2024年10月17日木曜日

「●●的ワークショップ」に際して思うこと その3

 この話題、色々思考実験が出来てしまう。例えば人に迷惑をかけているのではないかという懸念ばかりしている人を考えよう。その様な人はモノに対してはどうか?

例えばそんな人Aさんはアイパッドを愛用している。何でもすぐに検索も出来るしメールのチェックもゲームも何でもできるのでいつも手放せない。そのAさんが精神科を訪れて「アイパッドを一日何時間も酷使していると可哀そうになり、最近は電源を入れることが心苦しいのです。でもそうすると今度はアイパッドを無視しているようで、それも悪い事をしているようです。どうしたらいいでしょう?」と訴えることなど先ずない。(理屈から言ったらあり得るとしても、実際には聞いたことがない。)
Aさんはなぜアイパッドと複雑な関係にならないのだろうか?それは大丈夫だろう。なぜならAさんがアイパッドをモノとして扱い、そこに感情がないことを前提としているから気の使いようがないのだ。あれ?「人間はあらゆるものに原投影する」という先ほどの私の考えはどこに行ったのだろうか?

しかしここが、人が対象をモノとしてとらえるか投影の受け手としてとらえるかの違いが意味を持つところだろう。ちょうど私たちが牛肉を食べる時にいちいち「殺生してごめんなさい」とならないのと同じように、私達の投影のエネルギーは限られているし、その対象も限られるのだ。自分の自我を支えるために10の内的対象や現実の対象が必要だとしたら、そのかなりの部分が愛着対象や現実の配偶者、その他の家族、恋人に分配される。そこに無生物のドールが含まれる人の場合は、そこにドールも含まれ、ドールが家で寂しくしていることが気がかりかもしれないが、一緒に家にいるはずの家具やパソコンやクロセットの衣類を不憫に思うことはない。ドールと違い、それらは対象外であり視野に入っていないのだ。
人はモノの扱い方を人生の早期に習得してしまう。そこに愛着の問題は絡んでこない。なぜならそれは決まった法則や規則に従い、こちらがそれを習得していれば問題なく使うことが出来るからだ。
たとえばアイパッドはただ酷使するだけではなく、バッテリーが無くならないように時々餌をやる(充電する)ことは忘れない。時々調子が悪くなり不便を感じるかもしれないが、アイパッドが逆らっている、反抗をしているといって腹を立てたりせずに再起動をしたり修理に出すだろう。そのうち寿命が来て動きが悪くなっても、「怠けてるんじゃない!」と怒るよりは、買い替えることを考える。捨てる時も特に大きな抵抗はないだろう。「対象」以外の環境に含まれるモノは、ある意味では転移関係を排除することで成り立っているのだ。

実は同様のことを生身の人間や動物についても言えるのだ。ニュースにたびたび登場する、紛争地で亡くなった人々の報道に接しても、それで食事が喉を通らなくなることがないのは、それらの犠牲者がどちらかというとモノに属しているからである。これは悲しい事ではあるが、私たちが生きていくうえで、世の中に存在するすべての不幸な人々に共感するわけにはいかないのだ。

問題はモノの中でも一部は部分的には転移の対象となるという事情である。10年以上使い古して色々な思い出が詰まっているバッグなら、捨てるのに忍びない(可哀そう、不憫)。では何が単なるモノでなくなるのか?それを決めるのは極めて偶発的な要因だろう。その人がそこに「リビドーを備給する」(いきなりフロイトの表現になるが)ことにしたか、あるいはそのように運命づけられたかどうかによる。実はこれは一般の治療関係についてもかなり成り立つのであるが、要はコミューも転移の対象となる時はなる、ならない時はならない、多くの場合には部分的にそうなる、という考え方が一番無難かもしれないのである。