2020年11月30日月曜日

これまで書いた論文 2

カチカチの理論的な論文。精神医学体系(精神科のどの医局にも一揃いおいてある百科事典のようなもの)のための論文だからテキスト調である。書籍の一章としては無理だろう。


       顕著なパーソナリティ特性

 

                                 京都大学 教育学研究科 岡野憲一郎

1. はじめに

 本稿ではICD-111におけるパーソナリティ症 personality disorder(以下、PD)において採用されたディメンショナルモデルにおいて掲げられた5つの顕著なパーソナリティ特性(否定的感情 negative affectivity、離隔 detachment、非社会性 dissociality、脱抑制 disinhibition, 制縛性 anankastism について論じるとともに、精神病性 psychoticismDSM-5)とボーダーラインパターン borderline pattern についても言及する。

すでによく知られている通り、現在の精神医学におけるパーソナリティ障害をめぐる議論の趨勢は、従来のいわゆるカテゴリカルモデルから、ディメンショナルモデルに向かいつつある。カテゴリカルモデルとは、正常とは画然と区別されるべきいくつかの典型的なパーソナリティ障害を同定して列挙するモデルであり、ディメンショナルモデルとは、パーソナリティ障害における特性ごとにその度合いを数量的に捉え、その組み合わせにより示すという方針である。

2013年に発表されたDSM-5では、予想に反してこれまで通りのカテゴリカルモデルが前面に示され、準備されていたディメンションモデル寄りのモデル(より正確には「ハイブリッドモデル」)は、「III. 新しい尺度とモデル」の中に「パーソナリティ障害群の代替モデル」として掲載されるにとどまった。

他方では2018年に原案が示され、2020~21年頃には全世界的に使用が開始される予定のICD-11においては、ディメンショナルモデルが全面的に採用された。このDSMICDの明確に異なる方針は、PDをめぐる現在の識者たちの意見の相違をそのまま表しているともいえる3。ただしこのことはこれまで十分なエビデンスの支えもなく論じられてきたPDの概念が、より現代的な姿に生まれ変わるために必要なプロセスとも考えられよう。さらには最近極めて頻繁に論じられる発達障害とPDとの関係性をめぐる問題も今後絡んでくる可能性もある。

 

2.カテゴリカルモデルとディメンショナルモデル

 

まずカテゴリカルモデルとディメンショナルモデルをめぐる問題について、少し振り返っておこう。カテゴリカルモデルは古くはE. Kretschmer K. Schneider などのドイツ精神医学の伝統にさかのぼり、ICDは第10版まで、DSMは第5版でも踏襲されているモデルである。しかしこのモデルは診断自体に重複が多く、また個々のPDが高い異種性 heterogeneityを備えていること、すなわち様々なPDの混在状態であることが指摘されてきた。それに代わって登場したのがこのディメンショナルである。

(以下略)

2020年11月29日日曜日

これまで書いた論文 1

 これまで書いた論文で本にまとめてないものがかなり溜まった。一つずつ掘り起こしてみよう。まずはこれ。かなりいい加減な、論文ともいえない、一種のエッセイである。


AIに精神療法は可能か? 

Can AI do psychotherapy?

 

   AIに精神療法が可能かどうか、はひとことでは答えられない問いである。AIが将来感情を持つようになる可能性は見えず、また人間と対等で知的な対話を交わせるようになるのははるか先のことになろう。その意味では人間のセラピストが通常備える機能をAIが近未来に獲得することは考えられない。しかし他方ではペットが人と気持ちを通わせ合うことを私たちは日常的に体験し、また無生物がある種の癒しの効果を有することはしばしば観察される。人は単なるモノにも生命や感情を投影する力を存分に備えているからであろう。そこでAIを人間に対峙するセラピストではなく、いわば人の拡張知能として利用可能な道具と見なし、その上でセラピストとしての機能の一部を委託することは十分可能ではないだろうか。特にAIがクライエントに関する情報を集積させ、それをもとに「他意のない」フィードバックを提供することは、場合によってはAIセラピストだからこそ可能な機能とも考えられよう。

AIセラピスト AI therapist、投影projection、拡張知能extended intelligence、 他意のないフィードバック non-judgmental feedback 

 AI(人工知能)に精神療法は可能なのだろうか? 実に挑発的で魅力的なテーマをいただいたが、何を精神療法と呼ぶかにより見解は異なるだろう。「クライエントとのある程度の知的な会話が成立することが前提条件である」という立場の論者は、「近未来にAIが精神療法を行う可能性はない」と結論せざるを得ないだろう。なぜならそれはAIがほとんど人間のような心を持つことを前提としているであろうからだ。ところが現在のAIは残念ながらそのようなレベルには程遠いと言わざるを得ない。しかし精神療法といっても実にさまざまな種類や様々な要素がそこには含まれるはずだ。何しろ「ひとりでできるワークブック形式」の○○療法という専門書も出版されているのだ。AIがその「ワークブック」をインストールしさえすれば、「精神療法を行う」という役割をすでに果たしていると見なされるであろう。いずれにせよ私は本稿では精神療法をかなり緩い意味で用いることをはじめにお断りしておきたい。
 まずはこんなエピソードを披露したい。子供が小学生の頃、つまり約二十年まえのことである。かの「たまごっち」が登場し、爆発的に流行した頃の話だ。「デジタル携帯ペット」というふれこみで、小さいデジタル画面に「たまごっち」が登場し、餌をやる、遊ぶなどのボタンを押していくことで卵から成長していく。餌をきちんとやる(ある決まったボタンの操作を繰り返す)ことを怠ると、ひねくれたり不良化したりしておかしな名前がつき、変な顔になって行く。今から考えれば他愛のないゲームだが、スマホが登場する何年も前の話であるから、子供たちは夢中になった。やがてそれに似た類似品も売られるようになり、少しサイズが大きく、少し込み入った育ち方をするおもちゃが発売された。息子はそれを買ってしばらく「餌を与えて」遊んでいたが、家の中でどこかに紛失してしまい、それっきりになっていた。数ヶ月ほどして掃除をしていてたまたま本棚の隙間からそのたまごっちもどきが出てきた。かろうじて電池が残っていたので消えかけの画面を見ることができたが、そこにはこう読めた。

「もう僕のことをわすれちゃったんだね。僕は旅に出ます。探さないでね。」

それを読んだ子供がしばらくして号泣し始めたのだが、心配して様子を伺いに来た家人もそれを読んで、「あれまあ」と言っているうちに二人で号泣しだした。特に「探さないでね」の部分が琴線に触れたらしい。かなり単純なおもちゃであるにもかかわらず、まるで自分たちが世話を忘れたせいで死んでしまったペットのような気持ちを私たちに起こさせたのである。

以下略

2020年11月28日土曜日

揺らぎのエッセイ 推敲の推敲の推敲 1

 心のフラクタル性について

                    

フラクタルとは?

この秋に「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。二年かけた書下ろしで、これでやっと肩の荷が下りたというわけだが、しばらく「揺らぎ」について考え続けていたせいで余韻が残っている。特に、この本に書いたフラクタルというテーマが最近は気になってきた。

私はもう還暦をとうに過ぎたが、物覚えがますます悪くなる一方で、いろいろなことへの関心はかえって深まっている気がする。それらは若いころはどれも気にも留めていなかったことばかりである。なぜ生命が誕生できたのか。進化はいかにして生じるのか。遺伝と環境はどのようにかかわっているのか。意識とは何か。あるいはなぜ人はこれほどまでに理解しえないのか。

一つ気が付いたことがある。私が疑問に思い、かつ興味を抱くこれらのことは、決まって「フラクタル的」なのである。つまりきわめて複雑な入れ子状になっているのだ。ある問題について理解しようと思い、大体はつかめたつもりになっても、その詳細を分かろうとすると、さらに深い森に迷い込んだ気になる。そしてそのまた一部について調べると、そこからも新たな森が広がっている。どの方向のどのレベルに降りて行っても、そこには鬱蒼とした森が広がっているのだ。これが私が言う「フラクタル的」ということだ。(フラクタルとは、縮尺を変えても同じ模様が見え続ける、いわゆる自己相似性のことを指す。)

極小の世界ばかりではない。今では一枚で数ギガのサイズの銀河の最高画質写真をネットでダウンロードして見ることが出来る。するとその一部の何もなさそうな空間を拡大していくと、星が新たに湧いて出てくる。こちらの方向にもフラクタルが存在する。(もちろん画像である限りは最後には無機的で単純な四角いピクセルに行きついてしまうが。)そして世界のフラクタル的な成り立ちを教えてくれるのが科学の進歩である。

フラクタル性は美的感覚とも関係する。巧みな画家の描く線には、その一本一本に意味合いが込められていることを感じる。文豪と呼ばれる人々の用いる細かい言葉のひとつひとつに深い味わいがある。これらも「フラクタル的」であり、絵や書を鑑賞する人はその細部にまで世界が宿っていることを感じ、だからこそ一枚の作品を長い時間をかけて鑑賞するのだ。逆に素人の描写は細部に味わいがないので表面的で浅薄なものと感じられてしまう(ただし、我が子の描いた絵なら違って見えるのであろうが。)

では心のフラクタル性についてはどうか。それを最初に唱えたのは、精神分析を作ったシグムント・フロイトだったと私は考える。彼は夢や連想の詳細にまで注目し、その象徴的な意味を論じた。フロイトの「夢判断」(1900)に書かれていることは、患者の(実はその多くはフロイト自身の)夢の詳細にまでこれほど意味が込められているのかという事である。精神分析では心の細部の意味を追求し得ることを前提として生まれた学問なのだ。

ある高名な分析家は、患者の最初の一言で、その日のセッション全体の行方を知ることが出来ると主張した。また分析的なアプローチをとる心理学者は、ロールシャッハテストで患者が見せるある図版の微細な部分への反応について、その人全体の病理を表しているといった。これらもフラクタル的な発想と言える。

心の生産物の細部を分析することは全体を知る上での決め手になるのだろうか。もうしそうだとしたら画期的なことだ。「神は細部に宿る」というが、精神分析はまさにその神を知る手段ではないか? 私はそれを確かめたくて40年前に精神分析の世界に入った。でも残念ながらその確信に至っていない。むしろ臨床状況でこの意味でのフラクタル的な考え方を持ち込むことには注意が必要だと考えるようになっている。例えばある母親がわが子を虐待する夢を見たと報告するとしよう。彼女自身はその様なことをしたこともないし、考えもしないという。その母親にとってこの夢の持つ意味は何だろう? 多少なりとも注意深い分析家が、「それはあなたの抑圧された願望かも知れませんね?」と解釈を与えることにどれほどの信憑性があるだろうか? それは正解かも知れないし全くの誤りかも知れないのである。そして普通の考え方をする人間ならば、少なくとも心の問題に関しては、「神がどの細部に宿っているかは誰にもわからない」としか言いようがないことを理解し、途方に暮れるのである。

2020年11月27日金曜日

どうでもいい話

 マトリョーシカ、実は日本原産だったというのを聞いて少しうれしくなった。

https://mag.japaaan.com/archives/15408



                  箱根十二卵



         日本の職人なら絶対これに挑戦するね。三十六卵。




2020年11月26日木曜日

揺らぎのエッセイ 推敲の推敲の推敲 

 心のフラクタル性と神経ダーウィニズム

フロイトが考えたような意味でのフラクタル性を実際の心は有してはいないこと、しかしそれとは別の意味でのフラクタル性を有していること、それが心の問題を考える醍醐味であり、また難解さにもつながり、また私がそこに心の問題の面白さを感じるのだという事を、この短いエッセイの中で伝える自信はない。しかしその概要だけは示しておきたい。そこでのキーワードは「ボトムアップ」システムという概念である。

フラクタルと聞けば、細かく見て行っても同じ複雑な構造が保たれる、入れ子状の構造をと想像しやすい。ロシアの民芸品のマトリョーシカのように最初に大きな人形を作り、中をくりぬいて小さい人形が次々と入れ子状に作られていくとなると、これはトップダウン的な見方と言っていい。あるいは一枚の絵を描くときはまず全体の輪郭を下書きし、そのあと細部を書いていく。これも同じだ。

しかし心を宿す生命体は最初にどこからか全体の見取り図を与えられるわけではない。分子の集合体から始まって徐々にボトムアップ的に形成されている。最初に原子の大気があり、そこに雷や金属が媒介することで有機物質が生まれ、それが集合して複雑な分子を自己触媒的に形成する過程で、物体と生命体の中間にあたるようなむき出しのRNAのような構造が出来上がり、自己分裂を行い始め、そこから細胞壁をもった単細胞生物が生まれ・・・・、という風に。あるいは個体発生の際には最初に受精卵があり、それが分裂して幾つかの細胞の単位が自分自身を包み込むようなさらに大きな集合体を誘導していく。これもボトムアップだ。最終的に出来上がる生命体のひな型が与えられて、そこに向かって組みあがっていくようでいて、実はそうではない。

このようにして形成される生命体の中の神経系を基盤にして心が生み出されるわけであるが、これもボトムアップ式なのだ。細胞の中でも電気信号を伝達する性質を持つ特殊な細胞が神経細胞として分化する。そしてそれがいくつか組み合わさってネットワークを形成していく。最初は数個の神経細胞からなるネットワークで、ごく基本的な情報を貯めることが出来る。そのうち数百個の神経細胞からなるC・エレガンス(線虫の一種、以下「Cエレ君」)のようなレベルになる。すでに不快を回避し、特殊な臭いには向かっていくという能力を有している。それを極めて基本的な「心」とするならば、人間の大脳皮質のように数千億の細胞を有するネットワークも、その中間ぐらいに位置するネズミの脳も、昆虫の脳も、そしてCエレ君のような小さなネットワークも、いずれも心があり、その意味ではフラクタル的な関係と言えるのだ。

このようなボトムアップ的でフラクタル的な心という考え方として、前野隆司先生の「受動意識仮説」が参考になる。前野先生は脳の働きは基本的にモジュール的(つまりいくつかの単位が集まったもの)であるとし、より小さな部分を「脳の中の小人たち」と呼ぶ。あるいは数多くのCエレ君と考えてもいい。ただし彼らは実は手が生えていて互いにつながり合って影響し合っているCエレ君である。心とは結局小人たちが勝手に動いて生み出した情報が集合し、それが心という幻を生み出すという。小人たちは与えられた断片的な情報に突き動かされてかなりランダム性を備えつつアウトプットを生み出す。それが隣の小人たちとの集団のアウトプットと競合し合いながら、上位の集団(モジュール)としてのアウトプットを生み出す。それがまたほかの小人の集団たちのアウトプットと競合して・・・・、そして最後に大脳皮質全体で競合に勝ったものが、私によって「考え」として自覚される。その意味では心とはボトムアップ的に成り立っているものなのだ。

それに比べるとフロイトの想定した心は多分にコンピューター的ということになる。それはトップダウン方式を採用していることになる。フロイトが自我として想定した働き、すなわち思い出すと不快なことを防衛し、抑圧するために、それが無意識に送り込まれ…というのは上意下達のトップダウンであり、パソコンと同じだ。そしてそこにはそのパソコンの電源を入れ、プログラムを起動するという人間の意志によるトップダウンの決定が反映されるのだ。そしてその心臓部であるCPUに分け入ると最小単位はオン、オフの回路でしかない。いわばピクセルになってしまう。

ところが人間の中枢神経の最小単位である神経細胞一つ一つはそれが単体で生きていて、遊離すれば理想的な環境においては独り歩きしかねないのだ。心や人間を神が作り出した、という考え方、いわゆるインテリジェント・デザインという考え方もその意味では完全なトップダウンの考え方で現実の心の在り方を反映していない。

心のフラクタル性をある程度説明したつもりだが、だからどうした、と言われれば何も言えない。心とは実に複雑で、人間の行動に一つの決まった説明などない。それでも自分は生きていて、自由意志を持ったつもりになっている。いったいどうしてだろう? こんなことを考えながらこれからもしばらくは生きていくことになりそうだ。

2020年11月25日水曜日

揺らぎのエッセイ 推敲の推敲 2

  心のフラクタル性と神経ダーウィニズム

 心がフロイトが考えたような意味でのフラクタル性を有してはいないこと、しかしそれとは別の意味でのフラクタル性を有していること、それが心の問題を考える醍醐味であり、また難解さにもつながり、また私がそこに心の問題の面白さを感じるのだという事を、この短いエッセイの中で伝える自信はない。しかしその概要だけは示しておきたい。そこでのキーワードは「ボトムアップ」システムという事である。

フラクタルとは細かくして行っても同じ複雑な構造を保つ、入れ子状の構造をしていると想像しやすい。マトリョーシカのように最初に大きな人形があり、中をくりぬいて小さい人形が次々と入れ子状に作られていく。これはトップダウン的な見方と言っていい。しかし心を宿す生命体はボトムアップ的に形成されている。最初に原子の大気があり、そこに雷や金属が媒介することで有機物質の集合体が生まれ、それが複雑になっていく過程で、物体と生命体の中間にあたるようなむき出しのRNAのような構造が出来上がり、自己分裂を行い始める、という風に。あるいは発生の際には最初に受精卵があり、それが分裂していくつかの細胞の単位が自分自身を包み込むようなさらに大きな集合体を誘導していく。これもボトムアップだ。最終的に出来上がる生命体に向かっていくようでいて、つまりトップダウンのようでいて、実はそうではない。

さてこのようにして形成される生命体の中の神経系を基盤にして心が生み出されるわけであるが、これもボトムアップなのだ。細胞の中でも電気信号を伝達する性質を持つ特殊な細胞が神経細胞として分化する。そしてそれがいくつか組み合わさってネットワークを形成していく。最初は数個の神経細胞からなるネットワークで、ごく基本的な情報を貯めることが出来る。そのうち数百個の神経細胞からなるC・エレガンス(線虫の一種、以下「Cエレ君」)のようなレベルになる。すでに不快を回避し、特殊な臭いには向かっていくという能力を有している。それを極めて基本的な「心」とするならば、人間の大脳皮質のように数千億の細胞を有するネットワークも、その中間ぐらいに位置するネズミの脳も、昆虫の脳も、そしてCエレ君のような小さなネットワークも、フラクタル的な関係と言えるのだ。

このようなボトムアップ的でフラクタル的な心という考え方として、前野隆司先生の「受動意識仮説」がある。前野先生は脳の働きは基本的にモジュール的(つまりいくつかの単位が集まったもの)であるとし、より小さな部分を「脳の中の小人たち」という言い方で表す。心とは結局小人たちが勝手に動いて生み出した情報が集合し、それが心という幻を生み出す。

それに比べるとフロイトの想定した心は多分にコンピューター的ということになる。それはトップダウンであり、神経細胞一つ一つの行動はランダム的ではなく、上から統制されている。PCにおける最小単位はオン、オフの回路でしかない。いわばピクセルになってしまう。ところが神経細胞はそれが単体で生きていて、遊離すれば理想的な環境においては理想な環境においては独り歩きしかねないのだ。心や人間を神が作り出した、という考え方、いわゆるインテリジェント・デザインという考え方もその意味では完全なトップダウンの考え方で現実の心の在り方を反映していない。

心のフラクタル性をある程度説明したつもりだが、だからどうした、と言われれば何も言えない。心とは実に複雑で、人間の行動に一つの決まった説明などない。それでも自分は生きていて、自由意志を持ったつもりになっている。いったいどうしてだろう? こんなことを考えながらこれからもしばらくは生きていくことになりそうだ。

2020年11月24日火曜日

揺らぎのエッセイ 推敲の推敲 1

 心のフラクタル性について

  この秋に「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。二年かけた書下ろしで、これでやっと肩の荷が下りたというわけだが、しばらく「揺らぎ」について考え続けていたせいで余韻が残っている。特に最近はフラクタルというテーマが気になってきた。

私はもう還暦をとうに過ぎたが、物覚えがますます悪くなる一方で、いろいろなことへの関心はかえって深まっている気がする。それらの多くはどれも当たり前のこととして若い頃は気にも留めていなかったことばかりである。なぜ生命が誕生できたのか。進化はいかにして生じるのか。遺伝と環境はどのようにかかわっているのか。意識とは何か。あるいはなぜ人はこれほどまでにわかりえないのか。

私が疑問に思い、かつ興味を抱くこれらのことは、決まって「フラクタル的」である。ある問題について理解しようと思い、大体はつかめたつもりになっても、その詳細を分かろうとすると、さらに深い森に迷い込んだ気になる。その一部について調べると、そこからも新たな森が広がっている。どのレベルに降りて行っても、そこには鬱蒼とした森が広がっているのだ。これが私が言う「フラクタル的」ということだ。(フラクタルとは、縮尺を変えても同じ模様が見え続ける、いわゆる自己相似性のことを指す。)

極小の世界ばかりではない。今では一枚で数ギガのサイズの銀河の最高画質写真をネットでダウンロードして見ることが出来る。するとその一部をいくら拡大していっても、何もなさそうな空間に星が新たに湧いて出てくる。つまりいくら遠くに行ってもそこには銀河が存在するのだ。こちらの方向にもフラクタルが存在する。そして世界のフラクタル的な成り立ちを教えてくれるのが科学の進歩である。

フラクタル性は美的感覚とも関係する。巧みな画家の描く線には、その一本一本に意味合いが込められていることを感じる。文豪と呼ばれる人々の用いる細かい言葉のひとつひとつに深い意味合いを感じる。これらも「フラクタル的」であり、絵や書を鑑賞する人はその細部にまで世界が宿っていることを感じてその前で長い時間をかけて鑑賞するのだ。逆に素人の描写は細部に味わいがないので表面的で浅薄なものと感じるのだ。

では心のフラクタル性についてはどうか。それを最初に唱えたのは、精神分析を作ったS.フロイトだった、と私は考える。夢の詳細にまで分け入り、そこでの象徴的な意味を論じた。フロイトの「夢判断」(1900)に書かれていることは、患者の(実はその多くはフロイト自身の)夢の詳細にまでこれほど意味が込められているのかという事である。そして精神分析では細部の意味を追求する学問でもある。ある高名な分析家は、患者の最初の一言で、その日のセッション全体の行方を知ることが出来ると主張した。また分析的なアプローチをとる心理学者は、ロールシャッハテストで患者が見せるある図版の微細な部分への反応について、その人全体の病理を表しているといった。これもフラクタル的な発想と言える。「神は細部に宿る」という言葉も何となくその精神に通じている。でもこれって本当に意味のあることなのだろうか?

臨床をやっているとこのような考え方に信憑性があるかは重大な問題である。例えば子供を虐待する夢を見た母親は、それが自分の願望を表しているのではと深刻に悩むものだ。そしてその話を聞く治療者側がそれにどのような「解釈」を伝えるかは責任重大だ。ところが最大の問題は、それが意味を持つかどうかは本当にはだれにもわからないという事なのだ。あるいはこんな言い方ができるかもしれない。

「神がどの細部に宿っているかは誰にもわからない」。


 

2020年11月23日月曜日

揺らぎのエッセイ 推敲 3

 心のフラクタル性と神経ダーウィニズム

この短いエッセイの中で私はあまりに多くのことを詰め込もうとしているのかもしれない。それは無理なことだとわかっているのであきらめるが、その概要だけを示したい。それは心はフロイト的な意味とは異なる意味でフラクタル性を帯びているという事だ。そのために心を宿す脳は基本的にボトムアップシステムであるという事を示したい。

フラクタルとは細かくして行っても同じ複雑な構造を保つ、入れ子状の構造をしているが、実は最初にある極めて基本的な構造があり、成長して作られていくものだ。マトリョーシカなら、最初に大きな人形を作り、その中に小さい人形が次々と入れ子上に形成されていくというわけではない。いや、少なくとも命や心といった生物に関してはそうだ。その意味でボトムアップ的なものなのである。最初に原子の大気があり、そこに雷や金属が媒介することで分子の集合体が生まれ、それが複雑になっていく過程で、物体と生命体の中間にあたるような、例えばむき出しのRNAのような構造があったのであろう。そしてどこかで生命と言えるような存在になる。最初は単細胞の生物で、行き当たりばったりの振る舞いをしつつ、そこで生存競争を経て別の細胞と出会い、あるいは自己分裂して多細胞生物になっていく。あとは進化のプロセスでどんどん細胞の塊が大きくなるものの、最小単位としての細胞の活動はしっかり維持され、かつより大きな集合との間で同期し、一つの臓器を形成していく。その振る舞いはどのレベルに降りてもダーウィン的なプロセスだ。

さて心を生み出すのは神経系だが、それについて考える。それには一応生命体が形成されたそのうえで、という前提がある。細胞の中でも電気信号を伝達する性質を持つ特殊な細胞が神経細胞として分化する。そしてそれがいくつか組み合わさってネットワークを形成していく。最初は数個の神経細胞からなるネットワークで、ごく基本的な情報を貯めることが出来る。そのうち数百個の神経細胞からなるC・エレガンス(線虫の一種、以下「Cエレ君」)のようなレベルになる。すでに不快を回避し、特殊な臭いには向かっていくという能力を有している。それを極めて基本的な「心」とするならば、人間の大脳皮質のように数千億の細胞を有するネットワークも、その中間ぐらいに位置するネズミの脳も、昆虫の脳も、そしてCエレ君のような小さなネットワークも、フラクタル的な関係と言えるのだ。

ただし人間の心について考えているので、そのフラクタル性について検討しよう。人の心をモジュール的なものと理解して、各モジュールとして取り出していく。個々の部分はもちろん詳しく分かっていない部分であるが、例えば今日の日付は?と考えた場合、また今は何時代なのだろう、と考えるときに、大正―昭和-平成-令和という時代の移り変わりを思い浮かべて、その中から最優先の選択肢として令和が浮かび、何月、となると1月、2月・・・・という選択肢の間の競争が行われる。このように思考とはある種の階層構造におけるダーウィン的な競争の集結という事になる。

このようなボトムアップ的でフラクタル的な心という考えはもちろん私のオリジナルではない。よく似た発想として前野隆司先生の「受動意識仮説」がある。彼は脳の働きは基本的にモジュール的である、とし、より小さな部分を脳の中の小人たちという言い方で表す。心とは結局小人たちが勝手に動いて生み出した情報が集合し、それが心という幻を生み出す。絵もそれは小人たちの働きによってボトムアップ的につくられたものにすぎない。

それに比べるとフロイトの想定した心は多分にコンピューター的ということになる。それはトップダウンであり、神経細胞一つ一つの行動はランダム的ではなく、上から統制されている。PCにおける最小単位はオン、オフの回路でしかない。いわばピクセルになってしまう。ところが神経細胞はそれが単体で生きていて、遊離すれば理想な環境においては独り歩きしかねないのだ。心や人間を神が作り出した、という考え方、いわゆるインテリジェント・デザインという考え方もその意味では完全なトップダウンの考え方で現実の心の在り方を反映していない。

心のフラクタル性をある程度説明したつもりだが、だからどうした、と言われれば何も言えない。心とは実に複雑で、人間の行動に一つの決まった説明などない。それでも自分は生きていて、自由意志を持ったつもりになっている。いったいどうしてだろう? こんなことを考えながらこれからもしばらくは生きていくことになりそうだ。そして私の思考はもうしばらくはこの方向をたどりそうである。

2020年11月22日日曜日

揺らぎのエッセイ 推敲 2

 昔メニンガークリニックにいたころ、カリフォルニアから訪れた招聘教授のグロッツテイン Grotstein の言ったことを思い出す。アメリカ人にしては珍しいクライン派の分析家という事で、メニンガーの医師たちも注目して彼の話を聞いていた。彼は公開スーパービジョンでセッションの最初の5分の報告を聞いてそれを止めさせ、その後のセッション全体の行方を占うということをした。全体の一部が深い意味を持っているという事を示そうとしたわけである。これもフラクタル的な考え方だ。あるいはロールシャッハだっていい。自我心理学派のラパポートはある図版の微細な部分への反応についてきわめて詳細な意味付けをするが極めて本質的な意味を持つことを示した。これもフラクタル的な発想と言える。でもこれって本当に意味のあることなのだろうか?

これらの例を出されても何のことかピンと来ないかも知れないが、臨床をやっているとこのような考え方の信憑性をどうとらえるかは決定的な意味を持ちうる。言葉や振る舞いを扱う私たちは、そこに様々な意味を与えたり、かと思うといとも簡単に切り捨て見なかったことにする。あたかも一つ一つの言葉に意味を問うことは臨床家の側の特権であるかのようにふるまうのだ。しかし最大の問題は、それが意味を持つかどうかは本当にはだれにもわからないという事なのだ。あるいはこんな言い方ができるかもしれない。

「神は細部に宿る」というが、「神がどの細部に宿っているかは誰にもわからない」。

患者の言葉は、あるいはロールシャッハの反応は、時にはその人の病理をきわめて鋭敏に反映するかもしれない。しかしどの言葉が、どの反応がそれに相当するかがわからない、あるいは知りようがないのである。

一つの分かりやすい例を挙げよう。ある私が関係している集まりで、司会に立った人がひとしきり挨拶をした後、「ではこれをもって閉会の挨拶とさせていただきます。」と言った。彼はすぐ自分でそれに気が付き、「今の言い間違いに深い意味はありません・・・・。 」とばつが悪そうな言い訳をした。いわゆる「フロイディアンスリップ(フロイト的な言い間違い)」の典型と言われそうなこの言い間違いは「この会を催したくなかった」という彼の無意識の表れだろうか。彼が「実はこの会を一刻も早く終わらせたかったんです」とでも白状しない限り、彼がこの言い間違いをした理由は知りようがないのだ。残念ながら脳は、そしてそれを基盤として生まれる心はフロイトが考えたような意味でのフラクタル性は有していない。フロイトの心のモデルはいわばトップダウン的で、心(エゴ、自我)が抑圧しようと決めてそれを指令して、ある内容が抑圧される。心の細部はその指令を遂行するために合目的に働いていることになる。だから細部の働きはことごとく意味がある、という事になる。しかしその理屈が通用しないからこそ、「夢判断」が不可能な試みだったわけだ。

2020年11月21日土曜日

揺らぎのエッセイ 推敲 1

 

心のフラクタル性について

 この秋に「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。二年かけた書下ろしで、これでやっと肩の荷が下りたというわけだが、しかししばらく「揺らぎ」について考え続けていたので、余韻が残っている。というよりは揺らぎのテーマはこれからもますます私の中で深まっていく気がする。

私はもう還暦をとうに過ぎたが、物覚えがますます悪くなる一方で、いろいろなことへの関心はかえって深まっている気がする。それらの多くはどれも当たり前のこととして若い頃は気にも留めていなかったことばかりである。なぜ生命が誕生できたのか。進化はいかにして生じるのか。遺伝と環境はどのようにかかわっているのか。意識とは何か。あるいはなぜ人はこれほどまでにわかりえないのか。

私が疑問に思い、かつ興味を抱くこれらのことは、決まって「フラクタル的」である。ある問題について理解しようと思い、大体はつかめたつもりになっても、その詳細を分かろうとすると、深い森に入った気になる。その一部について調べると、そこからも森が広がっている。どのレベルに降りて行っても、そこには鬱蒼とした森が広がっているのだ。

ますます深いジャングルに導かれる、という気持ちにさせられるのである。これが私が言う「フラクタル的」ということだ。(フラクタルとは、縮尺を変えても同じ模様が見え続ける、いわゆる自己相似性のことを指す。)

極小の世界ばかりではない。今では一枚で数ギガのサイズの銀河の最高画質写真を見ることが出来る。するといくら拡大していっても星が新たに湧いて出てくる。こちらの方向にもフラクタルが存在する。そして世界のフラクタル的な成り立ちを教えてくれるのが科学の進歩である。

こんな風に「フラクタル的」という意味を説明しても分かりにくいだろうか。あるいはこんな説明も可能かもしれない。私たちは絵心のない人や書道の初心者の描く線を見ても、特に興味を覚えないだろう。その細部に深みを覚えないからだ。しかし巧みな漫画家の描く線には、その一本一本に意味合いが込められていることを感じる。文筆家についても同じだ。文豪と呼ばれる人々の用いる細かい言葉のひとつひとつに深い意味合いを感じる。これらもその意味で「フラクタル的」であり、絵や書を鑑賞する人はその細部にまで世界が宿っていることを感じてその前で長い時間をかけて鑑賞するのだ。その意味では構造を持つものは、それを感じ取ることが出来る人にとっては興味を奪われるのである。それとは逆に素人の書くものを表面的で、味わいのないもの、浅薄なものと感じるのかもしれない。

さてでは心のフラクタル性についてはどうか。というより、そもそも心はフラクタル的だろうか。

心のフラクタル性を最初に見出したのはフロイトだった、と私は考える。夢の詳細にまで分け入り、そこでの象徴的な意味を論じた。フロイトの夢判断に書かれていることは、患者の(実はその多くはフロイト自身の)夢の詳細にまでこれほど意味が込められているのかと人々は感心したはずである。そして分析家とは元来細部が意味を持つという思考方法を取る。

2020年11月20日金曜日

治療論 Discussion 部分 推敲

 Discussion

The controversy around the notion of dissociation goes back to the period where psychoanalysis started in the end of the 19th century. Freud encountered clinical cases where splitting of consciousness was indicated by Breuer and Janet, and apparently dismissed the idea. Freud might have felt that he needed to choose either the belief in a mind being single or multiple and picked the former. His choice must have been correct in the sense that psychoanalytic theories based on that belief prospered in the way that we all know. However, some analysts should have encountered cases with apparent multiple minds and felt they need to take a second look at their theoretical approach to them, such as Janne Rampl-de Groot (1981). She stated in her “Notes on Multiple Personality”(1981) that “the purpose of this paper is to draw attention to my experience that both ‘splitting’ and ‘multiple personality’ are originally present in all normal humans”(ibid, 615). It is remarkable that her “turn” was so drastic that she concluded that multiplicity is the natural state of mind. 
(以下略)

2020年11月19日木曜日

揺らぎのエッセイ 10

 今日はとても忙しくてほとんど書く暇がないが、ここまででボトムアップという脳の性質と心のフラクタル性は少しは説明できているであろうか。生命体が人間のように複雑なシステムにまで進化する際、一切神の手は存在しなかったはずだ。人はひとりでに進化してきたのである。そしてそのプロセスは常にボトムアップ、つまり原初的なそれからの進化である。そしてたとえそれが一つの神経細胞から始まったとはいえ、進化を遂げた後の1000億の神経細胞の一つを取り出しても、その複雑さは変わりない。そしてそれが独自の活動をしていることは確かだ。そしてそのことは神経細胞がいくつか集合したもの、例えば大脳皮質の100個ほどの神経細胞からなるマイクロコラムにおいても同じである。

さてそのレベルでの神経細胞の集合も、その全体として行っているのはダーウィン的な競争である。例えば一つの神経細胞の全体の活動はランダムウォークだ。そしてそれが100個つながるマイクロコラムでは、それぞれの神経細胞はある程度歩調をわせるが、マイクロコラム全体の動き方は、またしてもランダムウォーク。こうしてレベルが上がるにつれて、下のレベルは隣のグループと一緒に活動をする傾向にあるが、その全体は結局はダーウィン的になる。つまりサイコロが集合すると、それ全体がまた一つのサイコロになる。そして最終的には脳全体が一つのサイコロになる。これが中枢神経系のフラクタル構造といえるのだ。(この「サイコロが集まると、一つの大きなサイコロになる」という比喩は悪くないな。)

それに比べるとフロイトの想定した心は多分にコンピューター的ということになる。それはトップダウンであり、神経細胞一つ一つの行動はランダム的ではなく、上から統制されている。PCにおける最小単位はオン、オフの回路でしかない。いわばピクセルになってしまう。ところが神経細胞はそれが単体で生きていて、遊離すれば理想な環境においては独り歩きしかねないのだ。(15分しかなかったが結構書けた。)

2020年11月18日水曜日

揺らぎのエッセイ 9

 また今は何時代なのだろう、と考えるときに、大正―昭和-平成-令和という時代の移り変わりを思い浮かべて、その中から最優先の選択肢として令和が浮かび、何月、となると1月、2月・・・・という選択肢の間の競争が行われる。このように思考とはある種の階層構造におけるダーウィン的な競争の集結という事になる。

ではこの問題がどうしてボトムアップなのか? このような脳の働きを考えるうえで参考になるのが、前野隆司先生の「受動意識仮説」である。彼は脳の働きは基本的にモジュール的である、としてそれを脳の中の小人たちという言い方で表す。例えば赤いリンゴを見るとしよう。視覚野には丸い輪郭、赤い色などの部分的な情報が飛び込んでくる。場合によってはほのかな香りも嗅覚野を通して伝わってくるかもしれない。ところが脳は「あ、リンゴだ」という認識を最初から持つわけではない。まずはこれらの部分的な情報が組み合わされる。いわば脳の中の視覚野の小人たちの働きがあり、それがボトムアップ的に組み合わさってリンゴという認識が生まれる。心はいわば脳の小人というモジュールの働きの結果として浮かび上がってくるリンゴという認識をいわば受け取っているだけということになる。それはこれまで用いた表現を用いるならば、ダーウィン的な競争の結果として勝ち残った来たものである。

本当に脳がそのような働きをしているのかは、実際の視覚野における情報の処理を考えればわかる。後頭葉の第一次視覚野には丸い輪郭を取り出す部位、赤い色を感知する部位など、かなりバラバラな情報を上位に送り統合していく。最終的にそれを担うのは視床である。この機能が奪われると大変おかしなことが起きる。認知症では「ミカン」という答えが生まれるかもしれない。あるいは「妻を帽子と間違える」かもしれない。(オリバーサックスの同名の本がある。)

2020年11月17日火曜日

揺らぎのエッセイ 8

 さて心を生み出すのは神経系だが、それについて考える。それには一応生命体が形成されたそのうえで、という前提がある。細胞の中でも電気信号を伝達する性質を持つ特殊な細胞が神経細胞として分化する。そしてそれがいくつか組み合わさってネットワークを形成していく。最初は数個の神経細胞からなるネットワークで、ごく基本的な情報を貯めることが出来る。そのうち数百個の神経細胞からなるC・エレガンス(線虫の一種、以下「Cエレ君」)のようなレベルになる。すでに不快を回避し、特殊な臭いには向かっていくという能力を有している。それを極めて基本的な「心」とするならば、人間の大脳皮質のように数千億の細胞を有するネットワークも、その中間ぐらいに位置するネズミの脳も、昆虫の脳も、そしてCエレ君のような小さなネットワークも、フラクタル的な関係と言えるのだ。

ただし人間の心について考えているので、そのフラクタル性について検討しよう。人の心をモジュール的なものと理解して、各モジュールとして取り出していく。個々の部分はもちろん詳しく分かっていない部分であるが、例えばこんな思考実験をしよう。貴方に「今日は何日ですか? 元号で答えてください。」と尋ねる。一種の認知機能の検査だと考えて欲しい。貴方は「令和21110日」です、と答えるだろう。そこから貴方の心は組織立っていると判断することができるのだ。そしてその心はある種の階層構造から成り立っていて、つまりはモジュール的にうまく働いていると考えることができる。もちろん言葉を理解する、そして自分のタスクを理解する、そのための文章を構成するという能力を通じて、聴覚野、前頭葉、言語野などがきちんと働いていることが分かる。

 また今は何時代なのだろう、と考えるときに、大正―昭和-平成-令和という時代の移り変わりを思い浮かべて、その中から最優先の選択肢として令和が浮かび、何月、となると1月、2月・・・・という選択肢の間の競争が行われる。このように思考とはある種の階層構造におけるダーウィン的な競争の終結という事になる。

2020年11月16日月曜日

揺らぎのエッセイ 7

  ではこの問題がどうして面白いかというと、偶発的な言い間違いは、セレンディピティと結びつき、創造に広がるからだ。だからいい加減さは大切である。スロッピーなところから新しいものが生まれるのだ。

フラクタル的という事を考えるために、ボトムアップ的な世界の性質について考えよう。フラクタルとは細かくして行っても同じ複雑な構造という事だが、実は最初にある極めて基本的な構造があり、成長して作られていくものだ。ボトムアップ的なものなのである。生命体という構造を考えればそうだ。生命体を細かくしていくと最後は分子、ないしはそれ以下の素粒子という事になるのだが、さすがに水分子を生命体と考えることはできない。分子の集合体から始まって複雑になっていき、どこかで生命と言えるような存在になる。おそらくそこになるまでに、物体と生命体の中間にあたるような、例えばむき出しのRNA

という状態があるかもしれない。しかしどこかの時点で生命体が始まる。そこからは生命体がより複雑に進化するにつれてフラクタル構造が情報に向かって形成されていく。そこで生じているのは、結局ダーウィン的なプロセスだ。いくつかの分子の連なりの中から、たまたま自己組織化の性質を持ったものが複製されていく。そのプロセスは、スチュワート・カウフマンというすごい学者が本にしている。

2020年11月15日日曜日

揺らぎのエッセイ 6

 開会のあいさつに「閉会」をしてしまった男の話の続きだ。ちなみに後に彼に尋ねたが、

「緊張はしていたが、司会の役割をしっかりこなそうと必死になっていた」そうである。特にこの会の少しでも早い閉会を祈っていたわけではなさそうだ。ではこの言い間違いは単なる偶然なのだろうか。このような問いに一義的に正解を与えるような理論を私は知らない。ではこれが心のフラクタル性とどのようにかかわってくるというのだろうか。

ここで「神経ダーウィニズム」についての説明が必要になる。思考がどの様に生まれるか、言葉がどの様に紡ぎだされるかについての理論であるが、私の話によく出てくる Gerald Edelman というノーベル賞を受賞した神経科学者の概念だが、のちに William Calvin も似たようなテーマで論じている。それは大脳皮質で生じているコピーゲームであり、例えば話している途中に次の言葉を選択する際は、常にいくつかの言葉の候補が陣取り合戦を行う。たまたま勝った言葉が出てくる。それだけだ。脳は最適解を導くために、一番適当そうな答えを探す。そしていくつかの候補が見つかり、それを競争させて(というかそれらが勝手に競争して)最後に一つに絞られる。「揺らぎと心のデフォルトモード」にも出した例を挙げるならば、今日のお昼を何にしよう、と思った時、カレーとハヤシとうどんがさっそうと現れ、「でもこの間のうどんはまずかったな」とか「今晩カレーだとカミさんが言っていたな。じゃ避けようか?」みたいなことが起きるのだ。そしてそのような自由競争が起きるとき、人の心は恐らくデフォルトモードになっているのである。つまりサイコロを振っている状態だ。そしてここが問題だが、このような競争に勝ったものが、正解でないこともいくらでもあるわけである。

先ほどの男の例に戻る。彼は開会のあいさつを無事終える段階になり、最後の決まり文句を言う段階に入った。そして「ではこれを持ちまして…●●の挨拶といたします」と言おうとして、●●に入るものを探す段階で、「開会」と「閉会」の二つが猛烈に陣取りを行う。使い慣れた言い回しだけにこの二つの選択肢はすぐ出てくる。そして男はこれまでちょうど開会と閉会の挨拶を同じくらいの頻度で任されたことがあるため、あまり考えずに口に出てきた言葉を言う。ところがそれが「開会」ではなく「閉会」という、たまたま正反対だから面白い反応を生んでしまった。もちろん挨拶をしなれた人なら、一度くらいは閉会と開会を言い間違え、「閉会と開会を言い間違えてはならない」というフラッグがすぐ頭の中に立ち上がり、注意深く「開会」と正しい方を選択する。しかし少し注意を逸らすと言い間違える。とすればこれは恐らくほとんどと偶然の産物、たとえばサイコロを5回振ってすべてが1が出るような確率なのだろうが、それは起きるべくして起きてしまう。たまたま彼のスピーチの大事な部分でそれが起きてしまい、意味付けされてしまうのである。

さて話はここでは終わらない。彼はもしかしたら実際に早く終わりにしたかったのかもしれない。彼が「終わりにしたいというわけではなかった」というのは否認だったのだ。(私も分析家なので、一応フロイトの伝統を引き継いておく。)

2020年11月14日土曜日

揺らぎのエッセイ 5

 さて私はこんな話をしていても、理系の人間ではない。ただからやはり関心は心のフラクタル性にある。心の問題もまたフラクタル性を持つ。しかしそれはちょっと特殊な意味でそうなのだ。

ところで心のフラクタル性を見出したのはフロイトだった、と私は考える。夢の詳細にまで分け入り、そこでの象徴的な意味を論じた。フロイトの夢判断に書かれていることは、患者の(実はその多くはフロイト自身の)夢の詳細にまでこれほど意味が込められているのかと人々は感心したはずである。そして分析家とは元来細部が意味を持つという思考方法を取る。

昔メニンガークリニックにいたころ、カリフォルニアから訪れた招聘教授のグロッツテイン Grotstein の言ったことを思い出す。アメリカ人にしては珍しいクライン派の分析家という事で、メニンガーの医師たちも注目して彼の話を聞いていた。彼は公開スーパービジョンでセッションの最初の5分の報告を聞いてそれを止めさせ、その後のセッション全体の行方を占うということをした。全体の一部が深い意味を持っているという事を示そうとしたわけである。これもフラクタル的な考え方だ。あるいはロールシャッハだっていい。自我心理学派のラパポートはある図版の微細な部分への反応についてきわめて詳細な意味付けをするが極めて本質的な意味を持つことを示した。これもフラクタル的な発想と言える。でもこれって本当に意味のあることなのだろうか?

これらの例を出されても何のことかピンと来ないかも知れないが、臨床をやっているとこのような考え方の信憑性をどうとらえるかは決定的な意味を持ちうる。言葉や振る舞いを扱う私たちは、そこに様々な意味を与えたり、かと思うといとも簡単に切り捨て見なかったことにする。あたかも一つ一つの言葉に意味を問うことは臨床家の側の特権であるかのようにふるまうのだ。しかし最大の問題は、それが意味を持つかどうかは本当にはだれにもわからないという事なのだ。あるいはこんな言い方ができるかもしれない。

「神は細部に宿る」というが、「神がどの細部に宿っているかは誰にもわからない」。

患者の言葉は、あるいはロールシャッハの反応は、時にはその人の病理をきわめて鋭敏に反映するかもしれない。しかしどの言葉が、どの反応がそれに相当するかがわからない、あるいは知りようがないのである。

一つの分かりやすい例を挙げよう。ある私が関係している集まりで、司会に立った人がひとしきり挨拶をした後、「ではこれを閉会の挨拶とさせていただきます。」と言った。彼はすぐ自分でそれに気が付き、「今の言い間違いに深い意味はありません・・・・。 」とばつが悪そうな言い訳をした。いわゆる「フロイディアンスリップ」の典型と言われそうなこの言い間違いは「この会を催したくなかった」という彼の無意識の表れだろうか。彼が「実はこの会を一刻も早く終わらせたかったんです」とでも白状しない限り、彼がこの言い間違いをした理由は知りようがない。ではこれが心のフラクタル性とどのようにかかわってくるというのだろうか。

2020年11月13日金曜日

揺らぎのエッセイ 5

 この秋に「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。二年かけた書下ろしで、これでやっと肩の荷が下りたというわけだが、しかししばらく「揺らぎ」について考え続けていたので、余韻が残っている。というよりは揺らぎのテーマはこれからもますます私の中で深まっていく気がする。

私はもう還暦をとうに過ぎたが、物覚えがますます悪くなる一方で、いろいろなことへの関心はかえって深まっている気がする。それらの多くはどれも当たり前のこととして若い頃は気にも留めていなかったことばかりである。なぜ生命が誕生できたのか。進化はいかにして生じるのか。遺伝と環境はどのようにかかわっているのか。意識とは何か。あるいはなぜ人はこれほどまでにわかりえないのか。

私が疑問に思い、かつ興味を抱くこれらのことは、決まって「フラクタル的」である。ある問題について理解しようと思い、大体はつかめたつもりになっても、その詳細を分かろうとすると、深い森に入った気になる。その一部について調べると、そこからも森が広がっている。どのレベルに降りて行っても、そこには鬱蒼とした森が広がっているのだ。

ますます深いジャングルに導かれる、という気持ちにさせられるのである。これが私が言う「フラクタル的」ということだ。(フラクタルとは、縮尺を変えても同じ模様が見え続ける、いわゆる自己相似性のことを指す。)

極小の世界ばかりではない。今では一枚で数ギガのサイズの銀河の最高画質写真を見ることが出来る。するといくら拡大していっても星が新たに湧いて出てくる。こちらの方向にもフラクタルが存在する。そして世界のフラクタル的な成り立ちを教えてくれるのが科学の進歩である。

2020年11月12日木曜日

治療論 英訳 抄録

  In this paper the author discusses the notion of dissociation and its clinical manifestation in psychoanalytic contexts. He highlights the idea ofdissociative turn,proposed by S. Itzkowich, who discusses how our mind might be turned around and prepared to deal with dissociative phenomenon and dissociative cases in a clinically useful way, while still retaining some of our familiar analytic conceptualizations. Itzkowichs argument raises three points to reflect on, i.e., (1) mind being characterized by multiple, discontinuous, centers of consciousness. (2) The actuality of trauma during infancy and early childhood. (3) Establishing communication and understanding between the dissociated self-states as the Therapeutic goal. In any of these points, there have been conflicting theories and ideas in psychoanalytic literature proposed by different clinicians, which are mainly classified as the ones based on the assumption that the mind as a single entity ways on the one hand, and the mind consisting with multiple consciousness, on the other, roughly corresponding to van der Harts two types of therapeutic attitude. The author argues that the therapists should avoid either-or attitude of them and regard the mind as both potentially single as well as multiple. The author stresses that while dissociative parts have been considered as partial and fragmentary in its nature as a personality structure, respecting their sense of autonomy and self-hood should be well respected in order to form a good therapeutic relationship.

2020年11月11日水曜日

揺らぎのエッセイ 4

 このことを実感するためには、自分が何者かを考えてみればいい。「私とは何者か」。これをひとことで答えられる人はいないだろう。もちろん名前や社会的役割はある。しかし生き物として人間である私たちが、私とは何かを規定しようとしても、それこそ他者を規定することよりさらに難しいかもしれない。それに比べて、適度に距離を保っている人について、例えば誰かから「Aさんはどんな人ですか?」と尋ねられて私たちはたいてい時間をおかずに答えるであろう。「いやー、困った人です」とか「優しい人ですよ。挨拶もちゃんとするし」などという。それは距離のある他人ならスナップショットをその判断基準にするからだ。だからその評価はかなり主観的で一方的でありうる。ところが自分の性格を描こうとすると、途端に難しくなる。

例えば楽観的か悲観的か、人付き合いがいいか否か、優しい人間か非情か、道徳的か非道徳的かという判断をしようとしても、おそらくそれが一筋縄にはいかないことが分かる。それらの性質はたいてい私たちが一方に偏ろうとして軌道修正をして今度はもう片方に近づく、という形を取り、それを一定のものとして表現することは難しい。例として自分は「面倒くさがり屋」か否か、と考えてみる。たいていの人はおそらく自分自身を面倒くさがり屋と考えているかもしれない。厄介なことはしたくないし、できるだけ精神的な意味での省エネをしたいと大抵の人は思っているはずだ。面倒なことを先延ばししたくない人などいないであろう。しかし面倒くさがりだからこそ、面倒なことを先にやってしまいたい、という人も多いはずだ。一見テキパキと仕事をこなす人にもそのような側面があるのかもしれない。あるいはテキパキと仕事をする人の中には、こまごまとした仕事をこなしていくのが楽しい人もたくさんいるだろう。するとその人はすでにその意味では面倒くさがりではないことになる。ところが実はその人にとって面倒な事柄というのはしっかりあって、それを先延ばししている可能性がある。結局「自分はなんてめんどくさがりなんだ」と嘆息して、面倒な仕事をやってしまい、「自分は結構面倒なことも処理できるんだ」と思う、という両極を常に動いているのが人間なのである。

実はこのことは誰かと同居していても体験されることである。人はさまざまな側面を見せる。身近に接していると「案外意地悪な人だ」と思うことも「結構優しいところがある人だ」と思うこともある。その相手があなたの反応の仕方により自分の態度を軌道修正していたりする。結局あなたはその同居人をとても一言では言い表せないということに気が付くだろう。

2020年11月10日火曜日

揺らぎのエッセイ 3

  言い換えるならば、言葉に表すことで私たちは現実を知った、わかったという感覚を得るが、同時に現実の生の姿は失われるのだ。なぜなら現実は常に揺らいでいて、その一瞬を切り取ることは、まさに生きているものを殺してしまうことになるからだ。「わかった」とは「分かった」であり、他と分化した何かを把握したことになるが、残念ながら他を切り捨てることでしか、その体験を得られない。現実を無限の数の面を持った多面体だとすると、そのうちの一つの面を選んで、それ以外の面を規律てなくてはならないのである。

 皆さんは自分や仲間の何かの折のスナップショットを見て「ずいぶん生き生きとした表情だ」とか「なんとなく悲しげな表情だ」と思うかもしれない。しかしそれは実際にそこで生きて動いていたその人の在り方のほんの一瞬を切り取っただけであり、スナップショットで生き生きとした表情を切り取られた人は、全体的に機嫌がよかったかもしれないが、各瞬間に様々なこと感じ、体験しているはずだ。それは決して一瞬の表情を映したスナップショットで表現されつくさない。しかしそれをあえて形あるもので表現するとしたら、「生き生きとしていた」という言葉による表現や一枚のスナップショットとして凍り付かせるしかない。

このことを実感するためには、自分が何者かを考えてみればいい。「私とは何か」。もちろん名前や社会的役割はある。しかし生き物として人間である私たちが、私とは何かを規定しようとしても、それこそ他者を規定することよりさらに難しいかもしれない。

2020年11月9日月曜日

揺らぎのエッセイ 2

 人はこのように自然界の揺らぎの持つ不確定さを回避するために規則を設けるという話をしている。人が法律やスケジュールを作り、あるいは思考を組織立てるための言語を獲得することにもそのような意味があったのだろう。例えば言葉を持ち始める寸前の人間が、二人で毎朝決まって狩りをしていたとしよう。それは何となく始まり、言葉による約束がないもののルーチンのようになったのだ。彼らの生活もそれに従ってオーガナイズされるだろう。ところがある日一人に狩りに行けない事情が生じたとしたら、それを相手に伝える必要が生じる。言葉の原型がそこで生まれる。「イケナイ」と伝えるわけだ。しかし当日ではやはりこれは事実上の揺らぎ急なので、その予定が前日からわかっていたとなると「アスハイケナイ」となる。これにより相手にとっての急な予定の変更という揺らぎを解消するための言葉は、より詳細になっていく必要がある。

言葉や規則や、説明のための理論はこうして、私たちを予測不可能な揺らぎから少しでも守るために作られるのだ。

この「思考が言葉により組織立てられる」、とはどのような事だろうか。精神分析家 Phillip Bromberg Donnel Stern が主張していること、すなわち「解離されているものは、未構成の思考である」、という提言はこれと関係がある。フロイトのモデルだと、無意識的な思考という事が可能だった。しかし彼らによると無意識にあるのは一つの可能性であり、言葉により初めて構成されるのだ、と考える。つまり言葉になる前はそこには明らかなものは何もなかったという事になる。

一つの例を挙げる。貴方が誰か(Aさん)に憎しみを向けているとする。(別に愛情でもいいが。)あなたはAさんのことをよく知っていて、仲の良い友達くらいに思っている。しかしの人と話をするたびにある種の重苦しさを感じているが、その理由がわからなかった。そのことを友人に何げなく話すと、「あなたはAさんと一緒に過ごすことが多いようですが、彼のことをあまり好きではないかと想像していましたよ。」と言われる。「そんな風に思ったことはありませんよ。どうしてそう思うんですか?」というとその友人は「あなたがAさんと話している時は楽しそうに見えないからです。」という。その時は変なことを言われた気がしていたが、後にそのことを思い出すうちに「ひょっとして自分はAさんのことが嫌いなんだ」と思うようになる。貴方は「どうしてそのことに気が付かなかったんだろう?」と思う。ここで一つの問題が生じる。貴方はそれを指摘される以前からAさんのことが嫌いだったのだろうか?フロイトならもちろんこういうはずだ。「Aさんのことが嫌いだ」は抑圧されていたのだ、と。

恐らくそれでもいいのだろうが、現代の分析家はそこのところをもう少し厳密に考えるだろう。「本当にそうだろうか?」確かに生理的な反応は嫌いな人に会った時のそれに近かった。でもあなたは「Aさんのことが嫌いなんですね」と言われたら「とんでもない」と答えていたはずだ。「そんなこと心にも思っていません。」と思ったはずである。「Aさんが嫌いだ」はその言葉として意識されたときに、初めて構成された(形を成した)というのが Stern の立場である。その前に無意識にあったのは何だろうか? モヤモヤした、非定型の何か、体の反応としてしか表現されなかったもの、というのが現代的な考え方だ。この話がどうして揺らぎと関係するのか。それは「Aさんが嫌い」は実は現実からずれているからである。Aさんに対する気持ちはさまざまなものを含み、ひとことで言い表せない。揺らいでいるものだ。言葉にするという事はそれに強制的な形を与えるという意味を持つのである。現実はすでにそのものの形を失ったことになる。