2023年9月30日土曜日

テクニックとしての自己開示 その4

 H. Bacal の最適な応答性 optimal responsiveness の概念

 自己開示との関連で私がここで紹介したいのが、バカルという分析家の「最適な応答性」という概念である。バカルはカナダ人のコフート派である。(カナダ人ということもあって彼の名前 Bacal は英語読みの「ベイカル」ではなく、フランス語読みの「バキャル」という事らしい。

 この「最適な応答性」という用語は、フロイトの「最適な欲求不満足 optimal frustration」と対をなしている。コフートは1977年の「自己の修復」で「最適な欲求不満足」がその治癒プロセスで重要であると説いたが、その際同時に「最適」とは何かについてのことかも問題にしている。最適な、という限りは欲求を満たすことにもそれがあり、最適な欲求不満足も最適な欲求充足 optimal gratification も患者にとってよりよいものであればいい、という事になる。ただ 欲求充足 gratification という概念はあまりに禁欲的なフロイトの精神分析にはそぐわないう事もあり、応答性 responsiveness という用語をバカルが用いたという事であろう。

Bacal,H (1985) Optimal Responsiveness and the Therapeutic Process. Progress of  Self Psychology. (1):202-227

 いうまでもなく、応答性とはそこに居て答える、反応するという意味である。精神分析においては分析家が無反応であることが様々な問題を引き起こすので、少なくとも反応性は保っていましょう、というメッセージが込められている。これに自己開示の問題と重ね合わせると、治療者の自己開示は治療の文脈で必要に応じて、多くは患者からのリクエストにより行われるものであるということが出来よう。

「来週のセッションは、学会出席の為にお休みします」という治療者からの自己開示は、セッションの中止を伝えた際に患者から「どちらかに行かれるのですか?」と問われて答えた場合と、自分から積極的に伝えた場合とではニュワンスは非常に異なるのである。そして学会出席のことを特に伝えない場合にも、最初からそのことに触れない場合と、患者から「来週は何か先生は御用があるのですか?」と問われて「・・・・・・・」と無応答である場合とでは全く意味が異なってくるのだ。

このバカルの論文で有用なのは、患者の求めに対して自己開示をしない場合に生じる欲求不充足を、最適な欲求不充足 optimal frustration と、外傷的な欲求不充足 traumatic frustration に分けているという事である。この分類も興味深い。


2023年9月29日金曜日

テクニックとしての自己開示 コラム

 自己開示:コラム)受付時の表情がすべてある  ―第一印象のそのまた表層、「第一表層」について―


 昨日自宅近くにある耳鼻科を受診した。喉の調子が悪いので、喉頭鏡で調べてもらったのだ。それにしても最近の喉頭鏡は実によくできてる。すごくフレキシブルで、吐き気もほとんどなく・・・・・・・という話ではなく、医師の第一印象の話だ。私はその耳鼻科の女医さん(40代女性)がとてもいい先生だと思ったし、これからも時々通おうと思った。診察はほんの10分足らずで、その大半は四苦八苦しながら喉頭鏡を鼻から入れる作業に終わったので、ほんの一瞬、しかもマスク越しの会話をしただけだが、その先生は感じがよかった。最近おなじ耳鼻科にかかったカミさんの印象も同じだったというので間違いない。

 第一印象で私達は「この人は親身になって話を聞いてくれるか」という事に関心を払うわけだが、もちろん一瞬でその人の価値などわかるはずもない。入試の際の口頭試問や就職の際のなど、それこそ30分ほどかけて色々質問をしてその答え方を見るわけだが、それが結果的に大外れだったりもする。私自身もどうしてこんな一瞬の印象でその耳鼻科のお医者さんを信用するようになるのか、とおかしくなる。しかしそれはまさに私たち医師がに期待することを反映しているのだ。例えばグーグルの星を貰う時に、患者さんたちが持つ印象と同じなのだ。間違いなく医師は何かを発し、或いは何かを捉え損ね、それが患者に伝わり、それが好印象や悪印象を与える。しかしその一瞬の印象は正しいのか?

 私のよく知る精神科医で、私はとても好きなのだが、グーグルではあまりいい星を貰っていない人もいる。その医師に低いポイントを付ける患者はその医師のいい点を拾っていないのではないかと思う。もったいない話だ。しかし彼(女)は患者に対しては全く別の側面を見せるかもしれない。患者の側からすれば、とても大切なプロセスなのだ。

 もとより動物としての人間は、この人を信用できるかどうかをまさに一瞬で判断する必要がある。ちょうど散歩中のワンちゃんどうしが道で初めて出会った時に、おしりを嗅ぎ合うのと同じだ。何しろワンちゃんたちは、相手の見てくれよりは、おしりの匂いが決定的なのだ。そちらからくる嗅感覚がはるかに頼りになるのだろう。

 もちろん第一印象がすべてではない。第一印象がかなり悪かったにも関わらず関係を持ち続ける内にゴールインしてしまったというカップルも時々聞く。それとは反対に、最初の瞬間でビビッと来て意気投合しても、結婚して半年でお互いに我慢が出来なくなってしまうという場合もある。ただ恐らく相対的には、第一印象の持つ意味はやはり大きいのだろう。第一印象がお互いにいい相手となら、悪い相手とよりもより長く良好な関係を持つことが統計的には言えるだろう。(実はその様な統計の存在を知らないが。)

では私たちはその一瞬の間に何を見ているのか。

この議論は自己開示の問題と間接的につながっているはずだ。しかし自己開示というよりは、self-presence というくくりの方がより正確だろう。何と訳すのか。「自己呈示」だろうか? しかし最近よく聞く tele-presence という言葉に提示は合わない気がする。


2023年9月28日木曜日

テクニックとしての自己開示 3

  この原則2に付け加えるべきなのが次の点である。治療者の自己開示は、患者に対しての押し付けとなる可能性が非常に高いという事だ。例えば喫煙者の患者に対して自分が喫煙に関連した可能性のある内科的な疾患を経て禁煙に至った経緯を、治療者自身が語ったとしよう。それはそれだけでほとんど、禁煙の必要性を患者に向かって説いていることに等しい。いくら治療者が「これは私自身の体験で、あなたに当てはめようとしているわけではありませんよ。」といってもあまり効果はない。言語外のメッセージというものがある。ただし「先生の体験をぜひ教えてください」と言われて控えめに語る同様の体験は、まったく違う効果を持つことは言うまでもない。

自己開示の効用 その1


 自己開示の効用の一つは、それが説明の手段として適している場合である。人がある点を主張したい場合、自分の体験を例にとり説明することの効果は非常に大きい。それが自分自身の体験を通して語られることで、それは無機質的な「単なる理屈」以上の意味を伴って相手に伝わることがある。

これから一人で登校を始めることになる幼稚園児や小学生に「左右をよく見てから横断歩道を渡りましょう」と話してもあまり響かない可能性がある。その時左右をよく見ずに渡ったために事故に遭ったという例を出すことの効果は少なくないだろう。ところが自分がその事故に遭ったという体験を感情を交えて伝えることで、初めて聞く側は自分に関与していることとして聞く姿勢を持つだろう。目の前に、「左右をよく見て」を怠って事故に遭った人間がいて語り掛けると言う事のimpactはとても大きいし、その一部はそれを実体験をもとに語る側の熱意や真実味を伴っていることの効果である。それに私たちがある事柄について知りたい場合、まず求めるのは実体験を持った人の語りである。


2023年9月27日水曜日

テクニックとしての自己開示 2

 原則2

 患者は基本的には治療者の情報を異物、ないしは自分にとって関係のないこととして受け取る可能性が大きいことを自覚すべきである。

 人間は、もちろん治療者も含めて自己愛的な存在である。目の前に共感を向けるべき、あるいは向けざるを得ない存在(家族など)がいない限りは、彼(女)は自分の問題に一番興味を持つ。心地よさ、不快さ、流入してくる情報等はすべて主観的な体験となり、自分が利用し、処理すべき問題であり、それが十分にできていることは社会生活を送る上での基礎といえる。この必要でかつ自然な自己への注意、いわば健康な意味での自己愛、ないしは自己関連付けの傾向は、しかし人の話を傾聴をする上での大きな障害とならざるを得ない。

 患者が自分に関わる問題で治療者を訪れる際はもちろん、自分に起きていることを(他者との関係において、という事をも含めて)最大の関心事としている。それを聞く立場にある治療者が、上記の健康な自己愛以上の自己愛を発揮して自分の主観的な体験を語ることには意味がないだけでなく、それが患者が自分のことを伝達する際の障害ないしは妨害となる可能性が大きい。(原則1との関連で。)

 この問題をさらに大きくするのが、治療者が自分の情報を問われもしないのに随時語る場合のネガティブな影響である。それは往々にして、治療者が自分の自己愛的な満足の為に患者の時間に侵入し、それを一部奪っているという印象を与えかねない(これも原則1に関係してくる)為に注意を要するのである。それは最初から準備され、インフォームドコンセントの一環として治療者が行う自己開示、ないしは患者の側が積極的にその開示を要求した場合の自己開示とは大きく異なるのである。

 その結果として言えるのは、治療者が自分のことを語るのは、これらの問題を考慮したうえでもそうすることのメリットを十分に認識したうえでの行為でなくてはならないことになる。これらが技法としての自己開示を技法として取り扱う上での注意点である。


2023年9月26日火曜日

テクニックとしての自己開示 1

 私はこれまで自己開示については、かなり論じてきたが、一つ言えることは、自己開示にはかなりテクニックとしての色彩が強いという事である。それは例えば中立性や受身性や禁欲原則の遵守等と少し性質が違うからだ。私たちは治療中に「よし、ここで中立性から少し逸脱しよう」「ここで患者の願いを聞き入れよう」等とはあまり考えないものではないかと思う。それらはいつの間にか、無意識的に、知らぬまに起きていることが多いのだ。

 自己開示の場合も同様の性質があるわけだが、時々「これに関しては私の側から~について伝えよう。上手く行けばいいのだが。」という風にかなり意図的に行なう場合がある。考えてみれば、中立性や受身性には、非言語的な要素が強い。ところが自己開示はまさにバーバルなのである。という事は、自己開示のうちバーバルな側面について、それをテクニックとして扱うことに意味があるという事であろうか。

 つまりこういうことである。治療者が「私もそう思います。」と言ったとしよう。そこにどのような抑揚や情感を込めるかはほとんどがテクニック外の、ノンバーバルな要素である。ところが「ワタシモソウオモイマス」という言語内容そのものはテクニックの範疇だと言えるのだ。そしてそれはある程度理屈で、理論でカバーできることなのである。

 原則の1

 わたしが原則としてあげたいのは、治療者が患者の話題を取り上げないという事である。クライエントさんから生の声を聴くことが多いが、多いのは、いつの間にか治療者がどんどん話してしまい、患者が「私の時間じゃないの?」と言いたくなるような状況が多いという訴えだ。これはもちろん自己開示だけに留まらない。ある客観的な事実や出来事についての解説であってもいい。私自身の例では、患者さんが学生時代にブラスバンドに入っているという話を聞いた時などだ。大抵私はどの楽器を担当していたかを尋ねてしまう。そしてその楽器を扱っていた時の苦労などについて尋ねたりし始めかねない。もちろんこれについては私自身が注意しているわけだが、つい自分の関心事であるために尋ねてしまう。あるいは患者さんの出身地が私がよく知っている場所であれば、それについても少し詳しく聞いてしまうという傾向がある。これらは自己開示ではないものの、私が持ち込んだ話題、という事になりかねない。

ある時初診の患者さんが県立千葉高等学校の出身であることを知ったが、その瞬間私の高校時代を思い浮かべ、つい言ってしまった。「毎朝坂を上って通学するのは大変だったでしょう。」(千葉高校は、小高い台地の上にある。)ちなみに結局このケースは同窓生という事でその患者さんとのラポール形成に役立った気がしている。しかし場合によっては「あなたが私と同じ高校の出身であることなどカンケーありません!」となってもおかしくなかった。


2023年9月25日月曜日

現代的な心身医学 文字起こし 5

 いわゆる転換性障害 CD

 さて次はいわゆる転換性障害についてです。これはDSM-5とICD-11 では名称変更が行われ、それぞれ DSM-5: 機能性神経学的症状症 (FND)、 ICD-11: 解離性神経学的症状症 Dissociative neurological symptom disorder と呼ばれています。ややこしいですね。この障害の特徴は、「運動、感覚、認知機能の正常な統合が不随意的に断絶することに伴う症状により特徴づけられる。臨床所見は、既知の神経系の疾患または他の医学的状態と合致しない。」と表されます。 これは以下に分類されます。と言っても網羅的なので退屈に感じられるかもしれません。視覚症状を伴うもの、聴覚症状を伴うもの、眩暈を伴うもの、その他の特定の感覚障害を伴うもの、非癲癇性痙攣を伴うもの、発話症状を伴うもの、麻痺または筋力低下を伴うもの、歩行障害の症状を伴うもの、運動障害の症状を伴うもの、認知症状を伴うもの、その他の特異的な症状を伴うもの、特定できない症状を伴うもの、など。

 ところで診断の際、ストレス因や心理的要因、疾病利得の有無などは特に問わない、とあります。この一文は極めて重要です。なぜならばこの一項目で、いわゆる転換性障害は心因性の疾患ではないということが示されているわけです。そしてもちろん「転換性障害」でもありません。私が「いわゆる」といちいち断り書きを着けているのはその様な理由です。

ところでなぜ転換性障害 (変換症)の呼称が最近消える傾向にあるのでしょうか?それについては以下の  Stone (2010)の論文を参考にしましょう。彼は次のようなことを言っています。

Jon Stone (2010)Issues for DSM-5:Conversion Disorder  Am J Psychiatry 167:626-627.


まずフロイトの唱えた転換 Konversion(心的葛藤が身体症状に転換される)の概念は仮説の一つに過ぎません(*)。というのもフロイトは鬱積したリビドーが身体の方に移されることで身体症状が生まれるという意味で、この転換という言葉を使ったからです。しかし実はそれ自体が証明されてるわけではなく、転換性障害に心理的な要因 psychological factors は存在しない場合もあるということです。そして2013年 DSM-5では「変換症/転換性障害(機能性神経症状症)」となったのです。そして2022年 ICD-11では「解離性神経学的症状症」となりました。さらには昨年(2022年)発売された DSM-5-TRでは「機能性神経症状症(変換症/転換性障害)」となったのです。つまり「機能性神経症状症がかっこから出て、「変換症」の方がカッコに入ったのです。つぎのDSM -6ではこれも使われなくなるのはほぼ間違いないことでしょう。 

* フロイトが実際に用いたのは以下の表現です。
「患者は、相容れない強力な表象を弱体化し、消し去るため、そこに「付着している(5) 興奮量全体すなわち情動をそこから奪い取る」(GW1: 63)。そしてその表象から切り離された興 奮量は別の利用へと回されるが、そこで興奮量の身体的なものへの「転換(Konversion)」が生 じると、ヒステリー症状が生まれるのである。
「ヒステリーが、和解しない表象を無害なものにすることは、興奮全量を身体的なものに置き換えた結果としてできる(防衛―神経精神病、1894)」


2023年9月24日日曜日

現代的な心身医学 文字起こし 4

 Yips (局所性ジストニア)

 さて次はイップスです。おそらくこの病名を聞いたことがないという方も中にはおられるかもしれませんね。イップスは「今まで問題なくできていた動作が突然もしくは徐々にできなくなるもの」であると定義されるものです。私はこれをMUSの例に含めるべきかかなり迷いました。というのもこのイップスも様々な分野で別々なものとして扱われるものの典型と考えることが出来るからです。

 イップスについては、ゴルフ、野球などのスポーツに関するもの(スポーツイップス)、弦楽楽器、管楽器などの演奏に関するもの(音楽イップス)が知られています。それまで半ば自動化されていた体の動きが損なわれ、本来の動作が再現出来なくなってしまう症状を呈します。熟練したプロでも発症してしまうのが特徴ですが、もちろん初心者にこの症状が起きないという保証はありません。そしてスポーツ選手にしても音楽家にしても、一旦これにかかると職業声明を失いかねないほどの重大な影響を及ぼすため、非常に関心を寄せられています。さてこのイップスは現在では様々な神経学的研究がなされ、focal dystonia として神経内科で扱われるようになってきています。
 ところでこのイップスもまた心因性のものと「誤解」されてきたという歴史があります。そしてそれが現在進行形で起きているのです。例えばこれは日本イップス協会という組織のホームページから引用したものですが、次のようにあります。

「イップス(イップス症状)は心の葛藤(意識、無意識)により、筋肉や神経細胞、脳細胞にまで影響を及ぼす心理的症状です。スポーツ(野球、ゴルフ、卓球、テニス、サッカー、ダーツ、楽器等)の集中すべき場面で、プレッシャーにより極度に緊張を生じ、無意識に筋肉の硬化を起こし、思い通りのパフォーマンスを発揮できない症状をいいます。」(日本イップス協会HPより。)

この心理的症状という表現が実は非常に誤解を呼ぶものです。ここには「無意識」などという表現も出てきて、いかにこの状態が心の病かということを強調しています。平孝臣先生はその著書(平孝臣(2021)「そのふるえ・イップス 心因性ではありません.法研 2021年」)の中で、イップスは心因性ではない、と以下のように明確に述べていらっしゃいます。
 「イップスやふるえは長年「心の問題」とされてきましたが、現在では脳内の運動機能をつかさどる神経回路の機能的異常から起きるもので、脳の手術で劇的に改善することがわかってきました。」

私はイップスの専門家(一人はイップス協会の会長、もう一人は医学者)の意見がここまで違うことに非常に興味を覚えます。そしてやはりイップスはMUSのお仲間入りにすべきだと思います。というのもその振る舞いはまさに、MS/CFSやGMと一緒なのです。


2023年9月23日土曜日

連載エッセイ9 その3

 最終共通経路とその矛盾

 最終共通経路という理解は私たちに人間に対するある種の失望を与える傾向がある。何しろすべての快感は脳の中では同じものなのだというのだ。すると快感には高尚なもの、精神的なものと卑俗的なもの、原始的なものの間に区別がないという事になる。高僧が何年も山にこもり瞑想を続け、ついに自分と宇宙が一体であることを悟り、安らかな幸福感を味わったとする。この幸福感は精神的なものであり、それは人間が苦難に耐えた末に最終的に求める満足感に近いものと言えるだろう。それに比べて賭け事をしたり薬物を用いたりして得られる快感は刹那的であり、動物的であり、価値がないものという感じをわたしたちはもたないか。

ところが最終共通経路説は、少なくとも脳で起きていることは同じであることと唱えることになる。自然な環境で得られる快感を得た状態を「ナチュラルハイ」と呼ぶが、それは健康的なものであり、薬物によるそれはまやかし、病的なものという先入観が私達にはある。しかしいずれも快感中枢が刺激された状態で脳がそう感じさせているだけなのである。しかし前者をより健全だと思うのは、後者のような快感には、本来味わってはいけない快感であるという後ろめたさが伴うからであろうか。

精神分析の祖であるシグムンドフロイトが精神分析理論を発見する前にコカインという物質に非常に興味を惹かれていたことはよく知られる。フロイトもまたコカイン吸入により得られる多幸感を精神的な満足と同じものとしてとらえたようだ。そして彼はコカインが精神的な問題を解決する万能薬であると考えたようだ。フロイトは抑鬱的な気分や不安にさいなまれることが多く、それが和らぐためにはどのような手段があるかを常に考えていた。もともと神経解剖学で大成することを目指していた彼だが、それを諦めた彼がやがて心の苦しみを救ってくれるような手段を追い求め、発見することを人生の目標にしたのは、彼自身の苦悩が関係していたと思われる。そしてその彼が、コカインが心の苦悩を消し去ってしまうものとしてその発見に有頂天になる時期があったという事は、この最終共通経路が主観的には正しいことを物語っているものと思う。

 ただしこの理論に従っても、やはりナチュラルハイとギャンブルやドラッグによる快感の「質」の違いを説明することは出来る。それは前者は大概努力の見返りとして得られ、再びその快を得るためには、同じ努力を繰り返さなくてはならない。つまり簡単には得られないからこそその快感は貴重なわけだ。考えてもみよう。オリンピックで金メダルを得て「チョー気持ちいい」という体験を持ったとしても、それを繰り返すためには苦しい4年間のトレーニングが必要であり、それでも金メダルは決して保証されるわけではないのだ。ところがコカインを吸入した時の快感は、おそらく金メダルをはるかに凌駕するものであり、しかもそれを簡単に味わうことが出来る。(ただし最初の快感は、決してもう味わえないと言われてはいるが。)そして依存症はほぼ間違いなく、その快感を短期間で繰り返し味わえるという状況で生じる。コカインなどは数日に一回の頻度で何回かそれを味わうことで依存症が出来上がってしまい、それは一生その人を苦しめることになるからだ。(フロイトがコカインにほれ込んだ時、彼はまだそのことを知らなかったのだ。)


2023年9月22日金曜日

来年の精神神経学会に向けて

 昨今の診断基準や話題について


この件に関しては、「ICD-11における解離症」として本年の総会のICD-11委員会のシンポでお話ししたことの骨子をそのまま話すことになる。以下はその抄録である。

「解離症はその診断や治療に関して、いまだに精神科医により異なる見解が示されることの多い精神障害である。1980年にDSM-Ⅲに掲載されて以来、幾つかの変遷があり、ICD-11においてそれまでの定義(2013年のDSM-5も含む)からいくつかの変更点が加えられ、より一貫性を有する臨床的に有用な診断基準に至ったと考えられる。ICD-10 からの変更点としては、以下のとおりである。①解離症の分類が大幅に改変され、それまでは「その他の解離性障害」のもとに多重パーソナリティ障害として位置づけられていた解離性同一性症が一つの独立した診断として示され、②その不全形ともいえる「部分的解離性同一性症」も加えられた。③解離性遁走が解離性健忘の下位診断として捉えなおされた。④従来の転換症が解離症の一つとして位置づけられている点はICD-10 と変わらないが、転換 conversion という表現は消えて「解離性神経学的症状症」という表現が用いられたことも目新しい点である。⑤またICD-10では解離症とは別に分類されていた離人症と現実感喪失症が,解離症に組み込まれた。解離症に分類されてはいないながらも、解離性の症状を示すいくつかの精神障害も示されている。⑥‐1 PTSDにおいては解離性フラッシュバックという表現がなされ、新たに加えられた。⑥‐2 CPTSDとともにトラウマ関連障害における解離症状の存在が明確に示された。また⑥‐3 パーソナリティ症における特性の一つであるボーダーラインパターンにも、DSM-5に準じて「一過性の解離症状または精神病様の特徴」が記載されている。この様にICD-11における解離症は心身の両面を含む包括的な視点に立ち、より臨床に即した形で提示されているといえよう。 

🔴解離症の分類が大幅に改変され、臨床的に見てより一貫性のある診断基準となった。

🔴解離性同一性障症 (←多重人格障害)の診断が明示された。

🔴転換(変換) conversion という表現が消えた。解離性神経学的症状症のもとに一群の診断名が挙げられた。(≒DSM-5)

🔴心因や疾病利得の概念への反省を伴い、ヒステリー概念からの更なる脱却を意味していた。

🔴解離性神経学的症状症が依然として解離症に分類された。(≠DSM-5)

🔴器質因の不明な身体症状と精神症状を統合する方向に向かった。」


また今週に発刊される季刊精神科 Resident Vol.4 No.4 特集 「身体症状症」に書いた論文もそれとだいたい同じ論調です。

 変換症

本症は従来は転換性障害 conversion disorder と呼ばれていたが、DSM-5の日本語版(2014)では、「転換性障害/変換症(機能性神経症状症)」という呼称を与えられている。その後に公開されたICD-11(2022)では、conversion という言葉も消え、解離性神経学的症状症 dissociative neurological symptom disorderとなった。さらに2022年のDSM‐5のテキスト改訂版(DSM-5-TR)では「機能性神経症状症(転換性障害/変換症)」に変更された。すなわち conversion という呼び名はさらに表舞台から遠ざかったことになる。この様な頻繁な名称の変更の背後には、conversion という概念ないしは表現を今後は用いないというDSMやICDの方針があるからである。ただし本稿ではDSM-5で示されている変換症という呼び方に統一して論じる。
 なお本症は、DSM-5ではあくまでも「身体症状症および関連症群」の一つとして、すなわち身体症状症、病気不安症などと並んで分類されている。他方では ICD-11では本症はあくまでも解離症群の一つとして位置づけられていることを念頭に置く必要がある。
  変換症では身体の機能の異常、すなわち随意運動や感覚機能の異常がみられるものの、特定の神経疾患では説明が出来ないという特徴を持つ。具体的には麻痺ないしは脱力、振戦やジストニア、歩行障害、異常な皮膚感覚や視覚、聴覚の異常などが見られる。また意識の障害を伴う癲癇発作に類似する症状(心因性非癲癇性けいれん,PNES)を示すこともある。他方では内科疾患の存在を疑わせる自律神経系の異常や疼痛その他の身体症状を呈するものの内科疾患の存在が確認されない場合は、身体症状症(DSM-5)や病気苦痛症(ICD-11)等に分類される。
 DSM-5 では変換症の診断には以下の4項目が必要とされる。
A. ひとつまたはそれ以上の随意運動、または感覚機能の変化の症状。
B. その症状と、認められる神経疾患または医学的疾患とが適合しないことを裏づける臨床的所見がある。
C. その症状または欠損は、他の医学的疾患や精神疾患ではうまく説明されない。
D. その症状または欠損は、臨床的に意味のある苦痛,または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしているか、または医学的な評価を必要としている。

また本症は以下のいずれの症状を伴うかにより、それぞれの型に特定される。それらの症状とは、脱力または麻痺、異常運動、嚥下症状、発話症状、発作またはけいれん、知覚され麻痺または感覚脱失、特別な感覚症状、混合症状である。また心理的ストレスを伴うかどうかも特定する必要がある。


診断に関連する特徴

従来は疾病利得や症状への無関心さがみられることが本症の特徴とされてきたが、これらの存在は本症に特異的ではなく、これらを診断基準とすることが本症への偏見につながるとの懸念から、DSM-5やICD-11では診断基準から省かれるに至っている。発症に際しては心理的要因がみられる場合が多いが、本症の診断に必須ではない。
  変換症の発症は二十代、三十代を中心とするあらゆる年齢層に見られる。発症が急激で持続期間が短いほど予後がいいが、再発もまた多い。
 性差は女性に二倍多いとされる。また男性の場合、職業上の何らかの事故が発症に関連していることが多いという報告もある。子どもにおける症状としては、歩行困難やけいれん発作が最もしばしばみられ、その背景にいじめや学校ないし家庭におけるストレス等がみられることが多い。

鑑別診断

上記の診断基準に見られるとおり、本症は神経疾患や内科的疾患の存在を疑わせるような様々な身体的な症状の形を取り得る可能性がある。そのために鑑別が難しく、症状が類似する身体疾患の除外も念入りに行われなくてはならない。ただし無論それらの身体疾患との併存もありうる。また解離症との合併も多く、解離性同一性症の場合はその人格の一つが示す症状ともなりうる。さらには醜形恐怖症、抑うつ障害、パニック症なども鑑別の対象となる。本症が疑われるものの、症状の偽装が明らかな場合は作為症ないしは詐病として診断されることになる。


2023年9月21日木曜日

「ウイニコットフォーラムにむけて」を少し書き直した

11月の「ウイニコットフォーラム」、ネットでHPを見たら、なんと私は一時間の特別講演の役だった。シンポジストの一人として20分程度だと勘違いしていた。大変な大役である。急に緊張してきた。 


抄録)

ウィニコットは大変な慧眼の持ち主であり、フロイトのすぐ後の世代にありながら、その理論は精神分析のはるか未来を予見していた。その関心は本能論や内的欲動論にはもはやなく、乳幼児の置かれた環境、特に母親との関りの持つ意味とそれが生み出す病理に向けられた。そして患者を「満足な早期の体験を持てたことが転移により発見されるような患者[神経症の患者]と、最早期の体験があまりに欠損していたり歪曲されていいた患者[精神病、ボーダーラインの患者]とに区別し、特に後者を論じることで幼少時における関係トラウマ(A.ショア)の概念を見事に先取りしていたと言える。ウィニコットの侵襲の概念はトラウマの生じる過程を微細にかつ経時的に捉えた「トラウマの現象学」と言えよう。

 ウィニコットは生涯その理論を発展させ続けたことでも知られるが、晩年のウィニコットは彼独自の立場が精神分析に革命をもたらすべきものと考えていたようであり、その言葉は攻撃的ですらある。「抑圧された無意識を扱う時は、私達は患者や確立された防衛と共謀しているのだ。」そして「多くの素晴らしい分析のよくある失敗は、全体として見える人の用いた抑圧に関連した素材に隠された、患者の解離された部分に明らかに関連しているということを私たちはそのうち結論付けなくてはならない。」とまで言う。このように最晩年のウィニコットはトラウマや解離にますます傾斜していたといえる。

 ウィニコットの死後出版された「ブレイクダウンへの恐れ Fear of Breakdown 」(1974)」では、トラウマの本質的な性質について明らかにしている。すなわち母子関係の断裂(ブレイクダウン)が自己の成立以前に生じ、それは乳幼児に「すでに起きたにもかかわらず、まだ体験されていない」という。さらにその体験は自己から解離し、多くの精神分析プロセスを逃れると考える。ウィニコットはこのプロセスの説明のために、健全な自己においては、部分たちが内側から外側へと凝集することで全体性を達成する、とした。そして母親の「生き残らないこと」や狂気は、この凝集性の達成を阻害し、部分が解離されたままで残り続けることで自我障害やスキゾイド人格が形成されるとした。

ウィニコットの症例の中には実際に人格の解離を呈していると思しき例が見らえる。特に「遊びと現実」(1971)の「男性と女性に見出されるべき、スプリットオフされた男性と女性の部分」(p.72∼74) から例を取り上げ、ウィニコットの治療姿勢について考えたい。


2023年9月20日水曜日

連載エッセイ 8 推敲の推敲 4

 何度も書き直し

分離脳が示す人の心の在り方

 最後に分離脳から見えてくる人間の脳と心の在り方について私なりの見解を述べてみたい。

 これまで書いたように、右脳は外部からの情報をまず大枠で取り込み、情緒的、道徳的な反応を行う。この右脳の最初の反応は左脳による説明や加工を受ける前の心という意味で、私はそれを真なる心と呼んだ。他方では左脳は右脳の起こしかけた判断や行動について他者や自分自身に対して言葉で説明しようとする。そしてこのように左右の脳の機能は、お互いが抑制し合い、譲り合い、その結果としてその人の知性や経験を反映した常識的なものとなるだろう。

 ところが脳の各部分は周囲から孤立すると暴走する傾向にあることに注意したい。それは右脳にも左脳についても言える。右脳梗塞などで左脳がフリーになると、いわゆる「反側無視」という現象が見られる。脳梗左脳だけになった患者さんに多く見られるのが、この不思議な症状だ。彼らは食事を出されても、お皿の右半分のものしか食べなかったり、時計を描いてもらっても、まるい文字盤の右半分に1から12までの数字を詰め込もうとする。また左片側麻痺になっても、動かなくなっている左手について尋ねられると、「ほら、ちゃんと動いていますよ」と言うかと思えば、「これは私の手ではありません。あなたの手じゃないですか?」と言ったりする。このような左脳の主張は時には妄想的にすらなることが知られる。

 また左脳の中でもブローカ野(運動性言語中枢)がウェルニッケ野(感覚性言語中枢)から切り離されて孤立すると、いわゆる「ウェルニッケ失語症」となるが、その際は言葉は流暢で多弁ですらあるが、言い間違いや意味のない言葉を羅列する等の様子が見られる。つまり喋る能力だけが切り離されて勝手に暴走している壊れた機械のようになってしまうのだ。

 では右脳が孤立した場合はどうか。左脳に切り離された右脳の振る舞いについては、ジルボルトテイラーの生の体験が非常に参考になる。彼女は自分が誰かもわからなくなり、自他の境界がなくなり宇宙と一体になったと感じたという。「左脳がついに完全停止を余儀なくされたとき、私は右脳の安らかな意識に包まれ、そこでは危機感がすっかり失われ、・・・・ただこの瞬間だけに存在してました。」それが宇宙にまで広がる、「全能感」と言っても足りないほどの至福の体験と言えるのであるのだ。」

 要するに私が言いたいのは、左右の脳は相互補完的であり、2つがあって一つなのである。決して片方だけでは役に立たない。

しかしそれでも私は依然として、左右脳のうちで優位なのは右脳の方だと言いたいのだ。右脳は主で、左脳は従である。精神医学では実はさかさまで、言語野のある方(ほとんどの場合左脳)を優位半球、反対側(ほとんどの場合左脳)を劣位半球と呼ぶ。しかしこれは不正確で誤解を呼ぶと私は言いたい。

 本当は右脳が優位であるという点を忘れるとどうなるだろうか。それは左脳の産物を絶対視してしまうことにつながる。そしてそれは私たち現代人が、特に欧米風の考え方に毒されかけた場合に陥ってしまう問題でもある。例えば私たちの行動を規制しているのは、自然法則であり、法律である。そしてそれらは左脳により生み出され、磨き上げられるのである。自然科学の分野であれば、この左脳の優位性は必然なのだろう。いかに常温での超電導物質が発見されたという報告が人類にとって朗報の可能性があるとしても、厳密な論文の審査でその正当性が認められなければ、それが却下されることはどうしても必要なのだ。

 しかしもう一つの左脳の産物、すなわち法律はどうか。それが具体的に運用された時のことを想像しよう。あなたは被告の席に座り、原告の訴えがいかに誤っているかを主張している。そして非常に多くの場合、あなたは体験するのだ。「いくらこちらの主張の正しさを法的根拠をもとに主張しても、裁判官はそれを聞き入れてくれない。」目の前の裁判官はあなたの主張を生理的に好かないようで、あるいは最初から聞き入れる気がないように思える。そして裁判官は別の法的な根拠をもとにあなたの主張を却下する。そしてその様な体験を通してあなたが知るのは、誰かの右脳による行動を極めて巧みに正当化すべく用いられることがいかに多いか、である。

 いかに弱者を守り、強者の不正を取り締まるべく法律を整備しても、常に勝つのはそれを巧みに利用する強者達だ。彼らは自らの右脳に基づいた行動を巧みに正当化する為に法律を利用するのである。もちろんそれをなし得るのは、ごく一握りのお金と権力者を有する人たちなのである。しかしその力や影響力は決して侮れない。

 だから某国Aが某国Bに軍事侵攻を開始する時、Aの首相や大統領の左脳はこう言うのだ。「B国にいるわがA国民を守るための自衛の手段だ。その意味では先に仕掛けたのはB国の方だ」。弱肉強食の国際社会での紛争ほど、国連憲章という人類の左脳の産物(国家間の条約、国連憲章など)がその効果を失う例はないだろう。そこで生じているのは言葉を持たない猿の社会での右脳同士の弱肉強食の戦いと少しも違わないのだ。


2023年9月19日火曜日

連載エッセイ 9 その2

 快と不快に関する理論にはある種の「セントラルドグマ」があった。そしてこれが快と不快の議論を一件分かりやすくクリア―にしていたのだ。それを以下に示そう。

  まず1950年代のオールズとミルナーによる快中枢(報酬系)の発見があった。いうならば脳の中に快に関する「押しボタン」が見つかったのである。中脳の側坐核と言われる部分だ。たまたま誤ってその部分に電極が刺さった時、ネズミはその電気刺激を進んでおこなうようになったのだ。それまで科学者たちは、脳の中に刺激すると快が得られるという部位をそもそも想定していなかったのだ。

 そもそも脳はどこがどの様な特定な役割を果たしているかが分かりにくいという問題がある。例えば攻撃性を取ってみる。脳の一部に攻撃制をもっぱらつかさどる部分があって、そこが刺激されると人が攻撃的になり、そこを抑制されると攻撃性が抑えられる。しかし実際には攻撃性は色々な要因で生じ、ある一点が攻撃性に関わっているという部位がない。あるいは幻聴を取ってみよう。脳の特定の部分を刺激すると幻聴が始まり、そこの抑制で静まる、という部位はない。

 ところが報酬系の発見は、そこを電気刺激することで気持ちよさが体験されるという部位が見つかったというわけだ。そこを電気刺激するとネズミは快感を覚えるという装置を作ることが出来る。するとネズミはそこを刺激するレバーを懸命になっており始め、餌や水を取ることも忘れて死ぬまで押し続けるという事が起きる。

この発見から提唱されたのは、ドーパミンの「最終共通経路 final common pathway 」(Stahl)説である。簡単に行ってしまえば、あらゆる快楽は、最終的には、報酬系の刺激に相当する中脳のドーパミン経路の興奮に繋がるという理論だ。元オリンピックの水泳の選手が、平泳ぎで金メダルを取った時はなった「チョー気持ちい!」と、暑い日に仕事から帰って冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出して一口飲んた「うまい!」は共通した脳の働きによる、というものである。過去40年ほどはこれで色々説明できることになっていた。比較的最近までは、である。


2023年9月18日月曜日

連載エッセイ 9 その1

 今回のテーマはずばり、快感と脳科学についてである。この分野もまた私がとても大きな関心を寄せているテーマである。

人は結局快感を覚えるために行動しているのではないか?私が精神や脳について考え、それを仕事にすることになった一番のきっかけはこれだった。このテーマは精神分析のトレーニングを終えてもトラウマや解離性障害についての臨床を行っている間も私の関心から離れず、2017年にはこのテーマで本を出したこともある。「快の錬金術-報酬系から見た心」(岩崎学術出版、2017年)このことが決して自慢にならないのは、実はこの本の売れ行きがかなり悪かったからなのだ。私は間違いなく、この本を書いている時が一番楽しかった。何しろ快感、嬉しい気分についての本なのだ。書いていて楽しくないわけがないであろう。しかし・・・・。私はこの頃からだろうか。自分の書く本の売れ行きはほとんど期待しなくなった。自分が書いていて面白いこととを人が読んで面白いと思ってくれるという保証は全くないことを身をもって知ったのである。そしてこれは出版社にとっては大変申し訳ないことだが、私は自分が書いていて楽しい本だけを作ることに満足しようと思ったわけである。

という事で最初から言い訳めいた話になったが、なぜこの快の問題が面白いかをなるべくわかりやすく論じたい。

快楽は脳から生まれる

 といきなり書いたからと言って、誰も反論できないであろう。コカの葉から生成した白い粉上の物質(コカイン)を微量だけ吸入すると、途轍もない快感が得られる。快感はいくら人間が修行を積んでも簡単に得られるものではない。でもほんの少し白い粉を吸い込むことで途轍もなく楽しい気分になれる。精神分析の祖であるフロイトもこの効果にいち早く気が付いた一人だった。当時は軍医が兵士の疲労回復に使うくらいであったこの物質の麻酔効果や著しい快感を誘発する性質を知ったフロイトは、これこそが精神の病に効く万能薬だと考えた。

その頃脳の解剖学は殆ど知られていなかったが、コカインが脳のどこかに作用して快感を生むという事は明らかだった。そしてそれが人間が自然環境で得られる快感をはるかに凌駕するからこそ、人はその中毒となった。つまりそれを使用し続けて廃人の状態にまでなり得るという現象が生まれたのである。


2023年9月17日日曜日

米国の精神分析講義 2

 

 その系譜を説明するとしたらこの図のようになります。そしてこの関係論にはいろいろなものが合流していることが分かります。もちろんそれを言い出したのは対人関係論者だったわけです。だから両者は繋がった形で描かれているわけです。しかしもちろん対象関係論からも来ているわけで、それは精神分析の本流からも流れを汲んでいるわけですが、ウィニコットからも来ているわけです。それをこの図に何とか入れ込んであります。

ちなみにこの図は、毎年講義をするたびに徐々に複雑になっていきます。それがこのウィニコットを書き入れた部分、そしてフロイト時代のクライン、フェアバーンも書き入れて見ました。こうすることで関係精神分析がより一段と包括的に論じられると思ったからです。

2023年9月16日土曜日

米国の精神分析講義 1

 対象関係論勉強会の講義の季節だ。今回の私のテーマは米国の精神分析、特に関係精神分析である。以下のような始まりにしたい。


米国における精神分析として過去数年にわたって私が講義を担当しているのが、この関係性理論とか、関係精神分析という事です。そしてまず言葉の定義からですが、いわゆる関係精神分析、関係精神療法は、「関係性」というやや曖昧な使われ方を多少なりとも明確化するためにこのような言い方をしているという事です。そしてこの両者が並列的に用いられているという事からもわかるとおり、精神分析と精神療法を特別区別するようなやり方はしていません。両者ともある種の共通した理念を持っているならば同格に扱うという事です。そしてもちろんここで注意すべきことは、いわゆる対象関係論と対人関係論と間違えてはいけないという事、そしてもうひとつ,間主観性理論とも混同してはいけないという事です。

ただし同時に重要なのは、関係性理論は対象関係論と対人関係論の共通項を抽出するという事から出発しているという事です。そう、最初は関係性理論とは何も特別なものではなかったのです。ところがその様な言葉を使ったグリーンバーグとミッチェルのおかげで、この概念が独り歩きをするようになったというわけです。

2023年9月15日金曜日

 「ウィニコットフォーラム」にむけて

今年の11月27日にウィニコットフォーラムという研究会が開かれる。そこでのシンポジウムの発表内容をあれこれ考えている。しかしウィニコットは知れば知るほど偉大だ ・・・・。

 ウィニコットは大変な慧眼の持ち主であり、フロイトのすぐ後の世代にありながら、その理論は精神分析のはるか未来を予見していた。その関心は本能論や内的欲動論から離れ、乳幼児の置かれた環境、特に母親との関りの持つ意味とそれが生み出す病理に向けられた。そして患者を「満足な早期の体験を持てたことが転移により発見されるような患者[神経症の患者]と、最早期の体験があまりに欠損していたり歪曲されていいた患者[精神病、ボーダーラインの患者]とに区別し、特に後者を論じることで幼少時における関係トラウマ(A.ショア)の概念を見事に先取りしていたと言える。ウィニコットの侵襲の概念はトラウマの生じる過程を微細にかつ経時的に捉えた「トラウマの現象学」と言えよう。
 ウィニコットは生涯その理論を発展させ続けたことでも知られるが、晩年のウィニコット(1971)は彼独自の立場が精神分析に革命をもたらすべきものと考えていたようであり、その言葉は攻撃的ですらある。「抑圧された無意識を扱う時は、私達は患者や確立された防衛と共謀しているのだ。」そして「多くの素晴らしい分析によくある失敗は、抑圧の素材に隠された、解離された部分に関係している」とまで言う。そして「多くの素晴らしい分析のよくある失敗は、全体として見える人の用いた抑圧に関連した素材に隠された、患者の解離された部分に明らかに関連しているということを私たちはそのうち結論付けなくてはならない。」このように最晩年のウィニコットはトラウマや解離にますます傾斜していたといえる。
 ウィニコットの死後出版された「ブレイクダウンへの恐れ Fear of Breakdown 」(1974)」では、トラウマの本質的な性質について明らかにしている。すなわち母子関係の断裂(ブレイクダウン)が自己の成立以前に生じ、それは乳幼児に「すでに起きたにもかかわらず、まだ体験されていない」という。そしてそのためにその体験は自己から解離し、多くの精神分析プロセスを逃れると考える。ウィニコットはこのプロセスの説明のために、健全な自己においては、その部分が内側から外側へと凝集することで全体性を構成する、とした。そして母親の仕返しや狂気は、この凝集性の達成を阻害し、部分が解離されたままで残り続けることを示した。
 ウィニコットの症例の中には実際に人格の解離を呈していると思しき例が見らえる。特に「遊びと現実」(1971)の「男性と女性に見出されるべき、スプリットオフされた男性と女性の部分」(p.72∼74) から例を取り上げ、ウィニコットの治療姿勢について考えたい。

2023年9月14日木曜日

連載エッセイ 8 推敲の推敲 3

 分離脳が示す人の心の在り方

 最後に分離脳から見えてくる人間の脳と心の在り方について私なりの見解を述べてみたい。

 これまで書いたように、右脳は外部からの情報をまず大枠で取り込み、情緒的、道徳的な反応を行う。この右脳の最初の反応は左脳による説明や加工を受ける前の心という意味で私はそれを真なる心と呼んだ。他方では左脳は右脳の起こしかけた判断や行動について他者や自分自身に対して言葉で説明しようとする。そしてジルテイラーが示すように、左右の脳の機能は、お互いが抑制し合い、譲り合い、その結果としてその人の知性や経験を反映した常識的なものとなるだろう。

 しかしこれは左右脳がお互いに連絡を取り合い、連携することで成り立つのである。脳の部分は、それが周囲から孤立すると暴走する傾向にある。それは右脳についての、左脳についても言える。そしてそれが典型的な形で現れるのが、分離脳の患者さんの振る舞いだ。

 左脳は単独で働く際には、この作業をかなりあからさまに、ないしは機械的に行うのである。何しろ右脳に損傷のある人は、自分の動かない左手を見て、「それは私の手ではありません」と説明しようとさえするのだ。この主張は文章としては誤りではないものの常識では受け入れられない主張だ。でも左脳は平気なのである。それどころか右前頭葉の損傷などで妄想は一つの症状とさえなりうるという。また左脳の中でも運動性言語中枢であるブローカ野が感覚性言語中枢であるウェルニッケ野から切り離されると、ウェルニッケ失語症と言って、言葉は流暢で多弁ですらあるが、人の言葉を理解できず、また言い間違いが多く、意味のない言葉を羅列する等の様子が見られる。つまり喋る能力だけが切り離されて勝手に暴走しているロボットのようになってしまう。

 では右脳だけになった場合はどうか。左脳に切り離された右脳の振る舞いについては、ジルボルトテイラーの生の体験が非常に参考になる。彼女は自分が誰かもわからなくなり、自他の境界がなくなり宇宙と一体になったと感じたという。「左脳がついに完全停止を余儀なくされたとき、私は右脳の安らかな意識に包まれ、そこでは危機感がすっかり失われ、・・・・ただこの瞬間だけに存在してました。」

 要するに私が言いたいのは、左右の脳は相互補完的であり、2つがあって一つなのである。決して片方だけでは役に立たない。

しかしそれでも私は依然として、左右脳のうちで優位なのは右脳の方だと言いたいのだ。右脳は主で、左脳は従である。精神医学では実はさかさまで、言語野のある方(ほとんどの場合左脳)を優位半球、反対側(ほとんどの場合左脳)を劣位半球と呼ぶ。しかしこれは不正確で誤解を呼ぶと私は言いたい。

 本当は右脳が優位であるという点を忘れるとどうなるだろうか。それは左脳の産物を絶対視してしまうことにつながる。そしてそれは私たち現代人が、特に欧米風の考え方に毒されかけた場合に陥ってしまう問題でもある。例えば私たちの行動を規制しているのは、自然法則であり、法律である。そしてそれらは左脳により生み出され、磨き上げられるのである。自然科学の分野であれば、この左脳の優位性は必然なのだろう。いかに常温での超電導物質が発見されたという報告が人類にとって朗報の可能性があるとしても、厳密な論文の審査でその正当性が認められなければ、それが却下されることはどうしても必要なのだ。

 しかしもう一つの左脳の産物、すなわち法律はどうか。それが具体的に運用された時のことを想像しよう。あなたは被告の席に座り、原告の訴えがいかに誤っているかを主張している。そして非常に多くの場合、あなたは体験するのだ。「いくらこちらの主張の正しさを法的根拠をもとに主張しても、裁判官はそれを聞き入れてくれない。」目の前の裁判官はあなたの主張を生理的に好かないようで、あるいは最初から聞き入れる気がないように思える。そして裁判官は別の法的な根拠をもとにあなたの主張を却下する。そしてその様な体験を通してあなたが知るのは、誰かの右脳による行動を極めて巧みに正当化すべく用いられることがいかに多いか、である。

 いかに弱者を守り、強者の不正を取り締まるべく法律を整備しても、常に勝つのは自らの右脳に基づいた行動を巧みに正当化するべく左脳を働かせた人々である。もちろんそれをなし得るのは、ごく一握りのお金と権力者を有する人たちなのである。しかしその力や影響力は決して侮れない。某国Aが某国Bに軍事侵攻をした時、Aの大統領は自分達の領土を何としても広げたいという右脳の訴えにそのまま従ったことになるだろう。しかし彼の左脳はその行動を「B国にいるわが国民を守るための行動だ」と嘯き、驚くべき数の国々の支持を得る。

 この例のように弱肉強食の国際社会での紛争ほど、国連の決議という左脳の産物が無力化されてしまう例はないだろう。そこで生じているのは言葉を持たない猿の社会での右脳同士の弱肉強食の戦いと少しも違わないのだ。



2023年9月13日水曜日

連載エッセイ 8 推敲の推敲 2

 左脳は虚言症か、サイコパスか?

 さて次は左脳についてである。分離脳研究から伺える左脳の働きは、それがかなりのくせ者であることを教えてくれる。左脳は右脳が始めたことについてもっともらしい説明をする「説明脳」でもある。左脳は「すみません。わかりません」ということを言わない。ということは左脳は「嘘つき」ということであろうか? おそらくそうとも言えないだろう。嘘をつく、という感覚すら持ち合わせていないのだろう。

 このような左脳の特徴が極端な形で表されるのが、いわゆる「反側無視」という現象である。脳梗塞などで右脳の機能が広範囲で失われ、いわば左脳だけになることがある。そのような患者さんの多くに見られる現象が,この反側無視である。彼らは食事を出されても、お皿の右半分のものしか食べなかったり、時計を描いてもらっても、右半分に1から12までの数字を詰め込もうとする。それどころか動かなくなっている体の左側について問われても、「ほら、ちゃんと動いていますよ」と言うかと思えば、「これは私の手ではありません。あなたの手じゃないですか?」と言ったりする。(ちなみに逆に左脳の広範な脳梗塞が起きても、右側の無視という現象は起こらない。)

 このような左脳のあり方について、その由来を考えてみよう。先ほど赤ん坊はもっぱら右脳で生きていくという事情を説明したが、一歳を過ぎて子供が言葉を話すようになった時のことを考えよう。 子どもは言葉を覚え、自分の考えを伝えるという営みを覚える。それにワンテンポ遅れて子供が覚えるのは、自らを偽ることだろう。たとえば子供がおもちゃを乱暴に扱って壊してしまう。それに後で気が付いた母親が子供に「これやったの誰?」と問う。言葉はまだ出なくても叱られていることが分かった子供はおそらくうつむくだけだろう。しかし言葉を覚えると「僕じゃないよ。」とか、あるいは「〇〇ちゃん(一緒に遊んでいた友達)がやったよ」と言うかもしれない。言葉を覚えた子供がかなり早期から発見するのは、言葉が時には魔法のように働いて自分を窮地から救うということだ。本当でないことを言うことが自分にとっていかに(短絡的な意味でではあれ)自分に有利かという事だ。

 ただここで重要なのは、おそらく左脳に嘘をつく意図はないのだ。左脳は説明脳であり、ある意味では出まかせを生産するのである。そしてそれが虚偽であることを認識して後ろめたさを感じるとしたら、それはもっぱら右脳の方なのである。

 この件についてとても興味深い実験がある。Gazzaniga 達(Miller, et al, 2010)は分離脳患者に二つのストーリーを提示した。一つはある部下が上司を殺害しようとするが、毒と間違えて砂糖を盛ってしまった。(その結果殺害には至らなかった。)もう一つはある部下が上司に砂糖を提供しようとして間違えて毒をわたし、その結果殺害してしまった。これを右脳だけの人と左脳だけの人に聞かせると、何と左脳だけの人は、両者の道徳的な意味を区別することが出来なかったというのだ。

Miller, MB, Sinnott-Armstrong,W. et al. Abnormal moral reasoning in complete and partial callosotomy patients,Neuropsychologia,48(7)2010, 2215-2220.

 ただし以上の左脳の働きは、あくまでも右脳から切り離され、暴走気味になっているときの状態だ。右脳とカップルされた状態の左脳は、合理性を追求し、物事を秩序立てるといったポジティブな働きをする。ジル・ボルト・テイラーによる左思考脳の特徴を列挙すれば、その性質をもっとフェアにとらえることが出来る。言葉による、言語で考える、順序だてて考える、過去と未来に基づく、分析的、細部に注目、違いを探す、手厳しい、時間を守る、個別に、簡潔/正確、「私」を重視、意識的。つまりてきぱきと仕事を進めるときの左脳はまさに大活躍をするのである。


2023年9月12日火曜日

連載エッセイ 8 推敲の推敲 1

 ジルボルトテイラーの本で理解が非常に深まった。全体を書きなおす必要がある。推敲の推敲だ。


 第8回目は右脳問題である。今回このテーマについて扱う伏線は解離について論じた第6,7回目にあった。この流れで左右の脳の違い、特に右脳について論じない手はない。幸い私たちは近著WHOLE BRAIN 心が軽くなる「脳」の動かし方 ジル・ボルト・テイラー 竹内薫訳 2022年 NHK出版という強力な資料を得て、このテーマについてより深く考えることが出来る。

 最初に掲げた図は左右の脳の機能の違いについて一般的に言われているものを示したものだ。左脳では冷たい岩のようなものや、コンピューターに向かって事務作業をしている人たちが描かれている。右脳は自然豊かでいろどりがあり、人々はリラックスしたり体を動かしたり絵を描いたりして幸せそうである。

この図に書き込んだとおり、左右脳の特技は以下のように言われている。

  • 左脳 論理的、詳細志向、客観的、分析的、言語的、過去志向的。

  • 右脳 感情的、大枠志向、主観的、象徴やイメージ、抑揚やメロディー、未来志向。


しかしテイラー女史の本に従うならば、これをキャラ1~4に分けることになる。というのも、左右脳とも大脳皮質と大脳辺縁系(特に扁桃核)を有しているから、当然と言えば当然である。

それをあえて説明的に表すと以下のようになる。

左思考脳(キャラ1)、左感情脳(キャラ2)、右感情脳(キャラ3)、右思考脳(キャラ4)これらを以下に簡単に表す。

  • 左思考脳・・・・・・ 論理的、詳細志向、客観的、分析的、言語的、過去志向的。
  • 左感情脳・・・・・・用心深い、恐怖に基づく、猜疑心、融通が利かず、利己的、批判的
  • 右感情脳・・・・・・大らか、無条件で愛する、恐れ知らず、信頼、感謝
  • 右思考脳・・・・・・感情的、大枠志向、主観的、象徴やイメージ、抑揚やメロディー、未来志向。

テイラー女史の本を読むと、これまで左脳として強調されてきたのはどちらかと言えば左思考脳。右脳として強調されてきたのは、右思考脳だった。また右脳は左脳より発達が速いという考え方を少し修正されるところがある。たしかに左思考脳は遅れて発達するであろうが、左感情脳、つまり闘争・逃避反応を起こすような部分はかなり早い内から活動を回避する必要があるのだ。さもないとこの自然界に生きていけないではないか。そして問題は右感情脳が十分に成熟することが、左感情の制御にとってとても大事だという事である。



2023年9月11日月曜日

共感 4

 ここで一つ明らかにしておきたいことがある。私たちがこれまで意識レベルでの共感と簡単に言ってきたが、それは果たしてどの程度正確に可能なのだろうか。意識レベルのことだから両者にとって明らかであり、間違いが起きる余地などないのであろうか? 実はそれは決して容易ではなく、「当たりはずれ」や「オーバーシューティング」等も決して少なくないのである。

患者からの共感が「外れ」た臨床例

ある架空の事例である。

あるセッションの開始時に、セラピストと患者は朝のあいさつを交わす。しかし患者はセラピストがいつものようにこちらに目をしっかり向けて挨拶をしなかったような気がした。そう言えばセラピストの相槌の打ち方もぞんざいな気がした。患者は思い切って尋ねてみた。

患者:「先生は今日は疲れていて、セッションに気乗りがしていないのではないか? 何かあったのですか?」

治療者:え? そうですか?・・(セラピストはその様な「疲れ」や「気乗りのなさ」を特に自覚していない。)

ところでこの章は精神分析的な枠組みについての議論から始めたが、本来無意識レベルでの理解には、分析的な(象徴レベルでの)解釈以外の様々なものが含まれる可能性がある。ちょっと挙げただけでも以下のものが考えられる。

直感により知るもの、身体レベルでの理解、いわゆるフェルトセンス、ソマティックマーカー仮説(ダマシオ)、マルチモーダルな体験 multimodal input,ミラーニューロンによる媒介などなど。そしてこのように考えると、実は結局共感を意識レベル、無意識レベルに分けて考えることにはあまり意味がないであろう。

また精神分析の分野でも治療は患者の無意識ではなく「未構成の経験 unformulated experience」を扱う(D.Stern,2014)という立場が見られる。それによれば共感すべきものがはじめからそこにあるとは限らない。共感内容は実は両者により構成される可能性があるという考え方が成立するのだ。


注) ソマティックマーカー仮説

アイオワ・ギャンブリング課題などで、健常者は実験者の方略に気づくより前に課題成績が向上し、前頭葉腹内側部 vmPFC 損傷患者では適切な方略に気づいても成績は変わらなかった。

適切な意思決定にはvmPFC が引き起こす無意識の情動的身体反応が不可欠であると提案した。それがAntonio Damasio らにより提唱されたソマティックマーカー仮説である。


2.認知心理学的、脳科学的な共感の理解

「共感」の分類

ここで共感とは「他者の体験を目にした際に人が示す反応 」というデイビス(Davis,1994)の定義に従って話を進める。共感は以下の二つに分けられることが多い。

情動的な共感(人の情動を理解すること:熱い認知)

認知的な共感(人の思考を理解すること:冷たい認知)=心の理論(ToM)

Davis, M.H. (1994). Empathy: A social psychological approach. Madi son: Brown & Benchmark Publishers.


さらに共感の種類としては以下の①~③が提唱されている。

① 情動的な共感

  認知的な共感 = 心の理論(ToM)

② 認知的なToM 人の思考を認知的に理解する

③ 情動的なToM 人の情動を認知的に理解する