解離の治療とオープンダイアローグ
さてここから私のお話は、解離性障害の治療といわゆる「オープンダイアローグ」とのかかわりに関するものになる。というのも私は最近、斎藤環先生の漫画「やってみたくなるオープンダイアローグ」を読んでいて、これは解離性同一性障害の治療にもそのまま言えるのではないかと思ったからだ。
さて以下はウィキペディアからの転用である。
「オープン・ダイアローグ Open Dialogue とは、統合失調症に対する治療的介入の手法で、フィンランドの西ラップランド地方に位置するケロプダス病院のファミリー・セラピストを中心に、1980年代から実践されているものである。「開かれた対話」と訳される。統合失調症、うつ病、引きこもりなどの治療に大きな成果をあげており、発達障害の治療法としても期待されている。
現在統合失調症等の精神疾患に限らず会社、組織、家族等あらゆる場面において 個々の生き方やその環境に置いての過ごし方をスムーズにする目的で利用され始めている。患者やその家族から依頼を受けた医療スタッフが、24時間以内に治療チームを招集して患者の自宅を訪問し、症状が治まるまで毎日対話する、というシンプルな方法で、入院治療・薬物治療は可能な限り行わない。患者を批判しないで、とにかく対話する、などのルールがある。統合失調症患者は(創造的である反面、極言すれば病的でもある)モノローグに陥りやすく、そこから開放することを目標とする。」
この手法の中でも「リフレクティング」と呼ばれるものは、オープンダイアローグ(以下、OD)の最中に、治療者どうしが椅子の向きを変えて向き合い、患者について話し合う場を設けることである。そしてここが一番奇妙かも知れない、と斎藤先生も書いておられる。
このテクニックで大事なのは、患者に治療者を観察してもらう事であるという。治療者間の対立などもその観察の対象になる。なぜこれが大切かと言えば、「患者がいないところで患者の話をしてはいけない」というルールがあるからだということだ。そしてそこで患者は尊厳や主体性を与えられた感じになるというわけである。斎藤氏によれば、これはODの根幹部分であるとのことだ。そしてそこでは見えない壁を作り、患者に目を合わせないというのである。
ただしもちろんそこでネガティブなことは言わないことが大事であるという。何しろ当事者が聞いているからだ。ここでリフレクティングは差異を扱うという事が言われるが、それは皆が注意深く色々な意見を出し合うからだ。また面白いのは本人に何かコメントを直接するのではなく、リフレクティングで、「彼は~と考えているのではないか?」という言い方をするということである。このプロセスでおそらく重要なのは、患者が自分について様々な治療者が異なる見方をしてくれているという事、そしてそこに唯一の正解などないという事だろう。
このリフレクティングのプロセスが興味深いのは、解離性同一性障害についての治療は、おそらく治療者はどの人格と対話をしていても、それがリフレクティングとしての様相を帯びているという事である。Aさんという人格と話していて、Bさん、Cさんについて言及するとき、Bさん、Cさんはそれを聞いている可能性がある。人格によっては治療場面に姿を現さないために、唯一その様な場面でしか治療者の自分についての考えを聞けないという事になるだろう。したがってリフレクティングで重んじなくてはならないお作法は結局はそこでも重んじられるという事になる。
私は各交代人格はお互いに他者同志という前提に立つが、するとこれは他者との出会いの機会でもあるという事である。そこでは自分以外の人格たちも、そして治療者も他者であり、その心の中をのぞくというプロセスになるのだ。
この漫画のコマはリフレクティングが行われている状態を表しているが、スタッフがくるッと椅子を向こうに向けて、つまりクライエントさんに背を向けて話し出すのが一つの特徴である。
ここで斎藤環先生の本「やってみたくなるオープンダイアローグ」に書かれているリフレクティングのルールを振り返ってみよう。これらはすべてDIDの治療に当てはまる、と私は考えている。4つの項目とは以下に掲げるものである。
1.話し合われている当事者には視線を向けないこと。
2. マイナス評価は控えること。
3. 共感を伝えること。
4. 患者がいないところで患者の話をしないこと。
まず第一番目の「話し合われている当事者には視線を向けないこと」である。
リフレクティングにおいては、視線を合わせないことで、第三者に向かって語っているという雰囲気を作ることになる。もちろん交代人格に直接話す時にはその人格を話し合う輪に入れて、その交代人格に向かって話すことになる。しかしそうでない場合は、例えばAさんという人格とBさんのことについて話すときは、Bさんについてのリフレクティングが行われていることになり、Bさんに直接向かって話すのではなく、あくまでBさんについて第3者的に話すことになるのだ。
そしてそこで対象になるBさんとは、しばしば黒幕人格さんであることが多いので、そのような例を考えよう。その場合に私が気を付けるのは、特に黒幕人格には敬意を払うということだ。そこで普通は「黒幕さん」という呼び方をしている。時には敬語を使うこともある。黒幕という言い方も、実は陰で大きな権力を持っているという、いわばポジティブな意味を含んでいるのだ。
ちなみに私は黒幕人格について英語の論文を書いたことがあるが、そこではshadowy figure という表現にした。つまりこれも陰で操っているという意味を指す。ちなみに話の対象となっているBさんは、その話を聞いているとは限らない。寝ている場合も多いのである。ですからBさんについて話すということは必然的にBさんに背を向けて、リフレクティングのような形をとることになるかもしれない。そしてあくまでも黒幕さんについては特に、敬意を表した話し方になる。特に黒幕さんに寝てもらいたいときなどは、敬意を表さないと黒幕さんの協力を得ることが難しくなる。「黒幕さんにはお引き取り願えるといいですね」「何か大きな事件が起きる時までは、ゆっくり休んでいただくといいでしょうね」という言い方も可能となる。
次に第二番目「マイナス評価は控えること」である。これも今言った話と通じることだ。誰だって第三者が自分にネガティブ評価を下すのを聞きたくない。第三者に、私が聞いていることを想定しない場面でしてもらいたいのはあくまでもポジティブ評価である。それを聞くことで人は本当にわかってもらえているんだ、やはり見る人にはわかってもらっているんだ、という体験となる。
第三番目は、「共感を伝えること」である。
これについても当然のことである。自分が分かってもらっていると思えること、それは第三者が、自分のいないところで言ってくれることで最も印象深い体験となるのだ。
第四番目は、「患者がいないところで患者の話をしないこと」である。
この第4番目については、いろいろ議論を呼ぶところであろう。一般的な理解では、要するに患者の陰口を利くな、ということだ。そしてその意味では解離性障害の違いに限らず、すべての治療場面について言えることである。私はこれを次のように言いなおしたいと思う。
まずは「患者当人が自己愛的な傷つきを体験するような話はどこでもするな」、ということです。それはおそらくカルテにも記録にも書くべきではないであろう。では治療者は患者さんについて思ったことは、それがネガティブな内容であるなら、どこにも書けないのではないかと思うかもしれない。しかしそれは違う。もし私たちは他人にネガティブなことを言われたとしても、そのトーンとか言い回しにより、それがトラウマ体験になるかどうかが決まってくる。要するにそのネガティブな表現にも愛があるか、という事なわけだ。
例えば会社でAさんという人がわがままで、同僚の何人かはAさんの横暴さに辟易して、もうAさんに辞めてもらいたいとさえ思っているとしよう。そのような事態はいくらでもあるでしょう。そのとき、たとえば「ほんといい加減にAさんにはうんざりしちゃうね。はっきり言ってやめてほしい」というのと「Aさんには○○という長所もあり、能力もあり、それなりに会社に貢献しているけれど、ちょっと彼のペースに私たちがついていけないところがあるよね」と言われたのでは、雲泥の差があるだろう。
そしておそらくAさんという人には様々な長所と短所があるはずですから、後者の言い方の方がまだリアリティに近いという可能性がある。するとAさんとしては自分を全否定されて立ち直れない気分になるよりは、まだ後者の言い方で「自分は自分の能力に従ったペースをほかの人に期待したり押し付けたりしてもダメなんだ。」と思え、それをより受け入れやすくなるかもしれない。
繰り返しますと、「人の陰口を聞かない」、というのは「患者当人が読んだり聞いたりした際に、そこに自己愛の傷つきや恨みを伴うようなことを言ったり書いたりするべきでない」ととらえなおすのであれば、あらゆる治療の文脈において言えることですし、交代人格に対するコメントとしてもいえることなのだ。
ちなみに精神分析関係の方々については、このような言い方が通じやすいかもしれない。患者さんに対するネガティブなことは、逆転移の理解という形で書くべきであるということである。治療者が患者に対して持つネガティブな思考や感情は、それが反省を経ていないことで攻撃や悪口になってしまう。それよりは、それが自分の感情的な反応として客観的に反省されつつ語られることで、おそらく患者さんのためにもなるということになる。患者さんに関するネガティブなことは、治療的な意味を持つ場合も少なくなく、ただしそれは治療者の側が自分の逆転移の問題としていったん引き取って語らえることで、初めて治療的な価値を獲得すると言えるであろう。