2020年6月1日月曜日

死生観と儚さ 2


6年間にわたる精神分析のプロセスの中で、彼は少しずつ生きる意味を見出すようになった。彼は車に乗る時、いつの間にかシートベルトを締めるようになっていると語った。分析作業の中で、実はAが自分自身の価値に対する深刻な疑いを持っていたことが扱われていった。それは彼の母親との関係に深く根差したものであった。BAに母親を無意識レベルで彷彿させ、Aの母親との再結合や一種の子宮回帰願望にもつながっていたことが理解された。Bとの結婚によりある種の未来永劫の安定した境地を保証されたとAは感じていたのだ。精神分析というある種の終わりのなさそうな関係性に入ることで、彼の希死念慮は徐々に消えていき、生きる希望を少しずつ取り戻していった。それから数年して、分析治療が終盤に差し掛かるころには、Aは新しいパートナーを見つけることが出来た。そしてその時期と分析の終結時期が微妙に重なっていた。そしてAが結婚を前提としたパートナーを見つけることは、ある意味でその終結を乗り切るための手段という意味を持っていたことが明らかになった。そうすることで彼は私が彼を見捨てて帰国することを後押ししてくれたのかもしれなかった。
それまでの数年間の作業でAの過去の出来事の様々な面に光が当てられた。その流れで私たちは別れということと、終結ということと死ということの関係性を考えざるを得なかった。終結のあと数か月で私は十数年過ごしたアメリカの地を離れることになり、私の帰国はもう私とAとはおそらく二度と会えないことを意味していた。私自身は第二の故郷となっていたアメリカの片田舎のC町を離れたら二度と戻らないと思っていたし、ここで親しんだ友人や同僚にとっては、おそらく私は死んだのも同然になるだろうとも考えた。彼らにとっては死んだも同然の存在になる私が、地球の裏側で新しい生活を始めること、私という存在が生きていて同時に死んでいるような存在になることは私自身にとっても奇妙な体験だった。そのような私自身の体験はAとの治療作業にも何らかの形で反映されていたかもしれない。
Aとの治療を終結するということは単純な終結とは違ってきていた。終結からほどなくして私がC町を離れて地球の反対側の生まれ故郷に帰ることを私はAに伝えた。Aは私がある意味で彼に生きる意味を与える助けとなったといったが、その終結が一種の死別体験を意味することは不思議な体験だと語った。しかし私の生まれ故郷は、実はAが幼少時に2年ほど過ごした国であるということが複雑な意味合いを持つようであった。Aと私は終結と私たちの別れが意味をすることについても多くを語った。そして結局お互いを覚えている、心の中に持ち続け、生かし続けることがこの一種の死別体験を乗り越える方法なのだろうという結論に達した。
終結後私が帰国したのちに、Aからの便りが来た。そこにはAがかなり自分に対して依存的になり始めていたCとの関係に疲れ、散々迷った末に彼から別れを告げることが出来たと書かれていた。見捨てられることをあれほど恐れていた自分が、Cをある意味で見捨てるという行為をしていることが信じがたい、という気持ちがそこに書かれていた。
それから十年以上Aの消息は聞かない。私からも連絡はしていない。私はACに自ら別れを告げることは、私との死別体験の喪の作業が終わったことを感じた。それ以来私とAとは一切の交流はない。彼が実際にあれから生き延びたのか、どのような生活を送っているのかはお互いに分からない。しかしそのおかげで私の中のAはあたかもシュレジンガーの方程式に表される量子の確率密度のように、生きてもいて死んでもいて、再婚をしてもいて、独身を続けてもいる。私は彼に連絡をしてその存在様式を確定していないし、それでもしっかり私の心の中に生き続けている。そしてAも必要に応じて確率論的な私の存在を確かめているのではないかと思う。精神分析と量子力学には何の繋がりもないのであろうが、世界の根源が究極的な揺らぎや無常を契機としていることは無意味には思えなかった。