2023年12月31日日曜日

連載エッセイ 11の3

もう大晦日である。思えば今年もいろいろなことがあった。書いてみたい気もするが、ここに書くようなことではないことばかりだ。 とにかくいろいろな人たちにお世話になった。日々の臨床で出会う患者さんの方々、私のバイジーの方々、何かと注意の行き届かない私によく我慢していただいたことへの感謝の気持ちをここで表したい。


トラウマとは記憶の病理なのか

 トラウマと脳科学というテーマで始めたこの第11回目は、そこでカバーしておきたい内容を考えると、とても一回では語りつくせないという思いがある。この連載はその後に書籍化をしていただけるという可能性もあるという事なので続きはそちらに回すとして、分かりやすい概説的な話にとどめたい。

 トラウマとは外的な要因により傷つけられることであり、それがのちの心の成長に不可逆的な影響を与えることである。それは全く元の状態に復元されたようで、実はその変化の爪痕や瘢痕を残し、何らかの後遺症を残すことが特徴である。その意味でヴァンデアコークが説明したトラウマの記憶はその代表といえるだろう。私達はよく心の傷という言い方をする。ある辛い記憶にさいなまれて「あれがトラウマになっちゃったんだ」という表現をしたりする。その記憶は通常の記憶とは明らかに別の形で脳の特定の場所に記録されているのだ。

 このように考えると、私達は次のような問いを持ちたくなるだろう。

「トラウマとは要するに、記憶の病理なのだろうか?」

確かにそう言えなくもないようだ。トラウマ関連疾患と言われるものの中での典型例は言うまでもなくPTSDであるが、その症状の中でもっとも特徴的なのが、いわゆるフラッシュバックという現象である。フラッシュバックではトラウマの体験が実に生々しく、今ここで起きているようなリアリティをもって再現される。そして感情的、ないしは身体的な反応も復元される。深刻なフラッシュバックに襲われた人をまじかに見たことがあるだろうか。トラウマが起きた時の恐怖や不安が動悸や発汗や手足の小刻みな振るえなどと一緒に蘇り、その時行なっていた動作や作業を中断してその場に頭を押さえて座り込んだりする。この体験は、単なるトラウマの記憶を思い出す、という現象とは明らかに異なる。敢えてこれを記憶と呼ぶなら、通常とは異なるもの、「トラウマ記憶」と呼ぶべきものなのである。

 トラウマ体験のもう一つの際立った特徴がある。それは通常の記憶の中に意識の中に順序良く折りたたまれておさまっているのではないという事だ。それは何かのトリガーにより、あるいはなんの前触れもなく襲ってくる。こうなると日常生活を平穏に送ることが出来なくなる。今度はそれがいつ襲ってくるかが気になり、それに用心することに全エネルギーを注ぐことになる。トラウマを呼び起こすような映画を見れなくなり、人ごみにも出られなくなる。

 事実トラウマにより引き起こされる精神的な障害としてPTSDがもっぱら想定されていたころは、トラウマとトラウマ記憶の存在はほぼ同義とされていた時期もある。しかしそれ以降トラウマと呼べるべき状態にはそれ以外のものも含まれ、それぞれが異なる形で脳に不可逆的な変化をもたらしていることが分かってきた。

それを二つあげておく。


1.解離という脳の変化


 解離性障害は複雑で分かりにくい障害である。それはしばしばトラウマと関連付けられるが、PTSDのように明白なㇳラマに起因するものとしてはなかなか理解されない。それはひとことで言えば、そのトラウマに対する反応が通常は見えにくく、華々しくないからだ。例えば街角で交通事故を目撃したとする。その時その場に立ちすくみ、恐ろしさに言葉をなくすという反応を起こした場合、その記憶がまざまざと蘇ることでPTSDが発症する場合があるだろう。ところが一部の人は、その事故を目撃したことを忘れてしまうという場合がある。あるいはその時のことを思い出そうとしても、ぼんやり靄がかかったようで夢を見ていたような体験として断片的にしか思い出せないかも知れない。つまり恐怖や驚愕といった激しい反応を見せない場合があるのだ。

 ただしこの後者の反応はその人がその過酷な体験を十分に克服できたという事を意味しない。むしろその体験の記憶が「解離」され、つまり通常の体験からは切り離されてしまい、後に解離体験という形で蘇ってくるという事が起きる。そしてこれも脳に不可逆的な変化を起こすという意味ではトラウマといえるのである。


2023年12月30日土曜日

カップルセラピー用のスライド

 カップルセラピー(小寺セミナー)の講義用のスライドを作っている。野波ツナさんという漫画家の「夫はアスペルガー」という本が秀逸なので、そこからかなりお借りした。ほんの一部だけご紹介する。野波さんありがとう!! 当事者の漫画程よい教材はない。






2023年12月29日金曜日

連載エッセイ 11の2

 トラウマで脳が変わるか?

  PTSDの登場により精神医学が活気づいている1980年代は私がアメリカで精神科医として働きだした時期であり、その時の雰囲気をよく覚えている。そこでリーダーシップを取っていたのは私が専門としていた精神分析の専門家ではなかった。臨床の現場に立ちながら、PTSDの病態を脳生理学的に説明する精神科医たちであった。それがベッセル・ヴァンデアコーク van der Kolk とその盟友であるジュディ・ハーマン Judith Herman であった。特にバンデアコークはそのオランダ語なまりの英語で精力的に米国各地講演をして回り、論文を書き、そのカリスマ性とともに大きな影響力を持っていた。

  私が精神科のレジデントをしていたメニンガークリニックにも訪れた彼は、PTSDにおいてどの様にフラッシュバックが起きるのか、トラウマ記憶とはどのようにしてつくられるかを、脳の海馬や扁桃核といった部位を使って説明することで、最初は戸惑った。それまで私は精神科医として数年ほど日、米で働き、脳に効くはずのお薬を処方しながらも、脳の中の具体的な部位について考えることはほとんどなかった。そこで彼の話も最初ははるかにわかりやすく解き明かしたのが印象的だ。精神科医ではあっての脳の中の細かい構造には関心を向けなかった私が明確に、人間の脳の内部の貴重な部位に注意を払うようになったのはこの1990年のころである。



この時バンデアコークが書いた論文 ( van der Kolk, B. A., & Fisler, R. (1995). Dissociation and the fragmentary nature of traumatic memories: Review and experimental confirmation.Joumal of I'raumatic Strass, 8(4), 505-525.) に掲載されている図に私は惹かれた。それは脳の主要な部位である前頭前野、視床、海馬、扁桃核等の部位の間が矢印で結ばれ、トラウマに関する記憶が作られる様子が示されていた。様々な感覚器から入力されて視床で統合された情報が、恐ろしいもの、強烈な不安を呼び起こすものであった場合、扁桃核を強く刺激し、それが海馬の機能を低下させることで、その体験は通常とは異なる記憶(トラウマ記憶)を形成する。もちろんこれはかなり単純化したものであったかもしれないが、PTSDの際に脳で生じることのエッセンスである。



2023年12月28日木曜日

連載エッセイ 11の1

脳とトラウマシリーズと微妙にかぶっている内容だ。


 今回は第11回目である。全12回の予定のこの連載エッセイも、いよいよ終わりに近づいている。今回のテーマは「脳科学とトラウマ」だ。トラウマは現代の精神医学において非常に大きな位置を占めている。精神分析学と共にトラウマ関連疾患や解離性障害は私が臨床で最も多くかかわるテーマである。そこでこの連載を終える前に、このトラウマの問題について広く脳科学的に論じてみたい。ちなみに本稿は「トラウマ」を身体ではなく、心、精神がこうむる外傷、という意味で用いることをお断りしておく。

 考えてみれば、私たちの生きる世界はトラウマの連続である。ロシア―ウクライナ戦争やパレスチナでの紛争を見る限り、毎日のように無辜の犠牲者が生まれている。改めて過去を振り返れば人類の歴史は戦争や殺戮、略奪、虐待の連続であった。しかしトラウマに関連する精神医学が注目を浴びるようになったのは1970年代ごろからである。今ではトラウマ関連障害としてPTSD(心的外傷後ストレス障害)や解離性障害、ないしは愛着障害が挙げらえているが、それまではトラウマが脳や心に深刻な障害を引き起こすという考え自体が関心を向けられていなかったという事情があるのである。

 前置きはそこそこにして「脳科学とトラウマ」である。まず問うてみよう。脳科学の進歩によりトラウマの精神医学はどのように変化したのであろうか? それは実に大きな変化をもたらした、というのがその答えである。そして結果的にトラウマという現象やそれを負った人々を救う手段も大きく進歩したと言っていいだろう。

  現代の精神医学では、トラウマとは脳における変化であると言いきっていいであろう。先ほどトラウマを「心がこうむる外傷」と述べたが、トラウマのありかは脳である。そしてそれが心の在り方に影響を与えるというわけだ。

 ところで脳の変化がトラウマを引き起こすという発想自体は、かなり前にさかのぼることが出来る。トラウマによる精神障害として初めて登場するのは、第一次世界大戦におけるいわゆる「シェルショック」という概念であったというのが定説だ。戦場の前線で砲弾や爆撃を間近に体験し、いつ命を奪われるかもしれない体験をした兵士たちが、全身の震え、パニックや逃避行動、不眠や歩行障害などの様々な心身の症状を示した。彼らの多くは頭部に直接外傷を負っていたというわけではない。これに対してチャールズマイヤーズという医学者がこのシェルショックという名前を付けた。シェル shell とは砲弾のことであるが、マイヤーズは砲弾が近くで炸裂した際にその衝撃波が脳を襲ったせいだと考えた。しかしこの説もやがて棄却される運命にあった。なぜなら症状を示す兵士の多くは近くでの砲弾の炸裂事態を経験していなかったからである。

 このシェルショックの原因の究明の仕方は、原因を脳の病変に求めるという意味では、いかにも「脳科学的」と言えるが、当時は精神の病そのものが必ず脳のどこかに病変があるものと考えられていた。19世紀にはじまる精神医学は生物学的であり、精神の病とは神経と脳の病気であるというグリージンガーの説を代表とするものであった。そう、今から二世紀前に精神医学者たちは脳に着目していたことになる。ただしその頃は脳の仕組みはほとんど知られていず、せいぜい解剖をして肉眼的にわかるような所見を想定する程度であったという点が現代的な脳科学的な見方とは大きく異なるものであった。

 ちなみにこの脳の衝撃波説は、2015年になりその信憑性を再発見する研究がなされている。(“Combat Veterans' Brains Reveal Hidden Damage from IED Blasts” (2015年1月14日). 2016年8月12日閲覧。)このように一度葬り去られた理論が生き返るのが科学の醍醐味である。


2023年12月27日水曜日

脳とトラウマ 4

 愛着の障害-記憶を超えたトラウマ

 この愛着とトラウマを脳のレベルでとらえた人物としてはアラン・ショアをあげることが出来るだろう。アランショアはUCLAの精神科で活躍する心理学博士(80歳)。精神分析、愛着理論、脳科学を統合する学術研究を発表している。特に「愛着トラウマ」の概念が知られている。欧米には関連領域について縦横無尽に研究をし、論文を発表する怪物のような人がいるが、アランショアもその様な人である。だから彼の理論を学ぶことは、精神医学、精神分析、脳科学、愛着理論のすべてを総合的に考えることが出来るという機会を与えられることになるのだ。

 ショアが特に強調したのは、愛着関係が成立する生後の一年間は、乳児はまだ右脳しか機能をはじめていないという事である。脳科学の発展とCTやMRIなどの画像機器の進歩は手を携えているが、後者は脳の機能はその成長に大きな左右差があるという事を示している。

 右脳は情緒的な反応、対人交流、共感等の機能を備えているが、それが大幅に成長するときに必要なのは母親との交流であり、そこでは母子が目を見つめ合い、情緒的なやり取りを行うという機会である。それにより右脳は耕され、開拓されていくという側面がある。右脳の機能が促進されると、乳児は母子一体となり、安全で満ち足りた状態となり、それは更なる右脳の機能の成熟、そして二歳半以降の左脳の成長へと繋がっていく。

 しかしその乳児の脳機能は、時々訪れる交感神経系の嵐によりしばしば一時に中断されることになる。それは授乳が行われずに空腹に晒されたり、触覚的な心地よさや温かさ、柔らかさが提供されなかったり、おむつを替えてもらえずに不快を感じ続けたり、外界からの過剰な刺激や見知らぬ人物からの脅威にさらされるといった、あらゆる生命体がその生存に際して直面する危機である。そしてそれらの不快から乳児を救い、必要なものを提供し、もとの満ち足りた状態へと導く母親の介入により、右脳の機能が取り戻され、その成長を継続することが出来る。

  ここでもしその様な愛着関係が提供されなかった場合、右脳はいわば耕作を放棄された荒れ地として残されてしまい、乳児は他者と関係性を持ったり、自分自身の自律神経機能を安定させたりする力をそれ以上成長させることなく、知性や理屈といった左脳の機能のみに頼った人生を歩まなくてはならない。そしてこのような形での養育の欠如もまた、トラウマなのである。なぜならそれは先ほどの定義の通り、「外的な要因により傷つけられることであり、それがのちの心の成長に不可逆的な影響を与えること」だからだ。しかしこれはあくまでも乳児が記憶を成立させる前に生じる出来事であり、トラウマ記憶なきトラウマという事が出来る。

2023年12月26日火曜日

脳とトラウマ 3

 臨床家の多くは脳で起きている現象は極めて微細なレベルだと思っていたが、最近の画像技術の進歩で発達障害を含む様々な精神疾患で脳の形態的、つまりマクロ的な異常(増大や委縮)が報告されている。報告者により報告は相違があることも多いが、これらの研究はトラウマがある種の重大な影響を脳のレベルで及ぼしていることを示唆しているのだ。

トラウマとは記憶の病理なのか


 トラウマと脳科学というテーマで始めたこの第11回目は、そこでカバーしておきたい内容を考えると、とても一回では語りつくせないという思いがある。この連載はその後に書籍化をしていただけるという事なので続きはそちらに回すとして、分かりやすい概説的な話にとどめたい。

 トラウマとは外的な要因により傷つけられることであり、それがのちの心の成長に不可逆的な影響を与えることである。それは全く元の状態に復元されたようで、実は瘢痕を残し、何らかの後遺症を残すことが特徴である。

 おそらくトラウマと脳の関係を論じる上で一つの有効な問いは、トラウマとは記憶の病理なのか、というものである。トラウマ関連疾患と言われるものの中での典型例は言うまでもなくPTSDである、そしてそのもっとも特徴的なのが、いわゆるフラッシュバックという現象である。フラッシュバックではトラウマの体験が実に生々しく、今ここで起きているようなリアリティをもって再現される。そして感情的、ないしは身体的な反応も復元される。つまりトラウマが起きた時の恐怖や不安が動悸や発汗や手足の小刻みな振るえなどと一緒に蘇ってくる。この体験は、単なるトラウマの記憶を思い出す、という現象とは明らかに異なる。敢えてこれを記憶と呼ぶなら、通常とは異なるもの、「トラウマ記憶」と呼ぶべきものなのである。

 トラウマ体験のもう一つの際立った特徴がある。それは通常の記憶の中に意識の中に順序良く折りたたまれておさまっているのではないという事だ。それは何かのトリガーにより、あるいはなんの前触れもなく襲ってくる。こうなると日常生活を平穏に送ることが出来なくなる。仕事をしていても家族とリラックスしていても突然フラッシュバックに襲われると、恐怖に身をすくませるしかなく、その時の活動は緊急停止せざるを得ない。すると今度はそれがいつ襲ってくるかが気になり、それに用心することに全エネルギーを注ぐことになる。

 このことからトラウマ体験とは、トラウマ記憶を形成するような体験とひとまず定義することが出来そうだ。

ちなみに以上のトラウマ記憶の性質は、上に示した図によりかなり明快に説明できる。そしてそれによりどのような治療薬が有効で、またそれ以外のどのような治療手段が考えられるかについての手がかりも与えられるのである。


記憶を超えたトラウマの存在


このようなトラウマ記憶に基づくトラウマ理論が新たな性質を帯びるようになったのは、愛着障害との関連がクローズアップされるようになってきたからであろう。ある種の衝撃的で苦痛や恐怖を伴った体験は確かにトラウマ記憶を形成する。しかし人が記憶を形成することが出来るのは、少なくとも大脳辺縁系の海馬という部分の成熟を待つ必要がある。つまり年齢で言うとだいたい4歳以降である。しかしそれ以前に被った被害もその後の心の成長過程を大きく左右することは古くは1940年代以降のボウルビーやスピッツ等により明らかにされてきた。トラウマを先ほどのように、「外的な要因により傷つけられることであり、それがのちの心の成長に不可逆的な影響を与えることである」とするならば、それは記憶が形成される以前にも生じうる。「トラウマ関連障害とはトラウマ記憶が形成されること」はトラウマの定義を狭く取り過ぎていたことになる。


2023年12月25日月曜日

脳とトラウマ 2

  このことから得られる教訓は、心的トラウマは器質的なトラウマとは別であり、それは脳に対する直接的な外傷によっては還元できない機序で生じることだという事である。しかしこのように言うと、私が先ほど行なった「トラウマの生じる場所は脳だ」という主張と食い違っていると思われるかもしれない。そこでこう言い直そう。トラウマの生じる場所は脳だと言っても、おそらくそれはミクロスコピックな、つまり顕微鏡レベルでしかわからないような微細な脳の変化を意味するのだ。脳全体が砲弾などにより振動したから其れが生じると言う、おおざっぱでマクロスコピック(巨視的な)変化を意味するわけではない。

 ここで読者をこれ以上混乱させるつもりはないが、最近脳全体が砲弾などの爆発によるある種の衝撃波を受けて異常をきたすというケースについても研究がなされるようになっている。つまりシェルショックは実はまんざら間違いではないケースもあるという事を意味している。このように一度は否定された理論がその後の研究により息を吹き返すという現象は、私達を混乱させるが、私自身は実に面白いと思っている。要するにいかなる理論や学説に付いても鵜吞みにするべきではない、常に例外の可能性を考えよ、という事を伝えているのだ。

 臨界状況としての脳

 トラウマの生じる場所は脳であるというテーゼ、ないしは主張は、脳科学の時代とも言える現代ではさほど違和感を感じることなく受け入れられるかもしれない。そして本書で以下に述べるように、トラウマにより脳は実に様々な変化を被るのだ。しかしそのことはほんの半世紀前は、決してすんなり受け入れられてはいなかった。心はもっと柔軟であり、様々な出来事に対応できるはずであり、心に大きな衝撃を与えられたとしても、それが脳のレベルでそれほど大きな変化を与えることなど考えられない、というのが大方の予想だった。トラウマによりPTSD等の反応を起こす人はごく一部であるから、その人の脳にはもともとなんらかの欠陥があったのではないか、と考える傾向の方が強かった。つまりPTSD症状を呈するのは、その人のせい、その人の自己責任、という考え方の方が主流だった。戦争や性被害はそれこそ人間がこの世に生まれてから常に存在していたはずなのに、今になってそれが取り上げられたのは常にトラウマの脳への深刻な影響が考えられていなかったからである。


2023年12月24日日曜日

未収録論文 20 トラウマの身体への刻印

 もう一つあった。2019年に発表したものである。探せばもっとあるかもしれない。

   解離-トラウマの身体への刻印

 臨床心理学特集 生きづらさ、傷つき-変容・回復・成長 19(1)pp31-35     

本稿ではトラウマがいかに身体的なレベルで継続的な影響を及ぼすかについて、特に解離の文脈から論じることを試みる。なお本稿で用いる「トラウマ」は精神的な外傷一般を表すことにする。

DSM-Ⅲ(1980)で正式に疾患概念として認められたPTSDpost-traumatic stress disorder、心的外傷後ストレス障害)の概念の前身として、すでにA. Kardinerら(1947)は「戦争神経症」を提唱していたが、そこには心的なストレスやトラウマに伴う身体症状が詳細に記載されていた。近年では医学的な技術の発展に伴い、それら身体症状の生じる脳生理学的なメカニズムも明らかにされつつある。本稿ではトラウマの身体表現について、以下の四種の項目を設け、解離症状との関連から論じたい。それらはフラッシュバックに伴うもの、転換症状、自律神経系の症状、その他、である。

1.  フラッシュバックに伴う身体症状

PTSDにおいて生じるフラッシュバックの機序は以下のように説明される(B. van der Kolk, 2015))。通常は知覚情報は、大脳皮質の一次感覚野から視床thalamusに送られ、そこでおおまかな意味が与えられる。たとえば森の中を歩いていたら、長い紐状のものが降ってきたとしよう。視床は「頭上から紐状のものが落下してくる、おそらくヘビだ!」などと認識し、その情報は即座に情動処理や記憶に関わる扁桃核amygdala に送られる。扁桃核はそれを危険と認識し、視床下部や脳幹に指令を発して、ストレスホルモン(コルチゾールとアドレナリン)を放出するとともに交感神経を刺激して動悸、頻脈、発汗、瞳孔の散大、骨格筋の緊張などを促すことで、闘争‐逃避反応の準備を整える。ここで特徴的なのは、視床からの情報は扁桃核とは別に大脳皮質にも送られ、そこでより詳細な処理が行われることである。これらは J. Ledeux1996)の研究により示された、high road low road という二つの経路により説明される。すなわち上述のように視床から扁桃核に伝わり、アラームが鳴らされる(low road)一方では、その情報はワンテンポ遅れて大脳の前頭皮質にも伝わり(high road)、そしてたとえば「なんだ、良く見直したら、やはり木の枝じゃないか」などの総合的な判断がなされた場合は逃走-逃避反応にストップをかける。

このlow roadによる扁桃核の興奮は、その情動部分の記憶とともに、海馬を強く抑制することで陳述的な記憶の部分の定着を阻害することが知られ、それがいわゆるトラウマ記憶を形成する。そしてこの興奮パターンが脳に刻印され、将来そのトラウマ状況を想起させる刺激によりそれが再現され、最初のトラウマ状況と同様の恐怖や不安や身体感覚を体験することになる。それがフラッシュバックである。

ちなみに最近では深刻なトラウマの際に、むしろ交感神経の活動低下と副交感神経の活動昂進による解離症状がみられるタイプが同定され、それはDSM-5において「解離症状を伴う」という特定項目を有したPTSDとして分類されることとなった。

2.「転換症状」としての身体症状

転換 conversionという用語自体は、S.フロイトが無意識の葛藤が身体レベルに転換されたと仮定して用いたものである。ただしその生じる詳細な機序については現在でもほとんど明らかにされていない。転換症状は極めて多彩な臨床症状として表現される可能性があるが、それを一言で表現するならば、機能的な(解離性の)神経学的症状となる。最初はしばしば神経内科や脳神経外科が扱うが、症状を呈している器官に器質的な原因が何ら見いだされないために「機能的」な(「解離性」の)神経学的症状として記載される以外にない。そして実際に最新の診断基準であるDSM-52013)およびICD-102018)では「転換性障害」にかわってそのような記載がなされる。更には従来用いられていた「心因性のpsychogenic 」という表現も、これらの診断基準では用いられていない。つまり「転換」症状に何らかの原因を求めることは留保される形になっているのだ。

ところでこの機能性神経症状において具体的に何が起きているのかを、失声の例で考えてみよう。人の脳は「声を出せ」という指令を、声帯や横隔膜などの随意筋に送ることで発声が生じるが、その指令を出す最終のレベルは運動野のすぐ隣に位置する運動前野である。そこから高次運動野を介して一次運動野に指令が渡ることになる。ところが運動前野には、解離されたほかの部位からも指令が伝えられる可能性がある。その部位は運動前野に向かって「声を出すな」と抑制をかけるかもしれない。そしてこのほかの部位からの抑制の命令を当人が知らないという事態が「転換」症状として起きているのである。

ちなみに「心の別の部位」については、精神分析的には無意識として説明されることになる。フロイトなら「仕事を休みたいという無意識的な願望」と考えたはずだ。そのような因果論的な説明を迂回するのが、これらの機能的、ないしは解離性、という呼び方なのである。

3.自律神経系を介する症状ポリベイガル・セオリー

トラウマは自律神経系を介して運動・感覚器官以外の様々な身体症状にかかわっている可能性がある。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、内臓器、一部の感覚器官を支配している。自律神経系は交感神経系と副交感(迷走)神経系からなるが、通常は両者の間で微妙なバランスが保たれており、それを意図的にコントロールすることは出来ない。そしてストレスやトラウマなどでこのバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れるのである。それはたとえば職場のストレスを抱える人が、出勤の途中で激しい眩暈と動悸、発汗を呈するといった形を取るかもしれない。そして内科や眼科、耳鼻科などを受診しても特定の診断は見いだせず、対症療法的な薬物の投与の上に精神科や心療内科の受診を勧められることになるだろう。


(以下略)


2023年12月23日土曜日

脳とトラウマ 1

結局かなり書き直しをしながら書くことになりそうな新著。「第1章 脳とトラウマ」はこんな感じで始める。

 本書はトラウマという問題について考え、トラウマを被った人々に対するこころの援助を考えることをテーマにしている。その冒頭の章として脳について論じる事にはそれなりの意味がある。それをひとことで言うならば、トラウマが生じる場所は脳だからなのだ。とはいえもちろんトラウマ、すなわち外傷は身体のどのレベルにも生じうる。
  トラウマは人類の歴史が始まって以来人を傷つけその健康を害する現象の一つとして、感染症などと共に常に関心を向けられていたことは言うまでもない。しかし心に被った外傷という意味でのトラウマ(最近では「トラウマ trauma 」という場合にそれにもっぱら限定されることが多いが)が注目されるようになったのは米国において1960~70年代になってからである。それが米国において1980年のDSM-ⅢにおいてPTSD(心的外傷後ストレス障害)として正式に疾患概念として確立したのである。PTSDの概念に先行するものとしては、例えば第一次大戦中のシェルショックであり、後に、第二次大戦後にエイブラム・カーディナーが外傷神経症、戦争ストレスと神経症などの著作により、一般に戦争神経症と言われる概念の先駆けとなった。
  ただしこのシェルショックの概念は必ずしもトラウマの位置を脳には限定していなかった。その一歩手前だったと言えるだろう。1917年に英国の心理学者チャールズ・マイヤーがこれを唱えた時、実は砲弾が空中を飛翔する際に生じる衝撃波が兵士の脳に影響を及ぼすと考えていた。だからこそ後に砲弾の飛び交う前線に居合わせなくても同様に精神を病む人々を目にして、この考えは訂正される必要に迫られるという歴史があったのだ。

2023年12月22日金曜日

次の本

 この1,2年の間に私が書いた論考や行った講演は、トラウマと脳科学に関係したものが大変多くなっている。全部で22篇になるが、全体を通してトラウマという視点でリライトすることで本になるかもしれないと考えた。
 下の表がそのテーマと掲載誌、ないしは発表した学会など、その下に「目次」としてそれらをもとに執筆する章のタイトル、そして主として用いる論文を括弧に入れた。

トラウマ ― ポリヴェーガル理論と感情  臨床心理学 第20巻3号 感情の科学 pp. 287-290, 金剛出版,2020

脳科学から見た子供の心の臨床  2023年11月26日 日本小児精神神経学会 特別講演

脳科学の立場からウィニコットを読む ウィニコットフォーラム特別講演 2023年11月23日

改めて治療者の「資質」について考える 精神療法 vol.49.No3. pp.320-321. 巻頭言 金剛出版

パーソナリティ障害とCPTSDについて考える 精神療法 (2021)47 (4), pp478-480 金剛出版に発表    

現代的な視点からの心身問題 2023年7月1日 心身医学会基調講演パシフィコ横浜の日本心身医学会の「教育講演」

男性のトラウマ性 2023年8月6日 社会的トラウマと精神分析シンポジウムで発表

解離性健忘  「今日の精神科治療ハンドブック」 精神科治療学36巻 2021年10月 項目「解離性健忘」

複雑系としての脳と心  2022年12月10日日本認知科学会・冬のシンポジウムの招待講演

感情と精神療法 精神療法 49(2).159-163,2023

心理療法における共感の意義 KIPPセミナー 2023年4月16日の内容をもとに

共感の脳科学 祖父江典人・細澤仁 編著 (2023) 寄り添うことのむずかしさ 心の援助と「共感」の壁 木立の文庫  に所収 pp.169-186

嫌悪の精神病理 こころの科学 220 嫌悪 ネガティブな感情はなぜ生じるのか pp.27-34、2021 

羞恥からパラノイアに至るプロセス 臨床心理学 23 (4), 401-407, 2023

「意識」についてのエッセイ精神療法 49 (5), 691-693, 2023

心のフラクタル性について学術通信 122 11-24-2020 

脳と心のあいだを揺らぐこと 精神療法 46(4) , 503-505. 2023

オンラインと精神療法、精神分析 日本精神分析協会 令和3年度大会

 シンポジウム;オンライン・精神分析の実践と訓練の可能性

パーソナリティ障害とCPTSD 精神療法 特集 複雑性PTSDを知る : 総論,実態,各種病態との関連. 47 (4), 478-480, 2021-08、2021 金剛出版

蘇った記憶、偽りの記憶「精神科治療学」編集委員会 編 37 (4), 415-422, 2022 

コロナと心理臨床 京大事例紀要 2021年度 巻頭言

発達障害とパーソナリティ障害 精神医学  65 (5), 679-681, 2023


目次
総論;トラウマと脳、心

脳とトラウマ  (複雑系としての脳と心)(「意識」についてのエッセイ) (心のフラクタル性について)(脳と心のあいだを揺らぐこと)

愛着期のトラウマ(脳科学から見た子供の心の臨床)


トラウマとさまざまな病理


トラウマと内臓の病理 (トラウマ ― ポリヴェーガル理論と感情)

トラウマと心身の病理 (現代的な心身問題)

トラウマと記憶の病理 (解離性健忘)(蘇った記憶、偽りの記憶)

トラウマと感情の病理 (感情と精神療法)

トラウマと嫌悪の病理 (嫌悪の精神病理)

トラウマとパーソナリティの病理 (パーソナリティ障害とCPTSDについて考える)

トラウマと発達障害の病理 (羞恥からパラノイアに至るプロセス)(発達障害とパーソナリティ障害)

トラウマと男性性( 男性のトラウマ性)


トラウマを扱う治療者の心得


トラウマと治療者の共感 (心理療法における共感の意義)(共感の脳科学)

トラウマを扱うこころの理論 (脳科学の立場からウィニコットを読む)

トラウマを扱う治療者の資質 (脳の時代の治療者の「資質」とは何か?)


付章

コロナというトラウマと心理療法 (コロナと心理臨床)(オンラインと精神療法、精神分析

2023年12月21日木曜日

ウィニコットとトラウマ 8

 ウィニコットが実際に解離のケースをどのように扱ったかについては議論が多いであろう。ただし私は彼が 「遊びと現実」(1971)の中の「男性と女性に見出されるべき、スプリットオフされた男性と女性の部分」(p.72∼74) で紹介しているのは、事実上DIDのケースと言っていいのではないかと思う。そこでの彼の記述を抜粋してみよう。
「患者は中年の既婚の男性であった。・・・彼は数多くの分析家と長い間治療を行ってきた。・・・しかし彼の中の何かが分析を終わらせなかった。・・・今この時期に新しいことが起きていた。・・・金曜日のセッションで、患者はペニス羨望の話をした。私は「女の子の話を聞いていますよ。あなたが男性であることはよく知っていますが、私は女の子の話を聞き、そしてその女の子に話しかけています・・・」すると患者は「誰かにこの女の子について話したら、私は狂っていると思われてしまいます。」
これに対してウィニコットは「私との転移の中で、狂っているのは私の方です。あなたが私に投影している母親は、あなたが生まれた時に、あなたを女の赤ん坊として扱っていたからです。」と解釈をした。患者は「これで狂気の環境の中で、私は正気だと感じました。・・・ 私自身は自分を女の子だとは呼びませんが、…あなたは私の二つの部分に話しかけてくれたのです。」
ただしこの症例の中でウィニコットは患者が女の子の人格を持つに至った経緯を解釈しているということが出来るだろう。すなわちそれは母親が持っていた狂気、すなわち男性の患者が小さい頃に妄想の中で女の子として見なしていたせいであると考えたわけである。

本発表のまとめ
 最後に本発表の骨子をまとめてみよう。ウィニコットの関心は恐らく初期から、発達トラウマがいかに生じ、それをいかに取り扱うかに向けられていた。
 しかしおそらくウィニコットのトラウマや解離の概念はその晩年に最終的な形にまで練り上げられたのである。そして彼は最晩年になり、精神分析においては愛着期のトラウマや解離が主要テーマとなるべく革命 revolution が起きるべきであるとまで言ったのだ。
 そして彼は最晩年の論文「ブレイクダウンの恐れ」において、トラウマ(ブレイクダウン、母子関係の破綻)はそれがすでに起きたがまだ体験されていない出来事である。それは抑圧の成立する以前の解離の病理と言えること。トラウマは、転移の中で治療者の失敗を通して体験され、扱われること。解離は凝集する前の部分が親の仕返しや狂気によりスプリットオフされるという事により生じること。そしてその部分は治療者により目撃され、扱われなくてはならないという事を強調した。

2023年12月20日水曜日

ウィニコットとトラウマ 7

 ウィニコットと解離の概念

ウィニコットの晩年のトラウマ理論としてとり上げるもう一つの素材は、最晩年の未公開ノート(1971)からである。そしてこれはウィニコットが持っていた解離に関する考えを示しているものと思われる。

その冒頭でウィニコットは次のように言う。

「私は私たちの仕事について一種の革命 revolution を望んでいる。私達が行っていることを考えてみよう。抑圧された無意識を扱う時は、私達は患者や確立された防衛と共謀しているのだ。しかし患者が自己分析によっては作業出来ない以上、部分が全体になっていくのを誰かが見守らなくてはならない。(中略)多くの素晴らしい分析によくある失敗は、見た目は全体としての人seemingly a whole person に明らかに防衛として生じている抑圧に関連した素材に隠されている、患者の解離に関わっているのだ。」(Winnicott, quoted by Abram,2013, p.313,下線は岡野)

ここでもウィニコットの過激さが目立っている。抑圧された無意識を扱うことはすなわちフロイト以来の伝統である。しかしそれに対して彼は革命をもたらそうとしている。ある意味ではフロイトに真っ向から反旗を翻すことになる、と考えるのは私の持っているバイアスだろうか。

「私の考えでは、自己 self (自我、ではなく)は、私自身であり、その全体性は発達プロセスにおける操作を基礎とする全体性を有している。しかし同時に自己は部分を有し、実はそれらの部分により構成されているのだ。それらの部分は発達プロセスにおける操作により内側から外側へという方向で凝集していくが、それは抱えて扱ってくれる人間の環境により助けられなくてはならない(特に最初において最大限に、である。)」Winnicott (1971) Le corps et le self, V.N.Smirnoff trans. [Body and self] Nouv Rev Psychanal 3:15-51.

この文章ウィニコットはもいちいちフロイトの概念との違いを強調しているように見える。そしてここでウィニコットの持つ心の発達モデルが示され、これが解離とどのように結びつくかが伺える。すなわち解離とはこの凝集されずに残った部分に関連するのであろうか。

ところで心の断片は内側から外側に凝集していくという意味を考えると、それはあくまでも乳児の側からの凝集であり、外側の、母親の侵害に合わせた価値での偽りの自己としての凝集とは異なるという事が分かる。

2023年12月19日火曜日

ウィニコットとトラウマ 6

 ここでウィニコットの本論文でもっと重要でかつ謎めいたテーゼが繰り返される。「ブレイクダウンへの恐れとは、すでに起きてしまったそれへの恐れである。」(p.104)そして言う。「それが隠されているのは無意識にであるが、それは「抑圧された無意識」という意味ではない。」(p.104)  これはきわめて挑戦的とも言える文章だ。無意識とはフロイトの理論の根幹に存在する概念である。そしてそれと抑圧の機制は切っても切れない関係にある。抑圧されたものが無意識を構成するからだ。そして「抑圧された無意識」ではない」という事で、自分がここでいう無意識は、フロイトのそれではないと言っているのだ。このようにウィニコットはフロイトのタームを用いながらも、そこに別の意味を付与するという事が非常に多い。

そしてウィニコットはこの原初的なトラウマ、苦悩が今後どのように治療的に扱われていくかについて次のように述べる。「原初的な苦悩という最初の体験は、自我がそれをまとめて現在形で取り入れ、全能的なコントロール下におくことでしか、過去形になって行かない。つまり患者はまだ体験されていない過去の詳細を、将来において探索し続けなくてはならない。」(p.105)

これはすぐに治療論に結びつくような言い方である。そして治療者がこれらの事情をよく了解していることがとても重要になる。「治療者はその[ブレイクダウンの]詳細が事実である事を前提にしてうまく扱わない限り、患者はそうすることを恐れ続ける。」(p.105)ただし治療者はこの患者の通常の記憶には含まれていない、いわば解離されているブレイクダウンの記憶を知り、それを前提として治療を進めるにはどうしたらいいか。そのことが極めて重要になる。

 そしてウィニコットはこう述べる。「もしこの奇妙な類の真実(まだ経験していないそのことがすでに過去において起きたということ)を、患者が受け入れる用意があるなら、治療者との転移関係の中でそれを体験する道が開ける。」(p.105)

 つまりこの論文でウィニコットが語っている事実、すなわち患者はその「すでに起きたことを体験していない」という事を治療者の側がいかに理解しているかが重要になる。ではそこでどのような治療が展開されるのであろうか。

 そのことをウィニコットが彼らしい皮肉交じりの文章で示しているのか以下である。

「それ[原初的な苦悩]は分析家の失敗や間違いに対する反応としての転移の中で体験される。それは過剰ではない分量で扱うことが出来、患者は分析家のそれ等の技法的な誤りを逆転移として納得するのだ。」(p.105)

 一見サラッと読み過ごしてしまいやすいかも知れない。しかしここで語られていることは当時常識とされてきた治療論に真っ向から反する内容である。捉えようによってはきわめて過激である。

 まず患者は分析家の失敗に対する反応として転移を起こすというが、普通は転移はブランクスクリーン的な治療者に対して患者が抱くものである。ところがウィニコットの言い方だと、転移は治療者の逆転移のアクティングアウトに対する反応、という事になる。これはある意味では最も現代的で、従来の伝統的な精神分析の教義に対するアンチテーゼを含んだ考え方である。(ホフマンの著書「精神分析過程における儀式と自発性」(岡野、小林稜訳、金剛出版、2017年)の第4章に「分析家の経験の解釈者としての患者」という野心的な論文があるが、これと同様の発想である。そしてさらに、患者はそれを技法の誤りによる逆転移として受け入れるためには、治療者の側にその覚悟がなくてはならない。ウィニコットは、「私は自分の理解の限界を患者に知ってもらうために解釈を行っていると考えている」(「対象の使用と同一化を通して関係すること」(1968))あるいは「解釈の重要な機能は、分析家の理解には限界がある事を示すことである」(「交流することとしないことから導かれるある対立点の検討」1963年)という言い方をしているが、これなども解釈偏重の考え方に対する彼のアンチテーゼと言えるだろう。


 さてこれまでに述べたことを現代的な視点からとらえ直してみたい。

「すでに起きたが体験されていないブレイクダウン」とは自我や抑圧の機制が始まる以前のトラウマと考えることが出来る。すなわち愛着形成期のトラウマ(愛着トラウマ、Schore)に相当するであろう。そしてこれは乳児期のまだ右脳しか機能していない時期に生じ、また自他の区別がつかず、過去も未来もない。この時期に生じたトラウマは前言語的、「無意識的」にしか体験できない。その無意識は、フロイトの用いた意味とは異なる「無意識」であり、そこに生じるのは抑圧ではなく解離である。


2023年12月18日月曜日

ウィニコットとトラウマ 5

前回話題に上ったのがこの本(Abram, J. ed. Donald Winnicott Today, Routledge, 2013.)である。

今回は晩年のウィニコットのトラウマ理論である「ブレイクダウンへの恐れ Fear of Breakdown 」(1974) についてである。
 これはウィニコットの死の直前に書いたものであるが、どこにも掲載されずにいた。そして奥さんのクララがその発表に関与した論文である。ウィニコットがその発行に思いを寄せていたInternational Review of psychoanalysis 誌の創刊号に掲載されることになった。この論文には晩年に彼が考えていたことを濃縮した形で著した論文と言え、ここで彼が書いていることもかなり過激である。ウィニコットは言う。「最近になり、ブレイクダウンへの恐れへの理解についての新たな理解に至った。ブレイクダウンとは防衛組織の破綻を意味する。それは考えることのできない状態である。要するに累積外傷をどう治療するかという事について、それは従来の分析とは異なるという主張をしようとしている。ここでフロイトはブレイクダウンの意味として、「防護壁」というフロイトが用いた概念を踏襲しているが、実際にはブレイクダウンとは母子の絆の破綻という事を意味している。
この論文でウィニコットが述べていることを幾つか取り上げてみよう。
「発達は促進的な環境により提供され、それは抱えること holding、取り扱うこと handling、そして対象を提供すること object-presenting へと進む」(p.104)。そしてこの中でも彼が最も注目するのが、最初の「抱えること」により成立する「絶対的な依存」についてである。ここにおいては、母親は補助的な自我機能を提供するが、そこでは赤ん坊においては me と not-me は区別されない。その区別は me の確立なしにはできないのだ。」
 ここでウィニコットが描いている世界は実はきわめて深遠で、そしておそらく言葉では表現が出来ない世界である。何しろ乳児は母親に抱えられていながら、自分と母親の境目を知らない。つまり本当の意味で母子一体となっていることになる。そしてその母親とのきずなが断たれた状態は、おそらく乳児にとっては何が起きているのか考えられないもの unthinkable )(p.104)。である。それをウィニコットは原初的な苦悩 primitive agonyと呼び、次のように表現している。すなわちそれは「不安どころではないもの anxiety is not a strong word」、
そしてさらに具体的に解説する。すなわち原初的な苦悩 primitive agony において起きる事とは・・・・。
①「未統合の状態への回帰(防衛としての解体 disintegration)」 (この詳しい意味は、ウィニコットの未統合から統合に至るプロセスの理解が必要である。しかしともかくもここで言い表されているのは、絶対的依存期においてそれまでバラバラであった自己が統合しかけていたプロセスが、逆戻りしてしまうという事を表している。ただそれは単なる逆戻りというよりは、解体という一種の防衛として描かれているという事だ。つまり単純な逆戻りというよりは積極的にバラバラになるプロセスを指す。つまりA+B+Cが、Dに統合されかけていた際に、、それが単にAとBとCに戻るというよりは、D1.D.2.D.3という風にバラバラになるという事を意味するのかもしれない。
②「永遠に墜ちること(その防衛としての、自分で自分を抱えること)」 これはまさに母親に抱えられていないことに直接的に由来していると言えるだろう。この頃の乳児はそれこそ宇宙と一体となっている大洋感情に似た体験を有しているのであり、その限界を与えているのはおそらく外的な存在としての母親の手であり、体であろう。その存在がなくなることで乳児が自分で自分を抱える事とは、例えば自己刺激等があるのだろうか。
③「心身的な共謀を失うこと」原文では psychosomatic collusion であるが、この意味は私には不明と言わざるを得ない。
④「現実感覚がないこと」(p.104)。そして結果として乳児は現実感覚が得られない、いわば離人症的な体験を持つことになるとされる。

2023年12月17日日曜日

ウィニコットとトラウマ 4

 


 例えばこの図は「メンタライゼーションと境界パーソナリティ障害」Aベイトマン/P.フォナギー 狩野力八郎、白波瀬丈一郎監訳 岩崎学術出版社 2008年 の p.111 に掲載された図であるが、左側の円の中の斜線を施された楕円の部分が乳児が映し出されるはずなのに、母親由来のそれ以外のものが映っている状態と考えることが出来る。これが「ミラーリングの部分的失敗」として図中で説明されているが、このミラーという言葉はまさに、先ほど紹介したウィニコットの論文に出てくる「母親の鏡の機能」という表現に由来する。(Mirror-role of Mother and Family in Child Development. 子供の発達における母親の鏡の機能 (in) Playing and Reality, 1971.これをたとえばコフートの言うミラーリングに由来したものと考えがちであるが、そうではない。そしてそれは子供の心に映し出された際に、その中の異物的な存在として意味を持ち始めるのだ。ここで話している内容と一緒である。
 さて次に私がお話したいのは、今日の本題とも言うべき部分である。アブラム先生はドナルドウィニコットトゥデイで次のように言っている。「ウィニコットの最晩年の非公開の手記には、彼の解離、憎しみ、男性と女性の要素、対象の使用、退行などについての最終的な考えが示されている」。 (*Abram, J (2013) Donald Winnicott Today)

そしてその意味で重要となるのは次の二つの論文なのである。これらはいずれもウィニコットの死後に発表されたものという意味では共通しているのだ。そしてそこで彼は「尖った」部分を目いっぱいに発揮しているのである。


1.ブレイクダウンへの恐れ Fear of Breakdown (1974

  2.未公開ノート(1971, Abram *による)


2023年12月16日土曜日

未収録論文 19 ポリヴェーガル理論と感情

まだ見つかった。これなども一度書いたきり、自分でも読み返さなかったであろう原稿だ。

トラウマ ― ポリヴェーガル理論と感情

臨床心理学 第20巻3号 感情の科学 pp. 287-290, 金剛出版

  本稿では「トラウマ ― ポリヴェーガル理論と感情」というテーマについて論じる。
最近のトラウマに関連する欧米の文献で、「ボリヴェーガル理論 Polyvagal theory」に言及しないものを見ないことはほとんどないという印象を受ける。それほどにこの理論は、トラウマ関連のみならず、解離性障害、愛着関連など、様々な分野に関わり、また強い影響を及ぼしている。Stephen Porges という米国の生理学者が1990年代から提唱しているこの理論は一体どのようなものであり、どのようにトラウマや感情の問題に関連しているのであろうか。それを論じることは簡単ではないが、輪郭だけでも示すことで、この理論が私たちに感情についての新たな見地を提供してくれる可能性を示すことが出来るのではないかと考える。
Porgesの業績(Porges, 2003, 2007, 2011, 2017)は、従来は交感神経系と副交感神経(迷走神経)系のバランスによるホメオスタシスの維持という文脈で語られていた自律神経系に新たな「腹側迷走神経複合体」の概念の導入を行い、それを「社会神経系」としてとらえ、神経系の包括的かつ系統発生的な理解を推し進めたことにある。この腹側迷走神経複合体は、自律神経系の中でこれまで認知されずにいたもう一つの神経系として彼が命名して記述し、注意を喚起したものである。自律神経系でありながら、なぜこれを「社会神経系」と呼ぶかと言えば、他者との交流は身体感覚や感情と不可分であり、それを主として担っているのがこの神経系と考えられるからだ。つまり自己と他者が互いの気持ちを汲み、癒しを与え合う際に重要な働きを行うのが、この腹側迷走神経複合体というわけである。そしてこの神経複合体を、従来から知られている交感神経系や背側迷走神経系(従来考えられていた迷走神経系)との複雑な関わり合いを含め包括的に論じるのが、このポリヴェーガル理論なのである。
このポリヴェーガル理論の解説に入る前に、近年の身体と感情についての一連の知見について概観しておく。

身体、感情、脳科学、トラウマ

私たちの認知的な活動と感情や知覚及び身体感覚は、体験に際して分離しがたい形で関与している。臨床的な立場からは、一方ではうつ病などの感情障害が様々な身体症状を呈し、他方では認知的なアプローチがうつ症状や強迫症状に影響を及ぼすことが経験される。またストレスやトラウマが様々な身体症状を生むことも臨床例を通して体験している。いわゆる心身症や身体表現性障害は身体科によっても精神科によっても十分に対処しきれない多くの問題を私たちに提起し続けている。心身相関の詳細な機序は現代の医学においてもほとんど解明されていないといっても過言ではないであろう。
その中で近年、心身相関の問題に関して一つの重要な仮説を提唱したのが、脳生理学者Antonio Damasio(1994,2003)である。彼は私たちが何らかの決断を行う際に、選択対象の価値を示すマーカー(指標)として感情や身体感覚が働くという説を提唱した。これが本特集でも取り上げられているソマティックマーカー仮説(Damasio, 1994)である。そしてそれを生み出す脳生理学的な基盤として、Damasio は脳と身体感覚のループ body loop を想定する。そこでは体験に際して知性と感情との相関の中で情報処理がおこなわれ、またそれが将来再び起きると予測される際には、「かのような」ループ "as if" loop によるシミュレーションが行われるという。Damasioによればこのループは扁桃核、腹内側前頭前野、体性感覚野などと身体感覚を結ぶ経路であり、それらが注意とワーキングメモリの機能を担う背外側前頭前野を介して連合するとされる。
Damasioが特に注目したのは、前頭葉にダメージを受けた人がしばしば適切な決断を下す能力を失うという所見である。彼は前頭眼窩皮質のなかでも特に腹内側前頭前野が損なわれた際、知能テストには影響を及ぼさないものの、ある決断を下す際に困難さが生じることをアイオワ・ギャンブリング課題等を用いて見出した。これは人間が判断を行う際に、それが一見理性的で認知的なものと見なされても、そこには感情や身体感覚に基づく「虫の知らせ」が大きく関与していることの傍証とされた。
ちなみに最近の脳研究では、このボディループにおいて島皮質が重要な役割を果たしているという報告もある(梅田, 2016)。梅田は感情状態と身体状態の両方の課題で、活動が共通してみられる部位が島皮質であること、その意味では感情を体験するときは、身体状態も「込み」であることを指摘している。
トラウマやPTSDについての研究は、それがいかに愛着のプロセスに深く関連した生理学的(右脳的、Schore, 2009)な基盤を有するかについての知見を提供している。トラウマ体験は一種の身体的な嗜癖のような性質を有することもあり、バンジージャンプ、サワナ浴、マラソンなどで当初はむしろ不快を覚える行為を継続することで快感につながるという研究(van der Kolk, 2015)が示唆的である。近年の解離に関する知見もまたトラウマと感情について理解を深めるうえで重要である。解離においては特に背側迷走神経複合体が賦活され、いわゆる凍り付きfreezingが生じ、感情や記憶はむしろ身体レベルで保存されることになるが、この様な事情について、van der Kolkは「身体がトラウマを記録する」といみじくも表現している。

ポリヴェーガル理論とトラウマ

Porges の唱えたポリヴェーガル理論は、自律神経系の詳細な生理学的研究に基礎を置く極めて包括的な議論であり、上述の心身相関に関する新たな理論的基盤を提供する。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、内臓器、一部の感覚器官を支配する。通常は交感神経系と副交感(迷走)神経系との間で微妙なバランスが保たれているが、ストレスやトラウマなどでこのバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れると考えられる。その意味で自律神経に関する議論はその全体がトラウマ理論としてとらえることも出来よう。
 Porgesの説を概観するならば、系統発達学的には神経制御のシステムは三つのステージを経ているという。第一段階は無髄神経系による内臓迷走神経で、これは消化や排泄を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経複合体(dorsal vagal comlex,DVC)の機能である。そして第二の段階はいわゆる闘争・逃避反応に深くかかわる交感神経系である。
Porgesの理論の独創性は、哺乳類で発達を遂げた第三の段階の有髄迷走神経である腹側迷走神経(ventral vagal comlex,VVC)についての記述にあった。VVCは環境との関係を保ったり絶ったりする際に心臓の拍出量を迅速に統御するだけでなく、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。私たちは通常の生活の中では、概ね平静にふるまうことが出来るが、それはストレスが許容範囲内に収まっているからだ。そしてその際はVVCを介して心を落ち着かせ和ませてくれる他者の存在などにより呼吸や心拍数が静まり、心が安定する。ところがそれ以上の刺激になると、上述の交感神経系を媒介とする闘争-逃避反応やDVCによる凍りつきなどが生じるのである。このようにPorgesの論じたVVCは、私たちがトラウマに対する反応を回避する際にも自律神経系が重要な働きを行っているという点を示したのである。

(以下略)

2023年12月15日金曜日

ウィニコットとトラウマ 3

 さてウィニコットのトラウマ理論については大きく二つの時期に分けて論じることにする。まずはウィニコットの弟子のマスッド・カーン(1963)により概念化された累積外傷 Cumulative Trauma 理論に表されるものである。これはすなわち乳児の絶対的依存の段階において「母親の防護障壁としての役割が侵害されること」という事とされている。
 そしてさらには晩年のウィニコットが深化させたトラウマ理論が極めて興味深く、本発表の主たるテーマとなる。
(Kahn M. (1963)The Concept of Cumulative Trauma)
 ウィニコットの作品の集大成である「遊ぶことと現実 Playing and Reality」(1971)に収められている「子供の発達における母親の鏡の機能 Mirror-role of Mother and Family in Child Development にその要旨が書かれている。ただしその意図はあまりわかりやすいとは言えないだろう。
「(乳児が自分を見出す)鏡の前駆体は母親の顔である。・・・しかしラカンの「鏡像段階(1936)」は母親の顔との関係を考慮していなかった。」(p.111) これは比較的わかりやすいだろう。そして彼がラカンを意識していることが興味深い。
「最初は乳児は母親に抱えられて全能感を体験するが、対象はまだ自分から分かれていない。」(p.111)
「乳児は母親の顔に何を見出すのか?それは乳児自身なのである。母親が乳児を見つめている時、母親がどの様に見えるかは、彼女がそこに何を見ているかに関係するのだ。」(p.112)
この二つの引用には私たちは戸惑うかもしれない。母親が乳児の顔を映し出す、というのは分かるが、その乳児にとっては対象は存在していない。という事は目の前の顔が母親(自分とは異なる他者)としては認識されないという事になる。そして母親の顔は自分であるという体験を乳児は持つというのだ。そしてその役割を果たす母親と言えば、恐らく原初的な没頭により、自然と乳児の顔をまねているのだ。おそらく現代的な知見を得ている私達なら、ミラーニューロンの関与をそこに見出だすかもしれない。そしてウィニコットは言う。「私の症例では、母親は自分の気分を、さらには自分の硬直した防衛をその顔に反映させる。」「その様な場合赤ん坊は母親の顔に自分自身を見ることが出来ないのだ。」(p.112)
 つまりそこに自分の感情を提示する母親はその愛着関係の成立を阻害する可能性があるのだろう。これは精神分析の文脈に引き付けるのであれば、逆転移の表現、ないしはウィニコットの言う「報復」の表れと言えるかもしれない。
 ちなみにこのウィニコットの提起した「母親の鏡の役割」は愛着理論における情動同調 affect attunement やメンタライゼーション理論に継承されていると言えるだろう。養育者によるミラーリング(乳児の情緒をまねること)は子供の自己発達において鍵と考えられている。 (Meltzoff, Schneider-Rosen, Mitchell など)
 メンタライゼーションを提唱するフォナギーにとってもこの文脈は非常に重要な意味を持つ。鏡の役割の不全は乳児に深刻な問題を起こすからだ(偽りの自己、よそ者自己などの概念により理論化されている。)