このPDIDについては中山書店の「講座精神疾患の臨床」の第4巻の解離の部分に、私の担当した文章として掲載されています。然しほぼICD-11の文章に従ってまとめたものです。
つまり人格Aは人格Bの侵入を受けるという現象はDIDを有する方にとってはむしろ日常的にみられることなのです。
これまで事典、ハンドブック、叢書の類に書いたものを纏める必要が生じた。
私は最近あるDIDの女性の患者さんから聞いた言葉が忘れられません。その方は自分がいくつかの人格があるという事を母親には絶対知られたくないというのです。「どうしてですか?」と聞くと、「そうすることで母親が私のことを分かったつもりになって欲しくない。それだけは絶対嫌だ。」というのです。つまりこの方にとって母親は自分をむしろ見てほしくない、分かって欲しくない、わかられてたまるか、という存在になるわけです。相手がバイアスを持って自分のことを知るとしたら、それはさらなる誤解につながるのだ、というパラドックスがここにあります。
私はこの方の言葉はとても私が追体験できないほどに深いと思います。ただ私なりに同じような体験を持っているので、ある程度はこの話が理解できたと思っています。私は少年の頃は作文や日記などの文章を書いては母親に見てもらっていました。母親はふつう大きな丸を付けてくれました。それで私は書くという作業の楽しさを知ったというところがあります。しかし思春期を通過するあたりから、母親の目に晒されるのがこの上なく不快になったことを覚えています。私はこの「なぜ母親に知られたくないか?」という問題について、自分自身の体験と照らし合わせながら色々考えました。この3か月間で一番考え続けたテーマかも知れません。そして一応一つの結論に達しました。それは母親は結局は私にとっては決して他者にはなれないからだという事です。そしてまた母親にとっても私は決して他者になれないというわけです。そのことについて以下に説明しましょう。
私にとっての母親は、私に対して「うちの息子はこうあるべきだ」という強烈なイメージを持ち続け、私に過剰な期待をかけていた人でした。私はある意味では母親を満足することにエネルギーを使う人生を送って来たのです。また母親は私がまだ小さく無力だった時に私をさんざん支配してきた人でもあります。つまり私にとっての母親は支配する人、期待する人、すぐイライラする人というイメージをまとっていて、決して他者になれないのです。もちろんそれは手が付けられないほど私の側からの意味付けや思い込みによりこてこてに塗られた内的対象像になっているわけです。でもそれを取り去って他者としての母親を眺めることは決してできないでしょう。それは生まれてから長い年月をかけて私の中で育っていったものだからです。
なぜ他者の問題が重要なのか?
ではどうしてこの一般的に論じられることが少ない「他者」についての議論が必要かということについて最後に述べさせていただきます。結論から言えば、それは私たちが生きていくうえで他者を絶対に必要としているからです。というのも私たちは他者から承認されないと、精神的な意味で生きていけないのです。コフート的な言い方では、私たちは自己対象機能を発揮してくれる他者なしでは生き残ることが出来ません。もちろん生物学的にはそれなしでも生きて行けるかもしれません。でも他者に承認されることのない人生はとても寂しく、絶望的な孤独に満ちたものになるでしょう。
このように述べると皆さんは「でも心の中の、安定した包容力を持った内的対象像があれば十分ではないか?」とお尋ねになるかもしれません。対象関係論的な見方をすれば、そうなのかもしれません。でも皆さんは瞼の母だけで生きていけるでしょうか? おそらくそれではとても満足できないでしょう。もちろん人と関わることが嫌いな方、スキゾイド傾向の強い方は例外かもしれません。しかしいくら世捨て人のような生活を送っていても、現代のスマホ全盛の社会でSNSさえも疎ましく、一切の他者からの交流を断っている人などごくごく一部の例外でしょう。結局私たちは他者との接触や、他者から自分の存在を何らかの形で認めてもらうことなしには生きていけないのです。ただし私たちの多くはそのことを普段は気付いていない可能性はあるでしょう。
生物としての私たちが他者を必要としているという事は、定型的な発達を遂げている子供を見ればわかります。幼少時には母親という他者に見られ、その存在を肯定されることは、子供が自己を形成するうえで決定的な役割を果たすのです。それは愛着の形成に繋がり、その人の心の基礎部分を作り上げると言っていいでしょう。母親の心に映る自分の姿を感じることで私たちは自分が誰かを知ることになります。このことはジャック・ラカンの鏡像段階の議論に通じるでしょう。
さてこのように述べると、私たちは精神的な成熟に至るためには他者として母親だけを必要としていることになるのではないでしょうか? ところがそうではないことは皆さんが一番よくご存じでしょう。私たちの多くは成長するにつれて、母親の目を逆に疎ましく思うようになるからです。あれほどいつも見てほしかった母親を遠ざけたくなります。そして私たちが本当に存在を認めて欲しいと思う人は、明らかに母親以外の存在に移っていくわけです。友達とか、先生とか、恋人とかになるわけです。
人格同士の混線状態
ところで人格さん同士がしばしば体験する「混線状態」についてここで考えたいと思います。この混線状態は人格AとBはお互いに他者であるという事実を認める上での最大の障害になっているのではないかと思います。結論から言えば、人格AとBは他者同志であるがゆえに混線することがある、と考えるべきであり、これはそれぞれの他者性を否定する根拠にはならないのです。
DIDの患者さんは時々「今AなのかBなのかわかりません」あるいは「今自分が誰だかわかりません」と仰ることがあります。この現象は実際には、ちょうどラジオのダイヤルを回すと二つの放送局の放送が混じって聞こえることがあるのと同様に、異なるAとBという主観が混線することはしばしば起きるのです。それは結局は複数のネットワークが共通する運動野、感覚野、あるいは前頭前野を競い合って使うより仕方がありません。すると「今あなたはどなたですか?」と尋ねると「今私はAかBかわかりません。混じってしまっています」と困惑する方がいます。しかしそれは本来AとBが別々の主観であることから起きる現象です。この複数のネットワークによる脳の共有は、例えば前頭前野のワークスペース、つまりワーキングメモリーをためておく部分ですが、これさえも共有される可能性があり、ややこしくなります。
私のある患者さんはAとBの人格が常に掛け合いをしている方がいます。その方に無理を言ってお願いしたのです。Aさんに7桁の数字を暗唱してもらいました。3719406 Bさんにも別の7桁、1359879 二人がワークスペースを半分ずつ使うのであれば、丁度テーブルを半分ずつ使うようにしてそこにメモすることが出来るでしょう。でもAさんとBさんは別々に7桁を記憶することはできませんでした。
この様な形でAさんとBさんは時には運転席のハンドルを奪うようなことが生じるために、AさんのままでBさんの行動をしたり、その逆をしたりという事が生じます。するとそれを見た臨床家はホラね、やはり演技だ、という事になってしまうのです。
実はフロイト自身もおそらくアンナOなどに見られた不思議な現象が忘れられず、次のように言っています。
ともかく私がここで言おうとしているのは、解離性障害とは自分の脳の中にいくつかの他者が成立している状態であるという事です。そしてそれは統合失調症における他者性の病理とはかなり異なります。統合失調により聞こえてくる幻聴は、それにより自己が侵食されるような状態、いわゆる深刻な自我障害に伴って二次的に現れてくる他者からのメッセージです。その他者は障害された自我が生んだ幻の存在としての他者です。それは超越的な存在であり、実際の姿を見せません。街を歩いていて自分に鋭い視線を浴びせてくる男は、自分をつけ狙う大きな組織の一味にすぎません。
ところが解離性障害においては他者は別の主体として、おそらく異なる神経ネットワークを伴ってすぐ隣にいます。そしてそれぞれの神経ネットワークは触覚、視覚、運動野、感覚野などを含みこんだネットワークであり、それぞれの人格が運動が得意だったり音痴だったり、好むタバコの銘柄が異なったり、酒好きだったり下戸だったりするのです。
ともかく私がここで言おうとしているのは、解離性障害とは自分の脳の中にいくつかの他者が成立している状態であるという事です。そしてそれは統合失調症における他者性の病理とはかなり異なります。統合失調により聞こえてくる幻聴は、それにより自己が侵食されるような状態、いわゆる深刻な自我障害に伴って二次的に現れてくる他者からのメッセージです。それは超越的であり、実際の姿を見せません。その他者は障害された自我が生んだ幻の存在としての他者です。ところが解離性障害においては他者は別の主体として、おそらく異なる神経ネットワークを伴って成立しています。そしてそれぞれの神経ネットワークは触覚、視覚、運動野、感覚野などを含みこんだネットワークであり、それぞれの人格が運動が得意だったり音痴だったり、好むタバコの銘柄が異なったり、酒好きだったり下戸だったりするのです。
ちなみに私はどうしてDIDが一世紀以上にわたって誤解され続けて来たかについて、この各人格が相互に他者であるという事の理解が難しいからだと思います。もちろん精神医学がこの100年間進歩していないというわけではありません。しかし多重人格の存在に精神医学者の注意が向けられるようになって長い年月が経っても、精神科医の一部はそれぞれの人間には心が一つしかないという考えを捨てられないことに変わりはないのです。もちろん自分が一つの心を持つというのは確かなことです。しかしもう一つ、あるいはそれ以上の心を持った別の主観が同じ脳に存在するという事を受け入れることが難しいのです。精神分析の世界でもS.Freudは以来その伝統がありました。しかしフロイトと同時代人のS.Ferencziはすでに1930年代、すなわち90年前に、解離において子供は子供なのだ、と述べたわけです。すなわちこの多重心の考えを受け入れる人はすでにいたのです。しかしその声は尊重されることなく、心は一つであるという伝統を引き継いでいるという事になります(この事情については詳しくは○○章で論じることにします)。
ちなみにこの多重人格の存在を信じない、という精神科医の存在は、例えるならば地動説が一般的に理解されてからも、「太陽の周りを地球が回っているなんて、そんなことはあり得ない!」という人が一定の割合で存在するようなものです。これほど奇妙なことはあるだろうか、とお考えでしょう。しかし心の問題になると、人はいつの時代にもこの種の極論を信じる傾向にあります。「うつ病という存在を私は信じていません。それは結局はその人の持っている甘えなのです」という人は結構いらっしゃるのです。
でもDIDの患者さんに出会った精神科医や心理士さんが同じような反応をするかと言えばそうではありません。
この問題については第○○章で詳しく論じていますが、そこでは通常のAさんではなく交代人格Bさんが登場した時の臨床家の反応を次の4つに分けています。
しかしつい最近私があるクライエントさんから聞いた話は、3.のバリエーションともいえるものでした。その方は一時的に入院治療が必要だったのですが、入院先の担当の先生に、次のように言われたそうです。
「私は解離性障害の経験は十分ありますが、私の方針では、交代人格の方を、あくまでその患者さん当人として扱うことになります。」
つまりBさんはスルーされるどころか、その存在をきっぱり否定されてしまったわけです。もちろん患者さんによって随分事情は異なるでしょうが、この一言はその患者さんを精神的に打ちのめすに匹敵するような力を持っている可能性があります。百歩譲ってもこの言葉はBさんにとっては、そしておそらくAさんにとっても全然共感的でないと思います。私がこのことをなぜ強調するかと言えば、Bの人格さんで表れて「あなたはあくまでもAさんですよ」という言葉を掛けられて「この先生に分かってもらえた」と感じる解離の患者さんはほぼ皆無だろうからです。大抵は失望や怒りを感じるでしょうし、これまでほかの先生から言われてきたことをここでも繰り返されただけだ、もう私は二度と出てこないようにしよう、と思うのが普通の反応でしょう。あるいはせいぜいその臨床家の言葉をこちらの方からスルーするかでしょう。
もちろんその臨床家が「私はDIDを信じないから、BさんをあくまでもAさんとして扱おう」と思っているとしたら、それもその臨床家の考えだから自由でしょう。しかしそれを実際のBさんに伝えることは別です。というのもDIDにおいては別人格さんが自分は主人格Aとは異なる存在である、と体験しているということは、DIDという状態の本質であるとすらいえるからです。もしBが、私はAの一部だと感じるとしたら、おそらくBさんが自分の存在を見誤っているか、Aさんと混線状態にあるかです。(この人格の間の混線状態とは、臨床上しばしば聞かれることであり、患者さんは自分がAさんの状態かBさんの状態かわからなくなることです。これが起きることで解離の臨床は複雑になっていくわけですが、それを聞いた治療者が「ホラね、やはり人格が分かれているという事はあり得ないんだ」と思うようになってしまう可能性があり、それが厄介なところです。
あれから色々 like とwant の違いについて調べているが、けっこうそれに関する論考も多いらしい。ある英文の記事にはこんなことが書いてある。Want とは予言であるという。これを得たら気持ちいいな、という考えだ。それに比べてlike は気持ちいいな、という体験そのものであるという。たしかに。Want は結局未来形である。それは思考に基づく。それに比べてLike は直接の体験のことだ。問題は私たちはlike ではないものを間違ってwant することがあり、それが不幸の始まりだという。そしてそれを miswanting というそうだ!!!
だがこの議論はまだ今ひとつわかっていない。私が知りたいのは次のことだ。嗜癖がなぜ不幸かと言えば、それが楽しみを奪ってしまうからだ。Want が like を凌駕した状態と言えるだろう。そして want とlike の議論は単純に、それぞれが別々に体験され、脳でも別々の部分がそれらをつかさどっているというのだ。しかしそれは本当だろうか? 例えばタバコを止められない人の場合、おいしくて吸っているわけではない、つまりタバコを好き like ではないけれど吸いたくなる want
というわけだ。しかし今ひとつわからないのは、本当にタバコをまずく感じながら吸っているのか、という事だ。少なくとも会議か何かで喫煙をずっと我慢していてようやく一服した時は、全然キモチよくはないというのはあり得ないのではないか。私がもう一つわからないのは、この like と want の違いはネズミでも同じであるというところだ。気持ちいい時の表情はネズミも人間も似ているので、それにより測るという。すると嗜癖物質を与えられたときのネズミは嬉しそうな表情をしていない、というのだ。しかしタバコを吸いたくて耐え忍んでいた人はタバコを一服することにより少なくともその険しい表情は緩むのではないか。それは例えば何か美味しいものを味わって思わず笑みが浮かぶときの表情かも知れないが、少なくともそれまで緊張していた表情筋を弛緩させるだろう。それは like とは違うものなのか?
ここで私の考え。Want は craving 渇望と関係しているだろう。そして渇望が言える体験は、いわば不快の除去の体験であり、それは like とは違うものの、やはりポジティブな感情として分類されるのではないか。それを一応「解放
relief」 としよう。
一つ言えることは、私達は「解放」を趣味になどしないことだ。という事はやはりこれは人が積極的に作り出して体験したいものではないという事だ。さもなければ人はその種のパーティを企てるはずである。例えば息を我慢した後に吸い込むのは relief である。しかしその心地よさを味わいたいがために息を止めることを趣味にしている人などいるのだろうか?(夏に職場の帰りにビアホールで楽しいひと時を過ごすのは、ちょっとだけそれに相当するのかもしれないが。)
本日は私が京都大学の退官に際して「臨床における他者との出会いについて」というテーマでお話します。ただし私の中ではこの講演の内容は、私が今年の秋に上梓するよう計画している「解離性障害における他者の問題(仮題)」の一つの章として位置づけられることになっています。
この他者性というテーマは実は私が最近よく考えているテーマですが、発端は解離性障害における他者性という問題でした。そこでまず「解離における他者」という事についてお話したいと思います。それから私たちの一般臨床における他者の問題というテーマに広げていきたいと思います。ただしこの最初の部分は、本書の「最初の章」である「他者としての交代人格と出会う事」で述べたことに一部重複しますので、その問題はごく簡単に繰り返すだけにしたいと思います。
私のもとにはいわゆる解離性障害、その中でもDID(解離性同一性障害)の方が多くいらっしゃいます。ある患者さんAさんのことを思い浮かべましょう。普通は面接室にAさんとしていらっしゃいますが、ある時にBさんでいらっしゃるとします。つまりAさんは主人格で、Bさんは副人格ないしは交代人格という事になります。
ところでよく誤解されるのは、主人格Aさんとは、自分を戸籍名、つまり本名で名乗る人だという考え方です。親からAという名前を貰ったその人は、もちろん小さい頃からAちゃんと呼ばれ、「自分はAである」というアイデンティティの感覚を最初は持つかもしれません。しかし小さい頃にトラウマを体験してAさんという人格がそのままではいられずに、いわば冬眠してしまい、その代わりαという人格が出現して、Aさんの身代わりになって、Aさんとして暮らしているかもしれません。すると主人格はαさんという事になります。しかしここでは話が複雑にならないように、戸籍名AさんをアイデンティティとするAさんが主人格であると仮定しましょう。
つまりその反応は1,2の二つに分けられます。
1はBさんをあくまでもAさんとして扱う場合、そして2はBさんをBさんそのものとして扱う場合があるという事です。
ところで部分 parts という言い方と同様に、あるいはより深刻に感じるのが断片 fragments という言い方である。これも解離関係の本でよく見かける。
1963年にはH.Spiegel
(David のお父さん)が解離のことを「断片化の過程 fragmentation process 」と呼んでいる。これが最初だろうか?
Spiegel,H (1963)the
dissociation-association continuum. Journal of Nervous and Mental Disease,
13,374-378.
その他、解離関係の本には自己の断片化 fragmentation of self という言い方はそれこそ山ほど出てくる。Identify fragmentation などの表現もそうだ。この断片化は、記憶の断片化 fragmentation of memories とかアイデンティティの感覚の断片化 fragmentation of the sense of
identity という風に妥当に使われることもあるのであまり目くじらを立てるべきではないかも知れないが、これが人格を断片とみるという意味に使われると、先ほど述べた「人格部分」という表現の持つべき問題にもつながる。
Kluft RP (1984). An
introduction to multiple personality disorder. Psychiatric Annals, 14:19- 24.
ほとんどのMPDの患者はこの定義に見合うような交代人格や「人格断片」を有するが、この後者は立派な full-fledged 交代人格に似ているものの、人格としての幅や深さがなく、情動や行動や成育歴の幅もとても限られている(Kluft, 1984)。人格断片は典型的には怒りや喜びなどの単一の情動や、車の運転や体の防護などの単一の機能を遂行する。Braunは「特別な目的の断片」として、単一の極めて専門化された活動、例えばバスタブを奇麗にする活動のみに特化されたものを挙げている。
Most MPD patients have some alter personalities who would meet this
definition, as well as a number of "personality fragments" who are
similar to full-fledged alter personalities except that they lack the depth and
breadth of a personality and have only a very limited range of affects,
behaviors, and life history (Kluft, 1984c). A personality fragment typically exhibits a single
affect, such as anger or joy, or performs a single function, such as driving
the car or protecting the body. Braun adds the further distinction of "a
special-purpose fragment" that may only engage in a single, highly
specified activity, such as cleaning the bathtub (Kluft, 1984c).
転換性障害の症状として私が日常接するもの中には、その症状が日常生活に影響を与えるようなものもある。その意味で比較的よく目にするのは、失立や歩行困難である。しかしそれは歩行に大きく関係する大腿四頭筋が特に転換症状に関与しているというわけではないのであろう。筋力が落ちた場合に直ちに行動に影響を与えるのが大腿部の筋肉であり、その意味では日常的な機能に大きな影響を与えるために症状として問題になりやすいのであろう。患者さんの中にはこの症状の為にセッション後に椅子から立ち上がれなかったり、来院する途中で駅で歩けなくなり、駅員の助けを借りながら来院したりすることもある。幸い失立の時間は通常は限られるために、社会生活上大きな支障をきたしていない方が多いようであるが、そのために車いすを用いる方もいる。
同様のことは声帯に関連する筋肉に生じる脱力についてもいえる。この部分の失調は失声という症状となってその人の社会機能を即座に奪いかねない。だからこそ症状として特に目立つ傾向にあるといえるだろう。
しかし時々襲ってくる突然の脱力発作や失声はいったい何を意味するのか。患者さんは自分で足の力を抜くという事はしていない。自然と力が抜け、それをどうすることもできないのだ。ちょうど長い時間正座をした私たちが、いざ立とうとしてもしびれで一切立つことが出来ないという現象に似ている。つまり足が突然自らのコントロールを外れ、患者さん自身はそれに対して受け身的なのだ。
このような現象を目の当たりにして、私は転換症状について従来とは異なる考えを持つようになっている。
既定路線のテキストブック的な定義によれば、解離性障害とは「アイデンティティ、感覚、知覚、感情、思考、記憶、身体的運動の統制、行動のうちどれかについて、正常な統合が不随意的に破綻したり断絶したりすることを特徴とする。」(ICD-11,World Health Organization)となる。このうち身体感覚と運動に関する記載が転換性障害という事になる。
しかしこの定義はわかりにくい。そもそも転換症状の「転換」という用語がわかりにくいのだ。この用語はFreud に由来し、「自我が相いれない表象を防衛として抑圧する際、・・・その相いれない表象を無害化するため、その表象の興奮量全体を身体的なものへと移し替えることを転換Konversion と呼んだ」(光文堂 精神医学事典)とされる。つまり転換症状には人が受け入れられない心的内容を抑圧することにより生じるという前提がある。しかし現在の精神医学では、このように身体症状に心的な意味付けをすることに正当性を与えない傾向にある。
不安を呼び起こすような衝動は(漠然と、あるいは恐怖症のように置き換えられる形で)意識的に体験されるのではなく、通常は意図的にコントロールできるような臓器や体の一部において、機能的な症状に「転換 convert」されて現れる。症状は意識的に(と感じられる)不安を軽減する役目を果たし、通常は背景にある心的な葛藤にとっての象徴となっている。それらの反応は通常は患者の当座のニードを満たし、すなわち多少なりとも明白な「二次利得」に関連していることになる。それは通常は精神生理学的な自律神経障害と内臓的 visceral 障害とは区別される。「転換反応」という用語は、従来の転換性ヒステリーと同義語である。
では解離性障害はどうだろうか?
ある芸能人(←ビートたけしがどこかで話しているか書いているかをしていたと思うが、ソースが分からない)が、昔ガキ大将の時に、仲間と悪さをしていて先生につかまり、一列に並ばされたときのことを語っていた。先生は彼らに片端からビンタを食らわせたわけだが、彼は自分の番が近付くと、後ろに下がって、自分がビンタをされているのを外から見ていたという。一種の幽体離脱だが、当然痛みも感じていない。私のある患者さんは危機的状況では瓶のようなものに逃げ込んで蓋をしてしまうという。するとその間「誰か」が外に出てその状況に対応するのだという。
このような体験は解離がある種の危機状況で用いられ、人は心と体を分離する能力を発揮しているように見える。これは動物の擬死反応になぞらえることが出来るであろうが、この種の反射が昆虫レベルですでにみられることからも、それが生命体にとってある種の適応的な役割を果たしていることが分かる。
このことから解離は一つの能力であり、防衛機制であるという考えが成り立つ。もちろん解離・転換症状は時には人の機能を奪い、適応性を逆に低下させるわけであるが、それは解離性の反応の結果がネガティブな影響を及ぼす場合のみを拾っている可能性がある。
ではDIDの場合はどうだろう? あるDIDを有する人が主人格Aさんのほかに、交代人格Bさん、Cさんを有するとしよう。もし彼らがAさんの人生で約束した時間に現れ、一定の役割を担っているとしよう。それは不都合なことだろうか?これはいわばシフト制の勤務形態に似ている。病棟では24時間稼働するために、看護師は例えば日勤 (0800~1630)、準夜勤 (1600~2430)、 深夜勤 (2400~0830) の三交代制が敷かれる。仮にAさん、Bさん、Cさんが起きている間に似たようなシフトを組んでいるとしよう。そしてそれぞれが自分にとってやりやすかったり得意だったりする仕事を担当できるようにスケジュールが組まれているとしたら、そこに表面上問題は見当たらない。あるDIDの患者さんは、解離を用いることのない他の人々の生活を始めて聞き、「でも人格が一人だということが信じられません。だって一人で全部やるのは大変じゃないですか!」とおっしゃったが、私には何となく彼女の言い分もわかる気がする。
最後の章はあとがきと一緒の章にしよう。それもうんと奇抜なタイトルにしよう。
曰く「解離性障害は『障害』なのか?」あるいは「病気なのか」というタイトルでもいい。最近では「病気」、「疾患」の代わりに障害に、そしてさらに「症」と呼ばれるようになって来ている。欧米の診断基準では早々とdisorder
という呼び方が用いられるようになっている。精神疾患はmental
disorder であり、これは精神障害と訳される。しかし障害の「害」の字は明らかにマイナスイメージが付きまとい、は確かに問題視されかねないということから、最近では代わりに「障碍」「障がい」という表記をすることもある。これらの表記をめぐっては内閣府に作業チームが設置されたという経緯もあるという。さらにDSM-5が誕生した2013年には、その日本語訳として「~症」が採用されることになった。
これについては2014年に出版された「DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引」(日本精神神経学会) に経緯が書かれている。
連絡会は、・・・児童や親に大きな衝撃を与えるため、「障害」を「症」に変えることが提案され」その他の障害も同様の理由から「症」と訳すこととなったという経緯が記されている。(日本語版DSM-5,
p.9)
この決定は私にも若干の「衝撃」を与えたが、さらに困ったのは、例えば「解離性同一症」という表記であった。これは dissociative identity disorder 解離性同一性障害のことであるが、幸いなことに解離性同一性障害という従来の表記の仕方も並列して提示されていた。しかし「解離性同一症」の「同一症」はさすがに意味不明である。そこで野間俊一先生と話し、さすがに「解離性同一性症」くらいにはすべきだと合意した。幸いその後に出たICD-11の表記はこちらの方になっている。
ただこの○○病→○○障害
→○○ 障がい →○○症という変更は一つの重要な点を示唆している。それは病気と正常との間には、私たちが思っているほど明確な分かれ目はないということだ。米国での精神医学のトレーニングの影響を受けた私は、よく患者さんから「これって病気ですか?」と尋ねられた際に、ほとんど躊躇なく次のような答え方をする。「あなたの持っているその傾向が、あなたの仕事や社会生活に深刻な問題を起こしているのなら、それは病気と呼びます。もしそうでなかったらあなたの持っている特徴の一つと言えるでしょう。」こう答えて私はボールを患者さん側のコートに打ち返した気持ちになる。自分のある傾向が仕事や社会生活にどの程度問題となっているかを判断するのは患者さん自身になるので、私たちが「診断」を下すという責任の一部は軽くなる。
責任能力とは何か?
ここで責任能力という問題について簡単に触れたい。この概念ないしはタームは本章で何度も出てくるからである。ただしこの「責任能力」はあくまでも法律用語であり、精神医学の用語ではない。しかしDIDの法的責任などについて考える際に極めて重要になってくる。そして当事者が「責任能力」を有するかどうかによって、収監されるか、執行猶予つきになるか、無罪になるかが大きく変わってくるからである。
ただし少し間違えやすいのは、「責任能力」を有するという事は、ある意味では被告人がより重い罪を着せられるという事に繋がる。つまり責任能力がある人はそれだけ精神障害の影響が軽度であるという事を意味するのだ。
日本語版WIKIPEDIAの「責任能力」の項目には以下のように書いてある。
「責任能力とは、一般的に、自らの行った行為について責任を負うことのできる能力をいう。刑法においては、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力をいう。また、民法では、不法行為上の責任を判断しうる能力をいう。」
これが正式な表現とするなら、より簡便な表現として法律関係の書類などで用いられているのは、いわゆる「物事の善悪の弁識・制御の能力」という表現だ。例えば
心神喪失:該当する状況事理弁識能力・行動制御能力のいずれかが『失われた』状態
心神耗弱:該当する状況事理弁識能力・行動制御能力のいずれかが『著しく減退』した状態。
そこで責任能力のエッセンスは「状況事理の弁識・制御能力」である、という事になる。
実際の例を取って考えよう。酒に酔ってタクシーの運転手に暴力を振るった男性の場合(そのようなニュースを時々聞くことがある)、その人は「状況事理の弁識・制御能力」を失った状態であると言えるだろうか? まず一般常識的には間違いなく、それは認められないだろう。「勝手に酒に酔ったんだからその人の責任だ」で終わりである。そこにはあくまで、その人は概して健康で、物事の判断を十分できたはずであり、飲酒もまた自己判断で行ったという前提がある。つまり少なくともわが国では「責任能力アリ」となる。
ただし個人的な見解ではあるが、ひどく酩酊した人の多くは、ほぼ間違いなく「「状況事理の弁識・制御能力」」を失うことを経験的に知っている。普段は極めて理性的な同僚が二次会などで酔っ払って豹変する姿を見たりして思うことだ。しかしその場合でも暴力を振るうという行為そのものよりも、そうなることがある程度分かっていて飲酒をしたという行為そのものが罪に問われることになるだろう。
では次の例はどうだろう。ある男性が悪意ある他者に騙されて「ソフトドリンクですよ」と言われて実際はアルコール入りの飲料を飲まされた場合は? これで一挙に難しくなるであろう。さらに判断が難しい例も考えられる。医師に処方された薬剤(例えばフルニトラゼパム)を指示通り飲んだ人がタクシーの運転手さんに暴行を加えたとしたらどうなのだろうか? フルニトラゼパムはマイナートランキライザー(精神安定剤)で、処方された量がその人にとって多すぎた場合は飲酒に似た酩酊状態になる。だから酩酊状態にある人と似たような行為に至る場合も十分あり得るのだ。この人の場合、責任能力は減弱していると認められるのだろうか? もちろんこの人の場合は、「そういう状態になることが分かっていて好き勝手に」その薬を飲んだことにはならない。
実は責任能力と精神医学の関連性は実に複雑で多岐にわたることがお分かりであろう。精神科で「間歇性爆発性障害Intermittent explosive disorder」、ないしは衝動コントロール障害という病名があるが、それに罹患した人の場合は、物事の是非・善悪を弁別できても自分の行動をコントロールできないと見なされ、情状酌量の余地ありとなるのだろうか?
解離性障害のオーソリティたちの姿勢
本章で私は最近の解離性障害の研究について概説し、そこで示されるいくつかの特徴を、本書の中心的なテーマである「解離における他者性」という文脈から論じてみたい。その要旨は、解離研究の歴史は、交代人格を一つの人格として認めないという歴史でもあったということである。
解離性障害の研究史はすなわちヒステリーに関する研究の歴史として始まった。1880年代はTheodore Ribot,
Jean-Martin Charcot, Pierre Janet らにより近代的なヒステリー概念が整備された後、精神分析の隆盛とともにそれは衰退していった。その後1970~80年代に解離性障害の研究は新たな隆盛の時期を迎えることになった。そして従来のヒステリーは解離性障害という新たな装いで1980年に米国の精神障害の診断基準であるDSM-Ⅲに掲載され、一躍脚光を浴びることになったのだ。
ただしそれに先立って、1970~80年代の米国の精神医学の世界においては、解離性障害そのもの理解に努めるという動きが存在していた。Richard Kluft, Frank Putnam, Colin
Ross, David Spiegel, Onno van der Hart などの高名な精神医学者が解離の臨床を行い、それに基づく論文を多く発表した。それがDSMにおける解離性障害の掲載に繋がったのである。しかしそこで提唱されたのは、交代人格を一人の人間として遇する、としてではなく、むしろ部分、断片と見なす傾向だったのである。私はこのことを最近にやってより深く理解するようになり、それに従いこれまでは常識と考えていた解離の理論に様々な問題を見出すようになってきたのである。
黒幕人格の成立過程
黒幕人格がどのように成立するかに関して、ひとつの仮説として「攻撃者との同一化 identification
with the aggressor」というプロセスが論じられる場合がある。「攻撃者との同一化」とは、もともとは精神分析の概念であるが、児童虐待などで起こる現象を表すときにも用いられることがある。攻撃者から与えられる恐怖の体験に際し、それがあまりに強烈で対処不能なとき、被害者は無力感や絶望感に陥る。そして、攻撃者の意図や行動をほぼ自動的に自分の中に取り入れ、同一化することによってその事態に対処するというのがこの「攻撃者との同一化」である。
この「攻撃者との同一化」という考えは、フロイトの弟子でもあり親友でもあった分析家Sandor Ferenczi が1932年に「臨床日記」の中で記載し、同年にドイツのWiesbadenでの国際精神分析学会で発表した。それ以来トラウマや解離の世界では広く知られるようになっている。(ただしこの概念が正式に英文で発表されたのは、1949年となっている。)そして紛らわしいことにS.Freudの末娘であり分析家だった Anna Freud はその4年後に「自我と防衛機制」(A. Freud, 1936)中で同名の概念(「攻撃者との同一化 identification
with the aggressor」)に言及している。しかも紛らわしいことに、彼女は Ferenczi のこの「攻撃者との同一化」を引用していないのだ。あたかもその存在を知らなかったかのようである。しかしもちろんその当時の狭い精神分析界で、その存在を知らないことはなかっただろう。この当時、死期の迫っていたFerenczi は、それでもFreud と仲たがいをし始めていて、そのきっかけとなった論文に出てくる同概念を、娘のAnna は無視する姿勢を取ったのかもしれない。
ともかくA.Freudはこの「攻撃者との同一化」を「攻撃者の衣を借りることで、その性質を帯び、それを真似することで、子供は脅かされている人から、脅かす人に変身する」(p. 113) と説明している。そしてこれはFerenczi のいうそれとは大きく異なったものだった(Frankel, 2002)。Ferenczi は「子供が攻撃者になり代わる」とは言っていないのだ。彼が描いているのはむしろ、一瞬にして攻撃者に心を乗っ取られてしまうことなのである。
Ferenczi がこの概念を提出した「大人と子供の言葉の混乱」の記述を少し追ってみよう。
Ferenczi, S. (1933/1949). Confusion of
tongues between the adult and the child. International Journal of
Psychoanalysis, 30, 225-230.(森茂起ほか訳「おとなと子供の間の言葉の混乱」(「精神分析への最後の貢献―フェレンツィ後期著作集― 岩崎学術出版社、2007年 pp139-150」。
Ferenczi, S(1932/1988)the Clinical Diary of
Sandor Ferenczi edited by Judith Dupont translated by Michael Balint and Nicola
Zardy Jackson 森茂起訳 (2018) 臨床日記. みすず書房.
「彼らの最初の衝動はこうでしょう。拒絶、憎しみ、嫌悪、精一杯の防衛。『ちがう、違う、欲しいのはこれではない、激しすぎる、苦しい』といったたぐいのものが直後の反応でしょう。恐ろしい不安によって麻痺していなければ、です。子どもは、身体的にも道徳的にも絶望を感じ、彼らの人格は、せめて思考のなかで抵抗するにも十分な堅固さをまだ持ち合わせていないので、大人の圧倒する力と権威が彼らを沈黙させ感覚を奪ってしまいます。ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。同一化によって、いわば攻撃者の取り入れによって、攻撃者は外的現実としては消えてしまい、心の外部ではなく内部に位置づけられます。」(森ほか訳、p.144-145)
このようにトラウマの犠牲になった子供はむしろそれに服従し、自らの意思を攻撃者のそれに同一化する。そしてそれは犠牲者の人格形成や精神病理に重大な影響を及ぼすことになるのだ。Ferencziはこの機制を特に解離の病理に限定して述べたわけではないが、多重人格を示す症例の場合に、この「攻撃者との同一化」が、彼らが攻撃的ないしは自虐的な人格部分を形成する上での主要なメカニズムとする立場もある(岡野、2015)
この論文で次に書いてあることはことごとく私が知らない、しかもとても重要な問題である。
気持ちいい!(liking)をつかさどるのはいくつかの小さなホットスポットだという(”Hedonic hotspots”).それは解剖学的には小さく、神経科学的には限定され、容易に障害される。だから「欲しい wanting 」に比べれば、強烈な「気持ちよさliking」は比較的少なく、人生で何度も起きないのだという(Berridge & Robinson, 2016,
p.4)。例えば側坐核の中でこのホットスポットは10%しか過ぎないという。そのほか前頭前野の辺縁系、島皮質、そして皮質下の構造にも散在するという。そしてこれらの分野をオピオイドや内因性カンナビノイドで刺激するとその喜びが増すが、ドーパミンによる刺激ではその様な反応は起きないという。そして一番注目すべきは腹側淡蒼球 ventral pallidum にあるホットスポットで、それは皮質下前脳皮質の底の部分にあり、そこをちょっと損傷しただけで正常な快が失われ、むしろ嫌悪すべき刺激になるというのだ。
ここでちょっとウィキチェック。
腹側淡蒼球 (ventral pallidum, VP) は、上述の淡蒼球の腹側に位置し、無名質
(substantia innominata) の一部を成す。 腹側線条体、すなわち側坐核と嗅結節からの入力を受けるが、それらはほとんどがGABA作動性の抑制性入力である。
突然だが、嗜癖に出てくる liking
and wanting の問題についてちょっと調べなくてはならない。いろいろ準備しているのだ。この問題は要するに、嗜癖が生じると好きでもないのに辞められないという現象だ。よく聞くではないか。タバコを止められない人は、吸っていても決しておいしくないと。あるいはあるパチンコ中毒を体験した人が言っていた。「朝早くから良い台を取って玉をはじき続けるんです。」私が「どんな気分ですか?」と尋ねると「最悪ですよ。楽しくもなんともない。でも止められないんです。」えー、と思うではないか。好きでやっているんじゃないんですか?ところが中毒になっている対象は、それがモノであろうと行動であろうと、もはや楽しくない。でも止められない。これが like(好き)ではないが、want (欲する)という現象で、両者の分離した状態という事になる。
考えて見よう。Aさんは喫煙者だが、同時にチョコレートケーキが大好きだとしよう。タバコを吸っている時とチョコレートケーキを食べる時でどちらの方が喜びを感じるかと言うと、おそらくチョコレートケーキと答える可能性がある。(何しろ「タバコは吸っていてもおいしくない、でも止められない」と言うのだから。)しかしチョコレートケーキを3日間食べないことは特に平気であるが、タバコを3日間断つことは至難の業なのだ。タバコは like ではないけれどやめられないというわけである。
さらに嗜癖は、これほど不幸なことはないという事態を生む。嗜癖の生じた人は、そもそも人生を楽しめなくなっている。「素敵」とか「気持ちいい」という場面が生活の中になくなっていく。「好き」でなくなるのはタバコだけ、あるいはパチンコだけ、ではなくなってしまう。ちょうどそれまで原色カラーだった人生が白黒になってしまったようなものだ。「うつ病九段」の先崎先生の漫画にも出てくるが、欝では景色が白黒になり、回復期にある時突然カラーに戻るという事が起きる様なのだ。
Berridge, KC and Robinson, TE (2016) Liking,
Wanting and the Incentive-Sensitization Theory of Addiction. Am Psychol. 71(8):
670–679.
という論文を参考にするが、そこにはこう書いてある。Wanting は中脳のドーパミン系、つまり快感中枢がつかさどる。これがとんでもなく暴走しているのが嗜癖というわけだ。ところが「気持ちいい」はドーパミンに依存しない脳の別の小さな部分であるという。把握していなかった!!!
責任能力とは何か?
ここでこの問題について簡単に触れたい。というのもこの概念ないしはタームは本章では何度も出てくるからである。ただしこの「責任能力」はあくまでも法律用語であり、精神医学の用語ではない。しかしDIDの法的責任などについて考える際に重要になってくる。そして何しろそれにより患者さんが収監されるか、執行猶予つきになるか、無罪になるかが大きく変わってくるからである。
日本語版WIKIPEDIAの「責任能力」の項目には以下のように書いてある。
「責任能力とは、一般的に、自らの行った行為について責任を負うことのできる能力をいう。刑法においては、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力をいう。また、民法では、不法行為上の責任を判断しうる能力をいう。」
これが正式な表現とするなら、より簡便な表現として法律関係の書類などで用いられているのは、いわゆる「物事の善悪の弁識・制御の能力」という表現だ。例えば
心神喪失:該当する状況事理弁識能力・行動制御能力のいずれかが『失われた』状態
心神耗弱:該当する状況事理弁識能力・行動制御能力のいずれかが『著しく減退』した状態。
うんと短くすれば「状況事理の弁識・制御能力」これで行こう!
実際の例を取って考えよう。酒に酔ってタクシーの運転手に暴力を振るった男性の場合(そのようなニュースを割と最近見たことがある)、その際は「事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力」を失ったとは言えないだろうか? まず一般常識的には間違いなく、それは認められないだろう。「勝手に酒に酔ったんだからその人の責任だ」で終わりである。では次の例はどうだろう。その男性が悪意ある他者に騙されてソフトドリンクだとだといわれて実際はアルコール入りの飲料を飲まされた場合は? うーん、一挙に難しくなる。(実は私は心の中では、酩酊した人の一部は、ほぼ間違いなく事理の弁識・制御能力を失う。普段は極めて理性的な同僚が二次会などで酔っ払って豹変する姿を見たりして思うことだ)。しかし世間は必ず言う。「好きで飲んだんでしょ?そうなることが分かっていたはずなのに。」そう言われると私は一言も反論できなくなってしまうだろう。
さてさらに判断が難しい例。医師に処方されたロヒプノールを指示通り飲んだ人同じ行為に及んだらどうなのだろうか? ロヒプノールはマイナートランキライザー(精神安定剤)で、処方された量がその人にとって多すぎた場合は飲酒に似た酩酊状態になる。だから同じような行為に至る場合も十分あり得るのだ。そして後者の場合は責任能力は減弱していると認められるのだろうか? あるいは精神科で「間歇性爆発性障害」、ないしは衝動コントロール障害という病名があるが、それに罹患した人の場合は、物事の是非・善悪を弁別できても自分の行動をコントロールできないと見なされ、情状酌量の余地ありとなるのだろうか? ここで皆さんが考えていることと私の考えは一致しているはずだ。結局一般常識的に考えてその人に罪はないと思えるならば責任能力の低下を認める、という事になろう。(本題から外れるが、江戸時代にはすでに「乱心」や未成年の場合の減刑が詠われていたらしい。この人は罰することが出来ないな、という感じ方は時代を超えているという事だ)。
ところで心神喪失や心神耗弱の例としては、「精神障害や知的障害・発達障害などの病的疾患、麻薬・覚せい剤・シンナーなどの使用によるもの、飲酒による酩酊などが挙げられる。」とあるがもちろん、「故意に心神喪失・心神耗弱に陥った場合、刑法第○○条は適用されない」とある。だからアルコールによる酩酊はアウト、という事だ。さてここで悩ましい言葉が出て来ている。「精神障害や知的障害、発達障害」とある。そしておそらくここから先は闇なわけだ。ただし以下の文章を読んでいただきたい(日本語版WIKIPEDIA「責任能力」)
被告人の精神状態が刑法39条にいう心神喪失又は心神耗弱に該当するかどうかは法律判断であって専ら裁判所にゆだねられるべき問題であることはもとより、その前提となる生物学的、心理学的要素についても、上記法律判断との関係で究極的には裁判所の評価にゆだねられるべき問題であり、専門家の提出した鑑定書に裁判所は拘束されない(最決昭和58年9月13日)。しかしながら、生物学的要素である精神障害の有無及び程度並びにこれが心理学的要素に与えた影響の有無及び程度については、その診断が臨床精神医学の本分であることにかんがみれば、専門家たる精神科医の意見が鑑定等として証拠となっている場合には、鑑定人の公正さや能力に疑いが生じたり、鑑定の前提条件に問題があったりするなど、これを採用し得ない合理的な事情が認められるのでない限り、その意見を十分に尊重して認定すべきものである(最判平成20年4月25日)。
被告人が犯行当時統合失調症にり患していたからといって、そのことだけで直ちに被告人が心神喪失の状態にあったとされるものではなく、その責任能力の有無・程度は、被告人の犯行当時の病状、犯行前の生活状態、犯行の動機・態様等を総合して判定すべきである(最決昭和59年7月3日)。
分かりやすく言えば、精神科医の意見はしっかり聞きなさい、という事だ。しかしこれまで書いたように、検察側、弁護側がそれぞれ別個に精神科医の意見を証拠として提出するから問題が複雑になるのである。
ともかくも精神医学用語でない責任能力は、実は司法精神医学ではほとんど中心的な概念と言っていいほどの重みをもつ。また精神疾患、例えば本書の場合は解離性障害を有する人がどれほど責任能力を認められるかは、実は流動的で今後も変わっていく可能性があり、一つの定説があるというわけではなさそうなのである。
さて次の図(省略)では、このSの隣に赤い破線の〇で示したPPという場所が成立した様子が描かれている。このPPという頭文字の意味するところはまだ明らかにしないでおく。ともかくこれがSの部分の横に出現しているのを描いたのがこの図である。さて問題はこのPPから運動野や感覚野に勝手に信号が送られるのである。それを赤い線によって表している。そしてそれにより、運動野の特定の神経ネットワークが妨害され、それにより手足が動かなくなったり、意図せずに勝手に動いたりする。あるいは唇や皮膚からの感覚入力に変化が起こり、それが麻痺したり異常な感覚を起こしたりするであろう。問題はSすなわち主体は自分の体で何が起きたかを知らないという事である。PPは主体にとって他者的な存在であり、それが何を意図しているかはわからない。だから体験としては「勝手に手が動いた」「急に唇の感覚がなくなった」となるのである。
転換性障害の症状として私が日常接するもの中には、その症状が日常生活に影響を与えるようなものもある。比較的よく目にするのは、失立や歩行困難である。だからと言って体の中でも歩行に大きく関係する大腿四頭筋が特に転換症状に関与しているというわけではない。筋力が落ちた場合に直ちに行動に影響を与えるのが大腿部の筋肉であり、その結果としてより目立つ失立の症状が現れるのであろう。患者さんの中にはこの症状の為にセッション後に椅子から立ち上がれなかったり、セッションに来る最中に駅で歩けなくなり人に助けてもらいながらタクシーで来院することなどもある。幸い失立の時間は通常は限られ、時々問題が生じる程度で何とか社会生活をこなしている方が多い。
同様のことは声帯に関連する筋肉に生じる脱力についてもいえる。この部分の失調は失声という症状となってその人の社会機能を即座に奪いかねない。だからこそ症状として特に目立つ傾向にあるといえるだろう。
しかし時々襲ってくる突然の脱力発作や失声はいったい何を意味するのか。患者さんは自分で足の力を抜くという事はない。自然と力が抜け、それをどうすることもできないのだ。ちょうど長い時間正座をした私たちが、いざ立とうと思ってもしびれで一切立つことが出来ないという現象に似ている。つまり足が突然自らのコントロールを外れるのだ。
このような現象を目の当たりにして、私は転換症状について従来とは異なる考えを持つようになっている。
既定路線のテキストブック的な定義によれば、解離性障害とは「アイデンティティ、感覚、知覚、感情、思考、記憶、身体的運動の統制、行動のうちどれかについて、正常な統合が不随意的に破綻したり断絶したりすることを特徴とする。」(ICD-11,World Health Organization)となる。このうち身体感覚と運動に関する記載が転換性障害という事になる。しかしそれでもわかりにくい。
さらに転換症状の「転換」という用語もわかりにくい。この用語はFreud に由来し、「自我が相いれない表象を防衛として抑圧する際、・・・その相いれない表象を無害化するため、その表象の興奮量全体を身体的なものへと移し替えることを転換Konversion と呼んだ」(光文堂 精神医学事典)とされる。つまり転換症状には人が受け入れられない心的内容を抑圧することで生じるという前提がある。しかし現在の精神医学では、このように身体症状に心的な意味付けをすることに正当性を与えない傾向にある。
その一部を再録するとこうなる。
転換性障害は通常は神経症圏の疾患として扱われるが、これには他の神経症にはない扱われ方がなされているのだ。同障害に関するDSM-Ⅰ記載を示そう。
不安を呼び起こすような衝動は(漠然と、あるいは恐怖症のように置き換えられる形で)意識的に体験されるのではなく、通常は意図的にコントロールできるような臓器や体の一部において、機能的な症状に「転換 convert」されて現れる。症状は意識的に(と感じられる)不安を軽減する役目を果たし、通常は背景にある心的な葛藤にとっての象徴となっている。それらの反応は通常は患者の当座のニードを満たし、すなわち多少なりとも明白な「二次利得」に関連していることになる。それは通常は精神生理学的な自律神経障害と内臓的 visceral 障害とは区別される。「転換反応」という用語は、従来の転換性ヒステリーと同義語である。
転換症状は現代では「機能性神経症状障害functional neurological symptom disorder」(DSM-5)と言い表されているように、失声、失立、麻痺、といったあたかも身体疾患の存在を疑わせるような症状が見られるものの、器質的な原因が見られないという病態をさす。すなわちその症状の出現は患者当人にとっても予想外で治療者にとっても当惑を感じさせるものであり、とても「了解可能」とは認められないことが多いからである。このこともあり、ICD-11では従来の転換という言葉は全面的に用いられなくなっている。
DIDと刑事責任能力
上原大祐 (2020)判例研究
解離性同一性障害患者たる被告人の刑事責任能力判断 : 大阪高裁判決平成31年3月27日(平成31年(う)第53号 覚せい剤取締法違反被告事件) . 鹿児島大学法学論集54 ( 2 ) 25–38.
このような傾向は私は好ましい方向性だと考える。少なくとも従来はDIDにおいては完全責任能力が認められるという方針で一貫していた。そしてさらにそれ以前は被告がDIDに罹患していたということ自体が認められていなかった可能性がある。
この件に関して精神鑑定ハンドブックに精神科医が書いた論文によれば「治療的な観点では、通常は人格の統合を最終ゴールとしていることを考えれば、副人格というのは一人の人格に帰結させるべきであると考えることも不可能ではないであろう」とする意見もあるという。(安藤久美子「解離性障害」五十嵐禎人・岡野幸之編「刑事精神鑑定ハンドブック」(2019・中山書店)197ページ もしこのような司法精神医学の専門書(ハンドブックといえども)にこちらの意見しか書かれていなかったとしたら、当然DIDでは常に責任能力あり、という判断に傾いても致し方ないと思う。
ちなみにこの論文を書いている上原氏の意見は、かなり常識的なものと言える。P34で上原先生はグローバルアプローチを採用すべきであると書いていらっしゃる。つまり主人格次第ということだ。主人格がどうしてもコントロールできない人格が時々出現するとしたら、その責任能力はその分だけ低下すると考えるのがリーズナブルと考えられるのではないか?でもこれが殺人事件などの深刻な事件となると、なかなかこの判断が難しくなるのかもしれない。
部分的な心と自我障害
交代人格の他者性や個別性を有しないものとみなす傾向は、少なくとも欧米の文献には顕著にみられ、そこには交代人格を一つの自我として認めないという含みがある点について本書では強調している。しかしそれは正当な評価だろうか。一つの自我として認めないという事は「自我障害」が生じていることになるだろう。しかし果たしてそうなのか? ここで改めてこの問題を検証してみたい。
精神医学では自我の障害として、Karl Jaspers (1997/1913) の四つの障害という概念がある。それは以下の4つの条件を満たすことによりその健全さが保証される。
「能動性の意識」 自分自身が何か行っていると感じられること。
「単一性の意識」 自分が単独の存在であると感じられること。
「同一性の意識」 時を経ても自分は変わらないと感じられること。
「限界性の意識」 自分は他者や外界と区別されていると感じられること。
ある人についてこれらの条件が満たされていない時、私達はその人が自我障害を有していると認定する。例えば「同一性の意識」とは、時間が経過しても自分は自分であると自覚できるという事だ。もしあなたが「昨日の私は今日の私とは違う」と自覚できるとしたら、それは何らかの自我の障害を意味している、という風にである。ただし「昨日の私は今日の私とは違う」という体験自体、大部分の私たちはそれが意味することを理解できないかも知れない。つまり常識的には考えられない事態がその人の自我には生じていることなのだ。ちなみに精神医学の世界ではこのJaspers
の自我障害の概念は、もっぱら統合失調症において自我がどのように損なわれているのか、という文脈で用いられてきたという経緯がある。それをDIDに関しても応用してみようというのが私の意図である。
ここで交代人格の「他者性」が伺われる例に関し、すでに○○章で用いたケースをここでも用いよう。
DIDを有するAさんが言った。
「この間車を運転していた時に、信号待ちをしていていた時のことです。青になったのに、前の車がなかなか発車しませんでした。すると後ろから突然『何をぐずぐずしてんだよ!』というBの声がしました。彼はずいぶんイライラしているんだなあ、と私は驚きました」。
ちなみにこの例でAさんは主人格、BはAの交代人格だったとしよう。この様な体験を持つAさんについての自我障害の可能性を一つ一つ検討してみよう。まず「能動性の意識」はどうだろうか? Aさんは自分がハンドルを握り、自らのタイミングで車を出発させようとしているという能動感を持つ。だからこれはクリアー出来ていると考えることが出来る。
転換性障害の症状として私が日常接するもの中には、その症状が日常生活に影響を与えるようなものもある。比較的よく目にするのは、失立や歩行困難である。だからと言って体の中でも歩行に大きく関係する大腿四頭筋が特別転換症状に関与しているという事ではないであろう。筋力が落ちた場合に直ちに行動に影響を与えるのが大腿部の筋肉であり、その結果としてより目立つ失立の症状が現れるのであろう。患者さんの中にはこの症状の為にセッション後に椅子から立ち上がれなかったり、セッションに来る最中に駅で立ち上がれなくなって人に助けてもらいながらタクシーで来院することなどもある。幸い失立の時間は通常は限られ、時々問題が生じる程度で何とか社会生活をこなしている方が多い。
しかし時々襲ってくる突然の脱力発作はいったい何を意味するのか。患者さんは自分で足の力を抜くという事はない。自然と力が抜け、それをどうすることもできない。ちょうど長い時間正座をした私たちが、いざ立とうと思ってもしびれで一切立つことが出来ないという現象に似ている。つまり足が突然コントロールを失うのだ。
既定路線のテキストブック的な定義によれば、解離性障害とは「アイデンティティ、感覚、知覚、感情、思考、記憶、身体的運動の統制、行動のうちどれかについて、正常な統合が不随意的に破綻したり断絶したりすることを特徴とする。」(ICD-11,World
Health Organization)となる。このうち身体感覚と運動に関する記載が転換性障害という事になる。しかしそれでもわかりにくい。
本章では司法の領域においてDID(解離性同一性障害)がどの様に議論され、扱われ、あるいは処遇されているかについて論じたい。私はこれまで司法において解離性障害、特にDIDがどの様に扱われてきたかについてほとんど言及してこなかった。しかし実はこの問題は交代人格を他者と見なすという私の本書のテーゼにとって極めて重要な意味を持つことを最近になり自覚するようになった。
DIDの関与するケースのプロトタイプ
司法領域において解離性障害が提示する問題は端的に言えば次のことである。
別人格の状態において行われた行為について、主人格や当該の別人格はどれほどの責任を負うべきであろうか? さらには「元の人格」はどうか?
ここで主人格、別人格という呼び方とは別に「元の人格」という呼び方がいきなり出てきたことに読者の皆さんは当惑するかもしれない。解離性障害においてこれ以上新たなタームが必要なのだろうか、とお考えであろう。私がここで「元の人格」としては、例えば戸籍名がAさんだった場合、それを担っている人という意味で呼んでいる。すなわちAさんのマイナンバーカードや保険証や運転免許の氏名欄に記載されている名前だ。この「元の人格」Aさんは、人に「Aさん」と呼ばれれば自然と「はい」と答えるだろう。たまたま芸名やペンネームを使っているとしても、本名Aを自分の本当の名前と考えるはずだ。そして司法の場でも、被告や原告の立場になった人の戸籍名Aさんをその人と同定するだろう。その人が証言した内容は「Aさんの証言内容」として記録される筈だ。この原則が揺るがされると、司法の仕組みそのものが意味を失いかねない。ただし解離性障害が絡んだ場合、この司法の仕組み自体の意味が問われかねない場合もあるのだ。