2023年7月31日月曜日

トラウマとPD 推敲 3

 発達障害とPD

 発達障害についての認識が高まるにつれて、従来のPDの分類にとりわけ大きな影響を与えたのが、DSMのカテゴリカルなPDの分類のうちA群に属するスキゾイドPDやスキゾタイパルPDである。DSMのスキゾイドPDは「社会的関係からの離脱および全般的な無関心ならびに対人関係における感情の幅の狭さの広汎なパターンを特徴とする」(DSM-5)(DSM-5)とされた。要するに「関係が希薄で孤立傾向のある人」は、DSMにおいてはスキゾイドPDやスキゾタイパルPDに属するものとして理解されて来たのである。しかし神経発達障害についての関心が高まるにつれて、これまでそれらに属すると理解されてきた人の一部は、実は発達障害に該当するのではないかと考えられるようになったのである。DSM-5及びDSM‐5‐TRでは、スキゾイド、スキゾタイパルPDについては神経発達障害との鑑別について言及されているものの、その記載には明確さを欠いているという印象を受ける。

 さらにはDSM-5の作成段階ではスキゾイドPDという概念の処遇そのものが問題とされたという。そしてそもそもスキゾイドPDという診断がまれであり、削除されるべきとの案もあったという(織部, 鬼塚 2014)。結局DSM-5の第3部に所収されたPDの「代替案」からは、スキゾイドPDの名称が消えることとなった。そしてそれが「感情制限型」と「引きこもり型」に解体され、それぞれをスキゾタイパルPDと回避性PDに分けられるという方策がとられたという(織部, 鬼塚 2014)。(織部直弥、鬼塚俊明、シゾイドパーソナリティ障害/スキゾイドパーソナリティ DSM-5を読み解く 5 神経認知障害群、パーソナリティ障害群、性別違和、パラフィリア障害群、性機能不全群 神庭重信、池田学 編 中山書店 2014 pp171-174.)。 

 筆者もまた従来のDSMにおける上述のスキゾイドPDの定義に合致するような、人に関心もなく、こころも動かないような人間はそもそも稀ではないかと考えていた。一見そのようなふるまいをする患者の多くは実は対人場面でぎこちなさを自覚し、緊張するという体験を持っているのがふつうである。そしてスキゾイドPDの代わりに残ったスキゾタイパルPDは、「関係念慮、奇妙な/魔術的思考、錯覚、疑い深さ、親しい友人の欠如」に続いて「過剰な社交不安」(DSM-5)が挙げられている。つまり従来スキゾイドPDと呼ばれていた人々は、実は恥の感情に悩む側面を持つものとして再概念化されたことになる。そしてそれらの中にASDが含まれている可能性があるのだ。

 むろん神経発達障害とPDは異なる疾患概念である。しかし両者はいずれもソーシャルスキルの低さという点において共通した特徴を持っている。そして両者の特徴を備え、どちらかに分類することのできない人々が多いと考えるべきであろう。

 ちなみに私がここで述べた考えの証左となるような研究もおこなわれている。ASDとPDとの違いについての研究は散見されるが、そこで強調されることの一つは、ToM(セオリーオブマインド、心の理論)ないしは社会的認知(social cognition (SC))との関連である。ToMとは要するに他人の心の状態をどの程度理解できるかという問題である。ある研究はASDとスキゾイドPD、スキゾタイパルPDとの鑑別が一番難しいというDSM-5の記載を受けて、両者における社会的認知の欠陥の程度を調べた。Booules-Katri らはadvanced ToM test を、ASDとスキゾイド/スキゾタイパルPD、コントロール群に実施した。このadvanced ToMというテストは情緒コンポーネントと認知コンポーネントに分かれるが、ASDでは両方が低かったのに対し、スキゾイド/スキゾタイパルPDでは明らかに認知コンポーネントが低かったという。またStanfield 達はfMRIで社会的認知を調べ、扁桃核の興奮がスキゾタイパルPDで見られたという。そしてこれはASDではSCが低く、スキゾイドでは高いという説だけでなく、スキゾタイパルPDでも感情は動いているということを示していることになる。

 ともかくもこのASDに対する関心の高まりがもたらしたのは、PDの概念に神経発達障害的な要素を読み込まないという従来の方針は理屈に合わないのではないか、ということである。これとの関係で、ICDではASDスキゾタイパル、cyclethymic OCD CPTSD などについて、それはPDに重なる点を認めるものの、あえて個別のPDを診断することには抑制的な記述がみられる。p.517 ただしもう一つの方針としては、PDも診断につけるという形もあり得るだろう

2023年7月30日日曜日

連載エッセイ 6 推敲その1

  全体で12回(一年間)という約束でお引き受けしたこの連載も、今回が6回目である。すでに曲がり角に来たわけだ。最初はどのような方向に筆が向かうかを分からずに、ただ書きたいことは沢山あるだろうと思い、書き始めた。その後はだいたい前回の内容に連続性を持つ形で執筆することにしている。全体的な方向性はまだ見えてこないがあまり気にしていない。脳科学とは膨大な領域であり、しかもわからないことばかりだ。体系立てて論じようとしてもその手掛かりがつかめないのだ。そこで書いているうちに自然と方向が定まるだろうと思い、書いてきた。

 このようなあてどのない連載を読む方々には迷惑な話かもしれないが、実は書いている私は確実に考えが進んでいる。その結果として見えてきた部分とさらに見えなくなってきた分自覚されるようになってきているのだ。

 ただしここまでの、心とは何か、脳とは何か、AIとどこが違うのか、というやや漠然とした議論よりもう少し具体的な話を読者は期待しているのではないだろうか。例えば精神医学の対象となるような病気について話題にした方が読者も興味を持つのではないかと思う。そこで今回は解離性障害について、それを脳科学との関りから論じたい。


 解離性障害、と言われてもピンと来ない方のほうが多いかも知れない。いまだに精神医学の中でも市民権を得たとは言えないのがこの解離性障害という疾患である。いや、ここで「疾患」と書いたが、実は解離はむしろ特殊能力と言った方がいいのかもしれない。特に幾つかの人格が主体性を持って振舞うという様子(いわゆる多重人格障害、ないしは解離性同一性障害、以下「DID」と記載する)を目の当たりにし、しかもそのような人々も私たちと同じ人間だということを実感する時にそう思う。解離とは私達の脳に潜在的に備わっている能力である可能性がある。そして特定の人の脳においては、それが非常に研ぎ澄まされた形で発現するらしいのだ。

 ただし解離性障害にはそれ相当のネガティブな面を伴うことも多い。それは症状がコントロールを失って暴走してしまう場合があるからだ。例えばいくつかの自己が複数混在したような状態(つまりDID)では、当人は相当の混乱をきたし、社会的な機能が一時的に停止してしまうことさえあるのだ。


2023年7月29日土曜日

トラウマとPD 推敲 2

トラウマとPDについて
 トラウマ関連障害とPDとの関係性を考える上で格好の材料を提供しているのが、ICD-11に新たに加わった複雑性PTSD(CPTSD)である。これはPTSD症状と「自己組織化の障害 (Disorder of Self Organization, DSO)」 の複合体として定義づけられているが、後者の「自己組織化の障害」はそれ自身が繰り返されるトラウマの影響として備わったパーソナリティ傾向ということになる。 以下は飛鳥井の訳を借りよう。
飛鳥井望 (2020) 3章 ストレス関連症群「複雑性心的外傷後ストレス症」(pp.255-260)講座精神疾患の臨床.不安又は恐怖関連症群強迫症、ストレス関連症群 パーソナリティ症.p.258)2020.中山書店.

自己組織化の障害
感情制御困難(AD):感情反応性の亢進(傷つきやすさなど)、暴力的爆発、無謀なまたは自己破壊的行動、ストレス下での遷延性解離状態、感情麻痺および喜び又は陽性感情の欠如。
否定的自己概念(NSC):自己の卑小感 敗北感、無価値観などの持続的な思い込みで、外傷的出来事に関連する深く広がった恥や自責の感情を伴う。
対人関係障害(DR):他者に親密感を持つことの困難、対人関係や社会参加の回避や関心の乏しさ。

 この記載を見る限り、これらが自ずと一つのパーソナリティ傾向を形成していると見ることが出来る。実際幼少時にトラウマを負った多くの患者と臨床場面において出会う際に、彼(女)達に一定の性格傾向を感じ取ることが出来るが、それは概ねこの自己組織化の障害の概念により言い表されていると感じる。それは自分の存在を肯定されていないこという考えに由来する自信のなさや周囲に迷惑をかけているという罪悪感や後ろめたさ、そして対人関係に入ることへの躊躇である。
 この「自己組織化の障害」が表すようなPDは、ICD-11におけるディメンショナルモデルにおいて表現されうるであろうか。おそらくそれはなどの顕著なパーソナリティ特性および、ボーダーライン等により特徴づけられるのであろう。ではDSMにおけるカテゴリカルなPDは存在しただろうか。離隔や非社交性、否定的感情などを考えれば、回避性PD、スキゾタイパルPD等が浮かぶが、欧米の精神医学の文献では、それとBPDとの異同が盛んに取りざたされている。

 思えばJ.Herman が1990年にCPTSDの概念を提出した際には、BPDの代替案という意味合いが色濃くあったことを思い出せば、この事情には納得がいく。(Ford, Couerois,P1)本来BPDはトラウマに由来するものではないかという仮説は数多くの識者により提出されたのである。実際に情緒的な虐待とネグレクトは、その他のPDを有する人に比べて3倍多く、健常人に比べて13倍多いとされる(Porter, Palmier-Claus,et al, 2021)。その後、繰り返されるトラウマがパーソナリティに与える影響に関しては、DESNOSなども提案されたが、DSM-IVやDSM-5に採用されることはなかった。ただしDSM-5では、PTSDの概念が拡張され、そこにBPDにおいてみられるような診断基準(アイデンティティの障害、対人関係上の不信感、情動の不安定さ、衝動性、自傷行為など)が追加された。そしてICD-11では最終的にCPTSDが掲載されるに至った。このようにPTSDとBPDの合併症とCPTSDは区別されるべきかという議論は学会でかなり論じられてきた(Cloitre, p1.)(cloitre, p1.)このような経緯からも、自己組織化の障害はCPTSDとBPDに共通しているというのが概ねの見解であるようである。
 しかしCPTSDのパーソナリティ傾向とBPDのそれはやはり異なる。Cloitre は、ある研究で、DSOはCPTSDとBPDに見られるとしているが、その上でBPDの場合にはそれ以外にも、以下の4つが特徴的であった。すなわち見捨てられまいとする尋常ならざる努力、理想化と脱価値化の間を揺れ動く不安定で激しい対人関係、著しくかつ持続する不安定な自己イメージや感覚、衝動性、である。これらはCPTSDでは低いことから、それ等の存否で両者は区別できるとした。これは一定の尊重すべき見解であろう。またBPDの方がはるかに自殺や自傷行為は高いと報告した。(飛鳥井p。259)
Ford JD, Courtois CA. Complex PTSD and borderline personality disorder. Borderline Personal Disord Emot Dysregul. 2021 May 6;8(1):16. doi: 10.1186/s40479-021-00155-9. PMID: 33958001; PMCID: PMC8103648.
Cloitre M, Garvert DW, Weiss B, Carlson EB, Bryant RA. Distinguishing PTSD, Complex PTSD, and Borderline Personality Disorder: A latent class analysis. Eur J Psychotraumatol. 2014 Sep 15;5. doi: 10.3402/ejpt.v5.25097. PMID: 25279111; PMCID: PMC4165723.
Porter C, Palmier-Claus J, Branitsky A, Mansell W, Warwick H, Varese F. Childhood adversity and borderline personality disorder: a meta-analysis. Acta Psychiatr Scand. 2020 Jan;141(1):6-20. doi: 10.1111/acps.13118.

2023年7月28日金曜日

トラウマとPD 推敲 1

この原稿,をずっと放っておいた。

 パーソナリティ障害 personality disorder (この論考では以下、PDと表記する)に関する議論は近年大きく様変わりをしている。DSM-5(2013)においては、DSM-III以来採用されていた多軸診断が廃止され、またそれまでの10のPDを列挙したいわゆるカテゴリカルモデルに代わり、ディメンショナルモデルが提案された。それらはその顕著な表れと言えるであろう。PDがいかに分類されるべきかという問題とともに、そもそもPDとは何かについても問い直すという、いわばPD概念の脱構築に向けた動きが起きていることを感じさせる。しかしそれは容易には終わりが見えない議論へと私たちを導く可能性がある。
  かつて私は、以前のカテゴリカルなPDの一部は、別のものに置き代わっていく可能性があると論じた(発達障害とパーソナリティ症の鑑別の仕方、精神医学、最新号)。PDとは思春期以前にその傾向が見られ始め、それ以降にそれが固まるとして定義づけられている(DSM-5)。それはいわば人格の形成の時期に自然発生的に定まっていくもの、というニュアンスがあった。
 ところが最近愛着の障害、あるいは幼少時のトラウマの問題や神経発達障害について広く論じられるようになるにつれて、それらがパーソナリティの形成に大きな影響を与えるという考え方は、すでに私たちの多くにとって馴染み深いものになっている。私達の臨床感覚からは、人が思春期までに持つに至った思考や行動パターンは、生まれ持っての気質とトラウマや愛着障害、さらには発達障害的な要素のアマルガムであることは極めて自然なことに思える。PDをそれらとは別個に、ないしは排他的に扱うことは、あまり臨床的な意味を持たないであろう。
  ICD-11で採用されたディメンショナルモデルによるPDの分類は、パーソナリティを構成する因子群(例えば5因子モデルのそれ)に基づくが、トラウマ関連障害や神経発達障害との鑑別についてはやや歯切れの悪い記載が見られる。それも上記の事情からはやむを得ないと考えるべきであろう。以下にトラウマ関連障害と神経発達障害がPDの概念や分類に与えた影響について簡単に整理してみたい。

2023年7月27日木曜日

連載エッセイ 6の10

  

Bing に体外離脱の絵を描いてもらった。しかしかなり手直しをする必要があった。


コンピューターでは可能なタイムシェアリングが、人間にはなぜ不可能なのだろうか?それを考える際には、人間の右脳を構成する神経系のスピードの速さとコンピューターの情報処理の速度が参考となる。たとえばCPUのスピードが1ギガヘルツのパソコンなら、1秒間に10億回、「1+1」の演算が出来ることになる。それに比べて脳のニューラルネットワークは1秒間にせいぜい数百回程度得あるという。つまり脳の場合は一秒間にせいぜい数百個の電気パルスを出すに過ぎないということだ(前野, 2004))。つまりつまり計算の速度はコンピューターと脳では100万倍以上の差がある事になる。これではすり替わったとしての目の粗さは歴然である。分身の術を使うために出来る限り素早く入れ替わったとしても、スピードが十分速くないと、「あ、二人いる」という錯覚は生まれないわけだ。というわけで人間の脳については、タイムシェアリング型はボツということになる。

前野隆司(2004)脳はなぜ「心」を作ったのか。―「私」の謎を解く受動意識仮説. 筑摩書房p.199)


人間の脳のマルチコアとしての性質


 多重人格状態をパソコンにおいて複数のアプリが立ち上がった状態になぞられた場合、タイムシェアリングは不可能らしいということになった。ではマルチコアはどうだろうか? ここでお断りしておくならば、人間の脳は生まれながらにしてデュアルコアなのである。それは脳が基本的には右脳と左脳に分かれており、それぞれがある程度独立して機能していると考えられているからである。


2023年7月26日水曜日

連載エッセイ6の9

    この仕組みは次のようだ。昔コンピューターが一つのCPU(中央演算装置)しか持っていなかった時は、「タイムシェアリング」という技術を用いていたという。それはある瞬間にはアプリAを、次の瞬間はアプリBを、と行ったり来たりしていたのだ。つまり一秒間に何度も行ったり来たりして、時間を二つのアプリで分けるということをしていたのだ。どうりで昔のパソコンは、同時に二つのプログラムを立ち上げると、どちらも「遅く」あるいは「重たく」なったり、すぐフリーズしたりしたものだ。

 ちなみに最近ではコンピューターはデュアルコアといって、CPUを二つむようになり、そのうち最近では8つを積むマルチコアになっているという。するとそれぞれのコアが一つのアプリを担当して専門にやるということが出来る。こうなるといくつものアプリを立ち上げていても、どれもがサクサク動くのである。


人の心はタイムシェアなのか、マルチコアなのか?


  ではこの二つのモデルは実際の人間の脳ではどの程度実現するのであろうか。おそらく私たちの脳に起きている可能性のあるのは、一種のタイムシェアリングであることはすぐに思いつくだろう。例えば私たちは他人に対して何かを言うとき、「これは聞いている方からはどう取られるだろう?」ということをよく考える。あるいは何かを言う前に、「今私がこれを言ったら相手はどう感じるだろう?」と考えることがある。ある種の共感能力といっていい。「相手の立場に立って考える」というのは私たちの心の基本的な性質や能力として備わっていると考えていいだろう。その意味では上に挙げた二つのゲームアプリが交代するような「すり替わる王なモデル」が可能かもしれない。しかし問題は、そのすり替わりのスピードなのだ。

 忍者漫画に出てくる分身の術では、忍者が半秒と同じ場所に留まらず、次々と場所を移し、その残像が、あたかもそこに複数の人間の存在という印象を与える。しかしそれがAという人格とBという人格の共存という錯覚にまで結びつくのだろうか。

 ちなみに多重人格状態においてこの「すり替わりモデル」を唱えたのは、かのフロイトであった。フロイトは「心は一つ」を信奉する人であったが、以前に目にしたことのある多重人格のことがどうしても気になったらしい。何しろ先輩のブロイアーによって治療されたアンナO等は典型的な多重人格症状を示していたからだ。そして後の1936年になって離人症について言及したついでに、この説を唱えている。


「離人症の問題は私たちを途方もない状態、すなわち『二重意識』の問題へと誘う。これはより正確には『スプリット・パーソナリティ』と呼ばれる。しかしこれにまつわることはあまりにも不明で科学的にわかったことはほとんどないので、私はこれについては言及することは避けなくてはならない。」(Freud, 1936. p245)」

  つまりフロイトは解離を否定しつつも、多重人格状態に関する仮説的な考えを表明していたのだ。1912年の「無意識についての覚書」の中でフロイトは多重人格について、いわば「振動仮説」とでもいうべき理論を示している。

「意識の機能は二つの精神の複合体の間を振動し、それらは交互に意識的、無意識的になるのである (Freud, 1912,p.263) 。」


Freud, S. (1936) A Disturbance of Memory on the Acropolis. SE. 22:237-248.
Freud, S. (1912) A Note on the Unconscious in Psycho-Analysis. SE. 12:p263.


 しかし現代の脳科学の知見からは、このようなことは実際に起きないであろうと考える。コンピューターのタイムシェアリングやフロイトの「すり替わりモデル」と違い、AやBの状態でそれぞれ一定の体験を持つことにはそれなりの時間を用いる必要があるのだ。

  その一つの例として挙げられるのが、以下の騙し絵である。これは有名なルビンの壺であるが、二人の人間の横顔が向き合っていると取るか、それとも燭台を前にした一人の顔をとして見るかは、それぞれを一度しかできない。高速でスイッチして、両方が見える、という状態には至らないのである。

(Edelman, Tononi, 2000, p.25)Edelman, G., & Tononi, G. (2000). A Universe of Consciousness. New York: Basic Books.




2023年7月25日火曜日

連載エッセイ 6の8

  ただしこの体外離脱体験の場合、「誰かに見られていました」というBさんの声が聞けないことも少なくない。普通はそうである。あくまでも体から離脱したという体験が語られることが多い。というのも体の方に残った意識の体験はしばしばボンヤリしたもので、記憶に残ることは少ないからだ。あるいは「何か夢を見ているようだった」と表現することが多い。つまり体験としての解像度は低く、そのスペックもかなり小さいということになるだろう。白黒画面で、それも視界にボンヤリ何かが映っているような、うつろな体験。寝ぼけている時の私たち、あるいは麻酔薬が効いていて朦朧としているような状態がこれに相当するであろう。そしてこの感覚の解像度の低下はとても重要な事であり、そもそもこの種の意識A,Bの解離は、痛みを軽減し、その為に心身を麻痺させるという目的があったからである。 

 さて以上は体外離脱という、多くの私たちが実際に体験する可能性のあるものである。そして意識A,意識Bとの間には解像度の差があり、どちらかが優勢で、もう一つの方はあまり記憶に残らないという傾向にある。しかしいわゆるDID(解離性同一性障害)等の場合、人格Aと人格Bはかなり対等で、主格の差がないような体験となることが多い。Aが現実の世界である体験をしている間Bはそれを傍観する。別の場面ではそれが逆転するという形をとるのだ。そしてAさんとBさんは別々に自分の体験を語ることになる。

  ここでも通常A,Bが混じることは普通は起きない。つまり「私はAとして相手を見ているのと同時に、Bの立場になって見られていました」という証言は得られない。あたかも二人の別々の人間が、別々の体験をしていることと同等のことが起きる。言い換えれば心は複数同時に存在することになる。

  解離性障害の脳科学的な理解は、まさにこのことから始まるべきなのである。ところがその糸口は事実上得られていない。何度か強調したことであるが、古今東西の哲学や文学や精神医学は、心は一つという前提や了解事項を抜け出していないのだ。私がこの連載でかつて5回にわたって論じた内容も、特に解離現象について論じなかったわけであり、結局は心が一つという前提を抜け出していなかったのである。意識やクオリアといった、心にとってあれほど本質的な事柄について論じた前回も、心の多重化などということについては私は全く触れなかったのである。


脳で何が起きているのか? コンピューターとのアナロジー


  さて解離とは何かを読者の皆さんにもなるべく直感的に分かってもらえるように、幽体離脱の例を挙げた。もし自分が、あるいは目の前の友人や家族が解離を起こした場合、それを体験的に理解しようとしたら体外離脱のようになる。これは体験としてそうなるという事ではあるが、その時に脳科学的に何が起きているのか、ということについては、本当のところ何もわかっていないとしか言いようがない。

 考えても見て欲しい。心は脳の活動から生み出される、というのが私たちの基本的な考え方である。前回も述べたいわゆる「随伴現象説」だ。そしてその心の存在は、その人の言葉や表情や行動により表される。これは常識的に私たちが前提としていることである。ところがその人は、ある時は私はAだ、と主張し、また別の時は自分はBだという。これをどう説明することが出来るだろうか。

 この議論を進めるにあたり、コンピューターのアナロジーに勝るものはない。そこで「自分はAだ」と名乗っている時には、Aというアプリ、ないしはプログラムが起動していると考えよう。そして今度は「自分はBだ」という時はBというアプリが起動している。このようなアナロジーを考える。このように考えると、人格が二つ存在するという状況を想像することは比較的容易だろう。

 おそらく一番好都合なのは、AというアプリとBというアプリが互いにスイッチするとという状態になぞらえることだ。このように考えると人間の脳の働きについて、何も特に新しいシステムを考える必要がない。人の心は常に各瞬間には一つの心しか起動していないことになる。

 ただしアプリAは、アプリBが立ち上がるや否や、あるいはその前の瞬間に終了しなくてはならない。昔のファミコンでいえば、二つの別々のゲームA,Bというカートリッジをさっと入れ替えることになるだろう。何しろ二つを同時に差し込むことなどできないのだから。このモデルを意識(ないしはアプリ)の「すり替わりモデル」と呼ぼう。

   ところが実際はこうではないことを私たちは知っている。それは幽体離脱を体験した人が証言することだ。Aさんの状態で「私は~と言いました」と言い、Bさんの状態で「私はAが~と言っているのを内側で聞いていました。」ということは、アプリAとアプリBは同時に起動していて、一方が他方を、あるいは互いに相手を観察しているということになる。これは「すり替わりモデル」では説明できないことだ。

 さてコンピューターの操作に慣れている私たちは、実はこのことに驚かないだろう。ユーチューブの音声だけを聞きながら、ワードで文章を作成する、などのことを私はしょっちゅうやっている。複数のアプリの同時の起動など当たり前のことなのだ。

 

2023年7月24日月曜日

連載エッセイ 6の7

 全体で12回(一年間)という約束でお引き受けしたこの連載も、今回が6回目である。すでに曲がり角に来たわけだ。最初はどのような方向に筆が向かうかを分からずに、ただ書きたいことはいくらでもあるだろうと思い、書き始めた。その後はだいたい前回の内容に連続性を持つ形で執筆することにしている。全体的な方向性はまだ見えてこないがあまり気にしていない。脳科学とは膨大な領域であり、しかもわからないことばかりだ。体系立てて論じようとしてもその手掛かりがつかめないのだ。そこで書いているうちに自然と方向が定まるだろうと思い、書いてきた。
 このようなあてどのない連載を読む方々には迷惑な話かもしれないが、実は書いている私は確実に考えが進んでいる。その結果として見えてきた部分とさらに見えなくなってきた部分自覚されるようになってきているのだ。
 ただしここまでの、心とは何か、脳とは何か、AIとどこが違うのか、というやや漠然とした議論よりもう少し具体的な話を読者は期待しているのではないだろうか。例えば精神医学の対象となるような病気について話題にした方が読者も興味を持つのではないかと思う。そこで今回は解離性障害について、それを脳科学との関りから論じたい。
 解離性障害、と言われてもピンと来ない方のほうが多いかも知れない。いまだに精神医学の中でも市民権を得たとは言えないのがこの解離性障害という疾患である。いや、ここで「疾患」と書いたが、実は解離はむしろ特殊能力と言った方がいいのかもしれない。特に幾つかの人格が主体性を持って振舞うという様子(いわゆる多重人格障害、ないしは解離性同一性障害、以下DID)を目の当たりにし、しかもそのような人々も私たちと同じ人間だということを実感するとそう感じる。解離とは私達の脳に潜在的に備わっている能力である可能性がある。そして特定の人の脳においては、それが非常に研ぎ澄まされた形で発現するらしいのだ。
 ただし解離性障害にはそれ相当のネガティブな面を伴うことも多い。それは症状がコントロールを失って暴走してしまう場合があるからだ。例えばいくつかの自己が複数混在したような状態(多重人格障害、あるいは解離性同一性障害とも言われる)では、当人は相当の混乱をきたし、社会的な機能が一時的に停止してしまうことさえあるのだ。
解離性障害の基本形としての体外離脱体験
 私が解離性障害について理解していることを伝えるときは、大概は体外離脱の話から始める。私は不幸にしてこれを経験したことがないが、たとえ解離性障害の基準を満たしていなくても、同様の体験を一度でも持った方はかなり多いはずだ。
 体外離脱体験とは、自分の肉体から抜け出た体験のことである。自分がある人から殴られているとする。その瞬間、心がすっと体から離れて後ろや上に浮かび上がる。そしてたたかれている自分を見下ろしているのである。この現象は脳の外傷、臨死体験、特殊の薬物の使用の際などに報告されるが、この例にあるようなある種のトラウマ的な体験に際して起きることもある。さらにはある事に熱中している時に起きることもある。ピアニストが演奏に没頭している時に、演奏をしている自分を見下ろすといった体験を聞くこともある。だからこれは決して病的な体験と決めつけることは出来ないのだ。
 この幽体離脱の体験は不思議としか言いようがないが、「なぜそのようなことが起きるのか?」という疑問への答えはまだまったく見つかっていない状態である。むしろ「(私達の脳や心においては)そのようなことも十分に起きうるのだ」と言うことを受け入れ、そこで何が起きているかをさらに知る必要があるのだ。
 ではこの体外離脱をもう少し深く観察すると何が分かるのかと言うと、実はこれは主体が二つに分かれる、いや、突然二つが共存するという現象だ。ここで私が思わず「分かれる」と思わず言いそうになったが、実際に昔の学者たちはそう考えたのだ。一世紀以上前のS.フロイトやP.ジャネは。この現象を「意識のスプリッティング(分割)」と捉えたのだ。1800年代の終わりに人々がこのような不思議な現象に注目するようになった時、まず心のエキスパートたちが考えたのは、「ああ、このようにして心は、意識は二つに割れるのだ」ということだった。実はこのスプリッティングというのは、実に悩ましい話だ。というのも古今東西人間は自分の心が一つであることにあまり疑問を抱かずに過ごしてきたからだ。誰だって「自分はもう一つの自分を持っている」というようなことは認めないであろうからだ。第一もう一つの自分がいたとしたら、この私はどうなってしまうのだろうと不安になってしまうだろう。
 上の幽体離脱の例を用いて、実際にどのようなことが起きているのかを考えよう。

最初からあった意識をAとしよう。それはある時身体から遠ざかった(離脱した)という体験を持つ。そして自分を外側から俯瞰するという、これまでにない体験を持つことになる。さて問題は、叩かれている意識、すなわち体に残っている意識Bも存在するということだ。これがどの様に、どこから生まれるのかが、精神医学的にも脳科学的にも実は全くわかっていないのである。ただしそれも意識として体験され得るということだ。
 解離に関する研究で有名な、柴山雅俊先生がいらっしゃる。彼の著書「解離性障害」(ちくま新書、2007年)という名著があるが、そのサブタイトルは「『後ろに誰かがいる』の精神病理」 というものである。先生は解離性障害の患者さんの多くが「誰かが後ろにいるような気がする」という体験を持つことを論じた。このことは上で論じた幽体離脱と実にうまく重なる現象だと思う。つまり後ろにいるのは「もう一人の自分」というわけだ。彼は「存在者としての私」と「まなざしとしての私」の分離という言い方もしている。(「解離の舞台 症状構造と治療 柴山雅俊、金剛出版、2017年)

2023年7月23日日曜日

連載エッセイ 6の6

 人間の脳は少なくともデュアルコアである

以下は前著(解離性障害と他者性、2022)のp.102以降の抜粋を多く含む。

 脳は右脳、左脳に分かれている。その組織は脳幹部や松果体という部分を除いてそれぞれ左右一対が備わっている。だから右脳も左脳も、それぞれが独立したシステムということが出来るのだ。ただし左右脳は脳梁という橋渡しにより連携している。脳梁は二つの脳の間を約二億本と言われるケーブル、すなわち神経線維による連絡路なのだ。下の図は脳の左右を押し開いて、その脳梁の部分が露出するように描かれている。

 この脳梁というケーブルにより、左右の脳はものすごい速さで情報をやり取りしているので、右の心と左の心という二つの心を持っているという自覚がない。 でも実際はそうなのだ。

104) (Edelman, GM, Tononi, G, 2000) より

もしこの脳梁が切断されたとすれば、そのことが分かることが知られている。例えば一方の脳に発生した癲癇の波が他方の脳に広がらないようにするために、この脳梁が切断されるということがある。するとなんと左の脳 (右半身の体の活動に表される)と右の脳 (左半身の体の動きにより表される) がバラバラに機能するということが起きる。たとえば右手でボタンをかけようとしても、左手ではそれを外そうとするということが起きる。これはまるで二人の別々の人間が体の中に存在しているかのような事態である。そしてこのことは、実は私たちは自然な状態では二人の心を持っているものの、それらが脳梁により連絡を取り合っているために、両者の間での合意や妥協形成がなされ、結果として両者が一つになっているという錯覚を抱いている可能性があるのだ。そのような右脳と左脳は互いに葛藤関係になる可能性があるが、それは私たちが自分の心に起きていることを少し反省してみることである程度は自覚的になれるかもしれない。  例えばあなたがダイエットをしていて甘いものをなるべく控えようとしているとしよう。しかし夕食後についいつもの週間でチョコレートをひとつつまもうとする。すると心の中で「ちょっと待った! 間食はやめることにしたんじゃないの?」 とたしなめる自分の声がするだろう。いわゆる葛藤を体験することになるのだ。そしてその声を聞いた後に最終的にチョコレートを口に入れてしまおうか、それとも我慢しようかという結論を出すであろう。それは強い方の声に従った結果かもしれないし、そんなことでいちいち迷っていられないので心の中で適当にサイコロを振った結果かもしれない。ともかくもこのような葛藤は私たちが日常的に数多く体験していることのはずだ。そこではおそらく二人の自分が戦うということを意識することなく、妥協をして自分の中でその矛盾を収めることになる。ところが離断脳の場合はまさにその葛藤を体験できず、右脳と左脳がお互いに他者同志として共存し、異なる行動を取ろうとするのだ。

 ところで脳梁が脳梗塞や脳出血などで破壊されても、やはり左右脳の情報の交換が出来なくなって離断脳の状態になり、脳梁を切断された人と同様に、左右の脳はいわばバラバラに動き出す可能性がある。それがいわゆる「他人の手症候群 alien hand syndrome」と呼ばれる状態である。その場合には一つの手が自分の意志に逆らって勝手に動き出すという症状を示し、それは一般的には拮抗失行と呼ばれ、右手が随意的、意図的な行動を行おうとすると、左手がそれに関係ない、あるいは拮抗する動きを見せる。  さらにこの離断脳の状態は難治性の癲癇の治療のための外科手術により結果的に生じることもある。ただしこの脳梁の部分に麻酔薬を注入することで、この離断脳状態を一時的に人工的に作ることが出来る。

2023年7月22日土曜日

連載エッセイ 6の5

 人間の脳はタイムシェアリング型か、マルチコア型か?


 多重人格状態を私たちにとって最もなじみのあるパソコンにおける複数のプログラムが立ち上がった状態とすると、アナロジーとして二つある事は示した。もちろんパソコンと人間の脳は全く別物であり、このアナロジー自体が成り立たないほど異なっているかもしれないが、今のところ考えられるモデルとして示しているのだ。そしてだまし絵の類推からするに、タイムシェアリング型は恐らく成立しないことは示した。フロイトも考えた「すり替わり説」のことだが、その様な芸当は人間の脳では不可能らしい。人間の右脳を構成する神経系のスピードの速さとコンピューターの情報処理の速度を考えればいいだろう。たとえばCPUのスピードが1ギガヘルツなら、1秒間に10億回 1+1の演算をすることになる。それに比べて脳のニューラルネットワークは1秒間にせいぜい数百回程度得あるという。(一秒間に数百個の電気パルスを出すということだ)(前野隆司(2004)脳はなぜ「心」を作ったのか。―「私」の謎を解く受動意識仮説. 筑摩書房p.199)つまり計算の速度は100万倍以上の差がある事になる。これではすり替わったとしての目の粗さは歴然である。分身の術を使うために出来る限り素早く入れ替わったとしても、スピードが十分速くないと、「あ、二人いる」という錯覚は生まれないわけだ。というわけで人間の脳については、タイムシェアリング型はボツということになる。

 ではマルチコアはどうだろうか? ここでお断りしておくならば、人間の脳は生まれながらにしてデュアルコアなのである。それは脳が基本的には右脳と左脳に分かれており、それぞれがある程度独立して機能していると考えられているからである。


2023年7月21日金曜日

連載エッセイ 6の4

 さて、人間の場合はどうか。上記のタイムシェアリングとマルチコアは人間の右脳でも可能だろうか?おそらく私たちの脳に起きている可能性のあるのは、タイムシェアリングである。例えば私たちは他人に対して何かを言うとき、「これは聞いている方からはどう取られるだろう?」ということをよく考える。あるいは何かを言う前に、今私がこれを言ったら相手はどう感じるだろう?と考えることがある。ある種の共感能力といっていい。「相手の立場に立って考える」というのは私たちの心の基本的な性質や能力として備わっていると考えていいだろう。ただしこれがコンピューターのタイムシェアリングと違うのは、おそらく相手の立場に立って考えることには一定の時間を使うであろうし、おそらく一瞬の隙間時間では済まないであろうということだ。自分がある衝動に駆られて何かをしようとしているとき、相手がそれをどう感じるかを知るためには一定の時間や余裕が必要となったりするものなのだ。つまり脳におけるタイムシェアリングはパソコンのような瞬時の入れ替わりが不可能だということだろう。

その一つの例として私が挙げることが出来るのが、以下の騙し絵である。これは有名なルビンの壺であるが、二人の人間の横顔が向き合っていると取るか、それとも燭台を前にした一人の顔をとして見るかは、それぞれを一度しかできない。高速でスイッチして、両方が見える、という状態には至らないのである。

(Edelman, Tononi, 2000, p.25)Edelman, G., & Tononi, G. (2000). A Universe of Consciousness. New York: Basic Books.




実はこの件、前書(解離性障害と他者性、2022)で結構書いている。こんな内容だった。

「この様に考えるとスイッチングにより二つの意識状態を取ることが出来るというのはそれほど生易しいものではない。ちょうどこのだまし絵(図5-4、Edelman, Tononi, 2000 より)で、一人の顔を見ている意識状態と、二人の顔を見ている意識状態が「共存」しているとはとても言えない状態であるのと同様に、スイッチングにより二つの意識が共存しているような状態はとても作れないであろう。(同様の議論は、第7章を参照。)ちなみにこの二つの意識状態の素早い入れ替わりというアイデアは、すでにFreudが提出していることを思い起こそう。それが第3章でFreud の「振動仮説」として紹介したものである。(p。58)

「FreudとBreuerの考えの違いを追い、そもそもFreud はヒステリーの原因を一つに絞る上で、Breuer の類催眠—解離理論を捨てたという経緯があったことを以上に示した。Freud は「自分自身はこの類催眠状態を見たことがない」とし、代わりに内的な因子である性的欲動を中心に据えた理論を選択した。しかしFreud は解離や多重人格という不可思議な現象のことを本当に忘れたわけではなかった。
 実はFreud はこんなことを1936年に書いている。

離人症の問題は私たちを途方もない状態、すなわち『二重意識』の問題へと誘う。これはより正確には『スプリット・パーソナリティ』と呼ばれる。しかしこれにまつわることはあまりにも不明で科学的にわかったことはほとんどないので、私はこれについては言及することは避けなくてはならない。」(Freud, 1936. p245)

つまり Freud は解離を否定しつつも、多重人格状態に関する仮説的な考えを表明していたのだ。1912年の「無意識についての覚書」の中でフロイトは多重人格について、いわば「振動仮説」とでもいうべき理論を示している。

意識の機能は二つの精神の複合体の間を振動し、それらは交互に意識的、無意識的になるのである (Freud, 1912,p.263) 。
また1915の「無意識について」でもやはり同じような言い方をしている。

私たちは以下のようなもっととも適切な言い方が出来る。同じ一つの意識がそれらのグループのどちらかに交互に向かうのである。(Freud, 1915, p.171)

 ここで注目されるべきは、「ある一つの同じ意識 the same consciousness」という言い方だ。同じ一つの意識がそれらのグループのどちらかに交互に向かうのである。つまり結局意識は一つであり続けるという事になる(Brook,1992)。


2023年7月20日木曜日

社会的トラウマ 13

 私が一番最初に世に出したのは、「ある精神分析家の告白」という翻訳書で、1993年の出版だ。私が37歳の時だったが、作者のドクターストリーンというソーシャルワーカーに会いにニューヨークまで出向いた。その時に彼が「患者さんに自分が居眠りをしていることがバレることをなぜ恐れるか?」ということを話した。その理由とは「私が年を取って弱くなり、そのせいで居眠りをすると思われることを恐れるからだ」と言ったことが印象に残っている。私だったら治療者として怠けていると思われるのが嫌だと思うだろうに、不思議なことを考えるな、と思ったが、これが要するに male masculinity の問題とも絡むらしい。

ところで参考文献としては次のようなものを読んだことはすでに書いた。この本の抜粋を読むとかなりヤバい内容だ。

「有毒な男性性のトラウマ The Trauma of Toxic Masculinity.  Why you can trust us BY JARED YATES SEXTON

「私は男性が、自分たちと女性との性的な関りについて、女性にとって屈辱的な表現を用いてその詳細を話すのを聞いてきた。彼らは想像出来る限りの人種差別的で侮辱的な言葉を用いる。彼らは最悪な人種差別的、性差別的な言葉を用い、独裁的な権力への欲望を語る。そして中東の男女や子供を核爆弾で皆殺しにしてもかまわないし、奴隷制を復活することのメリットについて口にし、アドルフ・ヒトラーに対する崇拝を語る。それらの男性にとっては、人に何かを話すこととは、あることをなすための手段であり、良心やひ弱な感情に拘束されないという幻想を追求するための手段なのである。(ジャレッド・セクストンの同著からの引用。)」 

このセクストンの話の面白いところは、彼の父親が晩年近くになって、男性性という重圧について話すようになったというところである。そして結局男性性とは虚偽であるという理解に到達したという。そしてそれは脆弱にし、他の人たちに対してだけでなく、自分たちにとっても傷害的 injurious であるという。

 本書ではそれ以外にも、男性が概ね寡黙であり、自分の気持ちや感情を表現するのは「弱さ」の表現であると考える傾向などについても書かれている。この有毒な男性性という考え方は1980年代に心理学者が提唱したとされる。「男性はこうあるべき」というイメージに従う事の負の側面をさすというが、ある意味では男性もまたそれを重荷に関しているという可能性がある。しかし逆に言えば、西欧社会においてこの考えがいかに根強いかということとも関係しているであろう。(だからと言って、それ以外の国、例えばアラブ社会において、そのような傾向が西欧社会程には見られない、とは言えない。場合によってははるかに強い男尊女卑、女性蔑視の考え方がインドなどでも見られる。

概ね toxic masculinity の論調はこんな感じなようだが、あまり参考にならないような気がしてくる。日本と西洋ではやはり男性性の概念が微妙に異なるからか。 


2023年7月19日水曜日

連載エッセイ 6の3

 脳で何が起きているのか?

 さて解離とは何かを読者の皆さんにもなるべく直感的に分かってもらえるように、幽体離脱の例を挙げた。もし自分が、あるいは目の前の友人か゚家族が解離を起こした場合、それを体験的に理解しようとしたら幽体離脱のようになる。これは体験としてそうなるという事ではあるが、その時に脳科学的に何が起きているのか、ということについては、本当のところ何もわかっていないとしか言いようがない。考えても見て欲しい。心は脳の活動から析出する、というのが私たちの基本的な考え方である。いわゆる「随伴現象説」だ。そしてその心の存在は、その人の言葉や表情や行動により表される。これもいい。ところがその人は、ある時は私はAだ、と主張し、また別の時は自分はBだという。これをどう説明することが出来るだろうか。

 この議論を進めるにあたり、コンピューターのアナロジーに勝るものはない。そこで「自分はAだ」と名乗っている時には、Aというアプリ、ないしはプログラムが起動していると考えよう。そして今度は「自分はBだ」という時はBというアプリが起動している。このようなアナロジーを考える。そしておそらく一番好都合なのは、AというアプリとBというアプリが互いにスイッチすると考えることだ。このように考えると人間の脳の働きについて、何も特に新しいシステムを考える必要がない。人の心は常に各瞬間には一つの心しか起動していないことになる。

 ただしアプリAは、アプリBが立ち上がるや否や、あるいはその前の瞬間に終了しなくてはならない。昔のファミコンでいえば、二つの別々のゲームA,Bというカートリッジをさっと入れ替えることになるだろう。何しろ二つを同時に差し込むことなどできないのだから。これを「すり替わり説」と呼ぼう。実はこのすり替わり説は、かのフロイトが考えていたアイデアであった。フロイトは「心は一つ」主義者であったが、多重人格のことがどうしても気になったらしい。そして後年これについて次のように述べている。(挿入)「速い話が、人格Aと人格Bがあり、意識はそのどちらかに素早くスイッチしているだけだ。」

  ところが実際はこうではないことを私たちは知っている。それは幽体離脱を体験した人が証言することだ。「私は自分自身を外から見ていました。」「私は後ろに視線を感じていました。」 つまりこれが暗に示しているのは、アプリAとアプリBは同時に起動していて、互いを意識しているということになる。「カートリッジすり替えモデル」は現状に合わないのだ。

 さてコンピューターの操作に慣れている私たちは、実はこのことに驚かないだろう。ユーチューブの音声だけを聞きながら、ワードで文章を作成する、などのことを私はしょっちゅうやっている。複数のアプリの同時の起動など当たり前のことなのだ。

 この仕組みは次のようだ。昔コンピューターが一つのCPU(中央演算装置)しか持っていなかった時は、「タイムシェアリング」というテクニックを用い、ある瞬間にはアプリAを、次の瞬間はアプリBを、と行ったり来たりしていたのだ。つまりはフロイトの「すり替わり説」だったのである。どうりで昔のパソコンは、同時に二つのプログラムを立ち上げると、どちらも「遅く」あるいは「重たく」なったり、すぐフリーズしたりしたものだ。

 ちなみに最近ではコンピューターはマルチコアなので、デスクトップなどだとたとえば8つ積んでいたりする。するとそれぞれのコアが一つのアプリを担当して専門にやるということが出来る。こうなるといくつものアプリを立ち上げていても、どれもがサクサク動くのである。


2023年7月18日火曜日

レジデント用のテキスト 変換症 完成原稿

 

○○○○ Vol.4 No.4 特集 「身体症状症」

 変換症   

                                            本郷の森診療所  岡野憲一郎

本症は従来は転換性障害 conversion disorder と呼ばれていたが、DSM-5の日本語版(2014)では、「転換性障害/変換症(機能性神経症状症)」という呼称を与えられている。その後に公開されたICD-11(2022)では、conversion という言葉も消え、解離性神経学的症状症 dissociative neurological symptom disorderとなった。さらに2022年のDSM5のテキスト改訂版(DSM-5-TR)では「機能性神経症状症(転換性障害/変換症)」に変更された。すなわち conversion という呼び名はさらに表舞台から遠ざかったことになる。この様な頻繁な名称の変更の背後には、conversion という概念ないしは表現を今後は用いないというDSMICDの方針があるからである。ただし本稿ではDSM-5で示されている変換症という呼び方に統一して論じる。
 なお本症は、DSM-5ではあくまでも「身体症状症および関連症群」の一つとして、すなわち身体症状症、病気不安症などと並んで分類されている。他方では ICD-11では本症はあくまでも解離症群の一つとして位置づけられていることを念頭に置く必要がある。
  変換症では身体の機能の異常、すなわち随意運動や感覚機能の異常がみられるものの、特定の神経疾患では説明が出来ないという特徴を持つ。具体的には麻痺ないしは脱力、振戦やジストニア、歩行障害、異常な皮膚感覚や視覚、聴覚の異常などが見られる。また意識の障害を伴う癲癇発作に類似する症状(心因性非癲癇性けいれん,PNES)を示すこともある。他方では内科疾患の存在を疑わせる自律神経系の異常や疼痛その他の身体症状を呈するものの内科疾患の存在が確認されない場合は、身体症状症(DSM-5)や病気苦痛症(ICD-11)等に分類される。
 DSM-5 では変換症の診断には以下の4項目が必要とされる。
A.
 ひとつまたはそれ以上の随意運動、または感覚機能の変化の症状。
B.
 その症状と、認められる神経疾患または医学的疾患とが適合しないことを裏づける臨床的所見がある。
C.
 その症状または欠損は、他の医学的疾患や精神疾患ではうまく説明されない。
D.
 その症状または欠損は、臨床的に意味のある苦痛,または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしているか、または医学的な評価を必要としている。

また本症は以下のいずれの症状を伴うかにより、それぞれの型に特定される。それらの症状とは、脱力または麻痺、異常運動、嚥下症状、発話症状、発作またはけいれん、知覚され麻痺または感覚脱失、特別な感覚症状、混合症状である。また心理的ストレスを伴うかどうかも特定する必要がある。

診断に関連する特徴

従来は疾病利得や症状への無関心さがみられることが本症の特徴とされてきたが、これらの存在は本症に特異的ではなく、これらを診断基準とすることが本症への偏見につながるとの懸念から、DSM-5ICD-11では診断基準から省かれるに至っている。発症に際しては心理的要因がみられる場合が多いが、本症の診断に必須ではない。
  変換症の発症は二十代、三十代を中心とするあらゆる年齢層に見られる。発症が急激で持続期間が短いほど予後がいいが、再発もまた多い。
 性差は女性に二倍多いとされる。また男性の場合、職業上の何らかの事故が発症に関連していることが多いという報告もある。子どもにおける症状としては、歩行困難やけいれん発作が最もしばしばみられ、その背景にいじめや学校ないし家庭におけるストレス等がみられることが多い。

鑑別診断

上記の診断基準に見られるとおり、本症は神経疾患や内科的疾患の存在を疑わせるような様々な身体的な症状の形を取り得る可能性がある。そのために鑑別が難しく、症状が類似する身体疾患の除外も念入りに行われなくてはならない。ただし無論それらの身体疾患との併存もありうる。また解離症との合併も多く、解離性同一性症の場合はその人格の一つが示す症状ともなりうる。さらには醜形恐怖症、抑うつ障害、パニック症なども鑑別の対象となる。本症が疑われるものの、症状の偽装が明らかな場合は作為症ないしは詐病として診断されることになる。

参考文献

American Psychiatric Association (2013). Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition (DSM-5). American Psychiatric Publishing. 日本精神神経学会 (監修) (2014): DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル. 医学書院.

 

2023年7月17日月曜日

トラウマとPD 4

 発達障害とPD


 発達障害についての認識が高まるにつれて、従来のPDの中でもいわゆるスキゾイドPDに少なからず影響があったのは確かである。DSMではスキゾイドPDは「社会的関係からの離脱および全般的な無関心ならびに対人関係における感情の幅の狭さの広汎なパターンを特徴とする」とされた。要するに「関係が希薄で孤立傾向のある人」は、DSMにおいてはスキゾイドPDを主とするA群PDに属するものとして理解されていた。しかし神経発達障害についての関心が高まるにつれて、これまでスキゾイドPDとして理解されてきた人の一部は実は前者に該当するのではないかと考えられるようになった。そして更にはスキゾイドPDという概念自体も問われることとなった。(織部直弥、鬼塚俊明、2014、岡野2020)

ちなみに2013年のDSM-5の作成過程でも、スキゾイドPDの処遇は問題とされたという。そしてそもそもスキゾイドPDという診断がまれであり、削除されるべきとの案もあったという。そして結局上述の「代替案」からはスキゾイドPDの姿が消えるかわりにそれが「感情制限型」と「引きこもり型」に解体され、それぞれをスキゾタイパルPDと回避性PDに合流させるアイデアが採用されたという(織部直弥、鬼塚俊明、シゾイドパーソナリティ障害/スキゾイドパーソナリティ DSM-5を読み解く 5 神経認知障害群、パーソナリティ障害群、性別違和、パラフィリア障害群、性機能不全群 神庭重信、池田学 編 中山書店 2014 pp171-174.)。 

私がこの動きに興味を惹かれるのは、本来スキゾイドPDの定義に合致するような、人に関心もなく、こころも動かないような、いわばスタートレックに出てくるドクタースポックのような人は稀ではないか、という考えを以前から持っていたからである。。実際DSM-5のスキゾイドPDの特徴としては、「関係念慮、奇妙な/魔術的思考、錯覚、疑い深さ、親しい友人の欠如」に続いて「過剰な社交不安」(DSM-5)が挙げられている。つまりスキゾイドPDはミスター・スポックよりは、恥の感情に悩む回避型PD的な特徴を持つことになるのだ。そしてスキゾタイパルPDに関してもそこには対人過敏が特徴とされるという研究がある。

  ともかくもこのASDに対する関心の高まりがもたらしたのは、PDの概念に神経発達障害的な要素を読み込まないという従来の方針は理屈に合わないのではないか、ということである。


2023年7月16日日曜日

連載エッセイ 6の2

 この幽体離脱の体験は不思議としか言いようがないが、「なぜそのようなことが起きるのか?」ではなく「(私達の脳や心においては)そのようなことも十分に起きうるのだ」と考えるべきなのだ。ではこの幽体離脱をもう少し深く観察すると何が分かるのかと言うと、実はこれは主体が二つに分かれる、ないしは突然二つが共存するという現象だ。ここで私が「分かれる」と思わず言いそうになったが、実際にこの現象を「意識のスプリッティング(分割)」と捉えたのが、一世紀以上前のS.フロイトやP.ジャネだったのだ。1800年代の終わりに人々がこのような不思議な現象に注目するようになった時、まず心のエキスパートたちが考えたのは、「ああ、このようにして心は、意識は二つに割れるのだ」という理解だったのだ。これはこれで悩ましい話だ。というのも古今東西人間は自分の心が一つであることにあまり疑問を抱かずに過ごしてきたからだ。誰だって「自分はもう一つの自分を持っている」というようなことは認めないであろうからだ。第一もう一つの自分がいたとしたら、この私はどうなってしまうのだろうと不安になって当然だからだ。

 上の幽体離脱の例を用いて、実際にどのようなことが起きているのかを考えよう。

最初からあった意識をAとしよう。それはある時身体から遠ざかった(離脱した)という体験を持つ。そして自分を外側から俯瞰するという、これまでに体験したことのない体験を持つことになる。さて問題は、叩かれている、すなわち体に残っている意識Bも存在するということだ。これがどの様に、どこから生まれるのかが、精神医学的にも脳科学的にも実は全くわかっていないのである。ただしそれも意識として体験され得るということだ。

  解離に関する研究で有名な、柴山雅俊先生がいらっしゃる。彼の著書「解離性障害」(ちくま新書、2007年)という有名な本があるが、そのサブタイトルは「『後ろに誰かがいる』の精神病理」 というものである。先生は解離性障害の患者さんの多くが「誰かが後ろにいるような気がする」という体験を持つことを論じた。このことは上で論じた幽体離脱と実にうまく重なる現象だと思う。つまり後ろにいるのは「もう一人の自分」というわけだ。彼は「存在者としての私」と「まなざしとしての私」の分離という言い方もしている。(「解離の舞台 症状構造と治療 柴山雅俊、金剛出版、2017年)

 つまりこういうことだ。意識Aの体験は自分を外から見ているというものであり、意識Bの体験は、自分が誰かに見られているというものである。そしてそれは別々に体験される。決して「自分は見ていると同時に見られている」という形をとらない。(そのような体験もあり得るのかもしれないが、普通患者さんからは聞かない。)

 この意識Bの体験というのは、実は体験とも言えないかも知れないような、奇妙なものなのだ。それはある意味では心ここにあらずといった、あるいはボーっとした、いわば「体験未満の」体験であることが多い。過酷な体験をしている間、人は「叩かれても痛みを感じず、何か夢を見ているようだった」と表現することが多い。つまり体験としての解像度は低く、そのスペックもかなり小さいということになるだろう。白黒画面で、それも視界にボンヤリ何かが映っているような、うつろな体験。寝ぼけている時の私たち、あるいは麻酔薬が効いていて朦朧としているような状態がこれに相当するであろう。そしてこの感覚の解像度の低下はとても重要な事であり、そもそもこの種の意識A,Bの解離は、痛みを軽減し、その為に心身を麻痺させるという目的があったからである。 

 さて以上は幽体離脱という、多くの私たちがかつて体験したり、これから体験する可能性のあるものである。そしてA,Bとの間には解像度の差があり、どちらかと言えばAの方が主たる体験というニュアンスがある。しかしDID(解離性同一性障害)等の場合、人格Aと人格Bはかなり対等で、主格の差がないような体験となる。Aが現実の世界である体験をしている間、Bはそれを傍観する。別の場面ではそれが逆転するという形をとるのだ。そして個々でも通常A,Bが混じることは普通は起きない。あたかも二人の別々の人間が、別々の体験をしていることと同等のことが起きる。そしてまさにこの事実から解離性障害の脳科学的な理解が始まるべきなのである。ところがその糸口はない。何度か強調したことであるが、古今東西の哲学や文学や精神医学は、心は一つという前提や了解事項を抜け出していないのだ。私がこの連載でかつて5回にわたって論じた内容も、結局は心が一つという前提を抜け出していなかったのである。意識やクオリアといった、心にとってあれほど本質的な事柄について論じた前回も、心の多重化などということについては私は全く触れなかったのである。


2023年7月15日土曜日

トラウマとPD 3

 この原稿、ずいぶんペンディングになっている。まだ締切りは随分あるが。要するにパーソナリティ症(PD)をどのように考えるべきか、という本質的でかなり錯綜した議論に関わってくるからだ。はっきり言ってPDはその概念自体が持つ意味を問われ直そうとしている。トラウマや発達障害を除いたPDっていったい何だろう? 純粋なPDってあるんだろか?という話なのだ。

 パーソナリティ障害 personality disorder (以下PD)に関する議論は近年大きく様変わりをしている。DSM-5(2013)において、DSM-III以来採用されていた多軸診断が廃止されたことや、それまでの10のPDを列挙したカテゴリカルモデルに代わりディメンショナルモデルが提案されたことなどは、その顕著な表れと言えるであろう。PDがいかに分類されるべきかという問題とともに、そもそもPDとは何かを問い直すという、いわばPD概念の脱構築に向けた動きが起きていることを感じるのは私だけではないだろう。

 かつて私は、以前のカテゴリカルなPDの概念は、その一部が別のものに置き代わっていく可能性があると論じた(発達障害とパーソナリティ症の鑑別の仕方、精神医学 2023年最新号)。PDとは思春期以前にそのような傾向が見られ始め、それ以降にそれが固まると考えられている。そこには遺伝負因や環境因が大きく影響しているはずであるが、そこについては特に問われることなく、いわば人格の形成の時期に自然発生的に定まっていくものというニュアンスがあった。しかし最近広く論じられるようになった発達障害的な要素や愛着の問題や幼少時のトラウマの影響が、その人のパーソナリティに影響を与えないと考えない方が不思議であろう。

 ただしICD-11のPDには、発達的要因、社会的要因、文化的要因によるものではない、と記されている。これは字義通り読めば、発達障害やトラウマの影響を除外せよ、ということになる。そしてそのICD-11で採用される形となったディメンショナルモデルによる分類は、パーソナリティを構成する因子群(例えば5因子モデルのそれ)に基づくものであり、多分に先天的、遺伝的なニュアンスを含むことになる。

 言い換えればこういうことになる。「PDは生まれ持った性質であり、神経発達障害やトラウマの影響を受けた場合には、それとは別個に診断名を設けよ。」ただしこれは無理な話である。人が思春期までに持つに至った思考や行動パターンは言わば先天的な要素と発達障害的な要素(これも言ってみれば先天的なものといえるが)とトラウマや愛着障害のアマルガムなのである。それをPD, トラウマの影響、神経発達障害に切り分けることは極めて困難であり、あまり意味を持たないであろう。

このような議論にとって格好の材料となるのが、ICD-11に新たに加わったCPTSDである。これはPTSD症状とDSO(自我の障害)の複合体としてとらえることが出来るが、後者のDSOはそれ自身が繰り返されるトラウマの影響として備わった性格傾向ということになる。これとディメンショナルモデルによるPDとの関連は定かではないのである。


2023年7月14日金曜日

連載エッセイ 6の1

 全体で12回(一年間)という約束でお引き受けしたこの連載も、今回が6回目である。すでに曲がり角に来たわけだ。最初はどのような方向に筆が向かうかを分からずに、ただ書きたいことはいくらでもあるだろうと思い、書き始めた。その後はだいたい前回の内容に連続性を持つ形で次の回を執筆している。しかし全体的な方向性はまだ見えてこない。それもそのはずで、脳科学とは膨大な領域であり、しかもわからないことばかりだ。体系立てて論じようとしてもその手掛かりがつかめないのだ。そこで書いているうちに自然と方向が定まるだろうと思い、書いてきた。

 このようなあてどのない連載を読む方々には迷惑な話かもしれないが、実は書いている私は確実に考えが進んでいる。その結果として見えてきた部分と見えない部分が徐々に明らかになって来ていることを実感している。

 ただし心とは何か、脳とは何か、AIとどこが違うのか、というやや大づかみで漠然とした議論よりもう少し具体的な話、例えば精神医学の対象となるような病気について話題にした方が読者も興味を持つのではないかと思う。そこで今回は解離性障害について、それを脳科学との関りから論じたい。


 解離性障害、と言われてもピンと来ない方のほうが多いかも知れない。未だに精神医学の中でも市民権を得たとは言えないのがこの解離性障害という疾患である。いや、疾患と書いたが実は解離はむしろ特殊能力なのかもしれない。特に幾つかの人格が主体性を持って振舞うという様子(いわゆる多重人格障害、ないしは解離性同一性障害、以下DID)を目の当たりにし、しかもそのような人々も私たちと同じ人間だということを実感すると、解離とは人の脳にポテンシャルとして常に備わった能力ではないかと思うことが多い。ただそれが実際に発現するかが人によって大きく異なるのである。

 ただし解離性障害にはそれ相当のネガティブな面を伴うことも多い。いくつかの自己が複数混在したような状態では、当事者は相当の混乱をきたし、精神的な機能を一時停止せざるを得ないということが生じる。


解離性障害の基本形としての幽体離脱


 私が解離性障害について理解していることをお話しするとき、大体は体外離脱の話から始める。私は不幸にしてこれを経験したことがないが、解離性障害という診断を有しない人でも類似の体験を一度でも持った方は多い。

例えば自分がある人から殴られているとする。その瞬間、あるいは何が起きるか予測できた段階で、心がすっと体から離れて後ろや上に浮かび上がる。そしてたたかれている自分を見下ろしているのである。(続く)



2023年7月13日木曜日

社会的トラウマ 12

久しぶりにこのテーマに戻ってきた。 

男性の性愛性と嗜癖モデル(またはドーパミン問題と対象をモノ扱いする傾向


もっと! : 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学。」(ダニエル・Z・リーバーマン, マイケル・E・ロング他. 

Lieberman, D (2020) the Molecule of More.

この本は本テーマに関するまたとない参考書である。


心理学では長い間定説となっていた前提があった。それは「すべての快楽は最終経路であるドーパミン経路を通過する。あらゆる快はドーパミンが支配する。」彼の提言は、それを覆すことになる。

私はずっとこれを信じて来たので、それにそぐわない事態をどのように説明したらいいかがわからなかった。この本に書かれていることはそれに一つの答えを出しているし、脳科学的にはそちらの方が常識になりつつあるのだ。彼の主張を一応「欲望」と「満足」と分けよう。両者は違う、ということを彼は主張している。欲望は未来において得られるものを願望することであり、満足とは現在において満たされる体験を言う。これらは脳内において別々の部位で、別々の化学物質により支配されている。前者はドーパミンであり、その舞台は側坐核や前頭前野、後者は彼が今ここでHere and Now(”H & N”)の物質、すなわちセロトニン、オキシトシン、エンドルフィン、カンナビスであり、その活動部位は脳内のいくつかの場所に分散してる。

前者はもっと、もっとという追及を促すのに対して、後者は現在の体験による満足を与える。前者は「もっと、もっと」という心境、つまりもっと刺激を、もっと驚きを求めることを促す。そしてその追及の為に感情や恐れや道徳心が犠牲となる。つまり「今は持っていない」ということこそが問題となる。それは期待を意味する。他方ではH&Nでは「今持っている」ということが問題となる。

ここまでで確かなことは、男性の性愛性においては、明らかに前者なのだ。例えばプレゼントを受け取ると、それが包み紙に覆われていることで、それを開けて見たい、という願望が生まれる。そしてそれが包み紙の中から現れた時点でピークに達した後にその喜びは失われていくという。

ここでの議論は、いわゆる incentive sensitization model に従った議論ということになる。この理論の提唱者であるKent Berridge の論文を参考にする。

Berridge, K. C., & Robinson, T. E. (2011). Drug addiction as incentive sensitization
Addiction and responsibility, 21-54. The MIT Press.


2023年7月12日水曜日

連載エッセイ 5の7

 主観性の錯覚の兆すところ


  前野氏の言うように、脳の活動に裏打ちされた私たちの心は、そのかなりの部分が数多くのニューラルネットワークの競合により(前野氏の言葉を借りるなら脳内の「小人たち」により)営まれていると考えられる (Edelman, 1990)。私たちの脳は、乗り物にたとえるならば自動操舵状態なのであるが、意識は自分が主体的に運転をしていると錯覚する。例えば私達が通いなれた通勤路を歩いている時は、何か考え事をしている最中にも足が勝手に動いてくれる。しかしそれでも私達は何かによって歩かされているという感じはしない。あくまでも自分が歩いているという感覚は持っているはずだ。

 ただしその日の通勤途中に何も特別なことが起きなければ、私達はその日の通勤時の記憶をそのうち忘れてしまうものだ。何か予想外のことが起きた時にだけ、それが私たち生命体にとって重要な意味を持ち、エピソード記憶となって残る傾向にある。例えばある日通勤途中で人が道端に倒れているのを見つけ、人命救助を行ったという出来事があれば、その時体験した不安や緊張感と共にその時の記憶は鮮明に残るだろう。そしてその記憶は将来同様の出来事に遭遇した際に想起され、その対処に役立てることが出来るだろう。

  この様な意味で前野氏は、意識やクオリアや主観性という幻想は、エピソード記憶を作るという合目的的な進化の結果として生まれたとする。要するにクオリアを体験するのは、それが一つの出来事として記憶にとどめられ、将来重大な問題が生じたときに随時想起し、参照するためなのだ。そして前野氏は系統発生的に見てエピソード記憶が芽生えるのはおおむね鳥以上であるという推測をする。

  最近話題となっているフリストン Karl Friston の「自由エネルギー原理」はそのような文脈で理解できるだろう。フリストンによれば、脳の活動は常に予測誤差の指標である「変分自由エネルギー」を最小化する方に向かう。すなわち脳は外界からの情報をもとに、そこから期待される外界の在り方を推測し、体験を通して明らかになるその誤差を最小化するように自動的に働いているということを、彼は数理モデルにより示したのだ。この理論に従えば、予測誤差が一定以上の大きさで生じた場合に、人はそれを意識化し、エピソード記憶として定着していくという仕組みを脳が持っているということになる。それが脳の自動操舵のシステムを成立させているのだ。。


Friston, K (2010)The free-energy principle: a unified brain theory?Nat. Rev.Neurosci,. Vol.11,pp.127-138.

Edelman, G. (1990) Neural Darwinism. Oxford Paperbacks. 


最後に


 今回は意識やクオリア、自由意志というテーマで書いてみた。読み返してみると、私達にとって極めて自然で当たり前の体験としてのクオリアや主体性が実は特殊な体験であり、知性としての存在は必ずしもそれを必要としないのだ、という方向で論じたことになる。これを読者の方は本末転倒と思われるかもしれない。何しろ【心】と心は対等であるかのような議論になってしまったからだ。しかしこれが私自身が至った結論なのである。