解離の治療とオープンダイアローグ
さてここからの私の話は、解離性障害の治療といわゆる「オープンダイアローグ」とのかかわりに関するものになる。私は最近、斎藤環先生の漫画「やってみたくなるオープンダイアローグ」を読んでいて、これはDIDの治療にもそのまま言えるのではないかと思ったのだ。
オープンダイアローグOpen Dialogue(以下OD)は、統合失調症に対する治療的介入の手法で、フィンランドあるファミリー・セラピストを中心に、1980年代から実践されているものである。統合失調症、うつ病、引きこもりなどの治療に大きな成果をあげているという。患者や家族から依頼を受けた医療スタッフがチームを組んで患者の自宅を訪問する。そして患者を前にして毎日チームの中で対話を行うという方法だ。
このODの中でも「リフレクティング」と呼ばれる手法は、患者を除いた治療者どうしが椅子を動かして互いに向き合い、患者について話し合う場を設けることである。つまり患者が傍観者となって、自分についての話し合いをスタッフ達がするのを聞くことになる。そしてここがODの中で一番ユニークなところかも知れない、と斎藤先生も書いておられる。
このテクニックで大事なのは、患者に治療者を観察してもらう事であるという。治療者間の対立などもその観察の対象になる。なぜこれが大切かと言えば、「患者がいないところで患者の話をしてはいけない」というルールがODにはあるからだという。そしてリフレクティングの中では患者は尊厳や主体性を与えられた気持ちになるというのだ。その意味でこのテクニックはODの根幹部分であるという。
ただしもちろんリフレクティングの中で患者に関するネガティブなことは言わないことが大事であるという。何しろ当事者が聞いているのである。またリフレクティングは「差異を扱う」という事が言われるが、それは皆が注意深く色々な意見を出し合うからだ。そこでは患者に対して何かコメントを伝えるのではなく、「彼は~と考えているのではないか?」という言い方をするということである。このプロセスでおそらく重要なのは、患者が自分について様々な治療者が異なる見方をしてくれているのを聞き、そしてそこに唯一の正解などないという事を理解することだろう。
本稿の解離性障害のテーマにこのリフレクティングのプロセスがどの様に関係するかを説明しよう。それはDIDの治療では、治療者はどの人格と対話をしていても他の人格にとってのリフレクティングとしての様相を帯びているのである。Aさんという人格と話していて、他の人格Bさん、Cさんについて言及するとき、Bさん、Cさんはそれを蚊帳の外から聞いている可能性がある。人格によっては治療場面に姿を現さないために、唯一その様な状況でしか治療者の自分についての考えを聞けないという事にもなるだろう。したがって以下に紹介するようなリフレクティングで重んじなくてはならない決まりは、結局はDIDの治療でも同じように重んじられるという事になる。
ここで「やってみたくなるオープンダイアローグ」に書かれているリフレクティングのルールを振り返ってみよう。これらはすべてDIDの治療に当てはまる、と私は考えている。4つの項目とは以下のとおりである。
◆ 話し合われている当事者には視線を向けないこと。
◆ マイナス評価は控えること。
◆ 共感を伝えること。
◆ 患者がいないところで患者の話をしないこと。
まず第一番目の「話し合われている当事者には視線を向けないこと」である。リフレクティングにおいては、患者と視線を合わせないことで、第三者に向かって語っているという雰囲気を作ることになる。もちろん交代人格Bさんに直接話す時にはその人格さんに向き合うわけだが、それは同時に他の人格AさんCさんたちには視線を合わせないことになるのだ。
ここで話題になるBさんは、しばしば黒幕人格であることが多いので、そのような例を考えよう。というのも黒幕人格が時々感情的になったり他人を攻撃したりすることでほかの人格が困惑したりその対処に苦労したりし、その分だけ話題に上がりやすいからである。その場合に特に気を付けるべきなのは、黒幕人格に対する敬意を忘れないというである。私は普通は「黒幕さん」という呼び方をしている。「黒幕」という言い方も、実は陰で大きな権力を持っているという、いわばポジティブな意味を含んでいるのだ。ちなみに私は黒幕人格について英語の論文を書いたことがあるが、そこでは英語での表現としてshadowy figure を用いた。このshadowという表現も隠然たる力を持っているというポジティブな意味を持つ。
もちろん話の対象となっている黒幕さんが彼に関するリフレクティングを聞いているとは限らない。その間彼は内側で寝ていることも多いのである。それでも黒幕さんには失礼のないようにしなくてはならない。さもないと黒幕さんがそれを聞いていた場合には、彼の協力を得ることが難しくなる。「黒幕さんにはお引き取り願えるといいですね」「何か大きな事件が起きる時までは、黒幕さんにはゆっくり休んでいただくといいでしょうね」という治療者からの間接的な提案も、敬意を表しつつ行うことで初めて黒幕さんに聞いてもらえるのである。
次に第二番目「マイナス評価は控えること」であるが、これも今書いた話と通じることだ。誰だって第三者が自分にネガティブ評価を下すのを聞きたくない。第三者に、私が聞いていることを想定しない場面でしてもらいたいのはあくまでもポジティブな評価である。それを聞くことで人は「本当に理解されているのだ、やはり見る人にはわかってもらっているんだ」という体験となる。
第三番目の「共感を伝えること」についても当然のことと言わなくてはならない。自分が分かってもらっていると思えること、それは第三者が、自分のいないところで言ってくれることで最も印象深い体験となるのだ。
第四番目「患者がいないところで患者の話をしないこと」については、いろいろ議論を呼ぶところであろう。これは要するに治療スタッフは患者の陰口を利くな、ということだ。そしてその意味では解離性障害に限らず、すべての治療関係について言えることである。おそらくカルテ記載についても、ケース報告の場でも言えることだろう。私はこのことを以下のように言いなおしたいと思う。
「患者当人が自己愛的な傷つきを体験するような話や記載の仕方はどこでもすべきでない」。
この様に言うと、「では治療者は患者さんについて思ったことは、それがネガティブな内容であるなら、どこにも表現できないのではないか」と思う方もいらっしゃるかもしれない。しかし私たちは他人にネガティブなことを言われたとしても、そのトーンとか言い回しにより、それがトラウマ体験になるかどうかが全く異なるという事を知っている。要するにそのネガティブな表現にも愛情や敬意があるか、という事だ。
例えば会社でAさんという人が横暴で、同僚の何人かはそれに辟易して、もうAさんに会社を辞めてもらいたいとさえ思っているとしよう。そのような事態はどこの職場でも多かれ少なかれあるはずだ。そのとき、たとえば「ほんといい加減にAさんにはうんざりしちゃうね。」というのと「Aさんには〇〇の長所もあるけれど、あのペースにはついていけないところがあるよね。」と言われたのでは、もしAさんがそれを耳にした時の印象としては大きな違いが生まれるだろう。そしておそらくAさんという人には様々な長所と短所があるはずですから、後者の言い方の方がまだリアリティに近いという可能性がある。するとAさんは前者のような声を聞けば自分を全否定されて立ち直れない気分になるかもしれないが、後者を聞けば「自分は自分の能力に従ったペースをほかの人に期待したり押し付けたりしてもだめなんだ。」という前向きな気持ちになるかもしれないのである。
繰り返すと「人の陰口を聞かない」、というのは「患者当人が聞いたり読んだりした際に、そこに自己愛の傷つきや恨みを伴うようなことを言ったり書いたりするべきでない」ととらえなおすのであれば、あらゆる治療の文脈においてこのことは言えることであるし、また交代人格に対するコメントとしてもいえることなのだ。
ちなみに精神分析関係の方々については、このような言い方が通じやすいかもしれない。患者さんに対するネガティブな内容は、逆転移の理解を経て言ったり書いたりするべきであるということである。そうでないとそれらは簡単に攻撃や悪口になってしまう。それよりは、それが自分の感情的な反応の部分を客観的に反省しつつ語られることで、臨床的にも役に立つことになるのである。
以上交代人格に出会う事というテーマで、このEMDR学会でお話をしたものを文章化した。皆様がDIDの患者さんとの出会いを体験する際に少しでも参考になることを願う。