2021年6月20日日曜日

嫌悪 7

 ここで「症例 HM」(記憶をつかさどる海馬を手術で切除された有名な症例)の話を思い出した。彼は海馬を持たないために新しい記憶を作り出すことができない。すると彼が手術を受けて以降起きたこととして、親しくしていた人がなくなったという話を聞いて嘆き悲しんだという。しかし次の日にはそれを忘れていて、再びその話を聞くと、また悲しみに浸ったという。こうして同じことを何度も悲しくもとになったという。なんと不幸なことだろうか。彼は覚えるということができなかったためにそれを忘れる、ということもできなかったことになる。
 実はこのエピソードの裏を取ろうとしたが結局わからず、スザンヌ・コーキン (), 鍛原 多惠子 (翻訳) 「ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者HMの生涯 単行本 – 2014/11/21に行き着いた。しかしどうせなら英語をkindleで読もうということで、SUZANNE CORKINPermanent Present Tense: The man with no memory, and what he taught the world を注文する。
 それはともかく、苦痛は記憶と深く関係している、ということからどのように論を進めていったらいいのだろうか。大切にしていたUSBメモリーをダメにしてしまう。それは苦痛な体験だが、これをもう少し抽象化した思考実験ができないだろうか? 私の銀行口座にいくらあるか知らないが、仮に10万円が失われるとする。例えば交通違反か何かをして罰金を支払わなくてはならないような場合だ。私は苦痛を感じる。しかしUSBメモリーと違ってその10万円にまつわる記憶など特にない。銀行残高が10万円減少するという、単なる記号である。しかしどうしてこれほど苦痛なのだろうか? 具体的なイメージとか表象に関係ないのであれば、記憶は関係ないということになるだろうか?いや、そんなことはない。もし私が明日になって、「そういえば残高が10万円減るんだったな」と思い出す。そのときはおそらくかなりその苦痛は減っている。もし私がHMさんのように昨日のことを全く忘れていたら、違うだろう。「あー、そうだった!」とまた同じような苦痛を味わうかもしれない。とするとこれも一種の悲嘆反応ということになる。おそらく私は10万円という価値がどのような具体的な利得と結びついているかをイメージできる。家賃ひと月分、とか。するとそれがなくなるのはその利得のイメージの喪失を意味するのだ。そういえば初めて外国に行ったとき、その国の紙幣がおもちゃに見えてしまい、それを使うことに全く実感がなかった。こんなおもちゃのような紙で、こんな立派な本が買えるんだ、という印象があったのを覚えている。