実は「新しい精神分析理論」(岩崎学術出版社、1999年.p.141.)で私が一番最初に受けた精神療法についての体験を語っている。ちょうど留学して二年目、1988年の頃だ。私はそのとき32歳だったことになる。以下が引用である。
私は以前、8箇月の精神療法(週二回、対面法)を受ける機会を持ったが、私の治療者の感情に対する関心やこだわりは、かなり早期から毎回の私の連想の中に繰り返し姿を現わすようになった。私の治療者ドクターZは、心理学者でベテランの精神療法家であり、そのスタイルは治療者の中立性と匿名性を蔽格に守る一方でかなり積極的な介入の仕方を見せる、といったものだった。ドクターZはいつもにこやかに治療室に私を迎え入れ、共感のまなざしで私の話に耳を傾けるのが常であったが、彼自身の感情やそれ以外のプライバシーに関することを言語化して私に伝えるということはまずなかった。
治療開始後数週間が経ち、私が自分の過去についてのあらすじをひとわたり語り終えたころから、私はドクターZの私に対して持つ「本音」について知りたくなった。この「本音」を知りたい、とは具体的には私の話を開いていてドクターZが不快を感じたり、私をひどい人間だと感じたりしていないか、といったことへの関心である。特に私の過去のあまり自慢出来ない出来事を開陳した直後などは、ドクターZにどうしようもない人間と思われていないか、という心配は切実なものになった。私はいまから思えばドクターZとの間でちょっとした転移神経症に陥りかけていたのかもしれない。私はドクターZに私についての気持ちを何度も尋ねる羽目になったが、それについては直接の回答など得られないのが常であった。
ある日私は苛立ちながらドクターZに問うた。「ドクターZ、私はあなたに私のことをどう思っているのか、と何度も繰り返し同じことを聞いてきましたね。自分でもあなたをいじめているような気がしてきましたよ。でもそういう私をどうお感じになるんですか。」それに対してドクターZは少し苦笑しながら言った。「そうですね。何か繰り返し針で突つかれているようで、ちょっと当惑した感じです。」それを聞いて、私はとても納得した気がし、それ以後ドクターZに私に対して持つ感情を追及したいという気持ちはあまりもたなくなった。
このエピソードは何を物語っているのだろうか?ドクターZの言葉でなぜ私は満足したのか?私は単に治療者から何かを奪いとり、勝ち誇る、という体験を持ちたかったのか?たしかに通常は古典的な分析のスタイルを守る治療者から自分を語らせることが出来た、という幼児的な満足を私が得たことは十分有り得る。しかしそれ以外にもこの出来ごとは私にとっては重要な意味を持っていた。まず目の前にいる、そして自分が過去を懸命になって話した相手、そして自分が幼児的な願望を隠さずに話したドクターZが、その感情の一部を語ってくれたことで、私ははじめて生の人間に話を聞いてもらっていたんだという感じを持てたのである。それに「針で突つかれている感じでちょっと当惑している」というドクターZの表現自体も私を安心させた。それは確かにそうだろうと納得がいったし、私がそれ以上に彼を深刻に悩ませていたわけではない、という安堵感が生まれた。それにそれを語ったドクターZ自身は、そうされて苦痛だ、怒っている、という表情は見せず、むしろひとごとのような話し方だったのである。
この体験をあとから振り返り、さらに気がついた点を二つ付け加えたい。まずドクタ一Zの感情表現(というより「感じ方の表現」という方が近い)は、ただ一回でも、あるいはただ一回だったからこそ、私には大きな意味があったのかもしれないということである。通常は受け身的で自分の感じ方を語らないドクターZは、私情や価値判断を抑えつつまっすぐに話を開いてくれている、という感じを、この体験までもそしてそれ以後も私に与え続けた。その背景があるからこそ彼がここ一番で行なった自己の感情の言語化は、これほど効果的であったのであろうと考えた。逆説的に言うならば、ドクターZの自己開示は、それが普段行なわれないことによりさらに効果的になったのだろう。また第二点として、ドクターZは自己開示をしながらも、あくまでも中立的という感じを私に与えた。私は彼の「ちょっと当慈している」という言葉を聞いても、彼のプライベートな部分を侵害したという感じは殆んどなかったのである。彼はあくまでもその場、その時に彼の持つ視点を私に提供してくれたにすぎなく、それこそ私が望んでいたことだった。もし彼がそれ以上に露悪的に自分の私的な感情を語ったとしたら、私は覗き見的な行為を行なっているようでかえって不快であったと思う。その意味ではこの体験は私がドクターZから何を欲しかったのかをも教えてくれた。それは彼のプライベートな情報ではなく、彼が生きてそこにいて見守ってくれている、という実感を与えてくれる手がかりだったのである。
さてこの記載があったことで、私はもう35年以上前のこの体験を思い出すことが出来た。そして確かなのは、私はドクターZの「受け身性」に少なからず苛立ちを覚えていたということである。もちろんどこかで「分析的な治療とはこのようなものだ」という気持ちがあったのであろう。それでも私はドクターZにあえてチャレンジする形で彼から「本音」を聞きたかった。もちろん本音と言えるようなものは恐らく彼にもなく、ただそれがあるかのように想像してそれを聞き出そうとする若くて性急な私がいたというわけであるが。
私がこの自分自身の「先生は黙ってばかりだけれど、何を思っているのか教えてください」的な発言をやはり私らしさ、あるいはもっと言ってしまえば私の病理とも関連付けられるような気がする。それは恐らく同様の考えを持っていたであろう私の何人かのクライエントから、このような直接的なチャレンジを受けたことがないからである。それは私が尋ねることでようやく返ってくる言葉の中に読み取れるものだったからだ。