2021年1月1日金曜日

死生論 30

  フロイトは精神分析を考え出す前に、コカインの精神に与える影響を発見した。その時フロイトは、コカインが永遠に人間の精神の病を解決するものととらえた。というのも彼はコカインにより精神的な安らぎや充足感と同等のものを与えたからである。報酬系とはそういうものなのだ。少量の覚醒剤と少量のコカインと、オリンピック選手の「チョー気持ちいい」と悟りの境地と、善行を施した人の充実感は皆、報酬系の興奮に行き着く。報酬系はfinal pathway なのだ。

ところでここで一つ疑問が浮かぶ。私はA以外でももちろん報酬系刺激を得ることができる。例えばユーチューブで宇宙に関する動画を見るのが好きだ。これはAとは無関係である。すると私はその間死を忘れるのだろうか。おそらく。私はその間充実していたはずだ。では夜通し飲み明かしたらどうだろう?おそらくそれ自身はそれなりに楽しいかもしれない(私が飲酒の習慣がある場合を想定しての話だ)。でもその間Aにかかわるといった充実した時間を持てなかったことを残念に思うだろう。登山が好きな友人は、週末に好天に恵まれていると、ゲームか何かでそれなりに楽しく時間を過ごせても、何らかの都合で山登りに行けないとしたら大変な時間の無駄をしたと感じるそうだ。それと同じだろう。そうすると自分が報酬系を最も有効に刺激できることは、おそらく死の回避に結びつくという風に一般化できるだろう。

しかしそうなるとベッカーやキルゲゴールの言う実存的な矛盾やそれを乗り越えるための信仰faith という話とどうつながってくるのだろうか?私の中では直感的につながっているのだが、説明のために少し議論を戻そう。死んでも何も変わらない。だからそれを恐れる根拠はどこにもない。しかしなぜか死んでどうなるかは私たちにとって大問題であり、しかも答えが見つからないという性質を持つ。私たちは必然的にそれを考えることを回避することになる。その一つの手段は私たちが生きがいを追求することである、というのがここまでの論旨だ。すると享楽にふけることも一つの方法ということになるだろうか。おそらくそうだ。しかしおそらくその時に人は本当の意味で充足できないはずだ。それはその享楽の対象Yが、彼にとって生きがいとなるXの代替物でしかすぎないからだ。登山が趣味の私の友人にとっての週末のゲームのようなものだ。彼はおそらくXを追求したくなるだろうし、そうすることで「いつ死んでもいい」という気持ちにもなるのではないだろうか。

するとこういう問題の立て方が可能となる。人は快楽的な活動により死の意識化を回避できる。しかしその手段にはいくつかの種類、というよりはいくつかの階層があり、より効率よく死の意識化を回避できるXと、その代替に過ぎないYとがある。その違いは何か。私にとってはそれがベッカーが言うfaith にどれだけ近いかということになるのだ。ここで強調したいのは、Xは死の意識化を回避するものでありながら、一番死を意識化しているという矛盾した性質を持つことだ。私にとってはXとは一種の徹底した服従というニュアンスがあるが、それはまるで自分をゴミのような存在、いまにも土に返りそうなものとして意識することという意味がある。常に土に返っては戻ってくる、ということだろうか。