2023年6月30日金曜日

意識についてのエッセイ 推敲 2

 前野隆司の「受動意識仮説」

前野氏は言う。「意識とは、あたかも心というものがリアルに存在するかのように脳が私たちに思わせている、『幻想』または『錯覚』のようなものでしかない」(2007, p.20)。そしてその錯覚には主体性や能動性の感覚も含まれると考える。少し長いが引用しよう。

「機能的な『意識』は、『無意識』下の処理を能動的にバインディングし統合するためのシステムではなく、すでに『無意識』下で統合された結果を体験しエピソード記憶に流し込むための、追従的なシステムに過ぎない。したがって『自由意志』であるかのように体験される意図や意思決定も、実は『意識』がはじめに行うのではない。」

この前野氏の立場は徹底して「物理主義的」であるが、クオリアの存在の生物学的な意義についても強調している。以下に述べるように、それは私たちの生存にとっての意味を持っていると考えられるのだ。

主観性の錯覚の兆すところ 

前野氏の言うように、脳に裏打ちされた私たちの心は、そのかなりの部分が数多くのニューラルネットワークの競合により(彼の言葉を借りるなら「小人たち」により)営まれていると考えられる (Edelman, 1990)。それはニューラルネットワークそれ自体が自律性を有している事を意味し、私たちの脳はいわば自動操舵状態なのである。私たちの意識はそれを上から監視している状態と言える。逆に言えば、脳が全く問題なく安全運転を行っている場合は、意識には何も上らず、記憶は形成されず、したがって何も想起されないということになるだろう。ただし前野氏によれば、監視しているという能動感自体も錯覚であることになる。

 Edelman, G. (1990) Neural Darwinism. Oxford Paperbacks. 

 この様な意味で前野氏は、意識やクオリアや主観性という幻想は、エピソード記憶を作るという合目的的な進化の結果として生まれたとする。要するにクオリアを体験するのは、それをエピソードとして記憶にとどめ、重大な問題が生じたときに随時思い出すためなのだ。脳は意識的な行動をその様な重要案件のために取っておき、それ以外は自動操舵できるようなシステムを有していることが明らかになっている。

意識に関する有名な理論であるフリストンKarl Friston の「脳の大統一理論」や、ドーパミンの「報酬予測誤差」の理論とはそのような文脈で理解できるだろう。

フリストンの提唱する自由エネルギー原理によれば、脳の活動は常に「外環境」を予測して動くということである。もし予測通りにことが進むと、世界は安全で御しやすく、そこで用いる心的エネルギーも最小ということになる。すると意識活動とはこの予測誤差の検知ということに費やされるということになる。意識化されるということは、何か新しいことが起きたということを意味し、それは記憶に残るということになる。

最後に

意識についてのエッセイということでかなり思いつくままに書いた。最近の生成AIの発展に気を取られがちであるが、それは翻って人の心の特殊性について再考する機会になっているかもしれないとも思う。

 

2023年6月29日木曜日

意識についてのエッセイ 推敲 1

 今回この「意識」というテーマで文章を書くにあたり、現在非常に大きく取り沙汰されている生成AIについて最初に触れないわけにはいかない。というのも意識や心について考える際、それが生成AIにおいてもすでに存在し得るのではないかという疑問や関心はこれまで以上に高まっているからである。
 昨年グーグルの社員であったブレイク・ルモイン氏が、同社の対話型言語AILaMDAがとうとう心を持つに至ったことを報告したという報告を行った。Google AI 'is sentient,' software engineer claims before being suspended By Brandon Specktor published June 14, 2022
 この発言がきっかけでグーグル社を解雇されたというルモイン氏の後日談は特に聞かないが、しばらく前なら、心を持った存在にしか可能と思えなかったことを、現在の生成AIは行っているように思える。
 たとえば私はこれまで、ある事柄を「理解する」ことは、人間の心にしか出来ない芸当だと考えてきた。私が言う「理解する」とは、その事柄について言い換えたり要約したり、それに関するいろいろな角度からの質問に答えることが出来るということである。要するに頭の中でその内容を自在に「転がす」ことが出来ることだ。例えば学生があるテーマについてきちんと理解することなく、ネットで拾える専門的な情報のコピペでレポートを作成したとする。彼はそのテーマについて頭の中で自在に取り廻すことが出来ないから、ちょっと口頭試問をしただけですぐに馬脚を表してしまうわけだ。
 ところが現在生成AIがなしえていることはどうだろうか? あるテーマについて、内容を要約したり、子供に分かるようにかみ砕いて説明したり、それについての試験問題を作成することさえできるのだ。
 この様な生成AIは少なくとも知性intelligence を有すると言えるかもしれない。いわゆるチューリングテストには合格すると考えていいのではないか。(まだ時々頓珍漢な答えが出てくるとしても、現在のAIのすさまじい成長速度を考えれば、愛嬌に等しいのではないだろうか。)
 ただしその様な生成AIが心を有しているためには、もう一つの重要な条件を満たさなくてはならない。それは主観性を備えているか、という点だ。たとえば景色を「美しい」と感じるようなクオリアの体験を有するかということである。そして現時点では、生成AIに知性はあっても主観性は有さない、というのが一つの常識的な見解であろう。(少なくとも私はそう考えている。私は折に触れてChat GPTに「あなたは心や主観性があるのですか?」と尋ねるが、「私には心はありません。」というゼロ回答ばかりである。)

そこで最近のクオリア論について少し調べてみると、かなり「脳科学的」であることに改めて驚く。
 クオリアは物理現象、たとえば神経細胞の興奮の結果として生じるという捉え方が主流となっているようだ。そして私たちが主観的に体験するあらゆる表象は、脳の物理的な状態に随伴して生じているもの(「随伴現象epiphenomenon」に過ぎない、というのが、いわゆる「物理主義的」な立場である。
 もちろんこの立場にはデービッド・チャーマーズらによる二元論的な立場からの反論もある。つまりクオリアの問題は物理学には還元できない本質を含んでいるという立場だ。しかしこのクオリア論争を少し調べてみようとすると、あまりに錯綜していて頭がくらくらしそうになる。そこでその代わりに前野隆司氏の理論に沿って考えたい。彼の説は頭の痛くなる議論を颯爽と回避しつつ、このテーマについての有用な指針を提供してくれるのだ。

2023年6月28日水曜日

学派の対立 9

 結局結論として何が言いたいのか

私の場合は学派の選択は臨床を行っている際の肌感覚に関連したものであった。更には私自身のパーソナリティが関連している可能性もある。そしてその意味では私自身の特殊事情だという気がする。

例えば第3の例でのマイクとの関りでも、私が彼に謝罪をしたことで一人のスーパーバイザーから言われたことも、それほど深刻に悩むことではないかも知れない。実際彼のスーパービジョンを受けていた精神科のレジデントや精神分析の候補生たちが、私のような体験をしたかもしれないが、そこで私のようなレベルで悩んだり、治療者とはどうあるべきかについて深刻に悩まなかったかも知れない。結果として私はドクターAに反論し、ドクターBの学派に大きく傾いたが、普通はもう少し平和的に納めるかもしれない。「そうか、色々な考え方があるのか。とりあえずバイザーであるドクターAの言われるとおりにしておこうか」となるかもしれない。
 しかし同時に、患者にとってはここで治療者が謝罪するかどうかはかなり大きな違いがあるし、場合によっては患者のその後の人生や人間観を大きく変えるのではないかとさえ思う。そう考えれば私のこだわりもそれなりの意味もあったものと思われる。
 さてその上でいえば、私が学派の多様性を受け入れるということは、ドクターAのような立場とドクターBのような立場を心において、色々なケースや治療関係がありうること、そしてドクターAのような考え方も治療的に有効かもしれないという立場を認める事であろう。それは私の実感に沿わないが、どうやらそういう立場もあるらしい、と受け入れる事であろう。それはそれで重要なことだ。つまり多様性を認めることは、自分の立場だったらこうだ、ということと矛盾しないことなのである。
 最後にこの問題を他者性の問題と繋げて考えてみたい。他者を受け入れるとは、ある意味では分からない存在を分からないなりに認めるということだ。他者とはある意味では宇宙人のようなものだ。自分の共感の及ばない存在をもう一つの主体として遇するということは、おそらくウィニコットの議論を持ち出すならば、「他人を用いる」ということになる。相手の考えを想像できるならば、その相手は自分と関係するという段階に置くことになる。ところが相手を分からない存在と見なすことは、「主体的な現象の外側に置くこと」なのです。(続く)

2023年6月27日火曜日

意識についてのエッセイ 9

 主観性の錯覚の兆すところ

前野氏の言うように、脳に裏打ちされた私たちの心は、そのかなりの部分がニューラルネットワークにより(彼の言葉を借りるなら「小人たち」により)営まれていることになる。それはネットワークの自律性と考えてもよい。私たちの脳の大部分は自動操舵、オートパイロット状態なのである。私たちの意識はそのオートパイロット状態に対して人が注意を払わなくてはならないような状態で兆すということが出来るであろう。その意味では意識とは、自動運転する車に乗っている補助運転手のようなものだ。普通は殆どを任せているが、時々「しかしなかなかやるなあ。本当に任せていいんだ。」「今はもう少し早くブレーキをかけたかったな?」「ここは駐車位置を手動で訂正しよう。」などを考えたとする。それはちょうど意識的な思考に相当するわけだ。逆に言えば、脳が全く期待通りの活動をした場合には、意識には何も上らず、記憶は形成されず、したがって何も想起されないということになるだろう。
 この様な意味で前野氏は、意識や主観性という幻想は、エピソード記憶を作るという合目的的な進化の結果として生まれたとする。これは言われてみればその通りであろう。要するにクオリアを体験するということは、それをエピソードとして思い出すということと同じなわけだ。
 意識に関する有名な理論であるフリストンKarl Friston の「脳の大統一理論」と、ドーパミンの「報酬予測誤差」の理論とはそのような文脈で理解できるだろう。
 フリストンによれば、彼の提唱する自由エネルギー原理は数式を使って、ニューラルネットワークでの処理として表すことが可能であるという。私達は常に社会生活の上で他者の心のうちを推測している。すなわち共感は彼の理論の範疇ということであろうか。私たちが生きているということは常に「外環境」を予測して動くということである。もし予測通りにことが進むと、世界は安全で御しやすく、そこで用いる心的エネルギーも最小ということになる。極端な話、そこに予想外な事や驚きが存在しなければ、すべてが無意識裏に生じるということにもなろうか。すると意識活動とはこの予測誤差の検知ということに費やされるということになる。意識化されるということは、何か新しいことが起きたということを意味し、それは記憶に残るということになる。
 一例をあげるならば、朝の電車が定刻通りに駅に到着することを予想する。そしてそのために時間を合わせて自宅を出、駅に向かい、首尾よく勤務先の最寄りの駅に到着する。すべてがスムーズに行ったことになる。ところが電車の遅延があり、いつもより30分も遅れて会社に到着することが予想されると、そこで仕事の予定が大幅に変わり、それによる様々な不都合が予測される。するとあなたは次の日から、電車の遅延が起きる可能性を考え、それに対する予防策、例えば朝の出勤の時間を少し早くする、などの手段を講じるだろう。
 2006年ごろからカール・フリストンというイギリスの研究者が、脳の情報処理の原理を説明する一般的理論「自由エネルギー原理」を提案し、この理論に基づいて脳のさまざまな機能の説明を試みてきた。

乾敏郎・阪口豊(2020)脳の大統一理論 自由エネルギー原理とは何か。岩波科学ライブラリー 299 を今何度も読んでいる。

 

2023年6月26日月曜日

学派の対立 8

 実は「新しい精神分析理論」(岩崎学術出版社、1999.p.141.)で私が一番最初に受けた精神療法についての体験を語っている。ちょうど留学して二年目、1988年の頃だ。私はそのとき32歳だったことになる。以下が引用である。

  私は以前、8箇月の精神療法(週二回、対面法)を受ける機会を持ったが、私の治療者の感情に対する関心やこだわりは、かなり早期から毎回の私の連想の中に繰り返し姿を現わすようになった。私の治療者ドクターZは、心理学者でベテランの精神療法家であり、そのスタイルは治療者の中立性と匿名性を蔽格に守る一方でかなり積極的な介入の仕方を見せる、といったものだった。ドクターZはいつもにこやかに治療室に私を迎え入れ、共感のまなざしで私の話に耳を傾けるのが常であったが、彼自身の感情やそれ以外のプライバシーに関することを言語化して私に伝えるということはまずなかった。

治療開始後数週間が経ち、私が自分の過去についてのあらすじをひとわたり語り終えたころから、私はドクターZの私に対して持つ「本音」について知りたくなった。この「本音」を知りたい、とは具体的には私の話を開いていてドクターZが不快を感じたり、私をひどい人間だと感じたりしていないか、といったことへの関心である。特に私の過去のあまり自慢出来ない出来事を開陳した直後などは、ドクターZにどうしようもない人間と思われていないか、という心配は切実なものになった。私はいまから思えばドクターZとの間でちょっとした転移神経症に陥りかけていたのかもしれない。私はドクターZに私についての気持ちを何度も尋ねる羽目になったが、それについては直接の回答など得られないのが常であった。

ある日私は苛立ちながらドクターZに問うた。「ドクターZ、私はあなたに私のことをどう思っているのか、と何度も繰り返し同じことを聞いてきましたね。自分でもあなたをいじめているような気がしてきましたよ。でもそういう私をどうお感じになるんですか。」それに対してドクターZは少し苦笑しながら言った。「そうですね。何か繰り返し針で突つかれているようで、ちょっと当惑した感じです。」それを聞いて、私はとても納得した気がし、それ以後ドクターZに私に対して持つ感情を追及したいという気持ちはあまりもたなくなった。

 このエピソードは何を物語っているのだろうか?ドクターZの言葉でなぜ私は満足したのか?私は単に治療者から何かを奪いとり、勝ち誇る、という体験を持ちたかったのか?たしかに通常は古典的な分析のスタイルを守る治療者から自分を語らせることが出来た、という幼児的な満足を私が得たことは十分有り得る。しかしそれ以外にもこの出来ごとは私にとっては重要な意味を持っていた。まず目の前にいる、そして自分が過去を懸命になって話した相手、そして自分が幼児的な願望を隠さずに話したドクターZが、その感情の一部を語ってくれたことで、私ははじめて生の人間に話を聞いてもらっていたんだという感じを持てたのである。それに「針で突つかれている感じでちょっと当惑している」というドクターZの表現自体も私を安心させた。それは確かにそうだろうと納得がいったし、私がそれ以上に彼を深刻に悩ませていたわけではない、という安堵感が生まれた。それにそれを語ったドクターZ自身は、そうされて苦痛だ、怒っている、という表情は見せず、むしろひとごとのような話し方だったのである。

 この体験をあとから振り返り、さらに気がついた点を二つ付け加えたい。まずドクタ一Zの感情表現(というより「感じ方の表現」という方が近い)は、ただ一回でも、あるいはただ一回だったからこそ、私には大きな意味があったのかもしれないということである。通常は受け身的で自分の感じ方を語らないドクターZは、私情や価値判断を抑えつつまっすぐに話を開いてくれている、という感じを、この体験までもそしてそれ以後も私に与え続けた。その背景があるからこそ彼がここ一番で行なった自己の感情の言語化は、これほど効果的であったのであろうと考えた。逆説的に言うならば、ドクターZの自己開示は、それが普段行なわれないことによりさらに効果的になったのだろう。また第二点として、ドクターZは自己開示をしながらも、あくまでも中立的という感じを私に与えた。私は彼の「ちょっと当慈している」という言葉を聞いても、彼のプライベートな部分を侵害したという感じは殆んどなかったのである。彼はあくまでもその場、その時に彼の持つ視点を私に提供してくれたにすぎなく、それこそ私が望んでいたことだった。もし彼がそれ以上に露悪的に自分の私的な感情を語ったとしたら、私は覗き見的な行為を行なっているようでかえって不快であったと思う。その意味ではこの体験は私がドクターZから何を欲しかったのかをも教えてくれた。それは彼のプライベートな情報ではなく、彼が生きてそこにいて見守ってくれている、という実感を与えてくれる手がかりだったのである。

  さてこの記載があったことで、私はもう35年以上前のこの体験を思い出すことが出来た。そして確かなのは、私はドクターZの「受け身性」に少なからず苛立ちを覚えていたということである。もちろんどこかで「分析的な治療とはこのようなものだ」という気持ちがあったのであろう。それでも私はドクターZにあえてチャレンジする形で彼から「本音」を聞きたかった。もちろん本音と言えるようなものは恐らく彼にもなく、ただそれがあるかのように想像してそれを聞き出そうとする若くて性急な私がいたというわけであるが。

私がこの自分自身の「先生は黙ってばかりだけれど、何を思っているのか教えてください」的な発言をやはり私らしさ、あるいはもっと言ってしまえば私の病理とも関連付けられるような気がする。それは恐らく同様の考えを持っていたであろう私の何人かのクライエントから、このような直接的なチャレンジを受けたことがないからである。それは私が尋ねることでようやく返ってくる言葉の中に読み取れるものだったからだ。

2023年6月25日日曜日

意識についてのエッセイ 8

 「意識」というテーマで文章を書くにあたり、現在非常に大きく取り沙汰されている生成AIについて触れないわけにはいかない。というのも意識や心について考える際、それが生成AIにも存在し得るのではないかという疑問や関心はこれまで以上に高まっているからである。
 昨年グーグルの社員で会ったある人物が、同社のAIがとうとう心を持つに至ったことを報告したことがあった。その後日談は特に聞かないが、たとえAIは心を持たないということが公式見解であるとしても、本当にそうだろうか、と疑うことが起きている。
 私はある事柄を「理解する」という能力は、心にしか持ちえないと考えてきた。思っていた。例えば学生があるテーマについてのレポートを書く場合、それを本当に自分が理解して書いているものなのか、テキストのまる写しかは、そのテーマの本質にかかわる質問をしたり、その要旨を言い表してもらったりすればいい。そのレポートが単なるコピペなら、その学生はそのテーマについて「わかって」いないからそれらの質問に答えられない。そしてそれをできるのは人が心を持っているからだと考えていた。
 ところが生成AIのやっていることはどうだろう? あるテーマについて、質問に答えたり、内容を要約してかみ砕いて説明したり、ということが出来ているのだ。
 この様な生成AIが知性 intelligence を有するとは言えるかもしれない。それはある情報に関する質問に知性的な答えを用意することが出来る。そしていわゆるチューリングテストには合格するかもしれない。ただしその様な生成AIが心を有しているためには、もう一つの重要な条件を満たさなくてはならない。それは主観性を備えているか、すなわちたとえば景色を「美しい」と感じるようなクオリアの体験を有するかということになるだろう。生成AIに知性はあっても主観性は有さない、というのが一つの常識的な見解ではなかろうか?

2023年6月24日土曜日

学派間の対立 7

 最初の学派の選択は恐らく偶発的なものである

 みなさんが大学に入って、何かのサークルをやってみようと考え、何を選ぶかを迷っているという状況を想像していただきたい。皆さんの多くは特にこれをやりたい、というものを決めていらっしゃらないであろう。最初から例えば「中学時代から続けていたバスケットボールを大学に入ってからもやろう!」という場合にはおそらく迷いは生じないはずだ。だからサークルを決める際の関心は、「何をしようか?」よりは「勉強や就職活動に差しさわりがない程度にやってそれを楽しめるか?」という方に向けられるであろう。そして職業選択として治療者(心理療法家、カウンセラー、その他)を選ぶ際もその姿勢は似ていることになろう。あなたは「どの学派を選ぶか?」よりは「それがいかに学びやすい環境にあるか、どの程度身近にその学派の影響を受けた先生がいるか?」にかなり大きく左右されるはずである。それはちょうどテニスのサークルかラクロスサークルかを選ぶとき、「ラクロスのサークルの勧誘をしてきた人の感じがよかった」とか「テニス・サークルの練習日がこの間始めたバイトの曜日と重ならない」といった基準で選ぶことと似ている。この様な選び方を、非常に不躾な呼び方で申し訳ないが、「でも、しか的」と呼ぶことにしよう。もう少し正式な言い方をすると、偶発的、ということが出来るかもしれない。つまり本質的な理由はまだそこにはなかったということである。
 私自身の経験でいえば、最初に精神分析そのものを選んだのは、それが私が新人だった当時一番セミナーを沢山やっていたものであり、大学の先生が盛んに喧伝するものに入ったりするという形で始まった。そのうちその考え方に染まっていき、いつの間にかその考えが自然になって行ったという部分もある。最初に教えられたことが、それこそデフォルト効果で残っていくということが私の場合にもあったかも知れない。
 ともかくも「でもしか」的に選んだ精神分析理論の中で、どれを特に選ぼうかという問題についても、「でもしか的」、ないしは偶発的であった。それでもよかったし、そもそも違いが判らなかった。そのあと私はいくつかの学派の中でどれを主として学ぼうかという選択していくことになるが、そこにはある種の必然が働いていたように思う。


2023年6月23日金曜日

意識についてのエッセイ 7

  私にとっては大切な問題はクオリアが上に述べた意味で神経細胞の活動に「還元」できるかであろうと思う。そしてそれはかなりの確からしさで「是」である。それは神経細胞のネットワークの発火のパターンのほんの一部の違いがクオリアに大きな変化を及ぼすことがほぼ間違いないからである。それは例えば物を見ている時にそれが反射している光の波長が、例えば570 nm から590 nm に代わるだけで黄色から橙に色調が変わって見える、という様な例からわかることである。

クオリアが物理的な世界から独立して存在するかという議論は私にはナンセンスに思える。590 nm の波長の光を橙色と感じてしまうという私たちの心の性質は確かにあるだろうが、ではその様な光の入力とは無関係に橙色という体験が成立するかと言うと大変疑わしいだろう。

ただしこの問題を突き詰めていくと、おそらく魂は存在するかという問題にも行きつくことになる。私は霊魂があればどんなにいいだろうと真剣に思うが、まだその存在を信じることが出来るような体験を持っていないのだ。

 その意味で私は以前から前野隆司氏の受動意識仮説に親和性を持っていた。脳はなぜ『心』を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説 筑摩書房、2004

彼は意識やクオリアは錯覚として、しかも生存にとって必要な錯覚として発達したものであると捉える。彼の受動意識仮説はその名の通り、徹底して受動的であり、いわば脳が勝手にやって入ることを自分が主体的に行っているという錯覚が意識であるという。この立場はクオリアがある、ない、という議論とは違い、それは錯覚であると言い切ることで、ハードプロブレムを迂回する。なぜクオリアが存在するかという議論は、それを難問とするならば、なぜそもそも宇宙が存在するのか、も難問ということになるが、それを私たちはクオリアほどは問題にしない。クオリア(という概念自体はもちろん存在する)は、その存否で意見が分かれるような性質をもともと持っているということだろうか。

2023年6月22日木曜日

意識についてのエッセイ 6

 ここで物理学に還元できないものとして心をとらえるというところがミソだ。クオリアが随伴現象だとしたら、その性質は脳の神経細胞の興奮にその細部まで対応することになる。それが物理学に還元できるということだろう。しかしそこから独立しているのがクオリアだとすれば、たとえばサーモスタットという二枚の性質の違う金属片の張り合わせという極めて単純なつくりの仕掛けにも、その単純さには必ずしも対応しない心が存在し得るということになり、それは要するに物体とは独立した心の存在、というデカルトの二元論になる、という理屈だ。これはこれで説明が付く。

Charmers, D. (1996The Conscious Mind: In Search of a Fundamental theory. Oxford University Press.林一訳『意識する心――脳と精神の根本理論を求めて』白揚社、2001

ちなみにこのチャーマーズの理論に対しては、ダニエル・デネットや、フランシス・クリック、ロジャー・ペンローズらの反論がある。その代表としてダニエル・デネットの立場を取り上げよう。彼は「クオリアは存在しない」と主張した。

Daniel Dennett (1991Consciousness Explained 『解明される意識』青土社1998年。

彼のいういわゆる消去主義Eliminativism はかなり極端で、要するに意識とかクオリアは錯覚であるという立場だ。そしてそのような強い錯覚を生み出すだけの脳内の神経基盤があるはずだと考える。これは例えばクオリアの存在が心の最大の謎だと唱える立場(脳科学者の茂木氏など)と顕著に異なることになる。そして数多くの学者がこの点をめぐって論争をしていること自体が、答えはそのどちらでもあって、どちらでもないという形をとっているものであることを示唆しているとしか考えられない。

クオリアが存在するか否かは、例えば私たちのみる夢が存在するか否か、あるいはもっと端的に心は存在するか否か、という議論と似ている。それは「存在」の定義によるのだ。例えば独楽は回転する。しかし「回転」は独楽のような物理的な存在の仕方はしない。それは機能だからだ。脳と心も同じような関係にある。心は脳のように物理的に存在はしない。しかし脳の機能として生まれてくるものとしては存在するのだ。

2023年6月21日水曜日

意識についてのエッセイ 5

 今回はいよいよ脳科学にとってまさに本丸と言える問題、つまり意識について論じたい。このテーマについて論じることはある意味で気楽で、また別の意味で非常に荷が重いのだ。気楽であるというのは、今のところ誰も一つの正解に至っていないからだ。だから私自身の勝手な仮説を立てても、よほどのことがない限り誰かに真っ向から否定されることはないであろう。荷が重いというのは端的に、このテーマが難問中の難問 hard problem (チャーマーズ)だからであり、そのこと自体が常識と化しているからだ。

 さて意識についての最近の研究で気になる理論を三つ挙げておきたい。一つはいわゆるクオリアをめぐる問題だ。クオリアqualia (複)とは要するに質感ということだがバラの花のあの感じ、と表現されるような「感じ」として私たちがいつも日常生活で体験するものだ。

ちなみにDaniel Dennett はクオリアの要因として4つの特性を示した。

INEFFABLE, 言葉で表せない - 他者と伝達できない。その体験そのもの以外の何物によっても捉えられない。

INTRINSIC, 内在的である - 相対的とか相関的なものではない。その体験自体とは別なこととの関係に依存しない。

PRIVATE, 本人にしかわからない - クオリアについて人間相互で系統的に比較することはできない。

directly or immediately apprehensible by consciousness, 知覚によって直接ないし即座に捉えられる - クオリアを体験することは、クオリアを体験する者を知り、なおかつそのクオリアについて知るべきすべてを知ることである。

クオリアがどういったものかであると定義するかには様々な考え方があるが、おおよそ次にあげるような性質があるものとして議論される。

 ところでこのクオリアは用いられ始めたのはかなり古く、1929年、哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが著作『精神と世界の秩序』[23]において現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を使用したという。これが意識の本質であるという。この議論は極めて多くの人々により信奉され、私もその一人であるといっていい。そこでの主張は、ようするに神経細胞の興奮の結果としてクオリアが生じるというものであり、私たちが主観的に体験するあらゆる表象は、脳内の神経細胞による「随伴現象」(epiphenomenon)であるとされる。ところがそれに対して異を唱えたのがオーストラリアの哲学者デイビッド・チャーマーズであった。「クオリアは自然界の基本的な要素の一つであり、クオリアを現在の物理学の中に還元することは不可能である。意識の問題を解決するにはクオリアに関する新しい自然法則の探求が必要である。」というわけで、しかしこれならサーモスタットにさえ意識体験があるという汎神論を含むと批判された。言わばデカルト的実体二元論の復活であるという批判だ。

ちなみにこのクオリア論は、ダニエル・デネットや、またわが国では茂木健一郎が有名とされる。

2023年6月20日火曜日

意識についてのエッセイ 4

 トノーニの説の概略は以下のとおりである。
 各ネットワークがどの程度情報量をためることが出来るかについては、以下のように考える。

 下の図に示すとおり、8つのノード(神経細胞を表す)の間の連絡路をどのくらいかと考え、その量をΦ(ファイ)として示す。
 これは要するにそれぞれのネットワークがいくつもの異なる興奮の組み合わせを有することが出来るか、ということである。たとえば上段左のネットワークは四つの部分がそれぞれ分かれていて、どこを刺激しても隣の神経細胞に信号を送るだけの単純な反応しか起こさない。上段右の図はたくさんのパターンを有するようで、実は全体が一緒に興奮するだけという少ないパターンしか有しないという風に、である。そして真ん中のΦ=74として示されているものが一番多くの情報量を含むというのだが、これは一見簡単な構造のようであるが、コンピューターで複雑な計算をした結果導き出されたものであるという。
 それが証拠にどこか一つに刺激を与えるとその信号が次々と伝達されてしばらくはそのネットワークが「鳴り続けて」いることになる。
 この議論については、本連載第2回の“Locked-in syndrome”に関する議論のところで触れている。

 Massimini,M., Tononi, G (2013) Nulla di più grande. Dalla veglia al sonno, dal coma al sogno: il segreto della coscienza e la sua misura. Baldini-Castoldi Editore, 2013 (マルチェッロ・マッスイミーニ、ジュリオ・トノーニ著、花本知子訳 意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論 コトモモ社、2015)
さてここで問うてみる。一定度以上のΦを有するということは意識を持つことの必要条件であろうか?
おそらく是、であろう。というのも私たちがあることを理解していて、それをいかような形でもアウトプットできるというのはそういうことだから。例えばもし私たちの心が「リンゴ」を知っているとしたら、それがシンプルにも複雑にも表現でいることが出来、個別のリンゴのさまざまなバリエーションをわかっていて、それを異なるタッチの絵としてかくこともできるであろう。つまりネットワークを自在に改変することが出来るわけだ。
 ただし、では十分条件かといえばそうでもないかもしれない。例えば私たちはすでにチャットGPTがある文章を要約したり、やさしく説明したり、それを様々に言い換えたり、翻訳したり、ということが出来る。それはまさしくこのΦに関する説明に合致しているように思える。しかし私たちは今のところそこにあるのは【心】でしかないと考えているのだ。心がないはずのAIもまたネットワークを自在に改変しているような様子を見て私達は何を結論付けることが出来るだろうか。

2023年6月19日月曜日

意識についてのエッセイ 3

 フリストンの説をよく知りもしないで批判は禁物かもしれないが、ここで私の考えをまとめるうえでも一応ひとこと言っておく。フリストンの自由エネルギー論は、脳がいかに情報処理を巧みに行っているかという説明になっている。ただそれは心がいかに生まれるかというテーマには沿っていないような気がする。それはいかに脳が無意識的に様々な処理を行っているのか、という印象を受けてしまう。逆説的な言い方になるが自由エネルギー論に十分に従いきれずに予測誤差が発生するところに意識が生まれるのだ。
 私がむしろピンとくるのは、情報統合理論と言われるもので、イタリアのジュリオ・トノーニという学者がそれを提唱している。このブログにも何度か登場しているが、少し繰り返す。トノーニは脳の中で情報をより多く蓄えることのできるネットワークが意識を生むと考えた。これはそもそもどういう意味だろうか。

 前回(第4回)で書いたネットワーク=結晶の議論を思い出してほしい。例えばリンゴの脳内のネットワークは一つの結晶を形成するとした。しかしその細部は揺らぎが見られ、一部があまり光らなかったり、どれだけ光るかの範囲がその時々で違うという話をした。つまり「リンゴ」とちらっと聞いたときに発火するネットワークは、リンゴについてゆっくり時間をかけて思い浮かべる際のネットワークよりコンパクトで、ないしは骨組みだけというところがある。そしてそのネットワークにはその内部に様々な組み合わせが存在し、青いリンゴのイメージと真っ赤なリンゴのイメージでは少し光る部分が異なる、などの話をした。例えば私が「ドリアン」という果物を思い浮かべようとしても、極めて貧弱なネットワークしかない。激烈に臭いということ、そして何やらトゲトゲのついた実であるということぐらいだ。ドリアンについて語れと言われてもとても饒舌に語れない。つまり私の脳にあるドリアンのネットワークは極めて情報量が乏しいのだ。それに比べてリンゴなら、そのネットワークはいくらでも語ることが出来るほどにたくさんの情報を持っている。それは要するにそのネットワークのいろいろな部分を自在に光らせることが出来るという意味である。
 ということはそもそも意識とはそのようなネットワークを豊富に含んだ巨大なネットワーク全体ということになるだろう。それがトノーニの説の非常に大雑把な要旨である。

2023年6月18日日曜日

学派間の対立 6

 さてもう一つの学派の多様性は、個人の内部におけるそれである。ある一人の治療者が、クライン派とコフート派の考えを共存させているというような状態である。その場合は、その治療者はクライン派とコフート派の理論と実践を学び、それぞれの学派にのっとった治療の有効性を自ら実感している。この場合は恐らく両者の治療法を個別に実践するというよりは、双方を治療的な文脈に沿って適宜取り入れるということになろう。その場合は学派の多様性は患者にとっての貢献につながると考えていいであろう。
 ただしこの第二の意味での学派の多様性はどの程度達成されているだろうか。あるいはそもそもそれは可能なのであろうか?その問題について論じてみたい。
 最近一つ感じる事があった。私が学派の間の対立について考えていることについて、若い治療者は私が考えている以上に、あるいはそれとは異なる形で困っているということである。それはAにしようか、Bにしようか迷うという感じであり、そこに強い動因がないままにどちらかを選ぶということが起きている可能性がある。
 私は講義や講演などでしばしば学派の多様性について論じ、分析理論にいたずらに捉われるべきではないという話をするが、一部の視聴者から非常に当惑した反応を受けるのである。一つは「では先生は何学派なのですか?」であり、もう一つは「私はどのように学派を選んだらいいのでしょうか?」というものである。これは精神分析を学ぶ多くの人々にとってごく自然で、おそらくはかなり深刻な問題でもあり得る。そしてそれに対して私が一番言いたいことを単刀直入に言うことは、更に質問者を混乱させることになる。それは特に二番目の質問に対して次のように答えた時である。
 「素晴らしい質問です。そしてそれはあなた自身が、ご自分で決めるしかありません。なぜなら誰も正解を教えてくれないからです。」
 そう、この答えは最も現実的であり、また最も不親切な答えなのだ。そこで私はこの答えの意味について少しかみ砕いてお話したいと思う。
 ここで二つの学派を取り上げよう。何でもいいのだが、分かりやすくクライン派とかコフート派ということにしよう。そして学派を選ぶ段階でよく受ける印象が、どちらの学派を選ぶかを、あたかも大学に入学してキャンパスを訪れた時に、サークルの勧誘を受けて、ラクロス・サークルとテニス・サークルの間で迷うような感覚であるということだ。あるいは囲碁部か、将棋部か、でもいい。これまで自分がそれ等のうちどれかに特化して取り組んだということはなく、目の前にたまたま示された選択肢の中からどちらかをサイコロを転がして選ぶという状況に似ている。

2023年6月17日土曜日

学派間の対立 5

 今回のテーマは様々な文脈における多様性ということであるが、多様性の問題は精神分析理論の世界にも存在する。それを論じるのが私の役割であるが、そこで最大の問題は、その多様性が患者に対する利益を促進するのか、それともそれを阻害するのかということである。そしてそれは両方の影響を及ぼす可能性があるというのが私の見解である。ここで学派の多様性を二つの意味で考えたい。

 まず理論や学派の多様性の第一の意味は、現在の精神分析においては様々な学派が存在し、それぞれが共存を許されているという意味においてである。そしてそれぞれの学派が学会や研究会を開催し、それぞれの研究の成果を伝え合う。しかしこの第一の意味での多様性は、学派間の交流や討論を意味するわけではない。それぞれが自分たちの分析理論を信奉し、それに従った治療を行う。ただしほかの学派の存在を特に否定するわけではない。

この意味での学派の多様性は、一見平和なように見えて、臨床的な意義を考えるときには問題があるだろう。それは個別の患者はどの学派を選ぶべきかについての見解を持ちえないだろうからだ。例えばコフート派とクライン派を例にとると、コフート派の治療者はコフート派の治療を、クライン派の治療者はクライン派の治療を薦めることになるだろう。そして多くの場合その理由を聞かれた時には、「私はこの学派でのトレーニングを受けたからです」、ということ以外に言いようがないことが多いだろう。そしてそれはある程度やむを得ないことかもしれない。それぞれの学派を学んで年余にわたるトレーニングを受けるうちに、ほかの学派に費やす時間もエネルギーも奪われてしまうからだ。

さてもう一つの学派の多様性は、個人の内部におけるそれである。ある一人の治療者が、クライン派とコフート派の考えを共存させている。

2023年6月16日金曜日

意識についてのエッセイ 2

 乾敏郎・阪口豊(2020)脳の大統一理論 自由エネルギー原理とは何か。岩波科学ライブラリー 299 を今何度も読んでいる。

 自由エネルギー原理とは、イギリスのKarl Friston が提唱した理論であるが、その原則を一言で言うならば、人の心は常に変分自由エネルギーというコスト関数を最小限にするという性質を持つという。そしてその背景にあるのがいわゆるベイズ理論だ。それは 「観測データに基づき事前確率(prior belief)を事後確率(posterior belief)に更新する過程のことであり、事前確率・事後確率とはそれぞれ観測の前・後におけるエージェントが持つ外部状態に関する信念を意味している」(「」内はネットの文章を拝借した)などというのだが、わかりにくい。結局脳は世界とかかわる際に、慣れるにしたがって「たかを括る」ようになるということだ。世界はどうせこんな感じだ。空からチラチラ白いものが舞って降りてきても驚かず、それにあたって体が汚染されたり、傷ついたりすることを恐れることなく、無意識的に「雪だから平気だ」とその中を歩いていこうとする。そしてそれが予測と異なる場合にはそれに対して恐れなどの感情を持って反応し、それが意識野に上ってくる。(どうも焦げ臭いにおいが漂ってきたり、雪が降るにしてはさほど寒くないと感じたりして不思議に思ってよくよく見ると、それは雪片ではなく、近くで起きていた家事の影響で舞い降りてきた灰であることがわかり、びっくりする、など)。
  しかしこの件について書いていて一つ疑問だ。彼の説は、人間の心がいかにロボット的かということについて論じているようだが、実はこの話は乾敏郎・阪口豊(2020)の上記の著書を読んでも明らかではない。同著の末尾部分に「意識とは何か」という項目があるが、「フリストンは、時間的に幅のある(深い)生成モデルを持って、未来の状態を考え、行為系列を選択する機能を持つことによって意識が芽生えるのではないかと考えているが、その詳細は研究途上にある。」(p.120)「フリストンらは、感情や意識を議論する上で極めて重要なのが、内受容感覚に対する精度及びその変化であると考えている。」「精度が向上することが、意識に上るきっかけと考える。」(p. 122
 ところが精度が上昇すると逆に意識に上らなくなるのではないかというのが私の考えである。最近ふと思うのだが、意識がある、ということは回想を可能にするということと同一であるという気がしてくる。フリストンの言うように私たちの精神活動がここまで自動化しているならば、意識活動が行うのは、能動的な行動や回想くらいしかなくなってくるのではないかと思うのだ。

 

2023年6月15日木曜日

学派間の対立 4

  なぜ私は学派に拘るのか。色々考えているうちに、これは私の性格の問題かもしれないと思うようになった。精神医学や精神療法の世界にいると、腹が立つことがたくさんある。そして私の学派の選択はそれの反映であり、学派間の対立もその視点から見てしまう。学問的な立場の対立はそれぞれの考え方の違いから生まれるのであろうが、精神分析における対立はその人の持っている治療態度を反映している気がする。それは治療者としてのおごり、傲慢さ、あるいは自己愛の問題である。私が学派を選ぶときは、かなりこの観点から行っていることが多い。
 やはりはるか昔、1990年代の留学先メニンガー・クリニックの頃の体験である。留学した当初はまだ何も資格を持っていず、病棟で精神力動的な治療方針に従って治療が行われていたのを一見学者として見ていたが、不思議に思ったり憤慨したりするということはとても多かった。私は「国際留学生」という非常にあいまいな立場で患者に会い、治療者ではないがオブザーバーという見地から患者の話を聞くことがあった。そのせいか患者の何人かはいろいろ気兼ねなく日頃の鬱憤などをぶつけてきた。そこで出会う患者の多くは病棟での扱われ方に憤慨していたように思う。それは概ね病棟での制限的restrictiveな雰囲気に向けられていた。
 病棟で患者はLORlevel of responsibility、責任レベル)を与えられ、それに従って行動していた。入院したばかりの患者はそれだけ重い(軽い)LORを与えられ、一人での外出を許されなかった。そして徐々に慣れるに従い、それが上がり、スタッフとの外出がOK、患者同士の外出がOK、最後に単独での外出がOKという風に上がっていく。一種の階級制度のようだが、時には処罰的なニュアンスも含まれていた。病棟内での他の患者とのトラブルなどがあると、レベルが下げられ、外出禁止になるなどの仕組みが見られた。スタッフとの対立や病棟の風紀を乱すような行動の場合にもレベルが下がった。しかしスタッフはより低いレベルのLORに置かれることを、患者に対して処罰的な扱いをしたとは考えず、責任レベルが低下した、すなわち「負うべき責任を軽くしてあげた」というロジックで伝えていた。当時の私にはそれが詭弁のように思われた。私はこのことをその頃一緒に留学をしていた福井敏先生とよく話し合ったものである。彼もまた同じような意見であった。
 もちろん病棟運営で患者に行動制限を課すということはしばしば行われ、それだけの意味を持つことも多い。病状の重い人は保護室での管理から始まり、徐々に閉鎖病棟の個室に移され、徐々に大部屋に移り、より回復が見られたら解放病棟に移る、などはごく普通に行われている。それは治療者の側の管理の観点からも、また患者の安全を確保することからも必要とされることが多い。しかしそれは容易に処罰的なニュアンスを持ち、患者の管理の手段としても使われる。メニンガーの病棟でも同じことが行われていたと思えばいいのであるが、より厳しい管理をしながら「あなたが負うべき責任を軽くしてあげているのですよ」という言い方がどうも受け入れがたい。そこにどうしても一種の欺瞞を感じてしまう。ちょうど私も病棟の患者のように外国生活で色々な不自由を感じ、患者の立場に同一化する傾向にあったのかもしれない。すると病棟のスタッフ、特に医師の権威的な態度は特に鼻についてくる。
 この様に書くと私の精神分析における学派の選択は、結局一点に絞られてくるような気がする。治療者が権威的にふるまっていないか、分析理論を権威を振るう口実に使っていないか。どうしてもこの一点にかかってくるのである。このエピソードを書いていてよくわかった。私が気に入らない学派は、そこに分析家としての権威主義が透けて見えるような印象を与えるものである。

2023年6月14日水曜日

エッセイ 5

 クオリア問題について

 風邪で熱が出かかった時の背中から上がってくるゾクゾク気分。バラの花の甘い香り。プールで泳いだ時に鼻から水が入って感じる独特な感覚。・・・・。私達の体験の独特の質感、時には他者と「ああ、あれね」と共有できるような感覚、いわゆるクオリアの問題は意識を語る時の代名詞のように語られてきた。この質感こそが数値化できない、すなわち科学に還元することが出来ない純粋に主観的なものであるというわけだ。
 考えてもみよう。バラについての様々な客観的な事実を人間の何万倍も詳しく示すことの出来たAIが、ある日こう言ったとしよう。「打ち明け話ですが、実は私はバラの素敵なイメージを感じることが出来るのです。ほのかな甘みを伴った香しさ、深紅のビロードのような花弁…」などと言い出したら、「やばい、このAIは心を持ち出したかも・・・・」となるのではないか。LaMDAのいっていたことは、ルモインさんの主張は正しい(エッセイ第2回目)ということになる。

 しかしここに一つの考え方が成り立つ。クオリアとは結局は差異である、と。Aという体験とBという体験を明確に別のものと区別できるとしたら、それがクオリアの始まりである。クオリアを体験するとは、主観がそれまで生きる過程で得た、数限りない体験を、「ああ、あれはAであってBでもCでもない」と認識できるということなのだ。

 逆に言えばクオリアの持つ質感とはバーチャルなものであって差し支えないのだ。つまり主観的な体験とはバーチャルなものなのだ。
 私にとっての意識とは何か、というテーマは一応ここで落ち着いていて、あまりそれ以上悩んでいない。チャーマーズの言う「ハードプロブレム」は一応自分なりにここで治まっている。すると例の心と【心】の際の問題もある程度の結論は出かかっていることになるのだ。
細胞工学 株式会社秀潤社のHPより。
https://www.nig.ac.jp/color/barrierfree/barrierfree1-2.html

 クオリアとは差異である、と言い切る一つの有力な例。例えば赤い色、緑色、黄色などはクオリアの一つの典型と言っていいただろう。ではそれらの間の差異は何か。色のクオリアを構成するのは、網膜の錐体細胞の興奮の度合い
である。錐体細胞には、青、緑、赤に反応する
3種類がある。そしてそれぞれがどの程度興奮するかにより、いわば三次元空間の一点として表される。例えばバラの赤紫色(r:rose)は、その差異の青錐体の興奮度をXr、緑錐体のそれをYr、赤錐体のそれをZrとすると、(Xr,Yr,Zr)として表されるとする。それはオレンジの橙色(o:orange)を表す(Xo,Yo,Zo)とは異なる点である。そして両方が三次元空間上異なる点である、ということが、両者が識別されるということを保証する唯一の事実なのだ。
 ここでクオリアとは差異であるという意味をもう少し説明したい。というのもこの差異が体験される形でしかクオリアは形成されない。例えば世の中がすべて赤い色で染められているとする。濃淡はあるが、基本的には赤しか存在しない世界にあなたはいるとする。あなたはすぐに赤というクオリアを感覚として失い、ただの明暗しか存在しない世界としてしか体験しなくなる。それは他の色が表れて、それとは異なる色であるということを認識させてくれるまで続く。
 
 私は子供の頃授業中に退屈し、目の前の「机」を眺めて、どうして机って「ツクエ」なんだろう、と考えていたことがある。そしてツクエ、ツクエ、ツクエ、と何度となくつぶやいているうちに、次第にツクエが普段の「机」のイメージから遊離していき、何の意味も持たない音のように感じられ始めて、とても不思議な気がしたことを覚えている。ツクエって何だ? それから別の考え事に移り、またしばらくしてツクエに戻ると、それは再び「机」の感じ、クオリアを取り戻していたのである。複雑なクオリアを持つ「机」でさえ、しばらく他のものと隔離をするだけでその質感を失う、という一つの例である。

2023年6月13日火曜日

関係精神分析 2023年のお誘い

今年も7月の第一日曜(7月2日)が近づいてきました。小寺関係精神分析セミナーを行います。
今回のテーマは多様性、ということで、ジェンダー、地域、世代、と言った色々な切り口からの多様性について考えます。メンバーはいつもの富樫公一先生、吾妻壮先生、そして紅一点長川歩先生です。私は学派のダイバーシティというテーマで、私たちを悩ませ、また楽しませる学派間の対立や祖後、ないしは協調といった点について論じます。
臨床を行っている方々に限りますが、是非ご参加ください。以下の資料室からパンフをご覧ください。


池見陽先生との対話

  今年の統合精神療法セミナーの私の担当は6月4日(日)であった。午前中はフォーカシングの大家である池見陽先生の体験過程の講義、午後は私が「共感」についての講義をし、そのあと池見先生との対談となった。いろいろ刺激を受け、実りの多い一日であった。自分の臨床スタイルがフォーカシングとも共通点を持つことはあまり考えていなかったことである。

以下はそこで私が池見先生の発表へのフィードバックとして伝えた内容である。

池見先生の発表原稿を何度も読ませていただき、そこに流れている雰囲気が私にはとても心地よく、それこそ共感を覚えるものでした。ジェンドリンの理論が精神分析へのアンチテーゼを含む点も、私自身の立場と一致しています。というのも私も分析家としての立場から古典的な精神分析理論については常に批判的に再検討を加える身だったからです。
 私の発表と重なる部分から申し上げますと、「人は無意識に突き動かされる存在ではない。また人のうちに「無意識」や自己」や「真の性格」などは存在しない。むしろ過去を振り返ってそうと気付くものである」(p.3)という部分です。フロイト的な治療感は徹底して治療者目線であり、患者の中に病理を発見しようという立場ですから、いわゆる本質主義、つまり患者の言葉の中に何か本質的なもの、隠されているものを見出そうとする観察者の立場になります。ただこのモデルで上手く行く場合もありますが、多くの場合そうではない。例えば患者が治療者に腹を立てている場合には、それを抑えていたとしても言葉の端々に現れてくるかもしれない。その様に比較的見えやすい例なら沢山あります。ところが無意識を持ち出すと、例えば今のあなたの言葉は、無意識的な攻撃性の表れだという風に解釈すると、あるいはあなたの真の自己の表れだ、とすると、それを患者本人が実感できないだけに(なぜなら無意識的だから)いわば言った者勝ちになってしまい、そこからは分析者のペースになってしまいます。なぜならそれは治療者にとっては正しい解釈で、患者はそれを受け身的に受け入れなくてはならなくなる。ところがこれはフェアではありません。
 結局治療関係は二人の間で展開していくものであり、その行方は実は誰にもわからないものです。そこで出来上がっていくものが実は必然性があったのだと思うと、あとから思えば「これが無意識的なテーマだったのだ」となる。ただし私はそうとも考えていません。むしろ展開して出来上がったものは、今の現実として受け入れ、出発するという立場があります。それはそれでいいと思うし、今の私は昔からあったとも、展開したとも言えます。いい影響を受けて、延びるポテンシャルが延びたとも言うことが出来るでしょう。例えば私は今こんな仕事をしてこんなことを書いていますが、例えば30年前にすでにその兆候があったかと言えば、その時から変わらない部分もあれば、その時は予想していなかったことが起きたという部分もあります。ある意味で宿命的で、ある意味で偶発的であるという、現実が含む両面性を共に味わうのが治療ではないかと思います。しかしそこで重要なのは、治療者の側もしっかり影響を与え、また患者から影響を受けて変わっていくということを体験することではないかと思います。
 私の発表にも含めましたが、ドネル・スターンが未構成の体験という考えを提出しています。私はこちらの考えに賛成です。そしてそれが先生のジェンドリンの理解と非常に共通する部分があると考えます。ただし時には解離体験のようにまさに埋もれている記憶があり、その場合は発掘モデルもあり得ると思います。
 更に人間が二人で話すという行為は、まあ治療もそうですが、相互にディープラーニングをすることです。互いが様々なレベルで相互に影響を及ぼし合い、学習をしあう関係です。

(以下略)

2023年6月12日月曜日

エッセイ 4 推敲 2

 2.ネットワークの結晶がひとつの具体的な体験を構成する

この2番目の原則も非常にシンプルな事実を示していることになる。常に揺らいでいる神経細胞は、それでも時には明確な振る舞いをする。それは大きな信号を発してそれを周囲の神経細胞に伝えるのである。そしてその結果としてそれを受け取った神経細胞がグループとして興奮、発火することがある。イメージとしては夜空の無数の星のうちある星座だけがリズミカルに光っている感じだろう。現実にはそんなことは起きないが。


私がこのGIFアニメで示したいのはそのような状態である。ただしその星座もよく見ると細かく揺らいでいるという意味では1.を満たしているのだ。このネットワークを構成する神経細胞は厳密には一定していなかったり、その一部だけあまり鮮明なネットワークを作れなかったりするのだ。(もちろん図1にはそこまで描き込むことは出来ていない。)

ここでの「具体的な体験」とは概念でも知覚でも記憶でも何でもいい。例えばこれが「リンゴ」についての体験を表しているとする。「リンゴ」は「リ・ン・ゴ」という音としてのそれだけでなく、その視覚的イメージ、手に持った時の重さや手触りなど、様々な体験を併せ持つだろう。だからこの「リンゴ」を代表するネットワークは聴覚野にも視覚野にも体性感覚野にもそのネットワークを広げていることになる。


【以下略】

2023年6月11日日曜日

エッセイ 4 推敲 1

4.脳の表面ではダーウィニズムが支配する

 


脳のあり方の基本形

 今回は脳の働きの基本形について述べたい。13回までで、AIと脳の類似性についてはその大枠についてすでに説明した。私は人間の脳とは巨大な(しかし微細な)ネットワーク構造になっていると述べた。そして脳が機能しているということは、その神経細胞により構成される網目構造、つまりネットワークの中を広範囲にわたって電気的な信号が行きかっている状態であると説明した。

 そのさらなる説明のために、まず私はいわゆるニューラルネットワークについて説明した。それは脳の神経細胞どうしのつながりをかなり荒っぽくモデル化したパーセプトロンに端を発していた。入力層と出力層という、いわば入り口と出口を備えた構造をお示ししたのを覚えていらっしゃるであろうが、それをきわめて複雑な形にしたものが、最近のAIを支えるディープラーニングと呼ばれるものだったのである。

テキスト

自動的に生成された説明そこで漠然と示したかったのが、脳の網目構造とAIの網目構造は、あくまでも似ているらしい、ということである。人間の脳は自然が作った生命体である。他方ではAIはその人間が人工的に作ったものである。両者は全然異なるはずだ。そこで私は「AIがつくるのは【心】と表記し、あくまでも本物の心とは区別しましょう」と提案したのだ。(例の     =心という数式のことである。)

そこでここからは心(【 】なしの)を生み出す脳の網目構造、すなわちニューラルネットワークの話になる。それはどのような特徴を持つのだろうか。私はそれを以下の4項目にわたって挙げたい。

1.脳の基本的なあり方は揺らぎである。

2.ネットワークの結晶が一つの具体的な体験を構成する。

3.分かる、とはネットワーク間の新たな結びつきの形成である。

4.脳の表面ではダーウィニズムが支配する


【以下略】

2023年6月10日土曜日

意識についてのエッセイ 1

  意識の働きについて考える上で、一つ気になっていることがある。意識に関する有名な理論であるフリストンKarl Friston の「脳の大統一理論」と、ドーパミンの「報酬予測誤差」の理論とは似たところがある。二つの説ともある特徴的な推論に従って意識活動を理論化する。それは私達の生や意識は、常に予測と実際の誤差を知り、それを最小にすることにそのエネルギーが注がれるということである。
 フリストンによれば、彼の提唱する自由エネルギー原理は数式を使って、ニューラルネットワークでの処理として表すことが可能であるという。私達は常に社会生活の上で他者の心のうちを推測している。すなわち共感は彼の理論の範疇ということであろうか。私たちが生きているということは常に「外環境」を予測して動くということである。もし予測通りにことが進むと、世界は安全で御しやすく、そこで用いる心的エネルギーも最小ということになる。極端な話、そこに予想外な事や驚きが存在しなければ、すべてが無意識裏に生じるということにもなろうか。すると意識活動とはこの予測誤差の検知ということに費やされるということになる。意識化されるということは、何か新しいことが起きたということを意味し、それは記憶に残るということになる。
 一例をあげるならば、朝の電車が定刻通りに駅に到着することを予想する。そしてそのために時間を合わせて自宅を出、駅に向かい、首尾よく勤務先の最寄りの駅に到着する。すべてがスムーズに行ったことになる。ところが電車の遅延があり、いつもより30分も遅れて会社に到着することが予想されると、そこで仕事の予定が大幅に変わり、それによる様々な不都合が予測される。するとあなたは次の日から、電車の遅延が起きる可能性を考え、それに対する予防策、例えば朝の出勤の時間を少し早くする、などの手段を講じるだろう。
 さて、これと報酬とドーパミンシステムに関するモデルは似ている部分がある。シュルツWolfram Schultzは、ドーパミン系は報酬予測誤差reward prediction errorを検知していると言った。これは大統一理論と全く別のことを言っているかと言えば、そうでもないかも知れない。しかしフリストンのモデルではあまり扱っていない重要な「予測」について扱っていることになる。
 シュルツによれば、私達は世界が自分に与えてくれるであろう満足体験を予測する。ある期待を持つとそれに向かって進むことが出来る。いわゆる動機付けだ。たとえばサラリーマンは蒸し暑いオフィスで仕事をしながら、夕方ビアホールに行って一杯やるつもりだ。それだから頑張れる。ところがいざ仕事が終わりお目当てのビアホールに赴くと、「本日閉店」の看板がかかっている。報酬予測が外れたことであなたはひどく落ち込む。
 以上の一連の事象にドーパミンが絡む。脳にドーパミンが枯渇している場合(ネズミなどによる実験では実証済み)には、数時間後のビールのことを考えても、「よし!あと数時間の仕事を頑張ろう!」というモティベーションは恐らく生まれない。ドーパミンシステムが機能しないと、動機づけがそもそも起きなくなる。これはうつ病でやる気が失せた状態に相当する。ただしドーパミンなしでも、ビールを口にした時の「おいしい」は問題なく体験できるという。そこが面白いところだ。
 あるいはおそらくその逆の場合にも同様にドーパミンが関与しているであろう。たとえばあなたは会社での仕事が終わった後ジムでトレーニングをする予定だとする。ジム通いをあなたは人に勧められて仕方なく行っているが、実は嫌で嫌で仕方がない。「あと数時間でまたあの嫌なジムでのトレーニングか」とおもうと午後の仕事のモティベーションが一気に下がってしまう。しかしいざ重い足を引きづってジムに向かうと「本日休業」だった。あなたは幸せな気持ちになるだろう。
 この後者の苦痛の予測の問題は恐らく、フリストンのモデルに直結している。考えてもみよう、このいわば情動部分の動きを考慮せずに予測をすることにどれほど意味があるだろうか。

2023年6月9日金曜日

社会的トラウマ 11

 それでもどうしても残るモヤモヤ、疑問。これを書き出してみよう。

男性の劣情とは結局嗜癖モデルにかなり近い。そこではもはや liking (心地よく思うこと)ではなくwanting (そうせずにはいられないこと)に支配されるのだ。男性自身にとってもこれは楽しいことではない。その点でこのプロセスはinsentive sensitization model (ISM)に従うと言っていいだろう。そしてその際には女性を人として見なさない、ないしは女性から何かを奪うというプロセスが生じる。それは目の前の対象と共に心地よさを追求するということからはどうしても逸脱するからだ。男性はその瞬間は別の人を想像している、というのもそれに依拠する。Wanting はその人の人間らしさや倫理観、愛他性などを根こそぎ奪う可能性がある。男性は性が絡むと人が変わると言える。それはおそらく最も獣的な側面で、それを少しでも垣間見ることは、かつてトラウマを経験した女性(男性も)には耐えられないことである。だからこそまず最初に小児を守らなくてはならない。これは男性も女性も同様である。結局はそれに尽きる。

ではなぜ男性の性欲の充足は獣性や「劣情」を伴うのか。なぜ男性の性的な満足は相手の人権を蹂躙する傾向にあるのか。それは性欲の対象とするとき、相手は現実の対象でなく、投影の対象になるからだ。これは男女でいえることだが、男性は特にクライマックスに向かう為のポジティブフィードバックがかかっているので、能動的に、あるいは自力で上り詰めなくてはならない。更にはその投影には自らの攻撃により蹂躙される対象という形をとることもある。これはそれ自体ですでに加害的な行為となりうる。
 相手がファンタジーの対象となることとドーパミン系であることは同じことなのか。おそらく。いわゆるHN系とドーパミン系という分類をするならば。
 でもまだモヤモヤが残る・・・・・。よくわからな
い。

2023年6月8日木曜日

トラウマとPD 2

  虚心坦懐にPDのことを考えた際に言えることがある。それは端的に、人が例えば家庭内で見せている顔と、職場などで見せている顔には極端な差があり得るということである。そしてそのどちらが本当の顔かは決められないことが多い。私自身も考えて、社会の中で示している顔は家庭内とは真逆でさえあることが多い。では私のパーソナリティはどのように判断されるかと言えば圧倒的に社会における顔であろう。でもそれはある程度作っている、ないし作られているものであるという自覚がある。いわば仮面としての側面を有するわけであるが、それが私のパーソナリティと判断されることの意味はどれほどあるだろうか。
 ここで私が指摘したいのは、私達はしばしば人の中にその人の本質を想定し、その人独自のパーソナリティがいわば実体化されて想定されるということだ。それが例のカテゴリカルモデルだ。でも実はそこにあるのは特定の状況で反応するパターンがいくつか雑然と存在するに過ぎない。それをできるだけ正確に伝えようとするといくつかの次元ごとに分けるしかなく…・結局ディメンショナルモデルになってしまう。非社交性、制縛性、離隔、否定的感情、脱抑制の割合を点数化して示す、という例のやり方だ。

要はPDの世界もまた混とんとしていて曖昧だ。それもあってDSMの多軸診断も消えてしまったのである。

ただPDの存在理由がそれでもあるとしたら、社会におけるある種のパターンを示し続ける人である。それで沢山のカテゴリー(例えばスキゾイド、が消えても、BPDだけはしぶとく残るということだろうか。

 PDが曖昧になったいくつかの理由。

1.  発達障害の概念、ないしはHSP(超敏感パーソナリティ)の議論などの高まりにより、従来のPD混入してくるものが増えてきた。

2.  いわゆるヒューブリス症候群、ないしは成人後に獲得されたパーソナリティの存在。

3.  CPTSDに見られるようなトラウマの影響としてのパーソナリティ傾向。

これらによりPDは「希釈され」、今や純粋系を保ちづらくなってきた。別の見方をすれば、従来のPDが「草刈り場」になりつつあるということでもある。それが現在のPDをめぐる現状である。

2023年6月7日水曜日

学会用スライド

 学会用のスライドを作っていたら、あっという間に時間が過ぎた。