ということで「解離能 dissociative capability」について深掘りしたい。ところがこの文献が本当に乏しい。結局はすでに紹介した Richardson RF.Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 2019;9(4):207-210.にヒントが隠されているか。 まず考えよう。自分の身体に痛みが加えられる前に体外離脱を起こすというのは、能力なのか。おそらくそう考えることもできよう。それにより体験をしている自分と、それを観察している自分の二者が存在する。柴山先生のいう「存在者としての私」と「まなざす私」が出来上がる。これは即自存在から対自存在になるという、私たちの自意識の成立と同じくらいの大きな転換点となるだろう。後者は私達人間においては意識は自分と一体化していない、あるいは自分そのものと意識が分かれているという状態と言える。(少なくともサルトルは対自存在についてそう言ったらしい。)これは素晴らしい能力であり、その能力があることを心から感謝すべきであろうが、解離における存在者としての私とまなざす私の分離は、対自存在のあり方をまさに血肉化したような現象であり、ごく一部の人たちにしか体験されないものである。これを能力と言わずして何であろう。 野口五郎の体験を思い出すな。 スポニチ Sponichi Annex 2024年9月23日(月)から引用。 ・・・歌手の野口五郎(66)が29日放送のフジテレビ「ボクらの時代」(日曜日午前7・00)に出演。35年間も歌唱イップスと闘い続けた過去を明かした。「そんな長らく苦しんだイップスを克服したきっかけは「コンサートで歌ってて、ふと俯瞰(ふかん)で見られた瞬間があって、自分と会話しているような瞬間があって。歌を歌っている最中に“おまえ、ブレスしてないぞ、大丈夫?ブレス忘れたのか、大丈夫か?”“マジ、ブレスしないで歌っちゃったの?”“やべー”なんてしゃべってる、そんな瞬間があったんですよ」と野口。「そこから楽になった。今は楽しい。“今のために歌ってるんだ”って思って…。“あ~良かった、35年間イップスで。こんな瞬間があるんだったら、許す!”って思っちゃう、苦しんだことを」と笑顔で語った。・・・ これって一つの偉大な能力(治癒力?)という気がする。ただしイップス自体が解離症状という考え方もあるが。
2024年9月30日月曜日
2024年9月29日日曜日
統合論と「解離能」21
ダラダラと考えながら書いてきたこの「統合論と『解離能』」のシリーズももう22回目である。これまであまりいいアイデアは浮かんできていないが、一つ言えるの治療目的=統合という考えはもう古いということだ。そしてそれはそもそもは解離=悪い事、病理と決めつける考えも古いということである。そもそも人格の統合を目指す臨床家の心のうちには解離(=病理)をなくすべきだという発想があるのだろう。しかしそうであろうか? これとの関係で触れなくてはならないのがいわゆる「解離能」の問題である。 Judith Herman (1992)はトラウマにおいて生じる解離を一つの能力(解離能 dissociative capability) と考えた。そしてその上でトラウマの体験時にこの能力を使えるか否かでDIDとBPDを分けている。DID=解離能を有することで、トラウマの際に自己の断片化や交代人格が形成される。 BPD=解離能力を欠くためにトラウマの際に交代人格を形成できないが、その代わりスプリッティングを起こす。 どこまでこのように決めつけられるかは別として、一つの重要な見識である。しかしこのように解離を一つの能力と見なすという立場は文献でも意外と少ない。中島幸子氏は「解離は障害であり、力でもある」という論考で、そこで言っている。「解離が出来たからこそ生きのびることが出来たのであれば、それは能力であり、ゼロにしてしまう必要はないはずです。」 (中島幸子(2024)「解離は障害であり、力でもある」精神医学 現代における解離 66:1085-1089.)これは大いに注目すべき議論だ。どの様な心的機制についても何が payoffs (それによる利得)で何が pitfall(落とし穴)かを考えるべきなのだ。そして解離にもそれがある。 ネットでダウンロードした論文を読んだ。 Richardson RF.Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 2019;9(4):207-210. 「解離とは機能的な機能不全である」というちょっと挑発的なテーマだ。 その抄録には次のような主張がなされている。 もし現実のある側面が対応するにはあまりに苦痛な場合に私たちの心は何をするのだろうか。苦痛に対する自然な反応と同様、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。私達の心にとって解離はその一つのメカニズムだ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく日常の機能を継続することを可能にしてくれるのだ。How does our mind protect itself when some aspect of reality is too painful to cope with? Like any natural response to pain, we have psychological mechanisms which protect us from severe emotional trauma. For our mind, one of those mechanisms is dissociation. It allows us to continue to function in everyday life without experiencing what could be debilitating emotional pain.
2024年9月28日土曜日
統合論と「解離能」20
ところでさっそくキンドルで取り寄せた Ross CA.(2018)Treatment of Dissociative ldentity Disorder :Techniques and Strategies for Stabilization. Manitou Communications. の該当箇所を読んでみたが、なんともトーンダウンしていることが分かる。 そのまま訳そう。 「治療のゴールは安定した統合 stable integration である。少なくとも私の立場はそうだ。しかしそれは患者にとってのゴールではないかも知れない。ある人は全てのパーツが共意識状態になり一緒に作業をする段階に留まることを望む。それは彼らの選択であり、その人にとって正しい選択かもしれないし、それはそれでいいのだ。」(662/1438) そして Ross はそれでも統合の方がベターである理由を以下のようにあげる。 「1.ほんの少しの精神障害を持つことよりは、まったくもたない方がいいのではないか? 2.内部のグループ全体をマネージするよりも、一人の人間である方が時間もエネルギーも少なくて済むだろう。 3.「すべての人が調和している」状態がどれだけ続くかは誰にもわからない。 4.あなたが[パーツ同士が]協力している段階で留まるとしたら、人生で深刻なトラウマが将来生じた時に、あなたは完全に統合している状態よりも、葛藤あるDIDの状態に戻ってしまう可能性がより高いだろう。」 そして続ける。「完全に統合したDIDと部分的に統合したDIDを比較した長期的な予後の研究は存在しない。」(662/1438)。これは気弱な発言だ。そしてこの章の最後にこんなことも言っている。 「これは言っておかなくてはならない。統合はずっとずっと先のことだ。このことを現在の時点でこれ以上話す必要はない。このセッションの残りの時間は他の問題に焦点を当てよう。」「統合についてこの種の話をすることにより、パーツの抵抗も和らぎ、治療作業もスピードアップするだろう」(715/1438)。 これははっきり言って以前唱えていた「統合論」の歯切れの悪い撤回と言えるのではないだろうか。
ところでRossはこの本の中で面白い表現を用いている。ある人格が、他の人格は消えて欲しい、と言った時に、それは integration by firing squad つまり 銃殺刑執行部隊による統合、つまり他の人格たちを皆殺しにして大型のごみ容器に投げ込むようなものだという。(それにしてもどうしてこんなに過激な表現をRossは用いるのだろうか。)
2024年9月27日金曜日
統合論と「解離能」19
暫く自我状態療法についてみて来たが、結局統合についての立場はどうなのだろうか? 本家本元の Watkins 夫妻にとっては、おそらく統合は眼中になかったのであろう。このシリーズの11回目で述べたように、彼らは自我状態療法において一人の人間の心に家族療法やグループ療法を応用しようと考えたのだ。彼らは家族の構成員たちに一つの心にまとまれ、とはまさか言わないだろう。あるべき姿はあくまでも平和共存である。「講座精神疾患の臨床4(中山書店、2020)」で福井義一先生が「自我状態療法」(p.165~)で書いていらっしゃるが、「[自我状態療法は]あくまでも自我状態理論に基づいて事例を概念化するので、必ずしも自我状態との(ママ)統合という方向だけを目指すわけではない」とある。(文中の「ママ」とは、「自我状態の統合」の表記間違いかも知れないと私が思うからだ。) ちなみに同書では野間俊一先生にお願いした「解離症の治療論」(p.155~)が治療論としてはもっとも本格的で包括的なものだが、そこで先生はかの Colin Ross 大先生が最近になり、小さな著作(Ross CA.Treatment of Dissociative ldentity Disorder :Techniques and Strategies for Stabilization. Manitou Communications, 2018.)を発表していると書いてある。そしてそこにも依然として治療目標としては「完全な統合を目指す」と書かれているが、それはそのような志向性を持つことで、どのパーツも排除しないことを強調しているのだという。
ちなみにこのRoss の著作、早速キンドルで注文してみた。
ということで少し次のテーマに移りたい。それは
「統合の代わりに見られる共意識状態 co-consciousness」
という問題である。こちらの方が臨床的に圧倒的に見られるのだ。二人の意識状態(人格)が存在し、目の前で「掛け合い」をする。 これこそ「どうせなら統合しないのだろうか?」という疑問を抱かせる現象である。
既にどこかに書いたかもしれないが、その状態にある方に、別々の7桁の数字を覚えてもらったことがあった。しかしその方は出来なかった。「混乱してしまう」というので、それ以上はもちろんお願いしなかった。しかしこれには随分考えさせられた。二つの心が本当に別々に共存しているのであればこの作業をできるであろうが、どうも二人の違う人間が目の前にいる、という状態とも違うようだとわかった。
この共意識の話で思い出すのはやはり分離脳状態の話だ。左右脳を分離した状態ではある種の掛け合い、ないしは言い合いが成立する。多分マイケル・ガザ―ニカの記述だったと思うが、分離脳の患者さんに左右で別々の絵、例えば四角と星などを同時に描いてもらったが、特に問題なく描けていた。それぞれに7桁を覚えてもらう、というのはその様な作業だ。しかしDIDの方にこれが苦手であるとすれば、分離脳ともまた異なる現象が生じているのであろうか。
しかし考えてみれば、私たちの左右脳は、脳梁で結ばれているから一つと感じるだけで、この場合は「心は一つ」がむしろ錯覚と言えないであろうか。
ともあれDIDの方の体験で時々聞くのは、体の一部が自分のものではないという感じである。自分の手を触っても、誰かの手を触っている感じがして気持ち悪い、ということを聞く。通常自分で自分の手を触る時は、その触覚が自分が触っているという意識により変更される。だから自分で自分をくすぐることが出来ないのだ。ところがこれが起きなくなるのが共意識状態である。
2024年9月26日木曜日
統合論と「解離能」18
このように考えると、やはり圧倒的に多い「統合」的なプロセスは、主人格が思考や記憶、身体感覚の一部に、他の人格のそれを感じるという形である。例の「移植タイプ」ということになる。そしてこれはICD-11の partial DID の概念に繋がる気がする。そこでこのPDIDについて紹介。私自身が講座神疾患の臨床4(中山書店、2020)p.90に書いた内容を以下に引用する。 ICD-11で は新たに「部分的解離性同一性症」が掲げられているが,この疾患においては,優位なパーソナリテイの意識や機能に対して,ひとつのパーソナリティ部分としてのまとまりを欠く非優位なパーソナリテイ部分が侵入を行う疾患である。本症におけるアイデンティティの破綻は,「二つ以上の,他とはっきり区別されるパーソナリテイ状態(解離アイデンテイテイ)の体験を特徴とし, 自己感と意志作用感の顕著な断絶を伴う。各パーソナリテイ状態は,独自の体験,知覚,思考,および自己,身体,環境とのかかわり方のパターンを有する」「一つのパーソナリテイ状態が優位で, 日常生活(たとえば,子育てや仕事)の機能を担うが,一つ以上の非優位のパーソナリティ状態による侵入を受ける(解離性侵入).この侵入は,認知的(侵入的思考),感情的(恐怖,怒り,または羞恥心などの侵入的感情),知覚的(たとえば侵入的な声や一瞬よぎる視覚,触られたという感覚),運動(たとえば片腕の不随意運動),および行動(たとえば意志作用感や自分の行動であるという感覚を欠く動作)に及びうる。これらの体験は,優位なパーソナリティ状態にとってはその機能を妨げ,かつ典型的には不快なものとして体験される」「非優位の状態は,意識および機能について,日常生活の特定の側面(たとえば子育てや仕事)を反復的に行うほどには,意識や機能の実行統制を担うことはない。しかし時折,限定的かつ一時的なエピソードにおいて,特定のパーソナリテイ状態が,限局的行動(た とえば極度の情緒的状態への反応や自傷のエピソードの最中や外傷的な記憶の再演中)のための実行制御を担うことがある」 つまりもう一つの人格は表に出ることなく、「邪魔をする」というわけだ。これは私が移植タイプと呼んでいるものにかなり近い。このもう一つの人格は、いわば「人格未満」として扱われることになる。なぜなら「ひとつのパーソナリティ部分としてのまとまりを欠く非優位なパーソナリテイ部分が侵入を行う疾患」と定義されているからだ。この場合優位なパーソナリティをAとして、非優位な部分を a とした場合、A と a は「統合されている」と言えるのだろうか?ある意味ではイエスで、別の意味ではノーだろう。イエスなのはこれが自我状態療法で解離障壁がかなり低下した状態であり、統合の過程にあると判断するであろうからだ。しかしそのようなニュアンスはこの診断には読み取れない。しかし言い換えるならば、統合状態はたかだかこの状態と言えるのかもしれないということだ。
2024年9月25日水曜日
英語論文 大幅修正 2
Background
Dissociative disorder is a complex,
protean, and intriguing condition whose understanding and treatment are still
controversial among clinicians. The occurrence of dissociative symptoms is often
unpredictable and sudden, which disturbs the social and daily function of
individuals with this condition. Therefore, it requires our clinical
attention; However, there is a general understanding among clinicians that
there is no psychotropic medication that improves dissociative symptoms1. Our clinical observations sometimes give us a glimpse of how
some chemical agents might affect the degree and nature of dissociative
conditions. Notably, some psychedelic or anesthetic agents are known to be
“dissociative,” causing dissociation-like experiences among people without
known dissociative disorder.
Among I
initially noticed that some many abusive substances could
markedly alter the dissociative symptoms in some patients. Especially,
alcohol appears to affect the dissociative conditions in a potent way. One of my ce I had
a chance to observe a patient who patient, showed a distinct
change in his clinical symptom soon after he consumed alcohol. He was a
middle-aged corporate employee with dissociative identity disorder (DID) was well who
adapted to his daily office work. One day during his regular clinical visit, he
was composed as usual and reported only occasional switching into different
personalities. After the visit, on his way home he had a can of beer and got inebriated
and decided to come back to have another “small chat” with me. When I saw him
again, he demonstrated a rapid and uncontrollable shifts in personality. At one
moment, he demonstrated a very challenging and emotional male personality
state, making some derogatory remarks, then but he
shifted back to his usual composed main personality and apologized to me for
the rude behavior, (usually, this patient is often co-conscious of other
personalities’ remarks and behaviors), only to go back to his challenging and
wild state. In my observation, even consuming a small amount of alcohol or
benzodiazepine can significantly reduce the threshold separating different
personalities in DID patients.
2024年9月24日火曜日
英語論文 大幅修正 1
Abstract
Background
Although
no psychotropic medication is known to be specifically effective for dissociative symptoms, some abusive
substances, notably alcohol and stimulant drugs, can markedly alter
dissociative symptoms. Regarding psychotropic medications, a positive response
was observed in some patients with dissociative disorder symptoms who also have attention
deficit hyperactivity disorder (ADHD) for which methylphenidate extended
release (MER) is administered.
Case presentation
<中略>
Conclusion
When
MER is administered for dissociative patients who have comorbid condition of ADHD
appears to have some positive effect for their
dissociative symptoms be especially effective where more than one personality
state is vying the conscious control. Furthermore, it appears
to have some positive effects on their dissociative symptoms as well, including
rise the threshold separating different
personalities or reduce the level of
depersonalization symptoms.
2024年9月23日月曜日
統合論と「解離能」17
ポールセンの手法とUSPTを比べてみる。少なくともUSPTは統合をメインに考えていたことになる。統合によりうっ滞していた記憶や情動が流れ出す、というロジックだ。それに比べてポールセンの自我状態療法では解離している根拠をなくしてから(すなわちトラウマ処理をしてから)統合を行なうという手順になり、統合を最終目標においているとはいえ、それまでの過程を重視しているというニュアンスがありそうだ。 ここでポールセンをもう一度最初から読んでみる。彼女の言う「自我状態」は自己のパーツ同士の仕切りがそれほど強固でない時に呼ぶという(p.34)。もっと明確な健忘障壁を備えるようになると、「交代人格」となる。ということは自我状態はUSPTでいうところの内在性の解離状態に近いということが出来るであろうか。そしてポールセンにはこの障壁のことがよく出てくる。「障壁を取り払うこと=融合」という考え方が目立つ。 ポールセンの用いるテクニックの中で興味深いのは「BASK要素の封じ込め containment」というものである。これは behavior 行動 、affect 感情 、sensation 感覚 、knowledge 知識 のうち一部が欠損している体験、すなわち解離されている体験を、まとめて一つのボックスに入れておくというテクニックだという。いわば一時的に解凍されたトラウマ記憶をそのまま取っておくという作業らしい。これは仕舞いこみ、とも表現されているが、要するに外傷記憶が賦活された状態で、いわばフラッシュバックがおさまっていない状態に対する対処と言える。それをポールセンは小さいパーツが未だに「しまい込まれていない」と表現するのだ。 ここで興味深いのは、ポールセンはフロントパート(他者と関わる時の表向きの顔)と未解決のトラウマ記憶を抱えているほかのパーツの間の健忘障壁を利用するという姿勢だ。 全体として言える感想。やはり催眠から出発した療法家たちは、ある意味でとても操作的で、言い方によっては「理系的」とも言える。私も「心の地下室」にはなじみがあるが、ここまでクライエントにいろいろ操作をすることには少し後ろめたさを感じる。しかし理解的な発想では、「それでは何も治療をしていない」ということになるのだろうか。 ここでゲシュタルト療法を思い出す。empty chair 空の椅子を想像してもらい、そこに座っていると想像している誰かに話しかける。例えば自分の亡くなった母親に対して、など。これは「操作的」だが、同じようなことをクライエントに促すだろうか。悪くはないやり方であろう。でもどこか人為的、操作的な雰囲気がある。それに同じ作業を empty chair 法を用いなくては出来ないというわけでもないだろう。それはケースによっては劇的な効果を生む可能性のある一つのやり方だ。認知行動療法しかり。それは一つのメソッドとして抽出され、プロトコールが出来上がり、その為の研修が行われる。ポールセンの言う統合もそのような流れの延長として想定される治療目標と言えるだろうが、本当に現実の人間はその様に動くのだろうか。 そもそもの間違い(?)は30年足らず前にアメリカでEMDRの講習を受けてからさっそく試した何人かのケースに目立った効果が得られなかったことにあるだろうか。そこで驚くべき効果が得られ「これだ!」となったあたりから、トラウマを扱う主義に対して距離をおくようになっているのが問題なのだろうか?それとも「~療法」と銘打った治療法にうさん臭さを感じてしまう私の傾向なのだろうか?
2024年9月22日日曜日
統合論と「解離能」16
昨日のブログは結局ポールセンの本の引用だけになってしまったが、私の立場はかなり明白である。それは恐らくそのように進めることは自分には出来ないだろうということだ。たとえばポールセンは人格に「~と一緒になりたいか?統合されたいか?」と尋ねるが、自分はあまりその発想は持たないであろう。 上の例ではもう少し具体的には、子供のパーツを世話していたポニーという人格がもうその存在意味がなくなったので、統合が提案されたという。しかしここでポニーを取り立てて統合する必要はあるのであろうか。存在意味を失ったポニーはおそらくあまり出て来ず、休眠することになるだろうし、それはそれで任せればよいのではないか。 またポニーが世話をしていた子供たちは、それぞれがBASK処理が終わって大人しくなったというが、それぞれがトラウマ処理をしたというのであろう。しかしそれだけでも膨大な時間がかかったのではないだろうか。それともEMDRで比較的簡便にそれが済んだのだろうか? ポールセンの論述では、それぞれの人格の確認 → EMDRによるトラウマ処理 → 人格の統合という風に進んでいくのであろうが、あまりに簡便に書かれている気がする。トラウマの処理とはそれほど迅速に進んでいくのであろうか?とてもそうは思えない。特に診断としてCPTSDが考えられるようなケースでは、過去のトラウマに触れるだけでも長い治療関係の構築が必要になってくる。 結局ポールセンの議論では、統合は全てのトラウマ処理が終わってから行なう、という印象を受けるが、そもそもそれぞれの人格が分離している必要が無くなってから統合を目指すとなると、それははるかに遠い先の話になるだろう。しかし過去のトラウマが大方処理されたのちにはそれぞれを背負っていた人格の出現自体も減ってきて、事実上の統合(実は多くの人格が寝静まった後)に過ぎないのであろうか。 でもこれも私の彼女の理論の理解が浅いからかもしれない。
2024年9月21日土曜日
統合論と「解離能」15
ところが、である。このポールセンの本を読み進めると、「統合」という章が出てくる。それを要約しよう。そもそもEMDRは本質的に統合を促すものである。「クライエントがEMDRを受けると、それまで分断されて未処理だった一連の神経系統の集まりが統合されていきます。」(p.249)「EMDRやそのほかの結合に向けた治療を進めれば、おのずとパーツ同士の<統合>が生じます。葛藤が解決され、トラウマ題材のBASK要素が処理されて、それぞれの要素が結合的に”縫い合わされる”につれ、解離障壁は薄くなるか消失していき、クライエントの明瞭な知識として蓄積されることになります。」(p.249)「自然に融合されてはいないけれども、治療初期に比べれば、もはや構造面や機能面でさほど明確に区別されていない交代人格の断片のことを、私は”破片”と呼んでいます。”破片”は取り立てて分離したがっているわけではないので、統合するのは難しくありません。こうした簡単な<統合>はこの後事例1で説明します。」(p.249)。 さてこの事例1で、治療者はこんなことをする。 「ポニー自身はもう分離した人格でいる必要はないと感じていて、キムと統合されたがっていることが分かった。キムも賛成だと言った。その後解離障壁を残しておいた方がよいと思われるようなトラウマ記憶が残っていないか入念に確認してから、両側性刺激を行なって、残った解離障壁を取り除くことになった。キムとポニーの準備が出来ると、私は「キムとポニーが自分の目を通して外界を見ています、壁が崩れます、壁が崩れるよ‥・・・」と言いながら、両側性刺激を何セットか行った。「どうですか?」と私が尋ねると、キムは「変な気分です、両手がピリピリしています。」と答えた。「その感覚に注目していてください」と私は言い、そのままもう何セットか両側性刺激を続け、確認に入った。「ポニー?」すると金は「ポニーはもう分離していません。私の中にいます」と返事をして笑った。それは私が知っているポニーの笑い方と同じだったが、それも今やキムの特徴として統合されたのだ。」ちょっと長い引用になったが、これから何を考えることが出来るだろうか?私は「え、そんなに簡単にできるの?」という反応である。この引用の前に、キムの中にいた多くの子供のパーツがかなり少なくなったということに気が付いた、とある。「色々なパーツが抱えていたBASK要素の処理が済んで自己に吸収されたので、子供のパーツはキム本人から解離している必要がなくなったのだ。」
2024年9月20日金曜日
統合論と「解離能」14
サンドラ・ポールセン著、新井陽子・岡田太陽監修、黒川由美訳(2012)「トラウマと解離症状の治療 EMDRを活用した新しい自我状態療法」(東京書籍)を紐解いてみる。ポールセンは統合のことをどう考えているのだろうか?
ポールセンが第1章で断っていることに私は早速かみつく。「交代人格は人間ではなく、一人の人物のパーツです」。ハテ? ここで彼女は当たり前のことを言っている。「人格はクライエントの分身ではありません。それぞれがクライエントの一部(パーツ)なのです。」(p.21) そしてわかりやすい例として、「私が思い浮かべる母親は私の心の中にだけいて、現実の母親とは違う」などとごく当たり前のことを言い、「これは非常に単純で明白な事のように思われますが、内的影響と外的影響の間の区別があいまいになってしまうことこそ、多くの病的な症状や治療の生きつまりの根本的原因であるのです。」(p.21)
これから読むポールセンの文章では、おそらく統合は目標とされていないだろうが、各人格をパーツと見なすことで、最終的には統合されて初めて一人前という想定は透けて見えていることになる。パーツであるとしたら、それぞれ喧嘩をするな、協調せよ、という方向に議論が進むかもしれない。 しかしパーツが一人前でない以上、どの人格が出ても十分な人間として扱えないことになる。それともたくさんの人格の中で一人一人前になるべき人物を想定するのだろうか?それは基本人格のことだろうか? しかし基本人格は眠っている場合が少なくないのだ。そこで当然浮かぶ疑問は以下のものだ。「もしパーツ同士の協調を考えるとしても、その全体としての存在をどのように扱うのか?」別の言い方をすれば、やはり統合された一段階高次の人格を想定するのだろうか?しかしそれはDIDという概念をある意味では否定することにはならないであろうか?なぜならDIDの定義としては、複数の人格の存在を想定することであり、そこに「主-従」ないしは「全体-部分」を想定はしていないからだ。
2024年9月19日木曜日
統合論と「解離能」13
色々調べれば調べる程「統合派」は少ないという印象を受ける。統合をクリアーカットに打ち出しているのは、Richard Kluft や、その影響を受けた1970年代からの長老たちとUSPTの小栗先生だけなのだろうか? おそらく統合はテクニカルに難しいということを経験として知っているからであろうか。それはそうである。5歳の女の子と、20歳の感情的な男性をどのように「統合」できるであろうか。しかしここに一つ臨床的なヒントとなることを聞く。それはAさんが、もう出なくなったBさんの記憶や好みを引き継ぐという現象である。比喩はとても不味いが、あたかも臓器移植を受けたように? ただし臓器移植と違うのは、Bさんは私の考え方では決して死ぬことがないからだ。彼は休眠状態にあるだけであるが、その好みや考え方については誰かにそれが移行される、というよりはコピペされる、という現象である。ここでコピペと表現し、「移行」、ないし「移譲」、という表現を使わないのは、それがBさんから消えてしまうということは想定していないからだ。Bさんが起きた時は、その特色は恐らく同じように備えているであろうが、Aさんもそれを併せ持っているという状態であろうと考える。 あるDIDの方(主人格 : 女性 ) はもともと女性的な格好をすることを好ましいと思っていず、(以下省略)
2024年9月18日水曜日
統合論と「解離能」12
杉山先生によると最初は最年少のパーツから処理するという。そして次は暴力的なパーツだ。それは「暴力的なパーツとは、クライエントの守り手であるにも関わらず、その暴力性のゆえに他のパーツから忌避されていることが多いからである(p.64)」という。そして次の文章は決定的である(少なくともこの「統合論と『解離能』」の考察にとっては)。 「全パーツの記憶がつなげられるようになれば、人格の統合は必要ない。皆でわいわいと相談をしながら生きて行けばよく、適材適所で対処することにより、むしろ高い能力を発揮したりする(p.64)。」つまり杉山先生は明らかに「共存派」ということで私もひと安心なのであるが、次のような記述も興味深いし,気になる。「トラウマは蓋をしても噴き出してくる。精神科医が噴き出してくる記憶に取り合わないのは、虐待を受け続けていて、必死に周囲の大人に語っても一顧だにされなかった子供時代の状況の再現になってしまう。これは深い恨みを患者の側に再度引き起こし、成人の患者においては次の世代への虐待の連鎖に繋がっていく。(p.65)」 この文章が気になるのは、杉山先生は2020年には、トラウマを扱うことへの警告を可なりあからさまに発してもいるからだ。原田誠一先生編著の「複雑性PTSDの臨床」に収められている杉山登志郎先生「複雑性PTSDへの治療パッケージ」(p.91~104)では、彼はかなり過激であった。「精神療法の基本は共感と傾聴だが、(中略)トラウマを中核に持つクライエントの場合、この原則に沿った精神療法を行うと悪化が生じる。」(p.91)例えば治療者の受け身性を強調する力動的(分析的)精神療法だけでなく、トラウマに焦点化された認知行動療法(いわゆるTF-CBT)や暴露療法についてもその意義に疑問を呈する。「圧倒的な対人不信のさなかにあるCPTSDのクライエントに、二週間に一度、8回とか16回とかきちんと外来に来てもらうことがいかに困難な事か、トラウマ臨床を経験しているものであれば誰しも了解できるのではないか」というのだ。「なるべく短時間で、話をきちんと聞かないことが逆に治療的である」とも書いてある。杉山先生はトラウマを扱うか否かはかなり微妙な匙加減をなさっているのであろう。
2024年9月17日火曜日
統合論と「解離能」 11
USPTの勉強途中であるが、ここでいわゆる自我状態療法に目を向けてみよう。というのもUSPTでの試みは自我状態療法のそれとどこか似ている印象があるからだ。そこでこちらに寄り道。しかしこれについてもまともに調べようとすると大変なので、ここは杉山登志郎先生の論文を参考にしよう。
杉山 登志郎(2018)自我状態療法―多重人格のための精神療法. 日本衛生学雑誌 ミニ特集 こころとペルソナの発達に関するアプローチ 73巻1号 62ー66
とてもコンパクトで読みやすく、しかも杉山先生の治療論のエッセンスがここに書かれているという印象を受ける。杉山先生は私が最も尊敬するトラウマ論者の一人である。
この論文には杉山先生がこの治療法について受講し、実際に臨床に応用した際の体験が書かれている。先生はもともとEMDRの研修を受けて実際に臨床で用いた際に「その効果に驚嘆した」とある。しかしDIDの治療の際にその限界を感じ、EMDRのワークショップで自我状態療法を学んで、「再度驚嘆した」とある。杉山先生には惚れっぽい(いい意味で、である)ところがあり、そこがかの van der Kolk 先生と似ているのだ。米国で初めてのSSRI(Prozac 、日本には入って来ていない)をPTSDに用いて著効を見て痛く感動したという彼の文章を思い出す。
ではそもそも自我状態 ego state とは何か。杉山先生の文章を引用する。「環境に適応するための行動パターンとそのもとの経験とが連結したものを自我状態と呼ぶのである。(p.63)」何となく Putnam 先生の discrete behavioral states (DBS) を彷彿とさせる。
ちなみに自我状態療法 Ego state therapy の歴史は案外古い。Watkins, H. H. (1993). Ego-State Therapy: An Overview. American Journal of Clinical Hypnosis, 35(4), 232–240.という論文に、既に20年の経験について書かれている。ということは1970年代から始まったということか。この論文の抄録には以下のように書かれている。
Ego-state therapy is a psychodynamic approach in which techniques of group and family therapy are employed to resolve conflicts between the various “ego states” that constitute a “family of self” within a single individual. Although covert ego states do not normally become overt except in true multiple personality, they are hypnotically activated and made accessible for contact and communication with the therapist. Any of the behavioral, cognitive, analytic, or humanistic techniques may then be employed in a kind of internal diplomacy. Some 20 years experience with this approach has demonstrated that complex psychodynamic problems can often be resolved in a relatively short time compared to more traditional analytic therapies.
つまり精神分析の向こうを張ったところがあり、それを力動的なアプローチとし、そこではグループおよび家族療法のテクニックが用いられるとする。ここでは隠された自我状態は多重人格でない限り表に出ないが、催眠ではその活動が見られる、とある。ただここでグループ療法や家族療法のアプローチを応用する、という限り、全部を統合しようとする試みは恐らくなされないであろう。事実杉山先生の記載を見ても「『平和共存、みんな大切な仲間』というメッセージが一番大事なキーワードとなる。(p.64)」とある。
2024年9月16日月曜日
記憶の抑制に意味があるのか 最終回
9月7日は日本心理学会88回大会にオンラインで出席し、100人ほどの参加者があったそうである。(実際は対面方式で、オンライン参加は私だけであった。)
実際に発表を聞いて新たに学んだことは、少なくとも心理の基礎研究でも臨床に役立つような研究が行われ、それを私達臨床家が積極的に学ぶ必要があるということである。事実「記憶の抑制のよしあし」についての臨床家との対話という試みはこれまでも行われて、その成果が発表されているということを私は知らなかった。「杉山崇、越智啓太,丹藤克也(2015) 記憶心理学と臨床心理学のコラボレーション 北大路書房」などはすでに9年前に出版されているのだ。今回の討論の前に取り寄せて読むべきであった。
しかし私に対する討論への討論(つまりお返事)の形で発表者から教えていただいたのは、実際にPTSDの記憶についての研究もおこなわれており、そこではトラウマ記憶の抑制はある程度可能であるが、リバウンドが大きい、という幾つかの研究結果が出ているとのことである。予想していたとはいえ私の知らないことだった。また先生方の話の中に解離という単語は一度も出て来ず、やはり抑制、抑圧に比べて解離と記憶に関する基礎研究はまだまだこれからであるということを実感した。
結局つらい記憶の抑制の問題は、それがいい事か、悪い事かの判断は一概にできないものの、人が意図的にあることを忘れようとする試みには一定の効果があるということを知ったことの意味は大きい。(ひとは考えまいとすれば余計考えてしまうといういわゆる「逆説的効果」は神話であるという研究結果もあるのである。(何しろ忘れようとするときには海馬がオフになって協力してくれるのだから。)認知行動療法的な試みに対して今一つ理解と許容性が深まったという自覚がある。
2024年9月15日日曜日
記憶の抑制に意味があるのか? 6
記憶の再固定化の問題
ところでこの記憶を呼び覚ますか抑制するかは時と場合によるという議論は、私の考えでは記憶の再固定化の問題に行きつく。記憶は想起することで不安定になる。その時にどのようなことが行われることでいい方向に再固定化されていけば治療的であり、そうでなければ非治療的である。そしてそれはあまりにケースバイケースなのだ。記憶が labile な状態で何が起きるかが決定的に重要である。
一般的に言われるのは、安全で安心な環境に置かれた状況で記憶が想起された場合は、その記憶の外傷的な性質は低下するということである。そしてこれを用いているのが、いわゆる系統的脱感作法である。この方法は1950年代に精神科医のウォルピという方が開発した行動療法の一つであるが、安全な場所でゆったりとしたリラックス感を味わいながら、対象となるべき思考や記憶を扱うということにより、その記憶の外傷性を徐々に低下させていく、ということである。いわゆる曝露療法もこれと同じ類と考えることが出来るであろう。しかしこの安全安心な環境の提供は非常に難しく、一歩間違えればトラウマ記憶がより外傷的な形で再固定化されてしまうかもしれないのである。
ある患者さんは昔よく聞いていたロックミュージックを聞いていたところ、見事にFBがシャットアウトされたと言っていた。音楽を聴きながらだとトラウマ記憶が蘇ってもあっという間に解毒されてより安全な形で再固定化されたらしいのである。このような現象が、恐らく患者さん個人により特殊な形で成立するかもしれない。
解離との関連性
三人の先生方により論じられたのは思考や記憶の意図的な抑制である。それらが健常人でも生じることについては様々な研究により示されている。しかし臨床で出会う健忘は解離の機制が関与していることが非常に多い。過去に起きたことが一定期間思い出せない場合、それは抑制という意図的な努力が関係していないことが普通である。それはいわば脳が異なる人格状態で生じる記憶であり、その人格状態に戻らない限りはそれを想起出来ないという現象である。つまりトラウマ記憶と同じように通常のエピソード記憶とは違った振る舞いをするために、意図的な記憶の抑制が働かないという問題が生じる。
今後はこの解離の問題が基礎研究で何らかの形で解明されることを私は非常に期待している。
2024年9月14日土曜日
記憶の抑制に意味があるのか? 5
さて次は小林先生の記憶の抑制についてのお話である。
小林先生がお作りになった心理学ミュージアムの「嫌な記憶よさようなら~記憶を意図的に忘れる~」も拝見した。私自身もかつて「精神科医が教える忘れる技術」(2019年、創元社)という本を出したこともあり、その意味では私が関心を持っているテーマでもある。
実は専門的なお話が多くてあまり理解は出来なかったが、結論としてはネガティブな記憶はネガティブな気分を誘導するという負のループが成立しており、ネガティブな記憶の抑制は実際に効果があるだけでなく、治療的にも役立つのではないかということである。これはまさに、トラウマ記憶を呼び覚ますとそれが再外傷体験につながるというロジックともつながってくるという意味では有意義なことである。また小林先生の最後のスライドにあった、Levy & Anderson の研究、つまり侵入の程度において海馬が不活化されるという発表は示唆的であった。このことをおそらく臨床家の多くは知らないと思う。この小林先生の研究も私が述べている臨床的な事実、すなわちつまり外傷的な記憶の想起は是々非々で行なうべきであり、いたずらに想起することは再外傷体験につながる可能性を常に注意すべきである、ということに繋がる。ただし服部先生のご発表に対する討論でも触れたとおり、この議論は恐らくエピソード記憶について主に言えるのではないか。トラウマ記憶に関しては、この抑制の機能が上手く行っていないために、この考え方が必ずしも当てはまらない場合もあるのではないかと思う。
松本先生は自伝的記憶の概括化(OGM)の研究をもとに発表されている。これは認知療法でいうところの「自動思考」に相当するものがうつ病で生じているということを意味するだろう。つまり過去を回想する際にも、個々の事例を客観的な目で想起することなく、過度の一般化を行ってしまうという傾向だ。そしてこの過度の一般化は自動思考の一つである。
また松本先生が最後に示された「統合的な枠組み」は興味深いものである。要するに患者においては抑制対象となるネガティブな思考や記憶が多いという事実は確かにあり、それに対処する必要があるということだ。これはある意味では基礎研究を超えてその臨床的な応用を考えてのことであり、とても臨床畑の人間にとってはありがたいことである。恐らく患者さんたちも思考や記憶の抑制の機能はかなり正常に働いているものの、過去の記憶のネガティブな記憶が多すぎるという問題があり、これはトラウマを負った患者さんたちにまさに該当する。精神分析の様に何を抑圧しているかを探ることよりは、そのネガティブな思考や記憶そのものをどのように扱うかという問題意識はよりシンプルであり、治療目標としやすいであろう。
これに関連して臨床上問題となるのは、実際に客観的なトラウマ記憶がないにもかかわらず、常に「誰にも愛されなかった」「ひどい扱いばかりを受けてきた」という訴えを持つ患者さんたちである。そしてそこにはネガティブな解釈をする傾向にあるBPDや発達障害の問題が関与しているものと思われる。
2024年9月13日金曜日
記憶の抑制に意味があるのか? 4
服部先生の発表は思考抑制についてである。そして実際に意図的な思考抑制を行った結果、思考頻度が低下すること、またリバウンド効果(抑制が解除された際には過剰に思い出してしまうこと)はあっても非常に小さいということを示していただいた。つまりいわゆる「逆説的効果」(忘れようと思う程かえって思い出してしまうこと)は神話であるということであった。これは臨床家である私にとっては大きな学びであった。なぜなら私もこの神話に影響を受けていたからである。つまり治療者も患者も自分の「忘れよう」という努力の効果をもっと信じるべきであるという教えを受けたことになる。またあることを考えまいとするとその抑制対象に対するネガティブな認知が強まるということもとても興味深いことである。
服部先生の発表の臨床的な示唆としては、病気の人は思考抑制を行なっており、それはある程度うまく行っているもののその実感がなく、また抑制対象はますます不快なものに感じてしまうということである。そして服部先生の最終的な結論は以下のものである。
「基礎研究では、思考抑制の短期的な効果を証明している。しかし臨床では思考抑制の習慣化があまり根拠なく問題視されてきている。」
これに対する私の討論は、以下の通りとなる。「服部先生のおっしゃる通り、思考抑制は患者においても起きるべくして起きるのであり、それが患者の苦痛の軽減につながるのであれば、その患者の努力を評価すべきであろう。またやがて患者が回復した時には、回避することでよりネガティブに思えてきたその思考に再び取り組むことも悪くないであろう。
ただしこの議論は恐らくエピソード記憶について主に言えるのではないか。それはうつ病や神経症水準の患者さんに対しては言える事であっても、私が多く扱うPTSDや解離などのトラウマ関連障害の患者さんに関しては、上手くいかないことがある。それは患者が抑制したい思考や記憶は、いわゆるトラウマ記憶であり、それは意図的な抑制の対象にはならない可能性があるからである。事実PTSDにおける記憶の問題は、この意図的な抑制が十分に行えないという事情にあるということを研究は示しているからである。だからトラウマ記憶の抑制よりは、彼らの記憶のコントロールシステムに働きかけなくてはならないという研究結果がある。
参考文献)Alison Mary et al.(2020) ,Resilience after trauma: The role of memory suppression.Science367,
2024年9月12日木曜日
統合論と「解離能」10
さてなぜ統合する必要があるのかについて著者は次のように述べる。「過去の辛さを別の人格に背負わせることで、その記憶も感情も時間とともに風化しなくなってかえって辛くなっている」「大人になったら辛いことから逃げないで対処することをしっぱりと認識してもらう」「それさえ受け入れられれば、辛い過去の感情をその場で流すことが出来るのが、このUSPTの非常に大きな特徴である。」(p.31)そして人格の統合に抵抗を示す患者に対して次のように言う、とある。人格は決して消えることがない、と伝えて次のジグソ―パズルの比喩を用いる。少し長いが重要部分なので引用しよう。 「今のあなたの状態は、ばらばらになったジグソーパズルです。そのままだと、過去の辛い感情が流れずにどんどんたまっていく一方なのです。ジグソーパズルがきちんと出来上がると、過去の感情が流せてとても楽になります。別人格はジグソーパズルのピースみたいなものだから、一つになっても消えるわけではないのです。その証拠に、いったん融合・統合した後でも、再解離してもといた別人格が出てくることは日常茶飯事です。(下線は岡野」(p.32) 小栗先生の本章の根幹部分は意外とあっさりしたものである。それは「統合により辛い過去の感情が流されて楽になる」ということに尽きると言っていいであろう。ただその根拠についてはこの章では明確には触れられていない。 第5章は再び新谷医師の執筆であるが、最初にUSPTを行なう際の説明として、「膝と肩に触れる治療であること」とともに「現時点ではUSPTにエビデンスがないこと」を挙げていることだ。これはとても率直な態度であるとも言える(率直過ぎて少し肩透かし感もある)。
2024年9月11日水曜日
統合論と「解離能」9
本書の第4章「人格解離機制ー典型的DIDと内在性解離―」はUSPTの創始者である小栗康平先生による章で、先生の考えるDIDのメカニズムが簡潔に書かれている。それによるとUSPTを用いた解離性障害の治療とは、「『統合』に向けて『融合』を何度も繰り返していき、最終的に基本人格を呼び出して実年齢まで成長させて、主人格と統合する」(p.21)ということである。ここで基本人格とは「生まれて来た時(胎生期も含む)の本当の自分」と定義されている。ということはこれはかなり野心的な治療目標とも言えるであろう。なぜなら私達が出会うDIDの方々の中には基本人格さん自身が見当たらない(深く眠っている)というケースがかなり見受けられるからだ。
また以下の文章も注目に値する。「幼少時に(生まれる前、胎生期のトラウマが原因であるという患者さんが約半数いる)強いストレスを回避する目的で、基本人格が別人格を生み出してそれに対処すると、以後ストレスに直面するたびに別人格を生み出して対処するようになります」(p.21∼22、下線岡野)。つまりトラウマは前生におけるものをかなりの割合で含むというやや特殊な立場である。さらに著者によれば、最初は解離性健忘を伴う典型的なDIDにだけUSPTを試みていたが、解離性健忘はないものの表面上は鬱症状や感情不安定さなどを呈する人にこれを試みたところ、「予想外に非常に多数の患者さんから、内在する人格が表出して来ることを経験した」(p.24)とある。
2024年9月10日火曜日
記憶の抑制に意味があるのか? 3
9月7日に開催された日本心理学会公募シンポジウムにおいて発表した討論内容は結局以下のようになった。 発表者の発表の趣旨に応じて討論者としては以下のいくつかの点について論じたいと思う。 先ず大前提として、臨床では記憶や思考の抑制を不適応なものと考えているのか?一般に考えられている精神分析的な精神療法ならそのような前提を持っていたかもしれない。すくなくともフロイトの精神分析理論ではそうであったと言えるであろう。また今でも感情を抑えずに表現する、あるいはトラウマ記憶を想起し、それに直面することを促す暴露療法的な手法は存在する。D.Fosha のAEDP (Accelerated Experiential Dynamic Psychotherapy加速化体験力動療法) の試みもあるくらいだ。 本来フロイトは感情を抑圧することが神経症につながるという考え方を持っていた。フロイトにおいてはリビドーがうっ滞し、蓄積されることが害悪であるという根強い考えがあった。あるトラウマ的な出来事に関する感情が閉じ込められている場合、それを表現することで症状がおさまるというのがいわゆる除反応 abreaction による効果である。フロイトは先輩医師ブロイアーと共に、これがあらゆるヒステリーの患者にとって有効であると考えた。しかし実際にはトラウマに直面することが再外傷体験を生んだり、症状を悪化させたりすることもある。 現在の精神医学は以前に比べて「トラウマ論より」であると言える。そしてむしろ臨床上一番問題になるのは、いわゆるフラッシュバック現象であり、要するに自分ではコントロールできないような侵入的な考えであり回想である。思考や記憶は、それが侵入的である限りにおいて、病的なのである。 それは例えばある日夢の中で昔の光景が突然現れる、とか日中の覚醒時にあるイメージが突然降ってくるという形を取る。もちろんテレビである映像を見たとたんに昔の記憶がよみがえるということもある。これらは一般にフラッシュバック(FB)と言われるが、これをいかにコントロールするか、あるいは突然襲ってくる記憶をどう処理するかというのが最大の問題になる。だから思考や記憶をいかに抑制するかという問題はむしろ喫緊の問題と言える。数多くの患者がFBや解離性の幻聴に苛まれている。だからこのテーマは極めて重要なのだ。 そして現代の治療者は過去の記憶内容を扱うことが改善につながるのであれば、行い、再外傷体験に繋がるのであればそれを行なわないという比較的単純な結論に至っている。 つまり外傷的な記憶の想起は是々非々で行なうべきであり、除反応か、再外傷体験のどちらかにつながる可能性を常に注意すべきである、ということである。 さて各先生のご発表に簡単に討論を行います。
2024年9月9日月曜日
記憶の抑制に意味があるのか? 2
ちなみにメタ認知行動療法では、CAS(Cognitive Attentional Syndrome 認知注意症候群)という概念があり、いわば捉われている思考を意味し、それを平常心(DM:ディタッチト・マインドフルネス)に戻すことが治療の眼目とされるという。その為のトレーニングなども治療手段として提示されているが、これも上と同類と見ることが出来るであろう。
ではむしろ感情に焦点付けし、それを表現することを促す治療にはどの様なものがあるだろうか?これは精神分析理論に一脈通じる部分がある。フロイトは感情を抑圧することが神経症につながるという考え方を持っていた。フロイトにおいてはリビドーがうっ滞し、蓄積されることが害悪であるという根強い考えがあった。あるトラウマ的な出来事に関する感情が閉じ込められている場合、それを表現することで症状がおさまるというのがいわゆる除反応 abreaction による効果である。フロイトは先輩医師ブロイアーと共に、これがあらゆるヒステリーの患者にとって有効であると考えた。
ただしこの除反応は、現代的な視点からは、時にはそれが再トラウマ体験に繋がってしまうという問題がある。激しい感情表出の後、そう促されたことによりスッキリする場合もあれば、恨みや怒りが治療者に表出されることがある。
ちなみにフロイトにおける情動の表出については、彼のエネルギー経済論的な考え方が影響を与えている。フロイトは情動が転換されて症状になるとした。そしてそれが理解され、言葉を与えることで症状が改善すると考えたのである。ただこの転換の概念については科学的なエビデンスがないということで、DSM-5(2013)およびICD-11 (2022)においては今後は用いられないという方針が示されている。現在の精神医学はトラウマモデルに舵を切りつつあり、そこではトラウマ記憶をいかに扱うかということが問題となる。つまりそれを思い出そうと、むしろそっとしておこうと、どれだけそれが日常生活の邪魔にならないかを考えるのである。
ちなみに感情の表出に治療の主眼を置く理論も多く存在する。その一つが持続エクスポージャー法である。
侵入的な回想をいかに扱うか
より臨床的な立場から記憶の問題について考える際、一番問題になるのは、侵入的な回想である。記憶や思考は、それが侵入的である限りにおいて、病的なのである。ある日夢の中で昔の光景が突然現れる、とか日中の覚醒時にあるイメージが突然降ってくるという形を取る。もちろんテレビである映像を見たとたんに昔の記憶がよみがえるということもある。これらは一般にフラッシュバック(FB)と言われるが、これをいかにコントロールするか、あるいは突然襲ってくる記憶をどう処理するかというのが最大の問題になる。
結局この問題は記憶の再固定化の問題に行きつくものと思われる。
上手く再固定化されれば治療的であり、そうでなければ非治療的である。そしてそれはあまりにケースバイケースなのだ。記憶が labile な状態で何が起きるかが決定的に重要である。
2024年9月8日日曜日
記憶の抑制に意味があるのか? 1
昨日(9月7日)に開催された日本心理学会の公募シンポジウム 「抑制は精神症状を悪化させるのか? 基礎研究と実践知の乖離」に討論者としてお招きを受けた。信州大学の松本昇先生の企画からのお誘いを受けたのである。ここから何回かは、討論者としての準備ノートを含む。
記憶や感情を抑えることの是非、というテーマは、トラウマ治療では常に問われている問題だ。トラウマを直接扱うべきか否か、という問題はトラウマの治療にとって極めて重要でかつ日常的な問題なのである。そしてこれに関しては二つの考え方が対立する形で存在する。
先ず「感情は扱わないに越したことがない」という立場としては、その為の治療手段として、マインドフルネス瞑想などが挙げられるかもしれない。マインドフルネスにおいては自分の呼吸の感覚への集中、あるいは居心地のいい場所にいるイメージなど、ニュートラル~ポジティブなテーマに留まるトレーニングを行なうわけであるが、その根幹部分はそこから離れた場合に元に戻すという手続きである。なぜなら人間の心は自然と一つのものから別のものに移るという性質を有しているからだ。私はこの最初のニュートラルなテーマに戻るというプロセスを、いわゆるDMN(デフォルトモードネットワーク)への回帰と同類と見ている。これは言葉を変えれば、心を何にも注意を向けていないという状態、いわばアイドリング状態に戻すことだ。ちょうど私達が何かを考えている時の視線は、何にも焦点を合わせずに宙を舞うだろう。あれと同じだ。禅の高僧も瞑想によりこの境地に至ることが出来るだろう。 DMNに回帰するだけでなく、何か特定のことに集中することにも同様の効果がある場合がある。ある外科医は、自らが進行性の癌を宣告されたが、翌日は、昼間の数時間を執刀医としてオペに没頭することでそのことについて考えないように出来たことが助けになったという逸話を書いていた。飲酒などによる酩酊ももちろん薦められるものではないが、似たような効果を生むだろう。
2024年9月7日土曜日
統合論と「解離能」8
ここからUSPTについて少し勉強する。小栗康平先生や新谷宏伸先生の提唱するこの技法は、「タッピングによる潜在意識化人格の統合」(新谷 宏伸 (著, 編集), 十寺 智子 (著), 小栗 康平 (著)(2020)USPT入門 解離性障害の新しい治療法 -タッピングによる潜在意識下人格の統合. 星和書店.) という研究所で私も以前から注目していた。本書では私が今検討している人格の統合ということを治療の最優先事項として掲げているという点で画期的な書である。ちなみにUSPTとはUnification of Subconscious Personalities by Tapping THerapy (タッピングによる潜在意識化人格の統合) の頭文字である。この治療の眼目として創始者小栗先生が唱えるのが、「表出してくる憑依人格の存在を通して生きることの意味まで深く考えさせられる事」であるとする。(同書p.2)ちなみに小栗先生は「マイナスエネルギーを浄化する方法ー精神科医が明かす心の不調とスピリチュアリズムの関係」(2010)という書も出されており、それが本書の共同著者である新谷宏伸先生(現USPT研究会理事長)の心をつかんだとある。本書では新谷先生が小栗先生のもとに言わば弟子入りして第三者の視点から本技法が生まれた経緯が書いていることが興味深い。それによると小栗先生は人格変換をEMDRを用いつつ行った結果「両ひざのタッピング」が最適だとの結論に達したという。そしてさらにある治療者A先生により人格の統合には「背部(肩甲骨のあたり」をタッピングすることがいいと伝授されたとのことである。そして両膝への左右交互のタッピング」で人格変換を手早く行い、背部のタッピングで人格を統合するというUSPTの原型が出来上がったとする(p.13)。何かフロイトがカタルシス法から前額法を経て自由連想法に至った経緯を思わせる様で先を読むのが楽しみである。
2024年9月6日金曜日
統合論と「解離能」7
さてここからはForrest の説である。Forrest, KA (2001) Toward an etiology of dissociative identity disorder: a neurodevelopmental approach Conscious Cogn 10:259-93. 彼によれば、現在のところ、解離に関してもっとも有効な理論は、Putnam のDBSの理論だという。しかしその背景となる生物学的なメカニズムは説明されていないという問題があるとする。彼は人間が自己の異なる部分を統合する機能として眼窩前頭皮質OFCを含む前頭前野を挙げている。人が持つ幾つかの機能を、同じ人の持つ複数の側面としてとらえ、「全体としての自分 Global Me」を把握する際にこの部位が機能するという。そしてそれが低下すると、多面的な存在が個別なものとして理解され、Aさんという自己の異なる側面がAさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識されてしまう。これが自己像に対して行なわれるというのが彼のDIDの生成を説明する理論の骨子である。 「結局Aさんはいろいろな側面を持っている」という風にAさんを厚みを持った、多次元的な存在として把握するのであるが、OFCの機能低下により、それを逆に個別なものとして理解し、相互を別々のものとして理解すると、Aさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識してしまう。そのことを、自己像に対して行なってしまうと、自己がどんどん分裂していく、という説だ。
ただどうもこれはDIDの本質を捉えていないような気がする。この体験では自己像がいくつかに分かれる、という説明にはなっても、心がAに宿ったり、A’に宿ったりという、複数の主体の存在を説明していないように思えるのだ。いったいこの問題に手を付けている理論はあるのだろうか?
眼窩前頭皮質とは眉間の奥にある脳の部分であるが、共感とか情緒交流などの話によく出てくる脳の部位。以下OFC)の機能が、虐待により非常に損なわれ、そのことにより行動依存的な自己像が統合されず、それがDIDの病理を生むという。すると例えば矛盾するやり取りの際に「側方抑制 lateral inhibition」が生じないことで、統合できないというのだ。
側方抑制は視覚について最初に報告されているというが、一つのニューロンが刺激されたとき、その周囲のニューロンがパルスを発生するのを抑制することを意味するという。視覚では、物体の境界を認識するのが容易になるという効果になる。物体が網膜のような二次元に投射された場合、物体の境界というか物体の淵で、光のコントラストが生じることが多いが、このようなコントラストの認識が容易になる。要するにある体験を持つとき、その輪郭を際立たせるようなメカニズムのことだ。
こんな例を考える。二卵性の双子の姉妹がいる。しかもとてもよく似ている。親しい人は二人を別々の人として体験するために、かなりの側方抑制を行うだろう。例えば顔の輪郭について、その際の部分を強調して体験することで、「二人はよく似ているけれど、よく見ると全然違う」。ここにOFCが関与しているとしよう。もし側方抑制が十分でないと、いつまでたっても二人を区別できない。では今度は一人の人間が、異なる顔を見せるとしよう。昨日との違いは、側方抑制の低下により強調されず、いずれも一人の人間として統合されたイメージに向かう。この場合は側方抑制が抑制される必要がある。そう、統合に必要なのは抑制の抑制というわけだ。ではいつも同じ人と思っていた人が異なる側面を急に見せたら? いつも優しい父親が全く異なる凶暴な側面を見せたら? 脳は一生懸命側方抑制を抑えることで、「両方とも同じ父親だ」と体験するだろう? でもそれが限度を超えたとしたら? 脳はおそらくそこで二人を別人と捉えることは出来ない。その代りこちらを別モードにするかもしれない。つまり体験する方の主体に別モードを準備するという.
2024年9月5日木曜日
統合論と「解離能」6
さてHowell 先生が依拠する説としてあげていたPutnam のDBSの理論と共に上げていたKelly Forrest という学者の説。少し復習が必要だ。 先ずPutnam 離散的行動状態理論(Frank W. Putnam: Dissociation in Children and Adolescents: A Developmental Perspective. Guilford Press, 1997
これは基本的に人間の行動は限られた一群の状態群の間を行き来することと捉えており,DIDの交代人格もその状態群の中の1つであるとする.交代人格という状態は,その他の通常の状態とは違い虐待などの外傷的で特別な環境下で学習される.そのため,交代人格という状態とその他の通常の状態の間には大きな隔たりと,状態依存性学習による健忘が生じると考える.Putnam(1997)にとって精神状態・行動状態というのは,心理学的・生理学的変数のパターンから成る独特の構造である.そして,この精神状態・行動状態はいくつも存在し,我々の行動はその状態間の移行として捉えられる.乳幼児を例にとれば,静かに寝ているノンレム睡眠時が行動状態Ⅰ,寝てはいるものの全身をもぞもぞさせたりしかめ面,微笑,泣きそうな顔などを示すレム睡眠時が行動状態Ⅱ,今にも寝入りそうでうとうとしている状態が行動状態Ⅲ,意識が清明だがじっとして安静にしている状態が行動状態Ⅳ,意識が清明で気分がよく,身体的な動きが活発な状態が行動状態Ⅴ,意識が清明で今にも泣きそうな状態が行動状態Ⅵ,そして大泣きしている状態が行動状態Ⅶといった具合になる.そして状態が増えれば,それだけ行動の自由度が増す.
これらの状態は互いに近しいものもあれば遠いものもあり,いわば1つの部屋の中に離散的(離れて)に付置されている状態にある.そして,その状態間を行き来するための経路は,たとえば行動状態Ⅰと行動状態Ⅱはともに行き来可能だが行動状態Ⅰと行動状態Ⅶの間には経路は存在しないといったように,ある規則に従って定められている.この行動状態の構造が,個々人の人格を定義するものとなる.
上記のような状態群は,大抵の乳幼児には観察できるものであろう.しかし,被虐待児の場合は,その他にやや特別な行動状態群を形成する.虐待エピソードのような恐怖に条件づけられた行動状態は,血圧・心拍数・カテコールアミン濃度などの自律神経系の指数の上昇といった生理学的な過覚醒と連合している.それは極めて不快で,我々の大部分にとっては日常体験の外に存在するものである.上記Ⅰ~Ⅶの行動状態を“日常的な行動ループ”とすれば,虐待エピソードで獲得された状態群は独自の性質をもつ“外傷関連の行動ループ”といえよう.この2つの行動ループは,いわば同一の部屋には納まるものの互いに離れたところに付置し,そのために行動全体がまとまりをなくすという状態になる. 心理的外傷を負った子どもが,それを想起させるような刺激に遭遇し感受性が高まると日常的な行動ループにいても外傷関連の行動ループを活性化させ,一足飛びにその状態へスイッチングする.しかし日常的な行動ループと遠く隔たった場所に存在する外傷関連の行動ループは,いつでもそこへ接近が可能なわけではない.情報というのは,多かれ少なかれ状態依存的な性質をもっているため,外傷関連の行動ループにもそれを獲得したときの状況と類似した状況であると認識しないと接近が困難である(このことは,第三者から見て外傷状況とは類似しない状況でも,本人が似ていると認識すれば接近してしまうということにもなる).ゆえに,外傷に関連する行動状態と日常的な行動状態とを結合する経路は,他の経路と比べると滅多に使われない.このように,異常な解離状態とは日常的な行動ループから遠く隔たった場所にある行動状態群で,かつそこへの接近がいつでも可能なわけではないものということになる.その典型例がDIDにおける交代人格である.
Putnam(1997)の説は,虐待などの特殊な状況での意識状態が,普段の意識とは離れたところに存在するという解離の基本骨子は引き継ぎつつ,そこに行動状態群という概念をもち込み,これまでDIDの成因論において中心的には扱われてこなかった状態依存学習を前面に強調した点が独創的である.
2024年9月4日水曜日
統合論と「解離能」 5
Winnicott が最後に残した草稿には、こんな文章がある。 「私は私たちの仕事について一種の革命 revolution を望んでいる。私達が行っていることを考えてみよう。抑圧された無意識を扱う時は、私達は患者や確立された防衛と共謀しているのだ。しかし患者が自己分析によっては作業出来ない以上、部分が全体になっていくのを誰かが見守らなくてはならない。(中略)多くの素晴らしい分析によくある失敗は、見た目は全体としての人seemingly a whole person に明らかに防衛として生じている抑圧に関連した素材に隠されている、患者の解離に関わっているのだ。」(Winnicott, quoted by Abram,2013, p.313,下線は岡野) 思わずエーッとなる内容だが、これを補足する様に Abram は論じる。「Winnicott の理論では、自己は発達促進的な環境によってのみ発達する。その本質部分がない場合は、迎合を基礎とした模造の自己 imitation self が発達し様々な度合いの偽りの自己が発達する(それについては真の自己と偽りの自己に関する自我の歪曲」(1960)という論文で論じてある。)そしてよくある精神分析では解離されたパーツ、すなわち偽りの自己の分析にいたらないのだ。(Abram p.313) 私は勢い余って太文字強調したが、Abram を読んでいると、Winnicott の偽りの自己の議論は事実錠解離の議論ということになる。少なくともAbram の筆致によれば、そしてWinnicott の記述を字義とおり取れば、彼はどうやら今の解離の議論を半世紀以上前に先取りしているということになるが、本当に信じていいのであろうか? ちなみにWinnicott の論文を解離という視点から読んでいくと、色々考えさせられてしまう。「対象の使用」という概念にあるように、他者は(主観的に構築された他者像)ではなく objective object (客観的な対象)という意味を持つが、これは別人格のあり方そのものではないかと感じる。別人格の振る舞いの意外性はまさにsubject のそれなのだ。思わず次のような論文のタイトルが浮かんでくる。「交代人格 alternate identity はsubjective object (主観的な対象)なのか、それとも objective object (客観的な対象)か?」これまでの考え方では前者だが、Winnicott 的に言えば、後者ということになる。常に新奇性を提供して来るからだ。
2024年9月3日火曜日
統合論と「解離能」4
ところでこの議論、解離能の話とは逆行していると言える。最初は分裂しているのが人のこころだ、とすれば解離とは「元に戻る」ないしは「先に進めないでいる」ことを意味するし、治療の目標は当然ながら統合ということになる。 しかしこれは解離の最も不思議な現象である人格の創出、出現という問題を解決することにはならない。これは当たり前の話であるが、解離というのはもともと最初から分かれているものがくっつかない、という問題では決してない。最初あったのもが別れる、あるいは最初あったものの他に出来る、という現象である。そしてそれが解離能の概念につながる。この議論はだから解離する能力、すなわち「解離能」という概念に逆向しているといえる。 ではウィニコットはこの理論にどのように関係しているだろうか。ウィニコットは最初は断片的だった自己が統合されていくプロセスを論じている。ちなみにウィニコットも似たような考えを持っていた。ウィニコットは自己の発達過程で確かにそれまで分かれていた断片が融合するプロセスを論じている。その意味でPutnam 先生の分散行動モデルDBSに近いといえる。しかしこんな言い方をしているのだ。 「私の考えでは、自己self (自我ego、ではなく)は、私自身であり、その全体性は発達プロセスにおける操作を基礎とする全体性を有している。しかし同時に自己は部分を有し、実はそれらの部分により構成されているのだ。それらの部分は発達プロセスにおける操作により内側から外側へという方向で凝集していくが、それは抱えて扱ってくれる人間の環境により助けられなくてはならない(特に最初において最大限に、である。)」(Abram, .313) Abram はこのプロセスは母親による発達促進的な環境 facilitating environment により成し遂げられ、そうでないと母親との迎合による模造自己 imitation self が出来上がるばかりであるという。つまり偽りの自己のことだ。 私が思うに、Winnicott のモデルはどうも発達過程での「部分→統合」というのとも違う気がする。彼は自己が確立してから、非自己が生まれるのだ、とも言っている。ということは内側から外側に向かって一つ(自己)になった後に非自己が分化していくが、その過程で偽りの自己も出来上がっていくという印象を受ける。部分 → 統合体 → 分化(自己、非自己)というより複雑なプロセスを考えているように思われる。 考えてもみよう。赤ん坊が母親に同一化するプロセスでは、自分と母親の相違には気がつかないだろう。そのうちに「あれ?何かがおかしい」となるはずだ。解離は自己の成立後に生じるはずである。それがもともとバラバラな状態のまま統合できない、というモデルとは違う。Winnicott が防衛的な解体という時は、やはりこの全体→部分に分かれる というプロセスが想定されているらしいのだ。
2024年9月2日月曜日
Gartner 先生の講演
このブログは数日前のものが反映されているが、昨日(8月24日)はパシフィコ横浜で開かれている心理臨床学会の男性の性被害に関するシンポジウムが行われた。私は討論者として参加したのであるが、たくさん得るものがある一方では、少しもやもや感が残る内容であった。
男性の性被害の問題はこれから多くのことが明らかにされるべきことであり、その分野を切り開いたガートナー先生の功績は多大なものである。しかし実際の臨床で出会う被害者の大半は女性であることも確かである。
数日間ブログで示した通り、私が実際に関心を持ち、また困っているのは、男性の性加害性を女性の被害者にいかに伝えるかという問題である。それをガートナー先生にぶつけてみたのである。しかしこれについて先生の答えは、以下のようなものであった。
「性加害という問題から離れて、虐待者が被虐待者に対して虐待を働く際の力動について説明してはどうか?」
なるほどと思った。そして彼は言った。
「虐待者が実は弱い存在であり、それを反転克服するために行うのが虐待である、という風に。」この方針は有効である一方で、被虐待者にこう言われてしまう可能性もあるだろう。「それは虐待者の言い訳に過ぎない。被害者である自分たちにとっては何の慰めや謝罪にもならない。」つまりこの説明である程度納得がいく場合もあれば、とてもいかないということもあるであろう。
講演が終わり、同じ討論者の西岡さんたちとその後の食事に向かう際にガートナー先生にもう少し直接疑問をぶつけてみた。「先生は男性の性加害の問題についてどう思われますか?」
それに対する先生の答えは意外なものだった。
「私は男性の性被害者について専門に扱ってきました。しかし男性の性加害者の専門ではありません」。エー、だって男性である私たちはある意味では当事者ではないのですか、と言いかけて私はそれ以上は言わなかった。これほどまでに、男性の専門家に、男性の性加害性について意識を向けることは難しいのだ、と理解した経験であった。
ともあれ企画者の吉川真理先生、辻河昌登先生にこのような機会を与えていただいて、深く感謝する。
2024年9月1日日曜日
統合論と「解離能」3
Putnam 先生の discrete behavioral states (DBS) とは次のようなものだ。彼はそもそも人の心は統一体 unity としては出発しないという。人の心は時間をかけて統一体となるというのだ。そして人間の行動の構成要素ないしは自己状態 self state は連合的な経路 associative pathaway により繋がっていく。ところがトラウマによりこの経路が障害され、それぞれの自己状態は最初の状態に繋がったままになってしまうという。 逆にそれがないとそれぞれの部分は文脈から独立して(context independent) 存在するようになる。そしてHowell 先生がトラウマの例として出しているのは次のような例だ。ある男の子が背の高い男性にたたかれる。多分養父だったり実父だったりするだろうが、上級生かもしれない。するとその自己状態は文脈化されずに、ほかの背の高い男性を見ておびえてしまうというのだ。ところが解離の程度が弱い場合には、文脈的に使用できる contextually available ほかの自己状態にサポートしてもらえるであろうという。 このような考えについて Stephen Mitchell もこう言っているという。「精神分析により、より統一された自己が達成されるのはいいが、人格がまじりあうことが、互いに移行する葛藤的な自己をコンテインする能力に優先されるとは思えない。」 Watkins はこんな頼もしいことも言っているという。「それぞれの人格を fuse する必要はない。正常の人格もそうではないのだから」 そしてHowell はかなり本音を語っている。「だいたい、integration という語は問題だ。ラテン語の integer は単位とか単体unit or unity であり、統合という概念はワンパーソン心理学の概念なのだ。」関係論的な立場の人にとっては、一人心理学といわれると「終わって」いるといわているようなものなのだ。
一番大事な文章。「contextual interdependence 文脈的な相互依存という概念は、解離対統一という対立項を回避することができる」。と Howell 先生はおっしゃる。Howell 先生は統合否定論者だといっていいだろう。