2021年11月30日火曜日

解離における他者性 60

JSSTD(国際解離トラウマ学会日本支部)の大会が迫っている。そこで以下のテーマで話すことになるが、どんな感じで話し出すかという事を考えてみた。それにしてもこのところ何度も同じテーマで話しているので、「またあの話か」と思われそうで気が重い。 

「『他者』としての交代人格と出会うこと」

この様なテーマで発表いたしますが、実は私は解離のお話をするときにはいつもこのテーマに戻ってしまい、皆さんはもう聞き飽きていらっしゃるのではないかという懸念があります。ただしおそらくそう思っているのは私だけで、依然として私の伝え方が十分ではなく、真意を伝えることが出来ていないのではないかと思います。そこでなるべくわかりやすくお伝えしようと思います。

「他者としての交代人格と出会う」という事で私が意図しているのは、私たちがDIDの人たちと会う時、患者さんが自分を分かり、受け入れてもらえたと感じられるような会い方をしましょう、という事です。そしてそのための会い方は、交代人格のことを一個の人間として遇しましょう、それが一番臨床的に意味があることですよ、と言いたいわけです。「他者」として出会う、とはわかりやすく言えば、私がAさんという人、ないしBさんという人と出会うのと同じだという事です。つまり皆さんの一人と出会うという当たり前のことです。ところが様々な理由で、私たちはそれを出来にくいという現状があり、それは解離性障害の臨床を行う私たちがそうなる危険性を十分認識しておくべきだと思うのです。

 まず私たちが「他者としての交代人格と会う」という事に失敗するいくつかのパターンを考えたいと思います。

1. 一つは「見て見ぬふり」をするという事です。

2. 人格部分として見るという事です。部分としてではなく一つの全体として別人格と会う、というのは要するに他者と会う、という事と同様であるという事です。

そしてついでに論じるのは、他者性が問題になる統合失調症と異なり、解離性障害における他者とはある意味でとても健全なお隣さんだという事です。

2021年11月29日月曜日

解離における他者性 59

 「攻撃者との同一化」の脳内プロセス

攻撃者との同一化についての脳内プロセスを図を使って説明してみよう。その前に前提として理解していただきたいのは、人間の心とは結局は一つの巨大な神経ネットワークにより成立しているということである。そのネットワークが全体として一つのまとまりを持ち、さまざまな興奮のパターンを持っていることが、その心の持つ体験の豊富さを意味する。そしてどうやら人間の脳はきわめて広大なスペースを持っているために、そのようなネットワークをいくつも備えることが出来るようなのだ。そして実際にはほとんどの私たちは一つのネットワークしか持ないが、解離の人の脳には、いくつかのいわば「空の」ネットワークが用意されているようだ。そこにいろいろな心が住むことになるわけだが、虐待者の心と、虐待者の目に映った被害者の心もそれぞれが独立のネットワークを持ち、住み込むことになる。その様子をこの図1で表そう。左側は子供の脳を表し、そこに子供の心のネットワークの塊が青いマルで描かれている。そしてご覧のとおり、子供の脳には、子供の心の外側に広いスペースがあり、そこに子供の心のネットワーク以外のものを宿す余裕があることが示されている。そして右側には攻撃者のネットワークが赤いイガイガの図で描かれている。そしてその中には被害者(青で示してある)のイメージがある。
 もちろん空のネットワークに入り込む、住み込むといっても実際に霊が乗り移るというようなオカルト的な現象ではない。ここでの「同一化」は実体としての魂が入り込む、ということとは違う。でも先ほど述べたように、マネをしている、と言うレベルではない。プログラムがコピーされるという比喩を先ほど使ったが、ある意味ではまねをする、と言うのと実際の魂が入り込む、ということの中間あたりにこの「同一化」が位置すると言えるかもしれない。ともかくそれまで空であったネットワークが、あたかも他人の心を持ったように振舞い始めるということだ。
 こうして攻撃者との同一化が起きた際に以下のような図(2)としてあらわされる。被害者の心の中に加害者の心と、加害者の目に映った被害者の心が共存し始めることになる。この図2に示したように、攻撃者の方はIWA(「identification with the aggressor 攻撃者との同一化」の略です)の1として入り込み、攻撃者の持っていた内的なイメージはIWA2として入り込む。
 以上のように自傷行為を黒幕人格によるものと考えた場合、DIDにおいて生じる自傷の様々な形を比較的わかりやすく理解することが出来るようになる。なぜ患者さんが知らないうちに自傷が行われるのか。それは主人格である人格Aが知らないうちに、非虐待人格が自傷する、あるいは虐待人格が非虐待人格に対して加害行為をする、という両方の可能性をはらんでいる。時には主人格の目の前で、自分のコントロールが効かなくなった左腕を、こちらもコントロールが効かなくなっている右手がカッターナイフで切りつける、という現象が起きたりする。その場合はここで述べた攻撃者との同一化のプロセスで生じる3つの人格の間に生じている現象として理解することが出来るわけだ。
 特にここで興味深いのは、主人格が知らないうちに、心のどこかでIWAの1と2が継続的に関係を持っているという可能性であるこの絵で両者の間に矢印が描かれている、これは主人格を介したものではない。ここは空想のレベルにとどまるのだが、両者の人格のかかわり、特にいじめや虐待については、現在進行形で行われているという可能性があるならば、この攻撃者との同一化のプロセスによりトラウマは決して過去のものとはならないという可能性を示しているのだろうと考える。
 ただしこの内的なプロセスとしての虐待は、この黒幕人格がいわば休眠状態に入った時にそこで進行が止まるという可能性がある。その意味ではいかに黒幕さんを扱うかというテーマは極めて臨床上大きな意味を持つと考えられるであろう。 

2021年11月28日日曜日

解離における他者性 58

  心のコピー機能は実に不思議でかつ巧みな機能と言わざるを得ない。そしてそれが生じている明らかな例と思われるのが幼少時の母語の習得である。英語を授業で学ぶ経験を皆さんがお持ちと思うが、外国語のアクセントを身に付けることは、意図的な学習としては極めて難しいことである。いかに知的な能力の高い人でも、一定の年齢を超えると、外国語をその発音やアクセントを含めて完璧に習得するのはほぼ不可能だ。しかし幼少時に母語についてそれを皆が行っていることを考えると、それが意図的な学習をはるかに超えた、というよりはそれとは全く異質の出来事であることがお分かりだろう。何しろ学ぼうとする努力をしているとは到底思えない赤ちゃんが、23歳で言葉を話すときには母国語のアクセント(と言っても発音自体はまだ不鮮明ですが)を完璧に身に付けるのだ。それは母国語と似ている、というレベルを超え、そのままの形でコピーされるといったニュアンスがある。つまり声帯と口腔の舌や頬の筋肉をどのようなタイミングでどのように組み合わせるかを、母親の声を聞くことを通してそのまま獲得するわけだが、それは母親の声帯と口腔の筋肉のセットにおきていることが、子供の声帯と口腔の筋肉のセットにそのまま移し変えられるという現象としか考えられない。まさにコンピューターのソフトがインストールされるのと似た事が起きるわけだ。これはこの現象が生じない場合に模倣と反復練習によりその能力を獲得する際の不十分さと比較すると、いかにこのプロセスが完璧に生じるかが分かる。母国語の場合、しかもそれを多くの場合には10歳以前に身に付ける際にはこの「丸ごとコピー」が生じるのだ。
 もちろんこれと攻撃者の同一化という出来事が同じプロセスで生じるという証拠はないが、言語の獲得に関してこのような能力を人間が持っているということは、同様のことが人格がコピーされるという際にもおきうることを我々に想像させるのである。
 ちなみにこのような不思議な同一化の現象は、解離性障害の患者さん以外にもみられることがある。その例として、憑依という現象を考えよう。誰かの霊が乗り移り、その人の口調で語り始めるという現象である。日本では古くから狐が憑くという現象が知られてきた。霊能師による「口寄せ」はその一種と考えられるが、それが演技ないしはパフォーマンスとして意図的に行われている場合も十分ありえるであろう。しかし実際に憑依現象が生じて、当人はその間のことを全く覚えていないという事も多く生じ、これは事実上解離状態における別人格の生成という事と同じことと考えられる。現在では憑依現象は、DSM-5 (2013) などでは解離性同一性障害の一タイプとして分類されているが、それが生じているときは、主体はどこかに退き、憑依した人や動物が主体として振舞うということが特徴とされるのだ。

2021年11月27日土曜日

解離における他者性 57

 ところがある特殊な条件のもとで心の中にいわばバーチャルな意識や能動体が形成され、その部分に何かをされると、こころは受動モードにとどまった状態になる。そしてそれが別人格の形成の始まりであり、その人格に触られると「触られた」という受動的な感覚が起きることもある。実に不思議な現象だが、それが先ほどの自分を叱る父親に対して同一化をするという例と同様な状態と考えられる。そしておそらくはこの攻撃者との同一化のプロセスで生まれた人格が黒幕人格の原型と考えられるのだ。
 この攻撃者との同一化は、一種の体外離脱体験のような形を取ることもある。子供が父親に厳しく叱られたり虐待されたりする状況を考えよう。子供がその父親に同一化を起こした際、その視線はおそらく外から子供を見ている。実際にはいわば上から自分を見下ろしているような体験になることが多いようだ。なぜこのようなことが実際に可能かはわからないが、おそらくある体験が自分自身でこれ以上許容不可能になるとき、この様な不思議な形での自己のスプリッティングが起きるようなのだ。実際にこれまでにないような恐怖や感動を体験している際に、多くの人がこの不思議な体験を持ち、記憶している。これは特に解離性障害を有する人に限ったことではないし、また誰かから攻撃された場合には限らない。ピアノを一心不乱で演奏している時に、その自分を見下ろすような体験を持つ人もいる。しかし将来解離性障害に発展する人の場合には、これが自分の中に自分の片割れができたような状態となり、二人が対話をしつつ物事を体験しているという状態にもなるであろうし、お互いが気配を感じつつ、でもどちらか一方が外に出ている、という状態ともなるであろう。後者の場合はAが出ている時には、B(別の人格、例えばここでは父親に同一化した人格)の存在やその視線をどこかに感じ、Bが出ている場合にはAの存在を感じるという形を取るだろう。日本の解離研究の第一人者である柴山雅俊先生のおっしゃる、解離でよくみられる「後ろに気配を感じる」、という状態は、たとえば体外離脱が起きている際に、見下ろされている側が体験することになる。
 この解離における攻撃者との同一化というプロセスが、具体的に脳の中でどのような現象が生じることで成立するかは全くと言っていいほど分かっていない。唯一ついえるのは、私たちの脳はあたかもコンピューターにソフトをインストールするのに似たような、自分の外側に存在する人の心をまるでコピーするという現象が起きるらしいということだ。それが、たとえば誰かになり切ったかのように振舞う、という同一化と明らかに異なる点である。こちらの場合はあくまでも主体は保たれていて、その主体の想像の世界で誰かの役を演じているという意識があるのだ。しかし解離における攻撃者との同一化では、その誰かが文字通り乗り移って振舞う、ということがおきる。

 

2021年11月26日金曜日

解離における他者性 56

 たとえば父親に「お前はどうしようもないやつだ!」と怒鳴られ、叩かれているときの子供を考えよう。彼が「そうだ、自分はどうしようもないやつだ、叩かれるのは当たり前のことだ」と思うこと、これがフェレンツィのいう「攻撃者との同一化」なのだ。
 このプロセスはあたかも父親の人格が入り込んで、交代人格を形成しているかのような実に不思議な現象だ。もちろんすべての人にこのようなことが起きるわけではないが、ごく一部の解離の傾向の高い人にはこのプロセスが生じる可能性がある。
 ここで生じている子供の「攻撃者への同一化」のプロセスのどこが不思議なのかについて改めて考えよう。私たちは普通は「自分は自分だ」という感覚を持っている。私の名前がAなら、私はAであり、目の前にいるのは私の父親であり、もちろん自分とは違う人間だという認識は当然ある。ところがこのプロセスでは、同時に私Aは父親に成り代わって彼の体験をしていることになる。そしてその父親が叱っている相手は、私自身なのだ。自分が他人に成り代わって自分を叱る? いったいどのようにしてであろうか? 何か頭がこんが混乱してくるが、この通常ならあり得ないような同一化が生じるのが、特に解離性障害なのだ。 
 この同一化がいかに奇妙な事かを、もっと普通の同一化のケースと比較しながら考えてみよう。赤ちゃんが母親に同一化をするとしよう。母親が笑ったら自分も嬉しくなる、痛いといったら自分も痛みを感じる、という具合にである。ところが母親が自分に何かを働きかけてきたらどうだろう?たとえば母親が自分を撫でてくれたら、自分は撫でられる対象となる。撫でられるという感覚は、それが他者により自分になされるという方向性を持つことで体験が生じる。その際は自分は母親にとっての対象(つまり相手)の位置に留まらなくてはならない。これが「~される」という体験である。それは基本的に自分から能動性を発揮しなくても、いわば「じっとしている」ことで自然に体験されることだ。このように他者がある能動性を発揮して自分に何かを行う時、自分は普通は一時的にではあれ相手との同一化を保留するのであろう。つまり受動モードにとどまるわけだが、これにはそれなりの意味がある。試しに自分で頭を撫でてみてほしい。全然気持ちよくないだろう。その際には小脳その他の経路を通して「自分が自分を触った時に得られるであろう感覚を差し引く」という操作が行われているそうだ。だから自分で自分を抱きしめても少しも気持ちがよくないわけである。ただし誰かに侵害された、という感じもしないわけだが。もちろん自慰行為などの例外もある。

2021年11月25日木曜日

解離における他者性 55

 この「黒幕人格」がどのように成立するかに関して、ひとつの仮説として「攻撃者との同一化」というプロセスが論じられる場合がある。「攻撃者との同一化」とは、もともとは精神分析の概念であるが、児童虐待などで起こる現象を表すときにも用いられることがある。攻撃者から与えられる恐怖の体験に対し、限界を超え、対処不能なとき、被害者は無力感や絶望感に陥る。そして、攻撃者の意図や行動を読み取って、それを自分の中に取り入れ、同一化することによって、攻撃者を外部にいる怖いものでなくす、というのがこの「攻撃者との同一化」である。
 この「攻撃者との同一化」という考えは、フロイトの時代に彼の親友でもあった分析家Sandor Ferenczi  1933年に提唱したものであるが (Ferenczi,1933)、それ以来トラウマや解離の世界では広く知られるようになっている。そして紛らわしいことにこの概念はS.Freudの末娘であり分析家だった Anna Freud (1936) が提出した同名の概念と混同されることが多いのだ。彼女の出世作である「自我と防衛機制」(A. Freud, 1936)に防衛機制一つとして記載されている「攻撃者との同一化」は、「攻撃者の衣を借りることで、その性質を帯び、それを真似することで、子供は脅かされている人から、脅かす人に変身する」(p. 113) と説明されている。しかしこれはFerenczi のいうそれとは大きく異なったものである(Frankel, 2002)。Ferenczi は「子供が攻撃者になり代わる」とは言っていないのだ。彼が描いているのはむしろ、一瞬にして攻撃者に心を乗っ取られてしまうことなのである。
 フェレンツィ がこの概念を提出した「大人と子供の言葉の混乱」の記述を少し追ってみよう。
Ferenczi, S. (1933/1949). Confusion of tongues between the adult and the child. International Journal of Psychoanalysis, 30, 225-230.(森茂起ほか訳「おとなと子供の間の言葉の混乱」精神分析への最後の貢献フェレンツィ後期著作集―所収 岩崎学術出版社、2007年 pp139-150」。

 「彼らの最初の衝動はこうでしょう。拒絶、憎しみ、嫌悪、精一杯の防衛。『ちがう、違う、欲しいのはこれではない、激しすぎる、苦しい』といったたぐいのものが直後の反応でしょう。恐ろしい不安によって麻痺していなければ、です。子どもは、身体的にも道徳的にも絶望を感じ、彼らの人格は、せめて思考のなかで抵抗するにも十分な堅固さをまだ持ち合わせていないので、大人の圧倒する力と権威が彼らを沈黙させ感覚を奪ってしまいます。ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。同一化によって、いわば攻撃者の取り入れによって、攻撃者は外的現実としては消えてしまい、心の外部ではなく内部に位置づけられます。」(森ほか訳、p.144-145)

このようにトラウマの犠牲になった子供はむしろそれに服従し、自らの意思を攻撃者のそれに同一化する。そしてそれは犠牲者の人格形成や精神病理に重大な影響を及ぼすことになるのだ。Ferencziはこの機制を特に解離の病理に限定して述べたわけではないが、多重人格を示す症例の場合に、この「攻撃者との同一化」が、彼らが攻撃的ないしは自虐的な人格部分を形成する上での主要なメカニズムとする立場もある(岡野、2015

 

2021年11月24日水曜日

解離における他者性 54

  これからしばらくは、黒幕人格の生成過程について論じる。黒幕人格とは「怒りや攻撃性を伴った人格部分」(解離新時代 岩崎学術出版社、2015年)として私が定義して用いている表現である。時には「黒幕さん」という多少なりとも敬意を表した呼び方を用いることもある。私は本書では一律に交代人格の持つ「他者性」について論じているが、この黒幕人格はその中でも際立ってその他者性が明確な形で表現される傾向にある。それはしばしば主人格やそのほかの人格たちの利害とは異なる行動や思考を表すからである。

黒幕人格がどのように形成されるかについては、もちろん詳しいことが分からないが、いくつかの仮説のようなものがある。そしてそれを仮説は仮説なりに頭の隅に置いておくことで、臨床的な理解が深まるかもしれないであろう。そもそもそれらの仮説は、臨床で出会う様々な現象や逸話をもとに、それらをうまく説明するように作り上げられたものだからである。

 黒幕人格と「攻撃者との同一化」

 黒幕人格に出会うことで改めて感じることがある。それは人格は基本的には「本人」とは異なる存在、いわば他者であり、ある意味では「アカの他人」として表現されるべき存在であるという事だ。ここで私が言う「本人」とは、いわゆる主人格や基本人格など、その人として普段ふるまっている人格のことだ。黒幕人格以外の、基本的には自分たちを大切にしている人格たちという意味である。「本人」は自分がしたいことをし、身に危険が迫ればそれを回避するであろう。ところが黒幕人格は大抵は「本人」の利害に無頓着な様子を示す。そしてしばしば「本人」達の生活を破壊し、その体に傷をつけるような振る舞いをするのだ。黒幕さんが去った後は、「本人」は何か嵐のような出来事が起きたらしいこと、それにより多くのものを失い、周囲の人々に迷惑をかけてしまった可能性があること、そして周囲の多くの人は自分がその責任を取るべきだと考えていることを知ることになる。それは黒幕さんの行動の多くが、その定義通り攻撃性、破壊性を伴うからである。ただし黒幕さんたちのことを深く知ると、その背後には悲しみや恨みの感情が隠されている場合があることを、「本人」も周囲も知るようになるのである。いったいなぜ「本人」が困ったり悲しんだりするような行動を「黒幕さん」たちはしてしまうのだろうか? 彼らが示す怒りとはどこから来るのだろうか。

2021年11月23日火曜日

解離における他者性 53

3 が私が示したい最後の図である。この図は「健常」人との比較で、DIDにおいてDCがどのようにかかわっているかを示したものである。ただし左の図の「健常」に付けられた鍵括弧にご注意いただきたい。つまりDIDの状態が健常でないという保証はなく、また普通の人でもDCを複数持っているかもしれないからだ。そして右側の図はDCが複数存在するという、Edelman 自身が解離性障害に関して予言した事態だ。ここではいくつかのDCを重ねて描いたが、それぞれが上で示したような視床と皮質の間の頻繁なネットワークの行き来と、大脳基底核との関連を有しているため、このように表現することにした。ただ複数のDCが具体的にどのように「重なって」いるかは不明である。それらはひょっとしたら本当に解剖学的にずれた形で存在しているのかもしれない。しかし一番考えられるのは、同じ解剖学的な領域の中に、それぞれ異なったネットワークとして成立しているという可能性もある。それはまさに二色(というより多色) のソフトクリームのように、ねじり込まれているのかもしれないし、脳波の在り方が実はフーリエ級数的で、いくつかの脳波の合成になっているのかもしれない。いずれにせよそれぞれ異なるネットワークからなるDCがそこに存在していると考えることができるのだ。

まとめ

この発表では、解離性障害における「他者性の問題」を考え、DIDの症状を説明するような脳科学的な基盤として、Edelman, Tononi DCモデルを用いた。このように考えると、交代人格のそれぞれがそれぞれ別のDCを備え、したがって互いに他者であるということに異論をはさみにくくなるだろう。このような交代人格の個別性は私がいくら強調しても、し過ぎることはない。そしてDIDの人々のこのような特徴を知ることが現代的なポリサイキズムを復権することにつながるのではないかと考える。心のあり方を多重的なものとしてとらえる視点は、心を複雑系の立場からとらえる現代的な脳科学の進むべき方向とも一致しているものと考える。


2021年11月22日月曜日

解離における他者性 52

 あれから色々ネットで調べ物をしていると、こんな記事に出会った。
AIにとっての自意識感情とは? 海外文献や実例から読み解く(2019.02.23 07:00https://realsound.jp/tech/2019/02/post-322747.html

この記事もやはり、意識を生み出す神経ネットワークのメカニズムについて説明しているが、そこで挙げられている理論はグローバルワークスペース理論と、統合情報理論である。このうち前者については以下のようなまとめ方をしている。

「グローバル・ワークスペース理論」で「意識」は過ぎ去った記憶の呼出・保存・処理などができる、コンピュータメモリのような動きをするものだと提唱した彼の理論によると、記憶が保存されているメモリーバンクから情報を引き出し、脳内に散布させる行為が「意識」を指すと考えられる。グローバル・ワークスペースにはメモリーバンクの記憶がロードされ、さまざまな認知機能が自由にアクセスして処理することができる。そのため、「ワークスペースにロードされた」=「意識にのぼっている」情報の処理は、無意識の情報処理に比べて有用だと考えられる。その後、Baars は「グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論」を提唱し、脳科学的に検証できるように理論を発展させた。この理論では、意識にのぼっている情報について、広く分布したニューロンの集団からなるグローバル・ワークスペース内の情報であると定義。これにより、意識にアクセスできる情報とアクセスできないものが脳内に併存する理由や、意識にまつわる脳活動の特徴や、それが行動にどのような影響を与えるか、などが網羅的に説明できるようになった。」
 これはDCのアイデアとかなり違うようである。DCがネットワークの内部でのダイナミックな情報のやり取りが意識を生むと言っているが、Baaars の理論はもっと「静的」な、まさしくコンピューターのメモリーのようなものだと言っている。うーんこれはどうかな。
ついでに統合情報理論についてまとめているサイトにも行ってみる。おっとこれは英語だった。Scientists Closing in on Theory of Consciousness By Tanya Lewis July 30, 2014
https://www.livescience.com/47096-theories-seek-to-explain-consciousness.html 
  最近になり、科学者たちは、脳の前障 (claustrum) という部分の電気刺激で、意識をオン・オフできることが分かったという。DNAを発見した Watson, Crick 博士のクリック博士の方が、晩年意識の研究に没頭したことは知られているが、彼はこの前障が意識の成立と関係していると提唱したが、あまり支持されてはいないようだ。
  ウィスコンシン・マジソン大学の Giulio Tononi 先生は、意識はボトムアップで研究してもダメだと考えたという。つまり脳組織を取り出して絞っても意識のエッセンスは出てこない。それよりも意識そのものから出発すべきだと考えた。そしてこんなことを言ったらしい。意識は多彩な情報の統合体であり、それは分解できない。例えば景色を目にしたとき、その白黒映像だけ取り出すことや、左半分だけを体験することは出来ないという意味だ。そして最近では、どれだけの情報が統合されたかをコンピューターで数値化できるようになっている。

   Tononi 先生はその値を φ (ファイ)と表すのだ。それがゼロならすべてのパーツに分解することが出来る。(私なりに説明するならば、(例えば100×100のマスの一つ一つが白か黒かに塗られていても、それが全体として見えないと統合された情報はゼロ、ということになる。こんな例でいいのだろうか。)するとその意識の精細さはこの φ の値の高さを表すことになる。ということで彼の理論は一種の panpsychism,汎意識論ということになり、人間だけでなく猿も犬も、アリも、意識があることになる。ただ φ の値が下等生物になればなるほど小さくなっていくだけだ。そしてこの理論に従うと、コンピューターは決して意識を持たないという。それを Christoph Koch 先生は次のように言ったという。「コンピューターは気象をシミュレーションできるが、それ自体は雨に濡れることはない」といったというが、私にはこの意味は分からない。

2021年11月21日日曜日

解離における他者性 51

 ところで DCを提唱するEdelman DCを提唱すると同時に、他の神経学者の理論、たとえBaars のグローバルワークスペース global workspace の理論や Tononi の統合情報理論や、を参照し、と言うよりそれらと組んだ研究を行っている。グローバルワークスペースについては、太田紘史(2008)現象性のアクセス 哲学論叢 35:7081に以下のようにまとめられている。

 「Baars(1988, 1997)が提案するグローバルワークスペース説によれば、人間の認知システムは、同時並列的に作動する、多数の神経表象媒体と消費システムから構成されており、それら各々は特定の処理機能に特化し、無意識的に作動することができる。では 無意識的な内容の表象と、意識的な内容の表象は、認知システムにおいてどのような機能現象性へのアクセス 的差異を有するのだろうか。その答えは、無意識的な表象内容が特定の消費システムにお いてのみ処理されるのに対し、意識的な表象内容は、一連の認知過程の出力を可能にする任意の消費システムにおいて処理されうることだ。それゆえ表象内容が意識的であること は、表象内容が「ワークスペース」に入り様々な消費システムによって大域的に利用可能 となること、いわば「放送」されることとみなされる。 Dehaene (Dehaene & Nacchache, 2001, Dehaene, et al., 2006)は、ワークスペースの神経基盤を提案する。それによると、刺激強度に依存する感覚皮質の活性化(神経表象媒体の活動)だけでなく、能動的注意に依存して形成される高次連合野と感覚皮質の「反響的神経アセンブリ」(大域的神経活動)が伴うとき、「情報」(表象内容)は報告可能になる。この大域的神経活動は、前頭葉の高次連合野に密に分布し、各感覚皮質領域との双方向の長距 離接続を有する神経経路によって可能になるとされる。この神経経路を通じて、神経表象媒体の活性が強化されて持続し、その表象内容が様々な消費システムによって利用可能と なる。それゆえ例えば、視覚皮質が活性化されるだけでは、その視覚内容は意識的にはな らない。活性化した視覚皮質の内容が、様々な消費システムにとって利用可能となること で、意識的となるのだ。要するに、第二の仮説における NCC(意識の神経相関物 Neural Correlates of Consciousness)) は、大域的神経活動である。」pp73~74

 これを読むと、やはりグローバルワークスペース理論はDCと似たようなニュアンスを受ける。つまりここで問題になっているのは、意識的な活動とは、広域の神経ネットワーク全体に放送 broadcast されるような情報であり、それは各感覚皮質と前頭葉の高次連合野との間の双方向性の「反響的神経アセンブリ」であるという。DCと同じような考え方だが、DCの場合はあくまでも視床と大脳皮質との間の双方向的、反響的な情報のやり取りであるという点が特徴的と言えるだろうか。

2021年11月20日土曜日

解離における他者性 50

 ところでここで離断症候群や「他人の手症候群」の研究が精神神経学の分野でどこまで進んでいるのかに興味を持った。そこでネットに公開されている論文を読んでみた。精神神経学雑誌という、日本で一番権威のある学術誌に京大精神科の3人の先生が連名でお書きになっている総説論文がある。そこでそれを読んでみたが、結局情報としては少なかった。昔から欧米の文献でもDisconnection 仮説と言うのはあったが、圧倒的にそれは統合失調症の研究という文脈の中で出てきたという。Crow,Ttranscallosal misconnection syndrome,Friston, KJ disconnection hypothesis などが有名らしい。Crow

の論文は1998年、Friston は2016年だ。なんだ随分最近ではないか。
解離を扱う立場としては、Disconnection が一番問題になるのは解離性障害だと思うのだが、そもそも心の中で連絡が途絶える状態、スプリッティングと言われる状態は、従来統合失調症と結びつけられれてきたという歴史的な経緯がある。1911年にBleuler が提唱した連合弛緩 loosening of association は統合失調症に関するものだった。と言うより統合失調症という言葉自体がむしろ解離を意味するものと言える。さらにはschizophrenia のもとの役は「精神分裂病」だったが、ここにも「分裂」というニュアンスが含まれている。「心が分かれてしまう病気=精神病=統合失調症」という等式はもう100年以上の伝統を背負っているのである。しかし「Disconnection Disconnection 仮説」の著者である京大の先生方は、この等式があまり妥当性がないという雰囲気でこの総説をお書きになっている。それでいて「むしろ解離だ」という言葉も出てこないので、少しがっかりした。

Crow, TJ (1998) schizophrenia as a transcallosal miscommunication syndrome, Schizophr Res. 30;111-114
Friston, K, Brown, HR, Siemerkus, J et al: 2016the disconnection hypothesis. Schizophr. Res. 176:83-94
植野仙経、三嶋亮他 (2018Disconnection Disconnection 仮説. 精神神経誌. 12010号 pp897903.

 

2021年11月19日金曜日

解離における他者性 49

 p.111 に私が引用したい大切な文章がある。Edelman の主張は、「意識は高度に統合され、統一されている」という事だ。「どの意識状態も統一された全体であり、互いに独立した部分component に分けることが出来ない。CS  is highly integrated or unified- every conscious state constitutes a unified whole that cannot effectively be subdivided into independent components. そしてそれは、同時に極めて高度に分化しているという事だ。At the same time, it is highly differentiated or informative.
 この二つを支える神経プロセスそのものが、統合されていると同時に分化されているという性質を備えているという。そして意識の持つ性質と神経ネットワークの持つ性質が似ているという事は単なる偶然ではないという。
 さてここから Edelman さんは統合という現象が神経ネットワーク内のエントロピーと関係しているという点について解説するが、私はここが一番の勘所であろうと感じるものの、難しくてよくわからない。しかしだいたいこんなことを言っているであろうことはわかる。
 神経ネットワークにおいては下位のネットワークはそれらの間での緊密な連絡と、他の下位ネットワークとのより緩い連携が生じるという形での、一種のピラミッド構造を取っているらしい。そしてそこでの活動は丁度うまく全体のエントロピーの低下を目指して活動するというわけだ。そしてあることが「分かった」時点で、そのネットワーク内にアトラクターが形成され、それを思い出すという事はアトラクターのポケットに入り込むという現象なのだ。丁度パズルが解けずに苦しんでいる時は、脳の神経ネットワーク内で様々な部分がバラバラに働いていて、エントロピーが高い状態だが、それが解けると一気に統合が起き、エントロピーが下がり、すっきりしたという感じを抱く。(そうか、わかるという事に伴う快感はエントロピーの低下を伴っているのだ!)
 ちなみに精神病状態の人に比べたコントロール(正常人)の人々の脳においては、神経ネットワークを介しての神経細胞の結びつきの統合はそのエントロピーがより低下する傾向にあるとも書いてある。

2021年11月18日木曜日

解離における他者性 48

 ここら辺からEdelman, Tononi の「A Universe of Consciousness 意識の宇宙」を拾い読みして、知識を増やしておく。

DCとの関連で、Edelman らは、第一次意識 primary consciousnessと高次意識を higher-order consciousness を区別する。前者は非常にプリミティブな、いわば動物レベルの意識だ。それに比べて後者は過去や未来をイメージでき、象徴や言葉を用いることが出来る。そしてここでも登場するのがまたもやリエントリーの問題である。そしてここがややこしいところなのだが、第一次意識は、脳の前部で価値に基づく記憶value-based memory を扱い、後方の脳で知覚的なカテゴリー分けを行う部分が発達した時に成立するという。それにより昔のことを現在において再現することが出来るようになる。そしてここで大切なのは、それが行動を生み出すことを目的としているという事である。

ここで記憶についての解説が示される。記憶とは決して表象的 representational ではない、と言う。つまり何かの印や記号のようなものではなく、あくまでも神経細胞の興奮のパターンである。(そのような考え方を総称して「TNGS neuronal group selection、神経グループ選択」と呼ぶらしい。)そしてそれが特別選択され成立するために必要なのが力価  value という概念だ。つまり力価が高いものが選択されて残り、低いものは消えていくというわけか。私の考えではこれはどうも快、不快の問題とも結びつくようだが。要するに快、不快の力価が高いと、それを求めるために、あるいは回避するために深く脳に刻まれるというわけである。

TNGSの最大の特徴は再入、リエントリーであるという事がまた強調される。 これにより脳は上位のコントロールセンターを必要としなくなる。リンゴ、という上位の概念がどこかに存在するわけではない。しかしリンゴを見ると、リンゴの色、形、味覚などを支配する脳のあらゆる部位が同時に発火する。これはいわゆる「biding problem 結びつけ問題」を解決するともいう。この結びつけ問題は、脳科学における未解決の問題という事になっている。

 

2021年11月17日水曜日

解離における他者性 47

ここまで述べたDCの二つの特徴を示す。

    ひとつのDCの特徴は、私たちの意識活動はDCに属する多くの神経細胞が相互に高速の再入、つまり行ったり来たりの情報の交換を行っているということである。

    もう一つの特徴は、そこにおける意識活動は比較的広範囲の神経細胞を動員するということである。逆に私たちがある行動に慣れ、あまり考えずに行える行動はあまり多くの神経細胞を動員せずに済むということだ。ある例として、テトリス(まさか若い人でこれを知らない人はいないだろう。私たちの若い頃はこれが立派な電子ゲームだったのだ)を被検者にしてもらう。最初はみなこれをやりなれていない場合は意識野はフル回転をしてそのタスクをこなす。しかしスコアは上がらない。ところが何週間かの練習を積んだ被験者の脳の活動やエネルギーはごくごく少数の活動とともに驚くべき高いスコアをはじき出す。後者の場合被検者は「鼻歌交じりに」夕ご飯のおかずのメニューをぼんやり考えながらテトリスに興じることになる。

離断症候群の教えてくれること

両方向性の情報の交流がいかに意識の成立に意味を持っているかについて雄弁に語っている離断症候群について説明したい。脳は右脳、左脳に分かれているのはご存じであろうが、それらの間の橋渡しをしているのがいわゆる脳梁という部分で、ここは二つの脳の間を約二億本と言われるケーブル、すなわち神経線維が橋渡しをしているのである。そしてそれにより私たちは右の心と左の心という二つの心を持っているという自覚がない。 

2021年11月16日火曜日

解離における他者性 46

 では意識とDCとの関係はどのようなものだろうか?きわめて大雑把な言い方をすれば、意識的な活動を行っている時は、DC全体が広く活動しているという事である。ではDCの活動=意識と考えていいのであろうか。私たち精神科医がよく出会うのは、いわゆる上向性毛様体賦活系 ascending reticular activating system ARASと呼ばれる部位である。この部分は脳幹の橋と呼ばれる部位から発し、視床下部と毛様核を介して視床や大脳皮質に広く投射しているシステムである。ここが活動をしている時は人は明確な意識的な活動を行い、ここが活動を低下させると人は眠ったり昏睡になったりする。だからこれはDCの活動を調節するボリュームボタンのようなものだと言える。だからARASは意識活動を創り出すという働きはしていないことになる。

さて意識の在り方を知るうえでとても参考になる実験がある。それがいわゆる「binocular rivalry 両眼視におけるライバル関係」である。これは右目と左目に全く異なる情報、例えば右目は赤い横縞、左目には青い縦縞の模様を見せるとする。脳はこれらのどちらか一つしか把握できない。つまりある時は赤い横縞しか意識できないし、別の瞬間は青い縦縞しか把握できない。これらの両方の情報は一度にどちらか一つしか見えない。この実験は以前紹介した二つの顔のだまし絵、つまり燭台を前にした一つの顔か、燭台に向かい合った二つの顔かのどちらかしか見えないという話と似ていることに気が付くであろう。そしてここで改めて明らかになるのは、意識は二つのことをいっぺんに体験できないという事である。体験は脳全体の同期化を必要としていて、それは必ず一つのクオリアに向けられている必要があるのである。

 

2021年11月15日月曜日

解離における他者性 45

 ダイナミックコアとは何か?

 彼らのいうDCは具体的には視床と大脳皮質の間の極めて高速の情報の行き来が生じている神経ネットワークである。彼らはこの情報の双方向性の行き来という点を重要視し、それが意識が成立する上での決め手であると考えている。

彼らは大脳皮質とそこからの情報をまとめる視床、そしてさらには大脳辺縁系を結ぶ緊密な神経ネットワークが考えられるとして、それをDCと呼ぶ。その詳しい解説は省くが(というより私にそれをまとめる力がない)そこで重視されるのがリエントリー reentry 再入という現象である。つまり情報は一方から来るだけではなく、情報を受けた側が情報もとに情報をフィードバックするという事である。ネットワークはこの両方向性を有することで初めて情報の中に統合性が起きるという事である。

例えばサルを用いた動物実験で、赤い十字のマークを選ぶとジュースがもらえるという仕組みを作る。そして赤い十字を緑の十字や赤い丸などと混ぜたいくつかの絵を見せる。そうやって赤い十字を同定させるのだ。するとそれを学習したサルは、脳の大脳皮質の赤に反応する部分と十字に反応する部分からの脳波が同期する。赤の十字を見つけて「これだ」という体験は要するにそれのいくつかの特徴に反応する部分が同期化することで同定が行われるのだが、これはそれらの部分から視床に向かう信号とは別に、視床からのリエントリーにより同期化されるというわけだ。別の言い方をしようか。ある物事に関連した様々な要素が同時に(同期して)発火するとき、その物事を同定した、あるいは分かったと感じるわけだが、そこには必ず上位から下位へのリエントリーがなくてはならない。それにより脳の全体が共鳴する必要があるのだ。逆に言えばある特定の刺激に対して脳の全体が共鳴するようなニューラルネットワークは、心を持っているということになる。ダイナミックコアとはそのようなネットワークのことなのだ。

2021年11月14日日曜日

解離における他者性 44

 


 思いつくままにこんなスライドを作ってみた。大文字の解離、などと言うと必ず、ラカンの大文字の他者と結びつけられるからである。結論から言えば、これは無関係というわけではない。ラカンにおいては(よく知らないけれど)他者の概念は重要で、とにかく徹底しているという印象を受ける。
 小文字の他者とは結局は自分の中に投影されたもの、私の考えでは内的他者像のようなものに思える。その他者像は自分を満たしてくれる、好都合なイメージでしかない。それをラカンは「欲望の原因」、ないしは乳房などと呼んだのだ。結局それは自分の内部にあるイメージでしかない。ところが大文字の他者は完全に自分の外部であり、それ自体が確固とした構造を持っていて、当然ながら自律性を持っている。自分の手に負えないものだ。これはシニフィアンの世界であり、そのシニフィアンそのものに意味はない(意味とは「シニフィエ」の方だ)。
この構図から明らかなように自分自身も脳という構造を持っている。という事は自分は大文字の他者をも備えているという事になる。
 さて小文字の解離は丁度小文字の他者との関係と言える。それはあくまでも自分の中にある対象像との関係である。これは精神分析で使っている解離の意味するところである。ところが大文字の解離はまさに他者であり、それが自分の中に存在する。しかしもちろん異なる神経ネットワークを基盤にしていると考えるしかない。それが異なるダイナミックコア、という考え方である。

2021年11月13日土曜日

解離における他者性 43

 今日はこちらを描いた。しかし割れた鏡に映る人の顔って、ちょっと違う気がするのだが…。





2021年11月12日金曜日

解離における他者性 42

 

Putnam の「ジグソーパズル」モデル対「割れた鏡モデル」

今日はこれを描くのに二時間かかってしまった。


2021年11月11日木曜日

解離における他者性 41

 さてBromberg は論文の最後にこう言っている。ちょっと直訳してみよう。
「あるパーソナリティ障害を抱えた人は、そしてすべての患者においてそのパーソナリティの一部に関しては、それが徹底した精神分析的作業となるためには、その葛藤を扱う際に、解離の過程がその本質部分を占めるであろうということである。「転移を扱う」ということは本来的に「解離を扱う」ということなのだ。なぜなら解離は本来的に患者と治療者における解離の過程のエナクトメントだからである。転移も逆転移も端的にエナクトの一側面であり、二者関係の解離的な繭だからである。彼らが「定式化されていない unformulated 」体験を表現することで、彼らはそれを言葉にすることが出来る。しかしそれが出来るためには、治療者は自分の解離された部分を理解しなくてはならない。そして解離された部分を言葉に出来ることにより、解離をワークすることは、葛藤をワークすることにシフトしていく。」 そしてBromberg はこれがいわゆるボストン変化プロジェクトの考え方にも近く、治療関係は治療者患者の間のエナクメントであり、お互いに解離された部分のダイアローグである、という言い方をしている。治療はそれを通してこれまで not me でしかなかった部分が me になっていくというのだ。
 結局こういう言い方が出来るだろうか。精神分析においては解離はやはり病的なプロセスであり、それは本来統合されるべきものがされていないことであり、それはトラウマにより生じた一種の防衛手段を、先回りして用いるようになるというプロセスであるという。やはりここには解離を通して人格が複数生まれるというような話とはおよそ関係がないレベルの議論と言えるのだ。

2021年11月10日水曜日

解離における他者性 40

 Phillip Bromberg の論文(p639)を読むと、「交代人格=断片仮説」がいかに根強いかが改めて分かる。一つの自分unitary self という発達論的に適応的な幻想は時として崩れてしまう。彼は私たちの心が実は様々な「状態」に分かれていると指摘する。解離の患者と話すと、それらのバラバラの状態と出会う。そしてトラウマ的な体験が起きると、それは象徴的に処理できずに、何らかの引き金により「予期しない回帰 unanticipated return」が起きることを回避するために、解離的な早期の警報システムdissociative early warning systemが発達する。それが解離という事だ。もう少しわかりやすい言い方をするならば、本来が心は別れていて、それが幻の統合を果たすのだが、トラウマにより元の状態に戻ってしまう。そしてトラウマを予期して初めから分かれてしまっているのが解離という事だろう。すると精神分析の目的は象徴化されていない体験を処理することで統合に向かわせることだという事になる。
 ここでBromberg Wolff の研究を引き合いに出す。彼は最初から自己はいくつかの状態に分かれている、という。Kihlstrom (1987) によれば、自己表象と出来事の表象がリンクすることで人はそれを体験したという感覚が生まれる。それが出来ていない状態が解離というわけだ。これに関してBucci 2002)によれば、象徴下のものは象徴的な要素に連結可能な状態になっているが、解離されたものはそうでもないという。そして精神分析的治療の目的はそれを統合することであるとする。

Bromberg は例の愛着のD型(解離型)の問題も持ち出し、トラウマ的な関りを体験した子供が自己を統合できない問題であると論じている。

乳幼児研究、愛着研究などはどれも「交代人格=断片説」を支持しているようである。

2021年11月9日火曜日

解離における他者性 39

 ちなみにここでこのPutnam 先生のDBSの理論についてはかつてのブログの内容を含めて、以下にまとめておこう。私の昔の院生であったイケメンのND君がまとめてくれたのを、再び使わせていただく。2014624日にこれについてこのブログで掲載している。彼はPutnam先生の1997年の文献とはFrank W. Putnam: Dissociation in Children and  Adolescents: A Developmental Perspective. Guilford  Press, 1997 であり、私の解離に関する前々著「続・解離性障害」2011年、岩崎学術出版社,p141.でも軽くまとめてある。

以下、ND氏のまとめ。(ナガイ君。しっかり勉強しているかな。)

 「Putnam1997)の離散的行動状態モデルでは,人間の行動を限られた一群の状態群の間を行き来することと捉えており,DIDの交代人格もその状態群の中の1つであるとする.交代人格という状態は,その他の通常の状態とは違い虐待などの外傷的で特別な環境下で学習される.そのため,交代人格という状態とその他の通常の状態の間には大きな隔たりと,状態依存性学習による健忘が生じると考える.

詳しく説明すると,以下のようになる.Putnam1997)にとって精神状態・行動状態というのは,心理学的・生理学的変数のパターンから成る独特の構造である.そして,この精神状態・行動状態はいくつも存在し,我々の行動はその状態間の移行として捉えられる.乳幼児を例にとれば,静かに寝ているノンレム睡眠時が図22の行動状態Ⅰ,寝てはいるものの全身をもぞもぞさせたりしかめ面,微笑,泣きそうな顔などを示すレム睡眠時が行動状態Ⅱ,今にも寝入りそうでうとうとしている状態が行動状態Ⅲ,意識が清明だがじっとして安静にしている状態が行動状態Ⅳ,意識が清明で気分がよく,身体的な動きが活発な状態が行動状態Ⅴ,意識が清明で今にも泣きそうな状態が行動状態Ⅵ,そして大泣きしている状態が行動状態Ⅶといった具合になる.状態が増えれば,それだけ行動の自由度が増す.これらの状態は互いに近しいものもあれば遠いものもあり,いわば1つの部屋の中に離散的(離れて)に付置されている状態にある.そして,その状態間を行き来するための経路は,たとえば行動状態Ⅰと行動状態Ⅱはともに行き来可能だが行動状態Ⅰと行動状態Ⅶの間には経路は存在しないといったように,ある規則に従って定められている.この行動状態の構造が,個々人の人格を定義するものとなる.

 上記のような状態群は,大抵の乳幼児には観察できるものであろう.しかし,被虐待児の場合は,その他にやや特別な行動状態群を形成する.虐待エピソードのような恐怖に条件づけられた行動状態は,血圧・心拍数・カテコールアミン濃度などの自律神経系の指数の上昇といった生理学的な過覚醒と連合している.それは極めて不快で,我々の大部分にとっては日常体験の外に存在するものである.上記Ⅰ~Ⅶの行動状態を“日常的な行動ループ”とすれば,虐待エピソードで獲得された状態群は独自の性質をもつ“外傷関連の行動ループ”といえよう.この2つの行動ループは,いわば同一の部屋には納まるものの互いに離れたところに付置し,そのために行動全体がまとまりをなくすという状態になる.
 
心理的外傷を負った子どもが,それを想起させるような刺激に遭遇し感受性が高まると日常的な行動ループにいても外傷関連の行動ループを活性化させ,一足飛びにその状態へスイッチングする.しかし日常的な行動ループと遠く隔たった場所に存在する外傷関連の行動ループは,いつでもそこへ接近が可能なわけではない.情報というのは,多かれ少なかれ状態依存的な性質をもっているため,外傷関連の行動ループにもそれを獲得したときの状況と類似した状況であると認識しないと接近が困難である(このことは,第三者から見て外傷状況とは類似しない状況でも,本人が似ていると認識すれば接近してしまうということにもなる).ゆえに,外傷に関連する行動状態と日常的な行動状態とを結合する経路は,他の経路と比べると滅多に使われない.このように,異常な解離状態とは日常的な行動ループから遠く隔たった場所にある行動状態群で,かつそこへの接近がいつでも可能なわけではないものということになる.その典型例がDIDにおける交代人格である

 Putnam1997)の説は,虐待などの特殊な状況での意識状態が,普段の意識とは離れたところに存在するという解離の基本骨子は引き継ぎつつ,そこに行動状態群という概念をもち込み,これまでDIDの成因論において中心的には扱われてこなかった状態依存学習を前面に強調した点が独創的である.ここに紹介する研究家の多くはJanetの解離理論をその基礎としているが,外傷的出来事が通常の記憶パターンとは異なる記憶パターンになる,つまり解離され普段は意識にのぼりにくい別個の記憶パターンとなるということに異議を唱える研究者もいる.たとえば八幡(2010)は,最近の認知心理学における記憶研究はそうした記憶の仕方を支持していないという.これに対し,交代人格に伴う健忘や虐待エピソードに関する健忘などは基本的に状態依存学習と同様のメカニズムとするPutnam1997)の考えは,両立場の懸け橋となることが期待される.」

そして2001年にForrest 先生がこのPutnam 先生の理論を引き継いだ論文を書いたのだ。 

K A Forrest: Toward an etiology of dissociative identity disorder: a neurodevelopmental approach Conscious Cogn 2001 Sep;10(3):259-93.

 

フォレスト先生は、現在のところ、解離に関してもっとも有効な理論は、昨日紹介したパットナム先生の離散的行動モデルであるという。(やっぱりそうか。)そもそも子供の心はこの離散的な状態にあり、そこから統合していくことが出来なかったのが、解離状態であるという。 私たちの体験は状況により大きく異なり、それを結びつけ、統合していくことでつながりを持った体験を、そして「自分」を成立させていく。この理論はすばらしいのだが、それを支える、というか背景になる生物学的なメカニズムは説明されていないという問題がある、とフォレスト先生は言う。実はForrest さんの論文、とても難解である。実は3年以上前にこのブログで取り上げて以下のように書いている。(2018727日)

「話の内容は結局は人間が「自分Me」を集積していって「全体としての自分Global Me に向かう際に、その統合を担っているのが眼窩前頭皮質OFCを含む前頭前野である、という話だ。そしてその機能が侵された場合、人はある体験を統合することが出来なくなる。例えば健全な状況では、ある人Aさんのちょっと違った側面を「同じ人のいくつかの側面」としてとらえ、「結局Aさんはいろいろな側面を持っている」という風にAさんを厚みを持った、多面的な存在として把握するのであるが、それを逆に個別なものとして理解し、相互を別々のものとして理解すると、Aさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識してしまう。そのことを、自己像に対して行なってしまうと、自己がどんどん分裂していく、というのがこのForrest先生のDIDの生成を説明する理論の骨子である。ただし私にはどうもこれはDIDの本質を捉えていないような気がする。この体験では自己像がいくつかに分かれる、という説明にはなっても、心がAに宿ったり、A’に宿ったりという、複数の主体の存在を説明していないように思えるのだ。いったいこの問題に手を付けている理論はあるのだろうかしばらくは情報収集が必要だ。ということでひとまずこの論文を離れよう。」

 

2021年11月8日月曜日

解離における他者性 38

  私が本書を通して訴えるのは、交代人格の人としての「人権」、という事であるが、他方それを部分としてとらえるという考え方にはそれなりの長い歴史があることも知っておかなくてはならない。最近Phillip Bromberg 先生の論文を読んでそう思ったのだが、その前にFrank Putnam 先生の論文「ディスカッション:交代人格は断片か、虚構か? Discussion: Are Alter Personalities Fragments or Figment(A Topical Journal for Mental Health Professionals Vol 12, 1992,  Issue 1: pp.95-111. 

 Putnam 先生は例の離散的行動モデルdiscrete behavior state (DBS) model199119921997)を提唱された方であるが、この論文も結局はそれを基本的な考え方として受け継いでいる。

 この論文ではPutnam 先生はDr.Lyon という先生の提出したケースに関するディスカッションという形を取っている。ここで彼はいつもの主張を行っている。「別人格 alter personality は一種のセンセーショナルな描かれ方をされるためにいくつかの誤解を生んでいる。その中でも問題なのは、別人格が別の人間と考えることである!」こう述べていつものDBSの説明に入っていく。双極性障害のような場合である。そして小さい子供はまさにいくつかの状態に分けれていて、DIDの人はその時の状態に留まったままなのだ。これはWolff 1987)などの研究結果から明らかだ、という。いわゆる状況依存的な学習 state dependent learning Reus et al., 1979)などの研究も関連しているのだという。そして特に興味深いのが以下のような表現だ。「Dr.Lyon は異なる人格の存在を、粉々に割れた鏡のようなものと表現するが、それは違う。それは最初は一つだったものが断片化したという前提があるからだ。しかし研究が示しているのは、最初にいくつかの行動状態が存在し、それが統合されていくというプロセスである。」(p.101)「だからより適切な比喩は、まだ出来上がっていないジクソーパズルが組みあがっていくようなものだ。」(p.102)

私はこの議論はDr.Lyon の比喩の方が適切だと思う。なぜならどの鏡のかけらにも人を映す力があるからだ。割れた鏡は、一部が目を、別の一部が鼻だけを映すという事はない。逆にPutnam 先生の前提こそが問題ではないか。

2021年11月7日日曜日

解離における他者性 37

  ダイナミックコア仮説と DID

これ以降は、交代人格が互いに他者性を有しているという事実の傍証として考えられる生物学的、脳科学的な仮説を提示する。分かりやすく言うならば、個々の交代人格が固有の脳科学的な基盤を持っていれば、相互の個別性、他者性は保証されるであろう、という主張である。そのために Gerald Edelman, Giulio Tononi (2000)の両氏が提唱する「ダイナミックコア (dynamic core, 以降DC) 仮説」を紹介したい。これは彼らが人間の意識を成立させる神経ネットワークとして想定したものである。彼らはこのモデルをもとに、なぜ意識が主観的な感覚、ないしはクオリアを有するのか、それがコンピューターによるシステムにどのように類似するのかについて考察している。
  Edelman らは意識として二つの特徴を上げる。一つは統一性 integration であり、意識は一度に一つのタスクしかできないことだ。例えばある会話を続けながら足し算をするなどという事は出来ない。それでいて極めて分化した作業をできることである。つまり私たちの脳はとても複雑な作業をしながら、統一性を失わないことだというのである。この点はかつてSherrington William James が強調したことである。
Charles Sherrington (1906) The Integrative Action of the Nervous System.
William James (1890) The Principles of Psychology. New York: Henry Holt.

2021年11月6日土曜日

解離における他者性 36

 この様に考えるとスイッチングにより二つの意識状態を取ることが出来るというのはそれほど生易しいものではない。ちょうどこのだまし絵で、一人の顔を見ている意識状態と、二人の顔を見ている意識状態が「共存」しているとはとても言えない状態であるのと同様に、スイッチングにより二つの意識が共存しているような状態はとても作れないであろう。

ちなみにこの二つの意識状態の素早い入れ替わりというアイデアは、すでにフロイトが提出していることを思い起こそう。それが先ほどFreud の「振動仮説」として表現したものである。

その部分を再録しよう。

1912年の「無意識についての覚書」の中でフロイトは多重人格について、いわば「振動仮説」とでもいうべき理論を示している。「意識の機能は二つの精神の複合体の間を振動し、それらは交互に意識的、無意識的になるのである」 (Freud, 1912p.263) 。また1915の「無意識について」でもやはり同じような言い方をしている。「私たちは以下のようなもっととも適切な言い方が出来る。同じ一つの意識がそれらのグループのどちらかに交互に向かうのである。」(Freud, 1915, p.171

こうなるとフロイトの説明は詭弁という印象がある。フロイトもさすがにこの理論は無理ではないかと考えていたのではないか。

ちなみに私は「解離新時代」(岡野、2015)において、Donnel Sternにヒントを得た「弱い解離」と「強い解離」の区別を紹介している。Stern は受動的な解離 passive dissociation を弱い意味での解離 dissociation in a weak senseとし、能動的な解離 active dissociation を強い意味での解離 dissociation in a strong sense とした。(Stern, 1997)。前者は私たちが単に心の一部に注意を向けない種類の体験と言える。そして後者は無意識的な動機により私たちがある事柄から目をそらせている状態で、こちらはトラウマに関係する。ただしこの強い、弱い解離という区別と本稿での大文字と小文字の解離という分類は似ているようで、まったく異なるという点をここで明らかにしておきたい。

 次になぜこの大文字の解離 Dissociation という概念をことさら精神分析に導入する必要があるかについて、以下の二点を改めて強調しておきたい。一つには私たちが臨床上多く接するDIDは複数の意識の同時的な存在という形をとることが明らかであるため、Dissociation はおそらくDIDのデフォルトのあり方といえるのだ。そして現在精神分析で論じられている通常の解離 dissociation はそれとは質的に異なるのである。大文字表記を強調する Dissociation という呼称には、こちらがある意味で「本質的な」、ないしは「本格的な」「深刻な」あり方であるという点を強調するという意図がある。

もう一点は「精神分析は dissociation だけではなく、 Dissociation もまた考察及び治療対象として扱うべきだ」と呼びかけることで、この病態に対してより多くの臨床家の注意を喚起するという目的がある。というのも、これまで見てきた通り、一人の人間にいくつかの意識が並行して存在しうるという事実そのものを多くの分析的な臨床家が受け入れていない場合が多いという現実があるからである。精神分析においては、複数の意識の共存は認めてはならないというフロイトの声が依然として響き渡っているかのようである。しかしそのような臨床的な事実がある以上、精神分析はそれをいかようにしてでも組み込む必要がある。なぜなら精神分析は「~という病理については存在を認めない」という立場は取るべきでないからである。

この事態を説明するために、過去の例を挙げたい。精神分析においては、統合失調症などの精神病をいかに扱うかという議論はフロイトがすでに行っているのは周知のとおりだ。例えばフロイトは精神病状態においては通常の神経症とは異なり、リビドーが自我に向かっている状態で、そのために転移が形成されないために精神分析の治療が難しいと論じた。すなわちフロイトは精神病という病態をそのものとして認識し、それについての説明を試みた。

ところが多重人格状態においてはこれとは別の事情が生じている。基本的には異なる人格の存在について、精神分析ではそれをタイプ1)として扱い、タイプ2)のような事態はあたかも存在しないかのように扱う傾向がある。つまり多重人格状態をそれ自身として認めず、別のものとして説明するという事を続けているように思われるのである。それは統合失調症をそれ自体として扱わずに神経症の特殊な例として扱うという事と同じである。統合失調症ではきちんとした扱いをしているのに解離ではそうならない一番の理由は、フロイトがそもそも解離を論じないという立場を示したからであろう。また精神分析ではスプリッティングなどの概念が存在し、解離をそれと同列のものとして扱うという理論的な素地が存在することもその理由として考えられるのである。

2021年11月5日金曜日

解離における他者性 35

共意識状態の不思議

 さてここでの本題は共意識状態をどうとらえるか、であるが、もう一度van der Hart のタイプ分けに戻ってみよう。

タイプ1. 統合されていた機能がストレスにより一時的に停止した状態。 
タイプ2.同時に生じる、別個の、あるいはスプリットオフされた精神的な組織、パーソナリティ、ないしは 意識の流れ。

ちなみにこのタイプ2の原文はthe concomitant development of a separate, split off, psychic organization, personality, or stream of consciousness である。このタイプ2.をどこまで正確に理解すべきかは難しいが、concomitant development of a stream of consciousness を「同時に生じる意識の流れ」とした場合、どうも先ほどのスイッチングする意識ABのような状態を指す可能性もゼロではない気がする。Aの意識とは「異なる意識Bの流れが同時に生じる」としてもABが同時に活動しなくてはならないとうたってはいないからだ。しかしここで問題にしなければならないのはあくまでも共意識状態である。そしてそこではスイッチングは生じず、したがって心は一つという条件はどうしても満たさなくなるのだ。

断っておくが、もちろん解離性障害においてスイッチングはその重要な特徴の一つといえる。そして人格ABの間のスイッチングも生じうる。ところが臨床においてみられるのは、ABがその間で特にスイッチングを起こさず、共存している状態もよく観察されるという事である。

しばしば臨床場面で見られるのは、人格間の「論争」である。人格ABのある発言を聞いて、それに反論をするということがある。その際は発言するBもそれを聞くAも意識としては共存している(共意識的である)ことになる。柴山 (2007) の言う「存在者としての私」と「眼差す私」もまた共意識状態であり、それだからこそ後ろから見られている感じを抱くのである。ただしもちろん人格Aの覚醒時に人格Bは「眠って」いる場合もあり、常にそれらが共意識的であるという必然性はない。そしてこの共意識的という性質は、いわゆるスプリッティングやスキゾイド・メカニズムなどの分析的な防衛機制と一番異なる点である。

もちろんABのスイッチングが「高速で生じている」という可能性もゼロではない。私たちは例えばパラパラ漫画やアニメーションで画像が切れ目なく連続的に動いているように感じられるためには一秒間に20コマ以上が流れる必要があるという事を知っている。もし意識にも一秒間に20ABの間を行ったり来たりするという力があるとすれば、それも可能であろう。しかしそのような事態は生じていないことは容易に想像がつく。例えば脳波は脳における活動の一つの表れと見なすことが出来るが、脳波に表されるような二つの活動状態の間の高速のスイッチングといった現象を私たち専門家は聞いたことがない。私たちの脳はAIと異なり高速での処理を行うことは出来ず、分散処理を行わざるを得ないが、それは神経ネットワーク上で伝わる情報が電磁波に比べてではあるが極めて遅いという条件が課せられているからだ。

私たちの脳がある種のスイッチングを行うとしたら、おそらく極めて緩徐である。単純な例ではネッカーの立方体の例がそうだが、次のようなだまし絵


を考えよう。この絵は見方を変えれば二つの顔が向き合っているようにも見え、また一つの顔が燭台の後ろにあるようにも見える。そしてこの絵の特徴は、この二つの見え方は同時には成立しないという事である。これは私たちが二つの意識状態(一つの顔を見ている時の意識状態Aと、二つの顔を見ている時の意識状態B)を通常なら同時に取れないことを意味する。試しに読者も試みてもらえばわかるが、A,Bの間をどれだけ素早く行き来させようとしても、せいぜい一秒間に23回どまりではないか。