2023年11月30日木曜日

未収録論文 7 意識について

 「意識」についてのエッセイ                         

 精神療法 49 (5), 691-693, 2023-10

 

はじめに

 

 今回この「意識」というテーマで文章を書くにあたり、現在非常に大きく取り沙汰されている生成AIについて最初に触れないわけにはいかない。というのも意識や心について考える際、それが生成AIにおいてもすでに存在し得るのではないかという疑問や関心はこれまで以上に高まっているからである。

昨年Googleの社員であったブレイク・ルモイン氏が、同社の対話型言語AI「LaMDA」がとうとう心を持つに至ったという報告を行った。

(Google AI 'is sentient,' software engineer claims before being suspended By Brandon Specktor published June 14, 2022)

 この発言がきっかけでGoogle社を解雇されたというルモイン氏の後日談は特に聞かないが、すくなくともしばらく前なら、心を持った存在にしか可能と思えなかったことを、現在の生成AIは行っているように思える。

私はこれまで、ある事柄を「理解する」ことは、人間の心にしか出来ない芸当だと考えてきた。私が言う「理解する」とは、その事柄について言い換えたり要約したり、それに関するいろいろな角度からの質問に答えることが出来るということである。要するに頭の中でその内容を自在に「取り廻す」ことが出来ることだ。例えば学生があるテーマについてきちんと理解することなく、ネットで拾える専門的な情報のコピペでレポートを作成したとする。彼はそのテーマについて頭の中で自在に取り廻すことが出来ないから、ちょっと口頭試問をしただけですぐに馬脚を現わしてしまうわけだ。

 ところが現在生成AIがなし得えていることはどうだろうか? あるテーマについて、内容を要約したり、子供に分かるようにかみ砕いて説明したり、それについての試験問題を作成することさえできるのだ。

 

Ⅰ 知性と心

 

この様な生成AIは少なくとも知性intelligence を有すると言えるかもしれない。いわゆるチューリングテストには合格すると考えていいのではないか。(まだ時々頓珍漢な答えが出てくるとしても、現在のAIのすさまじい成長速度を考えれば、愛嬌に等しいのではないだろうか。)

 ただしその様な生成AIが心を有しているためには、もう一つの重要な条件を満たさなくてはならない。それは主観性を備えているか、という点だ。たとえば景色を「美しい」と感じるようなクオリアの体験を有するかということである。そして現時点では、生成AIに知性はあっても主観性は有さない、というのが一つの常識的な見解であろう。(少なくとも私はそう考えている。私は折に触れてChat GPTに「あなたには心や主観性があるのですか?」と尋ねるが、「私には心はありません。」というゼロ回答ばかりである。)

そこで最近のクオリア論について少し調べてみると、かなり「脳科学的」であることに改めて驚く。クオリアは物理現象、たとえば神経細胞の興奮の結果として生じるという捉え方が主流となっているようだ。そして私たちが主観的に体験するあらゆる表象は、脳の物理的な状態に随伴して生じているもの(「随伴現象epiphenomenon」)に過ぎない、というのが、いわゆる「物理主義的」な立場である。

もちろんこの立場にはDavid Charmersらによる二元論的な立場からの反論もある。つまりクオリアの問題は物理学には還元できない本質を含んでいるという立場だ。しかしこのクオリア論争を少し調べてみようとすると、あまりに錯綜していて頭がくらくらしそうになる。そこでその代わりに前野隆司氏の理論に沿って考えたい。彼の説はクオリアにまつわる頭の痛くなるような議論を颯爽と回避しつつ、このテーマについての有用な指針を提供してくれるのだ。


以下略



2023年11月29日水曜日

未収録論文 6 心のフラクタル性について

  心のフラクタル性について

学術通信 122 11242020     

フラクタルとは?

この秋に「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。二年かけた書下ろしで、これでやっと肩の荷が下りたというわけだが、しばらく「揺らぎ」について考え続けていたせいで余韻が残っている。特に、この本に書いたフラクタルというテーマが最近は気になってきた。

私はもう還暦をとうに過ぎたが、物覚えがますます悪くなる一方で、いろいろなことへの関心はかえって深まっている気がする。それらはどれも、若いころは気にも留めていなかったことばかりである。なぜ生命が誕生できたのか。進化はいかにして生じるのか。遺伝と環境はどのようにかかわっているのか。意識とは何か。あるいはなぜ人はこれほどまでに理解しえないのか。

一つ気が付いたことがある。私が疑問に思い、かつ興味を抱くこれらのことは、決まって「フラクタル的」なのである。つまりきわめて複雑な入れ子状になっているのだ。ある問題について理解しようと思い、大体はつかめたつもりになっても、その詳細を分かろうとすると、さらに深い森に迷い込んだ気になる。そしてそのまた一部について調べると、そこからも鬱蒼とした森が広がっている。どの方向のどのレベルに降りて行っても、そこにはまた森があるのだ。これが私が言う「フラクタル的」ということだ。(フラクタルとは、縮尺を変えても同じ模様が見え続ける、いわゆる自己相似性のことを指す。)

極小の世界ばかりではない。今では一枚で数ギガのサイズの銀河の最高画質写真をネットでダウンロードして見ることが出来る。するとその一部の何もなさそうな空間を拡大していくと、星が新たに湧いて出てくる。こちらの方向にもフラクタルが存在する。(もちろん画像である限りは最後には無機的で単純な四角いピクセルに行きついてしまうが。)そして世界のフラクタル的な成り立ちを教えてくれるのが現代の科学の進歩である。

フラクタル性は美的感覚とも関係する。巧みな画家の描く線には、その一本一本に意味合いが込められていることを感じる。文豪と呼ばれる人々の用いる細かい言葉のひとつひとつに深い味わいがある。これらも「フラクタル的」であり、絵や書を鑑賞する人はその細部にまで世界が宿っていることを感じ、だからこそ一枚の作品を長い時間をかけて鑑賞するのだ。逆に素人の描写は細部に味わいがないので表面的で浅薄なものと感じられてしまう(ただし、我が子の描いた絵なら、どの描線にもフラクタルが生じるのであろうが。)

では心のフラクタル性についてはどうか。それを最初に唱えたのは、精神分析を作ったシグムント・フロイトだったと私は考える。彼は夢や連想の詳細にまで注目し、その象徴的な意味を論じた。フロイトの「夢判断」(1900)に書かれていることは、患者の(実はその多くはフロイト自身の)夢の詳細にどれほど意味が込められているのかという事である。精神分析は心の細部の意味を追求し得ることを前提として生まれた学問なのだ。

ある高名な分析家は、患者の最初の一言で、その日のセッション全体の行方を知ることが出来ると主張した。また分析的なアプローチをとる心理学者は、ロールシャッハテストで患者が見せるある図版の微細な部分への反応について、その人全体の病理を表しているといった。これらもフラクタル的な発想と言える。

心の生産物の細部を分析することは全体を知る上での決め手になるのだろうか。もうしそうだとしたら画期的なことだ。「神は細部に宿る」というが、精神分析はまさにその神を知る手段ではないか? 私はそれを確かめたくて40年前に精神分析の世界に入った。でも残念ながらその確信に至っていない。むしろ臨床状況でこの意味でのフラクタル的な考え方を持ち込むことには注意が必要だと考えるようになっている。例えばある母親がわが子を虐待する夢を見たと報告するとしよう。彼女自身はその様なことをしたこともないし、考えもしないという。その母親にとってこの夢の持つ意味は何だろう? 多少なりとも注意深い分析家が、「それはあなたの抑圧された願望かも知れませんね?」と解釈を与えることにどれほどの信憑性があるだろうか? それは正解かも知れないし全くの誤りかも知れないのである。そして普通の考え方をする人間ならば、少なくとも心の問題に関しては、「神がどの細部に宿っているかは誰にもわからない」としか言いようがないことを理解し、途方に暮れるのである。

 

心のフラクタル性と神経ダーウィニズム

 

実はフロイトが考えたような意味でのフラクタル性とは別のタイプのそれを、実際の心は有しているらしい。その仕組みはかなり混み入っているが、それが心の問題を考える醍醐味でもあるのだ。その事を、この短いエッセイの残りのスペースで伝える自信はない。しかしその雰囲気だけは示しておきたい。そこでのキーワードは「ボトムアップ」的なシステムという考え方である。

フラクタルと聞けば、いくら細かく分け入っても同じ複雑な構造が保たれるような入れ子状の構造を想像しやすい。ロシアの民芸品のマトリョーシカのように大きな人形を最初に作り、中をくりぬいて同じ形で一回り小さい人形を次々と作っていくとしたら、これはトップダウン的なやり方という事になる。あるいは一枚の絵を描くときもそうだ。まず全体の輪郭をササっと下書きし、そのあと細部を書いていくというのもトップダウン的だ。

しかし心を宿す生命体はどこからも全体像を与えられずに進化を遂げてきた。まずは原始の大気の中の単純な分子が集合し、そこに雷や金属が媒介することで有機物質が生まれ、それがさらに集まって自己触媒的に複雑な分子を形成する過程で、物体と生命体の中間にあたるようなむき出しのRNAのような構造がたまたま出来上がり、それが自己複製を始め、そこから細胞壁をもった単細胞生物が生まれ・・・・、という風に。あるいは個体発生の際にも似たようなことが起きる。最初に受精卵があり、それが分裂して幾つかの細胞の単位が自分自身を包み込むようなさらに大きな集合体を周囲に誘導して形成していく。外側に入れ子を作り上げていくボトムアップ方式だ。

このように形成される生命体の中に宿る神経系も同様にボトムアップ的に作り上げられていく。細胞の中でも電気信号を伝達する性質を持つ特殊な細胞が神経細胞として分化する。そしてそれらのいくつかが互いに手を結びあってネットワークを形成していく。最初は数個の神経細胞からなるネットワークがごく基本的な情報を貯めるだけだ。そのうち数百個の神経細胞を有するC・エレガンス(線虫の一種、以下「Cエレ君」)のようなレベルになると、不快を回避し、特殊な臭いには向かっていくという能力を有している。それを極めて基本的な「心」とするならば、そこから昆虫の脳へ、ネズミの脳へ、そして数千億の細胞を擁する人間の脳へとボトムアップ的に進化するとともに、それらが宿す心も複雑になっていく。

このようにボトムアップ的なフラクタル構造を有する心に基づいた考え方として、前野隆司先生の「受動意識仮説」が挙げられる。前野先生は脳の働きは基本的にモジュール的(つまりいくつかの単位が集まったもの)であるとし、より小さな部分を「脳の中の小人たち」と呼ぶ。あるいは数多くのCエレ君と考えてもいい。ただし彼らは実は手が生えていて互いにつながり影響し合っているCエレ君たちである。心とは結局小人たちが勝手に動いて生み出した情報が集合して生み出される幻だ。小人たちは与えられた断片的な情報に突き動かされてかなりランダム性を備えつつ、より統合された情報を算出する。それが隣の小人たちとの集団のアウトプットと競合し合いながら、上位の集団(モジュール)としてのアウトプットを生み出す。それがまたほかの小人の集団たちのアウトプットと競合して勝ったものが上位に送られる。その勝敗は強者が制して終わるとは限らない。偶発的などんでん返しもいくらでも起きる。そして最後に大脳皮質全体でたまたま競合に勝ったものが、私によって思考や感情として自覚される。その意味では心とはまさにボトムアップ的に成り立っているものなのだ。そしてそのアウトプットとして見る夢は、基本的には偶発性と必然性の混淆と言えるのである。

それに比べるとフロイトの想定した心は多分にコンピューター的ということになる。それはトップダウン的な発想に基づいたものだ。フロイトが自我の機能として想定したのは、想起すると不快な事柄から自分を防衛するために、抑圧という仕組みを働かせることであった。そしてその事柄は無意識に送り込まれ、その代わりにそれを象徴するような症状が形成される、というわけである。これはまさに上意下達のトップダウン方式であるが、これは神が心や人間を創りたもうた、という考え方、いわゆる「インテリジェント・デザイン」という考え方とモデル的には変わらない。その意味でこれはパソコンと同じである。そこには人間の意志がまずあり、パソコンの電源を入れ、プログラムを起動し、演算を命じるというトップダウンの仕組みが成立しているのだ。そしてその心臓部であるCPUに分け入ると最小単位はオン、オフの回路でしかない。いわば無機的で単純なピクセルで終わってしまう。

ところが心の母体である神経系は、いくら小さくしても決してピクセルやボクセルには行き付かない。中枢神経の最小単位である神経細胞は、それを単離して理想的な培地におけばモゾモゾと手を伸ばし始めて独りで勝手に動き出す。あたかもそれ自身が心を持つかのように。そしてその最小単位が揺れていて予測不能である以上、そこからボトムアップ式に出来上がる心もまたその基本は揺らいで予測不能なのである。

心のフラクタル性をある程度説明したつもりだが、だからどうした、と言われれば何も言えない。心とは実に複雑で、人間の行動に一つの決まった説明などない。それでも自分は生きていて、自由意志を持ったつもりになっている。いったいどうしてだろう? こんなことを考えながらこれからもしばらくは思索し続けることになりそうだ。


2023年11月28日火曜日

未収録論文 5 脳と心の間を揺らぐこと

何処に載せたかわからない文章。岩崎学術出版社の「学術通信」だと思っていたが、その痕跡がない。という事でとりあえずここに未収録論文として掲載。  

脳と心のあいだを揺らぐこと                 

未だに私たちに巣くう心身二元論


 以前から気になっていることだが、私が臨床の話をしていて脳の話題を持ち出すと、聞いている人たちから当惑の眼差しを向けられることが多い。私としては心の話をしていても、脳のことには時々気配りをしながら話していることを示すつもりだが、あまり理解を得られないのである。

私は精神科の医師であるから、初診で深刻な鬱状態を体験している患者さんの話に共感的に耳を傾けても、最終的には薬の処方を考える立場にある以上、心と脳を同時に考えることはむしろ仕事上要請される。もちろん心の問題と脳の問題を考える際には異なる視点に立った、異なる心の働かせ方を必要とするという感覚はある。だから両者の話を交えて人と話す時は、何か相手の話の腰を折ってしまうようで、後ろめたさを覚えることもあった。しかし両者の視点のあいだを常に揺らいでいることは、やはり重要なことだと、最近開き直って考えるようになった。その理由を以下に述べたい。

ひとつには、聞いている人を当惑させるのは、脳の問題とこころの問題を一緒に論じることに留まらないということに気が付いたからだ。私達は異なる文脈にある議論を敬遠しがちだと思う。例えば精神分析的な考察をしているときに、「この患者さんには認知のゆがみが…」とか「行動療法的なアプローチがいいかもしれません」というような話をすると、同じ心の話をしていても、何かタブーに触れてしまったような感覚がある。つまりある文脈になじみのない用語や概念が入ることの違和感が問題となるのである。何か「和を乱す」という印象を与えてしまうらしい。

しかしこれらのタームは、私がどきどき大学関係で出会う外国人の心の専門家たちは、脳の話をしても「あ、それね」ということで当たり前のように受け入れるという印象を持つ。

 昨年しばしば交流する機会のあったベルギー出身のA先生は、英国の精神分析家ビヨンの研究でも有名な方だったが、彼は精神分析についての講演の中で急に「これはデフォルトモード・ネットワークに相当する」などとおっしゃった。Default mode network は脳科学の話である。人の心がいわばアイドリング状態になっているときの脳の活動パターンのことであり、精神分析の話とは全く異なる文脈の話だ。もちろんそこに理論的な必然性があったからこの話が出て来たのであろうが、そのような時に周囲の空気をさほど気にしているという印象はない。むしろそのような文脈の飛躍は、彼の思考がカバーする範囲の広さをそれによって示しているという印象を受ける。精神分析の時に脳の話はご法度、というのは日本だけの現象ではないか、と私は思うのである。

 

心と脳科学のあいだを揺らぐ必要性

さて私の立場はいわば心の問題と脳の問題を揺らぐことはむしろ必要ではないかというものだが、これは私が元来持っていた性癖のようなものでもある。一つのことについて対立している二つの意見を聞くと、その両者を取り持ちたいと思うと同時に、どちらか一方に与することがとても損をしたような気持ちになる、というところは昔からあった。どちらにも決められない性格ということかもしれない。そして精神についても、心の側と脳の側とのアプローチについては、どちらの立場にも偏らず、どちらも取っていたい、両方のあいだを揺らいでいたいと思うからである。そのような気持ちを特に抱いた最近の例を挙げたい。

私の職場には多くの心理学の専門家が属するが、心を扱う心理学者(臨床心理の専門家など)と脳を扱う心理学者(認知心理学者など)ではかなり毛色が異なる。同じ大学の、それぞれが相当の学識と学問的なキャリアを積んだ方々が、人の心に対して全く違うアプローチを取るのは非常に興味深い。たとえば母子の関わりという一つのテーマを取ってみよう。

脳科学を専門とするA先生は、ある実験を試みた。何人かの赤ちゃんを対象にして、ある言葉を発して、同時に皮膚に刺激を加える。他方のコントロール群には言葉を発するだけで皮膚刺激は加えないでおいた。そして後になりに両グループに同じ言葉を聞かせると、

赤ちゃんの脳波は明らかな違いを示した。言葉と同時に皮膚刺激を与えた赤ちゃんの方が、より明確な反応を示したのである。これは母子関係においていくつかの感覚のモードを併用した、マルチモーダルな関りの際に赤ちゃんがそれをよりよく習得することを示唆している。これは素晴らしい知見であると同時に、ある意味では私たちが常識的に考えていたことを証明したことになる。

他方臨床心理学のB先生は、あるクライエントさんからこんなことを聞く。「これまであまりお話ししなかったことですが、私のお母さんは小さいころから決して私を抱っこしたり撫でたりしてくれませんでした。今でもそのことに悲しみや怒りのような気分がこみ上げてきます。」B先生はそのクライエントさんがなかなか人と信頼に基づいた深い関係が築けないことに、その母子関係が影響していたのだろうと理解した。

A先生もB先生も心理の専門家で、幼少時の母子関係という同じ問題を扱っている。そしてお互いの分野での発見について知っても特に異論は唱えないだろう。ただ問題は二人は同じ心理でも違う世界に住んでいて、お互いの世界で起きていることをあまり知らないことだ。それぞれが自分の研究や臨床に追われ、全く異なるジャーナルに論文を発表する。そして自分たちの所属する学会に出席し、役員を務め、大学では学生を指導することで、その地位を確かなものにしていく。互いの研究分野を知る機会がきわめて限られてしまうのにはそのような事情があるのだ。

もっと言えば、A先生とB先生はお互いの分野で行われていることを漠然と聞きつつ、互いを軽視している可能性がある。それは多少極端に言えば次のようになるかもしれない。A先生「心の問題について、推論はいくらでもできるだろうが、確かなエビデンスに基づくことにこそ意味がある。」B先生「科学的な知見には限界があるし、限局された事実を示されても臨床に役に立たない」。これらはどちらもそれなりに正しさを含んでいると言えるだろう。しかしそれぞれが相手に批判的になるとしたら、そこにはある問題が潜む。人は皆それぞれの立場の優位性を無条件に肯定したいからだ。いわゆる「認知的不協和理論」(フェスティンガー)は、このような私たちの心の動きをある程度は説明してくれるだろう。

さて心と脳の間を揺らぐ私はこれらのどちらの立場も取っていたい。そして次のようなことを頭の中で考えるのである。

「愛着や早期母子関係にはかなり生物学的な背景があるのだな。養育者からの抱っこや身体接触は、一方では愛情の表現であり対人関係の基礎を築くとともに、他方では中枢神経や自律神経系の発達を促進するということの傍証が乳幼児研究により得られたわけだ。治療者としてはこのことから何を学ぶのか。愛着の段階での躓きがあったと考えられる患者には、言葉での介入の前提となるような安心感の提供は必須と言えるであろう。しかし損なわれている愛着関係を身体レベルにまで立ち戻って再構築する方針には結びつかないであろう。そこには乳幼児研究が示す臨界期の問題が関わってくる。非言語的ないしは身体接触を介した関わりは成人の患者に対しては性的、侵入的な意味を持ちうることに注意を払い、言語的な関わりの持つ意味を最大限に生かす関係性の構築がやはり重要になってくるのだろう。」

私は仕事としては心の扱いをしつつ、処方するのに必要な脳の知識をわきまえていると思うが、とても脳の研究者のような地道な仕事はできないと思う。その代わり彼らが得た知見をほとんど無償で得ることが出来、それを臨床に応用することが出来ることに、何か後ろめたさを覚えるほどである。

 

2023年11月27日月曜日

未収録論文 4 オンラインと精神療法、精神分析

この論文は2年以上前に精神分析協会で発表したものだ。論文にはしたことがないが、未収録論文1と少し被っている。書いていて面白かったのは、オンラインでの面接では、対話者の目線は原理上決して合うことはないのだ、という発見である。 その部分に下線を施してある。(この文章もどこにも所収不可能という気がするが。)


  オンラインと精神療法、精神分析

 日本精神分析協会 令和3年度大会
 シンポジウム;オンライン・精神分析の実践と訓練の可能性

1.はじめに

オンラインによる精神分析的な治療がどの程度可能かについて考察するが、このテーマにはいくつかの問題が含まれていると考える。
 一つはオンラインによる治療が従来行われてきた精神分析の実践の質をどの程度保証できるのか、果たしてそれは対面によるセッションと同等のレベルにあるものとして扱われるべきなのか、それとも質の劣る代替手段 poor substituteなのか、あるいはそもそも代替手段とはなりえないのか、という問題である。
 もう一つは、従来私たちが考えている週4回以上、寝椅子を用いるという治療形態以外の治療構造のもとに行われるオンライン・セッションを、今後どの程度精神分析の訓練の一環として用いることができるのか、という問題である。こちらの方はもちろんオンライン・セッション以外の治療形態についてもその考察の対象とすべき問題である。フロイトが始めた週6回の寝椅子を用いた精神分析は、その後それに変更を加えようとする様々な試みがなされた。それらは電話を用いたセッション、メールを用いたセッション、一日複数回のセッション、週末だけに固めたセッション、あるいはいわゆるシャトルアナリシスなどであり、日本では古澤の「背面椅子式自由連想法」があった。これを訓練の一環としてどの程度認めるのかはこれまでもたくさん議論されてきたことである。ただこの問題はとてもすそ野が広いテーマなのでこの発表では特に論じる予定はない。

最初に用語の問題であるが、電話やインターネットを用いた精神分析的な試みは様々な名称で呼ばれ、また議論されてきている。これまで videoconference analysis, Technology-assisted analysis, remote psychoanalytic work, teleanalysis などの用語が用いられてきた。このシンポジウムのテーマは「オンライン」という言葉を用いているので、ZOOMやSkype等を用いたセッションをオンライン・セッション、略して「OS」と表現させていただく。また治療者と被治療者のことを簡便に、セラピストとクライエント、という呼び方にとどめておく。なぜなら、たとえばアナリスト、アナリザンドという言い方を用いると、これがOSを介しての精神分析の一つの形式として用いられることを前提としているかの印象を与えるかもしれないからだ。
 このOSの問題は、昨年以来私たちを悩ませているCOVID-19 の出現よりかなり前から論じられていたが、論文の数としてはそれほど多くはなかった。しかし現在ではCOVID-19との関連で様々な研究が行われたり、論文が発表されたりしていると想像する。紙ベースで送られてくるInternational Journal of PAの最新号にも、すでにいくつかのコロナ関係やteleanalysisについての論文が見られている。本来はこのような発表にあたってそれらの文献を読むことから始めるべきであるが、限られた発表時間なので、まずはこの問題に関する私の個人的な経験を整理したい。 

2.オンライン・セッションに関する個人的な体験 

私の体験からお話すれば、私は昨年の春まではZOOMを用いた対話というものをほとんど体験していなかった。それが心理面接やスーパービジョンの代替手段になるともあまり真剣に考えていなかったし、それを用いたカンファレンスや研究会にもそれほど興味を持っていなかった。実際の対面での面接や研究会などにはとてもかなわないだろうと思っていたからだ。しかし新型コロナの影響でやむを得ずZOOMなどを様々な場面で用いることになり、OSは思っていた以上に活用ができることに驚いているというのが正直なところである。ただしOSは、カメラ・オンとオフでかなり異なるという実感があり、時と場合により両者を使い分ける必要があると考えている。 

カメラ・オンの体験

ZOOMなどでお互いにカメラ・オンで行うOSは、設定によっては相手の顔が大写しになり、自分の顔も大写しになるという特徴がある。ZOOMを用いるようになり、私たちの多くはセッション中の自分の顔をまじまじと見るという体験をセラピストとして初めて持ったのではないか。そしてこれは一部の自己愛的な傾向を有するセラピストを除いては、あまり心地いい体験とはなっていないようである。私自身はたとえカメラ・オンの場合でも自分自身の顔は見えないようにしたり、きわめて小さいサイズに保ったままにしたりし、相手の顔もかなり小さくする傾向にある。そして相手側がどの様な設定にしているかは、カメラ・オンか、カメラ・オフか以外にはわからないので、かなり個々のユーザーに自由な選択の余地があることになる。例えば相手がカメラ・オンでも、こちらがその顔を意図的に遮断するということが可能なのであり、そのことを相手が気が付かないという状況をOSでは作ることができるのだ。
 ここで一つ気が付くことだが、カメラ・オンのOSは、それでもクライエントとの視線は決して正確には合わないということである。ふつう私たちはモニターに映ったクライエントの顔に向かって話す。決してカメラに向かって、ではない。そしてクライエントもモニターの私に向かって話すのであり、カメラに向かってではない。ということは両者は決して正確には目線を合わせることができない。目線を合わせようとすると両者がカメラに向かって話すことになるが、そこには相手の顔は映っていないことになる。逆にもし相手が自分の目を見据えて話してきていると感じたら、実は相手はこちらの目線をそらせてカメラを見ていることになる。(実際にカメラ・オンにした時の自分と目線を合わせようとしてみるとよい。決して自分と目を合わせることはできないのである。)私は実はカメラ・オンのOSが持つこのユニークな特徴は、視線を合わすことのストレスをかなり軽減しているのではないかと考える。しかしこの件はまた後程改めて論じよう。

(以下略)


2023年11月26日日曜日

未収録論文 3 パーソナリティ障害とCPTSDについて考える

コンプレックスPTSDというこの概念の登場で、解離理論はとてもトラウマと解離の理論、そして愛着障害との関係を整理しやすくなったことは間違いない。ICDはDSMに確実に一歩先んじたと言えるのではないだろうか。


 パーソナリティ障害とCPTSDについて考える

精神療法(2021 )特集 複雑性PTSDを知る : 総論,実態,各種病態との関連. 47 (4), 478-480, 2021-08 金剛出版            

 私はComplex PTSD(以下CPTSD)という概念にはそれなりに思い入れがある。この概念は1992年に米国の精神科医ジューディス・ハーマンがその著書 ”Trauma and Recovery” (Herman, 1992, 邦訳「心的外傷と回復」)で提出したが、当時米国にいた私は、この著書が周囲の臨床家にかなり好意的に迎えられたことを記憶している。その後実際にハーマンや同じボストンで活躍する彼女の盟友バンデアコークの実際の講演を聞き、その熱い思いを身近に感じたものだ。
 それ以来DSMやICDなどの国際的な診断基準が改訂されるたび、CPTSDやヴァンデアコークが提唱したそれと類似の概念DESNOS(Disorder of Extreme Stress, not otherwise Specified;ほかに分類されない極度のストレス障害)が正式に採用されることを多くの臨床家が期待したが、そのたびに失望に終わっていた。そして今回ようやくICD-11 にこれが所収される運びとなった。CPTSDもDESNOSも単なるラベリングであり、患者個人の個別性を規定するものではないことはわかっている。しかしその上で言えば、これらはある一群の人々の持つ特徴を表す際に非常に有用であるように思う。
それらを前提として、本稿ではCPTSDとパーソナリティ障害との関係について考えることになるが、そこには少しこみいった事情がある。それはこのCPTSDの概念にはハーマンによりフェミニスト的なスピンがかかっていたからだ。一般にトラウマ論者はフェミニズムに親和的であるが、それは多くの性被害に遭った女性が治療対象となることを考えれば納得がいく。そして彼女の場合は精神医学の歴史において従来差別の対象とされてきた「ヒステリー」の患者さんたちをこのCPTSDの概念に重ねたのだ。ただ事情を複雑にしたのは、BPDもまた差別されてきた対象としてこのCPTSDに組み込まれていたことである。
 もともとハーマンは反戦運動や公民権運動に身を投じていたという。そして精神科医の研修をする中で直面したのは、それまで非常にまれだと報告されていた女性の性被害の犠牲者が、精神科の患者の中に極めて多く見出されるという事実だった。この問題をもっと明るみに出さなければならない、と考えた彼女が「心的外傷と回復」を書くに至ったのである(Webster, 2005)。
 ハーマンがこの本でCPTSDとして具体的に想定している一群の患者が従来の「ヒステリー」の患者であったと述べたが、具体的には、解離性同一性障害(従来の多重人格障害、以下DID)、身体化障害(以下、SD)そしてBPDを含むとした。最初の二つは従来ヒステリーの解離型、転換型と呼ばれていたものに相当するため、CPTSDに含めることに特に異論はなかったはずだ。しかしそこにBPDを加えることには、違和感を覚える人がいてもおかしくなかっただろう。
 ハーマンの意図を知るためにTrauma and Recovery(原著)を改めてひも解くと、そこにこんな記載がある。
「今となっては古臭いヒステリーという名前のもとにSDとBPDとDIDの三つがまとめられていたのだ。」「それらの患者は通常は女性であるが(…)それらの疾患は信憑性が疑われ、操作的であるとされたり、詐病を疑われたりした。」「これらの診断は差別的な意味を伴い、特にBPDがそうであった。」(1992,p.123)「これらの患者たちは「強烈で不安定な関係の持ち方を示す」。「これらの三つの共通分母は幼少時のトラウマである」(p.125)。つまり当時明らかにされつつあった、BPDの多くに幼少時の虐待が見られるという知見から、ハーマンはBPDを解離性障害と同様に従来のヒステリーに位置付けたわけである。
 さてバンデアコークの提唱したDESNOS(2002,2005)とBPDとの関係はどうだったのか?こちらもまた「BPD寄り」であることは以下の記述から伺える。(van der Kolk, 2002)。

以下略

2023年11月25日土曜日

未収録論文 2 蘇った記憶、偽りの記憶

 「精神科治療学」編集委員会 37 (4), 415-422, 2022. に掲載された論文。トラウマ記憶とは何か、という事について結構一生懸命書いた論文である。          

     

 蘇った記憶、偽りの記憶

問題のありか

この論考の読者は主として臨床に携わる方々であることを想定して、次のような問いを掲げよう。

あるクライエントAさん(30歳代の女性)がこう話す。「昨日夢を見ました。何か幼い頃の光景が出てきたように思いますが、漠然としていてそれ以上は覚えていません。でも目が覚めてから小さい頃の母親とのエピソードが心に浮かんでいました。私は母親に何かの理由で怒られて家を追い出され、裸足のまま『開けてよ!お願い!』とドアをたたき続けたんです。これまで忘れていましたが、あの時の怖さや不安が急に蘇ってきました。」

心理面接で聞く話としてはさほど珍しくないであろう。しかしこれを聞いた治療者はこの「蘇った記憶」をどのように扱うだろうか?おそらく治療者によって実に様々な答えが返ってくるはずだ。「Aさんがそれをはっきりと思い出したというのであれば、実際の出来事だったのだろう。」「一種のトラウマ記憶(心的トラウマを受けた出来事の記憶)であり、フラッシュバックの形でその出来事が再現されたのだ」など、この「記憶」の信憑性を重んじる立場もあるだろう。しかし他方では、「このAさんの記憶はおそらく夢に影響されたものであり、実際にこのような出来事があったという保証はない。」「いわゆる偽りの記憶である可能性があり、治療者の問いかけ方に影響されて創り出されたのかもしれない。」など疑いの念を抱く治療者もいるだろう。この様なごくシンプルな事例を取っても、その扱い方には様々な可能性があるのであり、そのエピソードをどのように受け入れて扱うかは、実際にこの治療に関わった臨床家ごとに異なるというのが現実なのだ。

ところがここには「ケースバイケース」では済まされない問題が潜む。もし母親の虐待的な養育があった場合に、それを偽りの記憶として片づけられたら、それはAさんにとってそれこそトラウマになりかねない。しかし逆に十分な養育を行っていた母親が虐待していたと疑われ、糾弾されてしまう可能性もある。

以上の例は「蘇った記憶、偽りの記憶」をめぐる議論の複雑さを垣間見せてくれる。しかしこのような臨床場面に際して臨床家ごとの恣意的な扱いがあってはならず、常にそこには高度な臨床的判断が必要とされるのだ。本稿での以下の論述も、このAさんのエピソードをどのように考えるべきかについての一つの「正解」を示すことはできないが、その場に置かれた臨床家がより良い判断を下すことが出来るような柔軟性に寄与することを願う。

失われた記憶は蘇るのか?

忘れていたはずの記憶が後になって蘇ることはあるのか、そのプロセスで偽りの記憶はいかに形成されるのかが本論稿のテーマである。心理療法に携わる人にとっては、「抑圧されていた心的内容(記憶、ファンタジー、欲望など)が治療により蘇る」という現象の存在は、ある意味では常識ではないだろうか。少なくとも精神分析ではその様なフロイトの考えは真正面から異議を唱えられることなく継承されてきた。それと比較していわゆる「偽りの記憶」をめぐる論争の歴史はまだ浅く、人々にもその問題の深刻さは十分には理解されていないであろう。「抑圧された記憶が蘇る中で、時々事実と異なる記憶が生まれることもあるであろうが、それはあくまでも例外的なものである」というのが一般の臨床家の感覚ではないであろうか?

ここからは「偽りの記憶」、ではなく「過誤記憶」という言葉を用いて論じたい。英語にすればともに false memory となるが、「偽りの」という言い方には記憶の意図的な捏造というニュアンスが伴うからだ。それに比べて「過誤」記憶には、現実に起きたこととは異なる内容を有するというより客観的な意味が含まれる。

私は米国においてPTSD(心的外傷後ストレス障害)や解離性障害についての関心が高まるさなかの1980年代の半ばより米国で精神科の臨床を行っていたが、その頃米国で生じていた記憶をめぐる論争の過程をよく思い出す。1980年代には多くの女性や子供が、一般的に知られるよりはるかに高い頻度で性的、身体的なトラウマの被害者となっていたことが明らかにされた。その結果としてベトナム戦争等で戦闘体験を有した人や性被害の犠牲者となった人々が示すPTSDや解離性障害が数多く報告されるようになった。そして社会が、医療従事者達が従来はそれらのトラウマ関連障害の存在を軽視したり無視したりしたことへの反省があった。

それから米国社会では幼少時のトラウマの事実やその記憶を治療により明らかにすべきであるという主張が多く聞かれるようになった。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。その結果として数多くの人々が性的虐待の加害者であったと告発されることとなったのである。

その様な動きに一役買ったのが1988年に出版されたエレン・バスとローラ・デービスによる「生きる勇気と癒す力」(Bass & Davies, 1988)という著書である。この書は幼児期に性的虐待を受けて、その記憶を抑圧しているために忘れている可能性が高い人々が該当するようなチェックリストを示した。また1992年にはハーバード大学のジュディス・ハーマン(Herman, 1992)も「心的トラウマと回復」で、幼少期のトラウマによって自責や自殺願望に苦しめられている女性たちを救うためには、「抑圧された記憶」を回復させることが必要だと説いた。ハーマンの著書はわが国でも阪神淡路大震災の翌年の1996年に翻訳されて出版され、大きな反響を呼んだ。

ところがそれからワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMS (false memory syndrome 偽りの記憶症候群) の問題であった。つまり治療により蘇ったとされる記憶の中には、客観的な根拠のない、あるいは事実と異なる過誤記憶が多く含まれるという問題が明らかになったのである。そして誤って加害者として糾弾された犠牲者たちにより作られた利益団体がFMSF(偽りの記憶症候群財団)であった。


以下略


2023年11月24日金曜日

未収録論文 1 コロナと心理臨床

色々なところに書いたものが溜まってきたので一つにまとめておく必要がある。あわよくば関連論文をまとめて本にする計画だ。まずはどうにも本の一章のしようにないような、単発なもの。コロナ全盛の頃の文章だ。 

      コロナと心理臨床

     京大事例紀要 2021年度 巻頭言

 コロナ禍における臨床を余儀なくされるようになってから久しい。すでに昨年のこの事例研究の巻頭言において、西見奈子准教授は書いている。「今年がこのような年になるとは、だれが予想したであろうか?」そしてその予想しなかった状態は、一年経った今も継続しているのだ。この春から始まったワクチン接種が今後普及することにより将来に多少の明かりは見えているのかもしれない。しかしこの災厄の終息の目途はいまだに立っていないのだ。この間に私たちの心理臨床のあり方も様変わりしている。一年以上もこれまでのような対面のセッションを持つことができていないケースもあるかもしれない。

 このように新型コロナの蔓延は間違いなく私たちにとっての試練となっているが、試練は私たちから様々なものを奪うばかりではなく、新たな体験の機会も与えている。コロナの影響下にある私たちがどのように臨床を継続できるのか、どのように継続していくべきかという問題は、おそらく世界中のセラピストたちがこの一年半の間に直面し、そこから大きな学びの体験をも得ているはずだ。その結果としてセラピストの多くはそれぞれが創意工夫のもとに対応を行っているのである。
 私たちの日常臨床を変えたものの一つが、電話、ないしオンラインによるセラピーの活用の可能性である。ソーシャルディスタンシングの重要性が強調される中で、セラピストとクライエントが面接室という密室の空間を共有することは、それ自体が感染のリスクを高めるのではないか、という懸念は、このコロナ禍が始まって当初に私たちが持ったものである。昨年4月に初めて七都道府県に緊急事態宣言が出された折は、対面による面接を全面的に中止した相談室も多かったであろう。すると残された手段は電話ないしオンラインということになる。そして当面はセッションを持たないよりは、それらの代替手段を用いることを実践したセラピストも多く、その機会に改めてオンラインによるセッションの持つ意味を考え直すことになったはずだ。
 私たちの多くはそのような機会に、実はコロナ禍の始まる前から、オンラインを治療の主要な手段として用いる試みが始まっていたことを知ったのではないか。よく挙げられる例として、2000年代の初めから、中国とアメリカの間でもっぱらオンラインによるトレーニングを行っている団体がある。CAPAThe China American Psychoanalytic Alliance,米中精神分析同盟)という組織で、2001年にElise Snyderというアメリカの分析家が中国の北京と成都に招かれたのが始まりであるという。その後米国と中国の関係者が協定を結び、それに北京と西安のメンバーが加わった。さらに成都の分析家たちがアメリカの分析家たちに、オンラインでのトレーニングを申し入れ、コロンビア分析協会のDr.Ubaldo Leli がそれを受け入れ、事実上CAPAが始動したことになる。2008年には2年のコースが作られ、現在では400人の生徒と卒業生がCICCAPA IN CHINA)という団体を構成しているという。(
http://www.capachina.org.cn/capa-in-china より。)
 ZOOMskypeなどによるオンラインの体験で私自身が一つ学んだのは、実際に人と対面した時の存在感 (presence、プレセンス)とオンラインでのお互いの存在感(telepresence,テレプレゼンス)違いである。オンラインでは同じ地理的な空間を共有していないにもかかわらず、傍にいるように感じるという矛盾した体験が可能になる。それはこれまで慣れ親しんでいた対面でのセッションに置き換わる手段となりうるのだろうか? それとも結局はそれの出来損ないの代替物poor substitute に過ぎないのだろうか?
 もちろん対面に勝るものはないと考えるクライエントがいて当然である。しかし複雑なのは、オンラインの方がより抵抗なくセラピストと出会える、という一部のクライエントの存在である。そしてセラピストもオンラインにより新たな自由度を獲得したと感じる場合があるかもしれない。その場合はコロナ禍が去った後もオンラインを継続するべきなのだろうか?それともそれはより生きた接触を互いに回避するためのセラピストとクライエントの共謀を意味するのだろうか?
 以上の問いにはおそらく正解はないのであろうが、考えあぐねた末に私自身が至った結論は、対面による存在感プレゼンズ、すなわち対面による存在感と、テレプレゼンス、すなわちオンラインによる存在感は別物であるということだ。それらはどちらが優れているという問題ではなく、互いに異なり、それぞれの長所と短所を持っているということである。そしておそらくどちらを今後選ぶかはセラピストとクライエントが様々な要素を勘案して一緒に決めることである。それらの要素の中には、時間的、経済的な利点も当然含まれるであろう。
一つ言えることは、私たちは今後このようなパンデミックに見舞われても、少なくとも出来損ないのバックアップは手にしていることである。私たちはこの文明の利器に感謝すべきではないかと思う。

 

 

 

2023年11月23日木曜日

カップルセラピー その8

 石倉先生の「夫源病」の概念

この文脈で石蔵文信氏の「夫源病」の概念について検討する。(石蔵文信(2011)『夫源病- こんなアタシに誰がした -』(大阪大学出版会))

昨年亡くなった石倉先生の、かつて話題を呼んだ夫源病。「妻の病気の9割は夫が作る」(マキノ出版)という著作の題名からもわかるとおり、何とも痛快な議論を展開する先生だ。私は非常に興味を持っている先生だ。日本性差医学・医療学会の発足にも尽力なさったという。同学会の理事 天野惠子先生の追悼文をもとに少し先生の背景を追ってみる。

石蔵先生は、日本性差医学を提唱されたというが、実は専門は循環器内科だという。調べると私より一歳年上だった。循環器科医としての臨床の場で、ED(勃起障害)などの相談を受け、当然ながら精神的なファクターが大きな影響を与えていることを知り、「男性更年期外来」を立ち上げる。以下引用。「診療の際には、奥様が同伴されることを基本とし、夫婦のありようを観察する中で、夫の言動への不平・不満が女性の心身の不調をもたらす状態を憂い、「夫源病」と命名され、大きな話題を呼びました。」。しかし2021年に前立腺がん(すでに骨転移あり)が分かってからは、死去する年に、「逝きかた上手 全身がんの医者が始めた死ぬ準備」(幻冬舎)を上梓。最後までそのステップは軽やかだった。

ちなみにネットに出てきた夫の妻への10の禁句。これ石倉先生の引用かな。確認できなかったが、秀逸なのでここに掲載する。


萩原達也様のサイトからhttps://best-legal.jp/genbyou-10-taboos-57910/


(1)他の母親はそれくらいできてるよ
(2)一日家にいて何してたの?
(3)俺には関係ない/知らない
(4)なんでこんな風にするの?
(5)お前は楽でいいよね
(6)ご飯は?
(7)俺のおかげだ
(8)お前のせい
(9)俺も一緒に○○に行く
(10)へー、あっそう


2023年11月22日水曜日

カップルセラピー その7

 原則 ② 結婚後にお互いに及ぼし合う影響力は徐々に低減し「いくら言っても変わらない」部分だけがお互いに残る。そしてそれは「相手は決して自分を曲げない、過ちを認めない」という確信となる。(人の意見で変わると、「私が言っても変わらないのに。私のことを軽視しているからだ!」と被害的に受け取ることが多い。)

人が他人の話を聞き入れる、説得されるという現象には、実に様々な要素が絡んでくる。身近な人に勧められてもガンとして聞き入れない人が、尊敬する先達からの一言であっという間に動くのはどうしてだろう。あたかもその先達の意思は、外部からであっても自分の意思でもあるかのように従うということが起きるのだ。(日本国内での議論には動かないリーダーが、米国からの意向一つで簡単に動いてしまうという現象なども同じことである。)これは外部からの、他者からの声の威力という事だろうか。

ともあれ結婚生活は二人のこだわりを持った人間のすり合わせである。そのうちいくつかは「あ、それでもいいな。」とか「へえ、そうすることをどうして思いつかなかったんだろう?」という形で受け入れていくだろう。配偶者がいわゆるライフハックと呼ばれるようなやり方をしている時などは、別のやり方を見てさっそくまねるだろう。

私はある時ある人が漢字で入力した人の名前を、ファンクションキー「F7」で一発でカタカナに変換したのを見て、「エーっ」と思ったのを覚えている。そんな簡単な方法があるんだ、と知り、それからは活用しているわけだが、誰でも身近な人が明らかに物事によりよい対処をしていて、自分がそれをすぐにできるのであれば、相手のやり方を取り入れるだろう。そしてそういう事は新婚後早期に起きるのだろう。特に新婚時代はお互いに一目置いて理想化している場合が多いので、相手のやり方を取り入れるという事はより一層スムーズに行くはずだ。それに相手によって全く新しい世界に導き入れられたなら、そこでのやり方は相手のそれに従うのが普通だ。妻にヨガの世界に引き込まれたら、どんなマットを用意するのか、どんな教室に通うかというものは、ことごとく妻のそれをまねることになるだろう。自分のこだわりが出てくるのは、それをある程度自分に取り込んで自分のものにしてからである。

結局自分の思考や行動パターンは可塑性があるものから無いものまであり、影響を受けやすいものはどんどん変わっていく。そして最後に変わらない部分が残るのだが、最後に何が残るのかは関係性によって随分違うだろう。

部屋の電気を消せない、という例を取ろう。あるカップルで、夫はどうしてもこれが出来ないという人がいるという実例からとる。夫はトイレを使用した後は電気を消すが、自分の部屋を出てリビングで食事をするときなどに電気を消さない。妻はそれが我慢できないのだ。いくら言っても電気を消せない。しかし夫は普通に仕事をしていて社会生活は出来ているという。もちろん仕事場で電気を消すことが励行されているなら、夫は従うことが出来る。妻は「こんな子供でもできるようなことが出来ないのは、おかしい。というより私を馬鹿にしている、甘えている」と言って腹を立てるとしよう。まさかこの一事で離婚という事にはならないものの、夫という人間を信じられないと思うかもしれない。しかし夫はそれ以外の沢山の行動を妻の勧めに従って変えて来た。帰宅したら靴の向きを反対側にすることだって出来るようになっているのだ。(私は出来ない)。 もちろん夫も妻が本気になり夫の行動を変え、例えば電気を消し忘れるごとに一万円を徴収するという事を実行するならば、彼の行動は直るはずである。


2023年11月21日火曜日

カップルセラピー その6

 以前にも少し書き始めたものである。

婚姻関係のナチュラルヒストリー

 私にとって結婚生活は謎に満ちているが、もっとも不思議なことは何かと言えば、配偶者はこれほど身近な存在でありながら、ほとんどのケースでお互いに関心を持たず、またお互いの言葉は響かなくなっているという事である。しかしそれでも身体的には(性的な意味ではないとしても)親密であり、寝室を共にしていたり互いの前で着替えをしたりということが普通になっている。このパラドクスは非常に興味深い話である。

 どうして夫婦はお互いの存在に関心を示さなくなるのか。最初はあれほど関心を向けた対象であったにもかかわらず、である。その最大の問題は、与えられているものの有り難さが分からなくなるということである。この性質がある限り、人は決して幸せになれない。これを第一の原則としよう。

原則 ① 配偶者により与えられるものの多くは早晩相手にとってはあたりまえ、すなわち「定数」化する。

 例えばあるカップルが知り合い、関係を深め、ついに結婚したとしよう。夫の方は温厚で女性に暴力を振るうことのない穏やかな性格。奥さんの方はきれい好きでとても料理が上手いとしよう。そしてそれらの長所はお互いにとても大きな意味を持つ。夫の方は、家の中がいつもピカピカで、美味しい手料理が食卓に並ぶことにとても満足をしている。彼の実家では母親があまりキレイ付きでなく、家の中はいつも散らかっており、また共働きの両親は不在がちで、食事を自分で調達するということはざらだったために、彼女のきれい好きで、料理が上手だという長所を非常にありがたく感じていた。また夫の男性の温厚さは、妻にとっては家の環境がとても安全で心地よいものにしてくれる為に、とてもありがたかった。というのも妻の方はその実家では酒に酔った父親が常に暴力を振るい、とても安全な環境と言えなかったからだ。

夫の方はいつも身ぎれいにしていて、しかもお金を無駄使いしない奥さんについて、こんなに素晴らしい配偶者はいないだろう、くらいに思う。

 そして結婚して月日が流れていく。しかし徐々にそれらの性質は「定数」になる。夫にとっては奥さんがいつも部屋の整理整頓をしてくれるのは当たり前になる。また妻にとっては、夫が暴力を振るわないのは当たり前のことになる。

この原則に従わない人、相手にしてもらうことに毎回感謝の念を抱くような人というのはむしろ例外的であろう。具体例としては次のような場合だ。部屋をきれいにしてくれるたびに、夫は自分の子供時代に過ごした家の乱雑さが思い出され、「何と自分は幸せだろう」と実感するかもしれない。つまりそれが一種のトラウマとして繰り返し思い出されるために、妻のきれい好きのありがたさを常に感じるのである。あるいは職場の同僚が「うちのカミさんはいつも家の中が散らかり放題だ」という話を聞いて、「何と自分はラッキーだ」と思う場合等も考えられる。また夫の穏やかな性格を有り難いと思う妻は、例えば幼少時には学校から帰宅するときに、安全地帯に帰るという実感を持てなかったとする。すると常に体験が思い出され、暴力のない家庭を有難く思うだろう。しかしそのような場合はむしろ例外的であるというのが私の主張である。