2022年4月30日土曜日

他者性の問題 84 「障害」という表記の部分も加筆した

 「障害」の概念とその表記の仕方

この問題について検討する前に、そもそも障害や疾患とは何をさすのかについて少し論じよう。最近ではわが国では少なくとも精神科領域では「精神疾患」の代わりに「精神障害」の表現が用いられるようになって久しいが、それは欧米の診断基準である DSM ICD が標準的に用いている “disorder”(通常は「 障害」と訳される)という呼び方に対応して用いられているという事情考えられる。しかし「精神障害 」の「害」の字は明らかにマイナスイメージが付きまとうということから、最近では代わりに「障碍」ないしは「障がい」という表記をすることが多くなってきた。(ただし「碍」という文字の語源を調べると、これにも同様にマイナスな意味が含まれるようであり、果たして「障碍」への置き換えには意味があるのかという疑問も生じる。) 
 そして最近はこの disorder がさらに「症」と訳されるようになって来ている。といってもさすがに「精神障害」が「精神症」に代わったという話は聞かない。インターネットの検索エンジンで「精神症」と入力しても何もヒットしないから間違いのないことであろう(20224月の段階の話である)。あくまでも個別の「障害」に関してである。すなわち「強迫性障害」には「強迫症」が、「~パーソナリティ障害」には「~パーソナリティ症」という表現が新たに提案されたのである。
 この事情については 2013年に発行された DSM-5 の日本語訳「DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引」(日本精神神経学会、2014) にその経緯が書かれている。それによればこれらの表記をめぐって内閣府に作業チームが設置されたという。そして「連絡会は、(中略)児童青年期の疾患では、病名に「障害」が付くことは、児童や親に大きな衝撃を与えるため」「障害」を「症」に変えることが提案され、また同様の理由から不安症及びその一部の関連疾患についても」同様の措置が取られたという経緯が記されている(以上同書、  p.9)

この決定は私にも若干の「衝撃」を与えたが、さらに困惑させられたのは、例えば「解離性同一症」という表記であった。これはDSM-5 (2013) における dissociative identity disorder (解離性同一性障害)の日本語訳として提案されたものである。幸いなことに解離性同一性障害という従来の表記の仕方も並列して提示されていた。しかし「解離性同一症」の「同一症」はさすがに何を意味しているのかが不明で、日本語としても不自然である。そこで研究仲間の野間俊一先生と話し、少なくとも「解離性同一性症」くらいにはすべきだと合意した。幸いその後に出たICD-11の表記はこちらの方になっている。

ただこの○○病→○○障害 →○○ 障がい →○○症という変更は一つの重要な点を示唆している。それは精神の病気と正常との間には、私たちが思っているほど明確な分かれ目はないことが多いということだ。少なくとも神経症圏の精神障害は、それが軽ければ性格の一部、深刻になったら病気(障害)という考え方がおおむね当てはまると言っていいだろう。

2022年4月29日金曜日

他者性の問題 83 「部分としての心はあるのか?」についての章の書き出し

 「部分としての心」は存在するのか?

 本書で取り上げている交代人格の人格としての在り方という問題意識は、しかしそれより一段階上のレベルの問題と関連している。それはそもそも心とは部分でありうるか、という問題だ。つまりこれは交代人格に限らない心の在り方を問い、それが基本的に部分ではありえない存在であり、統一体としての要件を備えているはずであることを示したいのである。すなわち心とはすなわち部分ではありえないという事を示すことで、交代人格も当然ながらその例外ではないから、部分ではありえないという論法を取ろうと考えているのである。だから本章の記述は交代人格よりは人格一般、心一般をテーマとしていることを最初にお断りしたい。

さて部分としての心、という事で私が思い出すのは、Shel Silversteinの「僕を探しに The Missing Piece」という絵本である。主人公はいつも何かが欠けていると思いながら旅をする。部分が欠けているためにスムーズに回れずに、ゴツゴツしながら移動する。「自分にはアレが欠けているから幸せになれないんだ。アレさえあれば完璧になれるのに。」と思い続けながら生きていくのだ。そして旅を続けていくうちに、とうとう欠けていた断片に出会う。さっそくそれを取り込んで一体となったのに、なぜかうまくいかない。というよりもあまりに早く転がりすぎてなにも体験できず、かえって人生が空しくなってしまう。そこでそっと断片を取り外して再び欠けたままの旅を始める。

2022年4月28日木曜日

他者性の問題 82 一部改稿した

 DIDの裁判 最近の動向

再び上原氏の2020年の論文に戻ってみる。そこで上原氏が中心的に論じているのが、平成313月の覚せい剤取締法違反事件である。この裁判ではDIDを有する被告人は覚せい剤使用の罪で執行猶予中に、別人格状態で再び使用してしまったという。そして原級判決では被告人に完全責任能力を認めた(つまり全面的に責任を負うべきであるという判断がなされた)が、控訴審では被告人が別人格状態で覚せい剤を使用したために、心神耗弱状態であったと認定したのである。
 ちなみにDIDにおいて責任能力を認めるか否かという議論には、精神医学的な見地が大きく関係している可能性がある。そして裁判においても、精神科医による精神鑑定の見解をできるだけ尊重するという立場が最高裁において下されているという(上原、2020)。この上原氏の紹介する覚せい剤使用のケースではそこで私的鑑定を報告した精神科医の意見が尊重された形になっているが、検察側の精神科医の意見についてはこの論文には書かれていない。とすれば弁護側の精神科医のみが鑑定を行ったという可能性があり、それが尊重されるとするならば、ある意味では当然の結果と言えるであろう。これは検察側が精神鑑定を求めなかったとしたら、そちらの作戦ミスということが言えるだろう。ところが私が関わったケースでは、検察側と弁護側が異なる精神科医から対立する精神鑑定の結果を報告するというパターンなので、どちらを尊重しようにも、最終的には裁判官や裁判員の判断ということになる。そしてその結果としてやはりDIDの場合に一般して責任能力が認められてきたのである。

2022年4月27日水曜日

他者性の問題 81 司法精神医学のテーマも汲みつくせない

 DIDにおいて刑事責任能力が問われる状況のプロトタイプ

 さてここからが本題である。日本の裁判においてDIDの当事者の責任能力はどのように考えられ、扱われているのだろうか? 上原氏の解説によれば、DIDの責任能力が問われる判例は増加傾向にあるようだ。わが国でDID を認めたうえで刑事責任を判断したものとしては、現時点(2020)で入手可能な十三件のうち半数以上が、過去五年以内に出されたものであるという(上原、2020)。そしてそこにみられる傾向として、DIDが被告人の刑事責任能力自体に影響を与えるものと判断された例が出てきている。

このような傾向は私は基本的には好ましい方向に向かっていると考える。少なくとも従来はDIDにおいては完全責任能力が認められるという方針で一貫していた。そしてさらにそれ以前は被告がDIDに罹患していたということ自体が認められていなかった可能性がある。しかしDIDの責任能力の問題は極めて複雑で、単純に責任能力の有無を決めることはできない。そこで以下にこの問題について順を追って考察を進めたい。

司法領域においてDIDが提示する問題は端的に言えば次のように表現される。

交代人格の状態において行われた行為について、その交代人格や主人格ないしは基本人格はどれほど責任を負うべきであろうか? 

ちなみにここで言う「基本人格」については、すでに第○○章で説明を加えてある。要するにDIDの当事者の戸籍名がAさんだった場合、それを自認する人格を指す。欧米の文献ではいわゆるoriginal personalityとして記載され、基本人格はその日本語訳である。基本人格という概念が想定しているのは、Aさんと名付けられて生まれ育つ人が一番最初に持っていた「自分は○○である」というアイデンティティの感覚は「自分はAだ」というものだったはずだという理解である。これをわが国では通常は基本人格と訳してきたわけだが、この原語の”original”とは「最初の」という意味である。だからoriginal personalityを正しく訳すと「最初の人格」という事になるだろう。だから基本人格という訳は若干不正確ではないかというのが私の考えである。

司法の場でも、被告や原告となった人の戸籍名がAさんの場合、裁判で証言をするのもAさんであることを前提としている。もし皆がAさんと信じている人が証言の途中で、「実は私は自分がAとは認めていません。私は実はB(あるいはC)です。」と言い出したとしたら、法廷での審議は止まってしまいかねない。ただし解離性障害、特にDIDを有する方が裁判に関わった場合、このような事態は現実のものとなり得るのだ。それはこの基本人格Aさんがしばしば不在だったり、「眠った」状態でいる場合が少なくないからである。それは具体的にはどのような形で生じるのか。

2022年4月26日火曜日

他者性の問題 80 責任能力の章に手を入れている(あまり直すところがない)

 司法領域における解離と他者性

 本章では司法の領域においてDID(解離性同一性障害)の「責任能力」がどのように議論され、DIDを有する方々がどのように処遇されてきたかについて論じたい。

私はこれまでこの問題にほとんど言及してこなかった。ただDIDを持つ原告の方の鑑定、ないしは意見書の作成に携わったことは何度もあり、司法の目を通してDIDの問題を考える機会をかなり多く持ってきた。そしてDIDの方が自分の行動にどれだけの責任を取るべきかという問題は、本書のテーマである交代人格と他者性という問題にとって極めて重要な意味を持つことを、私は最近になり自覚するようになった。DIDを有する人が交代人格の状態である違法行為を行った場合、その人は通常の犯罪行為を行った人と同様に扱われるべきだろうか? それとも罪を問われるべきでないのか? この問題はDIDにおいていわゆる「責任能力」の問題をどう考えるか、という事に尽きるのである。

 責任能力とは何か?

ここで本テーマについての議論に入る前に、責任能力という問題について簡単に触れたい。この概念ないしはタームは本章でこれから何度も出てくるからである。ただしこの用語はあくまでも法律用語であり、精神医学の用語ではない。しかも刑法ではその説明をしていないのである。それにもかかわらずDIDの法的責任だけでなく道義的な責任などについて考える際に極めて重要なのだ。当事者が責任能力を有するかどうかによって、収監されるか、執行猶予つきになるか、無罪になるかが大きく変わってくるのである。

ちなみに少し間違えやすいのは、被告人が責任能力を有するという事は、その人がより重い罪を着せられるという事を意味するという点だ。ある能力を持つということが、自分自身にとって不利に働く(量刑の多少という意味において、であるが)という事情は慣れないとなかなかピンと来ないだろう。

2022年4月25日月曜日

他者性の問題 79 病気として扱わないという差別

 すなわち Charcot Freud が貢献したのは、医学の対象にすらしてもらえないヒステリーすなわち解離性障害を医学の俎上に載せたことにあった。これはヒステリーに対する差別意識を軽減ないし解消する一つの試みだったのである

 上述した内容がいかに問題となりやすいかといえば、そこにしばしば疾病利得の問題が絡んでいる。特に戦争神経症などでは、それが兵役を回避する目的でなされた演技ではないか、ヒステリーの場合は女性が自らの苦しさをアピールするための手段ではないかと考えられた。「病気でもないのに病気のフリをしている」という見方がなされたのだ。しかしそれがいったん病気として認められると、今度は障碍者として差別されることに繋がる。しかしそこでも問題となるのが、解離性障害の「病気にしては風変わりで、どのように理解して治療していったらいいか」という混乱を医療側の人間たちが感じたからなのである。

この様に解離性障害は、障害として扱われないことについても、あるいは障害として扱われ過ぎることについても、差別の対象とされてきたと言っていいだろうか。

 最後に提唱する「程よい」解離性障害のとらえ方

本章の、というか本書の最後に次のようにしてまとめたい。解離という機制(心の働き)は人の心に多かれ少なかれ備わっている。しかしそれを用いやすい傾向にある人はいて、特に幼少時のトラウマ的なストレスに関係してより明らかな形で用いられるようになる。そしてそれを障害ないし疾患としてとらえるか否かは、まさにそれが日常生活に支障をきたしているかにより判断されるべきことなのである。すなわちそれは必要以上に病気としての側面を強調されることでも、それを過小評価されるべきものでもないのだ。
 これはいわば解離をスペクトラムとしてとらえるという事であるが、この捉え方はいわゆる神経症症状や、神経症傾向におおむね当てはまることである。例えば人前で多少なりとも緊張するのは普通のことであり、「対人緊張」という精神科のタームも存在する。そしてそれは軽度でふつうの人にしばしば体験されるものから、病的対人恐怖と呼ばれ、人前に姿を現すこと自体が忌避すべきことになり、社会生活が送れなくなるものまである。解離もそのようなものなのだ。

2022年4月24日日曜日

他者性の問題 78 戦争神経症も「仮病」扱いされていた

  Charcot はその意味ではそれまでは詐病扱されていたヒステリーを医学の俎上に載せたという功績があった。歴史上はじめてヒステリーが正当に扱われたのである。そしてここにはそれが疾病や障害として扱われることが差別からの解消であったという事になる。ただしそれでもCharcot は「結局ヒステリーはいつも、性器的な問題なんだよね」という言葉を残して、一種の偏見の根を絶やさなかったことも知られる。

解離性障害が障害としてみなされない問題にはもう一つの文脈があった。それがPTSDや戦争神経症の処遇である。これも一種の「仮病」として扱われるという時代が長く続いたのだ。そしてその根底にあるのが疾病利得の問題であった。疾病利得とは病気になることで患者自身が得るものであるが、Freud はそれを一時的なものと二次的なものに分けた。このうち二次的なものとは傷病手当や保険金や、戦場に赴くことの回避などであり、周囲の目にもその人が病気になることでそれらを得ていることは明らかなものである。第一次世界大戦では、ドイツ・オーストリア軍に戦争神経症が多発していたが、それは詐病と見なされ、電気刺激により罰したという。しかし戦場ではやはり戦争神経症が再発したという。これについて Freud はこう述べている。「すべての神経症患者がある意味において仮病を使っているという一般論としては、戦争神経症の患者も仮病を使っているという意見に同意できるが、それは意図的な仮病ではなく、無意識的にそうなのであるという点がいわゆる仮病とは違うのです。」

2022年4月23日土曜日

他者性の問題 77 障害と見なさないことも差別?

 解離性障害を障害とみなさないこともまた差別となりかねない?

 ここまでで私は解離性障害を病気とみなすことに伴う差別性について論じてきた。ただしここでもう一つ付け加えなくてはならない視点がある。それは病気とみなさないことも差別となりかねないという点である。

考えてもみよう。ヒステリーは長い間「僭称」であった。ヒステリーがどの様に扱われていたかを、Freud 自身の言葉を引用して示そう。

この病気の正当な評価とよりよい理解は、シャルコーと、彼によって激励された去るペトリエール学派の研究によってはじめて始まった。この時代までヒステリーは医学のベート・ノワール(嫌われ者)であった。昔は焼き殺され、また追放された哀れなヒステリー患者は、最近の啓もうされた時代には、嘲笑の的になった。この様な患者の状態は、臨床観察に値しないものと判断されたし、仮病や誇張とみられている。しかしヒステリーはこの場の最も厳密な意味で神経症の一つである。

2022年4月22日金曜日

他者性の問題 76 昨日の続き

  Putnam はこの論文で「状態変化」障害 state-change disorder という概念にまで言及して、そこには双極性障害やMPDが入るとする。そしてそれが乳幼児に見られる意識状態state of consciousness に発想を得ているとする。そしてそれは「繰り返され概ね安定した 生理的な変数群や行動群のパターン群の付置constellation Prechtl, 1968, p.29 A constellation of certain patternsepeat themselves and which appear to be relatively stable)」としてもっともよくあらわされるという。

Prechtl, HFR Theorell, K, & Blair, AW (1968) Behavioral state cycles in abnormal infants. Developmental Medicine and Child Nuurology, 15, 606-615

 ただしこのような状態が成立しない場合があり、それがトラウマであるとする。トラウマは大抵幼少時に起こり、それが早期からのこのような状態間のスムーズな移行を阻止する。そして情緒的に高まった状態で解離的な状態に入り込むことがその人にとって適応的となるのだ。そしてその機序は詳しくはわからないながらも、それが交代人格として成立していくとする。

ちなみにK.Forrest (2001) はこのPutnam の理論をさらに引き継いだ論文を書き、この

理論がDIDの生物学的な基盤となりえることを主張している。 

Forrest, KA (2001) Toward an etiology of dissociative identity disorder: a neurodevelopmental approach Conscious Cogn 10:259-93.

  Forrest によれば、現在のところ、解離に関してもっとも有効な理論は、Putnam DBSであるという。しかしその背景となる生物学的なメカニズムは説明されていないという問題があるとする。彼は人間が自己の異なる部分を統合する機能として眼窩前頭皮質OFCを含む前頭前野を挙げている。人が持つ幾つかの機能を、同じ人の持つ複数の側面としてとらえ、「全体としての自分Global Me」を把握する際にこの部位が機能するという。そしてそれが低下すると、多面的な存在が個別なものとして理解され、Aさんという自己の異なる側面がAさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識してしまう。これが自己像に対して行なわれるというのが彼のDIDの生成を説明する理論の骨子である。

 ちなみに私はこれはDIDの本質を捉えていないような気がする。この体験では自己像がいくつかに分かれる、という説明にはなっても、心がAに宿ったり、A’に宿ったりという、複数の主体の存在を説明していないように思えるのだ。


2022年4月21日木曜日

他者性の問題 75 Putnam の理論について追加

Putnamの離散的行動モデル
 ここでこのPutnam 先生の議論の背景にある離散的行動モデル(discrete behavioral model, 以下DBM)について少し見てみたい。
 Putnam(1997)はこのDBMで、人間の行動は不連続的で、一群の状態群の間を行き来することと捉えている。DIDの交代人格もその状態群の中の1つであるとする.交代人格という状態は,その他の通常の状態とは違い虐待などの外傷的で特別な環境下で学習される.そのため,交代人格という状態とその他の通常の状態の間には大きな隔たりと,状態依存性学習による健忘が生じると考える.
Putnam, FW (1997) Dissociation in Children and Adolescents: A Developmental Perspective. Guilford Press: New York. 中井久夫(訳)解離―若年期における病理と治療 みすず書房、2001 pp194-203
Putnam(1997)にとって精神状態ないし行動状態とは,心理学的・生理学的変数のパターンから成る一つの構造である.そして,この構造は実はいくつも存在するのだ。つまり人間の行動においてはそれらは頻繁に移行しつつ成立していることになる。Putnam はWolff, PHなどの乳幼児研究をもとにしている(Wolff, 1987, 野間2021)。乳幼児は静かに寝ているノンレム睡眠時が行動状態Ⅰ,寝てはいるものの全身をもぞもぞさせたりしかめ面,微笑,泣きそうな顔などを示すレム睡眠時がⅡ,覚醒しているが不活発な状態がⅢ,意識が清明で活動的なⅣ,そして大泣きしている状態が行動状態Vといった具合になる.
Wolff, P. H. (1987). The development of behavioral and emotional states in infancy. Chicago: University Chicago Press.
野間俊一 解離症における諸理論(2021)講座精神疾患の臨床4 身体的苦痛症候群、解離症群、心身症、食行動症または摂食症群.中山書店.

 Putnam の考えの特徴は、人間のこれらの状態像は離散的、つまり孤立しているが、それらの間を行き来(スイッチング)し、普段はその行き来のための時間が短いためにその時その時で適応的に状態像を変えて日常生活を送り、しかもそれらは健康な状態では全体として統合されていると考えたことである。
ただし被虐待児などの場合は,不安や恐怖を特徴とする特別な行動状態群が形成される.虐待エピソードのような恐怖に条件づけられた行動状態は,血圧・心拍数・カテコールアミン濃度などの自律神経系の指数の上昇といった生理学的な過覚醒と連合している.そしてその不安や恐怖の強い行動状態に留まることが多く、また全体の連続性は統合性も失われる。上記Ⅰ~IVの行動状態を“日常的な行動ループ”とすれば,虐待エピソードで獲得された状態群は独自の性質をもつ“外傷関連の行動ループ”といえよう.

2022年4月20日水曜日

他者性の問題 74 割れた鏡かジクソ―パズルか?

 Putnamの離散的行動モデル

  Frank Putnam 先生の議論についてはかつて触れているが、ここで取り上げたいのは、彼の離散的行動モデルである。交代人格を一つの人格ではなくて部分と見なすという傾向の一つの源はこのモデルに見出すことが出来る。そこで本章ではこのモデルについて解説をしたい。

 Putnam のあまり引用されていない論文に以下のものがある。

「ディスカッション:交代人格は断片か、虚構か? Discussion: Are Alter Personalities Fragments or Figment(A Topical Journal for Mental Health Professionals Vol 12, 1992,  Issue 1: pp.95-111. という論文である。この論文はそのタイトルにもあるように、ある臨床家(Dr. Lyon)が提出したケースに対するディスカッションという形を取る。この論文でPutnam 先生は「別人格alter personalityは一種のセンセーショナルな描かれ方をされるためにいくつかの誤解を生んでいる。その中でも問題なのは、別人格が別の人間と考えることである。」

そしてPutnam Dr.Lyon の論文についてコメントする。Dr.Lyonは異なる人格の存在を、粉々に割れた鏡のようなものと表現しているが、それは違うとする。それは最初は一つだったものが断片化されたものだ。「だからより適切な比喩は、まだ出来上がっていないジクソーパズルが組みあがっていくようなものだ。」(p.102)

人格が割れた鏡かジクソ―パズルか、というわけだが、私はこれを図にしてみた。左が割れた鏡モデル、右がジクソ―パズルモデルである。


私はこの議論はDr.Lyon の比喩の方が適切だと思う。なぜならどの鏡のかけらにも人を映し込む力があるからだ。割れた鏡は、一部が目を、別の一部が鼻だけをうつすという事はない。逆にPutnam 先生の前提こそが問題ではないか。

2022年4月19日火曜日

他者性の問題 73 対談の文字起こし 10(最終回)

S山 解離の主体概念と言うと、精神病理では常に問われると思うので、岡野先生の見解をお聞きしたいですね。

岡野 ポストモダンの考え方という事で言うならば、主体という感覚自体は、バーチャルですよ。これは我々がそう感じているだけで、実在はしないわけです。
S山 でも法律は問うわけじゃないですか。
岡野 もちろん。だから実存的な議論としては、主体は存在しないと言っているだけです。
S笠 でも精神医学などでは、主体概念を失くしちゃうと、何が何だか分からなくなってしまう。
岡野 そうです。だからあたかも主体があるかの前提でこうやって話しているわけです。
N間 私の話は変なところに行っちゃうかもしれませんが、主体というものを強調しすぎて、そこをどうするかという事で主体の認知を変えようという治療法があるわけですが、M笠先生がクレッチマーを挙げましたが、あのような原始的な反応という事を人間的に乗り越えようという事で解離が出ていると考えると、もう少し身体レベルでの治療を重視するべきだと思うんですよね。そうすると主体というものは岡野先生のおっしゃった幻想と言ってもいいし、もっと広い意味で解離治療を考えるべきだと思うので、岡野先生に賛成です。
S山 N間先生やM笠先生の話によると、主体とは間身体性の土台の上にあって、かつ間主観性の上にもあるという感じですか。
M笠 間主観性は主体同士のコミュニケーションのレベルなので、それぞれに主体が想定されて、そこで共有しているような感覚のようなものが間主観性だと思うんです。
S山 間身体性からだけでは、主体性は生まれてこないんですか?
M笠 間主観性からは…
S山 出てこないですよね。いったん間身体性を通らないと。要するに身体の方を重視しているんですよね。その根拠は何ですか?
M笠 多分メルロポンティの時代からすると、主体概念は全く疑われていなかったと思うんですよ。その中で主観主義であったりとか観念論かドイツ観念論とかあって、そこに対抗するために多分体に・・・・
S山 まあ気持ちはわからんでもないけど、その場合の身体とは何か、と言うのが今一つ分からないですね。クレッチマーの身体とメルロポンティの身体が同じものとは思えないんですよ。
M笠 ああ・・・
岡野 すみません。この話題について行けてないんですけど。
S山 M笠先生の発表の内容に入ってしまいましたね[注:このシンポジウムの前に行ったM笠先生の学術講演のこと]。私はメルルポンティの身体と、原始反応の身体とは違うと思うんですけれど。同じですか?
M笠 僕は同じだと思っています。身体性というのは各々が持ってるものなので、そこをつなぐものとして潜在的にあるのが間身体性なんです。
S山 心は原初的な段階で身体に溶け込んでいるという考え方は出来ないのですか?
M笠 あ、溶け込んでいると思います。
S山 だから、心、かつ身体、という事でいいのではないですか?
M笠 心かつ身体・・・・その身体の下支えがあって、初めて心が成立するという感じで・・・
岡野 あとお時間があまりないのですが、「先ほどの症例について[シンポジウムの前に発表されたケースに関して]治療者にどのような役割をして欲しいか」というご質問が来ています。先生方はいかがでしょうか?一言ずつお願いします。
S山 そうですね。僕はまずはいかに安心できる生活ができるかっていうところを相談に乗るという事ですね。精神科医も時間があればそれをやりたいけれど。
N間 先ほどの症例では、生活の基盤自体が非常に不安定ということになるかと思ってですね。まず生活を安全な場所にしてあげるということを最優先にした方がいいと思いました。ですからカウンセリングも時間は短めでいいのかなと。長いカウンセリングはちょっとこの方は耐え難いような印象があってですね。あのそういうようなことが第一かなという風なことは思いました。あとついでに言うと、自我状態療法的に言えば、会議室セッションで攻撃的な人格が出てこなかったっていう話ですけど、それよりも自分の力になってもらえるような人格と交流していく、つまり味方を増やすようにそのような人格と会っていくことが、外傷的にならない治療かなと思いました。それともう一つ、杉山登志郎先生が開発したPS プロトコールという治療法がありまして、これは解離の人にそこそこ有効です。
S山 何ですか、それは?
N間 触覚刺激を用いるやり方ですね。治療者が二つの機械を持って交互に振動刺激を与えます。
S山 ああ、ブレインジムみたいなやり方ですね。
N間 ハイ、それを体に当てていくだけで、外傷は全く扱わないのです。でもそれで体が楽になるんですね。
岡野 杉山先生は、トラウマは扱わない派ですからね。はい、ちょうど時間になりましたね。

2022年4月18日月曜日

他者性の問題 72 対談の文字起こし 9

岡野 全般的に言えることはトラウマが人格の形成には関係する傾向にあるのは確かなことで、例えば解離性遁走の方の場合、職場でのストレスがあっり、人間関係がうまく行かなくなったりしていて、ある日ポーンと遁走と言うのがありますね。その場合は防衛、と言うか反応。だからS山先生のおっしゃる通り、両方、という事なのかなあ。
S山 岡野先生のおっしゃっていることは、要するに内側から来たのか、それとも虐待者を取り入れたのか、ということでしょ?
岡野 なんですけれど、
質問 人格とはそもそも部分が凝集したものと考えてはいかがでしょうか? 共有する部分もしない部分もあるという事では?
S山 部分はそもそも全体との関係だから、それはそうだと思います。だから人格が全体っていうことでは、僕の見解と一致してますけれども、人格と言っちゃったらもうこれは全体だと。部分から発展しちゃった全体像が人格だ、という僕の考えが入っちゃって申し訳ないですけどもありますよね。
岡野 ニューラルネットワークの中で様々な役割を担当している部分がありますよね。だから部分、と言うのは脳の機能の一部だと考えるとわかる。でもそれらが集合して人格になるというわけではないでしょう。それは総和プラスアルファのものとなるというわけですか? だからこの方のおっしゃっているのはその通りでしょう。
S山 その通りですね。
岡野 あとは人格さんに、貴方が中心になって凝集して、一人前になろうね、というか言わないかでしょう。
S山 あの、凝集して全体を作るっていうのは本当にジグゾーパズル的ですよね。でも全体と部分の関係は、けっしてジグゾーパズルじゃないと思うんですよ、部分といった場合の全体と部分の関係は決してジグゾーパズルのような固定した空間的なものじゃない。もっと別の概念だと思うんですよ。部分と全体っていうのは。ジグソーパズルはほんの一部分だと思うんです。記憶の欠落部分にしか有効ではない概念だと思います。
M笠 あの、岡野先生の言う他者と言うのは、僕が聞くと、主体という風に聞こえるんですけど違うんですかね
岡野 いやその通りで、最初の定義として挙げたのは、独自の主体性と自律性を持った、要するに普通の人のことです。
M笠 つまり交代人格にも主体がある、と言う極めてそのポストモダン的な考え方と言いますか。
岡野 これはポストモダンなんだろうか?
M笠 近代概念だと、私は一応メルロポンティだけで留めてるんですけど、メルロポンティまでは多分おそらく主体概念っていうのは通用するんですよ。人間同士の主体同士のつながりっていうのがあれなんですけど。構造主義になると人間がなくなってくるので、構造主義だと言葉になりますし、ポストモダンだと、それこそ多重自我状態と言いますか、そういう状態になると思うので、その主体概念を持つかどうかっていう話だとすごいなんかこう面白い話だなーっていうのは聞いてて思いまして、ただあの僕は刑務所に勤めてるのですが、基本的には単一の主体が罪に問われるじゃないですか。でもDIDの人の場合は他者がやったという事になり、責任能力をどうするかという問題につながり、難しいと思うんです。

他者性の問題 71 対談の文字起こし 8

岡野 全般的に言えることは、トラウマが交代人格の形成に関係する傾向にあるのは確かなことで、例えば解離性遁走の方の場合、職場でのストレスがあったり、人間関係がうまく行かなくなったりして、ある日ポーンと遁走してしまうという事がありますね。その場合は防衛、と言うか反応という感じです。だからS山先生のおっしゃる通り、両方、という事なのかな。
S山 岡野先生のおっしゃっていることは、要するに内側から来たのか、それとも虐待者を取り入れたのか、ということでしょ?
岡野 そうですね。ここで質問が来ています。「人格とはそもそも部分が凝集したものと考えてはいかがでしょうか? 共有する部分もしない部分もあるという事ではないでしょうか?」というものです。
S山 部分はそもそも全体との関係だから、それはそうだと思います。だから人格が全体だというのは僕の見解と一致しています。人格とは部分から発展した全体である、という事です。と言ってしまったらこれは全体だという事になります。部分から発展しちゃった全体像が人格だ、という僕の考えを繰り返して申し訳ありませんけど。
岡野 私の考えだとニューラルネットワークの中で様々な役割を担当している部分がありますよね。だから部分、と言うのは脳の機能の一部だと考えるとわかる。でもそれらが集合して人格になるというわけではないでしょう。それは総和プラスアルファのものとなるという事でしょうね。
S山 その通りですね。
岡野 あとは人格さんに、「あなたが中心になって凝集して、一人前になろうね」というか言わないかで立場が分かれることになりますね。
S山 あの、凝集して全体を作るっていうのは本当にジグゾーパズル的ですよね。でも全体と部分の関係は、けっしてグゾーパズルじゃないと思うのですよ、部分といった場合の全体と部分の関係は決してジグゾーパズルのような固定した空間的なものじゃないんです。もっと別の概念だと思うんですよ。部分と全体っていうのは。ジグソーパズルはほんの一部分だと思うんです。記憶の欠落部分にしか有効ではない概念だと思います。
M笠 あの、岡野先生の言う他者と言うのは、僕が聞くと、主体という風に聞こえるんですけど違うんですかね
岡野 いやその通りで、最初の定義として挙げたのは、独自の主体性と自律性を持った、要するに普通の人のことです。
M笠 つまり交代人格にも主体がある、と言う極めてそのポストモダン的な考え方と言いますか。
岡野 これはポストモダンなんだろうか?
M笠 近代概念だと、私は一応メルロポンティだけで留めてるんですけど、メルロポンティまでは多分おそらく主体概念っていうのは通用するんですよ。人間同士の主体同士のつながりっていうのがあれなんですけど。構造主義になると人間がなくなってくるので、構造主義だと言葉になりますし、ポストモダンだと、それこそ多重自我状態と言いますか、そういう状態になると思うので、その主体概念を持つか。どうかっていう話だとすると、すごく面白い話だなあ、というのは聞いてて思いました。ただ僕は刑務所に勤めてるのですが、基本的には単一の主体が罪に問われるじゃないですか。でもDIDの人の場合は他者がやったという事になり、責任能力をどうするかという問題につながり、すごく難しいと思うんです。

2022年4月17日日曜日

他者性の問題 70 対談の文字起こし 7

S山 普通の神経症の方なら交代人格はいないわけですから、根掘り葉掘り聞く必要もないわけですが、DIDであれば奥の方に隠れている人格に会う必要があるわけです。その影響で症状が起きているという場合があるので。今のシステムでは手一杯なので、表出するように導かなくてはならない人格がいるために、そのためのアセスメントが必要になると思います。要するにケースバイケースですね。
N間 交代人格が日常的に出てくる場合は、治療の中で交代してもらうことはありますが、またAさんに戻った場合に何も覚えていないと、治療が進まないと感じられることがあります。するとこちらの知識は広がっては行くけれど、それだけでは十分でないという事になります。その場合自我状態療法だとBさんに近づくという事があり、先ほどの岡野先生のお話にもあったように、あくまでAさん主体で、AさんからBさんにアプローチをしてもらうという事だと思います。ただAさんがBさんを全く受け入れない場合、Aさんは情報共有をするだけの心の準備が出来ていないと判断して、他の人格とただただ会うという事になるかな。だからAさん主体でやっていますけれど、場合によっては、それではまだろっこしいから、交代させてください、と言う人もいらしたりします。でも基本はAさん中心に会っています。
岡野 Aさんがある程度仕事が出来て、信頼がおけて、色々な能力を備えているという場合は、Aさん中心で話が出来ると思います。しかし全く利害が対立する人格だと、その人と話をしていても治療が進まないな、と思います。
O田 すると総合的に考えて、Aさん中心とするか、それ以外の人格に焦点を当てるかという事をケースバイケースで判断していくという事なのでしょうか。
岡野 そうですね。やはり全体的な利益という事を考えて。
S山 あとですね。私はAさんやBさんと交流することで色んな全体像が見えてくるような面接にしたいんですね。診断の面でもあるいは記憶の面でもその全体像が見えるようにしたいので、その全体像を見るために A さんが主体でなくてもその A さんと僕がその場を作るっていうかね、その場にいろんな情報を提示して二人で考えていく。その場を大事にするんですよ、誰と話すか、ということよりも。Aさんと話していても、こんなことが起きましたね、あんなことも起きましたね、と話すことで全体像が見えてくるような。
岡野 ちょっと先生方にお尋ねしたいのは、結局交代人格はどこから来ているのか、という事ですよね。結局これがわからない。その意味では私は交代人格は「他者」だと思うのですが、河合隼雄先生が 「夢で残酷なXさんが出てくるとき、X は私の中に生きていると言うべきである。私にも残酷なところがあるなぁと考えるのではなく、残酷な人間が生きている、住んでいる、しかもそれは私の支配に屈しない自立性を持っていると考えるべきである」と書いています。河合先生は夢の中で出会う人のことを言っているのですが、これはDIDにも言えると思うのですが。これは精神病理をやっている先生方、どうでしょう?
S山 それは、両方ある、ということじゃないですか。自分であって他者であるという両面性。
N間 私は河合先生はうまい言い方をしているなあと思って聞いていました。先ほどの攻撃的な人格の話では、貴方の中にそういう所があるのかな、というと言いましたが、そう言い方をしないという事ですね。そういうとあなたに残酷なところがあるという事になりますから。その人が傷つくことにもなるし。受け入れられないかも知れないし。その意味で治療的には河合先生の言い方がありかなあ、と思いました。ただ実際にどこから来たのかについては、本当に分からないですね。ある患者さんがどうやら夜中に誰かが出ていて、昼間眠くてしょうがないという話になって、夜出なくてはいけない人格がいたのでしょうか、と話すと、実は昔借金の肩代わりをさせられて、夜中にずっと働いていたことがありますという話が出てきたりします。やはり別人格が何らかの意味でその人の人生に意味があることもあるでしょう。まあ幾つかの人格を調べていくと、それぞれの人格が出てきた時期に、それぞれ外傷体験があるという事がわかったりすることもありました。ただ一方でその本当に岡野先生のおっしゃる黒幕人格というものであったりあるいは子供人格は必ず出てきますよね。もちろん子供の時トラウマ多いというのもあるのですが、必ずみんなに出てくる人格っていうのもあって、そこで河合先生からの連想ですけれども、まあ個人的な無意識と普遍的無意識があるとしたら個人的人格と普遍的人格があるのではないか。何か個別の生活しで同定はできないけれども何か大きな役割を持つような人格というのはありそうな気はします。そのことと岡野先生のおっしゃる「他者」という事とイコールかどうかちょっと分からないですけれど。

2022年4月16日土曜日

他者性の問題 69 対談の文字起こし 6

岡野 一番困るのは、解離が起きているらしいことを主人格さんににおわすと、それだけで来なくなってしまうという場合ですね。場合によっては別人格さんが出て来ている時の声を録音して、聞いてもらうみたいなことももし可能だったらすることがありますけれど、ビデオだったらもっと強烈ですよね。「エーこんなだったんだ!自分でもびっくりした」みたいな反応が聞かれることがあります。
S山 解離性けいれんの人はお母さんが発作中に撮って、それを本人が見てもあまり驚かないですね。でも人格交代だとかなり驚くんでしょうね。
岡野 はい。そしてもう一つのご質問です。「私は臨床心理士ですが、交代人格さんと出会い、どのようにお呼びしたらいいかわからないことがあり、でもその方を尊重するという意味で『~さん』、とお呼びしています。いつか治療の方向性を話すうえで、部分という言葉を使ったのですが、その人格さんが後で出て来て、『部分と言われてしまった!』と不満をおっしゃっていました。」はい。それともう一つ質問が来ました。「DIDとの治療をどのように進めていくかについて、計画を立てる必要があると思います。その際に主人格や交代人格と信頼関係を結び、ある特定の人格との間での継続面接が出来るようにする必要があると思いますがどうでしょうか?」N間先生からいかがでしょう?
N間 ハイ、主人格か交代人格かと意識せずに信頼関係を作るのは大事だろうと思いますよね。主人との信頼関係が出来ると、必ず副人格が出てきます。あのそういう意味ではこの人からまず攻略してみたいなイメージではなくて、まあ全体と会って行こうかなと言う気はしますね。そして私自身もパーツ派だと自分で言いましたけど、あの説明の時だけちょっと使うぐらいで、後は「何々さん」という形をしてますもちろん説明ですかっても怒られるのかもしれませんけれど。それと解離が出ているという事は、多重人格をどうしていくかということよりも、その人の置かれてる状態が非常に不安定という危険にさらされていて、現在かあるいは過去の記憶のせいかもしれないけど不安な状況だということがまずベースにあるので、そういう安心感をどのように持ってもらえるか、という治療環境の問題についてまず第一に考えます。そこからパーツというか、人格を扱って行くみたいなことになっていくんだろうという風な気がしましたのでお伝えしました。
S山 僕は一般的なDIDの治療法はちょっと置いといて、さっきの誰から行くかっていう問題については、N間先生とほぼ同じで、どうせみんなこの会話を聞いてるだろう、という感じで接してるので、どんな人から、というイメージあんまりないですよね。
岡野 そもそもアポイントメントを取って治療に来た方を、私は一応幹事役、という言い方をしていますが、セッションの最初にその人と話したり、終わる時はその人に出てもらうという風にすることも私はあります。私の患者さんで、「私がここに来るのを決めてアポを取ったのに、いつも子供ばかりが出て、私は何も治療の内容を覚えていないんです。私の治療はどうなっているんですか!」と怒られた方がいます。毎回子供が出て来て遊んで終わり、みたいな。
O田先生 あの自分のその臨床の中で交代人格といかに出会うかっていう人のことがちょっと整理しきれてないのでお聞きしたいんですけども、今までの話の中にも出てきてはいるんですけど、そのいかに出会うかという事について、基本的に二つか三つ考え方があると思うんですね。一つはやっぱあくまでも主人格を通してできるだけ主人格を通しての話をしていくんだと。だから臨床家がその交代人格と出会うときも直接働きかけはできるだけしない、そうすることはむしろ治療的にはマイナスなんだから、という考え方です。まあそれはパーツっていう考え方に乗っ取っているのかもしれないけども、いずれにしてもできるだけ主人格を通して、こんなことを聞いてみてくれませんかと、先ほどの岡野先生の話にもそういった質問をなさった方がいらしたと思うのですが、もう一つは、今日の先生方のお話にありますように、治療としてはむしろ交代人格のそれぞれに必要に応じて直接敬意を持っていて出会ってく、それがより治療的なんだって言うそれがもう一つの立場で、今年岡野先生のEMDRでのお話を聞いて私もそう考えるようになっているのですが、交代人格の一人一人に必要に応じて会っていくという立場です。そして三番目は両方がありだよね、あとはケースバイケースでやって行けばいいであろうと。

2022年4月15日金曜日

他者性の問題 68 解離は障害か? に付け足した

 LGBTQ”D”

少し極端かも知れないが、最後に差別の問題について論じよう。解離は「障害」かという問題より比較的難度の低い問題があり、それは解離性障害を有する人はマイノリティか、という問題である。これについては私はある程度明確に「Yes」と言うことが出来る。
 いわゆる社会的少数者と呼ばれる人たちは、少数派であるだけでなく弱者の立場に置かれた人たちである。その集団に属するために彼らは偏見や差別を受けることになる。もちろん精神障害を有する人たちが皆、この社会的弱者に属するかと言えばそうではないし、そこにも程度差がある。そしてそれはその障害を有する人たちだけでなく、それを論じる人達についてもある程度言える気がする。
 私は大きな書店に行くとそこにたいていはある医学書コーナーに足を向ける。大抵精神医学も一定のスペースが設けられるが、私がいつも失望するのは、「解離性障害」を扱った本がいかに少ないか、である。23冊見つけることが出来ればましな方だ。私は恐らく統合失調症と解離性障害は似たような罹患率(およそ人口の1%程度)を示すと思っているが、それにしては統合失調症を扱う書籍は膨大である。「差別ではないか?…・」と私はつい思ってしまうのであるが、これはもちろん通常いう差別とは違うこともわかっている。解離性障害は分かりにくく難しいのだ、と考えることにしている。しかし解離性障害という診断を有する患者さんはやはりかなりの偏見を受けていると感じざるを得ない。
 患者さんが学校や職場でその症状を説明して理解を示してもらうことがとても難しいという話を聞く。自分が時々違う話し方になり、その時は自分ではないのだ、そして自分はそのことを覚えていないことが多いのだ、という説明を聞かされて最初は当惑しない人などいないであろう。しかし一部の人はそれを分かろうとし、そのような前提でその人と関わっていく。しかしある一定の人々はそのことを理解せず、むしろ「そんなことはある筈がない」という、理解することとは逆の方向に向かう可能性がある。患者さんによっては「あの人は多重だから・・・・」という言い方を聞いて気持ちよく思わなかったという事をおっしゃいます。そして思ったそうです。「これは差別ではないか?」
 その時私の中でLGBTという表現が浮かんできた。皆さんはご存じであろうが、Lはレスビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシュアル、Tはトランスジェンダーを指す。性的志向に関わるマイノリティーを広く指す言葉として我が国にも浸透している。私自身はこの表現が好きかどうかはわからない。でも非常によく使われ、決してこれ自体が差別用語ではないことはわかっている。少なくとも今のところは、である。差別と言葉の問題は非常に難しい。言葉はある種のニュワンスを帯びてくる。客観的な記述のために用いる用語がいつの間にか差別用語として扱われてしまう。特に外国由来の言葉は、耳新しいだけでそのようなニュアンスが込められているかわからない。欧米人が差別用語だったらそうだと信じ、それに従うしかない。

ともかくも私はこの瞬間に解離の問題と差別の問題を初めて結びつけたことになる。そしてこの問題はこの最終章のテーマである「解離は障害か?」という問題ともつながっているのだ。セクシュアルマイノリティは「病気」や「障害」ではない。かつては同性愛が精神疾患として扱われた時代があったが、それははるか昔の話である。そして現代の同性愛者は「ゲイは病気ではない!」と主張しているわけではない。そんなことはわかり切っているのだ。しかしその前提に立ったうえで未だに根強い偏見の源は何だろうか?

もちろん答えは一つではないであろう。ただ私は最近よく考えていることがある。それは通常の常識からは理解が難しいことについての私たちの抵抗である。今のこの時代にどうして解離の研究者が少なく、数多くの誤解を持たれているのはなぜだろうか? それは私たちが直感的に理解できない人間の側面に対して尻ごみをし、分かることが出来ない対象に対してそれを排斥しようとするからではないだろうか。それが未知の心の在り方、脳の在り方を表しているのかもしれないのに、私たちの多くはそれを受け入れ、理解しようとすることにしり込みをしてしまうのである。

2022年4月14日木曜日

他者性の問題 67 対談の文字起こし 5

N間 このご質問のような話は、私もよく聞く気がします。ここで答えられないから日記に書いてくる、というような感じですね。秘書さんは「自分はわからない」と言いながらも、その日記を持ってきて一緒に見るわけだから、そのパーツ、あっパーツって言っちゃいますけど、人格同士の交流がそこで生まれるということにもなるので、こういう方法は非常にありだな、というのが私の考えです。ただこのご質問の背後には、本当にこれでいいのか、本当はこの話に出てきている人との会話がその場でできた方がいいのではないかという意味合いもあるのかなと思うんですけど。やっぱり治療の場面では何が出てくるか分からないですし、主人格と言えばいいのかな、そういう人はこの場面ではちょっと隠れてるんですよね。そして違う場面では別の人がとりあえずは出てくるという形を取っていて、まだちょっと色々不安の強い方だと思うのでそこはゆっくりその人と会っていかれたらいいのかなという気がしました。
岡野 ここで先生方に少しご質問ですが、黒幕さんとか暴力的な人格さんがいらっしゃる方がいますが、患者さんから「私にはどうして黒幕さんがいるんですか?」と尋ねられたとしたら、どのようにお答えになりますか。
N間 そうですね。ケースバイケースですが、やはり「何か凄く腹が立つことがあるのかもしれませんね」って言うかもしれないですね。それはパーツと見なしてるということですね。「そういうことないでしょうか?」という聞き方で、つまり「そうだ」と決めつけずに、「どうでしょうか?」という形で質問をする形で返すという…。
岡野 あなたの中に暴力的な人がているという言い方ですね。
N間 そうですね。最後まで否定された方もおられますけどね。
岡野 S山先生、ここで少し意見分かれるんですよね。
S山 そういったちょっと迫害的な攻撃的な人格ですよね。それが出てきた時にどうするかですが、私は「その人はどうして何時頃から出てきたのかな」という話に行くと思います。つまり役割を聞くわけです。出てきた意味が何かあると思うんですね。そうすると、もともとは本人を守るためだとか、本人に対してもしっかりするようにとか、あるいは大体嫌なことがあると自分に押し付けられるとかですね。そういう物語が出てくることがあるので、そういう話に持って行きます。だからその人格の中にある攻撃性っていうのはまあちょっと後回しになるでしょうね。それはあとで繋がることになるかもしれませんが、自分の中に自分自身に対する忸怩たる思いがあるとかね。だから黒幕人格とか迫害的人格のその存在意味や役割っていうものを知りたいですね。
岡野 虐待された方が、虐待している夢を見ることがあるんです。するとそれは虐待者がその人の中に残っていてそれが活動しているという可能性があると思いますが、この点でだいたいS山先生と揉めるんですよね。
S山 いや、それはあるんですよ。外から取り入れるという場合ですよね。攻撃性を持った人と同じコピーみたいな人が出るのは、普通の文化の中では当たり前の事なのです。攻撃的な人に接したら自分が自分を守るために攻撃的存在になるって言うのはよくあることで、別に解離じゃなくったって出るんですね。
岡野 うーんなるほど、ちょっと微妙な差がありますね(笑い)。もう一つご質問です。解離性の人格が起こした行動を主人格が何も知らないという場合の対応をどうしたらいいのか、という事です。
N間 色々な扱い方があると思うのですが、自分はどうしてるか、ですよね。あまりこういう手法で、という風に考えたことはないのですけれども、どんな時に記憶が飛んだのですか、とかそういう事は聞きますかね。何時頃から何時頃まで抜けてますかとか、その時何をしてますか、とかいうようなことを聞きながら、一緒に確認していくようなことをしますでしょうかね。という風なことは思いますが、その実害の程度によっては流して行きますし、すごく大変なら対策は一緒に考えるんですけれど、まあとにかく先ほどの柴山先生と同じかもしれません。そういう交代を知らないで出てきてる人格さんと、何が起きているのかを一緒に探るみたいなことをしていくようなアプローチだと思いますね。
S山 僕の患者さんで、お金がどんどん通帳から勝手におろされて困っていた人がいましたけどね。やりようがないこともありますね。どうやって本人と繋げるのか。今のこの時点で繋げる必要があるのか、どうだろうと困ることはありますが、離れてるのもどこかいいところがあるのかな、と考えたりもします。とにかく繋げないといけないっていう強迫は私の中にはあまり起こらないですね。だってしょうがないもの、全く忘れてるんだから。だから二人で困ったねーと納得しちゃうっていう感じでしょうかね。

2022年4月13日水曜日

他者性の問題 66 対談の文字起こし 4

S山 ぼくは交代人格に会わないという人のものを読んだことがありますが、精神分析系の人なんですね。どうもフロイトに逆らえないというか? どうなんでしょう?
岡野: … 私に向けられた質問という事でいいですか? 私は日本に帰ってきて日本精神分析協会で解離性障害の話をする機会があったんです。そこで面接中に人格が交代することがあるという話をしたところ、当時の精神分析の大御所に、「私は子供の人格が出て来ても相手をしませんよ。あくまで本人と話します。」とサラッと言われました。そしてそれに対して他の先生方も何も言わなかったんです。これは私にはちょっとしたカルチャーショックでしたね。
N間 この件についてなんですが。たとえばAさんとの面接の中で、Bさんが出て来たとします。そして次の診察の時にまたBさんが出て来て、「先生、前回の診察で私が途中から出てきたことを、ちゃんと気付いてくれましたか?」と聞かれたりします。この方のように自分が変わったことを認めてもらいたいかという患者さんはいらっしゃいますね。患者さんの方も治療者をよく見ているところがあります。もちろんそのような質問が出る、という事は半分はわかってくれているという安心感があるんでしょうけどね。ですから私は気が付いたことは患者さんにフィードバックしていくのが大事かな、と思います。やはりスルーはよくありませんね。
S山 なかなか出てこない人格がいることがあるじゃないですか。そうした時には目の前の人に対して、「その人はどんなことを意図していると思いますか?」という風に聞きたくなる私がいます。その場合には目の前の人は媒介者という感じになりますね。
岡野 そうですね。そしてAさんに「でもどういう風にしてBさんに聞いたらいいかわかりません」と言われたら、「じゃあ心の地下室に一緒に行きましょう」という風にします。べつに地下室でなくても、ベッドでもソファーでもビーチでも、リラックスできる場所を決めておくといいと思います。そうしてそこに行って、AさんにBさんへのメッセージを伝えてもらううちに、Bさん自身が出てくるという事があります。
岡野 ここでチャットに質問が来ています。「何かの本で、聴覚と視覚を記録などが別々に活動しているという記載を読んだことがあります。私の患者さんも以前は様々な名前を名乗り、その際には声色なども変わっていたし、性別が変わって性別は変わった時もありましたが、最近はそれがなくなり、問われれば『秘書です』と名乗り、質問にはその場では答えられず、でもメモを取って帰られ、後で日記に返事が書いてあったりします。パーツ間の連携が出来ているようですが、これでいいのでしょうか」、というご質問です。これはパーツというか役割分担ですね。私が最初にお答えしますと、これは私がいつも言うメリハリのある解離だから、いいのではないか、と思います。
S山 部分というよりも役割ですから、あまり困らないというか、経過を見たいという感じですね。どこかが抜けてるっていう感じではないですし、全体が見えていて、その中に部分がある、部分から全体が見えてるという感じがしますね。全体と部分ということではなくて、部分がすなわち全体だった人間が全宇宙だ、というわけですけれど、半分冗談ですからごめんなさい。
岡野 ここら辺は私たちは安永浩先生の世界観がしみ込んでますね。

2022年4月12日火曜日

他者性の問題 65 対談の文字起こし 3

S山:あと交代人格と会わないと、抑えられていた分が体に出るんですよ。ある患者さんがもう手がガチガチに固まっていてちっとも良くならない患者さんがいました。その方に「もう一人の自分と関係してるんでしょ?」とか言うと、どうもそのようだ、と。それで「じゃあ出てきなさい」と言うと出てきたんです。
岡野 最初に「出てきなさい」とおっしゃったときは、勇気が必要ではなかったですか?
S山 いやいや、怖いもの見たさですよ。
岡野 これはS山先生の秘密ですが、研修医時代に患者さんに催眠をして、上の先生に怒られたという事があったんですよね。ここオフレコね。
S山 精神科医になったのも同じことがあってちょっと心の中を覗いてみたいっていうのがあったんですよ。
岡野 もともとそういう素質があったわけですね。
S山 だから人よりあまり心配しないんですよ。何かいいことがあるだろうと思うんですよ。解離の場合も、もちろん色々予測してないといけないけれども、体の症状があった人が、人格さんが出てきたおかげでもう一挙にその症状が取れちゃうんですよ。そういう体験を色々してるので「出てちょうだい、」と。 もちろん色々考えますよ。気楽にやってるわけじゃないんだけれども慎重さはちょっと人より少ないかもしれないですね。
岡野 フロイトとフェレンチの違いという事があって、フロイトは別人格を認めずに、フェレンチは認めたわけですが、フェレンチはもともと遊び心があったんですよ。
S山 それは大事ですよね。でも若い人は僕の言葉の一部だけ取って鵜呑みにしないでくださいね。
岡野 ここでひとつ先生方に質問をさせてください。いつもの患者Aさんと 話していたとしましょう。ところが途中からちょっと口調、声のトーンが変わってきました。あれ?と思います。ちょっと違うな、と。その時にどんな声かけをしますか、それとも特に声かけませんか? 取り合わない人はそのままでしょうが、どうでしょう、今度はS山先生から。
S山 えっ。… 僕なら「きみ誰?」と。(笑い) それによっていろいろな全体像が分かるんですよ。
岡野 でも患者さんによっては「どうしてそんなことをおっしゃるんですか?」と。
S山 言わない、言わない。
岡野 いや、私の患者さんでそうおっしゃった方がいました。N間先生、いかがでしょうか?
N間 私なら、「今もAさんですか?」と尋ねると思います。その時にS山先生も仰ったことですが、S山先生のユーモアとか岡野先生の遊びと言ったことは大事で、そこで真顔で言ったりするとうまく行かないので、「もしかしたら…」とか「こんなことを聞くのはナンですけれど」と言いつつ向こうの反応を見る、こちらの不安を隠さずに聞いてみるのがいいと思います。
S山 N間先生は僕より配慮をなさいますね。僕の場合は突撃型というか。
N間 まあちょっと笑いながら言うとかね。もちろんその時の流れにもよりますし、向こうがめっちゃ怒ってたらあまり聞けませんけれど、それでも「こんなこと言うの変ですけど」っていうのもいいかもしれません。真顔でストレートにどうですかって聞いてイエスかノーか聞くというよりもその反応と言うかねこっちもちょっと不安になったんだけどそれも伝えるしあなたはどう思いますかっていうのはやり取りのきっかけとして。
岡野 M笠先生、お聞きになっていかがですか?
M笠 僕は境界性を念頭に置いているので、「どうしたの?」みたいな、まあ素朴に僕の思った疑問をそのまま言葉に出すかなと思います。

2022年4月11日月曜日

他者性の問題 64 大文字の解離の章

  本章では主として現代の精神分析における解離の問題について論じる。これまで見たように精神分析では Freud がごく初期の頃に解離の概念を棄却したという経緯がある。それ以来精神分析の文献に解離はほとんど現れなかったのである。しかし近年解離性障害に関する議論が精神医学の世界で多くなってきたこともあり、精神分析の世界でも解離が論じられることが多くなってきた。
 私は個人的にはその様な動きはありがたいことであると思う。というよりは精神分析が心についての理論であれば、そこで扱われることのない現象などあってはならないであろう。「精神分析の創始者 Freud は解離について論じていなかったが、やはり扱われるべきである」という姿勢は至極正当なもののように思われる。
 しかしここに一つの問題がある。精神分析で論じられるようになって来ている解離には実に様々なものが含まれてしまっているのだ。その結果として概念上のさらなる混乱が生じることが危惧されるのである。解離という概念と多少なりとも類縁関係にある精神分析の用語にはスキゾイド現象やスプリッティング、抑圧などの防衛機制がある。しかしそれらと解離との類似点や違いなどについての明確な議論はいまだになされていないのだ。ただ精神分析で論じられるようになっている解離には、どうやら一定の傾向があり、それは解離性障害を有する患者さんが示す典型的な、あるいは本格的な解離とは異なるようなのだ。その点を明確に示すのがこの章を書く目的である。そして私が本章で最終的に提唱したいのは、 ”Dissociation” とでも表記すべき解離、すなわち「大文字の解離」という概念である。これは必然的に dissociation、すなわちそれ以外の、いわば「小文字の解離」とでも表現すべきもの、ないしは現在の精神分析で一般的に用いられている解離概念との区分を意図したものである。
 この概念の趣旨は後に詳しく論じるが、その前段階として、Freud をはじめとする精神分析に関わる先人たちの足跡をここでもたどる必要がある。解離をめぐる様々な議論や誤解はやはり精神分析の淵源と深いかかわりがあったのだ。しかしその精神分析理論の流れはいまだに小文字の解離の域を出ないのである。

2022年4月10日日曜日

他者性の問題 63 対談の文字起こし 2

野M先生 私自身はもちろんDID は現実に存在するだろうと思っていたのですが、やはり最初はやはりどちらかと言うと「取り合わない」やり方をしていたと思います。私は1990年に医師になったのですが、当時私の研修した京大病院は、何かあったら入院させるという雰囲気で、ボーダーラインでも過食症でもとにかくよくなるまで、半年一年入院しているケースがあり、病棟はかなりごった返していた感じです。私が民間の医療機関に勤めた後に大学に戻ってきた時も、その状況はまだ続いていて、私が病棟の管理をしていたのでそういう患者さんにいかに退院していただくかということに躍起になったところでしたから、解離の患者さんを入院させるとなると大変なことだなという事情がありました。それもあって私自身が解離を扱うようになっても、解離の部分にはあまり取り合わずに、もとになっている主人格の社会機能を育てましょう、という方向でしたね。しかしそうやっていてもあるケースの行動化が全然治らなかったんです。そのケースは母子家庭だったのですが、お母さんが「私はこの子の色んな人格を認めてあげたい。私はそれぞれがちゃんといるんだということを前提でそれそれに対応するようにします」という風なことを宣言されていて、そういう対応したらちょっと落ち着いて、また色々な話が出来るようになったいうことがありました。それで私はこれはもう私の対応のミスだなぁ、認識違いだなという風なこと思い、その辺りから徐々に子供が出てきたら子供扱いして僕もちょっとだけ子供言葉使ったりしてくだらない話をするとかいうことを始めました。でも私はもともとその様な対応が苦手だったんです。なんとなく医者の顔してやらないと自分が見透かされるような気がしてですね、若い頃は非常に警戒していました。それが自然にやれるようになったのは最近という気がします。今は私は自我状態療法が好きですので自我状態で逆に呼び出していうようなこともやります。
S山先生:私の最初の出会いは、ある患者さんの話にまで遡ります。その方は昔からスパゲッティが嫌いで、特にお父さんのスパゲッティが大嫌いだと言ってたのですが、その方がある日スパゲッティを美味しそうに食べていたのを見て、友達がびっくりしたという報告を聞いたんです。そういう話を聞くと、意図があってそうしているというよりは、本人もそれを聞いてびっくりしているわけです。交代人格は自然なものだな、と思いました。日常の臨床においても僕はだいたい覗き趣味なので、普通に会いたいんですよ。だから攻撃的な人と聞けば聞くほど会いたくなるんです。でもひどく攻撃的な人には会ってないのでよくわからないんですけど。可愛いところを見つけたい、話が通じるところを見つけたい。こちらがぷっと笑うと、向こうも笑うんですよ。話が展開するといろいろな面が見えてきます。岡野先生の話だと部分は見ないという事だけれど、そもそも私は人格っていうのは全体だろうと思うんです。人格として現れる時には全体だろうと思うんですね。部分的人格っていうのはちょっと矛盾するような表現だと思うんです。人格は全体だと。しかしその全体性が部分からやってくるということはあると思うんですね。部分から発展して全体性を獲得していくのが解離の創造力(想像力?)のすごさで、人格まで行ってない部分的体験っていうのは、臨床現場とかでも色々あると思うんですけれど、ちょっと中途半端ですね。

岡野:先生が人格は全体でしょ、とサラッとおっしゃいましたが先生にそのようなお話をしていただいて、安心したんです。でもこの点は後程ちょっと野M先生との論争の為に取っておきたいのですが。

 

 

2022年4月9日土曜日

他者性の問題 その62 治療関係についての書き起こし

 さて最後にでは治療者として備えるべき他者性とは何かについてお話します。クライエントが私たちについての内的イメージを持つことは普通です。それは精神分析で転移と呼ぶものに近いでしょう。そして治療者がクライエントさんたちに対する内的なイメージを持つことも普通であり、それは逆転移と呼ぶものに含まれるでしょう。
 治療者が自分の逆転移を可能な限り理解するという事は精神分析的な治療を行う上でとても大事なことは言うまでもありません。そしてそうすることはクライエントさんを逆転移の外にある人として見ようと努力することであり、これは患者を他者として扱う事です。ある意味ではそれが患者さんを本当の意味で理解することでしょう。しかしここにはジレンマが生じています。なぜなら他者は見えない存在であり、その意味では理解しえない存在です。つまり治療者がクライエントを理解するとは、理解できないことを受け入れるという事になります。
 実は同じことはクライエントの立場についても言えます。クライエントさんは治療者についてのイメージに捉われてはいけません。つまりは転移対象のままではなく、現実の、つかみどころのない治療者の存在をどこかで理解しなくてはなりません。つまりクライエントさんも治療者を他者として扱う必要があります。つまりは治療者とクライエントは相手は理解しえないという事をお互いに認め合うという事ではないでしょうか。それはわかりやすい言い方をすれば、相手にあまり期待しないという事ですが、同時に刮目すべき存在としても扱うという事でしょう。これはウィニコット的に言えば、対象を「用いる」というメンタリティに近づくという事でしょうか? でも治療者は他者性を帯びているからこそ距離を置いて客観的に見守ってくれるというところがありますし、その治療者に支配されることなく自分の人生を歩むことが出来ます。精神分析の世界で治療構造とか治療者の受け身性、匿名性という時、実はこれらは私が苦手な概念ですが、実はこれらの概念は少なくとも治療者の有すべき他者性を担保するための一つの原則ということもできるでしょう。

2022年4月8日金曜日

他者性の問題 その61 なぜ他者性なのか、という部分に少し付け加えた。

 なぜ他者の問題が重要なのか?

ではどうしてこの一般的に論じられることが少ない「他者」についての議論が必要かということについて最後に述べさせていただきます。結論から言えば、それは私たちが生きていくうえで他者を絶対に必要としているからです。私たちは他者から承認されない限りは精神的な意味で生きていけないのです。コフート的な言い方では、私たちは自己対象機能を発揮してくれる現実の他者なしでは生き残ることが出来ません。もちろん生物学的にはそれなしでも生きて行けるかもしれません。でも他者に承認されることのない人生はとても寂しく、自己愛はしぼんでしまい、絶望的な孤独に満ちたものになるでしょう。

このように述べると皆さんは「でも心の中に安定した包容力を持った内的対象像があれば十分ではないか?」とお尋ねになるかもしれません。対象関係論的な見方をすれば、そうなのかもしれません。でも皆さんは「瞼の母」だけで生きていけるでしょうか? おそらくそれではとても満足できないでしょう。もちろん人と関わることが嫌いな方、スキゾイド傾向の強い方は例外かもしれません。しかしいくら世捨て人のような生活を送っていても、現代のスマホ全盛の社会でSNSさえも疎ましく、一切の他者からの交流を断っている人などごくごく一部の例外でしょう。おそらくそれらの世捨て人さんたちも、最初は他者との交流や彼らからの承認を求めていたはずです。しかし思っていたような承認は得られないだけでなく、失望やトラウマを体験した結果として他者を敬遠するようになったのでしょう。そもそも他者は気まぐれで予想がつかず、私たちにトラウマ体験を及ぼす可能性もあります。しかしそれでも私たちは他者との接触や、他者から自分の存在を何らかの形で認めてもらうことなしには生きていけないのです。ただ私たちの多くはそのことを普段は気付いていない可能性はあるでしょう。

2022年4月7日木曜日

他者性の問題 その60 いよいよ対談の文字起こし

昨年暮れのJSSTDでのN間先生、S山先生、M先生との対談を文字起こしし始めた。

岡野 では交代人格といかに出会うか、というテーマでシンポジウムを開催したいと思います。このテーマは柴山先生が私の発表のスライドを見て「これを借りよう」と仰っていただいたので実現しました。精神科医の間ではDIDに取り合わないというのが一般的な傾向だという事ですが、みなさんは取り合っていらっしゃるのか、最初はどうだったのか、という事からお聞きしたいと思います。では、若い順からという事で、M笠先生、いかがでしょうか?

M笠先生 僕は大学院生の時はほんと外来バイトばっかりしていまして、それほど病棟は見てないんですけれど、やはり境界性パーソナリティ障害などは特にそうですが、外来の先生は面倒くさいなって思うと意外とすぐに他に紹介してしまい、自分で診るよりは専門家の先生にお任せしますという方が本当に多いかなと思います。僕自身は解離性同一性障害の方がいらっしゃった時は僕自身治療をどうしたらいいのかという確固たる信念がなく、まあお話は聞いてもあまり介入的にはならないようにしていました。どこかである先生が書かれていたと思うのですが、「交代人格は出て来てほしくない人のところには出てこないみたい」なことを多分書かれていたと思うのですが、多分僕自身が交代人格に会ったのはこれまで二例くらいでして、あまり認められていない人間なのかなという印象は持っています。
岡野 最初はあるのかな、と思ったんですか?
M先生 最初は信じられなかったですが、精神科医になって1年目に勤務した最初の病院が大きな病院だったので、あるカップルがいらして男性の方がこの半年間記憶ないと訴えられたのです。そこで詳しく話を聞いてみると、本当にこの半年間その彼女が知ってる元々の彼はいなかったらしいのです。でもその半年間の彼は何気にしっかりしてるというお話でした。多分精神科医になって一年目の終わりくらいでしたが、そういうケースがあるんだなという事を実感として持ってはいました。僕もこう解離性障害や離人症の勉強をしっかりしたことがなかったんです。この半年ぐらいでやっとEMDRもここ最近知ったくらいのレベルなので、何とも言えないんですけど、ただ僕は境界性パーソナリティ障害と結構似たような対応をしていたかなという印象あります。つまり慢性心的外傷の文脈で接することが多いかなと思います。

2022年4月6日水曜日

他者性の問題 その59 DIDの責任能力について ちょっと推敲した

 現実の裁判において起きること

 さてここからは私自身の体験を交えながら論じることになる。私はこれまで10例程度の解離性障害を有する被告に関する裁判に関わり、出廷し、証言をしてきた。それに先立ち被告者と拘置所で鑑定医の立場で何度も面会し、かなりの時間を報告書の作成に費やした。もちろん私はその多くを公にすることが出来ない。医師は守秘義務を担う。「医師・患者関係において知りえた患者に関する秘密をほかに漏洩してはならない」のであり、それには私が鑑定医としてかかわったケースも該当するのだ。ただし司法プロセスはまた可能な限り公開されるべきものである。法廷は原則公開され、それが世間の注目を浴びる事件であったケースはかなり詳しく報道されている。私自身が関わったケースですでにジャーナリストにより文章化され刊行されたものもある。それを私が「引用」することには何ら法的制限はないことになる。以下の内容を私は守秘義務の問題に注意を払いながら執筆することになるために、かなり一般論的な記述になることをお断りしたい。

 私が本章で主張したい内容の要旨を述べるならば、それは「司法の場では、解離性障害はまだまだ正しく理解されたり、認められたりしていない」ということだ。そして上述のプロトタイプに対する判決にはあるパターンが存在し、それは解離性障害、特にDIDに対する理解の不十分さを反映していると考えざるを得ないのである。
 ここで上記のプロトタイプに該当する、すなわち大部分のDIDを有する被告人の置かれる状況にあるAさんの話に戻ろう。Aさんは万引きを働き、その件で店から訴えられたとする。(万引き程度で裁判は起こさないだろう、と言われそうだが、実際に起訴されて裁判が成立したとしよう。)まず検事側は、Aさんを通常の法律の運用に従って罪が問われるべきであると主張する傾向にある。それに対して弁護人側は、Aさんの有する精神障害(すなわちDID)を考慮したうえでAさんは減刑されるべきだったりは無罪であると主張することになるだろう。すなわちこの裁判はDIDが違法行為に与える影響をめぐって最初から対立する運命にある。そして次に何が起きるかと言えば、検事側も弁護側も、自分たちの主張に根拠を与えるためにそれぞれ別々の精神科医に依頼してAさんを診察し、それに基づく意見書や鑑定書を提出してもらい、そのどちらに信憑性があるかが裁判で争われることになる。これが通常の裁判のプロセスである。
 私自身は精神科医の証人として何度もこのような状況に身を置いているのでこのプロセスについては特に疑問だとは思わないが、読者の方は不思議に思われるかもしれない。それを代弁するならば「精神科医は医学者であり、目の前の患者を客観的に診察することが出来るのに、真っ向から対立するような意見の違いはどうして生まれるのだろうか?」となるだろうか。

2022年4月5日火曜日

他者について その58 責任能力のところの一部書き直し

 本章では司法の領域においてDID(解離性同一性障害)がどのように議論され、DIDを有する方々がどのように処遇されてきたかについて論じたい。
 私はこれまでこの問題にほとんど言及してこなかった。ただDIDを持つ原告の方の鑑定、ないしは意見書の作成に携わったことは何度もあり、司法の目を通してDIDの問題を考える機会をかなり多く持ってきた。そしてDIDの方が自分の行動にどれだけの責任を取るべきかという問題は、本書のテーマである交代人格と他者性という問題にとって極めて重要な意味を持つことを、私は最近になり自覚するようになった。DIDを有する人が交代人格の状態である違法行為を行った場合、その人は通常の犯罪行為を犯した人と同様に扱われるべきだろうか? それとも罪を問われるべきでないのか? この問題はDIDにおいていわゆる「責任能力」の問題をどう考えるか、という事に尽きるのである。

責任能力とは何か?

ここで本格的な議論に入る前に、責任能力という問題について簡単に触れたい。この概念ないしはタームは本章でこれから何度も出てくるからである。ただしこの用語はあくまでも法律用語であり、精神医学の用語ではない。しかも刑法ではその説明をしていないのである。それにもかかわらずDIDの法的責任などについて考える際に極めて重要なのだ。当事者が責任能力を有するかどうかによって、収監されるか、執行猶予つきになるか、無罪になるかが大きく変わってくるのである。

ちなみに少し間違えやすいのは、被告人が責任能力を有するという事は、その人がより重い罪を着せられるという事を意味するという点だ。ある能力を持つということが、自分自身にとって不利に働くという事情は慣れないとなかなかピンと来ないだろう。
 さて刑法が責任能力について定義していない以上、その事実上の定義としては最高裁の判例がしばしば引用されることになる。それによれば心神喪失とは、「①精神の障害により、②弁識能力または制御能力を欠いている状態」とされている。

2022年4月4日月曜日

他者について その57 対象関係論の話に繋げるところ

  臨床心理学というとやはりその大きな源流は精神分析でしょうし、アーロン・ベック は言うまでもなく、行動療法、来談者中心療法などのあらゆる流れが精神分析に多くの影響を受けています。その精神分析理論の中でも比較的多くの学派に支持され、いわば精神分析のスタンダードの理論と言えるのが、対象関係論です。
 その対象関係論における「対象」という概念についてですが、これは一般的に他人、他者を指しています。しかしそれは結局は「心の中の他者イメージ」のことなのです。それを精神分析では「対象」という言い方をしているのです。(この「対象」という言葉は何か「モノ」的なニュアンスがありますし、英語でのobject もそのような意味を持ちます。そしてそれはリビドー論から始まったフロイトの理論が、そのリビドー、すなわち欲動の向かう目的 object となる人という意味で用いたのが始まりなのです。
 ともかくも対象関係論で他者に近い概念が対象なのですが、これは他者について心の中に抱いているイメージということです。実際の母親ではなくて、「瞼の母」という事です。たとえばAさんという他者のことを考えるとすると、私達はAさんのことを分かったつもりになっていても、それは私たちが心の中で描いているAさん像、イメージであって、現実の他者としてのAさんではないわけです。というか、厳密に言えば、Aさんのことを知っている、と思った時点ですでに、現実の他者ではなくて内的対象になっているわけです。

2022年4月3日日曜日

他者性について その56 そもそも他者性とは? 書き起こし

 そこでこの講演でのテーマになっている他者とはそもそも何なのか、という事にいったん話を戻したいと思います。他者についてここまで話を進めてから、その定義に戻るのは順番が逆と思われるかもしれません。しかしここまでのお話は他者という概念の面白さを強調したいためにまずお伝えしたかったことです。
 他者とは、「自分でないもの」という事でしか定義できないものです。自分という体験は、おそらくそれとは自覚されずに自然と持たれるものです。生まれたての赤ちゃんはまだカオスの中にあり、ただ何かを感じ、あるものは苦痛で、あるものは心地よいというくらいの区別しかできないでしょう。それが内と外のどこから由来するのかまだはわかりません。しかし生命体である以上、何が自分由来で何がそれ以外のものかについては、かなり早くから区別をつけることを迫られます。自分の体を傷つけるわけにいきません。そのために、自分の腕が何かを打ち付けた場合に痛みとして体験されることになります。それによりその腕やそれを動かす行動が自分由来であることを教えてくれます。するとそれ以外は他者、という事になります。あるいは空腹を感じても、それを自分一人で解決することは出来ず、母乳として外側の存在(母親)から提供されなくてはならないことを知ります。
 この様に自他の区別は生命体において決定的に重要です。それは自分の生存を守るためにも、また自分以外の何物かに接近されたり侵入されたりした場合にそれを外敵と見なして警戒したり撃退するという必要性からも重要です。そしてその区別を、自分由来のものにいわばタグ付けをすることで他者と区別しています。そしてこのタグ付けは意図的な作業としてではなく、身体レベルで、あるいは神経レベルでなされていくものでもあります。
 例えば私が今自分の手で自分の肩をポンポンたたいても、それに驚くことはありません。それは私たちの小脳が、常に予測をして、自分から起こした行動なら、肩に「これから触られる感触が起きるよ」、そして手に「これから肩を触る感触が伝わってくるよ」という信号を送っています。だからこれが自作自演だとわかるのです。そうでないと私がこうやって話している途中で急にポンポンと肩を叩かれると、「ええッ?」と驚くでしょう。
 同様のことは免疫学についても言え、私たちは異物に対しては抗原抗体反応を起こしますが、自分の体の組織に対してはそれを異物として攻撃することはありません。しかしそれは決して自然にそうなっているわけではなく、複雑な免疫機構が働き、自分の体を異物として反応するようなリンパ球を片っ端から殺すことでやっと成立しているようなものです。これがいわゆる「免疫学的寛容性」と呼ばれる仕組みです。

このように身体も、私達の認知も、自と他をものすごく区別しているわけです。これがごっちゃになってしまっては生きていけません。でも日常生活ではこの他者というものを意識することはあまりないのです。というのも他者というのは心理学の対象になりにくいのです。次にそのことについてお話します。

2022年4月2日土曜日

他者性について その55 離断脳と二重人格について

左右の脳は他者どうしである
 そしてひょっとすると左右の脳は他者同志である可能性があるというお話をここで私が持ち出すと、皆さんは混乱するかもしれませんが、これも事実なのです。いわば私たちはみな二重人格であるという可能性があるのです。皆さんは離断脳の実験というのを御存じでしょうか? 実験的に左右の脳を切り離された人は、左脳と右脳で別々のことをしてしまうという事があります。右手でボタンをはめようとして、左手で外そうとするといった行動を見せることになります。あるいは人の首を右手で絞めて、左手でそれを外そうとするという事が起きます。
 この図は大脳を左右に押し広げて脳梁という部分を露出したものです。私達の脳は左右一対で出来ており、左脳と右脳はほぼ対称をなしています。そしてその間を三億本ともいわれる神経線維、いわば信号を行き来させるケーブルが通っています。それが脳梁です。
 この部分が脳梗塞や脳出血などで破壊されると、左右脳の情報の交換が出来なくなり、左右の脳はいわばバラバラに動き出す可能性があります。そして一部の患者さんに診られるのがいわゆる「他人の手症候群 alien hand syndrome」 と呼ばれる状態です。これは比較的希な症状であるが、一つの手が自分の意志に逆らって勝手に動き出すという症状を示します。一般的には拮抗失行と呼ばれ、右手が随意的、意図的な行動を行おうとすると、左手がそれに関係ない、あるいは拮抗する動きを見せるのです。
(現代精神医学事典 加藤敏、神庭重信その他編 弘文堂 2016年)
この分離脳の状態は難治性の癲癇の治療のための外科手術により結果的に生じることもあります。ただしこの脳梁の部分に麻酔薬を注入することで、この離断脳状態を一時的に人工的に作ることが出来ます。そして同様の症状をいわば実験的に再現することが出来ます。
 これはちょうどDIDの患者さんにもみられる可能性のある行動ですが、これほど右脳と左脳は異なった意思を持つにもかかわらず、私たちは普通矛盾した心を一つの統一体として経験しています。だから一方で相手に愛想笑いを浮かべて、他方では憎しみの感情を味わうというアンビバレントな体験を受け入れるのです。それは私たちは自分の中で起きたことは、自分のものであるというタグをつけることで外来のものと区別するからです。

2022年4月1日金曜日

他者性について その54 退官講演の書き起こし 夢で出会う他者

夢に出てくる私は他者ではないのか?

私は解離性障害でなくても、私達はさまざまな他者と心の中で出会っていると考えています。私は毎朝起きた後に、ちょうど見ていた夢での不思議な体験を興味深く反芻することが多いのですが、夢に出てくる私は私ではないのではないか、と思うことが最近ではよくあるのです。夢の中のシーンには私の昔の体験が断片的に出てくることはありますが、どれ一つとして昔の実際の出来事の単なる回想ではありません。夢で出会う人は昔のクラスメートなどのイメージを借りてはいますが、新たな、あるいはまったく異なった外見やふるまいを同時に見せます。ところがそれを見ている私は「あいつらしいな」などと思っているのです。また夢の中で私はある予感や確信を持って行動していることがよくあります。たとえば「ここに自分の住み慣れた大学の寮がある、ということは大学のキャンパスは東に数百メートル行ったところにあるはずだ」などと夢の中で考えているのですが、実際に大学の寮で生活をしたこともなく、また大学の寮の数百メートル西に大学が存在したという記憶もありません。ところが夢の中の私はそれらのことを前提として行動し、考えているのです。なぜそのようなことが起きるのかを考えているうちに、私は実はその様な記憶を持った別人であると思うようになったのです。

つまり私が夢で出会う人々は他者であり、夢の中の自分も私にとって他者ではないかという事をここでは述べていることになります。そしてその他者としての私は現実の私に影響を与えています。たとえば夢の中で私は気持ちよく空を飛ぶ体験を時々持ちますが、もちろん実際にそのような体験を持ったことがありません。でも私は夢のおかげで空を飛ぶ実感を思い出すことが出来ます。空を飛ぶという感覚は、私が夢の中で他者である私から教えてもらっているわけです。

私が夢で出会う他者のことについて考えるようになったきっかけはDIDの方の体験と少し似ています。ある時患者さんが私に夢を報告してくれました。その方はDIDではありませんが、やはり幼少時から親に虐待されるという体験を多く持っていました。ところがその患者さんは夢の中で、時々自分が人を殴る立場に代わっていて、しかもそれに快感を覚えていたというのです。その方は非常に落ち込んで私に尋ねたのです。「これも私でしょうか? 私も人を殴ってうれしいと思うかもしれないのでしょうか?」それに対して私は次のように言ったのです。「夢の中で出会う誰かは、本当は正体がわからないのです。あなたであると考える根拠はないのです。」

つまり、ここで私がお話しているのは、解離状態でなくても私たちは自分たちの心の中で他者と遭遇しているということです。
 ここでこの他者の問題はとても臨床的に重要であるということがわかるでしょう。DIDを有していなくても、私たちは夢の中で他者に出会っているでしょう。それはそこで出会う自分という他者をどのように扱うか、ということです。もしその他者が攻撃的であったり、加害的であったりする場合、私たちはそれを「それもあなたの一部です」という解釈を与えるでしょうか? ここで先ほどのDIDAさんの別人格Bさんについての議論と同じことが言えるのです。というのも夢の内容はしばしば外傷的な出来事のフラッシュバックの形を取り、私たちはそこで攻撃者に成り代わった自分に出会う事すらあるからです。