2022年5月31日火曜日

他者性の問題 112 Bromberg の紹介の大幅加筆

 次にBrombergの所論についても触れてみよう。Brombergがその論文の中で繰り返し訴えるのは、私たちの自己selfが非連続的ということだ。彼は Stephen Mitchell (1991) の次のような言葉を引用する。「私たちは異なる他者とかかわることで、私たちの自己の体験は、非連続的となり、 異なる他者には異なる自己が成立する。」「それぞれの関係性が多数の自己組織を含み、そのような関係性が多数ある」(p.127-128)。つまりはMitchell がそのような多重的な心という考えをすでに持っていたのであり、Bromberg はそれを引き継いでいると言っているのである。Brombergは私たちが持っている「自分は一つ」という感覚自体が危ないという。それは一種の幻想であり、トラウマ的な出来事によりいとも簡単に消えてしまうのだ。そしてそのような時に解離は防衛として機能する。つまり将来危険が来ることが予期されると、解離は早期の警告システムとしての意味を持つようになるという。ちなみに  Brombergのこの考えは結局は解離されたものは象徴化されていないものunsymbolized となり、やはり不完全なもの、病的なものというニュアンスを持つことにある。したがってこの点は私の考えとは異なる。
 ちなみにBromberg の「自分は一つという感覚自体が危うい」という主張は、自分は複数あるというポリサイキズムを肯定する主張にもとれる。しかし結局はそれらは治療その他により統合されるべきものと考えられるのであり、その意味では Stern と同じ路線上にある議論、すなわちタイプ1.に属することになる。

Bromberg  の論文はさまざまな論者を援用しているが、なかでもPH. Wolff (1987) は注目すべきかもしれない。Wolff は人の心は生まれた時からすでに一つではないという。彼は乳幼児の観察から、自己はいくつかの「行動状態 behavioral states」から始まり、発達的にそれが統合されていく。J. Kihlstrom によればそれが(またもや)象徴化により結びついて統合されるという。Brombergによればその象徴化が起きない度合いに応じて解離が強くなる。彼にとっては解離=非象徴化なのだ。しかし結局はそれは一つの心の中で起きることなのだ。

Wolff, P. H. (1987). The development of behavioral states and the expression of emotions in early infancy: New proposals for investigation. University of Chicago Press.

その意味ではBromberg の理論は脳の局在論に近いことがわかる。人間の脳はさまざまな部位が異なる機能を担っている。そして主観的には自分は一つであるという幻想を持つものの、実は主観が及ばない、すなわち解離された部分が存在し、その意味では心は複数なのだ。

そしてBromberg は脳科学者Joseph LeDoux (2002)の研究に言及する。LeDouxは以下のように言う。「思考はそれぞれが単位unit だが、単一 unitary ではない。自己のすべての側面が必ずしも同時には表現されず、それらのいくつかは矛盾することすらあるという事実は複雑な問題を来すようである。しかしこのことは自己のそれぞれの側面は脳の異なる部位の機能を表しているのである。ただしそれらは常に同期している in sync というわけではないという」。(LeDoux, 2002, p31 ただしBromberg p641に引用されている。)

Bucci, W. (2001) Pathways of Emotional Communication. Psychoanalytic Inquiry 21:40-70 LeDoux, JE (2002) The synaptic self. New York Viking.

 以上現代的な精神分析における解離の理論について検討した。Stern にとっては解離されたものは未構成の非言語的な意味ということになる。またBrombergにとっては非象徴化の状態ということになる。両者とも抑圧理論とは違う、あるいはそれを遂行、精緻化する上で個の解離の機制が説明されている。しかしいずれにせよその様なことが起きているのは一つの心の内側と言わざるを得ない。つまりvan der Hart の分類ではタイプ1.ということになる。

2022年5月30日月曜日

他者性の問題 111 一つの体験はN次元上の一点である

 Edelman Tononiの「心は一つ」という考えをもっとも端的に示しているのが、「神経参照空間neural reference space」(p.164)という概念で、これは特定の心理現象の際に活動している神経細胞群をさす。そしてこの空間はN次元であるとする。ところがこのNはその体験に付随している神経細胞の数であり、それを彼らは103107 と表現している。すると一つの体験はこのN時空間の一点に表されるということになる。そしてある瞬間の体験が唯一の点として表される以上、その心が部分であると考えることに何の意味もないことになるのだ。

このN時空間という考え方がぴんと来ない場合には、次のような例を考えると良い。私達はさまざまな色を知っているし、体験している。しかしそれは網膜上の三種類の円錐細胞(それぞれ、赤、青、黄色に反応する)の強度の組み合わせにより決まっている。

 


Calvin, WH (1998) The Cerebral Code. Thinking a Thought in the Mosaics of the Mind.  ABredford Book, The MIT  Press. から図を借りてみる。

2022年5月29日日曜日

精神科医にとっての精神分析 1

 ○○学会で6月にシンポジウムがあり、その発表の準備をしなくてはならない。そのテーマは「精神科医にとっての精神分析とは何か」という題である。あらかじめ抄録に次のようなことを書いた。

「前世紀初めにS.フロイトにより生み出された精神分析は、現代的な装いをまといつつ私たち精神科医の指針となるべき理論として存在し続けている。G.ギャバードは精神力動的精神医学を「無意識的葛藤や精神内界の構造の欠損と歪曲、対象関係を含み、これらの要素を神経科学の現代の知見と統合する」(精神力動的精神医学、2014)ものとして定義するが、それをよりよく理解し実践するのは精神分析の心得を有しつつ、神経学的な知見に明るい精神科医であると私は考える。最初は神経科学者として出発したフロイトは無意識を含む心の世界の複雑さに魅了され、当時知ることのできた神経学的所見を用いつつ心の理論を作り上げた。その後100年にわたる臨床的な知見を蓄積した現代の精神分析は、ギャバードの定義に見られるように、脳科学的な情報のみならずトラウマ理論や愛着理論を含みこんだ体系としてとらえ直さなくてはならない。現代的において精神分析を学ぶ理由は、もっとも長い歴史を持つ心の理論としての威信をかけて、現代の分析家たちがその理論を刷新し続けているからである。特に米国を中心とする関係精神分析やW.ビオンをはじめとする現代的なクライン派は、脳を複雑系の見地からとらえ、現代の脳神経科学と合致する形で心の理論をくみ上げることを模索している。特に関係精神分析はトラウマ理論、愛着理論、解離理論、差別論、倫理学、哲学といったあらゆるジャンルを含みこみつつ、治療者と患者の関係性を重視し、無意識や意識外の心的活動がいかに治療関係に反映されるかへの注目を続ける。」

何でもかんでも詰め込んだ感じだが、他の二人の論客が精神分析の本流に位置するので、私は私なりの色を出す必要がある。その結果こんな抄録になった。さてこれからどう進めるか、である。

2022年5月28日土曜日

快と苦痛の精神病理

 快と不快の問題は私にとってとても大きな関心事でした。ひとはなぜ快を求めて、苦痛を退けるのか。ここでひとつ考えていただきたいのですが、快と不快の問題とは非常にパラドキシカルなものです。おそらく快と不快をつかさどる報酬系は、AIが決して備えていないものであり、その意味では生命体とAIを区別する決定的な器官だと思うのですが、では私たちにとって何が快なのかは本当には分かっていません。私達は心地よいからそれを望むのか、それとも私たちが望むものが結果的に心地よいと感じられるようになったのか。私達は炭水化物などのカロリーの高いものを美味しいと感じますが、それは私たちを結果的に飢餓から救うことで生存する機会を高めてくれたわけです。すると炭水化物を自然と求めるような個体が現在まで生き残って来ただけであって、その快、ないしは苦痛という感覚は全くバーチャルなものかもしれない。私達は甘いものを見ると自然に手が伸び、苦いものには手を出さないという性質を持つからといって、そこに必ずしも快とか苦みが伴っていなくてもいいはずですね。しかし私たちにとっての快や苦痛はとても明確なもので、それこそ私たちの行動の重大な決定要因になっているわけです。それはどうしてなのか。ここら辺について回答を与えてくれるようなものは何もないわけです。

2022年5月27日金曜日

2022年5月26日木曜日

他者性の問題 109

 結論 最近のDIDをめぐる動きをどのようにとらえるか

  以上二章にわたって司法領域における解離性障害、特にDIDについて論じた。その全体をまとめてみよう。まず司法では責任能力という概念が極めて重要になるために、それについて論じることから始めた。医学では対象者(患者)がどの様な病気に、どの程度苦しんでいるかが問題とされる。しかし司法ではその人がどの程度「罪深いか」が問題となる。つまり司法では医学とは違い、患者に対して全く異なる視点からその処遇を検討するわけであるが、この問題が、被告人が責任能力を有するか、という論点となるのだ。

私はこの問題にも他者性のテーマが絡んで来ることになると考える。端的に言えば、DIDにおいては、自分ではなく、他者としての別人格がその罪を犯したと言わざるを得ない場合がある。私はその様な事態、つまり主人格Aさん自身には罪を犯す意図はないにもかかわらず、他者としての交代人格Cさんが違法行為を行うという事態をプロトタイプとして示した。しかしそこではAさんがCさんの行動に責任を取るべきか、つまりAさんに責任能力はあるか、という問題については棚上げしておいた。

それに先立ち、司法領域ではどのような変遷があったかについても見た。そこには歴史的な変遷があることも述べた。それは裁判所がDIDを無視していた時期があり、それから裁判所がDIDを認めて、かつ責任能力を認めた時期があり、最近ではDIDが認められて、責任能力が一部低下しているか、あるいは猶予を認められた時期に至っているということであった。そしてこの変遷の全体が、個別説からグローバル説へのシフトを意味していのであった。

さてでは精神医学的な立場をどのように取るかが、本章の最後の部分まで残した問題である。ただし本章では一つその指針を既に示した。それはAさんに責任能力(弁別制御の能力)はあるか、という論点が絞られて、AさんにCさんの制御が出来るか、という点が問題になるということである。なぜなら人格はことごとく神経症圏にあると考えられ、するとAが幼児の人格でもない限りは弁別に関しては可能であると考えるべきであるからだ。しかしここではさらに単純化させ、被告人が未成年であるならば通常は責任能力を問われないという事情を鑑み、「AさんがCさんを統御できるか」に論点を絞って考えることにしよう。

さてその上で私自身の立場を表明するとしたら、それは以下のようになる。まずはAさんがCさんをどこまで制御できるかについては、きわめてケースバイケースであり、「出来るか否か」という二者択一的な判断は不可能なのである。そしてこれは私が本書で取るような、AさんとCさんは他者同志であるという立場を十分に取ったとしても変わらない。Aさんは他者であるCさんの違法行為を全力で食い止めようと思っていても、犯行時に覚醒していなかったという場合もある。あるいは一生懸命阻止しようとしたが、今一歩のところで及ばなかったということもあるだろう。しかし「見て見ぬふりをした」という可能性も想定できる。しかしこれらを総合して考えると、Aさんに完全責任能力を認めることは本来は出来ないということである。それは何よりもCさんがAさんにとって他者であるからだ。AさんとCさんはいわば一心同体であり、つまり体を共有している。その意味ではシャム双生児の状態になぞらえることが出来る。二人をACとするならば、お互いに片割れが犯してしまった罪を一緒に償うべきかは答えの出ない問題であろう。つまり罪を償おうにも、それは罪を犯していない方にも同じような苦痛を要求することになり、それはフェアではないからだ。しかし同じような罪が起きないようにするためには二人とも無罪放免とするわけにはいかないからだ。

そこで私が主張することは、Aさんがどの様な罪に問われようとも、そこに治療的な配慮が不可欠であるということだ。

2022年5月25日水曜日

他者性の問題 108 DIDと責任能力の追加部分

 先ほど紹介した上原氏の論文から見えてくるのは、最近の司法領域におけるDIDの処遇が少しずつ変わってきているという事情である。上原氏は次のように述べる。「近年では、解離性同一性障害が被告人の刑事責任能力自体に影響を与えるものと判断する裁判例が出て来ている。」(上原、2020, p.30)その例として上原氏が詳しく論じているのが、平成313月の覚せい剤取締法違反に関する事件である(上原、2020)。この裁判ではDIDを有する被告人は覚せい剤使用の罪で執行猶予中に、別人格状態で再び使用してしまったという。そして原級判決では被告人に完全責任能力を認めた(つまり全面的に責任を負うべきであるという判断がなされた)が、控訴審では被告人が別人格状態で覚せい剤を使用したために、心神耗弱状態であったと認定したのである。これはある意味では画期的な判決であったと言える。裁判所の判決では、被告人が覚せい剤を使用するときは「おっちゃん」という別人格に体を乗っ取られ、「覚せい剤を使え」という指示に逆らうことが困難であったために使用に至ったという。

2022年5月24日火曜日

他者性の問題 107 グローバルスペース理論の追加

 ところでNの候補としては、ダイナミックコア以外に、Baars のグローバルワークスペース global workspace の理論を挙げることもできる。この説でもやはりNCCは広範囲での神経活動である。グローバルワークスペースについては、太田紘史(2008)現象性のアクセス 哲学論叢 35:7081に以下のようにまとめられている。

 Baars (1988, 1997)が提案するグローバルワークスペース説によれば、人間の認知システムは、多数の神経表象媒体と消費システムからなり、両者は同時並行的に成立している。それらはそれぞれ特定の処理機能を有し、無意識的に作動する。それと意識的な内容の表象の違いは、前者が特定の消費システムにお いてのみ処理されるのに対し、後者は、任意の消費システムによって処理されることが可能だということである。つまり表象内容が意識的であること は、それが「ワークスペース」に入り、様々な消費システムに対して放送されることで利用されうるということだという。Dehaene (Dehaene & Nacchache, 2001, Dehaene, et al., 2006)は、そのワークスペースの神経基盤を提案しているが、それによると、「情報」(表象内容)は報告可能になるのは、刺激強度に依存する感覚皮質の活性化(神経表象媒体の活動)と能動的注意により形成される高次連合野との「反響的神経アセンブリ」(大域的神経活動)が生じるときであり、この大域的神経活動は、前頭葉の高次連合野に密に分布しており、各感覚皮質領域との双方向の長距離接続を有する神経経路によって可能になる。そうここでも双方向性が重要となるのだ。この神経経路を通じることにより神経表象媒体の活性が強化されて持続し、その表象内容が様々な消費システムによって利用可能と なる。すなわち「例えば視覚皮質が活性化されるだけでは、その視覚内容は意識的にはな らない。活性化した視覚皮質の内容が、様々な消費システムにとって利用可能となること で、意識的となる」。pp3~4
 このグローバルスペース理論はDCと似たようなニュアンスを受ける。つまりここで問題になっているのは、意識的な活動とは、広域の神経ネットワーク全体に放送 broadcast されるような情報であり、それは各感覚皮質と前頭葉の高次連合野との間の双方向性の情報交換であるという。すなわちDCと同じような考え方だが、DCの場合は視床と大脳皮質との間の双方向的、反響的な情報のやり取りであると特定している点が特徴的と言えるだろうか。

2022年5月23日月曜日

他者性の問題 106

  ところでN(neural corelate of consciousness) としてはダイナミックコア以外にも、Baars のグローバルワークスペース global workspace の理論がその候補として挙げられよう。
  Baars(1988, 1997)が提案するグローバルワークスペース説によれば、人間の認知システムは、同時並列的に作動する、多数の神経表象媒体と消費システムから構成されており、それら各々は特定の処理機能に特化し、無意識的に作動することができる。では 無意識的な内容の表象と、意識的な内容の表象は、認知システムにおいてどのような機能現象性へのアクセス 的差異を有するのだろうか。その答えは、無意識的な表象内容が特定の消費システムにお いてのみ処理されるのに対し、意識的な表象内容は、一連の認知過程の出力を可能にする任意の消費システムにおいて処理されうることだ。それゆえ表象内容が意識的であること は、表象内容が「ワークスペース」に入り様々な消費システムによって大域的に利用可能 となること、いわば「放送」されることとみなされる。 Dehaene (Dehaene & Nacchache, 2001, Dehaene, et al., 2006)は、ワークスペースの神経基盤を提案する。それによると、刺激強度に依存する感覚皮質の活性化(神経表象媒体の活動)だけでなく、能動的注意に依存して形成される高次連合野と感覚皮質の「反響的神経アセンブリ」(大域的神経活動)が伴うとき、「情報」(表象内容)は報告可能になる。この大域的神経活動は、前頭葉の高次連合野に密に分布し、各感覚皮質領域との双方向の長距 離接続を有する神経経路によって可能になるとされる。この神経経路を通じて、神経表象媒体の活性が強化されて持続し、その表象内容が様々な消費システムによって利用可能と なる。それゆえ例えば、視覚皮質が活性化されるだけでは、その視覚内容は意識的にはな らない。活性化した視覚皮質の内容が、様々な消費システムにとって利用可能となること で、意識的となるのだ。要するに、第二の仮説における NCC(意識の神経相関物 Neural Correlates of Consciousness)) は、大域的神経活動である。」(pp3~4
 DCと似たようなニュアンスを受ける。つまりここで問題になっているのは、意識的な活動とは、広域の神経ネットワーク全体に放送 broadcast されるような情報であり、それは各感覚皮質と前頭葉の高次連合野との間の双方向性の「反響的神経アセンブリ」であるという。DCと同じような考え方だが、DCの場合はあくまでも視床と大脳皮質との間の双方向的、反響的な情報のやり取りであるという点が特徴的と言えるだろうか。

2022年5月22日日曜日

他者性の問題 105 ダイナミックコアの図の描きなおし

 


 このダイナミックコアを脳の中に位置づけると以上のようになる。左の図はそれを側面から表したものである。実際には視床とつながっている大脳皮質は広く広がっているはずであるが、それを小さな楕円で表現している。そして視床と皮質との連絡は両方向性であるために、矢印も両方で表している。そしてそれを正面から見た場合は、実はそれが右脳と左脳に一つずつ書かれている。というのも視床も大脳皮質も左右に一対あり、それらは脳梁という部分により結び付けられている。そして左右脳のダイナミックコアが独立した存在として機能することは離断脳の実験 (Gazzaniga, M.,1967).) では、ここが切断され、右脳と左脳が別々の機能を示すことからわかるのだ。

 

2022年5月21日土曜日

他者性の問題 104 ダイナミックコアモデルについての説明部分の推敲

 他者性の神経学的基盤

心とは神経ネットワークである

本章では本書でテーマとなっている「他者性」にどのような生物学的な裏付けがあるのか、そしてDIDにおいて交代人格が成立する際にそれがどの様な実態をともなっているかについて考える。ただしそれは大変難しいテーマでもある。心とは何か、それが脳の組織とどのように関係しているかは、David Chalmers の言う「難問 hard problem 」に関わる問題である。そこに様々な仮説は存在していても、一つの正解を見つけることはできない。その上にDIDで問題となるような、心が複数存在する際のモデルを考えるとなると、これは不可能に近い。だから本章の内容はあくまでも仮説であり、私の想像の産物であることをお断りしたい。ちなみに現在の医学関係の学術論文はそのほとんどが「量的研究」と呼ばれるものであり、そこでの科学的なデータが極めて重要な意味を持つ。いわゆるエビデンス・ベイスト・メディシン(EBM)という考え方に基づくものだ。その立場からは心についての脳科学的な基盤について仮説を設けてもその学問的な価値はあまり与えられない。しかしある種のモデルを心に描いて臨床に臨むのとそうでないのとでは、大きな差が生まれる。私がこれを設けることで臨床で出会う現象がよりよく説明されるようなモデルを追求した結果である。

Chalmers, David J. (1995) "Facing Up to the Problem of Consciousness. Journal of Consciousness Studies 2(3):pp. 200-219.

そこでさっそく心についてのモデルであるが、それを論じる上でしばしば用いられるのが “NCC”Neural correlates of consciousness)という概念である。これは日本語に訳すならば「意識に相関した神経活動」となり、要するに意識が働いている時に脳で活動している神経組織という事である。DNAの発見者の一人であり、その後心と脳の研究に進んだ Francis Crick と神経学者 Christof Koch による概念である(Crick and Koch, 1990)。

Crick F and Koch C (1990) Towards a neurobiological theory of consciousness. Seminars in Neuroscience Vol.2, 263-275.

彼らは意識活動は最小の神経メカニズムとして抽出できるのではないかと考えたが、そこで基本となったのは、神経ネットワーク、ないしはニューラルネットワークという考え方だ。脳は大脳皮質、小脳、扁桃体、視床、大脳基底核・・・・などの様々な部位に分かれているが、基本的にはどの部分も神経ネットワークである。そしてそれらのネットワーク同士がケーブル(神経線維)で繋がっているのだ。心はそれを基盤にして出来上がっていると考えるのがこのモデルである。もともとこの神経ネットワークという概念自体が、生物の神経系を観察した結果として生まれたのであるから、これが心を表すと考えるのは当然の話だろう。

2022年5月20日金曜日

他者性の問題 103 「攻撃者との同一化」の部分の推敲

  この「攻撃者との同一化」の具体例として、たとえば父親に「お前はどうしようもないやつだ!」と怒鳴られ、叩かれている子供を想像しよう。この場合、子供が「そうだ、自分はどうしようもないやつだ、叩かれるのは当たり前のことだ」と思うこと、これが Ferenczi のいう「攻撃者との同一化」なのだ。このプロセスはあたかも父親の人格が入り込んで、交代人格を形成しているかのような実に不思議な現象だ。もちろんすべての人にこのようなことが起きるわけではないが、ごく一部の解離の傾向の高い人にはこのような現象が生じる可能性がある。

 ここで生じている子供の「攻撃者への同一化」のプロセスのどこが不思議なのかについて改めて考えよう。私たちは普通は「自分は自分だ」という感覚を持っている。私の名前がAなら、私はAであり、私を叩いているのは父親であり、もちろん自分とは違う人間だという認識を持つのが普通だ。ところがこのプロセスでは、私Aは同時に父親に成り代わって彼の体験をしていることになる。そしてその父親が叩いているのは、私自身なのだ。自分が他人に成り代わって自分を叩く? いったいどのようにしてそれが可能なのであろうか? 何か頭がこんが混乱してくるが、この通常ならあり得ないような同一化が生じるのが、特に解離性障害なのだ。

この攻撃者との同一化がいかに奇妙な現象なのかを、通常の同一化のケースと比較しながら考えてみよう。赤ちゃんが母親に同一化をするとしよう。母親が笑ったら自分も嬉しくなる、痛いといったら自分も痛みを感じる、という具合にである。ところが母親が自分に何かを働きかけてきたらどうだろう?たとえば母親が自分を撫でてくれたら、自分は撫でられる対象となる。撫でられるという感覚は、それが他者により自分になされるという方向性を持つことで体験が成立する。その際は自分は母親にとっての対象(つまり撫でる「相手」)の位置に留まらなくてはならない。つまりは同一化は一時的に停止する。これが「~される」という受け身的な体験である。それは基本的に自分から能動性を発揮しなくても、いわば「じっとしている」ことで自然に体験されることだ。
 ところが攻撃者に同一化した場合には、自分を叩くという体験にまで行ってしまう可能性がある。それが黒幕人格自身の体験となるのだ。そして叩かれる側の人格はそれとは別に存在し続けるのである。

 この攻撃者との同一化は、一種の体外離脱体験のような形を取ることもある。子供が父親に厳しく叱られたり虐待されたりする状況を考えよう。子供がその父親に同一化を起こした際、その視線はおそらく外から子供を見ている。実際にはいわば上から自分を見下ろしているような体験になることが多いようだ。なぜこのようなことが実際に可能かはわからないが、おそらくある体験が自分自身でこれ以上許容不可能になるとき、この様な不思議な形での自己のスプリッティングが起きるようなのだ。

 実際にこれまでにないような恐怖や感動を体験している際に、多くの人がこの不思議な体験を持ち、記憶していることが知られる。これは特に解離性障害を有する人に限ったことではないし、また誰かから攻撃された場合には限らない。ピアノを一心不乱で演奏している時に、その自分を見下ろすような体験を持つ人もいる。しかし将来解離性障害に発展する人の場合には、これが自分の中に自分の片割れができたような状態となり、二人が対話をしつつ物事を体験しているという状態にもなるであろうし、お互いが気配を感じつつ、でもどちらか一方が外に出ている、という状態ともなるであろう。後者の場合はAが出ている時には、B(別の人格、例えばここでは父親に同一化した人格)の存在やその視線をどこかに感じ、Bが出ている場合にはAの存在を感じるという形を取るだろう。日本の解離研究の第一人者である柴山雅俊先生のおっしゃる、解離でよくみられる「後ろに気配を感じる」、という状態は、たとえば体外離脱が起きている際に、見下ろされている側が体験することになる。

2022年5月19日木曜日

他者性の問題 102 大分加筆した

 精神分析における大文字の解離理論

van der Hartの分類におけるタイプ2. は「同時に生じる、別個の、あるいはスプリットオフされた精神的な組織、パーソナリティ、ないしは意識の流れの成立」と定義されるものだった。そして過去の精神分析においては、Breuer と初期のFreud により提案された以外には、Ferenczi にその可能性が見いだされるだけであったことは前章でも振り返った。現在の精神分析においては、依然として心が一つであるという前提は不動のものであり、タイプ2.という心のとらえ方は、その理論基盤においては存在しえないのである。

それでは精神分析における新しい解離理論として注目されているStern   Brombergはどうなのだろうか? Stern にとっては解離されたものは未構成の非言語的な意味ということになる。またBrombergにとっては非象徴化の状態ということになる。両者とも抑圧理論とは違う、あるいはそれを遂行、精緻化する上で個の解離の機制が説明されている。しかしいずれにせよその様なことが起きているのは一つの心の内側と言わざるを得ない。つまりvan der Hart の分類ではタイプ1.ということになる。

私は彼らの理論が概念的には多くの問題が指摘されるようになっている抑圧の概念ないしは機制について再考するという試みは極めて重要だと考える。しかし彼らの用いる解離はいずれにせよ「解離性障害」ないしはDIDにおいて問題となる解離とは似て非なるものなのだ。つまりStern Bromberg が解離というタームを用いる ことは、解離という現象が精神分析においても正式に扱われるようになっているという誤解を招きやすいのである。というかその様に思う分析家がいまだに圧倒的に多いのではないだろうか。
 この様な事情を背景に、私はDissociation(大文字の解離)という概念を提示したい。その大枠はvan der Hartのタイプ2.として示されたものである。それなら新しい用語などを作らずに、「van der Hartのタイプ2の解離」とすればいいという意見もあるかもしれない。そのような意見に対する説明は少し後に譲るとして、まず正確を期すために次の点を強調しておきたい。

 ちなみに私は「解離新時代」(岡野、2015)において、Sternにヒントを得た「弱い解離」と「強い解離」の区別を紹介している。Stern は受動的な解離 passive dissociation を弱い意味での解離 dissociation in a weak senseとし、能動的な解離 active dissociation を強い意味での解離 dissociation in a strong sense とした。(Stern, 1997)。前者は私たちが単に心の一部に注意を向けない種類の体験と言える。そして後者は無意識的な動機により私たちがある事柄から目をそらせている状態で、こちらはトラウマに関係する。ただしこの強い、弱い解離という区別と本稿での大文字と小文字の解離という分類は似ているようで、まったく異なるという点をここで明らかにしておきたい。

 

2022年5月18日水曜日

他者性の問題 101 「心はそもそも一つである」の続き

 意識とはあるクオリアの伴った体験を持つものと私は定義したいが、その際意識は統合されている。つまり断片的な意識、等というものはない。私が本書の後に引用することになるG.Edelman J.Tononi The Universe of Consciousness という本を引用しよう。ちなみに彼らは意識というものを脳科学的に理解しようとこの本を書いたが、この本の題名のように、彼らは意識を一つの宇宙とまで称している。
ところで Edelman らは意識として二つの特徴を上げる。一つは統一性 integration であり、意識は一度に一つのタスクしかできないことだ。例えばある会話を続けながら足し算をするなどという事は出来ない。それでいて極めて分化した作業をできることである。つまり私たちの脳はとても複雑な作業をしながら、統一性を失わないことだというのである。この点はかつて Sherrington William James が強調したことである。

Charles Sherrintgon, C. (1906) The Integrative Action of the Nervous System.

William James (1890) The Principles of Psychology. New York: Henry Holt.

彼らによれば、100年以上も前にCharles Sherringtonは次のようなことを言っている。「自己は統一であるthe self is a unity」。かの高名な心理学者William Jamesもこう述べた。「意識の最大の特徴は、単一で固有であるunitary and privateという事だ」。

ある意識を持った個人と関わる時、それを自分の考えや体験を有している一つの心と見なしているなら、それは分解不可能な統一体として扱っていることになる。体験を持つ個人individual とはそれそのものを分けるdivide ことは出来ない。もし意識活動を部分に分けるとしたら、意識的な体験はその総和以上の新たなものなのである。したがって意識活動を純粋な意味で分割することはできない。この様な考え方は近年ではBernard Baars らによるGlobal workspace theory として提示されている。

Edelman Tononiの「心は一つ」という考えをもっとも端的に示しているのが、「神経参照空間 neural reference space」(p.164)という概念で、これは特定の心理現象の際に活動している神経細胞群をさす。そしてこの空間はN次元であるとする。ところがこのNはその体験に付随している神経細胞の数であり、それを彼らは103107 と表現している。すると一つの体験はこのN時空間の一点に表されるということになる。そしてある瞬間の体験が唯一の点として表される以上、その心が部分であると考えることに何の意味もないことになるのだ。

以上の論述により主張したいのは、そもそもある種の体験を持つことができる意識に「部分的な意識」は存在しない。その様なものを措定すること自体が誤謬なのである。あるとすれば例えば狭い、薄い、しかしそれなりに全体性を保っている意識なのである。そして少なくとも私たちが臨床的に出会うDIDの患者さんの交代人格はそうではない。はるかに立派で形の整った意識であり、独自の体験を有しているのである。

ではどうして過去の碩学たちが部分、等と言い出したのであろうか? それは私には明らかなことのように思える。それはDIDは統合されることで治癒するという固定観念なのだ。すべてはそこから来ている可能性がある。統合が治療である以上、今の存在は部分と見なすしかない。しかしそれはジャネの行った第二原則、すなわち意識はそこから何もかけたりしないという原則に反する考え方なのである。

2022年5月17日火曜日

他者性の問題 100 心はそもそも一つである

 心とはそもそも一つである

 そこで冒頭ですでに述べた点について論じることになる。そもそも心とは一つではないだろうか?そもそも私たちが何かを体験するとは、一つの心が体験しているのではないか?

私が決まって出す例をここでも出す。目の前に赤いバラがある。「あ、バラだ、きれいだな」という体験を持つ。いわゆるクオリアとはそのようなものだ。クオリアとは、ラテン語 qualiaで、私達が意識的に主観的に感じたり経験したりする「質」のことを指す。この様な体験をするとき、私の心は一つである。つまり同時に他のことは考えないのだ。ところがこのような主張はすぐさま反論に遭う。よくアンビバレンスという言い方がある。両価性、ともいう。一つの心があるものに対してしばしば正反対の感情反応や価値判断を下すことをいう。例えば先ほどのバラの例であれば、心のどこかで「毒々しい色のバラだな」という反応も起こしている可能性がある。思うとしても、その瞬間には一つの心がそう思っているのだ。あるいは臨床場面では誰かに対して愛と憎しみの感情を持つという例が挙げられるだろう。


しかしクオリアを提唱する人は次のように言うだろう。「心は一度に一つの体験しかできません。『きれいなバラだ』は『毒々しい色のバラだな』と混じって体験されることなく、前者と後者は異なる瞬間にそれぞれ純粋に体験されるのです。だからそれぞれが独立して心に残るのでしょう。」私はこの主張に原則として同意する。

私がこの問題を考える時に参考にするのが、ルビンの壺やネッカーの立方体の議論である。ルビンの壺は絵の図を見るか地を見るかによって全く異なるものを見ることにある。ここに示した例では、サキソフォーンを吹いている男性と女性の顔のイメージは、決して同時には見ることが出来ない。というのも両者は全く別々のクオリアを持つのであり、両者が混ざったものを体験することはできないのだ。

2022年5月16日月曜日

他者性の問題 99 治療論の追加

 ただし平和共存には問題がある

ところで統合を目指さないという立場は、平和共存を目指すことを意味するとしても、それですべての人格が満足するような解決に至るという保証はない。誰かが「犠牲」になるということも十分あり得るのである。例として次のようなものを考えよう。

主人格AさんにはBさん、Cさんという交代人格がいて、AさんとBさんは日常生活の多くを分け持っているとする。二人は異性同志であり、またCさんは黒幕的な存在であり、AさんとBさんで比較的平穏に日常生活を回している際に、時として侵入して事件を起こす傾向にある。Aさん、BさんにとってはCさんはできれば出てきてほしくない、あるいはいなくなって欲しい存在である可能性がある。そして普段は奥で眠っていることの多いCさんと人生を共有する機会を少なくとも歓迎はしていないかも知れない。

このようにA,Bさんが日常生活の大部分を営み、他方がCさんが眠りにつき、滅多なことでは目覚めないという状況が成立することは、治療の進展なのであろうか?

これは難しい問題ではあるが、一つの達成とは言えるかもしれない。私のよく知る方は、Cさんに相当する人格の状態で罪を犯し、そのために裁判を経験し、それをきっかけにCさんはかなり鳴りを潜めることになった。その結果として主人格Aさんと交代人格Bさんの生活はより平和になったのである。

この方の場合は常識的にはこの事態は好ましいことといえるだろうが、それがABCD・・・・さんたちにとって最終的に望ましい形なのであろうか?その答えは決して容易ではないのである。

ある別のケースを考えよう。その人の場合A、Bの人格は出る機会を均等に保っていた。それぞれが週に二日ずつ別々のアルバイトをしていたが、ある時からBさんが職場での人間関係のせいであまり仕事に行けなくなり、その分休眠することが増え、他方では仕事の順調なAさんはかなりの時間出ているようになった。このように人格間に「格差」が生まれると平和共存とは言えない状況が生まれる。このケースでは私はBさんから「自分はAのために消えるべきなのだろうか?」という相談を受け、すぐには答えられず、いろいろ考えさせられた。

Bさんが休眠に入ることでAさんの人生がより豊かになるというのは最終目標なのだろうか? これは決して一つの正解のない問題である。そしてここにはBさんが自主的に休眠を選んだのか、それともそれを余儀なくされて仕方なくそれに応じたのか、ということでも大きく判断が異なるようになる。

ちなみにこのように考える際、私が少なくとも「統合」の道筋を選んでいないことにお気づきであろう。AB,Cさんがそれぞれ明確なパーソナリティ構造を有し、それぞれが本来なら自分の人生を100パーセント生きようとしているなら、それらが統合された状態はどのように想像できるだろうか? 私にはそれが分からない。「統合」されたAさんはBさんCさんの性格を併せ持ち、記憶も共有するということなのだろうか? その場合Cさんの攻撃性や凶暴性はどうなるのだろうか? それはAさんBさんによって昇華されることになるのだろうか?

2022年5月15日日曜日

大学のニュースレターに依頼された文章

【名誉教授から】 
 私は本年3月末日で京都大学教育学研究科の教授の任期を終えたが、やはり8年間過ごした京大との関係がこれで切れてしまうのかと思うととても残念である。しかし幸いなことに退職と同時に京大の名誉教授の称号をいただくことになった。まことにありがたいことである。しかし同時に改めて名誉教授とはどのような立場なのかを考えてもさっぱりわからなかった。そうした折、大学から名誉教授の証というカードを交付された。磁気ストライプがついていて何かを読み取ってくれるようである。ただしこれによりどのような「得点」があるのかについてはよく分からない。このカードで京大の図書館に入館できるのであれば有り難いことではあるが、あいにく東京在住となる身では、京都までそのために出向くということはあまり考えられないのだ。  しかしそれでも私は一生京都大学と縁を持てることになった。京大「所属」とは言えないかも知れない。しかし私は「京大の名誉教授である」と死ぬまで言い続けることが出来る。ただ身が引き締まる思いでもある。私が今後どのような不始末を働いても、京大名誉教授という肩書を持つということは、おそらく京大に多大なご迷惑をかけることになる。「東京都在住の男性、コンビニでのおにぎりの万引きが発覚する」は誰も興味を示さず、ニュースネタにさえならないだろうが、「京大名誉教授、スーパーでおにぎりを万引きする」はネットの記事になってしまうかもしれないからだ。 こんなことを書いていると「京大名誉教授らしからぬ」文章と言われそうなのでこのあたりにしておくが、正直な話、私はこの名誉教授という称号が嬉しいのである。私が過ごした8年間が幻ではないことを示してくれるお守りのようなものなのだ。たとえ京大図書館に入館すること以外の「得点」しか伴っていなくとも、私にとって名誉であり、一生の宝物である。私はカードが発行されてもすぐ失くしてしまう癖があるが、この白に青文字の「名誉教授の証」は決してなくさないだろう。 京都大学の教職員の皆様、そして学生の皆様、長い間有難うございました。そしてこれからもよろしくお願いいたします。

2022年5月14日土曜日

他者性の問題 98

 統合が最終目標か?

このようにDIDにおいて出会う交代人格のそれぞれを人として尊重しつつ会うという姿勢は、治療論にどのように反映されるべきなのだろうか。そこで検証されなくてはならないのが、DIDの治療として統合を目指すという姿勢である。といっても統合を目指すという方向性とは異なる治療を考えなくてはならないというのが私の主張となる。

解離の治療には様々なものが考えられるが、おおむね統合を目指すという立場が依然として優勢なように思われる。それはF.Putnam R.Kluft  といった解離のエキスパートたちによって掲げられて以来、いわば既定路線として受け継がれ、今でも多くの臨床家が治療の最終的な目標として考えているようである。第●●章でも示したように、司法の立場からは、精神科医の文献を引用し、「治療的な観点では、通常は人格の統合を最終ゴールとしていることを考えれば・・・」とされ、あたかもそれが精神科医が一致して持つ見解というニュアンスで受け止められているようである(安藤久美子「解離性障害」五十嵐禎人・岡野幸之編「刑事精神鑑定ハンドブック」(2019・中山書店)197ページ 」)。そしてこの統合を目雑治療方針は、交代人格を部分として捉える傾向と表裏一体であった。部分としての人格が「人格未満」であるとしたら、それらが合体することで初めて一つの人格になる、と考えることは極めて当然と言える。しかしそれでも解離の研究は新しい時代を迎えつつある。私の理解では人格の統合は必ずしもそれを目指さないというのが現代的な臨床家の立場である。(Howell, ISSTD
 ところで私自身が臨床的事実として受け入れていることがある。それは多くの交代人格さんが、統合することイコール自分が消されることと感じているということだ。その結果として統合を目指す治療は受けないという姿勢になりがちである。逆に「私は主人格やほかの人格と統合されたい」という交代人格さんの話は聞いたことはない。
 ただしこのことは、統合されたいという願望を持っている交代人格さんが存在しないという証左にはならないだろう。それに中には「主人格や基本人格がそれを望むのであれば、それに従う」という立場の交代人格さんもいらっしゃるであろう。またおそらく「統合される」という意味合いをどのように交代人格さんが受け取っているのかということによっても事情は異なるであろう。
 例えば「明日自分は死ぬ」、という体験と、「明日自分は果てしない眠りにつく」という体験、あるいは「明日自分は誰かに生まれ変わる(ただし生まれ変わった自分は今の自分を覚えていない)」という体験はそれぞれ現象としてはほぼ同一だが、いかにそれに不安を覚えるかは人によって異なるだろう。

同じように交代人格が統合してからも蔭で見守ることが出来ると考えている場合には、あるいはそれこそ「部分」として生き残ると思っている限りは、統合されるということはそれほど恐ろしい響きを持たないかもしれない。

さらには交代人格が統合を恐れる傾向があるからと言って、統合を避けるべきだということには必ずしもならない。治療とは自分の身に何か新しいことが起きることを多くの場合意味する。すると今までの自分ではいられなくなってしまうことの恐怖や不安は必然的に生じるであろう。

2022年5月13日金曜日

他者性の問題 97 治療論の部分

 私が本章で述べたいのは、交代人格を他者として捉えるという立場は、おそらくDIDの治療の最終ゴールは統合であるという考え方とは齟齬が生じるということである。それは現代的な言い方をするならば、共存という姿勢にとって代わられるべきものである。

そこで臨床家がどの様に交代人格と会うべきかという事について改めて論じたい。まず大事なことは、言うまでもなく個々の交代人格を尊重するようなかかわりを持つという事である。DIDの患者さんとの臨床で、異なる複数の人格と出会うという事は実際に、それも頻繁に起きる。患者さんは通常はAの人格で来院するとしても、時々Bさんとして表れることもあり、また状況によっては途中からさらにCさんに変わることもある。そしてそれは治療者がどの人格に対しても温かく迎えるという姿勢があればあるほど生じる可能性が高くなるのだ。

一つ重要な点は、DIDの患者さんは常に人の気持ちを敏感に感じ続け、時には過剰に警戒したり、こちらに気づかいや忖度をしたりする傾向が強いという事だ。交代人格は自分が出現することで相手を驚かせてしまうのではないか、あるいは自分がその人格として受け入れてくれないのではないかという懸念を持つことが多い。そのことを治療者の側がよくわきまえておく必要があるだろう。

私はDIDの方との面接では、前回の人格さんと同じ方かががあいまいな場合は、出来るだけそれを確かめるようにしている。前回のセッションの時のAさんとは別のBさんとして現われた際に、あたかも同じ人であるという前提のもとに話すことには意味がないであろう。もちろん前回の内容をBさんは内側で聞いていた可能性がある。その様な場合にしばしばBさんは前回の人格Aさんと異なる人格で現れているという事を治療者には明らかにしない傾向にある。しかし来談する人格が常に同じAさんであるという事を治療者が疑わないとしたら、患者さんに治療者に合わせるのを強いることになりかねないのである。

繰り返すがDIDの患者さんたちは通常は、自分が知らない人に話しかけられ、自分が話した覚えのない話題をふられることに慣れている。だから治療場面でもそれが繰り返されることは回避しなくてはならない。多くの患者さんはセッションの初めに自分がどの人格かについて治療者が尋ねることを受け入れてくれる。ただし原則としてそうである、と言わなくてはならない。患者さんによっては今どの人格であるかを尋ねられることに強い苛立ちを覚えるようだ。そのこともその人格の個性として受け入れなくてはならない。

2022年5月12日木曜日

他者性の問題 96 攻撃者の内在化の図の説明の追加部分

 こうして攻撃者との同一化が起きた際に以下のような図(図2)としてあらわされる。被害者の心の中に加害者の心と、加害者の目に映った被害者の心が共存し始めることになる。この図2に示したように、攻撃者の方は攻撃者との同一化のプロセスで入り込み、攻撃者の持っていた内的なイメージ(薄緑の小さなマル)も同様に入り込む。


図2
この図示でのポイントは、子供の心(S)と取り入れられた攻撃者、およびその攻撃者が持っていた子供の内的イメージが、子供の脳内で交流ないしはやり取りを行うことである。このように考えると、例えば子供が行う自傷行為なども比較的説明がしやすい。それは主人格である人格Aが知らないうちに、非虐待人格が自傷する、あるいは虐待人格が非虐待人格に対して加害行為をする、という両方の可能性を持っているのだ。時には主人格の目の前で、自分のコントロールが効かなくなった左腕を、こちらもコントロールが効かなくなっている右手がカッターナイフで切りつける、という現象が起きたりする。その場合はここで述べた攻撃者との同一化のプロセスで生じる3つの人格の間に生じている現象として理解することが出来るわけだ。 
さらに興味深いのは、Sが知らないうちに、その脳内で取り入れられた攻撃者と子供の内的対象像が継続的に関係を持っていることの持つ意味である。両者の人格のかかわり、特にいじめや虐待については、現在進行形で行われているという可能性があるのだ。この攻撃者との同一化のプロセスによりトラウマは決して過去のものとはならないという可能性を示しているのだろうと考える。 ただしこの内的なプロセスとしての虐待は、この黒幕人格がいわば休眠状態に入った時にそこで進行が止まるという可能性がある。その意味ではいかに黒幕さんを扱うかというテーマは極めて臨床上大きな意味を持つと考えられるであろう。 

2022年5月11日水曜日

他者性の問題 95 「部分としての心」の追加部分

「部分としての心」は存在するのか?

 本書で取り上げている交代人格の人格としての在り方という問題意識は、実はそれより一段階上のレベルの問題と関連している。それはそもそも心というものとは部分でありうるか、という問題だ。つまりこれは交代人格に限らない心の在り方を問い、それが基本的に部分ではありえない存在であり、統一体としての要件を備えているはずであることを示したいのである。すなわち心とはすなわち部分ではありえないという事を示すことで、交代人格も当然ながらその例外ではないから、部分ではありえないという論法を取ろうと考えているのである。だから本章の記述は交代人格よりは人格一般、心一般をテーマとしていることを最初にお断りしたい。
 ただしこのような文脈で論じる際の心とはそもそも何か、ということがさっそく問題にされなくてはならないだろう。しかし私はそれを哲学的に論じるつもりはない。心とは私たちが対話や一緒に物事を体験することを通して感じられるもの、私たちが友人や先生や家族と一緒に過ごし、その考えや行動に触れて、「この人には私と同じような心があるのだな」と感じられるようなものを指す。
 さてこのように考える心は、それがそこに存在するかが疑わしい場合もある。いつも接している成人した家族なら、間違いなくそこに心が存在すると確信できるだろう。しかし物心のつく前の、例えば生後数か月の乳児ならどうだろう? 両親や兄弟を認識して、笑いかけたら笑顔でこたえるのなら心はそこにしっかりあると認めてもいいだろう。しかし生まれて間もない、まだ周囲の物事をほとんど認識できないような状態でも心と呼ぶのだろうか? 子供の顔も認識できないほどに認知症が進行している御老人ならどうだろう?交通外傷で頭部を損傷し、あるいは麻酔がかかる途上で意識が薄れかけた人の心はどうだろう? あるいはご主人の気持ちをとてもよく読み取って反応するペットのワンちゃんならどうだろう? カエルや昆虫や植物は? 様々に開発されているAIロボットは無理だろうか? 地球全体を一つの生命体とみなすガイア仮説に従って地球そのものに心を見出すことはできるのだろうか? このように考えると私たちにとって当たり前のように考えられる心には、その存在が疑わしい例がいくらでも出てくることが分かる。しかし私が本書で論じているDIDの交代人格については、その多くが普通に話すことが出来そこに心を見出すことに何ら不自然さや困難が伴わない。交代人格さんの心は認知症や飲酒で意識の朦朧した人たちの心に比べてはるかに生命で、一般人と変わりない心であることが普通なのだ。そのうえでそれらの心を部分として、人間以下の心として扱うことの是非を私は問いたいのである。

2022年5月10日火曜日

他者性の問題 94 退官講演の後の質問コーナー1

 さて私はこのお話を退官講演という形で行って来ましたが、オンラインの形式なので、おそらく質問という形で皆様の考えをお伝えいただけないかと思っていました。私は講演は参加者とのやり取りで意味を持つと考えるので、それは残念なことだと思っていました。しかし幸い、昨晩夢の中で私はいくつかの質問を「他者」からいただいたのです。そこでそれらについてお答えしたいと思います。

質問 ① 岡野先生は他者と出会え、人の他者性を認めよ、とおっしゃいますが、本当にそんなことができるとお考えですか? 他者は見えないという風におっしゃったじゃないですか?

岡野:とってもいい質問です。痛いところを突かれました。というのも私の今日の話は少し極端なところがあるからです。他人を他者として尊重せよ、と言っても、私たちは純粋な他者を透明人間としてすら見ることはできないはずです。カントの物自体だって、触ったら質感はあるし、何らかの姿をもって目に映るでしょう。つまり私たちは物事を対象化することによってしか把握できないのです。だいいち、他者を認めて共感するためには「ああ、この人はこんな人なんだな」と思えなくてはなりませんが、それはすでに内的対象像を作り上げていることになります。ということは他者体験とは、他者としてみなす、という部分と対象化する、つまりそのイメージを勝手に描く、という部分の両方を必ず持っているということになります。そうでないと体験自体が成立しません。わが子は可愛い○○ちゃんのままであると同時に、その分からなさに敬意を払うべき他者であるという部分を必ず両方含むのです。ということはそれがどちらか極端に偏ることが問題なのでしょう。他者性が極端になるとそれは見知らぬ不気味な人たちに満ちた、精神病の状態に近いかもしれません。あるいは他者のことが見えない時に私たちはたいてい被害妄想的になります。

2022年5月9日月曜日

他者性の問題 93 ポリヴェーガル理論に追加記載

 この様に自律神経系統はトラウマ体験やそのフラッシュバック、解離症状などに深く関与するが、それは「転換症状」に含まれるわけではない。前章で見たとおり、転換性障害に関わるのは、「身体感覚と運動の統制」に関する障害である。すなわち五感と身体感覚、そして随意的な運動という、私たちが意識化し、制御できる感覚や運動という事になる。そしてそれは自律神経系を基本的に含まないという事になる。なぜならそもそも自律神経は私たちの意図的なコントロールを逃れて、あたかも自分たちで「自律的に」振舞うからである。

この様に考えると実は自律神経系はすでにその名前も含めて機能そのものが他者性を帯びていることがわかるであろう。ただし通常私たちはそれを他者性と考えるよりは、むしろ私たちの無意識による身体のコントロールと言い直すことも出来よう。すると身体をコントロールしているのは私たち自身(ただし意識されない部分)ということになる。すると身体は私たちの思考や感情を象徴的に表しているというおなじみの精神分析的、力動的な理解の仕方を促すことになる。この点は臨床上極めて重要ともいえる。

ある中年男性の管理職にある方は職場で多くのストレスを抱えていたが、朝出勤しようとワイシャツの袖に手を通そうとした瞬間に、体全体が鉛のように感じられて動けなくなったという。これは身体という他者が仕事に行くことを拒否したという考え方を取ることもできるが、その男性が無意識的に会社に行くことを拒否したという考えも成り立つ。ただし解離における他者性を念頭に置いた考え方と精神分析的な考え方の違いの臨床的な表れについては、すでに○○章で触れたので、ここでは繰り返さないことにしよう。

2022年5月8日日曜日

他者性の問題 92 謙虚でなくては・・・

 私は最近とても良い体験をした。私が非常にリスペクトを感じるある精神科医とゆっくり話す機会があった。その先生は解離性障害の患者さんとの出会いについてご自分の体験を話してくれたが、それはとても参考になった。その先生は生物学的な素養が極めて深い、しかもとても良心的な臨床家であるが、彼の臨床の対象が双極性障害や統合失調症であることとも関係し、解離性の患者さんになかなか出会わない。それでも時々それらしき症状について触れる患者さんもいるという。そしてその時の対応を聞いてみた。するとその時の彼の心には「これは解離かも知れない。しかしそれについて不案内な自分が軽々しく扱ってはいけない。」という気持ちが浮かぶという。そしてその後同様の症状の訴えがないことから、そのエピソードは忘れられる運命にあるのだ。そしてそのような臨床家にとって解離を無視するとか軽視するというニュアンスはないのである。これは私たちの持つ専門性の問題ともかかわってくる。例えば私の患者さんがある内科疾患、例えば甲状腺の治療を受けていて、私の知らない薬剤を投与されているとする。すると「この領域の治療については、自分はその薬物の調節などはとても考えられないし、何も触れないのが得策だ」と当然のように考えるし、それは倫理的にも正しい姿勢なのだろうと思う。解離症状についても同様の畏れを抱かせている可能性がある。

この様に考えると杉山先生の「多重人格には『取り合わない』」という精神科医の姿勢もそれほどひどい、とかありえない、という問題とは違い、また私の「解離否認症候群」という呼び方もどこか皮肉を込めた侮蔑的な呼び方ということになる。私は何か偽善者のような気持になってきた。もう少し謙虚にならなくてはならない。

2022年5月7日土曜日

他者性の問題 91.本書のエピローグ部分

 そしてこの疾病利得の問題はヒステリーについても言え、それが女性が自らの苦しさをアピールしたり、自らの性的な欲求を表しているのではないかと考えられたのである。つまり解離性障害を有する人々は「病気でもないのに病気のフリをしている」とみなされる傾向にあった。いう見方がなされたのだ。そして Charcot や Freud が貢献したのは、それまで医学の対象にすらならなかったヒステリー、すなわち解離性障害を医学の俎上に載せたことにあった。これはヒステリーに対する差別意識が軽減ないし解消される一つの大きな流れだったのである。しかしそれがいったん病気として認められると、今度は障碍者として差別されることに繋がることはすでに述べたとおりである。この様に解離性障害は、障害として扱われないことについても、あるいは障害として扱われ過ぎることについても、差別の対象とされてきたと言っていいだろうか。

最後に提唱する「程よい」解離性障害のとらえ方

 本章の、あるいは本書のまとめとして以下のことを述べておきたい。解離という機制(心の働き)は人の心に多かれ少なかれ備わっている。しかしそれを用いやすい傾向にある人々が存在し、特に幼少時のトラウマ的なストレスに遭遇した場合により顕著な解離体験を有することになる。そしてそれを障害ないし疾患としてとらえるか否かは、まさにそれが日常生活に支障をきたしているかにより判断されるべきことなのである。すなわちそれは必要以上に病気としての側面を強調されることでも、それを過小評価されるべきものでもないのだ。
 これはいわば解離をスペクトラムとしてとらえるという事であるが、この捉え方はいわゆる神経症症状や、神経症傾向におおむね当てはまることである。例えば人前で多少なりとも緊張するのは普通のことであり、「対人緊張」という精神科のタームも存在する。そしてそれは軽度でふつうの人にしばしば体験されるものから、病的対人恐怖と呼ばれ、人前に姿を現すこと自体が忌避すべきことになり、社会生活が送れなくなるものまである。解離もそのようなものなのだ。そしてその際重要となるのが、人を障碍者か゚健常者かといった二者択一的なものの見方をいかに控えるかなのである。人の心は、自分の心も含めてつかみようがない。ある程度はつかめたように見えても、その細部を知ろうとすると一挙に混とんとして行く。他者とは、他者性とはそのようなものなのだ。解離性障害はその他者性の特徴をある意味で顕著な形で私達に示してくれているのである。

2022年5月6日金曜日

他者性の問題 90

結論 最近のDIDをめぐる動きをどのようにとらえるか

 以上二章にわたって司法領域における解離性障害、特にDIDについて論じた。その全体をまとめてみよう。まず司法では責任能力という概念が極めて重要になる。それは被告人をどの程度罰するかという判決を下すために重要な概念である。医学では対象者(患者)がどの様な病気に、どの程度苦しんでいるかが問題とされる。しかし司法ではその人がどの程度「罪深いか」が問題となる。つまり司法では医学とは違い、患者に対して全く異なる視点からその処遇を検討するわけであるが、私はこの問題にも他者性のテーマが絡んで来ることになる。端的に言えば、DIDにおいては、自分ではなく、他者がその罪を犯したと考えられる場合があるからだ。例えばAさん自身には罪を犯す意図はないにもかかわらず、他者としての交代人格Cさんが違法行為を行うという事態が生じているのである。私はこのような事態をプロトタイプとして言い表すことが出来るとした。この場合、精神医学の立場からAを処罰するべきかどうかを結論付けることはできない。そもそも医学とは患者の病を扱うことであり、「罪深さ」ではない。ただ実際にどのような扱いがなされているかとは別にこの問題を精神科医として考えるならば、実に難しい問題であることがわかる。
 少なくとも私の見解ではシャム双生児状態と考えられる。シャム双生児は二人の人間が一つの体を有している状態である。二人をA、Cとするならば、お互いに片割れが犯してしまった罪を一緒に償うべきかは答えの出ない問題であろう。つまり罪を償おうにも、それは罪を犯していない方にも同じような苦痛を要求することになり、それはフェアではないからだ。しかし同じような罪が起きないようにするためには二人とも無罪放免とするわけにはいかないからだ。
 ちなみに他者性とは少し異なる議論だからだ。他者は同居しているのである。もしAさんがジキルとハイドであったらどうか。他者性は確かである。しかし同居している以上、どうしても連帯責任がかかってくる。そこで私の説は、獄中での治療を、という事なのだ。
 さて私は次に実際の司法領域でのDIDの扱いについて考察した。まず司法領域ではDIDについて三つの考え方を示しているとされる。それらが

①  DIDの診断があれば常に責任無能力とする立場。

② 当該の違法な行為を主人格が弁識・制御できたら責任能力を認める立場(グローバルアプローチ)。

⓷ 当該の違法な行為を行った人格が弁識・制御できたら責任能力を認める立場(個別人格アプローチ)。

そして交代人格を他者とみなすという事は、少なくともグローバルアプローチと一致することであることを示した。

 そして司法においてDIDの処遇には歴史的な変遷があることも述べた。

1.裁判所がDIDを無視していた時期。
2.裁判所がDIDを認めて、かつ責任能力を認めた時期。
3.DIDが認められて、責任能力が一部低下しているか、あるいは猶予を認められた時期。

この変遷の全体が、個別説からグローバル説へのシフトを意味していることは興味深い。
ところでこの裁判所の見解の変遷は、精神医学的な立場の影響を多分に受けていることが興味深くもややこしい。緒方や上原は精神医学が連続仮説を提唱しているということや、統合が目的であるとしているという。

2022年5月5日木曜日

他者性の問題 89 昨日の続き

 さて緒方氏の次の文章に私は色々考えさせられた。(p.540)
「判例の蓄積が少ないため,裁判所がどのような基準で判断しているのか不明であるが,精神医学の領域では,解離現象は連続体として存在しており,それが強度や頻度においてある限界を超えた場合のみ不適当となる(連続体仮説) と解されており,①の事案において「人格の連続性」という表現がなされて いることから,従来の判例は前述の③説の立場に近いと思われる。」
 実は私はこの時点でかなり頭が混乱しているので、整理しつつ書く。まず精神医学では連続体仮説を支持するというようなことが書いてある。えー!そんなことを聞いていないよ。私は精神科医だけれどそんなこと知らないし。緒方氏はその典拠として以下を示す。
中谷真樹(1997) 解離性同一性障害(多重人格)と刑事責任能力. 松下正明他責任編集「臨床精神医学講座22精神医学と法」中山書店、p.219.
 そこに書かれていることが「精神医学の見解」とされてしまっているのだ。沢山ある見解の一つでしかないはずなのに。まるで一人の法学者の論文を引いて「法律の世界ではこうである」と言われたら法律の専門家はどう思うのだろうか。という事でこの論文を読もうにも、あいにく私は読むことが出来ないので(中山書店のこの叢書は高価で、どこかの精神科の医局にでも行かない限り見つけられないだろう)想像するしかないが、おそらく次のようなことが書いてあるのではないか。つまり「解離性障害でも心は一つだから、連続していると考えるべきであり、罪を犯した人は結局は主人格の延長線上に考えるべきである。すなわちDIDはどのような人格状態で行動したとしても常に責任能力はある。」
 つまりはこの章における精神医学的な見解は、DIDの人でも一般人と同じように裁くべし、という事を言っているのであろう。そしてこれはいわゆる個別人格アプローチという事になる。つまり精神医学の見解(=中谷見解=連続体仮説=個別人格アプローチ=特別扱いしない説)、と言ことになる。ところが緒方氏はこの論文の539頁で、自分はグローバルアプローチが妥当だと考えていると明言している。
 さてこの緒方論文は例の平成20年の遺体損壊事件について考察するものであったから、本題に戻り、その部分を読み進める。この判決では1審では「遺体損壊時は別人格だったので、主人格の責任は限定される」という精神鑑定を反映した形で、いわばグローバルアプローチに従って遺体損壊時に関しては心神喪失とした判決がなされたのに対して、2審ではまた個別人格アプローチに戻っていると主張している。そして緒方論文はグローバルアプローチに従った1審判決をもう少し尊重すべき、というニュアンスの主張を行っているのだ。

2022年5月4日水曜日

他者性の問題 88 判例におけるDIDの問題はかなり深い・・・

 この平成20年の判例はいわば⓪と表現すべきものだが、これについて少し解説してみる。ちなみにこの件に関しては以下の論文に詳しい。
緒方あゆみ (2011)判例研究「解離性同一性障害と刑事責任能力」:東京高裁平成21年4月28日判決(公刊物未登載)明治学院大学法学研究 90:533-546.
 緒方氏の論文によれば「本判決は、学説・判例上あまり論じられてこなかったDIDと刑事責任能力判断について、裁判所が解釈を示した点で意義があり、注目されるべき判例である」としている(p。537)
 緒方論文を読んでいると、私にとっての新しい情報が書かれていて、とても参考になる。彼女はDIDに罹患しているものの責任能力判断が争点となった初めての例は、神戸地裁平成16年7月28日判決であるという。−1とするべきだが、この論文ではこれを①としているので踏襲する。
「①神戸地裁平成16年7月28日判決。(Lex/DB 文献番号 25410595)本件は,DID にり患している者の責任能力判断が争点となった初めての裁判例とされている。本件は,以前から DID にり患していた被告人が,元交際相手Aに強姦されたと思い腹をたて,交際中の B および知人 C と共謀し,A に暴行・脅迫を加えて金品等を強取しようと企て実行したという事案につき,神戸地裁は,被告人は,DID にり患しており,別人格が本件実行行為時の被告人の行為を統制していたという鑑定および被告人の主治医の証言を認めた上で, 「人格が交代するごとに別個の個人が存在するわけではなく,一個の個人が存在するにすぎないから,その個人の犯行時の精神状態を検討することによって 責任能力を判断すべきであり,特に,別人格がそれまでの主人格の記憶や感情 を引き継いで行動していて,主人格から別人格の方向には人格の連続性があるような場合にまで,別人格の際に行われた行為の責任能力を別人格であるというだけで否定するのは不当である」 と判示し,被告人には完全責任能力があっ たとして,強盗致傷罪の共謀共同正犯の成立を認め,懲役3年6月の実刑判決 を言い渡したものである(確定)。」
そしてもう一つの例も挙げられている。
「 ②名古屋地裁平成 17 年3月 24 日判決(Lex/DB 文献番号 28105344)  本件は,被告人が母親の首を絞めて殺害し,被告人 A および DID にり患していた被告人 B が共謀の上,被害者の遺体を被害者方の床下に埋め,被害者 の口座から現金を引き出した有印私文書偽造・同行使,詐欺の各事案という事 案である。名古屋地裁は,被告人 B に関しては,犯行時は別人格であったこ とを認定した上で,主人格・別人格いずれにおいても是非善悪の弁識能力・制 御能力があることは疑いがないこと,各犯行は DID が原因となって引き起こ されたものではないとして責任能力を肯定した。しかし,量刑に関しては,被告人Bが当該犯行において従属的立場にあったことや不遇な生育歴に起因するDIDにり患していること等の事情を考慮して執行猶予4年を言い渡した(確定)。」

2022年5月3日火曜日

他者性の問題 87 全くの加筆部分 判例におけるDIDについて

 DID裁判の新しい動き

では最近のDIDの扱いに新たな傾向が見られるのか?この章でも何度も取り上げている上原論文はその点をまとめてくれている。それによれば三つの裁判が新しい傾向を示す。それらを以下にまとめよう。

    名古屋高裁金沢支部判定(平成28310日)は強制わいせつに関してDIDの副人格によるものと認めて被告に完全責任能力を認めたものの、原判決を破棄して執行猶予付きとした。

    東京高裁(平成30227日)は窃盗に関してDIDの副人格によるものとしたうえで、被告に心神耗弱を認め、再度の執行猶予(保護観察付)を与えた。

    大阪高裁判決(平成31327日)覚せい剤取り締まり法違反に関してDIDの副人格の犯行と認めたうえで、被告人を心神耗弱とし、再度の執行猶予(保護観察付)を与えた。

 これ等は過去数年間のものであるが、それに先立ち平成20527日の東京地裁の判決についても特筆すべきであろう。これは殺人および死体損壊事件であるが、殺害行為時はDIDの主人格、死体損壊時は副人格により行われたものとし、殺人に関しては完全責任能力、死体損壊に関しては責任無能力とされた事件である。その裁判は、殺人および死体損壊の事例であるが、裁判所は死体損壊罪に関してのみ、被告人が別人格の統制下において行為したと認定して、心神喪失を認めた。しかしこれについては、控訴審(東京高判平成21428は、原告判決を破棄し、死体損壊罪に関しても完全責任能力を認めたという。

2022年5月2日月曜日

他者性の問題 86 解離性障害と差別の章の加筆

 解離性障害の場合はどうか?

さて同様の議論は解離性障害についても当てはまると私は考える。解離はその定義を広くとるならば、意外と日常生活で体験されているものなのだ。以下に前々書(岡野、解離性障害 岩崎学術出版社、2007年)で紹介したColin Ross (1997) の表を再び示そう。

心理的な(機能性の)解離と生物学的な(器質性の)解離(C.Ross, 1997)

健常な生物学的解離

(夜間にトイレに行ったことを忘れること)

病的な生物学的解離

(脳震盪の後の健忘)

健常な心理的解離

(退屈な講義の間に見る白日夢)

病的な心理的解離

(近親姦に関する健忘) 

 

Ross, C.A. (1997) : Dissociative Identity Disorder. Diagnosis, Clinical Features, and Treatment of Multiple Personality. Second edition. John Wiley & Sons, Inc. New York

 

この表に示されたとおり、健常な解離は夜中に短時間覚醒した際、あるいは日中覚醒時にボーっと夢想にふけるようなときにも生じていると考えられて来たのだ。
 私がよく例に引く芸能人のことを書いてみよう。ある芸人さんが、昔ガキ大将の時に、仲間と悪さをしていて先生につかまり、一列に並ばされたときのことを語っていた。先生は彼らに片端からビンタを食らわせたわけだが、その後の大物芸人になる少年は、自分の番が近付くと、魂だけ後ろに下がって、自分の体がビンタをされているのを他人事のように見ていたという。一種の幽体離脱体験だが、当然痛みも感じていなかったという。また別の患者さんは小さいころから、危機的状況では「瓶のようなものに逃げ込んで蓋をしてしまった」という。するとその間「誰か」が外に出てその状況に対応するのだと説明なさった。まさに「穴があったら入りたい」を地で行っていたことになる。
 このような体験を聞くと、私たちの一部はある種の危機状況でこの解離を用い、心と体を分離することでやり過ごす能力を持っているようである。これは動物の擬死反応になぞらえることが出来るであろうが、この種の反射は昆虫レベルですでに見られている。このことから解離が生命体にとってある種の適応的な役割を果たしてきたことがうかがえる。
 このことから解離は一つの能力であり、防衛機制であるという考えが成り立つ。もちろん解離・転換症状は時には人の機能を奪い、適応性を逆に低下させるわけであるが、それは解離性の反応の結果がネガティブな影響を及ぼす場合のみを拾っている可能性がある。

2022年5月1日日曜日

他者性の問題 85 他者性の神経学的基盤 まだ全然まとまっていない

 他者性の神経学的基盤

心とは神経ネットワークである

本章では本書でテーマとなっている「他者性」にどのような生物学的な裏付けがあるのか、そしてDIDにおいて交代人格が成立する際にそれがどの様な実態をともなっているかについて考える。ただしそれは大変難しいテーマでもある。心とは何か、それが脳の組織とどのように関係しているかは、様々な仮説は存在していても、基本的には極めて困難な、David Chalmers のいう「難問 hard problem 」である。その上にその心が複数存在する際のモデルを考えるとなると、これは不可能に近い。だから本章の内容はあくまでも仮説であり、私の想像の産物であることをお断りしたい。ちなみに現在の医学関係の学術論文はそのほとんどが「量的研究」と呼ばれるものであり、そこでの科学的なデータが極めて重要な意味を持つ。いわゆるエビデンス・ベイスト・メディシン(EBM)という考え方である。その立場からは心についての脳科学的な基盤について仮説を設けてもその学問的な価値はあまり与えられない。しかしある種のモデルを心に描いて臨床に臨むのとそうでないのとでは大きな差が生まれる。私がこれから示す考えも、それを設けることで臨床で出会う現象がよりよく説明されるようなモデルを追求した結果である。

Chalmers, David J. (1995) "Facing Up to the Problem of Consciousness. Journal of Consciousness Studies 2(3):pp. 200-219.

そこでさっそく心についてのモデルであるが、いわゆる Neural correlates of consciousness ( NCC) という言葉がある。これは日本語に訳すならば「意識に相関した神経活動」となり、要するに意識が働いている時に脳で活動している神経組織という事である。DNAの発見者の一人であり、その後心と脳の研究に進んだ Francis Crick と神経学者 Christof Koch による概念である(Crick and Koch, 1990)。

Crick F and Koch C (1990) Towards a neurobiological theory of consciousness. Seminars in Neuroscience Vol.2, 263-275.

彼らは意識活動は、最小の神経メカニズムとして抽出できるのではないかと考えたが、そこで基本となったのは、神経ネットワーク、ないしはニューラルネットワークという考え方だ。脳は大脳皮質、小脳、扁桃体、視床、大脳基底核・・・・などの様々な部位に分かれているが、基本的にはどの部分も神経ネットワークである。そしてそれらのネットワーク同士がケーブル(神経線維)で繋がっているのだ。心はそれを基盤にして出来上がっていると考えるのがこのモデルである。もともとこの神経ネットワークという概念自体が、生物の神経系を観察した結果として生まれたのであるから、これが心を表すと考えるのは当然の話だろう。
 この神経ネットワークという概念自体はかなり古いものであり、1950年代にまで遡るが、長い間あまり脚光を浴びていなかった。しかしそれが最近になって急に注目されるようになったのは、いわゆる深層学習 deep learing の成果である。深層学習は神経ネットワークの進化版と言えるが、それによりこれまでは到底コンピューターで太刀打ちすることなどできなかった囲碁や将棋と言った複雑なゲームが、あっという間に人間の力を超えて行ってしまったことで多くの人々を驚愕させた。これ等のゲームを考案していた研究者たちは、
従来の神経ネットワークに 誤差逆伝播 back propagation などのフィードバックループを備え、自動学習をさせるという事で、神経ネットワークが瞬く間にその性能を向上させることを発見したのである。それまでの神経ネットワークでは一つ一つ問題を出してそれを正解するか否かという事で内部の素子の重みづけを変えていたのだ。いわば手動式の学習のさせ方であるが、自動学習をさせることで神経ネットワークは一人で高速での学習を行い、驚異的な能力を備えることとなった。それがいわゆるディープラーニングである。

 人間の脳は巨大な神経ネットワークと考えることが出来ると言ったが、意識を成立させ人間の活動を可能にしている最小単位のネットワークを考えることはできないか、と研究者たちは考えた。もちろん人間の心自体がどのような脳科学的な基盤を持っているかは結局は分からない。人間の脳は極めて緻密な構造をしていて、その詳細にまで分け入ることはできない。ただし心を支える生物学的な基盤をある程度予想することはできる。するとそれらが複数同時に存在した状態がDIDで生じているのではないかと考えることが出来よう。心を生み出す最小の神経ネットワークをNとするならば、それが複数存在する状態、すなわちN1,N2,N3・・・・・がDIDの状態というわけである。そしてN1N2,N3の間にある程度の独立性が存在するならば、交代人格同士の個別性、他者性も保証されるであろう、というのが私の考えである。