2021年3月31日水曜日

コラム 被虐待者に見られる「否定的な自己概念」の本質

  CPTSDの概念でボーダーラインとの親和性を強調しすぎた感のあるハーマン理論であるが、彼女の功績はそれでも大きい。それは彼女が長期にわたるトラウマ状況への監禁によりパーソナリティのかなりの変化が生じるというを主張したことである。確かに被虐体験を持つ人の中には自分を罰する傾向が強く、それ自身がパーソナリティの特性になると言っていい。これはICD-11では「否定的な自己概念 negative self-conceptNSC))としてまとめられているが、このネーミングはあまりしっくり来ない気がする。しかしせっかくこれがICD-11に採用されたので、これについて少し整理してみる。
 長期間にわたり、逃れられないような状況で虐待を受けるうちに、虐待された人自身が罪深いと思うようになるのはなぜか。虐待者は絶対的な力を持ち、自分を蹂躙する。自分が悪いから虐待されるのだ、という思考はそのような状況において一種の救いとなる。少なくともそれは事態を説明してくれるからだ。
 まず「自分が悪いからだ」それは虐待者が「お前が悪い子だからだ」という形でしばしば口にすることであり、それにより虐待を受けるという状況を説明できるからだ。それに時々虐待者は自分を守ってくれ、優しくもしてくれる。虐待者は実は理想化されるべき部分をしばしば備えているのだ。すると虐待者は本当はこんなにすごくて、こんなに優しいのだ、その人にいじめられるのだから、やはり自分が間違っているのだ、という思考はさらに強固なものになる。それにこのナラティブを有することで、葛藤(自分は間違っていず、やはり虐待者が悪いのであるから、それに立ち向かっていけない自分はやはり弱く間違っているのだ)による思考のループから逃れることができる。さらに、もちろんこの思考を持つことによる「実利」はある。自分は悪いと思い続け、虐待者に謝罪し続けることで、虐待が少しは緩和される可能性があるからだ。
 さらにDSO(否定的な自己概念)をより強固にすべく、二つの要素が働く。一つは虐待状況への嗜癖であり、叩かれるという状況で脳内快感物質が分泌されることでそれは文字通り心地よい体験になってしまう。オウム真理教で殺人罪に問われ獄中で黙秘を続ける元信者たちは、教団の話になると笑顔になり、幸せそうな表情を見せたという。また洗脳を受けて強制的にISに所属させれ荒れていた少年は、故郷の親の元に戻った後も、つらかったはずのISでの訓練のことを思い出して、そこに戻りたいとさえ思ったという。一般に戦争の際前線で戦いPTSDを発症した人の中には、再び前線に戻ることを希望する人が少なくないという。これらはいずれも被虐待権が嗜癖的な要素を有するという証左である。
 そしてもう一つ、服従はある種の私たちの本能でもあるということだ。内沼幸雄先生がドイツの哲学者ニーチェや精神科医クラーゲスの理論を引用して述べていたのは、人間が本来持つ我執性と没我性という二つの性質についてである。他人に打ち勝ち、自らの願望を充足させるという我執傾向は私たちが持つ本能的なものであろう。しかしその逆に人に服従して、自分を滅ぼすという幻想は、人によっては甘美なものになりうる。そしてこれには系統発生学的な理由もあろう。生命の歴史は捕食するか、されるかの歴史でもある。捕食されることも、あるいは死んでいくこともある程度甘美なものでなくては、子孫を残す行為を遂行できなくなる。鮭はボロボロになって川上の河原で産卵した後に安心して死ねないではないか。カマキリの雄などは、交尾の後にメスに進んで食べられてしまうのだ。

2021年3月30日火曜日

エッセイの書き直し 11

 ハーマンさんはこの「心的外傷と回復」という本では本格的にCPTSDのことを論じているわけではない。しかし同時期にCPTSDというテーマについて論文を発表している。それがComplex PTSD: A Syndrome in Survivors of Prolonged and Repeated TraumaJournal of Traumatic Stress, Vol. 5, No. 3, 1992 pp.377191である。そこではこのCPTSDDESNOS(ほかに分類されない極度のストレス障害)という名前でDSM-IVに掲載されることが検討されているという。結局DSM-IVにはDESNOSCPTSDも掲載されなかったのだが、まずはこの論文の記載についても少し見てみよう。

 まずCPTSDは症状が多様に出現するとして、それを身体症状、解離症状、情動的な変化と説明し、それから性格の変化Characterological Sequelae of Prolonged Victimizationの記述へと進む。ちなみにこの記述からハーマンさんは主としてprolonged captivity において生じる症状について論述しており、小児の虐待状況という言い方に限定していないのがこの論文の特徴である。このCPTSDにおける性格の変化という事でいくつかの項目が出てくるが、そこでは「他者との関係の病的な変化」として再び「強烈で不安定な関係性」が論じられ、もっともそれを典型的に表すのがBPDであるという記述がみられる。そこには孤独への耐え難さと他者の耐え難さが共存するという。そしてハーマンは、同じようなことはMPDについても言える、と主張する。ここの記述はやはり「心的外傷と回復」と変わらないことになる。
 次に出てくるのが「アイデンティティの変化」。ここにもBPDMPDが出てくる。後者ではいくつかの部分が人格を形成するが、前者ではその能力がないために、スプリッティングの形をとるのだ、という言い方だ。ここら辺でもBPDMPDの論法が目立つ。そして最後の項目が、自傷がその後も続くという記述である。そしてこのような診断が大切なのは、これをパーソナリティ障害と見誤ることだ、と書いてある。つまりBPDという診断がすでに見下したような診断であり、そのように診断されるべきではない、と言いつつもCPTSDの症状はBPDに頻繁にみられると言っている。果たしてBPDCPTSDと違う、と言っているのか、後者が前者を含む、と言っているのか簡単には判断できない。ただしCPTSDBPDがとても近い関係にある、ということはニュアンスとして伝わってくるのだ。

さてもう一方のDESNOSの方はどうか。これについてはComplex trauma and disorders of extreme stress (DESNOS) diagnosis. (Directions in Psychiatry. Vol 21, 2001 373-415.) という論文が参考になるが、その中でもこのエッセイのテーマであるBPDとの関係に注目しよう。p.385には「DESNOSか、BPDか」という項目がある。私たちがBPDだと考えていたケースをよく調べると、その多くがDESNOSなのだ、と書いてある。そして太字で強調されている部分が「患者のトラウマヒストリーを詳細に聞くと、ケースの概念化と治療指針まで変わり、それが症例の提示の仕方の理解にまで及ぶ。特にBPDのトレードマークである攻撃性 hostility、情緒的な操作性 emotional manipulation、欺きdeceptionなどは悲しみsadness, 喪失loss、外傷的な悲嘆 traumatic grief などの真正なる感情に置き換わるのだ。」「幼少時のトラウマ体験への適応として理解することで、DESNOSBPDかの判定に大きな違いが出てくる」。これはボーダーラインの患者さんを偏見なく診ることでそれまでのBPDが誤診であることが分かることが多い、と言っていることになる。

そしてさらに太字で強調されているのが、「リサーチにより分かったのは、BPDDESNOSは重複する部分があるものの、明確に異なる状態である。」「両者は表面上は似ている。6つの領域のうち4つはしばしば共通している。」つまり慢性の情緒的な調節不全chronic affect dysregulation DESNOSでは最も顕著だが、BPDではアイデンティティと他者との関りの障害に比べて二次的である。BPDとはそもそも愛着の問題だが、DESNOSは自己調整self-regulation の問題なのだという。

もうこれがバンデアコークさんの出した結論と言っていいだろう。DESNOSではBPDに比べて感情の下方への調整不全が起きているdownward dysregulation という事だが、要するにDESNOSの人はより抑うつ的だという事だろう。BPDでは一時的な気分の上昇があるが、DESNOSでは気分は抑うつ的~深刻な怒り、恐怖、絶望感の間を行ったり来たりするという。とにかくDESNOSで見落とされがちなのは、陽性の気分を保つことや喜びを味わうことの難しさであるという。
 一応バンデアコークさんの立場はわかった。まずハーマンさんよりもさらに幼少時の慢性的なトラウマの重要な役割を強調している。そしてBPDより抑うつ的である。つまり彼の方がより生物学的な問題に目を向けているという事か。「まとめ」にはこう書いてある。DESNOSの問題は、1.情動や衝動の調整不全、2注意や意識の調整の問題、3自己知覚、4.他者との関係の持ち方、5意味のシステム、6.身体化。そしてその重症度を調べるためのSIDESという指標があるが、実はこれについての日本語の解説もネットでダウンロード出来る。そして彼がはっきり書いてあるように、DESNOSBPDは別物、なのである。

2021年3月29日月曜日

エッセイの書き直し 10

 さてハーマンさんは、このCPTSDとして具体的に想定している一群の患者さんたちがいた。それは従来いわゆる「ヒステリー」と呼ばれてきた患者さんたちである。ヒステリーという概念は過去の遺物という印象を持つかもしれないし、実際にそれが精神医学の表舞台から消えるきっかけになったのが1980年に発刊したDSM-IIIであった。しかし私が精神科医になった1980年代の前半には、精神科の教科書に載っていた。それは例えば「解離性ヒステリー」「転換性ヒステリー」という二つに分類されていたのである。

 ハーマンさんの提言は、このヒステリーと呼ばれていたものがおおむね彼女の言うCPTSDに相当するというものだが、そもそもこのヒステリーとは、解離性同一性障害(これをハーマンは従来の呼び名の多重人格障害と呼んでいたが、これは以下に「DID dissociative identity disorder としよう」)、身体化障害(以下、SD)、そして境界パーソナリティ障害(以下、BPD)であるとした。この論法で一つ大きな特徴は、このヒステリーに相当するものとしてBPDを入れていること、そして解離性障害の中でも特にDIDに限定したことである。それがなぜユニークなのかを説明しよう。

先ほどヒステリーが精神医学の表舞台から消えるきっかけになったのがDSM-IIIであったと述べたが、そこでは従来のヒステリー神経症を「解離性障害dissociative disorder」と「身体表現性障害 somatoform disorder」の下位分類に分けたという形をとっている。だからハーマンがヒステリーの代表としてDIDSDを上げるのはそれなりの理由がある。しかしそこにBPDを含めることには、違和感を覚える人がいてもおかしくない。
ということでハーマンのTrauma and Recovery を紐解く。昔読んだことがある本だが、改めて読むと感慨深い。こんなことが書いてある。「身体化障害とBPDMPDの三つはとても似ている。結局昔からヒステリーと呼ばれていたのはこれなのだ」
なんとシンプルで大胆なのだろう!「そしてこれらに共通するのは、差別を受け、誤解されているということである。そしてこれらは普通は女性である(英語版、123ページ)ともいう」。そう、ハーマンさんのCPTSDはフェミニズムのスピンがかかっているのだ。このように言っている。

「幼少時に虐待を受けた人が将来CPTSDを発症し、それは従来ヒステリーに分類されていたものであり、そのバリアント(偏移型)が身体化障害とBPDMPDである。」うーん、わかりやすい。そして彼女たちの特徴は、高い催眠傾向や解離傾向を持つが、誇張や演技と誤解され、社会から差別を受けているが、多くの身体症状を抱え、また対人関係上の困難さを有する。P124 あたりから抽出しよう。特に近い関係が苦手であり、それはBPDの症状としてもっとも記載されているという。それはintense, unstable relationships だという。彼女たちは、一人でいるのが辛いが、他者を疎むこともある。p125ではこんなことも言っている。BPDではMPDのように憎しみを持った悪魔のような解離性の人格を持つことができないが、MPDと同様にそれらを統合するということに困難さを有する。とにかくこれら三つの共通分母は幼少時のトラウマである。ハーマンさんのデータではBPD81%が虐待を受けているという。

2021年3月28日日曜日

エッセイの書き直し 9

 という事で、ハーマンさんのフェミニストぶりを知りたくて調べていたら、すごくいいものを発見した。これもネットで無料で手に入れた。

Webster, Denise C., and Erin C. Dunn (2005Feminist Perspectives on Trauma. in Women & Therapy. The Haworth Press, Inc. 28111-142

ちなみにハーマンさんは母親が Helen Block Lewis というイェール大学の有名な心理学の教授で、私はたまたま彼女が1971年に「神経症における恥と罪悪感 Shame and Guilt in Neurosis」という本を書いているので知っていた。しかし特にルイス先生がフェミニストであったという記述はないから、ハーマンさんのフェミニズムは母親との葛藤から生じたというわけではない(そのようなパターンもあるにはあるのである)。むしろハーマンさんは「心的外傷と回復」でも母親に対する謝辞を書いているから、母娘関係は良好だったのだろう。実際にメニンガーに招かれた際に見た印象も控えめてむしろシャイといった印象がある。このような面が彼女を怖いフェミニストの女傑達とは異なる印象を与え、彼女の言説が広く受け入れられたのだろう。

さてこの論文によると、もともとハーマンさんは、フェミニスト運動を始める前は、反戦運動や公民権運動に身を投じていたという。その意味では筋金入りだったのだ。そして精神科のレジデントをする中で、ハーマンさんはどうしてあれだけまれと思われていた性被害の犠牲者がこれほどいるのかを不思議に思ったという。たしかにその頃はその様に言われていたらしい。女性の性被害はまれで、それによる精神的な被害も稀である、と。ところがレジデント時代にあった患者さんの非常に多くは性被害の犠牲者であった。1975 年に彼女は最初の協力者 Lisa Hirschman とともに研究を発表し、その頃は女性の僅か1%しか性的虐待を受けていないという数値に対して現実がいかに違うかを主張したという。また彼女は1986年の研究で、190名の女性の精神科患者を調査し、三分の一の患者が身体的、性的な虐待を受けていたと発表した。(現代の見地からは、この数字はむしろかなり低いと言えるかもしれない。)
 このような経緯をだどって、ハーマンさんは「心的外傷と回復」を書くに至ったわけだ。しかしこの論文ではこのような内容が書いてあり、これは重要だろう。「ハーマンさんの仕事は、フェミニストではない人たちを遠ざけることなく、フェミニズムに焦点づけられていた。」そう、ここが大事なのである。

2021年3月27日土曜日

エッセイの書き直し 8

 パーソナリティ障害とCPTSDについて考える

私は複雑性PTSD(以下CPTSDと表記)という概念にはそれなりに思い入れがある。この概念は1992年に米国の精神科医ジューディス・ハーマンにより提案された。彼女はその著書 Trauma and Recovery (Herman, 1992, 邦訳「トラウマと回復」)の中でこの概念を打ち出したのであるが、そのころ米国のメニンガークリニックの精神科レジデントだった私は、この著書が周囲の臨床家にかなり熱狂的に迎えられたことを記憶している。その後実際にハーマンやその盟友であるバンデアコークの実際の講演を聞き、彼女たちの熱い思いを感じたものだ。
 それ以来DSMICDなどの国際的な精神疾患の診断基準が改定されるたび、CPTSDやそれと類縁の概念であるDESNOSDisorder of Extreme Stress, not otherwise Specified;ほかに分類されない極度のストレス障害、ヴァンデアコークらによる)が正式に採用されることを期待したが、失望に終わっていた。そして今回ようやく今回ICD-11
 にこれが所収される運びとなった。私はこのことをとてもうれしく思う。

私はCPTSDDESNOSも、そしてそれ以外のいかなる診断名も、それが単なるラベリングであるという事はわきまえているつもりである。それは患者個人の個別性を規定するものでは決してない。しかしその上で言えば、CPTSDというラベリングはある一群の人々の持つ特徴を表す際に非常に有用であるように思う。そしてそれは私が特に臨床現場で解離性障害を持つ方々に出会うことが多いという事が関係しているかもしれない。
 さてその上でCPTSDとパーソナリティとの関係について考えるというのが私に与えられたテーマであるが、個々には以下に述べる込み入った事情がある。

端的な言い方をしよう。ハーマンのこのCPTSDの概念には、初めからフェミニスト的なスピンがかかっていたのである。一般にトラウマ論者はフェミニズムに関心を寄せる傾向があるのは、多くの性被害に遭われた方を守ろうという気持ちがあるからであるが、彼(女)たちは長年差別や誤解の対象となっていたヒステリーの概念を現代的にとらえなおすべきであるという気持ちも強い。フロイトはヒステリーの患者さんを治療の俎上に載せたという功績はあるが、トラウマ理論をどちらかといえば否定するような理論を打ち立てたという意味ではフェミニストたちの中にフロイトに対する賛否があるといった状況がある。

2021年3月26日金曜日

エッセイの書き直し 7

 さてここまでエッセイを書き進めてやっぱり私の思った通りだということになった。やはりハーマン先生のCPTSD≒従来のヒステリー≒MPDBPDという図式はわかりやすいが単純化されすぎている。私の個人的な意見としても、DIDMPD)とBPDの方々は、ある意味では真逆なのである。私にとってはBPDの人はある種の生得的な何かを持っている。それがトラウマなどによりかなりそれが修飾されてしまうという印象を受ける。私の「推し」はいわゆるhyperbolic temperament である。以下の論文がネットでただで手に入る。
Christopher J. Hopwood, Katherine M. Thomas, Mary C Zanarini によるHyperbolic temperament and borderline personality disorder Personal Ment Health. 2012 February 1; 6(1): 2232.

 もちろん名前からして、Zanarini さんがリーダーだろう。ざっとこんなことらしい。Zanarini 先生と Frankenburg 先生が2007年に、ボーダーラインの病理のエッセンスとして、Hyperbolic temperament による内的な心の痛みが特徴であると説いた。(Zanarini MC, Frankenburg FR. The essential nature of borderline psychopathology. Journal of Personality Disorders. 2007; 21:518–535.)ちなみにhyperbolic は訳せない。双曲線、とか誇張された、という意味だが、「Hyperbolic temperament 誇張気質」となると、とんでもない語訳扱いされるだろう。そこでHTとしておこう。(どうやらこの概念、まだ誰も日本で紹介されていないのか、「hyperbolic, 境界」でも「hyperbolic, ボーダーライン」でも何もヒットしないので、誰かが訳したものを使うことができない。

ともかくもこの2012年の論文を読むと、結局こういうことが書いてある。BPDに関しては気質かそれとも成育環境(もちろんそこには幼少時のトラウマも含まれることになる)かということが言われてきたが、結局両方、ということが分かってきている。そしてこのHTとしてどのように説明されているかと言うと、以下の通りだ。「容易にネガティブな感情を体験し、そして容易に立腹し、他者にいかに自分の内的な苦しみが大きいかを訴えることで、持続的に生じている怒りumbrage を沈めようとすること“easily take offense and to try to manage the resulting sense of perpetual umbrage by persistently insisting that others pay attention to the enormity of one's inner pain” (Zanarini & Frankenburg, 2007, p. 520).

ちなみになぜここで umbrage アンブリッジ、怒りという言葉を使っているかは不明である。 辞書を引かないとわからなかった。

2021年3月25日木曜日

母子関係の2タイプ 2

 その中で私たちが一番文化の違いとして感じるのは、親と子供との密着度の違いであった。私たちはもちろん夜は一緒の寝室で親子三人、川の字で就寝した。また私たち夫婦は息子をベビーシッターに預けて外出するという発想は持ちえなかった。これは平均的なアメリカの家庭ではしばしば行われていることを考えれば顕著な違いであった。もちろん私が息子を見ている間に妻が外出するということは当たり前にあったので、妻は息子から離れることに特に不安があったわけではないが、おそらくベビーシッターをあまり信用していなかったのだと思う。というより子供を預けて私たち夫婦が外出しなくてはならないような重要な出来事に遭遇しなかったのかもしれない。
 ただしもちろん私たち夫婦の両親や親戚は遠く離れた日本にいたので、もし彼らが近くにいたら、子供を彼らに任せて夫婦で外出するということは起きていただろう。それに日本では幼い子供を保育園に預けて母親が仕事に出かけることは普通になってきている。ただしそれでも親が幼い子供から離れることへの抵抗という点でやはり私たちは日米の大きな違いを感じたのである。
 それを顕著に示すような一つの出来事があった。息子は4歳半の頃、

(以下省略)

ちなみにちょうど同様の病状のアメリカの少女がいた。彼女は息子とほぼ同年代だったが、日中は一人で過ごし、夕方は家族が見舞いに来るという状態であった。通常の米国の小児病棟ではそれが普通だったのだ。

2021年3月24日水曜日

エッセイの書き直し 6

 さてこれまでの経緯について最も総合的な解説を加えていらっしゃるのが、飛鳥井望先生のものである。原田先生編著の著書の冒頭に「複雑性PTSDの概念、診断、治療」として登場する。これによるとハーマンさんが打ち出したCPTSDに身体症状を加えた7カテゴリー27症状がDESNOSということになる。(ちなみに6カテゴリーとは①感情及び衝動の統御の変化、②注意ないし意識の変化(解離など)、③自己概念の変化(罪業と自責など)、④加害者への感覚の変化(加害者の理想化、卑小感など)、⑤他者との関係の変化(信用できない、再外傷体験など)、⑥意味体系の変化(絶望と希望の喪失など)ということだ。

結局DESNOSは取り上げられなかったが、その代わりにPTSDに「認知と気分の陰性の変化」、「無謀ないし自己破壊的な行動」を加えることで、何となくDESNOS的な症状のラインナップとなったわけだ。さて、ICD-11作成委員会では、DSM-IVのフィードトライアルの結果が参照され、やはりCPTSDは基本的にPTSDの診断を満たすこと、そしてとくにDESNOSのフィールドトライアルで頻度の多かった感情統御困難、否定的自己概念、対人関係障害の三つが取り上げられ、これを自己組織化の障害と名付けたというのだ。まあここら辺はCPTSDの成立の経緯を説明していただいているわけだが、BPDとの関連でも解説がある。そこで述べられているのが、Cloitreら(2014)の研究であり、簡単に言えば、CPTSDBPDはかなり明確に区別されるということだったという。BPDの本質的な特徴とされる「見捨てられまいとする死に物狂いの努力」「理想化と脱価値化の間を揺れ動く対人関係」「不安定な自己感覚」「衝動性」はいずれもCPTSDでは低かった…・なんということだ。また自殺企図や自傷行為はBPDでは50%だったが、CPTSD,PTSDでは15%前後だったという。このようにハーマンさんのCPTSDはようやくICD-11で日の目を見たと同時に、CPTSDBPD説は否定された形になっているのである。やっぱりね、という感じだ。

 

2021年3月23日火曜日

エッセイの書き直し 5

  CPTSDで特にハーマン先生が強調するのが、長期にわたるトラウマ状況への監禁ということであり、それに対してパーソナリティのかなりの変化が生じるということである。確かに被虐体験を持つ人の中には自分を罰する傾向が強く、それ自身がパーソナリティの特性になると言っていい。これはICD-11では「否定的な自己概念 negative self-conceptNSC))としてまとめられているが、私なりに整理してみる。

長期間にわたり、逃れられないような状況で虐待を受けるうちに、自分が悪いと思うようになるのはなぜか。虐待者は絶対的な力を持ち、自分を蹂躙する。自分が悪いから虐待されるのだ、という思考はそのような状況において救いとなる。なぜならまずそれは虐待者が口にすることであり、それにより虐待を受けるという状況を説明できるからだ。それに時々虐待者は自分を守ってくれ、優しくもしてくれる。すると虐待者は本当は正しくて、自分が間違っているのだ、という思考はとても魅力的になる。それにより葛藤(自分はやはり正しいので、虐待者に立ち向かっていかなくてはならないのではないか)による志向のループから逃れることができる。さらに、もちろん自分は悪いと思い続け、言い続けることで虐待が少しは緩和されるということもあるだろう。

さらにそこに二つの要素が働く。一つは虐待状況への嗜癖であり、叩かれるという状況で脳内快感物質が分泌されることでそれは一種の快感を伴うことになる。そしてもう一つ、服従はある種の私たちの本能でもあるということだ。内沼幸雄先生が書いていた我執性と没我性の話を思い出す。人に服従して、自分を滅ぼすという幻想は、人によっては甘美なのだ(私には実感がないが)。それはそうだろう。生命の歴史は捕食するか、されるかの歴史でもある。捕食されることも、あるいは死んでいくこともある程度甘美なものでなくては、鮭はボロボロになって川上の河原で産卵した後安心して死ねないではないか。カマキリの雄などは、交尾の後にメスに進んで食べられてしまうのだ。

 

2021年3月22日月曜日

エッセイの書き直し 4

 という事でネットで調べていたら、素晴らしい文献を見つけた。Complex trauma and disorders of extreme stress (DESNOS) diagnosis. (Directions in Psychiatry. Vol 21, 2001 373-415.) これはヴァンデアコークさんが何かのワークショップに使ったものだが、素晴らしいリソースになっている。そのp.385には「DESNOSか、BPDか」という項目があるので読んでみる。私たちがBPDだと考えていたケースをよく調べると、その多くがDESNOSなのだ、と書いてある。そして太字で強調されている部分。「患者のトラウマヒストリーを詳細に聞くと、ケースの概念化と治療指針まで変わり、それが症例の提示の仕方の理解にまで及ぶ。特にBPDのトレードマークである攻撃性 hostility、情緒的な操作性 emotional manipulation、欺き deception などは悲しみ sadness, 喪失 loss、外傷的な悲嘆 traumatic grief などの真正なる感情に置き換わるのだ。」「幼少時のトラウマ体験への適応として理解することで、DESNOSBPDかの判定に大きな違いが出てくる」。えー? これはボーダーラインの患者さんを偏見なく診ることでそれまでのBPDが誤診であることが分かることが多い、と言っていることになる。

そしてさらに太字で「リサーチにより分かったのは、BPDDESNOSは重複する部分があるものの、明確に異なる状態である。」「両者は表面上は似ている。6つの領域のうち4つはしばしば共通している。」つまり慢性の情緒的な調節不全chronic affect dysregulation DESNOSでは最も顕著だが、BPDではアイデンティティと他者との関りの障害に比べて二次的である。BPDとはそもそも愛着の問題だが、DESNOSは自己調整 self-regulation の問題なのだ!!

もうこれがバンデアコークさんの出した結論と言っていいだろう。DESNOSではBPDに比べて感情の下方への調整不全が起きているdownward dysregulation という事だが、要するにDESNOSの人はより抑うつ的だという事だろう。BPDでは一時的な気分の上昇があるが、DESNOSでは気分は抑うつ的~深刻な怒り、恐怖、絶望感の間を行ったり来たりするという。とにかくDESNOSで見落とされがちなのは、陽性の気分を保つことや喜びを味わうことの難しさであるという。

一応バンデアコークさんの立場はわかった。まずハーマンさんよりもさらに幼少時の慢性的なトラウマの重要な役割を強調している。そしてBPDより抑うつ的である。つまり彼の方がより生物学的な問題に目を向けているという事か。「まとめ」にはこう書いてある。DESNOSの問題は、1.情動や衝動の調整不全、2注意や意識の調整の問題、3自己知覚、4.他者との関係の持ち方、5意味のシステム、6.身体化。そしてその重症度を調べるためのSIDESという指標があるが、実はこれについての日本語の解説もネットでダウンロード出来る。そして彼がはっきり書いてあるように、DESNOSBPDは別物、なのである。

2021年3月21日日曜日

母子関係の2タイプ 1

この論文の目的は、母子関係の二つのプロトタイプを示すことである。それは大雑把に言えば欧米型と日本型という形になるだろうが、これらが文化に特有というよりは、文化を超えて母子関係に潜在的に備わっているという仮説も含めて提示したい。

このテーマに関してはやはり私の個人的な異文化体験から出発することをお許しいただきたい。私と妻が子育てを行ったのはアメリカの中央平原にある、カンサス州トピーカという田舎町だった。大きな都市なら日本人のコミュニティもできやすいが、この町はメニンガークリニックという精神分析の世界では比較的有名な病院があるだけで、それ以外はこれと言って特徴のない小さな田舎町であり、日本人コミュニティと呼ばれるような大きなものはなかった。その代わり日本からの精神科医や心理士の数家族が精神分析を学ぶために23年の期間そこに集まり、それを中心として小さな集団が維持されていたのである。そのような米国暮らしの中で生まれた我が家の一人息子は、幼稚園から小学校に進む間、常にクラスや学年で唯一の日本人という状況が続いた。そこで私と妻は子供の成育環境を通して異文化体験を豊富に持つことになった。米国では友達同士がお互いの部屋に泊まりに行き、その送り迎えを親がすべて車で行い、お互いの家に滞在していた時の様子を簡単に報告し合うという事が頻繁に行われた。こうして子供を通して米国の複数の家族との付き合いが深まることとなった。そして日本では常識的と思われる私たちの子育てと、アメリカ人の中流家庭での子育てを、それこそ左右に並べて比べるようなことを十年以上行ったわけだ。そしてそこで私たちはとても顕著な形で両文化の違いを体験することとなった。

2021年3月20日土曜日

エッセイの書き直し 3

 さて実はこのTrauma and Recovery という本には本格的にCPTSDのことが論じられているわけではない。今回読んでみて改めて分かった。やはりCPTSDの名を広めるのに一番大きかったのは以下の論文だろう。Complex PTSD: A Syndrome in Survivors of Prolonged and Repeated TraumaJournal of Traumatic Stress, Vol. 5, No. 3, 1992 pp.377191)である。実はこの発表はTrauma and Recovery の出版と同年であるから、この概念はそれなりに温めていたのであろう。そう言えばアメリカにいるときこの論文に触れて興奮したのを覚えている。今ではネットで無料でダウンロードできる。彼女はこれがDSM-IVDESNOS(ほかに分類されない極度のストレス障害)という名前で掲載されることが検討されているという。現在のPTSD概念は単回性のトラウマに対する反応として概念化されているが、実は繰り返される慢性のトラウマにより引き起こされるものがあるのだ、というのが趣旨である。結局DSM-IVにはDESNOSCPTSDも掲載されなかったのだが、ここで問題なのは、このハーマンさんの論文に、あるいはバンデアコークさんが中心になってまとめたDESNOSに、どの程度「ボーダーラインらしさ」が組み込まれているかである。これは興味深い。という事でこの1992年の論文をざっと読んでみる。

論文では次のような構成になっている。まずCPTSDは症状が多様に出現するとして、それを身体症状、解離症状、情動的な変化と説明し、それから性格の変化の記述へと進む。Characterological Sequelae of Prolonged Victimization ちなみにこれらの記述は、主としてprolonged captivity において生じる症状であり、小児の虐待状況という言い方に限定していないのがこの論文の特徴という気がする。

そして性格の変化という事でいくつかの項目が出てくるが、最初は「他者との関係の病的な変化」として強烈で不安定な関係性がしばしばみられ、もっともそれを典型的に表すのがBPDであるという記述がみられる。そこには孤独への耐え難さと他者の耐え難さが共存するという。そしてハーマンは、同じようなことはMPDについても言える、と主張する。

次に出てくるのが「アイデンティティの変化」。ここにもBPDMPDが出てくる。後者ではいくつかの部分が人格を形成するが、前者ではその能力がないために、スプリッティングの形をとるのだ、という言い方だ。ここら辺でもBPDMPDの論法が目立つ。そして最後の項目が、自傷がその後も続くという記述である。そしてこのような診断が大切なのは、これをパーソナリティ障害と見誤ることだ、と書いてある。つまりBPDという診断がすでに見下したような診断であり、そのように診断されるべきではない、と言いつつもCPTSDの症状はBPDに頻繁にみられると言っている。果たしてBPDCPTSDと違う、と言っているのか、後者が前者を含む、と言っているのか簡単には判断できない。ただしCPTSDBPDがとてもちかいかんけいにある、ということはニュアンスとして伝わってくるのだ。

こうなってくると今度はDESNOSの記載が気になってくる。

2021年3月19日金曜日

エッセイの書き直し 2

 ということでハーマンのTrauma and Recovery BPDについての部分を読んでいく。昔読んだことがある本だ。改めて読むと感慨深い。こんなことが書いてある。「身体化障害とBPDMPDの三つはとても似ている。結局昔からヒステリーと呼ばれていたのはこれなのだ」😱!何たるシンプルで大胆な表現なんだ!これがハーマンさんの真骨頂だったのだ! 久しぶりに衝撃を受けた。そしてこれらに共通するのは、差別を受け、誤解されているということである。そしてこれらは普通は女性である(英語版、123ページ)ともいう。そう、ハーマンさんのCPTSDはフェミニズムのスピンがかかりまくっているのだ。このように言っている。

「幼少時に虐待を受けた人が将来CPTSDを発症し、それは従来ヒステリーに分類されていたものであり、そのバリアント(偏移型)が身体化障害とBPDMPDである。」うーん、わかりやすい。そして彼女たちの特徴は、高い催眠傾向や解離傾向を持つが、誇張や演技と誤解され、社会から差別を受けているが、多くの身体症状を抱え、また対人関係上の困難さを有する。P124 あたりから抽出しよう。特に近い関係が苦手であり、それはBPDの症状としてもっとも記載されているという。それはintense, unstable relationships だという。彼女たちは一人でいるのが辛いが、他者を疎むこともある。p125ではこんなことも言っている。BPDではMPDのように憎しみを持った悪魔のような解離性の人格を持つことができないが、MPDと同様にそれらを統合するということに困難さを有する。

とにかくこれら三つの共通分母は幼少時のトラウマである。ハーマンさんのデータではBPD81%が虐待を受けているという。

うーん、確かに読んでいると何となくそんな感じがしてくる。彼女の書き方に説得力があるのだろうか。

 

2021年3月18日木曜日

エッセイの書き直し トホホ・・

 CPTSDのエッセイを書いたつもりだったが、題名を間違えていた。編集部のリクエストはパーソナリティ障害とCPTSDであった。とすると恐ろしいことだが・・・・

書き直しである。まあ部分的には使えるかもしれないが。

「私はCPTSD(複雑性PTSD)についての随想を書かせていただく。実は私のこのCPTSDという概念にはそれなりに思い入れがある。この概念は1992年にジューディス・ハーマンにより提案された。彼女はその著書 Trauma and Recovery (Herman, 1992, 邦訳「トラウマと回復」)の中でこの概念を打ち出したのであるが、そのころ米国にいた私は、この著書が周囲の臨床家にかなり熱狂的に迎えられたことを記憶している。それ以来DSMICDなどの国際的な精神疾患の診断基準は、これをそのリストに掲載するか否かの議論を重ねてきたのだ。そしてその結果として今回ICD-11 にこれが所収される運びになっていることを私はとてもうれしく思う。私はCPTSDも、そしてそれ以外のいかなる診断名についても、それがラベリングであるという事はわきまえているつもりである。そしてその上で言えば、CPTSDというラベリングはある一群の人々の持つ特徴を表す際に非常に有用であるように思う。そしてそれは私が特に臨床現場で解離性障害を持つ方々に出会うことが多いという事が関係しているかもしれない。またそれ以外の理由でも私にとってCPTSDは「他人事ではない」診断だが、その理由を少しお話する。」

とまあ書いたわけだが、やはりここには但し書きがあった。ハーマンのこのCPTSDの概念には、BPDがこれである、という想定があった。彼女は従来BPDと呼ばれていた人たちの多くが、これに相当すると考えた。彼女によれば、いわゆる「ヒステリー」DID,BPDは生育期の虐待により生じた精神疾患であり、CPTSDと呼ばれるべきだと主張したのである。林先生を引用する「そこで規定されたCPTSDは、とくにBPDとの間でパーソナリティ特性などの共通性が高い。しかしICD-11では、CPTSDBPDと別の構成概念であるという研究所見(Cloitre,et al 2014)に基づいて、CPTSDPTSDの一型として、BPDと一応別の独立のものとしてとらえられることとされた。」まあ、そういうことだろう。

2021年3月17日水曜日

CPTSDのエッセイ 推敲の推敲 4 

  では私が考えるCPTSDとは何か。それは繰り返しトラウマを体験したという経歴とそれによる対人関係上の困難さにより特徴づけられるとともに、悲観的な将来のイメージを有し、抑うつ的な性格傾向を有するであろう。そしてそれはDSOによりかなり特徴が抽出されている。ちなみに例の公式を示そう。

AD: affective dysregulation 情動の調整不全 

NSC: negative self-concept 否定的な自己概念

DR disturbances in relationships 関係性の障害

私はこれではなりの部分が尽くされていると思うがこれだけで十分かという疑問が残る。トラウマによる直接の反応としての症状の記載だ。私としてはPTSD症状か又は深刻な解離症状又は自傷行為の項目の中からいくつか、という極めてDSM的な診断基準を考える。というのもやはりCPTSDは症候群なのだ。トラウマへの反応がフラッシュバックであったり、解離だったり、人それぞれで異なるために、そのような診断基準にせざるを得ないであろうと思う。

もう少し自由連想を語るならば、CPTSDの概念が掲載されたのはいいが、その内容がPTSDに引っ張られすぎではないかと思うのだ。PTSDの複雑型、ということでPTSDの診断基準にプラスアルファしたものをその診断基準にしたというわけだが、それはPTSDの持つ解離にあえて触れないという特徴を踏襲してしまうことになる。せっかくいい概念なのに解離や自傷について触れないことがむしろ不自然で、それならDSM-5の「PTSDの解離タイプ」のほうがわかりやすいのではないかとも思ってしまう。ただしこちらのほうもPTSDの基準を満たすことが前提となる。やはり「PTSD派」寄りの概念ということか。もっと言えばPTSDというクライテリアをパスしない限りCPTSDの診断が下らないというのも問題ではないか? 先ほどのDIDの患者さんの一部はPTSDの基準を満たさないという点が問題なのだ。そうするとCPTSDPTSD部分にも手を付けなくてはいけなくなり、かなり議論は複雑になってしまうのでこれ以上は止めよう。

 最後に治療論について一言申し上げたい。

私はトラウマに特化した精神療法的なアプローチは非常に重要であると思うし、実際にTF-CBT(トラウマに焦点づけられた認知行動療法)やPE(持続エクスポージャー療法)のような治療法が提唱されている。しかしトラウマ治療に一番大事なのは、トラウマをいかに扱うか(あるいは扱わないか)という点に配慮するということである。ここで私は近年杉山登志郎先生が書かれている「複雑性PTSDへの治療パッケージ」(原田誠一編著「複雑性PTSDの臨床」(金剛出版、2021年、p.91~104)に表される主張を例にとり、私の意図することを書いてみたい。

先生はこの論文の中で次のように仰る。「精神療法の基本は共感と傾聴だが、(中略)トラウマを中核に持つクライエントの場合、この原則に沿った精神療法を行うと悪化が生じる。」(p.91)そして受講することでライセンスが得られるような「トラウマ処理が大精神療法になってしまう」ことにも警告を鳴らす。これで力動的な精神療法ならず、TF-CBTPEもなで斬りにされてしまう。それらの問題点は「フラッシュバックの蓋が開いてしまい収拾がつかなくなる」ことであるとする。その代わりに彼が提唱するのは、「簡易型のトラウマ処理」である。そこでは子供、成人を問わず、一日のスケジュール、睡眠、食事などの健康面に関するチェックを行い、その上で短時間でトラウマ処理を行う。ではトラウマ処理とはどういうものかと言えば、トラウマの記憶の想起をさせないで処理をするという。そのために左右交互刺激と呼吸法を行うという。その際はパルサーという身体に交互刺激を与える器具と呼吸法を用い、身体の違和感をモニターしていくという。

もちろんこの杉山先生の提言は一種の逆説を含んでいるとみていい。「なるべく短時間で、話をきちんと聞かないことが逆に治療的である」(!!!)ということをあまりに正面から受け取ると、混乱してしまう人も多いだろう。トラウマに特化した治療など考えない方がいいのか?と疑心暗鬼になる方もいらっしゃるかもしれない。しかし結局杉山先生が提唱しているのは、トラウマ関連疾患には、「正しいトラウマ治療」を行うべきだというロジックになる。杉山先生の少しprovocative な部分はやり過ごし、その真意は「患者さんの役に立つことをすべし。害になるようなことはすべきでないし、治療者がヒロイズムに駆られてトラウマを扱うことに専心することは控えるべきである」という極めてまっとうな議論である。

 以上エッセイ形式なので、好き勝手なことを書かせていただいたが、何らかの参考になることを願う。

 

2021年3月16日火曜日

CPTSDのエッセイ 推敲の推敲 3

 私は基本的にはCPTSDという概念の登場により、トラウマ関連障害の議論はより本格的なものになると考える。そして同時にBPDとは何かといった議論も深められると考える。何しろハーマンが最初に「CPTSDは結局BPDだ」という少し極端な提言をしたのだ。という事はCPTSDの概念の精査とともに彼女の発言の信憑性も問われることになる。私は個人的にはBPDをトラウマ関連障害とは考えないので、この議論に関する是非がさらに問い直されるきっかけとなった。私はこれから起きることは、あの人もこの人もCPTSDだ、という議論であり、いわゆるオーバーダイアグノーシス(過剰診断)であろうと思う。そしてそれは「何もかもCPTSDというのはいかがなものか?」という議論が生まれることで、揺り戻しに遭い、最終的にCPTSDという診断が下るのにふさわしい患者さんが選ばれることでより良い治療を得られる機会が生まれるようになればいいだろう。

この過剰診断とそこからの揺り戻しという現象は、最近では「発達障害」で起きていることである。学会や研究会のケース検討の場で思うのは、かなりの頻度で「でもこの方、発達の問題もありそうだね」という意見やコメントが出され、確かにその可能性を考えることでケースの理解が一歩進む(ような気がする)という体験を持つということである。そして発達障害について指摘する人たちの中には、「男性はある意味で程度の差こそあれ皆発達の問題がある」という人もいて、一部の人々からは顰蹙を買い、より適切な診断が付けられるようになるだろう。

ただし私は現在ICD-11CPTSDの診断基準には不満がある。すでに述べたように、ICD-11によれば、CPTSDPTSD + DSO という形を取っている。つまりPTSDの基準を満たしたうえで、「自己組織化の障害」が生じているものを言うのだ。これはすっきりして紛らわしさが少ないのはいい。しかし本当にこれでよいのか。例えば幼少時に繰り返し虐待を受けた思春期以降のケースを考える。そして最初はそのトラウマのフラッシュバックが生じていたが、大人になりそのフラッシュバックが治まるとともに多彩な解離症状を示すようになるとしよう。その人は大人になった時点でPTSDという形を取るだろうか。その人は恐らく自己感や対人関係上の問題(DSO)を有しているだろうが、典型的なPTSDの症状をもはや取らない場合もあるのではないか。
 このことを知るためにはDIDと診断される人がどの程度の割合でPTSDとしての併存症を有するかを調べてみるといい。

Şarという専門家の論文には、DIDの人が生涯のうちでPTSDの診断を有するのは46.7% 79.2%であると記している。まあ67割としよう。すると34割のDIDの患者さんにはCPTSDはつかないということになる。しかしDIDの殆どの方は「私の考える」CPTSDの基準を満たしているのである。

Şar, V. (2016) The psychiatric comorbidity of dissociative identity disorder: An integrated look. In: Shattered but Unbroken: Voices of Triumph and Testimony. Eds: A. P. van der Merwe & V. Sinason. Karnac Press, London (pp.181-210)

肝心のDIDの方を掬い取れないCPTSDって意味があるのだろうか?これは問題だ。

 では私が考えるCPTSDとは何か。それは繰り返しトラウマを体験したという経歴とDSOである。そこに解離症状を含めないとすれば、繰り返されるトラウマの結果が解離症状とは言えないからだ。

 

2021年3月15日月曜日

CPTSDのエッセイ 推敲の推敲 2

  さてありがたいことにこの両陣営には現在歩み寄りが見られている。PTSD陣営も解離に興味を示し、その用語を積極的に用いている。その一つはDSM-5におけるPTSDの「解離タイプ」が掲げられたことにある。これはPTSD研究により、患者の示す生理学的な所見に二つの異なるタイプが提唱されたという事情があり、そこにはポージス先生の「ポリベイガル理論」が大きく一役買っていることは間違いない。つまりPTSD派にとってこれまでつかみどころがないという印象を与えていた解離現象には、目に見えて数値化できるような指標と、それを裏付けるような科学的な理論が提示されたわけである。そしてそこで示された「PTSDの解離タイプ」(ただし実際のDSM-5の手引きによれば、「(解離症状を伴う)PTSD」という風に少しトーンが下がっているが、まあいいだろう。)において「解離症状を伴う」という事はそれだけ幼少時から繰り返されたトラウマ体験が関与していることが多いことを示す。つまりそれはより「CPTSD的」なPTSDという事になるのだ。

そしてもう一つの理由は言うまでもなく、ICD-11の草案におけるCPTSDの掲載であった。「ザ・トラウマ関連障害」の登場である。CPTSDこそが幼少時からの繰り返される外傷体験が前提となる。(ICD-11による定義は必ずしもそれは明らかではないことは不思議である。長期の捕虜体験などが筆頭に上がってくるからだ。)そして幼少時のトラウマに必然的に関連してくる解離はそこに最初から組み込まれていることになるからだ。

 さて以下にCPTSDの掲載に関して、いくつかの個人的な思いを書きたい。

基本的には私はCPTSDICDに掲載されることに賛成である。歓迎すべきことは、このCPTSDの登場が、識者の間に大きな波紋を呼んでいるということだ。誤解を生むかもしれないが、この概念はある一つのマーケットを形成した。CPTSDの特集が組まれる。それに関する論文が書かれ、リサーチがなされる。「自分は果たしてCPTSDに該当するのか?」という当事者の方々の関心も集めるだろう。そうして人々はこのことで議論をし、関連する問題、例えばBPDやトラウマに関する興味や関心を掻き立てたことは間違いない。そして当然ながらCPTSDの賛成派と反対派が何となく出来上がり、活発な議論を交わすことにもなろう。私はこのCPTSDが開拓したマーケットは有益なものであると考える。それが様々な問題への関心を深め、問われるべき問いを洗い出す限りにおいて意義があると思う。それらを具体的に述べて終わりにしよう。

2021年3月14日日曜日

CPTSDのエッセイ 推敲の推敲 1

 

CPTSD(複雑性PTSD)についての随想を書かせていただく。実は私のこのCPTSDという概念にはそれなりに思い入れがある。この概念は1992年にジューディス・ハーマンにより提案された。彼女はその著書 ”Trauma and Recovery” (Herman, 1992, 邦訳「トラウマと回復」)の中でこの概念を打ち出したのであるが、そのころ米国にいた私は、この著書が周囲の臨床家にかなり熱狂的に迎えられたことを記憶している。それ以来DSMICDなどの国際的な精神疾患の診断基準は、これをそのリストに掲載するか否かの議論を重ねてきたのだ。そしてその結果として今回ICD-11 にこれが所収される運びになっていることを私はとてもうれしく思う。私はCPTSDも、そしてそれ以外のいかなる診断名についても、それがラベリングであるという事はわきまえているつもりである。そしてその上で言えば、CPTSDというラベリングはある一群の人々の持つ特徴を表す際に非常に有用であるように思う。便利なラベリング、というわけだ。そしてそれは私が特に臨床現場で解離性障害を持つ方々に出会うことが多いという事が関係しているかもしれない。またそれ以外の理由でも私にとってCPTSDは「他人事ではない」診断だが、その理由を少しお話する。

私が最初に刊行した本は1995年の「外傷性精神障害」(岩崎学術出版社)だが、このタイトルに表されているように心的外傷により生じる精神障害(ここではそれをより現代的な呼び方である「トラウマ関連障害」と呼ぶことにしよう)は私の研究や臨床の主たる関心事であった。そしてその意味ではPTSDCPTSDも間違いなくこれに該当する障害であるが、このトラウマ関連障害という障害群には一つの大きな問題が従来から存在していた。

CPTSDは間違いなくトラウマ関連疾患であるが、従来のトラウマ関連疾患には一つの問題があった。それはDSMICDなどの診断基準の中の一つのカテゴリーにまとめられずに、バラバラに存在していたという事情である。例えばDSM-III1980)ではPTSDは「不安障害」の一つに入っており、解離性障害は一つの独立したカテゴリーがあった。また転換性障害については、それが属する身体表現性障害があった。また適応障害はこれもそれだけで一つのカテゴリーに分けられていた。PTSDも解離性障害も、転換性障害も適応障害も、「トラウマ関連障害」に属すべきものであるにもかかわらず、そのようなカテゴリーがないために、これほどバラバラに分かれていた。そしてそこにはトラウマが一群の精神障害に関連するという基本的が概念が臨床家の間に欠けていたという事を意味する。

さらに米国の精神医学会では、PTSD陣営と解離陣営は何となく綱引き状態にあった。仮にこれらを「PTSD派」「解離派」と呼ぶならば、「PTSD派」の先生方は、「こちらこそがトラウマ性の精神障害の由緒正しい疾患である」という自負があっただろう。何しろPTSDの筆頭として挙げられていた戦争神経症の症状群を想定して作られたのが、PTSDの診断基準だったからである。それに対して「解離派」は、「解離」こそがトラウマに対する心的な反応のひとつのプロトタイプであり、自分たちはそれを扱っているのだ、というプライドがあった。もちろんPTSD派の自負もわかるが、「そもそもPTSDの症状は、フラッシュバックも、鈍麻反応も、結局はある種の解離性の反応ですよ。」と解離派の先生方は言いたかったであろう。そしてこの両者は結局は折り合いがつかない運命にあるのかも知れない。何しろPTSDは「トラウマが生じた後に起きている状態」という記述名であり、解離性障害は心の機能が分かれてしまっている状態、という症状名に由来する。つまり一つの状態に二つの切り口から診断を当てはめるわけであり、一人の患者が両方の基準を満たしてもいいのである。何しろこれらは同じ「トラウマ関連障害」の両看板なのだ。

このように考えると両陣営の「綱引き」は実に不思議な現象と言えるが、これは解離という現象に独特な事情があるのかもしれない。解離はそれを扱うことを臨床家に躊躇させるような何かがある。PTSDの治療にはプロトコールがあり、それを裏付けるような生物学的なメカニズムが明らかになりつつある。少なくともフラッシュバック、過覚醒症状などは脳生理学的な現象として検証することができる。そしてその治療手段としての暴露療法などもいわば認知行動療法の一つとしてプロトコール化されているのである。そしてそれは精神科医の持つ理系心を刺激するのであろう。ところが解離現象はそれが極めて主観的な訴えであり、しかも治療の対象とすべき患者自身がそれを否認したり隠したりする可能性がある。それと関係してか、解離症状や転換症状には、それが詐病ではないかという疑いがかけられやすい。それもあって解離に興味がある、と積極的に仰る精神科医はPTSDに比べてかなり少ないという印象を受ける。

2021年3月13日土曜日

CPTSD のエッセイ 推敲 3

  CPTSDICD-11への掲載をきっかけにして、トラウマ治療の意義が問われるようになってきている。このタイミングで出版された原田誠一先生編著の「複雑性PTSDの臨床」が送られてきた。その一つの章を担当しているので献本を戴いたというわけだが、これは学術誌「精神療法」の特集の拡大版としてつくられたのである。これを読み通すことで、現在のトラウマ治療をめぐる議論が一望に見渡せる気がした。そこで一番問題になるのは、トラウマ(記憶)にどのように治療的なアプローチを行うかという点である。トラウマの治療であるから、当然ではないか、と思うとしたら、それは再考が必要である。それを考えさせてくれたのが、同書に収められている杉山登志郎先生の論文「複雑性PTSDへの治療パッケージ」(p.91~104)である。これを紹介したい。

 先ず先生の文章はかなり刺激的な表現を用いている。例えば次のような文章。「精神療法の基本は共感と傾聴だが、(中略)トラウマを中核に持つクライエントの場合、この原則に沿った精神療法を行うと悪化が生じる。」(p.91

これを読んで途方に暮れる人もかなりいるのではないか。これは例えば治療者の受け身性を強調する力動的(分析的)精神療法に対するものかと思えば、トラウマに焦点化された認知行動療法(いわゆるTF-CBT)や暴露療法などもその対象になる。それらは「トラウマ処理が大精神療法になってしまう」という。「圧倒的な対人不振のさなかにあるCPTSDのクライエントに、二週間に一度、8回とか16回とかきちんと外来に来てもらうことがいかに困難な事か、トラウマ臨床を経験しているものであれば誰しも了解できるのではないか」というのだが、これはTF-CBTのプロトコールもさしてのことである。そしてその代わりに先生は「簡易型のトラウマ処理」を提唱する。そして講習によるライセンス性なしで行えるべきだという。そして「なるべく短時間で、話をきちんと聞かないことが逆に治療的である」!!!

この杉山先生の論文は、実はトラウマを扱う私たちの直面する問題にかなり直接的に訴えてくるテーマである。私たちは最近「トラウマ性の精神障害」という概念を手に入れるに至っている。PTSDCPTSDはその筆頭格である。しかしそれに対する治療がどの様なものになるかについては、奇妙なことに、CPTSDの様な「トラウマ関連疾患には『トラウマ治療』はしないほうがいい」という逆説がありうるという問題がある。もちろんこれは杉山先生一流のレトリックであり、事実彼自身が考案している「簡易型トラウマ処理」(TSプロトコール)と呼ばれるものである。いわばトラウマ関連疾患には、「正しいトラウマ治療」を行うべきだというロジックになる。そしてそこで肝要なのは、「フラッシュバックの蓋が開いてしまい収拾がつかなくなる」ことを避けることが必要という事だ。そのためには子供、成人を問わず、一日のスケジュール、睡眠、食事などの健康面に関するチェックを行い、その上で短時間でトラウマ処理を行う、という。ではトラウマ処理とはどういうものかと言えば、トラウマの記憶の想起をさせないで処理をするという。そのために左右交互刺激と呼吸法を行うという。その際はパルサーという身体に交互刺激を与える器具と呼吸法を用い、身体の違和感をモニターしていくという。

 この後解説は多重人格状態についてのそれになるが、この杉山先生の手法はトラウマ記憶を直接は扱わないという点が特徴と言える。私は杉山先生には大いに敬意を払いつつ、「トラウマ記憶を扱う」場合についての論じる必要がある。なぜならトラウマ記憶は向こうから語られることも多いからだ。それを無視することはできないだろう。

杉山先生はDIDの人たちには「簡易版自我状態療法」を行うというが、それは私が「心の地下室」と呼んでいるものと近い。(ただし先生は心の地下室、という表現には賛成なさらない。)まずは安全な場所、例えば地下室、公園の緑の芝生などを想像してもらい、そこに小さな家をイメージしてもらう。その中には小さな部屋がいくつもあり、またそこに好きなものを持ち込んでいい。そしてそこで「みんな集まれ」と「パーツ」に集まってもらう。出てこない人がいればそれでもいい。名前を確認し、それから心理教育を行う。皆が大事であることを告げ、それぞれが辛い記憶を持って生まれたことを伝える。そしてみな平和共存することが大事であるとも伝える。そしてそれぞれに「簡易処理法」を行うが、まずは小さい子供を優先するという。そこには交互の身体部分のタッピングが主たるアプローチとなる。

杉山先生が言っているのは、「全パーツの記憶がつながれば、人格の統合は必要ない」ということだ。そして彼が言うには、これを実際にやってみると、必要なのは最初の45セッションであり、それからあとは皆で話し合ってね、とクライエントに任せてしまうという。杉山先生は少し極端でprovocative な言い方をなさるが、真意は「患者さんの役に立つことをすべし。害になるようなことはすべきでない」という極めてまっとうな議論である。良いものは取り入れ、よくないものはたとえどこかの学界でお墨付きが得られているものでもばっさばっさと切っていく。気持ちがいいのである。