2020年10月5日月曜日

治療論 推敲 3

 ②トラウマの現実性について

Izkowitz の示唆したこの第二点目も精神分析的な視点を立体的なものに誘うことになるだろう。ことにフロイトがあそこまで主張していた性的誘惑説を棄却して精神分析を創設したことを考えると、トラウマの実在性を重視することは精神分析全体の視座を根底から揺さぶりかねないだろう。「フロイトが最も大事にした概念であるエディプス・コンプレックスでさえすぐにでも容易に脱構築されることになる。Even Freud’s most influential theories- for example, the Opedipus complex - can readily and easily be deconstructed in terms of the underlying motifs of the most heinous type of child abuse; infanticide, murder. (p8)」ただしその際に一つの視点として重要なのは、最初からトラウマの現実性とファンタジーとしてのあり方の間には明確な区別や違いを見出すことが出来ないようなケースも多く、その意味でもこの問題は両義的であるということだ。Howell Izkowitz は、トラウマ分析は精神分析か、という単刀直入なテーマを扱っている。彼らは精神分析的なデータ、適切な技法、精神分析により誰が適切に治療しうるか、そして最も大事なのは、何を治療目標に据えるか、という点で問題になる。

Howell, Izkowitz の両著者は、「トラウマの遍在性と心の解離的な構造 The Everywhereness of Trauma and the Dissociative Structuring of the mind」 という章(p.3343)で、抑圧や無意識と解離の関連という、扱うに非常に手間のかかる問題について論じている。そして精神分析が無意識を論じる以上、解離を分析で扱うためには「解離的な無意識dissociative unconscious 」という概念が必要となろう、ということでそれを提唱する。「解離的な無意識とは私たちの意識のギャップにより特徴づけられる。しかしそれらの無意識はそのギャップにおける自己状態にとっては生きた体験として特徴づけられる。これは心の再概念化を必要とするだろう。それは異なるレベルにおいて存在する体験の筋により特徴づけられるのだ。
 これらの問題点の殆どはそれこそ精神分析の本質を問うほどの意味を持ち、もちろん一つの正解は提出されていないが、Howell らはそれらを総括する形で新たな精神分析の目的を提示する。それはトラウマ分析は精神分析たりうるかという問いの中で、無意識内容の追求よりは Neville Symington (2012) の realization and process of becoming “who I am”に依拠するという。そして解離の場合には、DIDの治療は解離のバリアーを緩めることで、お互いを知ることだ、とある。the loosening of dissociative barriers to fully knowing oneself and one’s traumatic history.であるとまとめる。これは大筋としてはその通りであるが、技法的な問題は今なお残るのではないだろうか。