、別れ話をきっかけに「(家族持ちの)不倫相手から利用されていた」「自分は被害者であり、犠牲者だ」という気持ちが高まり、それが相手への怒りに変わるという例である。
私がここで強調したいのは、相手の女性にとってはそれまでの楽しかった関係がトラウマになってしまうということは心的事実としてあるということだ。「さんざんその関係を楽しんで勝手な人だ」などとは決して思わない。たとえそれまでその相手と幸せな時間を過ごしており、一度も相手から傷つけられたという体験がなくても、過去の記憶はそっくりそのままトラウマ記憶となりうる。
もう少し別の架空事例を挙げるならば、ある夫婦が幸せな生活を送り、夫が先に亡くなったとする。残された妻は彼と過ごした数十年のことを大切な思い出にし、自分の結婚生活は幸せだったとしみじみ感じるとしよう。ところがそこで大変なことを知る。その夫は実はその婚姻生活のかなりの部分、別の女性との不倫関係にあることがわかったのだ。するとそれまでの数十年の生活は妻にとってのトラウマとしてのしかかってくる。たとえどんなに楽しい思い出に満ちたものであってももそうなのだ。
例えば子供が生まれて一緒に子育てをした楽しい思い出があったとする。しかしその間にも夫は不倫相手と会っていたことが分かったのだ。するとその楽しい思い出はその楽しさゆえに、「何も知らずに騙されていた」という悔しさの感情をさらに大きくするかもしれない。これれほど苦しい体験はありえないのではないか。
なんだか話がそれてきたが、ギャバード先生の”Timed-release”の話(「不発弾」といういい方もありかな)あるいはトラウマの事後性の問題が境界侵犯審判に深く関係しているという話をしていてこうなったのだ。