心のフラクタル性について
学術通信 122 11-24-2020
フラクタルとは?
この秋に「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。二年かけた書下ろしで、これでやっと肩の荷が下りたというわけだが、しばらく「揺らぎ」について考え続けていたせいで余韻が残っている。特に、この本に書いたフラクタルというテーマが最近は気になってきた。
私はもう還暦をとうに過ぎたが、物覚えがますます悪くなる一方で、いろいろなことへの関心はかえって深まっている気がする。それらはどれも、若いころは気にも留めていなかったことばかりである。なぜ生命が誕生できたのか。進化はいかにして生じるのか。遺伝と環境はどのようにかかわっているのか。意識とは何か。あるいはなぜ人はこれほどまでに理解しえないのか。
一つ気が付いたことがある。私が疑問に思い、かつ興味を抱くこれらのことは、決まって「フラクタル的」なのである。つまりきわめて複雑な入れ子状になっているのだ。ある問題について理解しようと思い、大体はつかめたつもりになっても、その詳細を分かろうとすると、さらに深い森に迷い込んだ気になる。そしてそのまた一部について調べると、そこからも鬱蒼とした森が広がっている。どの方向のどのレベルに降りて行っても、そこにはまた森があるのだ。これが私が言う「フラクタル的」ということだ。(フラクタルとは、縮尺を変えても同じ模様が見え続ける、いわゆる自己相似性のことを指す。)
極小の世界ばかりではない。今では一枚で数ギガのサイズの銀河の最高画質写真をネットでダウンロードして見ることが出来る。するとその一部の何もなさそうな空間を拡大していくと、星が新たに湧いて出てくる。こちらの方向にもフラクタルが存在する。(もちろん画像である限りは最後には無機的で単純な四角いピクセルに行きついてしまうが。)そして世界のフラクタル的な成り立ちを教えてくれるのが現代の科学の進歩である。
フラクタル性は美的感覚とも関係する。巧みな画家の描く線には、その一本一本に意味合いが込められていることを感じる。文豪と呼ばれる人々の用いる細かい言葉のひとつひとつに深い味わいがある。これらも「フラクタル的」であり、絵や書を鑑賞する人はその細部にまで世界が宿っていることを感じ、だからこそ一枚の作品を長い時間をかけて鑑賞するのだ。逆に素人の描写は細部に味わいがないので表面的で浅薄なものと感じられてしまう(ただし、我が子の描いた絵なら、どの描線にもフラクタルが生じるのであろうが。)
では心のフラクタル性についてはどうか。それを最初に唱えたのは、精神分析を作ったシグムント・フロイトだったと私は考える。彼は夢や連想の詳細にまで注目し、その象徴的な意味を論じた。フロイトの「夢判断」(1900年)に書かれていることは、患者の(実はその多くはフロイト自身の)夢の詳細にどれほど意味が込められているのかという事である。精神分析は心の細部の意味を追求し得ることを前提として生まれた学問なのだ。
ある高名な分析家は、患者の最初の一言で、その日のセッション全体の行方を知ることが出来ると主張した。また分析的なアプローチをとる心理学者は、ロールシャッハテストで患者が見せるある図版の微細な部分への反応について、その人全体の病理を表しているといった。これらもフラクタル的な発想と言える。
心の生産物の細部を分析することは全体を知る上での決め手になるのだろうか。もうしそうだとしたら画期的なことだ。「神は細部に宿る」というが、精神分析はまさにその神を知る手段ではないか? 私はそれを確かめたくて40年前に精神分析の世界に入った。でも残念ながらその確信に至っていない。むしろ臨床状況でこの意味でのフラクタル的な考え方を持ち込むことには注意が必要だと考えるようになっている。例えばある母親がわが子を虐待する夢を見たと報告するとしよう。彼女自身はその様なことをしたこともないし、考えもしないという。その母親にとってこの夢の持つ意味は何だろう? 多少なりとも注意深い分析家が、「それはあなたの抑圧された願望かも知れませんね?」と解釈を与えることにどれほどの信憑性があるだろうか? それは正解かも知れないし全くの誤りかも知れないのである。そして普通の考え方をする人間ならば、少なくとも心の問題に関しては、「神がどの細部に宿っているかは誰にもわからない」としか言いようがないことを理解し、途方に暮れるのである。
心のフラクタル性と神経ダーウィニズム
実はフロイトが考えたような意味でのフラクタル性とは別のタイプのそれを、実際の心は有しているらしい。その仕組みはかなり混み入っているが、それが心の問題を考える醍醐味でもあるのだ。その事を、この短いエッセイの残りのスペースで伝える自信はない。しかしその雰囲気だけは示しておきたい。そこでのキーワードは「ボトムアップ」的なシステムという考え方である。
フラクタルと聞けば、いくら細かく分け入っても同じ複雑な構造が保たれるような入れ子状の構造を想像しやすい。ロシアの民芸品のマトリョーシカのように大きな人形を最初に作り、中をくりぬいて同じ形で一回り小さい人形を次々と作っていくとしたら、これはトップダウン的なやり方という事になる。あるいは一枚の絵を描くときもそうだ。まず全体の輪郭をササっと下書きし、そのあと細部を書いていくというのもトップダウン的だ。
しかし心を宿す生命体はどこからも全体像を与えられずに進化を遂げてきた。まずは原始の大気の中の単純な分子が集合し、そこに雷や金属が媒介することで有機物質が生まれ、それがさらに集まって自己触媒的に複雑な分子を形成する過程で、物体と生命体の中間にあたるようなむき出しのRNAのような構造がたまたま出来上がり、それが自己複製を始め、そこから細胞壁をもった単細胞生物が生まれ・・・・、という風に。あるいは個体発生の際にも似たようなことが起きる。最初に受精卵があり、それが分裂して幾つかの細胞の単位が自分自身を包み込むようなさらに大きな集合体を周囲に誘導して形成していく。外側に入れ子を作り上げていくボトムアップ方式だ。
このように形成される生命体の中に宿る神経系も同様にボトムアップ的に作り上げられていく。細胞の中でも電気信号を伝達する性質を持つ特殊な細胞が神経細胞として分化する。そしてそれらのいくつかが互いに手を結びあってネットワークを形成していく。最初は数個の神経細胞からなるネットワークがごく基本的な情報を貯めるだけだ。そのうち数百個の神経細胞を有するC・エレガンス(線虫の一種、以下「Cエレ君」)のようなレベルになると、不快を回避し、特殊な臭いには向かっていくという能力を有している。それを極めて基本的な「心」とするならば、そこから昆虫の脳へ、ネズミの脳へ、そして数千億の細胞を擁する人間の脳へとボトムアップ的に進化するとともに、それらが宿す心も複雑になっていく。
このようにボトムアップ的なフラクタル構造を有する心に基づいた考え方として、前野隆司先生の「受動意識仮説」が挙げられる。前野先生は脳の働きは基本的にモジュール的(つまりいくつかの単位が集まったもの)であるとし、より小さな部分を「脳の中の小人たち」と呼ぶ。あるいは数多くのCエレ君と考えてもいい。ただし彼らは実は手が生えていて互いにつながり影響し合っているCエレ君たちである。心とは結局小人たちが勝手に動いて生み出した情報が集合して生み出される幻だ。小人たちは与えられた断片的な情報に突き動かされてかなりランダム性を備えつつ、より統合された情報を算出する。それが隣の小人たちとの集団のアウトプットと競合し合いながら、上位の集団(モジュール)としてのアウトプットを生み出す。それがまたほかの小人の集団たちのアウトプットと競合して勝ったものが上位に送られる。その勝敗は強者が制して終わるとは限らない。偶発的などんでん返しもいくらでも起きる。そして最後に大脳皮質全体でたまたま競合に勝ったものが、私によって思考や感情として自覚される。その意味では心とはまさにボトムアップ的に成り立っているものなのだ。そしてそのアウトプットとして見る夢は、基本的には偶発性と必然性の混淆と言えるのである。
それに比べるとフロイトの想定した心は多分にコンピューター的ということになる。それはトップダウン的な発想に基づいたものだ。フロイトが自我の機能として想定したのは、想起すると不快な事柄から自分を防衛するために、抑圧という仕組みを働かせることであった。そしてその事柄は無意識に送り込まれ、その代わりにそれを象徴するような症状が形成される、というわけである。これはまさに上意下達のトップダウン方式であるが、これは神が心や人間を創りたもうた、という考え方、いわゆる「インテリジェント・デザイン」という考え方とモデル的には変わらない。その意味でこれはパソコンと同じである。そこには人間の意志がまずあり、パソコンの電源を入れ、プログラムを起動し、演算を命じるというトップダウンの仕組みが成立しているのだ。そしてその心臓部であるCPUに分け入ると最小単位はオン、オフの回路でしかない。いわば無機的で単純なピクセルで終わってしまう。
ところが心の母体である神経系は、いくら小さくしても決してピクセルやボクセルには行き付かない。中枢神経の最小単位である神経細胞は、それを単離して理想的な培地におけばモゾモゾと手を伸ばし始めて独りで勝手に動き出す。あたかもそれ自身が心を持つかのように。そしてその最小単位が揺れていて予測不能である以上、そこからボトムアップ式に出来上がる心もまたその基本は揺らいで予測不能なのである。
心のフラクタル性をある程度説明したつもりだが、だからどうした、と言われれば何も言えない。心とは実に複雑で、人間の行動に一つの決まった説明などない。それでも自分は生きていて、自由意志を持ったつもりになっている。いったいどうしてだろう? こんなことを考えながらこれからもしばらくは思索し続けることになりそうだ。