2022年2月28日月曜日

事典項目・解離症・草稿

 「精神○○診療」という事典のようなものに執筆依頼された。ギャグが一切通用しないので書いていてあまり楽しさがない。

解離症

臨床所見

解離症は、その症状がアイデンティティ、感情、思考、記憶、身体知覚や身体的運動などの正常な統合の機能性が一時的に破綻することから生じることを特徴とする。それらの症状には実に様々なものが含まれ、これほど多彩な症状を示す精神疾患は他に類を見ないと言える。それらは健忘、複数の人格の存在、離人感や現実感の喪失などのほか、種々の身体症状(けいれん、脱力や麻痺、歩行障害、感覚変容、意識変容、発話障害など)が挙げられる。症状の出現は通常は比較的急速で、背景にトラウマ的なストレスの体験が見られる場合が多い。またその消失も同様に比較的速やかであることが多い。

検査所見

解離症状、転換症状を示す患者の多くは初発時には神経学的障害や身体疾患の発症を疑われ、救急医療を通して神経内科、脳神経外科などの身体科に送られる。しかしそこで施行される臨床的な諸検査の結果は症状を説明しえない。解離症状には何らかの神経学的な背景が存在することは疑いがないものの、CT,MRI,脳波等により検出されるような粗大なレベルのものではない。また身体的な機能的症状を説明するような神経内科的、眼科的、耳鼻科的な所見も見られない。むしろ種々の心理学的検査、例えば解離体験尺度、ITQ,CAPS,IES-Rなどはある程度はその症状の発現の傍証となり得る。

診断

解離性障害は神経学的障害や身体疾患のきめ細かな診断の除外の後にその診断が下ることが一般である。解離性障害群には解離性健忘、解離性同一性障害、離人・現実感喪失症などのほか、ICDWHO)に従えば解離性神経学的症状症(従来の転換性障害)が含まれる。診断は主として臨床所見と発症状況やその時間経過に伴う変化も重要な決め手となる。解離症の一般的な特徴としてはトラウマやストレス状況に対する反応として症状が現れる傾向がある。精神症状、身体症状のあらゆるものを含む可能性があり、その意味では身体科での器質的な疾患の除外は決め手の一つとなる。

治療

解離症の治療の前提として、治療者側が障害の性質を十分理解し、かつそれを心理教育的に患者に伝えることが重要である。その際症状の疾病利得的な意味合いについての過剰な直面化は避けるべきである。精神療法においては、解離された部分の理解や記憶の回復を治療の主眼とするとともに、表面に表れているトラウマ記憶に関してはEMDRや暴露療法等による処理も必要となろう。加えて薬物療法、理学療法等があるが、薬物療法には決定的なものがない。ただし過度の幻聴体験や優挌観念に対して少量の抗精神病薬が有効である場合がある。また抗不安薬は解離を誘発し、中枢神経刺激薬はそれを会計させる傾向にあることは知っておいていいであろう。また気分障害等の併存症の治療は結果として解離症状の軽減につながることが多い。

経過と予後

解離性障害は症状の変遷は多くみられるものの、一般的に進行性の経過は取らず、基本的にはトラウマ関連障害と同様のコースをたどる。すなわち時間の経過とともに、そして適切な治療や保護的な環境により、徐々に軽快していく傾向にあり、最終的に社会生活に支障のない程度にまで回復することもある。しかし経済的、対人関係的なストレス状況や身体症状を含む併存症などの存在によりその回復が妨げられ、症状が遷延することも少なくない。

 

2022年2月27日日曜日

他者性について その28

 

解離性障害における他者性について論じるためには、いわゆる転換性障害において何が生じているかについて考えなくてはならない。解離性の精神症状と身体症状を分け、前者の身を解離性障害とするDSM(Ⅲ~5)とは異なり、いわゆる転換性障害は解離性障害の一部として最も整合的に理解することが出来る。そしてその方針はICD-10 (2013, ICD-112022)の記載に反映されている。それではこの従来から転換性障害と呼ばれる状態はどのようなものか?

既定路線のテキストブック的な定義によれば、解離性障害とは「アイデンティティ、感覚、知覚、感情、思考、記憶、身体的運動の統制、行動のうちどれかについて、正常な統合が不随意的に破綻したり断絶したりすることを特徴とする。」(ICD-11,World Health Organization)となる。このうち身体感覚と運動に関する記載が転換性障害という事になる。しかしそれでもわかりにくい。

この解離性障害の定義が一体何を言おうとしているかと言えば、人間の精神、身体機能は通常は纏められて(統合されて)いて、それが失調した場合に解離性の症状が起きる、ということだ。要するに心身がバラバラに動き出すということだが、これでもまだわからない。しかし解離の臨床に携わっている立場からは、次のような表現が一番ぴったりくるように思う。それは「脳のどこかにある種の新しい中心が出来上がり、そこが勝手に信号を送って体の動きを妨害する、といった障害」なのである。本書をお読みになっている方は、私のこの定義の背景がお分かりかも知れない。そう、その「どこかの新しい中心」とは、「他者」の原型なのだ。ただしそれはまだ人格を成しているわけではない。脳のどこか、おそらくは前頭葉のどこかに出来上がったニューラルネットワークということになろう。そこが異常信号を発する。それもある状況で決まったようにそれが生じることが多い。まるでその部分が意図を持っているかのようである。例えば緊張すると声が出なくなったり、急に立ち上がれなくなったり、という具合に、である。

 私が言おうとしていることを理解していただくために、すこし基礎的な説明が必要かもしれない。

 この図は私たちの意志と、運動野や感覚野と、筋肉などの運動器や唇などの感覚器との関係を示したものだ。一番左に書いた点線の「S」と書かれた部分は、漠然と私たちの心、意志のセンターと思って戴きたい。もちろん心はこのように一か所に集中しているところとは言えないだろうが、脳の中でどこが全体的な判断を下す場所かと言えば、前頭葉が挙げられる。人間らしい高度な判断はこの前頭葉の広範な破壊により失われることから、前頭葉の中でも前頭前野のあたりが意思のありかであると考えられている。この前頭葉は脳の各部分の情報を一手に担って判断を下すところである。その意味でここを「S」(subjectivity, 主体)と記しておくことにする。さてそこから「腕を曲げろ」という指令が大脳の運動野(オレンジ色の部分)に伝達されると、そこからは次に筋肉に信号が送られる。あるいは逆方向の信号の流れを考えれば、感覚器から送られてくる信号は、感覚野(黄緑色の部分)で中継され、そこからSに伝えられる。(ここでどうして感覚器として、目とか耳とかを例として挙げないかと言えば、これらの感覚は独立した視覚野、聴覚野という広いエリアに送られてくるからである。そこでそれ以外の感覚が送られてくる感覚野への入力の例として唇やその他の皮膚感覚を挙げたのだ。)

2022年2月26日土曜日

他者性の問題 その27

 さて3の「特別な対応をせず、そのまま気が付かないことにして流してしまう」という臨床家が実は一番多いかもしれない。この問題が深刻なのは、これがいつどの臨床状況でそれが起きているのかが確かめられないからである。例えばいつものAさんとのあるセッションで、途中からAさんの様子が少し変わったような気がするとしよう。声のトーンや身振りがいつものAさんのものとはかなり異なる印象を受ける。臨床家はAさんの過去の治療歴に解離症状の記載を見た気がするが、今起きていることが人格の交代なのかは不明である。臨床家はそれを明確にしようかとも思う。しかしこの時臨床家の耳に聞こえてくるのは、いつかどこかで聞いたことのある次のような言葉だ。「別人格を異なる人として扱うと、その人格が定着してしまう」。この様にして交代人格は出現しても多くの場合、スルーされてしまう運命にある。

ここで「否認 denial」という防衛機制について言及しておきたい。精神医学のテキストにはこの否認について次のように書いてあるだろう。「不快、不安、恐怖などを引き起こす外的現実や自己の内的現実の存在を認知することを拒否する自我の防衛機制」(現代精神医学事典、弘文堂 2016年)。この3の対応には臨床家の側の否認が大きくかかわっているとみていい。
 ところがDIDの方々の家族となると話は全く違ってくる。彼らには否認の機制を使い続けるような余裕はないのだ。彼らは恐らく1~3までの段階を最初は一通り通過するであろう。しかしそれではその家族とは関わっていけないことがすぐにわかる筈だ。最初は「A、どうしたの?」と主人格の名前を何度も呼んだり、何とか説得を試みたり、「おかしな演技をしないでくれ!」と叫びだすかもしれない。しかしそれでAさんの人格にたまたま戻ることはあっても、いずれは再び人格交代を体験することになるだろう。その結果として彼らは当事者の人格が交代してBさんになった際に、それを異なる人格、人間として扱う必要があることをいずれは学習せざるを得ない。

私はある時DIDを持つ母親が、目の前で交代した時に隣にいた幼い娘の反応を目の当たりにしたことがある。その母親は自分自身が幼い子供のようになったように、不思議そうに娘の目をのぞき込んだ。娘は最初は戸惑った様子を見せていたが、やがて母親をしっかり見つめ、しっかり手を握ってあげていた。小さな妹をあやすような感じである。つまり5、6歳の子供が、子供の人格に代わった母親を、怯えた子供として扱っていたのである。
 私はまたDIDを持った女性のご主人達にもたくさん出会った。もちろん少ないながら男性のDIDの患者さんもいらして、そのような方をご主人として持つ奥様方とも何人か出会ってきた。そして一つ思うのは、おそらく別人格が別人であるということを本当に理解し、ある意味では治療的なかかわりを持っているのは彼ら、彼女らではないかということである。彼らは配偶者や親が人格の交代を起こすのを日常的に体験することになる。そして彼らは別人格を主人格にとっての別人、他者であることを認めることでしか、配偶者と関わっていけないという事情を理解するはずである。ただし患者さんのご両親の場合は別である。子供の解離症状を薄々感じてはいてもはっきり自覚しない、ないしは認めないというご両親は多い。もちろん両親の存在を含めた生育環境が、既にそこで解離症状が潜伏し、進行してきた場所であることを考えると、それは十分理解可能である。
 DIDの母親を持った子供は、小さいころはお母さんが二人いると思っていたという話を聞く。子供にとって母親を識別することは極めて重要になる。ユーチューブで見たあるシーンでは、母親の一卵性双生児の妹が訪ねてきたとき、初対面の赤ちゃんは、最初は母親と思って抱き着こうとした相手が別人と気が付き、恐怖におののいて泣き出していた。いわゆる「不気味の谷」を赤ちゃんが直接的に体験したことになるが、自分にとっての母親は一人であり、別人格状態にある母親は、母親と異なる他者だということを、幼児の段階で理解するという臨床的な事実はとても重要な意味を持つと言っていい。そして子供は母親のいくつかの人格を別人として認識するという臨床的な事実は、交代人格が他者であるという私の主張を支持してくれるのではないかと思う。
 またあるDIDの患者さんの話では、別人格になって帰宅すると、ペットのワンちゃんが、気配を察していつものように近づいてこなかったという話も聞く。

 

2022年2月25日金曜日

他者性の問題 その26

 本書では解離性障害における他者性がテーマになっているが、特にいわゆる「黒幕人格」がどの様に成立し、どのような行動をとるのか、そして患者さん本人の生活の中でどのような意味を持っているのかについて本章で論じたい。黒幕人格とは私が「怒りや攻撃性を伴った人格部分」(解離新時代 岩崎学術出版社、2015年)として定義して用いている表現である。時には「黒幕さん」という多少なりとも敬意を表した呼び方を用いることもある。この黒幕人格は交代人格の中でもとりわけ他者性が際立っていると考えることが出来る。それはしばしば主人格やそのほかの人格たちの利害とは異なる行動や思考を表すからである。

黒幕人格がどのように形成されるかについては、もちろん詳しいことが分からないが、いくつかの仮説のようなものがある。そしてそれを頭の隅に置いておくことで、臨床的な理解が深まるかもしれない。そもそもそれらの仮説は、臨床で出会う様々な現象や逸話をもとに、それらをうまく説明するように作り上げられたものだからである。

 黒幕人格と攻撃性

 黒幕人格に出会うことで改めて感じることがある。それは人格は基本的には「本人」とは異なる存在、いわば他者であるということだ。もちろん本書の基本的なテーゼは「交代人格は他者である」である。しかし黒幕さんの場合はとりわけそう感じられるのだ。それはどういうことか?
 交代人格としてはさまざまな種類の人たちがいる。本人により近い人たちもいる。ここで私が言う「本人」とは、いわゆる主人格や基本人格など、その人として普段ふるまっている人格のことだ。ここで本人に近い存在として例を挙げるとすれば、それは主人格Aさんの若い頃の人格Aさんである。Aさんが数年前に一定期間トラウマを体験したりすると、その期間のAさん(A´さん、としよう)が独立した人格として成立することがある。その人は基本的には若い頃のAさんそのものであるために、もちろん利害はおおむね一致しているであろう。だからAさんが欲することは恐らくA´さんも欲しているはずだ。

 ところが黒幕人格は大抵はAさんの利害に無頓着な様子を示す。そしてしばしばAさん達の生活を破壊し、その体に傷をつけるような振る舞いをするのだ。黒幕さんが去った後は、Aさんは何か嵐のような出来事が起きたらしいこと、それにより多くのものを失い、周囲の人々に迷惑をかけてしまった可能性があること、そして周囲の多くの人は自分がその責任を取るべきだと考えていることを知ることになる。それは黒幕さんの行動の多くが、その定義通り攻撃性、破壊性を伴うからである。ただし黒幕さんたちのことを深く知ると、その背後には悲しみや恨みの感情が隠されている場合があることを、「本人」も周囲も知るようになるのである。いったいなぜ「本人」が困ったり悲しんだりするような行動を「黒幕さん」たちはしてしまうのだろうか? 彼らが示す怒りとはどこから来るのだろうか。

2022年2月23日水曜日

他者性の問題 その25

 そこで他者とは何か、という事に話を戻したいと思います。
 それは自分でないもの、という事でしか定義できないものです。少し大きな話になりますが、生命体にとって自他を分けることは決定的に重要です。赤ちゃんはお母さんのオッパイを吸っていることを頭で想像しても、それが現実に存在する他者である母親からの授乳と区別が出来ないなら、想像しただけで満足してしまい、そのうち飢えて死んでしまうかもしれません。あるいは自分以外の何物かに接近されたり侵入されたりした場合にそれを警戒したり撃退しなくてはなりません。そこで私たちは自分由来のものを識別する能力を身に着けています。するとそれ以外のものは皆他者からの由来という事になります。この自他の区別は思いのほか込み入った手続きを必要とします。例えば私が自分の肩を触れるとします。脳では「私の手が肩にこれから触れるぞ」という前触れの感覚と、「肩が手により触れられるぞ」という前触れの感覚を予知しています。だからこれが自作自演だという事がわかるのです。これは確か小脳においてこれは自分の行動によるものだ、というタグ付けがなされることで自分は知らない人に急に肩を触られたという感覚を得なくて済むのです。このことは例えば免疫学についても言え、私たちは異物に対しては抗原抗体反応を起こしますが、自分の体の組織に対してはそれを異物として攻撃することはありません。しかしそれは決して自然にそうなっているわけではなく、複雑な免疫機構が働き、自分の体を異物として反応するようなリンパ球を片っ端から殺すことでやっと成立しているようなものです。これがいわゆる「免疫学的寛容性」と呼ばれる仕組みです。

2022年2月22日火曜日

他者性の問題 その24

責任能力とは?
 ここでこの問題に興味を持った。責任能力とは何か。このタームは精神医学のものではないから私が専門的な知識を持たないからといって恥じる必要はないが、DIDの問題を考える上でどうしても考えるべきテーマである。何しろそれにより患者さんが収監されるか、執行猶予つきになるか、無罪になるかが大きく変わってくるからである。(それに先を読んでいただくと、実は精神医学との関係がオオアリという事になるのだ。)
WIKI様(「責任能力」の項)にはこのように書いてある。「責任能力とは、一般的に、自らの行った行為について責任を負うことのできる能力をいう。刑法においては、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力をいう。また、民法では、不法行為上の責任を判断しうる能力をいう。」
そこで皆さんは問うだろう(実は詳しく調べる前に、私自身が考えていることである)。酒に酔ってタクシーの運転手に暴力を振るった人の場合(そのようなニュースを割と最近見たことがある)、その際は「事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力」を失ったとは言えないだろうか? まず間違いなく、それは認められないだろう。「勝手に酒に酔ったんだからその人の責任だ」で終わりである。では医師に処方されたロヒプノールを指示通り飲んだ人同じ行為に及んだらどうなのだろうか? ロヒプノールはマイナートランキライザー(精神安定剤)で、処方された量がその人にとって多すぎた場合は飲酒に似た酩酊状態になる。だから同じような行為に至る場合も十分あり得るのだ。そして後者の場合は責任能力は減弱していると認められるのだろうか? あるいは精神科で間歇性爆発性障害、ないしは衝動コントロール障害という病名があるが、それに罹患した人の場合は、物事の是非・善悪を弁別できても自分の行動をコントロールできないと見なされ、情状酌量の余地ありとなるのだろうか? ここで皆さんが考えていることと私の考えは一致しているはずだ。常識的に考えてその人に罪はないと思えるならば責任能力の低下を認める、という事になろう。(本題から外れるが、WIKI様によれば、江戸時代にはすでに「乱心」や未成年の場合の減刑が詠われていたらしい。この人は罰することが出来ないな、という感じ方は時代を超えているという事だ)。
 心神喪失や心神耗弱の例としては、「精神障害や知的障害・発達障害などの病的疾患、麻薬・覚せい剤・シンナーなどの使用によるもの、飲酒による酩酊などが挙げられる。」とあるがもちろん、「故意に心神喪失・心神耗弱に陥った場合、刑法第○○条適用されない」とある。だからアルコールによる酩酊はアウト、という事だ。さてここで悩ましい言葉が出て来ている。「精神障害や知的障害、発達障害」とある。そしておそらくここから先は闇なわけだ。ただし以下の文章を読んでいただきたい(日本語版WIKI様「責任能力」)
 被告人の精神状態が刑法39条にいう心神喪失又は心神耗弱に該当するかどうかは法律判断であって専ら裁判所にゆだねられるべき問題であることはもとより、その前提となる生物学的、心理学的要素についても、上記法律判断との関係で究極的には裁判所の評価にゆだねられるべき問題であり、専門家の提出した鑑定書に裁判所は拘束されない(最決昭和58年9月13日)。しかしながら、生物学的要素である精神障害の有無及び程度並びにこれが心理学的要素に与えた影響の有無及び程度については、その診断が臨床精神医学の本分であることにかんがみれば、専門家たる精神科医の意見が鑑定等として証拠となっている場合には、鑑定人の公正さや能力に疑いが生じたり、鑑定の前提条件に問題があったりするなど、これを採用し得ない合理的な事情が認められるのでない限り、その意見を十分に尊重して認定すべきものである(最判平成20年4月25日)。
被告人が犯行当時統合失調症にり患していたからといって、そのことだけで直ちに被告人が心神喪失の状態にあったとされるものではなく、その責任能力の有無・程度は、被告人の犯行当時の病状、犯行前の生活状態、犯行の動機・態様等を総合して判定すべきである(最決昭和59年7月3日)。

 分かりやすく言えば、精神科医の意見はしっかり聞きなさい、という事だ。しかしこれまで書いたように、検察側、弁護側がそれぞれ別個に精神科医の意見を証拠として提出するから問題が複雑になるのである。

2022年2月21日月曜日

他者性の問題 その23

 司法精神医学と解離性障害、という部分を書き出したが、この先どれほど長くなるのかわからない。

 本章では司法の領域においてDID(解離性同一性障害)がどの様に議論され、扱われ、あるいは処遇されているかについて論じたい。私はこれまで司法において解離性障害、特にDIDがどの様に扱われてきたかについてほとんど言及してこなかった。しかし実はこの問題は交代人格を他者と見なすという私の本書のテーゼにとって極めて重要な意味を持つ。司法領域において解離性障害が提示する問題は端的に言えば次のことである。

別人格の状態において行われる行為について、その別人格はどれほどの責任を負うべきであろうか?そしてそれに関して主人格はどうか。さらには「当人の人格」はどうか?

 ここで主人格、別人格という呼び方とは別に「当人の人格」呼び方がいきなり出てきたことに読者の皆さんは当惑するかもしれない。これ以上新たなタームが必要なのだろうか、とお考えであろう。私がここで「当人の人格」としては、例えば戸籍名がAさんだった場合、それを担っている人という意味で呼んでいる。Aさんのマイナンバーカードや保険証や運転免許には、Aという名前が氏名欄に書かれているはずだ。人に「Aさん」と呼ばれた彼(女)は「はい」と答えるだろう。戸籍名がその人であるという事を私たちは通常常識としては疑わない。たまたま芸名やペンネームを使っている人でも、本名を自分の本当の名前と考えるはずだ。そして司法の場でも、被告や原告の立場になった人の戸籍名Aさんをその人と同定するだろう。その人が証言した内容は「Aさんの証言内容」として記録される筈だ。

解離の文脈においてこのAさんに相当するものとして一番近いのは「基本人格 original personality」であろう。Aさんと名付けられて生まれ育った人が一番最初に持っていた「自分は○○である」というアイデンティティの感覚はまさにAだったであろうという想定の下に、これを最初の人格という意味で「基本人格」と呼ぶのが専門家の習わしだ。ただしこの英語の原語はoriginal personality であり、あえて字義通りに訳すならば「最初の人格」という事になり、それを「基本人格」と訳すのは少し無理があると考えているが。そこで「当人の人格」という紛らわしいタームの代わりに、少なくとも本章では「基本人格」というタームをこれに充てるとしよう。つまり基本人格とは戸籍名であるAさんをもって自任する人格さんという事になる。
 さて司法は法律を犯す、いわゆる違法行為が行われることに対処するものである。DIDの患者さんが司法領域で問題になるとすれば、誰かがそれを犯したという事になる。そこで問題になるのは、Aさん(基本人格)、Bさん(主人格)、Cさん(別人格)という事になる。この三人のうちの誰かが違法行為を犯したことになる。その違法行為として、例えば万引きを例にとろう。当人が万引きをしたところを店員さんに見つかる。そして店の奥に同行を求められる。ここで万引きを犯したのは、A,B,Cさんのうちだれかだという事になる。もちろんAさん=Bさんという状態、つまり基本人格が主人格である場合にはもう少しシンプルになるだろう。違法行為を犯したのはA(=B)さんかCさんの二人に絞られる。

2022年2月20日日曜日

他者性の問題 その22

  本章では司法の領域においてDID(解離性同一性障害)がどの様に議論され、扱われ、あるいは処遇されているかについて論じたい。実はこの問題は交代人格を他者と見なすという私の本書のテーゼにとって極めて重要な意味を持つ。司法領域において解離性障害が提示する問題は端的に言えば次のことである。

別人格の状態において行われる行為について、当の別人格はどれほどの責任を負うべきであろうか?そしてそれに関して主人格はどうか。さらには「当人の人格」はどうか?

ここで主人格、別人格という呼び方とは別に「当人の人格」呼び方がいきなり出てきたことに読者の皆さんは当惑するかもしれない。これ以上新たなタームが必要なのだろうか?しかし司法精神医学において解離性障害について論じる際この区別は必要である。「当人の人格」としては、例えば戸籍名がAさんだった場合、それを担っている人という意味で、いわゆる基本人格 original personality に一番近いであろう。そこでここでは基本人格という呼び方で統一しよう。基本人格=戸籍名を自認している人格、という意味である。

ここで分かりやすくAさん(戸籍名と同じ)、Bさん(主人格)、Cさん(別人格)と区別する。もちろんAさん=Bさんという状態、つまり基本人格が主人格である場合にはもう少しシンプルになるだろう。さて大抵は裁判における議論を複雑にするのは、Cさんが違法行為をし、Bさんが罪に問われるべきかという問題である。もしBさんが罪を犯したなら、BさんがあたかもAさんと見なされて普通の犯罪と同様に罪に問われるだけの話である。その際細かい話をするならば、当事者であるべきAさんがそこに出廷していると言えるのかという事も議論になるだろうが、そのレベルまでは裁判官も裁判員も問題としないであろう。

2022年2月19日土曜日

他者性の問題 その21

  ここで上原大祐先生のまとめに従い米国の司法精神医学において一般的な三つのアプローチを紹介しよう。ちなみに彼には4つのダウンロードできる論文がある。ありがたい! 今日の最大の収穫だ!
上原 大祐(2004)解離性同一性障害患者の刑事責任をめぐる考察--アメリカにおける議論を素材として. 広島法学 27(4), 185-209.
上原 大祐(2006)解離性同一性障害患者の責任能力判断 : 神戸地裁平成一六年七月二八日判決(平成一四年(わ)九一六号強盗致傷被告事件 <判例研究>30巻 2号
上原 大祐(2019)解離性同一性障害患者たる被告人の刑事責任判断・再考 : 近時の裁判例を素材として (前田稔教授退職記念号) 法学論集 53(2), 39-58.
上原大祐 (2020)判例研究 解離性同一性障害患者たる被告人の刑事責任能力判断 : 大阪高裁判決平成31年3月27日(平成31年(う)第53号 覚せい剤取締法違反被告事件) . 鹿児島大学法学論集54 ( 2 ) 25–38.


①DIDの診断があれば常に責任無能力とする立場。
②グローバルアプローチ:当該の違法な行為を主人格が弁識・制御できたら責任能力を認める立場。
③個別人格アプローチ:当該の違法な行為を行った人格が弁識・制御できたら責任能力を認める。
ちなみに②、③に出てくるグローバルアプローチ、個別人格アプローチというタームは、Lindsay博士という人によるとのことである(上原、2004)。
①はさすがに受け入れる人はいないであろう。そもそも解離性障害は精神病として認識されることはかつてなかった。せいぜい分類するとしたら神経症レベルである。だから常識的な判断が出来ることが想定される。だからDIDであることは免罪符にはならないのだ。問題は②だが、これはその行為をしたのが主人格であろうと別人格であろうと、主人格がその行為を弁識・制御できるなら責任能力がある。つまり主人格が自分や他人格の行動を理解してコントロールすることが出来る以上は責任があるという事になる。ただしここで難しいのは、主人格は誰か、という事だ。Aさんという戸籍名を持った人がいるとして、その人の主人格がAさんであるという必然性はない。Bさんかもしれない。それに裁判で証言する人はAさんとは限らない。もしAさんがとても気が弱く、主としてBさんに主人格の座を譲っている場合、Bさんの責任能力を問うことになるが、こうなると誰の裁判なのかが分からなくなる。「Aさん、あなたは有罪です」という判決に対してBさんは「私はAではありません。Bです。」と抗弁することもありうる。③については、行為を行った人格Bさんが精神病でなかったとしたらAさんの責任能力が問われることになる。通常は別人格の一人のみ精神病状態にあることは私の知る範囲では起きえないことになり、患者さんは有罪となるわけであるから、一番厳しい判断という事になるだろう。
 ただし私はこれを書いていて非常に混乱してしまっている。戸籍名Aさんを自認する人格が眠っていて、ずっとそれ以外の人格Bさんが受け答えをしている場合、Aさんは不在のままの裁判という事になる。それで裁判は成立するのか。あるいはAさんは無罪、Bさんは有罪(あるいはその逆)という判決はあり得るのか。その場合刑の執行は可能なのか。
 裁判がこれまで被告人として人格を複数持つ人を想定していない以上、これらに正解があろうはずがない。ついでに私が知識として知らないのは、自らの行動を弁別・統御できない状態として、精神病状態以外のものが想定できるのか? 意識レベルの低下は?薬物中毒の場合は?酩酊の場合は?衝動コントロールに障害のある人の場合は?この件については調べればすぐに分かるであろう。

2022年2月18日金曜日

他者性の問題 その20

 て私達は他者から承認されたいのと同時に自分のことを他者として扱って欲しいと思うこともあるのだ。それは人に決めつけられたくないからである。皆さんの中で小さい頃母親から「あなたはピアノを習いたいんでしょ」と言われてピアノの教室に通った人がいるかも知れない。そしてそのような場合おそらく母親に言われると本当に自分がピアノを習いたいんだと思った方が多いのではないか。しかし中には「どうしてお母さんは私がピアノを習いたいて決めつけるんだろう?」「どうして私には私のやりたいことがあることをわかってくれないのだろう?」と思ったかも知れない。他者として扱われるとは、自分が独立して自主性を発揮した人間とに遇して欲しいということである。お母さんも私を一人の人間として扱ってほしい、という事なのだ。でも同時にわかって欲しいとも思う。例のジレンマ(承認をめぐるジレンマ)がここに生じるのだ。私たちは私たちの持つ我儘な性質なのかもしれない。私の望みはそのまま理解し、出来れば叶えて欲しい。しかし私が望んでいないことについては、自分の考えを押し付けずに、放っておいて欲しい。分かって欲しいが正確に分かって欲しい。間違って理解されるくらいなら放っておいて欲しい。そして物事を欲する自由を与えて欲しい。そのくせ望む以上に放っておかれると「なんて思いやりがない人だろう?」と言い出しかねない。「私が寂しい思いをしていることがわからないのだろうか?」書いていてだんだん情けなくなってくる。

2022年2月17日木曜日

他者性の問題 その26

他者としての身体とポリヴェーガル理論

 これまでに転換性障害において私たちの脳内に他者の核のようなものが現れて運動野感覚器を支配する様子を描いた。しかし私たちの体が私たちの意に反して勝手な働きをするという例はそれ以外にもたくさんある。その意味では私たちの身体それ自体が「他者」としての要素を持ち、私たちの予想を裏切ったり、勝手な動きを起こしたりする。その中で自律神経系を挙げて論じたい。
 私たちの多くは自律神経と聞いて、こころとからだをつなぐ漠然とした神経系統を想像するだけかもしれない。たしかに従来は交感神経系と副交感神経(迷走神経)系のバランスによるホメオスタシスの維持という文脈で語られていた。しかし私たちがトラウマを体験した場合、そのフラッシュバックには心拍の高進、血圧の上昇といった著しい交感神経系の興奮を伴うことが多い。あるいは解離症状が顕著な場合、そこに逆に心拍の低下、迷走神経系の高進によるフリージングを伴う昏迷状態といった現象が見られる。これらは運動器や感覚器の異常を伴う事で転換性障害としての臨床的な表れをすることも多い。この様に自律神経系もまたトラウマに関連した感情や身体症状に深くかかわっていることが知られる。最近話題を呼んだvan der Kolk の著書の表題通り、まさに「身体はトラウマを記録する」のである。
van der Kolk, B. (2015). The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma. Penguin Books. (柴田 裕之訳 (2016)身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法.紀伊国屋書店.)
 このトラウマと自律神経系のかかわりに関して近年大きな業績が知られる。それが Stephen Porges という米国の生理学者が1990年代から提唱している「ボリヴェーガル理論 Polyvagal theory」である。この理論は、トラウマ関連のみならず、解離性障害、愛着関連など、様々な分野に関わり、また強い影響を及ぼしている。
  Porges の説を概観するならば、系統発達学的には神経制御のシステムは三つのステージを経ているという。第一段階は無髄神経系による内臓迷走神経で、これは消化や排泄を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経複合体(dorsal vagal comlex,DVC)の機能である。そして第二の段階はいわゆる闘争・逃避反応に深くかかわる交感神経系である。Porges はこれらに加えて、自律神経系の中でこれまで認知されずにいたもう一つの神経系として「腹側迷走神経複合体(ventral vagal comlex,VVC)」を発見した。彼はこれを「社会神経系」としてとらえ、神経系の包括的かつ系統発生的な理解を推し進めたことにあるが、なぜこれを「社会神経系」と呼ぶかと言えば、他者との交流は身体感覚や感情と不可分であり、それを主として担っているのがこの神経系と考えられるからだ。つまり自己と他者が互いの気持ちを汲み、癒しを与え合う際に重要な働きを行うのが、この腹側迷走神経複合体というわけである。
  Porgesの理論によれば、私たちが環境との関係を保ったり絶ったりする際に心臓の拍出量を迅速に統御するだけでなく、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。私たちは通常の生活の中では、概ね平静にふるまうことが出来るが、それはストレスが許容範囲内に収まっているからだ。そしてその際はVVCを介して心を落ち着かせ和ませてくれる他者の存在などにより呼吸や心拍数が静まり、心が安定する。ところがそれ以上の刺激になると、上述の交感神経系を媒介とする闘争-逃避反応やDVCによる凍りつきなどが生じるのである。このようにPorgesの論じたVVCは、私たちがトラウマに対する反応を回避する際にも自律神経系が重要な働きを行っているという点を示したのである。
 ところでポリヴェーガル理論は、感情についてどのような知見を与えてくれるのだろうか? そのヒントとなるのが、Porgesのニューロセプション neuroceptionという概念である。知覚perceptionが意識に登るのに対して、ニューロセプションは意識下のレベルで感知されるリスク評価を伝えるものであり、身に危険が迫った場合に思考を経ずに逃避(ないし闘争)行動のスイッチを押すという役割を果たす。これは感情を含んだ広義の体感としてもとらえることが出来、Damasioのソマティックマーカーに相当する概念ともいえる。そしてそのトリガーとなるものの一部は、目の前の相手のVVCを介した声の調子、表情、眼差しなどである。このようにPorges にとっては自立神経系の働きと感情との関りは明白である。
  このようなPorgesの理論からは、感情と自律神経との関係はおのずと明らかである。人間の感情が声のトーンや顔面の表情によって表現され、また胃の痛みや吐き気などの内臓感覚と深く関与することを考えれば、それらを統括するVCCの関与は明らかであるとも言える。VCCは発達早期の母子関係を通して母親のそれの活動との交流を通じてはぐくまれ、発語、表情などに深く関与する。その中で感情体験は身体感覚や内受容感覚も複雑に絡み合って発達し、その個の自然界における生存にとって重要な意味を持つのである。
  私たちがこれまで論じてきた他者性の観点からは、このニューロセプションの独自の動きが私たちの身体に他者性を付与するものと考えることが出来る。意識に上る知覚(パーセプション)とは違い、それ以外の様々な感覚が自律神経系を通して処理され、それが感情へと結びつく。人は思いがけず涙ぐみ、また怒りを覚える。「身体は嘘をつかない」と思うと同時に「身体が私を裏切った」という感覚を持つのもそのような時ではないだろうか。その時私たちの身体は自律神経=感情システムという「他者」を自らの内に感じるのだ。

他者性の問題 その19 

  相変わらず、他者についてグダグダ考えている。そもそも他者とは誰()?それは自分でないものだ。私達は自分でないものを知るために、自分由来のものにはタグをつける。私たちが自分の肩に触れる時、肩に手が触れる時の肩の感覚と、手の感覚を予想してあらかじめタグをつけておくので、あ,これは自分由来だな、自作自演だな、とわかる.このことは免疫でも同じ。自分由来の細胞には「自分のもの」と名前がつけてあるから免疫細胞は自分を攻撃しない。この機能が失なわれると自己免疫疾患になる。自分の細胞を誤って攻撃し始めるのだ。そこで私達に自分由来のものに一生懸命タグを付けることで、他者がすぐにそれとわかるようにする。他者がなぜ重要かといえば、それは現実を知らせてくれるからであり、具体的には敵の存在を知らせてくれるのだ。それにより私たちは現実の敵から攻撃されたり、補食されたりすることを回避できるからだ。さて承認の話だ。自分は自分をほめるには十分でない。私の母親イメージに誉められても少しも嬉しくないのは、それが自作自演だ.更に実際の母親に誉められても嬉しくないのは、もう母親を他者と見れないからと言えよう。誉め言葉は見ず知らずの他者からのものでないと嬉しくない。見ず知らずだからその人からの刺激は新鮮なのだ。

2022年2月16日水曜日

他者性の問題 その18

 (解離性障害と司法の話の続き)

すると何が起きるかと言えば、検事側に立った精神科医と弁護人側に立った精神科医が同じ患者さんを診察して、異なる意見書を提出し、そのどちらに信憑性があるかが裁判で争われることになる。読者の方は同じケースを前にして、どうして精神科医が異なる意見を戦わせることになるかがぴんと来ないかも知れない。「精神科医は医学者であり、客観的に診察することが出来る患者にそれほど学問的な論争が起きるような異なった意見が提出されるのであろうか」と疑問に思うかもしれない。しかしそもそも検事と弁護士は法律の専門家であっても真っ向から意見が対立することを考えれば、その様なことは精神医学界でもいくらでもあり得ることは想像されるであろう。そしてDIDの関わる犯罪については、だいたいパターンが決まっているようである。それは次のような対立構造として表される。

検事側の精神科医: 原告ADIDに罹患していない、もしくは罹患していても軽症である、もしくは罹患していても交代人格は事件に関与していない。

弁護側の精神科医: 原告ADIDに罹患していて、交代人格の状態で事件にかかわった。

読者はどうして検事側と弁護側でそのように決まったパターンの意見書が提出されるのか、と疑問に思うかもしれない。あるいは精神科医は検事側に雇われたならそのパターンの意見書を出し、弁護側に雇われたらそちらのパターンの意見書を書くのか? もちろんそんなことはない。事件に関して報告を受けた精神科医が独自に判断を行う。しかしどの精神科医が検事側の意見を言い、どの精神科医が違うか、という事はあらかじめその精神科医が同様のケースで提出した意見書から想像がつく。そして非常に分かりやすく言えば、解離を否認する立場の精神科医が検事側につき、肯定する立場が弁護側に着くという傾向にあるというのもある意味では当然かもしれない。その意味では本書に出てきた「解離否認症候群」の話は、司法の領域にもはっきりと表れることになる。

2022年2月15日火曜日

引き続き 他者性の問題 17

 さて次の絵に出てくるのは、このSの隣に赤い破線の〇で示したPPという場所が成立した様子を描いている。


このPPという頭文字の意味するところはまだ明らかにしないでおこう。これがSの部分の横に出現しているのがわかるだろう。そしてそれは運動野や感覚野に勝手に信号を送っている。それが赤い線によってあらわされている。すると何が起きるかと言えば、運動野の特定のネットワークを妨害し、それにより手足が動かなくなったり、意図せずに勝手に動いたりする。あるいは皮膚からの感覚入力に変化が起こり、それが麻痺したり異常な感覚を起こしたりするであろう。問題はSすなわち主体は自分の体で何が起きたかを知らないという事である。PPは主体にとって他者的な存在であり、それが何を意図しているかはわからない。だから体験としては「勝手に手が動いた」「急に唇の感覚がなくなった」となるのである。この感覚は、例えば「無意識に手が動いた」という体験との差異が微妙であると言わなくてはならない。これとPPの影響による体験は時には同等であり、時には異なる。というのも私たちが「無意識的に~した」と感じる時に、どこかで自らのかすかな意図に気が付いていたりするからである。そもそも「無意識的」には記述的、力動的、という異なる用い方があるとされる。記述的、というのはそれをやっている瞬間は意識をしていなかったという事である。例えば私たちは歩いている時いちいち「ハイ、次は右足を前に出して」などと意識しているわけではない。でも足が勝手に動いた、とは思わないわけである。ところがPPによって妨害電波を流された運動野や知覚野により生じる運動野近くの異常はSにとっては完全に異物と感じられるのである。

2022年2月14日月曜日

オンライン治療におけるテレプレゼンスに関する質問に答える

Q1 プレセンズ(その場での気配、存在感)とテレプレゼンス(オンラインでの気配、存在感)について。対面でのセッションとズームを用いた場合で、気配の違いがあります。それらは互いに補うような関係なのでしょうか?両方のやり方の治療的な「行き来」は可能でしょうか?

A1 私は基本的にプレゼンス(つまり実際に会っている時の気配、存在感)とテレプレセンスとは別物であり、別々の種類の体験であるという考え方を取っています。あるいは別々の(治療)構造を提供しているともいえるでしょうか。各人が両方の「プレゼンス」について、やりやすい部分、やりにくい部分を持っているのでしょう。それは例えば対面法とカウチを用いたセッションに似ています。こちらもそれぞれが別々の体験を生むでしょう。その際に「カウチで足りなかった分、対面でやりましょう」とか「対面で出来なかった分を補充するためにカウチを使いましょう」と考えて両者の間を「行き来」するでしょうか?それはあって構わないし、それなりに有益だと思います(実際に私は自分の分析家との間でそのような経験も持ちました)があまり聞きませんね。それらは恐らくは別々の体験として自分の中に蓄積されるのではないでしょうか?もう一つ先生のご質問から浮かんだことは、実際に会ってカウチを用いるセッションでも、ヒアアンドナウを無きものにしてしまおうという私たち分析家の傾向はとても強いという事です。私自身にもそれを強く感じます。逆にオンライン上でもヒアアンドナウを心がけることで、それをかなりの程度まで高めることが出来るのではないでしょうか? これは自戒の念を込めてのお答えです。 

Q2 オンラインセラピーを導入することは構造の揺らぎをもたらすわけですが、それは治療にとって一つの好機ととらえるべきでしょうか?

A2 私の本の一文を引用していただきありがとうございます。まさにそうですね。オンラインへの移行という問題を超えて、新型コロナの影響を被った治療関係がどの様にそれに耐え、乗り切るかを一緒に考えるという点はまさに柔構造的なスタンスであり、そこに大きな治療的な意味があると考えます。

2022年2月13日日曜日

引き続き 他者性の問題 16

  ある交代人格の意識が他者性を備えているかという問いについて考える際、問われるべきなのはそもそも意識とは何か、という事である。交代人格が他者としての意味を持つ場合、それは少なくとも統一されていなくてはならない。それは何者かの一部ではなく、独立して存在し、機能しなければならない。そのためにも意識が一つの統合体、統一体であるという事は明確に確認しておかなくてはならない。
 交代人格が一つの統合体であることを強調するのは他でもない。交代人格は部分 part ないし断片 fragment であるという議論が多くの識者により提示されているという現状があるからである。それに対する反論としては、交代人格が部分ではないことを示すことになるが、それよりも交代人格を含めた意識自体が基本的には統一体であるという事を示すことで十分であると考える。
 交代人格が一つの意識であることは臨床家として体験的に分かることだ。それは一人の人としての体験を持ち、感情を持ち、他者との差異を明確に体験し、それを情緒反応や行動により表現している点で、ごく普通の一般人と変わらない。ただそれが時間的に限られ、別の意識に交代するという事が希ならず起きるという点だけが違うのである。

意識とはあるクオリアの伴った体験を持つものと私は定義したいが、その際意識は統合されている。つまり断片的な意識、等というものはない。ここら辺はEdelman Tononi The Universe of Consciousness. の助けを借りよう。

Charles Sherrington: The Integrative Action of the Nervous System. Yale University Press, 1906.

100年以上も前にチャールズ・シェリングトンは次のようなことを言っている。「自己は統一であるthe self is a unity」と。ウィリアム・ジェームズも言っている。「意識の最大の特徴は、単一で固有であるunitary and privateという事だ」と。ある意識を持った個人と関わる時は、それは分解不可能な統一体である。体験を持つ個人individual とはその後そのものが分けるdivide ことが出来ない。もし意識活動を部分に分けるとしたら、意識的な体験はその総和以上の新たなものなのである。したがって意識活動を純粋な意味で分割することはできない。この様な考え方は近年ではBernard Baars らによるGlobal workspace theory として提示されている。

2022年2月12日土曜日

引き続き 他者性の問題 15

 解離の治療とオープンダイアローグ

さてここからの私の話は、解離性障害の治療といわゆる「オープンダイアローグ」とのかかわりに関するものになる。私は最近、斎藤環先生の漫画「やってみたくなるオープンダイアローグ」を読んでいて、これはDIDの治療にもそのまま言えるのではないかと思ったのだ。

オープンダイアローグOpen Dialogue(以下OD)は、統合失調症に対する治療的介入の手法で、フィンランドあるファミリー・セラピストを中心に、1980年代から実践されているものである。統合失調症、うつ病、引きこもりなどの治療に大きな成果をあげているという。患者や家族から依頼を受けた医療スタッフがチームを組んで患者の自宅を訪問する。そして患者を前にして毎日チームの中で対話を行うという方法だ。

このODの中でも「リフレクティング」と呼ばれる手法は、患者を除いた治療者どうしが椅子を動かして互いに向き合い、患者について話し合う場を設けることである。つまり患者が傍観者となって、自分についての話し合いをスタッフ達がするのを聞くことになる。そしてここがODの中で一番ユニークなところかも知れない、と斎藤先生も書いておられる。

このテクニックで大事なのは、患者に治療者を観察してもらう事であるという。治療者間の対立などもその観察の対象になる。なぜこれが大切かと言えば、「患者がいないところで患者の話をしてはいけない」というルールがODにはあるからだという。そしてリフレクティングの中では患者は尊厳や主体性を与えられた気持ちになるというのだ。その意味でこのテクニックはODの根幹部分であるという。

ただしもちろんリフレクティングの中で患者に関するネガティブなことは言わないことが大事であるという。何しろ当事者が聞いているのである。またリフレクティングは「差異を扱う」という事が言われるが、それは皆が注意深く色々な意見を出し合うからだ。そこでは患者に対して何かコメントを伝えるのではなく、「彼は~と考えているのではないか?」という言い方をするということである。このプロセスでおそらく重要なのは、患者が自分について様々な治療者が異なる見方をしてくれているのを聞き、そしてそこに唯一の正解などないという事を理解することだろう。

本稿の解離性障害のテーマにこのリフレクティングのプロセスがどの様に関係するかを説明しよう。それはDIDの治療では、治療者はどの人格と対話をしていても他の人格にとってのリフレクティングとしての様相を帯びているのである。Aさんという人格と話していて、他の人格Bさん、Cさんについて言及するとき、Bさん、Cさんはそれを蚊帳の外から聞いている可能性がある。人格によっては治療場面に姿を現さないために、唯一その様な状況でしか治療者の自分についての考えを聞けないという事にもなるだろう。したがって以下に紹介するようなリフレクティングで重んじなくてはならない決まりは、結局はDIDの治療でも同じように重んじられるという事になる。

ここで「やってみたくなるオープンダイアローグ」に書かれているリフレクティングのルールを振り返ってみよう。これらはすべてDIDの治療に当てはまる、と私は考えている。4つの項目とは以下のとおりである。


◆  話し合われている当事者には視線を向けないこと。

 ◆  マイナス評価は控えること。

 ◆ 共感を伝えること。

 ◆ 患者がいないところで患者の話をしないこと。

 まず第一番目の「話し合われている当事者には視線を向けないこと」である。リフレクティングにおいては、患者と視線を合わせないことで、第三者に向かって語っているという雰囲気を作ることになる。もちろん交代人格Bさんに直接話す時にはその人格さんに向き合うわけだが、それは同時に他の人格AさんCさんたちには視線を合わせないことになるのだ。

ここで話題になるBさんは、しばしば黒幕人格であることが多いので、そのような例を考えよう。というのも黒幕人格が時々感情的になったり他人を攻撃したりすることでほかの人格が困惑したりその対処に苦労したりし、その分だけ話題に上がりやすいからである。その場合に特に気を付けるべきなのは、黒幕人格に対する敬意を忘れないというである。私は普通は「黒幕さん」という呼び方をしている。「黒幕」という言い方も、実は陰で大きな権力を持っているという、いわばポジティブな意味を含んでいるのだ。ちなみに私は黒幕人格について英語の論文を書いたことがあるが、そこでは英語での表現としてshadowy figure を用いた。このshadowという表現も隠然たる力を持っているというポジティブな意味を持つ。

もちろん話の対象となっている黒幕さんが彼に関するリフレクティングを聞いているとは限らない。その間彼は内側で寝ていることも多いのである。それでも黒幕さんには失礼のないようにしなくてはならない。さもないと黒幕さんがそれを聞いていた場合には、彼の協力を得ることが難しくなる。「黒幕さんにはお引き取り願えるといいですね」「何か大きな事件が起きる時までは、黒幕さんにはゆっくり休んでいただくといいでしょうね」という治療者からの間接的な提案も、敬意を表しつつ行うことで初めて黒幕さんに聞いてもらえるのである。

次に第二番目「マイナス評価は控えること」であるが、これも今書いた話と通じることだ。誰だって第三者が自分にネガティブ評価を下すのを聞きたくない。第三者に、私が聞いていることを想定しない場面でしてもらいたいのはあくまでもポジティブな評価である。それを聞くことで人は「本当に理解されているのだ、やはり見る人にはわかってもらっているんだ」という体験となる。

第三番目の「共感を伝えること」についても当然のことと言わなくてはならない。自分が分かってもらっていると思えること、それは第三者が、自分のいないところで言ってくれることで最も印象深い体験となるのだ。

第四番目「患者がいないところで患者の話をしないこと」については、いろいろ議論を呼ぶところであろう。これは要するに治療スタッフは患者の陰口を利くな、ということだ。そしてその意味では解離性障害に限らず、すべての治療関係について言えることである。おそらくカルテ記載についても、ケース報告の場でも言えることだろう。私はこのことを以下のように言いなおしたいと思う。

「患者当人が自己愛的な傷つきを体験するような話や記載の仕方はどこでもすべきでない」。

この様に言うと、「では治療者は患者さんについて思ったことは、それがネガティブな内容であるなら、どこにも表現できないのではないか」と思う方もいらっしゃるかもしれない。しかし私たちは他人にネガティブなことを言われたとしても、そのトーンとか言い回しにより、それがトラウマ体験になるかどうかが全く異なるという事を知っている。要するにそのネガティブな表現にも愛情や敬意があるか、という事だ。

例えば会社でAさんという人が横暴で、同僚の何人かはそれに辟易して、もうAさんに会社を辞めてもらいたいとさえ思っているとしよう。そのような事態はどこの職場でも多かれ少なかれあるはずだ。そのとき、たとえば「ほんといい加減にAさんにはうんざりしちゃうね。」というのと「Aさんには〇〇の長所もあるけれど、あのペースにはついていけないところがあるよね。」と言われたのでは、もしAさんがそれを耳にした時の印象としては大きな違いが生まれるだろう。そしておそらくAさんという人には様々な長所と短所があるはずですから、後者の言い方の方がまだリアリティに近いという可能性がある。するとAさんは前者のような声を聞けば自分を全否定されて立ち直れない気分になるかもしれないが、後者を聞けば「自分は自分の能力に従ったペースをほかの人に期待したり押し付けたりしてもだめなんだ。」という前向きな気持ちになるかもしれないのである。

繰り返すと「人の陰口を聞かない」、というのは「患者当人が聞いたり読んだりした際に、そこに自己愛の傷つきや恨みを伴うようなことを言ったり書いたりするべきでない」ととらえなおすのであれば、あらゆる治療の文脈においてこのことは言えることであるし、また交代人格に対するコメントとしてもいえることなのだ。

ちなみに精神分析関係の方々については、このような言い方が通じやすいかもしれない。患者さんに対するネガティブな内容は、逆転移の理解を経て言ったり書いたりするべきであるということである。そうでないとそれらは簡単に攻撃や悪口になってしまう。それよりは、それが自分の感情的な反応の部分を客観的に反省しつつ語られることで、臨床的にも役に立つことになるのである。

以上交代人格に出会う事というテーマで、このEMDR学会でお話をしたものを文章化した。皆様がDIDの患者さんとの出会いを体験する際に少しでも参考になることを願う。

2022年2月11日金曜日

引き続き 他者性の問題 14

以前に書いた部分の推敲

他者」としての交代人格と出会う事

解離性障害、特に解離性同一性障害(以下、DID)の臨床には様々な問題が山積している。その概念上の混乱、精神分析の中での不安定な位置づけなどは、その解決の糸口を見つけることでさえ容易ではないという印象を受ける。しかし最大の問題は、臨床場面において解離性同一性障害がどの様に扱われているかという事だ。最近では以前ほどではなくなったかもしれないが、それでもDIDという状態そのものを認めようとしないという態度が、いまだに精神科医やそのほかの臨床家にもみられるとしたらこれは深刻な問題である。 

そのことについて私は最近杉山登志郎先生の書かれた一文を目にしてかなり実感を持つようになった。杉山先生(愛知小児センター「子育て支援外来」)は日本の精神医学界で、とりわけトラウマ関連で非常に強い発信力を持っておられる方だが、先生の著書に次のような個所を発見した。

「一般の精神科医療の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?) が、主流になっているように感じる。だがこれは、多重人格成立の過程から見ると、誤った対応と言わざるを得ない」。
(杉山登志郎 (2020) 発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療 p.105)

これは私がもしかしたらわが国でも起きているかもしれないと危惧していたことである。そして私がはじめてそれが文章化されたものを見たのが、この杉山先生の記載だったのだ。しかしこれはいったいどういう事であろうか?

現在は精神医学という分野があり、その専門家(精神科医)がいる。そして彼らは一定の教育を受け、基本的には精神医学の教科書に準拠して勉強し、研究を行い、また治療を行う。それは内科や外科などのほかの科と同じである。そして精神医学にはDSM(アメリカの基準)とICDWHOの基準)という、テキストではないにしてもそれに近い、時にはバイブルとさえ言われている診断基準がある。そして解離性障害及びその中の一つのタイプである解離性同一性障害はしっかり掲げられているのだ。ところがその症例を目の当たりにしても、精神科医の主流はそれを「取り合わない」というのだ。これが何を意味するのだろうか?

ただし私はここで現代の精神医学の批判をしたいわけでも、その変革を唱えているわけでもない。むしろなぜそれが現実なのかを少しでも明らかにしたいのである。

2022年2月10日木曜日

引き続き 他者性の問題 13


この図は私たちの意志と運動野や感覚野と、筋肉などの運動

器や唇などの感覚器との関係を示したものだ。一番左に書いた点線の〇は漠然と私たちの心、意志のセンターと思って戴きたい。もちろん心はこのように一か所に集中しているところではないが、どこかで全体的な判断をする場所としては前頭葉が挙げられる。そして人間らしい高度な判断はこの前頭葉の広範な破壊で失われるために、ここのどこか、あるいはここ全体が意思のありかであると考えられている。この前頭葉は脳の各部分の情報を一手に担って判断を下すところである。その意味で「
S」(subjectivity, 主体)と名前を付けておこう。さてそこから「腕を曲げろ」という指令が大脳の運動野(オレンジ色の部分)に伝達されると、そこからは筋肉に信号が送られる。今度は逆に感覚器から送られてくる信号は、感覚野(黄緑色の部分)に送られて、そこからSに伝えられる。(どうして感覚器として、目とか耳とかを例として挙げないかというと、これらの感覚は独立した視覚野、聴覚野という広いエリアに送られてくるので、それ以外の感覚が送られてくる感覚野への入力の例として唇やその他の皮膚感覚を挙げたのだ。)


2022年2月9日水曜日

引き続き 他者性の問題 12

 司法精神医学の立場から解離性障害について何が言えるだろうか。私はこれまで10例程度の解離性障害の被告に関する裁判に関わり、出廷し、証言をしてきた。被告者と拘置所で何度も面会し、法廷の証人席で長い時間を過ごし、そしてそれ以上に長い時間を報告書の作成に費やした。もちろん私はその多くを私は公にすることが出来ない。医師は守秘義務を担う。「医師・患者関係において知りえた患者に関する秘密をほかに漏洩してはならない」ということだ。ただし司法プロセスはまた公開されるべきものである。法廷は原則公開され、それが世間の注目を浴びる事件であればかなり詳しく報道されている。それを私が引用することには何ら法的制限はないはずである。

そこで本章はそのような注意を払いながら執筆することになるが、一つ強く思うことがある。それは司法の場では、解離性障害はまだまだ認められていないということだ。誰によってであろうか? 裁判官だろうか? 裁判員だろうか? 弁護側だろうか? 検事側だろうか? それとも精神鑑定に当たる精神科医であろうか? 結論から言えばその元凶の主たるものは精神鑑定に当たる精神科医の判断にあるといわなければならない。

こう書くと読者の方は混乱するかもしれない。「え、精神科医の専門的な意見を裁判官が受け入れないということではないのか? それにあなただって精神鑑定に当たる精神科医のはずではないか?」そこでこれには説明が必要だが、簡単に言ってしまえば、検事側についた精神科医の無理解が問題である、ということだ。私は通常弁護側の精神科医として証言するわけであり、法廷では二人の精神科医が異なった意見を提出するという形をとる。そして裁判官は検事側の精神科医の意見、すなわち解離性障害についての理解が十分でない側を採用するというのが通常起きていることなのである。これで少しわかりやすくなっただろうか?

以下にもう少しかみ砕いて説明しよう。ある解離性障害を持った方Aさんが罪を犯し、逮捕されるとする。Aさんは例えば何らかの形で人に危害を加えたとしよう。ところがAさんはその事件にかかわったことを記憶していないという。そして精神科に通院歴があり、時々別の人格状態Bになり、Aさんが通常起こすことのない行動を見せるということが明らかになり、この人への危害もBさんの状態で行ったことであるらしいということになる。そして被害者がAさんを訴えるという訴訟が起こされる。この場合原告(訴える側の被害者)は検事が付き、被告(訴えられる側であるAさん)には弁護人が付く。検事側はAさんは罪に問われるべきであると訴え、弁護側はAさんは無罪であると主張したり、減刑されるべきだと主張することになる。そしてそれぞれが参考人を選び専門的な意見を聞くことになる。

引き続き 他者性の問題 11

  解離における他者性について論じるためには、いわゆる転換性障害において生じていることから語り起こさなくてはならないであろう。ICD-10,ICD-11の記載にみられるとおり、いわゆる転換性障害は解離性障害の一部として最も整合的に理解することが出来る。では転換性障害(のちに述べるように最近ではこの名称の変更が見られた)とは何か?
 もちろん既定路線のテキストブック的な定義はある。それは次のようなものだ。「解離性障害はアイデンティティ、感覚、知覚、感情、思考、記憶、身体的運動の統制、行動のうちどれかについて、正常な統合が不随意的に破綻したり断絶したりすることを特徴とする。」(ICD-11,World Health Organization)それによれば、「感覚、知覚、身体的運動の統制や行動の正常な統合が不随意的に破綻したり断絶したりすること」ということになる。しかしそれでもわかりにくい。
 この解離性障害の定義が一体何を言おうとしているかと言えば、人間の精神、身体機能は纏められて(統合されて)いて、それが失調した場合に解離性の症状が起きる、ということだ。要するに心身がバラバラに動き出すということだが、これでもまだわからない。しかし解離の臨床に携わっている立場からは、次のような表現が一番ぴったりくるように思う。それは脳のどこかにある種の中心が出来上がり、そこが勝手に信号を送って体の動きを妨害する、といった障害なのである。本書をお読みになっている方は、私の筋書きが少しお分かりかも知れない。そう、そのどこかの中心とは、「他者」の原型なのだ。ただしそれはまだ人格を成しているわけではない。脳のどこか、おそらくは前頭葉のどこかに出来上がったニューラルネットワークということになろう。そこが異常信号を発する。それもあるとき決まったようにそれを行うことが多い。まるで意図を持っているかのようである。

2022年2月8日火曜日

引き続き 他者性の問題 10

 結局ジレンマの処理の仕方は弁証法的ということになる。これまでの議論で他人は内的対象としての側面と他者としての側面を共に有する可能性があるということを示した。私たちは主体でありたい、でも対象化されて、理解してほしいという矛盾を抱えている。これは主人と奴隷という関係に近いかもしれない。主体であるということは自分は完全な自由を有し、だれにも隷属しないということである。奴隷は相手の想像の意のままにされるということだ。私たちはこの両方の願望を持っているといっていい。相手から独立し、自由でいたい側面と、相手の心の世界に取り込まれたいという願望である。そして他方では私たちは他人を自分が想像する通りの、いわば自分のような側面と、計り知れない他者としての側面の間を行ったり来たりしている。このあり方は弁証法的ということになる。

ここでヘーゲルの主人と奴隷の弁証法について復習する。と言ってもブリタニカ国際大百科事典 のコピペである。

 ドイツの哲学者 F.ヘーゲルが『精神現象学』のなかで展開した,自由と権威の関係についてのきわめて示唆的な議論。人間が自由で自立的な存在であるためには,他者からの承認が必要である。そこで人々の間で相互承認を求める闘争が生じ,必然的に勝者=主人と敗者=奴隷が生み出され,その結果,奴隷は労働し,主人は享受する。だが奴隷は労働を通して自然を知り,自己を形成することができるが,主人は消費に没頭するだけで労働による自己形成ができない。主人の生活は奴隷に依存するばかりか,奴隷が自由と自立を獲得していくのに対して,主人はそれを喪失していくだけである。そうなると,みずからの意識においては自立していると思っている主人は客観的には自立を喪失しているのであり,逆に奴隷は自立していないという意識のもとで,真理においては自立的なのである。この真理が明らかになるとき,主人と奴隷の立場は入替る。ここに示されているのは,マルクスにも影響を与えたその独自の労働観だけではなく,支配-被支配の関係が本質的に相互承認を前提としたものであること,ならびに自由が本質的に最高の共同の中でしか実現されず,そこにいたる過程が不断に逆転する契機を持った闘争であることである。

  なんかピンとこないな。特に「人間が自由で自立的な存在であるためには,他者からの承認が必要である。」と言い切っているところが違う気がする。自由で自立的であるためには、それに他の人がしたがって、動いてくれなくてはならない。社長が自由で自主的に動くとき、社員はおそらく相当無理して、黙って言うことを聞いているはずだから。そのように考えるとこの表現は正しいが、心理学的な言い方だと、社長が自信をもって自主性を発揮するためには他人(奴隷)から共感され、認められる必要がある、ということか。すると支配しているはずの奴隷に、実は依存しているということになる。つまり人が自由で自主的であるためには、他人に依存的でなくてはならないという矛盾だ。

2022年2月7日月曜日

引き続き 他者性の問題 9

 人は基本的に自分が見えない(自分はそれこそ他者である?)

人はなぜ自分のことがこれほど見えなくなるのか? この問題についてもう少し考えてみた。以前も論じたことである。あなたは自分のことがある程度わかっているはずだとしよう。客観的にみても社会的な役割を果たしているし、主観的にも自分とはだれかについての迷いは特にない。しかし自分はダメな人間ではないか、あるいは自分が考えている以上に優れた人間ではないか、などという気持ちはしばしば湧く。そしてこのような自己の感覚の揺らぎは人から何を言われるかにより結構揺らぐものである。これは例の「他者から評価されるとうれしい」ということと同類のことだ。私たちはよく人から「あなたは○○だ」と言われて最初は意外でも、「私って本当に○○じゃないだろうか?」と気にする人を見ると、「どうしてそう思うの?気にする必要はないでしょう」と言いたくなることが多い。他者のイメージはある程度定まっているから少し○○なところがあったとしてもそれは気にする程度ではない、などと客観的に評価できる。しかし当の自分が同じようなこと、「あなたは××だ」と言われるととたんに気になり、そのような気になってしまう。自分のことは見えなくなるからだ。

あなたが鏡を見る。そこに映るあなたは、例えば自分はかなりイケてると思うかもしれない。あるいは老けてると思うかもしれない。しかしその鏡を見つめているうちに「イケてる」「老けてる」などの印象はどんどん遠ざかっていく。見えなくなっていくのだ。

ちょっと話はそれるが、このことは人がどのような立場にあり、どのように自分を理解しているとしても、心理療法を必要とする場合があることを意味する。たとえフロイトでも(フロイトだからこそ?)自分のことは見えないから身近なこと、弟子との関係などで他者からどう見えるかを伝えてもらう必要があるのだ。

このように考えるとどうして私たちは他者を必要としているかが今一つ分かる。私たちは他者に理解してもらいたいとともに、自分の存在を支えてもらう必要があるのだ。他者に「大丈夫、いつものあなたですよ」というサインを送ってもらえることで、私たちは今日も生きていける、というところがあるのだ。「いいね」は私たちの精神生活に必要不可欠なのだ。(と言っても私はSNSのやり方を知らないので、実際の「いいね」とは無縁であるが。)

2022年2月6日日曜日

偽りの記憶 論文化 18

 ここの部分少し書き換えた。

 ところでこのサブリミナル効果の問題は、精神分析の世界ではより差し迫ったテーマとなり得る。精神分析で通常無意識の内容として考えられるのは、心の奥底に意識されることなく蠢いている本能や願望やファンタジーなどである。しかしフロイトはまた無意識における思考プロセスを一次過程と呼び、それは知覚同一性を目指し、圧縮や置き換えや象徴化などの文字の操作が関わるとする(Freud, 1900)。フロイトは夢において極めて特徴的な心的プロセスが働き、いくつかの単語が組み合わさるといったいわば化学反応のような現象が脳で生じて、それが症状として表れるという説明を行ったのだ。しかしそれは最近のサブリミナルメッセージの研究の一つと似ている。例えば歌に組み込まれた「バックワードマスキング」(逆に再生すると現れるメッセージ)が効果を発揮するという研究もある。「ルイテレワノロハエマオ」と聞いた人が、なぜか背筋がゾッとしたとする。そしてこれを逆向きに読むと「お前は呪われている」となり、無意識はその様なパズルを解き、ヒヤッとするという理屈だ。しかし実際にはその種のメッセージにどの程度サブリミナル効果があるか自体が議論の対象になっているが、それはフロイトが想定したような無意識による一次過程の影響と同じレベルの問題と言えるだろう。サブリミナル効果の問題の複雑性はこのように精神分析的な心の理論をどのように臨床に位置付けるかという問題とも連動しているのである。

2022年2月5日土曜日

偽りの記憶 論文化 17

 また少し付け加えた

例えばある20代の男性は、(以下略)

このようなプロセスに主として関係しているのが、解離という現象である。解離を一言で説明するのは難しいが、あえて直感的な表現をすると、心がある特殊なモード(解離状態)になり、少なくともその間に起きたトラウマ的な出来事に関する記憶が、脳の中の普段は取り出す(想起する)ことが出来ないような場所に留められるのである。そしてそれはその出来事に関連した何らかのトリガーにより、あるいはその出来事の際の解離状態に戻った時に限り想起されるのだ。これと類似の現象は飲酒による酩酊状態、いわゆるブラックアウト現象としてなじみがある方も多いだろう。この解離状態は精緻化されて一つの人格状態にまで発展することがある。するとAさんという人格の時に体験した事柄は、Bさんという別の人格の時には思い出すことが出来ない、といった状態が生じることになる。
 ここで注意が必要なのは、この解離とこれまで述べた抑圧とは異なる現象であり、概念であるということだ。抑圧とは意志の力である事柄を考えまいとする心の働きとしてフロイトが100年前に提唱したものであるが、実験心理学によりそのような現象が存在するかの議論はいまだに分かれている。特に抑圧とは異なる抑制との混同については、前出のポーターとバートの研究などに示された通りである。
 これまで述べたとおり、解離という機序を介してトラウマ記憶が蘇るという現象は明白に存在するのだ。ただしここに複雑な事情がある。それは解離の機制により形成され、後に蘇ったと思われる記憶内容に関しても、それが現実の内容と照合出来なかったり、実際にありえないような内容であったりもすることもあり、本稿で示したようなサブリミナルな影響や感化の影響を受けた過誤記憶と見なすべきものが含まれるのである。

最後に

本稿では蘇った記憶や過誤記憶についての最近の考え方について論じた。この問題についてはさまざまな立場が存在し得るが、過去の記憶が蘇ったと当人に感じられる出来事も、それが過誤記憶となり得る可能性は実際にある。ただし最後の部分で示したように、これらのテーマについて論じる際は、多義的であいまいさを持つ抑圧という概念よりは、解離の機制を用いることでより整合的な議論が出来るであろう。しかしもう一世紀以上も用いられている抑圧の概念に比べて解離はまだ十分に理解されているとはいえず、臨床の場面においてのみその意義が認められているという部分があるという点を付け加えておきたい。

以上様々なトピックに触れたが、本稿が過誤記憶について考える上でのヒントになることを祈る。

2022年2月4日金曜日

偽りの記憶 論文化 16

 自己欺瞞

人はかなり頻繁に自分自身にとって好都合な嘘をつく。そしてそれを真実のこととして処理してしまう傾向もある。これをここでは自己欺瞞と呼ぶことにしよう。この問題についてはかつて別の著書で論じたことがある(岡野、2017)。心理学者ダン・アリエリーは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みつつ論じている。

(「ずる嘘とごまかしの行動経済学」櫻井祐子訳、早川書房、2012年)。
 アリエリーは、従来信じられていたいわゆる『シンプルな合理的犯罪モデル』(Simple Model of Rational Crime, SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるというものだ。これは露見する恐れのない犯罪なら、人はそれを自然に犯すであろうという考え方である。実はこの種の性悪説な仮説はすでに存在していた。
 しかしアリエリーのグループの行った様々な実験の結果は、SMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで第三者に厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告され、二つ水増しされていることを発見した。そしてこの傾向は報酬を多くした場合には、後ろめたさのせいか、虚偽申告する幅はむしろ減少したという。また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば虚偽の申告をしないように、という注意をあらかじめ与える、等)によっても縮小した。その結果を踏まえてアリエリーは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじてたもてる水準までごまかす」。そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。
 つまりこういうことだ。釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、人は良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に自分は6尾釣った(ということは釣った2尾は逃がした、あるいは人にあげた、と説明をすることになる)と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」やるというのだ。
 話を「盛る」という言い方を最近よく聞く。私たちは友人同士での会話で日常的な出来事を話すとき、結構「盛って」いるものだ。それはむしろ普通の行為と言っていい。「昨日の私の発表、どうだった?」と聞かれれば、「すごく良かった」というだろう。たとえ心の中では「まあまあ良かった」でも。相手の心を気遣うとそうなるのがふつうであり、このような「盛り」は普通しない方が社会性がないと言われるだろう。これは礼儀としての「盛り」でも、例えば「昨日すごくびっくりしたことがあった!」などと日常のエピソードを話すときは、たいして驚いた話ではなくても、やや誇張して話すものである。これなどは「弱い嘘」よりさらに弱い「微かな嘘」とでも呼ぶべきだろう。そしてアリエリーの「魚が6尾(本当は4尾)」はその延長にあるものと考える。この様な嘘を本稿では自己欺瞞による嘘と呼ぼう。問題はこのような嘘は恐らくそれを事実として確信することにかなり近づいているという事だ。自己欺瞞の嘘の場合、私たちはその虚偽性をどこかで意識していて、同時に否認している。そしてそれが虚偽記憶を生む素地も提供するのである。なぜなら「魚を6尾釣った」と公言することで、前述した言語化することによる記憶の歪曲はより成立しやすくなるからである。そして数週間後、あるいは数か月後は実際に魚を6尾釣ったという記憶に置き換わる可能性があるのである。

 

2022年2月3日木曜日

偽りの記憶 論文化 15

この部分を最後に付け加える。 

 この学術的な研究は、トラウマ記憶が抑圧され、後に治療により回復される、という理論は誤っているという結論を導きかねない。ただし、実は一時的に失われていた記憶が治療により、あるいは治療とは無関係によみがえるという現象は、臨床的にまれならず見られるのであり、トラウマを扱う多くの臨床家にとってはそれは了解事項であるとさえいえる。

例えばある若い男性は、(中略)それらが過去数か月の間に起きていたことの断片であることが判明する。そしてその内容は客観的な事実から明らかになる(特定の場所を訪れた記憶がよみがえり、その場所に入館した本人の署名が見つかる、あるいは本人が書いていた行動記録のメモなどが見つかるなど)。

このようなプロセスに主として関係しているのが、解離という現象である。解離という現象を一言で表現するのは難しいが、あえて直感的な表現をすると、心がある特殊なモードになり、少なくともその間に起きた出来事に関する記憶が、脳の中の普段取り出すことが出来ないような場所に貯められるのである。そしてそれは何かその出来事に関連したトリガーなどにより突然よみがえることもあれば、それを体験した時と同様の解離状態になった時にだけ想起されたりする。この現象は実は飲酒による酩酊状態、いわゆるブラックアウト現象としてなじみがある方も多いだろう。この解離という状態はそれが一つの人格にまで発展することがある。するとAさんという人格の時に体験した事柄は、Bさんという人格の時には思い出すことが出来ない、といった状態が生じることになる。

ここで注意が必要なのは、この解離とこれまで述べた抑圧とは、異なる現象であるということだ。抑圧とはある種の意志の力である事柄を考えまいとする心の働きとしてフロイトが100年前に提唱したものであるが、科学的にそのような現象が存在するかの議論が分かれる。その結果として先にみたような記憶をめぐる論争が引き起こされるのだ。そしてさらに複雑なのは、解離という心の働きにより忘れられ、その後回復されたと思われる記憶内容に関しても、それが現実の内容と照合出来なかったり、実際にありえないような内容であったりもする。その内容もまた本稿で示したようなサブリミナルな影響や感化の影響を受けた過誤記憶として扱われるべきものになる可能性があるのだ。

この解離という心の働きを考えに入れることで、記憶の問題はより分かりやすく説明される可能性がある。すでに述べた退行催眠にしても、子供時代までさかのぼることのできる人の中には解離性同一性障害を有する方が混じっていてもおかしくないのである。

2022年2月2日水曜日

偽りの記憶 論文化 14

 この部分も書き換えた。

トラウマ記憶は特別か?

本稿の最後に解離とトラウマ記憶の問題について述べたい。蘇った記憶や過誤記憶について考える際、トラウマ記憶の問題は特に重要である。私たちがトラウマ、すなわち心的な外傷的となる出来事を体験した際に、その際の記憶は通常の記憶とは異なる振る舞いを見せることが知られ、それはPTSD(心的外傷後ストレス障害)や解離性障害などの症状の一部としてトラウマの臨床に携わる人間にとってはなじみ深い。ただ一般心理学の立場からはその点が十分に把握されているとは言えない。

2001年にスティーブン・ポーターとアンジェラ・バートの論文  “Is Traumatic Memory special ?” (トラウマ記憶は特別だろうか?) は通常の記憶とトラウマ記憶にどのような差がみられるかについて研究を行った。

Porter, S., Birt, A. (2001) Is Traumatic Memory Special? A Comparison of Traumatic Memory Characteristics with Memory for Other Emotional Life Experiences.  Applied Cognitive Psychology. 15;101-107.

  彼らは306人の被検者に対して、これまでの人生で一番トラウマ的であった経験と、一番嬉しかった経験を語ってもらったという。すると両方の体験は多くの共通点を持っていたという。つまり両方について被検者は生々しく表現でき、またよりトラウマの程度が強い出来事ほど詳細に語ることが出来たという。すなわちトラウマ記憶は障害されやすいというそれまでの考えは否定されるとした。またトラウマ記憶についてはわずか5%弱の人がそれを長期間忘れていた後に想起した一方では、嬉しい記憶についても2.6%の人はそれを忘れていたという。
 この研究では長期間忘れていた後に想起されたトラウマに関して聞き取りをしたところ、それらの記憶の大部分は無意識に抑圧されているわけではなかったという。それらはむしろ一生懸命意識から押しのけようという意図的な努力、すなわち抑制 suppressionという機序を用いたものであったというのだ。ただしより深刻なトラウマを体験したと感じた人ほどDES(トラウマ体験尺度)の値も高かったという。

2022年2月1日火曜日

偽りの記憶 論文化 13

 この部分、全面的に書き直した。

記憶の脳科学と再固定化の問題

蘇った記憶や過誤記憶について理解するにあたり、記憶が脳でどのように形成されるかについて知っておく必要がある。その際重要なのがいわゆるニューラルネットワークモデルに基づく理解である。このモデルでは人間の脳が一千億ともいわれる膨大な数のニューロン(神経細胞)による網目状の構造をなしていると考える。そして過去の出来事を想起することとは脳に分散されて存在する数多くのニューロンが結び付けられてネットワークを形成し、同時に興奮する現象という事になる。

私達がある出来事を経験すると、特に強く感情が動いた際には海馬や扁桃体にその記憶の核となるネットワークが形成される。それが記憶の形成の始まりだが、それは既に存在していたニューロンの間の結び目(シナプス)がより太いつながりを持つことで可能となる。具体的にはそのシナプスを形成する材料となるタンパク合成が行われるのだ。たとえば土木工事で川幅を広げるためにはブロックなどの建材を積み上げる作業が必要であるが、それと同じである。このことは、ラットにある学習をさせる際にアニソマイシンなどのタンパク質合成阻害薬を投与することで学習が行われないという研究結果から明らかになった。
 記憶が形成されるのにはこのようにタンパク合成という時間を要する変化が伴うために、記憶は一瞬にして成立することはなく、また想起されないことで徐々に劣化し、失われていくという性質を持つのである。
 このモデルに従って、ある事柄を想起する、とはどういうことかを考えよう。例えば高校の卒業式のことを私たちが「覚えている」と感じるとする。するとその時体験した様々な事柄、「仰げば尊し~♬」のメロディー、クラスメートとの別れの握手や先生方の笑顔などが次々と浮かんでくるだろう。それは視覚的情報、聴覚情報、触覚情報などあらゆる様式によるものを含む。それらはもともと脳の様々な部位で蓄えられていたはずだ。ということは想起するとはそれらが一挙に結びつけられている状態と見なすことが出来よう。
 ここで物事の想起される過程を説明するのが「連想活性化説 associative activationである。これは想起とはある一つの事柄からの連想という形で波紋が広がるようにニューロンが活性化されていくという現象であることを示す。上の卒業式の例では、思い浮かべた友達の一人に意識を向けると、今度はその友達に関する様々な思い出がよみがえるというわけである。これはある事柄の記憶内容に一定の限界を想定しにくいという事だ。そこから派生した連想もその想起内容に含みこまれてしまう可能性があるために、そのネットワークのすそ野は知らぬ間に広がっていく可能性があるのだ。

 この想起と記憶の改変に関して最近明らかになったのがいわゆる「記憶の再固定化」という現象である。これについては東大の喜田聡先生のグループの研究が有名である。

Fukushima, H, Zhang, Y & Kida, S (2021) Active Transition of Fear Memory Phase from Reconsolidation to Extinction through ERK-Mediated Prevention of Reconsolidation. The Journal of Neuroscience 41:1299-1300.

 喜田グループはPTSDで生じるようなフラッシュバックを伴う記憶がどのように形成されるかを長年にわたって研究してきた。フラッシュバックとはトラウマ的な体験を持つと、その出来事を思い出そうとしなくても突然何かのきっかけで想起されるという現象である。そこで決め手となっているのが記憶の再固定化という現象である。記憶はそれを思い出すという事で一時的に「不安定」になる。すなわちそれが更に増強される(より強く記憶される)か、消去される(忘れていく)かの選択肢が生まれるということだ。比喩を用いるならば、それまでパズルの一つのピースとして治まっていた記憶が、それを思い出すことでいったん外れ、その形を変える可能性がある。そしてそれがよりガッチリ嵌り直されたり、小さくなって消えてしまったりするのである。喜田グループによれば、そこで重要な役割を果たすのが、そのピースが外されている(想起されている)時間である。彼らはマウスを明、暗の二つの檻に入れて嫌悪刺激(電気ショック)を与えるという実験により、その嫌悪刺激を思い出させる時間が3分以内などの短時間であれば、それはかえって増強されるのに対し、それが適度に長いと(例えば10分以上)マウスはその記憶を失う傾向にあることを発見したのだ。
 この発見は記憶が想起されるごとに形を変える可能性を実証している。いわば伝言ゲームで最初の言葉が変形していくように、記憶も思い出されるたびに一部が誇張され、一部が薄れていくという形で、当初の体験とは多少なりとも変形されていくという可能性を示しているのだ。それとともに、臨床的にとても大きな意味を持つことになる。ある種のトラウマ記憶を短時間思い出しただけではそれは消える方向にはいかない。むしろ再固定化、つまり増強されてしまうのだ。そこでどうせ思い出すなら、安全な環境で3から10分以上思い出す必要があるという事だ。するとそのトラウマの記憶が今現在の安全な環境においては起きていないという事を脳が学習し、それによりそのトラウマは弱まっていく(消去される)ものと考えられる。