2020年5月31日日曜日

死生観と儚さ 1


おそらくフロイトの言った「喪の先取りforetaste of mourning」は私たちが日常生活を送る中でことごとく回避されているのではないか。私たちは通常死ぬことを刹那的にしか考えない。というかそれをいとも簡単に押しやってしまうことが出来る。それを忘れることで日常生活は進んでいく、とまで言っていいのかもしれない。しかしそれが思考の中に流れ込んでくることに抗わない唯一の場があるとしたら、それは精神分析的な関りなのかもしれない。もし私たちの心に防衛機制が存在するのなら、喪の先取りは第一に防衛されてしまうであろう。するとそれを扱うことは私たちが死すべき運命であるということを受け入れることであろう。もちろんそれは刹那的に体験されるだけで、再び遠ざけられてしまうかもしれない。しかしその受け入れと遠ざけの、行ったり来たりこそが、精神分析的な営みと言えるのではないだろうか。無常 transience はまさに分析的な思考により保たれているといってもいいのではないか。あるいはそうすることが分析的な心の作業、と再定義されるのかもしれない。
 私はこれまでに何人もの患者さんとの面接で、ある一つの難しい体験を持っていた。それは患者さんが自殺を口にして、それをどのように受けたらいいかわからないということである。自殺の話題もまた典型的な喪の先取りであり、日常生活で必死に回避されているものである。
私がよく思い出すのは、はるか昔に担当したトレーニングケースである。白人中年男性Aは、当時の妻Bに去られて以来数年間にわたる深刻な抑うつ状態と希死念慮を抱えていた。彼は●●という定職についていたが、かりそめに生きているに過ぎないと言っていた。彼は日常的に車を運転していたが、離婚以来シートベルトを一切閉めないということで緩やかな自殺企図をしているのだ、と語った。
Aは一方的に承諾を迫られた離婚を期に生きる希望を失ったのだが、その理由について彼は極めて単純明快に述べた。結婚式の際に、神父の前で「お互いに一生添い遂げます」という誓いを立てた相手の女性が、別の男性を見つけていとも簡単にその言葉を翻して出て行ってしまった。Aは「自分が命を懸けて信じていたものを根底から覆された以上、それ以降何を信じて生きて言ったらいいというのでしょう?」と語った。彼はそれまでも異性との付き合いがあり、相手に去られることでそこまで深刻な情緒的反応を示すことはなかった。どうして前妻Bとの間でそれが起きたかはわからないと語った。そしてそれ以来彼にとってはもう一度生きる意味を見つけること自体が不可能な気がしていた。

2020年5月30日土曜日

解離と他者性 2


Howellさんの本のこの章の中で、各人格に固有のネットワークを示唆している部分は決して多くないが、次の二本の論文を紹介している。

Reinders, AA.T.S., Nijenhuis, E.R.S., Paans, A.M.J., Korf, J., Willemsen, A.T.M.,& den Boer, J.A. (2003). One brain. two selves. Neurolmage. 20, 21 19-2125.
Reinders, A.A.T.S., Nijenhuis, E.R.S., Quak,J., Korf,J.,Paans, A.M.J., Haaksma,J., Willemsen, A.T.M., & den Boer, J.A. (2006). Psychobiological chBiolog1cal Psychiatry, 60,730-740.

彼らは11人のDIDの患者さんに協力してもらった。彼らは普通のパーソナリティ状態(NPS)とトラウマを受けたパーソナリティ状態(TPS)になることが出来た。彼らにはトラウマを思い起こさせるような文章(トラウマスクリプト)と情緒的にニュートラルな文章(ニュートラススプリプト)を読んでもらい、反応を見た。
まずTPSの状態では全体として、mPFC(内側前頭前野、体験の意識的な処理をつかさどる部分)の血流量が低下した。
NPSの時は頭頂後頭葉(視覚的情報と体性感覚的な情報の統合をつかさどる)の血流量が低下していた。つまり情動的な記憶を防衛としてブロックしているということである。
そしてNPSの時にはトラウマスクリプトを読んだ場合とノーマルスクリプトを読んだ時とで、脳の活動には違いがなかった。
これは二つの人格状態は別々の脳のネットワークを持っていますよ、という様な大胆なモデルを示唆してはいない。異なる人格の状態では、一つの脳が異なる切り盛りの仕方をしていますよ、ということだ。しかし私はこの点を強調しておきたい。
NPSの時は両方のスクリプトで差がなかった。つまりトラウマスクリプトの時に前頭葉の活動でストップをかけていた、というわけではない。(これはトラウマ記憶が処理されている時にはよく出てくるパターンである。)ということはNPSは無理をせずにトラウマ記憶をサラッと読んでいた。ということはこれはDIDとして独自のネットワークを使っているということの証左にならないだろうか。

2020年5月29日金曜日

解離と他者性 1


私の関心は新たな人格部分の形成の瞬間であるが、なかなかその問題についての考察を目にすることがない。最近柴山雅俊先生が監訳されたElizabeth Howell Dissociative Identity Disorder -A Relational Approach (2011)という本に、解離に関する神経生物学的な視点についての章(第6章)が設けられている。そこでこの章を手掛かりに彼女のいう解離の「生物学的な相当物 neurobiological correlate」に耳を傾けてみよう。Janet が言うように、トラウマの際は、感情的な高ぶりによりその時の記憶が統合されない、という議論がある。van der Kolk さんが1980年代に唱えたこの議論は一つのセンセーションを巻き起こした。いわゆるエピソード記憶に代わって、トラウマに関する感覚的、情動的な記憶(トラウマ記憶)が体に刻印されるという理論は、トラウマを理解するうえでとても参考になる。私もこの理論に接した1991年ごろには夢中になったものだ。解離という心の問題に脳の仕組みが深く関与していることを知るのはとても新鮮だった。しかしこのことと解離において生じる他者性とはどのようにつながってくるのかというのが今一つ不明である。私たちがある特殊な状況でエピソード記憶を形成できないということと、別人格の成立には長い因果関係の連鎖があり、それを追うことは決して容易ではない気がする。
むしろ私だったらこう説明したい。トラウマ体験の際には、そこでの記憶は脳の別の場所に貯蔵され、それが一つの形を成すと人格となる。つまりバラバラになり、感覚的な記憶のみになっていると思われた記憶は、別の心の世界ではしっかりとエピソード記憶になっていて、それがチラ、チラとこちら側から部分的に見えるのが、外傷記憶と私たちが呼ぶものなのである。


2020年5月28日木曜日

ICD-11における解離性障害の分類 2


ICD-11における解離性障害の特徴をうまくまとめている文章を見つけた。こういう論文がopen access で本当に助かる。
Innovations and changes in the ICD-11 classification of mental, behavioural and neuro-developmental disordersWorld Psychiatry 18:1 - February 2019)ちょっと億劫だが日本語にしよう。
ICD-11の解離性障害の分類は大きな改変がみられ、またかなり単純化されているが、それは最近の研究の成果を反映している。まず転換conversion という用語はなくなった。そのかわり解離性神経症状症dissociative neurological symptom disorderという障害名に統一されたが、これは ICD-10の運動と感覚の解離性障害 dissociative disorders of movement and sensation を継承していることになる。そしてそれは12のサブタイプからなる。それらは神経症状のうち何が主たるかにより分かれているが、それがかなり網羅的である。それらは発作またはけいれん、脱力または麻痺、感覚変容、歩行症状、他の運動症状、認知症状、意識変容、視覚症状、嚥下症状、聴覚症状、めまい、発話症状、である。また解離性遁走が解離性健忘のもとに分類されたのは、DSM-5と同じだ。
さらにICDでは憑依・トランス障害であったものを憑依・トランス障害とトランス障害に分けている。これは前者では外的な憑依的なアイデンティティ(霊魂spirit、威力power、神のような存在deity、そのほか)が支配するという点が特徴的だからであり、また後者は反復的で単純な動きしか見せないのに対して、前者はより複雑な動きを示すからであるという。
ICD-10の多重人格障害は解離性同一性障害というより現代的な呼び名に代わっている。また部分的解離性同一性障害も導入されたが、これはICD-10における不特定の解離性障害にこれが含まれていたからである。後者においては、主流でないパーソナリティが個人の意識や機能をコントロールすることがより少ないとする。また以前は別のところに分類されていた離人性障害、非現実障害もこちらに含まれることとなった。

2020年5月27日水曜日

ミラーニューロンの不思議 最終回

ミラーニューロンについての話をもう延々とやっているので、このテーマを締めくくらなくてはならない。ミラーニューロンの存在は結局何を教えてくれたのだろうか? それはある他者の行動を見たときに、それを自分が行う準備性を備えてくれるシステムである。そしてそれにより、他者の行動の意図を教えてくれるシステムである。そしてその成立のプロセスを通して、自他の区別、空想と現実の区別は自然と身につく。これはあまりに広義の「学習」ということが出来るだろうか。ある他者が微笑みかけてくる、という体験は、自分で微笑み返すというシミュレーションを通して、その時の優しい気持ちを感じ取ることが出来る。もし顔がボトックス注射などで表情を作れないと、微笑みが理解できなくなってしまう。あるいは微笑みかけてくる人が同時に自分にビンタをくらわしたなら、その体験をどのように処理していいかわからなくなる。もう専門用語として「ミラーニューロンシステム」というのがあるが、それが恒常的に成立しないのであれば、解離とは一時的にこれが失調することで誤った取入れがなされるという理解が出来ないだろうか。 
ではミラーニューロンシステムの不成立としてどのような状況が考えられるだろうか。受動的体験の際、あまりに相手の感情が伝わってきて、それが能動態として入ってしまうということだろうか。叩かれているのに、叩く能動的体験のミラーシステムが形成された場合、などである。つまり論旨としては、ダイナミックな理論としての防衛的な黒幕の成立(Howellなど)⇔ 外傷的な、非機能的dysfunctional な黒幕の成立という考え方である。これを明白にしない限り、問題は解決しないであろう。
精神分析の理論の中では、取入れはなぜか力動的で、起きるべくして起きるというニュアンスがある。しかしそれがそもそもの間違いであったのではないか。ということでわけがわからなくなってきたが、ミラーニューロンの話は続くが、ここで一区切りにしよう。

2020年5月26日火曜日

ミラーニューロンの不思議 14


ところでこれほどミラーニューロンにこだわる一番の理由は、人格が備わるという現象に関して少しでもヒントを得たいからである。あるキャラクターを眺めているということは、そのキャラに備わった壮大な神経ネットワークが形成されることを意味する。そしてそれが無意識的に行われるとしたら、それはおそらくかなり上位に属するべきスーパーミラーニューロン(イアコボーニ)が関与しているのだろう。つまり個々の行動ではなく、そのキャラクターが行うであろう言動を全体的に統括するニューロンだ。人を見ているうちにその人の人格が宿るとは、この種の統括的なミラーニューロンが形成されることであろうし、そのようなミラーニューロンはほとんど人格のコア部分と言ってもいいだろう。問題はそこにおいて受動態として体験されたはずの事柄が、能動態としても形成されるという不思議なことが起きるということだ。攻撃者の取入れという現象を考えよう。
叩かれるという体験が、それ自身のミラーニューロンとは別に、「叩く」ミラーニューロンを形成する。自分が叩かれたのに、である。普通は叩かれたときは受動態としてのミラーニューロンがもっぱら形成され、能動態としてのミラーニューロンの形成は抑制されるであろう。叩かれそうになっている幼児は、普通だったらそこから逃れるような動作を身につけるであろうし、同時に殴り掛かったりはしない。それは逆効果を生むためもあってか抑制される筈なのである。ところが相手に対する同一化が強い場合にどうなるかというと、能動態としてのミラーニューロンの形成が同時に生じる。そしてそれはおそらく同じ運動前野上に生じることには矛盾が生じるために(なぜなら両者が拮抗して結果として混乱した運動しか生じないため)、運動前野の「別ルート」で生じるということなのであろう。それは別の人格状態でということにもなる。別の人格の形成は、このミラーニューロンの成立上やむを得ず起きることというのか?つまり私の提案は、ミラーニューロンの形成上の矛盾のために、別人格の形成が余儀なくされているのではないか。
そこでそもそも演技しているという状態はどうなのかを考えたい。ある人になり切って演技するとき、一種のダブルコンシャスが生じているわけであるが、おそらく二種類のミラーニューロンシステムが並行しているのであろう。一つは自己の体験、もう一つは別の人の体験という意識があるのであろう。ところが別人格の体験というのは、自分自身の体験としてなされているというわけである。例えば演技で架空のA子さんという主人公が子供に対して「ダメ!」と言ったとする。これは子供に対して「ダメ!」と言っている他者を見ている、というのとは異なる状況である。通常は他者を見ているときはミラーニューロンから運動ニューロンへの経路はブロックがかかっている。ところが演技の場合ある意味ではそのブロックを解除することで実際に「ダメ!」と言っている。これは実は高度のプロセスであり、それは「これは自分ではない、でもそうでないことにしなくてはならない」という頭を働かせているのである。
それに比べて解離の場合はある意味ではシンプルである。それは異なるミラーニューロンシステム、それもまっさらなものが働いている。なぜならAさんに「なっている」からである。その場合自分自身の考え方、感じ方との混線はあまり起こっていないのだ。



2020年5月25日月曜日

ミラーニューロンの不思議 13



そしてもう一つミラーニューロンの特徴は、それが常にフィードバックを受けているということだ。あるミラーニューロン(運動前野)をM’とし、それが連結している運動ニューロンをMとする。M’Mはそれによる筋肉の動きが生じ、その感覚が伝わることですぐにわかる。ただしこれは正確にはM’MPで、PからのフィードバックがM’に戻るという形だろうか。というのも私たちは通常Mからの反応を受けないようだからだ。例えば言い間違いだ。もしmのつもりでnと言ってしまった場合、通常は私たちはその音を聞いてから間違いに気が付く。もしその種のフィードバックがない場合は、私たちはそれを容易に看過してしまう。例えばものすごい騒音のところで誰かと電話で会話をすると、自分の声が聞こえなくてとても不安になるということがある。
ではMからM’へのフィードバック(M’M)はなくていいのだろうか?ここが最大の問題だが、おそらくこれが存在するであろう、というのが1112で紹介した事実である。それはMTMS(経頭蓋磁気刺激)で妨害した場合に、M’が失調してしまうらしいということがあるからだ。おそらくMは無反応(M(0)と表示)でも構わない。そうすることでM’が失調することがないのは、mという運動を想像だけするというのは本来そういう現象だからだ。ところがMからの異常信号(例えばM()と表示)はM’を失調させる。つまりはこういうことだ。M’Mからのフィードバックが(無反応であることも含めて)正常であることでM’であることに自信を深める。M’M(1/0)ではM’は失調しないのだ。
 それは例えば感覚において、Pという知覚とP’という表象(まあ、近くにおけるミラーニューロンと言っていいだろうが)をつかさどるニューロンとの関係と似ている。pを想像するだけなら感覚皮質上のPの細胞は何も反応しないはずだ。これを仮にP(0) と表示しよう。つまりP’P(0) は自分が想像しているだけだ、という感覚を生む。
ところでここが問題なのだが、赤ん坊がマルチモーダルな体験を持つということは、このP系とMけいがM’をハブとして連携しているということなのである。例えば日本人が不得手なrを聞くことと、それを発音すること、などを考えればわかる。そしてM’の失調が、Pの感覚入力を危うくするということだ。言い直すとミラーニューロンの失調は感覚皮質や運動皮質からの異常入力M()またはP() で容易にその体験を不安定にしてしまうということだ。
 

2020年5月24日日曜日

ミラーニューロンの不思議 12


もう少し具体的に考えよう。赤ん坊がそれと知らずに何かいたずらをして、母親がそれを見て怖い表情で「ノー」と言われたとする。赤ん坊はこれをマルチモーダルに体験するだろう。まずはノーという声が耳から聞こえている。母親の怖そうな表情も、口の動きも見えている。赤ん坊はもちろん最初は意味が変わらないが、それが繰り返される度に赤ん坊の脳は母親の表情や声や口の動きを模倣すべくプログラミングを行う。もちろん無意識のプロセスだ。その結果として母親の「ノー」を聞くことで、母親の表情の視覚像、口の動きの視覚像、そして赤ん坊自身が「ノー」と発音する際の声帯や舌の筋肉の運動につながるミラーニューロンがまとめて興奮するようになる。しかも、である。ミラーニューロンが「ノー」の発音準備をするとき、運動野の対応する部位を抑制すると、その体験の統合性が損なわれる。
運動前野での「ノー」は、ただそれだけが興奮するのではなく、運動野での「ノー」を実際に発音する際の運動神経ともおそらく緩いつながりを持っているのだ。ここら辺が一番微妙なところかもしれない。図で示そう。


 この図で注意すべき点は、おそらくミラーニューロンがハブとしての役割を担っているということだ。そして感覚野や運動野とのフィードバックループを形成し、もし感覚や、運動野からの信号が流れてこない場合は、自らの投影を行うが、異なる信号が流れてきた場合には、自分の体験を不成立にするということだ。例えば運動野が何かの影響力(外傷やTMS 刺激?)で、Cで示した両方向の矢印が成立しないと、そのせいでミラーニューロンは一種の失調を起こし、口の動きや表情の動きの視覚像を識別できなくなってしまうのだ。あるいは口の動きの視覚像が、別のものに置き換わったら、おそらくミラーニューロンは気が動転して、運動野に間違った信号を送ってしまう。例えばr の音を聞きながら、口の動きがlの音だと、ちょうど中間の発声をしてしまう、などだろう。

2020年5月23日土曜日

ミラーニューロンの不思議 11


ところでミラーニューロンがどうして運動性言語野に集中しているのか、ということについては面白い話がある。一つはある音を聞いた時、人の言語野ではその時の舌の動きを行う運動神経が反応をしているということだ。聞いた時に発音モードになっているということである。そしてそこにはブローカ野のミラーニューロンが関係しているというわけだ。つまりある音を聞いた場合、それを模倣する準備がすでにできているということだ。ここまでは驚かない。しかしそればかりではない。イアコボーニ(P133) によると、その音を聞いているときに、その発音に関連した運動野を抑制すると、その音を判別できなくなるという。
これは表情についても言える。ある表情を作るための表情筋を抑制するような仕掛けを行うと、他人のその表情を判別できなくなる。例えば眉を顰める表情を作ってもらう。そしていろいろな表情が示す感情を判定してもらう。すると不快な表情についてはすぐにそうとわかったが、笑顔はわかりにくくなる。つまり笑顔を自分で作ることが出来なくなるからだ。あるいは顔面筋を麻酔してしまうと、表情の読み取り全体が途端に悪くなる、など。味覚で言えば、鼻閉などでは物の味が分からなくなる、などはよく聞く。
実はこの種の実験は心理学ではしばしば耳にするし、私もあまり信用しなかった。老人の話を聞いた後の被検者は、腰を曲げて歩いて帰っていく、という類だ。でもミラーニューロンのことを真剣に考えると、これらの実験が案外間違っていなかったのではないかということが分かる。
言語において、ある音を識別するとは、それを自分でも真似て発声するという行為とペアになっている。それはミラーニューロンを介してそうなっているのだ。そしてその一部が抑制されると、それを聞いて識別するという部分も含めた全体の体験が成り立たなくなる。英語のrの音を理解するとは、運動野でもそれが「鳴って」いて初めて成立する。運動野が「鳴らなかったら」何かが違う、ということになるだろう。
そしてそれはおそらく視覚をも巻き込んでいる。rの発音をしている時の口の形を、別のものに置き換えた映像を見せると、別の音に聞こえる。この実験はどこかで読んだぞ。ということは体験はことごとくマルチモーダルだということになる。それもミラーニューロンを介して。
私はこのこととカプグラ症候群との関連で考える。ラマチャンドランがしばしば出す例で、母親の顔を見ても、母親そっくりの替え玉だと称する人の話だ。それは母親を見ても情動を起こす神経経路に外傷などで問題があり、何も感じなくなってしまうからだ。すると本物の母親ではないという結論に達する。つまり母親の顔が引き起こす情動も含めた神経活動の全体を待って、初めて母親を本物として体験するのだ。これら一連のことが意味することを考えていくと気が遠くなっていく。


2020年5月22日金曜日

ミラーニューロンの不思議 10


私が好きな思考実験に、自分の名前を左手で書いてみる、というのがある。私は右利きなので、右手で字を書くのは容易だ。そこで左手で字を書くことなど想像できるのだろうか。目をつぶって試してみると、実際に出来ることが分かる。それも少し時間がかかって、苦労しながら。その時実際に文字を書いていなくても何となく腕がやんわりビリビリする。ミラーニューロンだけが興奮しているときはその様な感じだろう。
どうやって赤ん坊は現実と想像を区別するのだろうか、と問うことはだからあまり意味がない。何かを実行しようとするとき、必ず運動前野はすでに活動している。想像している段階とは要するに、その行為を実行する全段階として、常に体験されている。想像→実行は常にカップルしている。だから想像は、現実とそれこそ込みで体験されているのだ。ではなぜ運動前野で想像されるのか。それはそうすることで運動がスムーズに行われるからだ。コンピューターだったらプログラムが活動するといきなり実行である。ところが人間の脳は神経ネットワークを準備状態にして、「温め」る必要が生じる。これが想像の段階だ。
では自他の区別は? そこで模倣が登場する。一説によれば、マカクサルは出生直後から模倣するというから、かなり精緻なシステムが出来上がっているらしい。母親が舌を出す。子どもの運動前野の舌に相当する部分が興奮する、など魔術的としか言いようがないが、実際は自分も動きをしてみてみたものに近づけるということを行うという性質が本来備わっているとしか言いようがない。すると真似る、という行為の中にすでに自他の分化が起きている、ということだろう。真似るということが無意識的に生じている場合には、他者がある行為を行っているときに、自分はこれから同じことをしようとしている準備状態に似たことが、脳の中で生じる。脳はこの違いを感覚的に味わうだろう。運動神経にこのままゴーサインを送れば自分の手足が動くのか、それともその手立てがないのか。その感覚の違いから自他の区別は明瞭につくだろう。
同じことは感覚についても言えるかもしれない。腕をつねった時の痛みを考えよう。直接の痛み刺激は、表象を伴う。それはその痛みを想像したり予想した時に興奮する神経群によりもたらされる。自分が腕をつねられたときの痛みを想像するという体験と、他人が腕をつねられたときの体験の想像は、おそらく質的に似ているだろう。そして自分が体験する実際の痛みは、想像の体験と実際の痛みが重なる。ところが痛みを体験しているような他者を見ても重ならない。この体験の違いもまた自己と他者の区別の基本にあるのだ。このように、自分と他人、想像と現実といった違いは理論ではなく、実体験として与えられる、として、イアコボーニは前者の説を思弁的な「theory theory 理論説」として棄却するのだ。


2020年5月21日木曜日

ミラーニューロンの不思議 9


ミラーニューロンの存在が問いかける問題の一つに、自己と他者の区別、そして思うことと行動することの区別との関係性のテーマがある。考えてもみよう。他人がコップを取り上げるときに反応したミラーニューロンは、もちろん自分が取り上げるときも反応し、また自分が取り上げることを想像した時にも反応する。ということは、それが行動に移す経路、つまり運動ニューロンが抑制されることによりそれが想像か現実が区別され、またミラーニューロンに「これは自分ではない」という信号が送られることで他人に起きているということが分かる。それはそうだろう。これらは体験としては全く異なることだし、それ以外の知覚入力は全く異なるからだ。あえて図にするとこうなる。




おそらく赤ん坊がまず体験するのは、自分が想像しているのと、実行しているのは異なる、という体験だろう。これは現実と空想の区別であるが、それはミラーニューロンにどのような知覚入力がまとわれているかにより直感的に区別できるようになるのだ。そして同様のことは自分がやっているのか、他者なのか、ということについてもいえる。つまり共通したミラーニューロンが興奮することで、それがどのように三種類の体験に分かれるかを切り分けることを通して、子供は想像と現実の区別、自己と他者の区別を同時に行っていくことになる。

ミラーニューロンの不思議 8


このところ模倣のことばかり考えている。人間の心の本来的なあり方が模倣から出発していると考えると、様々なことが説明できるような気がする。人間の脳の働きがデフォルトで模倣を(無意識的に)行い、そのことが私たちの文化の発展に貢献した、というのがラマチャンドランの考えだ。それが人類において数万年前に起きたとされる。
模倣するという傾向は新生児で著しく、歳とともにやがて低下していくのであろうが、成人になってももちろん続いていく。特に社会的な行動などはそうだろう。
ある体操の選手は、他の選手の演技を見ているだけで、もう頭の中でそれを自分でやるだけのプログラムが組み立てられるという。ある似顔絵の上手い先輩は、人の顔を見ている時、それを似顔絵で書くというモードで見ているといっていた。見ている時、すでに「描きモード」で見ているわけだ。だからその人の顔を思い出すということはそれを描けることだ。他者が何かをした時、それを真似ようとしたら真似られるという目で見る体験をするのが人間だ。オランウータンもこれに似た性質を持ち、チンパンジーではそうでない、というのがよくわからないが。そしてそれを可能にしているのがミラーニューロンということになる。
しかしこのことが感情体験にもかかわっているというのが面白い。運動と感情は別物だ、と言われるかもしれないが、悲しんでいる人を見て悲しいと感じる際には、顔をゆがめ、涙腺が緩むという体の「変化」が鏡写しにされ、それから感情がわく。まず身体的な変化が起き、それから感情が生まれる、という順番はジェームス・ランゲ説そのものだ。この説はとうの昔に古臭いと棄却されていたと思っていたのだが。そしてそのためにミラーニューロンは情動をつかさどる辺縁系とも結びついている。イアコボーニの著書に関する解説を読んでいて、次の文に出会った。「科学的には、ミラーニューロンから大脳辺縁系への経路を明らかにする必要があるが、イアコボーニらはまず解剖学的にこの両者を結んでいる「島」という脳領域を見つけた。さらに被験者がさまざまな表情をしている顔写真を見て模倣をしているときに、ミラーニューロン、『島』、大脳辺縁系の三つの領域が活性化していることを脳のイメージング手法である機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)で明らかにした。」
思考はどうか。これもおそらく行動と関係がある。腹を立てる。留飲を下げる。堪忍袋の緒が切れる・・・・。なんと運動が関係していることか。私たちの精神活動のかなりの部分に、運動がかかわっているというのは確かなことらしい。

2020年5月19日火曜日

ミラーニューロンの不思議 7 


イアコボーニの著書「ミラーニューロンの発見」に面白い例が出ていた。彼は2006年のワールドカップの決勝で、ジタンが相手のイタリア選手マテラッツィに頭突きをした有名なシーンを見て、文字通り頭突きをされた選手の痛みを感じたという。そしてそれはその後に起きたイタリアの決勝点のゴールシーンよりもより鮮明に記憶に残っているという。その時起きたことは、著者イアコボーニのミラーニューロンがイタリア選手が体験したであろうことを脳内でなぞったということになる。それはわかるが、イアコボーニの脳は、なぜ頭突きをしたジタンの方の体験をなぞらなかったのだろうか?
一つの答えは、彼が心情的に同一化したのはイタリア選手の方であり、そちらが彼のミラーニューロンの琴線に触れたからだ。おそらくジタンの感情に同一化していた人は彼の体験を脳内でシミュレートし、「してやったり!」と思ったかもしれない。もしイアコボーニがジタンの心境を想像するように言われたら、彼はある程度はそうするし、そのうちジタンの方にも共感の念を持ったかもしれない。しかしこれらはおそらく同時には起きない。一度に一つであろう。受動態 passive voiceと能動態 active voice の体験は決して同時には起きないのだ。そしてそうすることで両方の態 voice は混同されないようになっているのであろう。
そこで他人から笑いかけられたという体験はどうだろう。今度は笑いかけられた対象は自分である。そしてそれは基本的には受け身的な体験だ。しかし不思議なことに、笑いかけられた人は、必ずと言っていいほど笑い返すのだ。誰かと会話をしている人を横で見ていると、これは実に顕著に表れているのが分かるだろう。相手の表情はこちらに同じ表情を誘導する。微笑みかけは、ほぼ自動的に微笑み返しにつながる。相手の行為をまねすることが、相手に対する能動的な働きかけになるなんて、なんとうまくできていることだろう。そしてこれは、優しさはどのように伝わるか、ということのもっとも直接的な説明だ。母親の顔の優しさが、子の顔の表情のミラーニューロンによるコピーにより優しさの表情を作らせ、それにより優しさの感情を生む。ミラーニューロンを介して感情が写し取られるのである。 
それでは母が子を撫でるという行為はどうか? 頭を撫でられている子どもが、頭の中で誰かを撫でているだろうか。あるいは手が勝手に動いて撫でるようなしぐさをするだろうか? おそらくそれはないだろう。(後に人形に対してそれを行うかもしれないが。)一つの理解としては、母親の顔のミラーニューロンによるコピーで優しさを感じ取っているだろう。そして撫でるという体験は優しさとカップリングする。
では叩かれるという体験はどうか。それも深刻な恐怖心を起こさせるようなレベルで。こちらの場合は、前部帯状回が扁桃核及び情動に関する脳の部位を抑制するということが起きる。そうすることで心は麻酔をかけられた状態(つまり解離状態)でその体験をやり過ごし、ミラーニューロンは活動しないことで、追体験できないことになるのかもしれない。そしてその体験はわからないこと not-me (サリバン)になってしまう。

2020年5月18日月曜日

ミラーニューロンの不思議 6

ミラーニューロンの働きを理解する上での一つの決め手は、赤ん坊と母親のやり取りを、模倣のプロセスとして見ることだ。それは相手に働きかけるということも含めて、である。つまり自分も母親に働きかけるということで、「模倣し返す」のである。その意味ではこの模倣は「オウム返し」とは異なることになる。母親が声をあげて、赤ちゃんがそれをまねるとき、母親はすぐにそれに気が付くだろう。それはすでに「やり取り」になっていることに注意しよう。一種のコミュニケーションなのだ。模倣を一種の本能、すでに脳に備わった特徴である考えることが出来る。赤ん坊は一種の模倣装置なのだ。しかしそれを行うことが交流になっていること、つまり模倣が対人関係の形成を伴っているとしたら、これはなんと合理的なのであろうか。そしてこれは赤ん坊が自分に関わってきた人に対する模倣を選択的に意味し、それは生存の可能性を保証する。赤ん坊は周囲に起きていることを何でもコピーするというわけではない。母親という特別な対象が自分に対して仕掛けてきたことを模倣するのだ。ローレンツの記載した鳥(鴈)の刷り込を考えればよいだろう。刷り込みには臨界期があるのが知られている。そして鴈の子供はその間に自分の母親によって刷り込みが行われることが大事なのだ。
赤ん坊の動作をその様な視点から考えることには意味がある。赤ん坊はおそらく母親との関りで、「模倣し返し」を必死で行なおうとするが、最初はうまく行かない。複雑な動きを伴うようなミラーニューロンはまだ成立していないからだ。舌を出す、などの行動に関してはおそらく生下時にもうそれは成立しているかもしれない。でもほかのミラーニューロンは試行錯誤により育てられていく。子どもは母親の出す声を聴いて、自分も発声をして、その間違えのフィードバックループを通じてそれを猛烈な勢いで修復していく。それはもう自動的に起きるのである。意図的な努力など必要ない。ちょうど母語の習得に努力など関係ない、というのと同じである。

2020年5月17日日曜日

ミラーニューロンの不思議 5


ミラーニューロンを考える上で最も興味深く、また不明な点が多いのは、他者イメージがいかに形成されるか、そしてそこにミラーニューロンがどのように絡んでくるかということである。おそらく一番分かりやすいのは、それは他者の意図を見出すというプロセスを通してであり、それは哲学的な議論、というよりは生物学的なプロセスということだ。生命体は生まれた直後に呼吸をし、手足を動かす。欠伸をするだろうし、排出をする。欲求とそれに続く、それを満たすための運動はおそらく最初から配線されている。赤ん坊が目の前のコップを手に取りたいと思い、手を差し出すとき、手に取りたいという欲求とその後に行ったこと(手を伸ばしてとる)の間にある種の因果関係を感じ取り、そこに自己の能動感を感じ取るだろう。他方では目の前の誰かが自分の目の前にあるコップを手を伸ばして取るのを見て、ミラーニューロンが反応する。その時は必ず自分が過去にした同じような行動をミラーニューロンを通してなぞることになる。その際にはその時の知覚や運動器の感覚を巻き込むことで、その時自分以外の何かが自分と同じような体験をする。それは自分であって、自分でない。なぜならそこに意図→行動という流れは起きていないからだ。自分の体験が能動感を伴わずに起きるという体験の蓄積により、おそらく赤ん坊は他者性の体験を積み上げていく。
ここに働く機制を安永浩先生は「原投影」と呼んだ(「精神の幾何学」岩波書店)。おそらく目の前のコップに手を伸ばしている人を見て、赤ん坊は自分を投影させ、その人に同一化する。でもそれは自分ではない、ということを体験する。赤ん坊に自我や他我の意識はおそらくないものの、この二つの体験を分けるのである。

ミラーニューロンの興奮 W 能動感  = 自我の体験
ミラーニューロンの興奮 W/O 能動感 = 他我の体験

ここ迄は比較的わかりやすいプロセスと言える。他者は自分にはかかわってはこない。自分の目の前で自分の意図に従って動いているだけだ。問題はその他者が赤ん坊に何かを仕掛けてくることである。例えば母親が赤ちゃんに微笑みかける。赤ちゃんのミラーニューロンは興奮するのだろうか。おそらくこの疑問は極めて厄介である。母親がコップに手を延ばすのならわかる。対象は自分の外だ。ところが母親が微笑みかける対象は赤ん坊自身である。ここには実は二つの体験が重なっている。微笑みかけられる、という体験と、自分が微笑みかけるということの代理体験である。後者は他我としての母の体験と言えそうだが、前者は赤ん坊は自分がコントロールする対象、という体験を伴うかもしれない。その場合は他者像はおそらく自我と他我の両方の性質を伴うものとして赤ん坊の目に移るに違いない。その特徴を特徴づけるとしたら
ミラーニューロンの興奮 W 受動体験

ここで他者のかかわりがW 能動体験という形で生じた場合、それは解離ということになるのではないだろうか。なぜなら能動体験を味わう対象は実は自分自身であり、その意味でこれは自己を対象として体験する、一種の離人体験として成立するはずだからだ。


2020年5月16日土曜日

ミラーニューロンの不思議 4

ここでもう一つ生じている可能性があるのは、模倣をする過程で、前運動野に生まれた意思は自分のものであって、他者のものであるという矛盾が常に生じる可能性があるということだ。そしてそのための自他の混同を起こさないような装置があって、そこにもミラーニューロンが関係しているはずである。普段は赤ん坊は自分が声を出そうとしていることが分かるが、母親の声を模倣しているときは、それをまねているという感覚を持っているはずだ。でもそこである種の配線の異常が起きると、他者の振る舞いを自分のものとして取り入れることになる。これも結果的に introjection になるのだろう。そしてそれは解離のプロセスでも起きているはずである。
そこで私たちが能動性の感覚を得るとはどういうことか。私たちは誰かが目の前のコップをつかむという場面を見て、それが他人に起きているのか、自分が行っているのかについてまぎれもない区別を行っているはずだ。自分が目の前にあるコップをつかむという行為は、そうしようとする意図と、それにより実際に生じることとが常に照合される。コップの重さの感覚、手触り、手を動かしたときの筋肉の緊張などは、おそらくことごとく予想され、結果と照合されている。予想と現実がほぼ合致することで、私たちはあることを意図して行ったという体験が完結するのだろう。その意味では、例えばコップをつかんだ時の皮膚の感覚ニューロンには、つかむ前にすでに通電が行われているはずだ。それが現実の感覚入力と照合される。
これは例えば自分自身をくすぐってもくすぐったくないのはなぜか、という話にもつながる。自分の右手が左のわきの下をくすぐる時、触る部分と触られる部分の両方からの同時的な感覚入力が決め手らしい。それにより「自分がやっている」感がつかめるのだ。それがない場合どうなるのか。皆さんは歯医者さんで強い麻酔を打たれて、唇の感覚がない時のことを覚えていらっしゃるだろうか。実に変な感覚である。まさに「モノ」、例えば蝋人形を触っているあの感覚は、触られる方の感覚入力が遮断されたときの特徴であろう。
私たちがミラーニューロンを持つということは、模倣を容易にすると同時に、運動前野のプログラムを実行しないための抑制システムを同時に持つということであろう。ちょうどレム睡眠の場合、全身の骨格筋が抑制されることで、夢の内容を実行せずに済んでいるように。ただし夢で人を蹴っていたら、隣で寝ている人を蹴ってしまったということも起きるから怖い。

2020年5月15日金曜日

ミラーニューロンの不思議 3

さてミラーニューロンは、単に想像するだけでも発火するニューロン、というだけでは実は済まないということも重要である。それはもっと非現実的な芸当をする可能性がある。たとえば視覚的にとらえられた他人の体の動きを、その人の体の動きをプログラムする前運動野に自動的にマッピングしてくれるのではないかということである。例えば野球選手の投球フォームを見ると、もうそのフォームのプログラムが見ていた人のミラーニューロンを介してその人の運動前野にプログラムされ、そこそこに投球フォームの真似が出来てしまうというわけだ。
この発想がどうして出てくるかと言えば、新生児がなぜ母親の模倣をできるのか、という問題があるという。メルツォフの研究で有名であるが、生後数時間の新生児が母親が舌を出したのに対して自分も舌を出して模倣する、ということがどのように可能なのか、という問題がある。少なくとも赤ちゃんは舌を出す、という体験を積んではいない。
でも母親がそうするのを見ると、あたかも母親の前運動野のプログラムが、子供の前運動野にコピペされるということが起きているのではないか、という考えに信憑性が伴う。このことは例えば言語獲得のプロセスを考えれば明らかではないか、ということにもなる。

ここで私はやむにやまれずある用語を作る。それは「取り入れ」Introjection である。ここで大文字であることがミソだ。取入れという概念自体は精神分析によく出てくる。ただしおそらくこれにも大文字のそれと小文字のそれがある。Introjection 「取り入れ」とintrojection 取入れ。前者はまさに母親の運動前野のプログラムがコピペされる形をとる。ここにはおそらく解離の機制が働く。憑依はその典型とみていいだろうし、母語の習得もこれに関連する。
もう一つの introjection は力動的なそれである。こちらには意図的な模倣が含まれる。語「学」の習得もこれに入る。それはいまあるネットワークの改変修正により成立する。おそらくこの二つの機序を混同する限りは緻密な議論は難しいように思う。考えてもみよう、赤ん坊は生まれ落ちたときにはすでに手足を動かし、鳴き声を上げ、もちろん呼吸をしている。プログラムはすでに成立して、動き出しているのだ。そこにはフィードバックループが働いていて、瞬くうちにそのプログラムを形成する。おそらく運動前野と運動野との関係は極めて緊密で、そこには意図とその結果のフィードバックループが小脳の力を借りて猛烈な勢いで働いて行動を形成していく。そこでは模倣ということはデフォルトの機能として備わり、耳から聞いた音を自分で作ってみて、間違いを修正していくというループがほとんど常に動いているということなのだろう。

2020年5月14日木曜日

ミラーニューロンの不思議 2

昨日はミラーニューロンという特別なニューロンなどないのではないか、という話だったが、これに関する思索をしばらく続けたい。その根拠として、「痛覚ニューロン」がある。ラマチャンドランが「脳の中の天使」の中で紹介しているが、前部帯状回には、痛みに反応するニューロン(「痛みニューロン」)が存在するという。このニューロンが面白いのは、それが自分が皮膚に針を刺されたときだけでなく、人の皮膚に針を刺された場合も発火するということだ。こちらのほうが他人の行動に反応するよりもっと興味深い。というのも他人に対する共感の最も明確なのは、「他人の痛みを自分のことのように感じる」ということであり、ここにも特殊なニューロンが関係しているかあだ。そしてこの痛みニューロンもミラーニューロンか、と言われればそうだろう、ということになる。だからミラーニューロンは特定のニューロンではなく、ある種の役割を担うニューロンの総体と思えるのだ。何かを実際に体験した時に活動するニューロンの中で、想像しただけでも活動するものはミラーニューロンということになるのではないだろうか。 

 ただしここには一つ問題があるかもしれない。痛みニューロンは、自分が針を刺されることを想像するだけでも発火する。しかし目の前で他人が針に刺されるのを見たり、遠くで他人が針に刺されるのを見たり、あるいはさらに地球の裏側で誰かが針に刺されるのを想像した場合にやはり発火するだろうか。多分異なるだろう。ししてそこには個人差もあるのではないであろうか。 
 ここで発達障害の問題が出てくる。最近のある研究では、ミラーニューロンがあまり機能しないのが自閉症スペクトラムの問題である、としてそれを「自閉症に関する『壊れた鏡』学説 broken mirror theory of Autism」 と呼ぶという。
杉野、松本ら(2015)他者行為理解に関わる脳内プロセスの生理心理学的検討 ― 行為の意図性が脳波のMu リズム抑制に及ぼす影響 ―作大論集 / 作新学院大学, 作新学院大学女子短期大学部 編 第5号 99-113 



 さてミラーニューロンは、単に想像するだけでも発火するニューロンというだけには留まらないということも重要である。それは視覚的にとらえられた他人の体の動きを、その人の体の動きをプログラムする前運動野に自動的にマッピングしてくれるのではないかということである。この発想がどうして出てくるかと言えば、新生児がなぜ母親の模倣をできるのか、という問題があるという。メルツォフの研究で有名であるが、新生児が生直後には、母親が舌を出したのに対して自分も舌を出して模倣する、ということがどのように可能なのか、という問題がある。少なくとも赤ちゃんは舌を出す、という体験を積んではいない。 
 でも母親がそうするのを見ると、あたかも母親の前運動野のプログラムが、赤ちゃんの前運動野にコピペされたかのようにして、赤ちゃんがそれをまねできるということが果たして本当におきるのだろうか。それがおそらくそうなのである。このことは例えば言語獲得のプロセスを考えれば明らかではないか、ということにもなる。 いかに簡単な図を示す。

 

2020年5月13日水曜日

ミラーニューロンの不思議 1


ミラーニューロンは画期的か。おそらく。でも今一つよくわからない。そこでこんな思考実感をする。
Aさんの目の前に一つの卵がある。Aさんはそれをどうしたいだろうか。それを眺めたいか、手に取ってみたいか、足で蹴飛ばしたいか。割って卵かけご飯にしたいだろうか。それとも何もしたくないか・・・。
他者の意図の問題は純粋に内的な問題であり、従来はそれを科学では知る由もないと考えられていた。でも今ある手段があり、科学的にAさんが卵をどうしたいかという意図を知ることが出来たら? そう、それを可能にしたのがミラーニューロンの発見である。
まずAさんに承諾を得なくてはならない。彼の頭蓋骨に穴をあけ、前頭葉の運動前野というところに針を刺させてもらう。この時点でAさんは承諾を激しく拒否するだろう。仕方がないのでAさんはアカゲザルだったということにしよう。そしてAさんに眺める、手に取る、蹴飛ばす、卵かけご飯にして食べる、という一連の動作をしてもらい、運動前野でそれぞれの行動に特化したニューロン(神経細胞)を特定する。ちなみに運動前野は、運動のプログラミングをするところだ。例えばつかむ、などの運動は一連の筋肉の緊張と弛緩の連続である。それを筋肉に信号を送り出す運動野の横の部分にあるこの運動前野でプログラムするのだ。
このような下準備をしておいて、アカゲのAさんに卵の前に座ってもらう。そして前頭前野のどのニューロンが反応するかを見る。するとAさんがその卵を蹴り飛ばしたいとうずうずしていることが分かる。それは実際に蹴ってもらったときに反応したニューロンがもう発火しているからだ。というよりはAさんはサルなので、実験であるという事情も分からずに、実際にその卵を蹴っ飛ばしてしまうだろうから、別に頭に穴を開けなくてもその意図はわかったわけだが・・・・。
もちろんこのままでは大して面白くもないのだが、ミラーニューロンの研究が大切なのは、Aさんの目の前にBさんがいて、その前に卵が置かれたときのAさんの反応が興味深いからだ。Aさんの前に卵はない。彼は卵を前にしたBさんを見ているのだ。もちろん卵を蹴りたいAさんならすぐさま蹴る時のニューロンが発火するかもしれない。しかしBさんが卵を蹴る代わりに手に取ると、それをじっと見ていたAさんも、卵を手に取る時のニューロンが発火するだろう。Bさんが卵かけご飯を食べると、Aさんの卵かけニューロンが発火する。AさんがBさんを見て、その動きに同一化する限りはこれが起きるのだ。
これはどのようなことを意味するのだろうか。AさんはBさんが卵を手に取るしぐさを見て、自分でもそれを心の中で想像するわけだが、それは単なる想像ではない、想像以上のことを行うということだ。敢えて言うならば、彼は体で思い浮かべるのだ。そしてそこにはおそらく感覚レベルでの思い浮かべも生じる。つまり卵の表面のスベスベ感やその時の心地よさも疑似体験するのだ。
以上の記述を見て、おそらくある人は、「なるほど、すごいことだ」と思い、別の人は「それでどうしたの?」という反応を起こすはずだ。後者の人は「だって、人のやっていることを見て、同一化すること、あるいは理解し共感することってそういうことなんでしょう?」私はその気持ちも実はよくわかるつもりだ。
「卵かけご飯を食べている人を見て、その人の気持ちに共感することとは、その時動かすお箸の感覚や卵かけご飯の味わいを想像することだよね。例えば卵かけご飯を食べたことがある人なら、その味を覚えているだろうし、それを思い出しているはずだ。ということは脳でそのようなことをやっているはずだよね。」
その通りなのである。でも一体ある行動を想像する時って、脳の中で何が起きていることだろうか。それを実際に体験した時に発火したニューロンの一部が、その時も発火しているということだろう。例えばリンゴを思い浮かべる。あなたの後頭葉の一次視覚野には何の反応もないはずだ。何しろ知覚入力がないのだから。しかし知覚を統合していく高次視覚野のどこかのレベルは発火しているはずだ。リンゴを思い浮かべるときは、きっとその知覚表象も思い浮かべているからだ。ちなみにアルヴィン・ゴールドマンという人は、「シミュレーション仮説」というものを唱えているらしい。これはある人の気持ちを理解するためには、その人と同じことを自分でやってみなくては分からないというものだという。でもこれもある意味では当たり前の話だ。
このように考えるとミラーニューロンの発見が実に不思議だということが分かる。その存在はある意味では当たり前だ。想像する、ということはそういうものだということを追証したに過ぎない。そして当然ながらミラーニューロンは感情に関しても知覚に関してもあることになる。というよりはミラーニューロンなる特定のニューロンはないのかもしれない。あることの体験を持とうとしたり、それを想像したりする際に、つまり疑似体験しているときにそれに関係しているニューロン、というだけのものかもしれないのだ。そしてミラーニューロンの発見のもととなったアカゲザルの有名な実験は、アカゲザルもほかの個体や人間の行動の意味を理解し、自分でも想像できる、というただそれだけのことかもしれないのだ。だったらどうして世界はそこまで大騒ぎをしたのだろうか。


2020年5月12日火曜日

ICD-11 における解離性障害の分類 1


昨日で「揺らぎ」から手が離れた。今後は依頼原稿関連だ。


ICDにおける解離性障害について

ICDは不思議な経過をたどっている。このネットの世の中だけに、今はネットでの公開しかしておらず、2018年からいわばアドバルーンを上げている状態であり、その意味では正式ではない。出版物はこれからだ。そしてネットでの公開であるだけに、微修正はどんどん加わってくる可能性がある。これは発表する側にとっては便利だが、追いかけるほうにとっては少し厄介である。ともかくもいかが、現段階でネットで拾える解離性障害のリストである。
Bなんとか、というナンバーの振り方もよくわからない。
このうち一番上にある解離性神経学的症状症というのは、実は大変な曲者で、この下に、歩行障害を伴うもの、意識変容を伴うもの、などものすごく細かく分類されているのだ。

6B60 Dissociative neurological symptom disorder解離性神経学的症状症
6B61 Dissociative amnesia 解離性健忘
6B62 Trance disorder  トランス症
6B63 Possession trance disorder 憑依トランス症
6B64 Dissociative identity disorder 解離性同一性症
6B65 Partial dissociative identity disorder 部分的解離性同一性症
6B66 Depersonalization-derealization disorder離人感・現実感喪失症
6E65 Secondary dissociative syndrome 二次的解離性症候群
6B6Y Other specified dissociative disorders 他の特定される解離症
6B6Z Dissociative disorders, unspecified 特定されない解離症



2020年5月11日月曜日

揺らぎ 推敲の推敲 4


揺らぎとレジリエンス
揺らぎの問題を考えるうえで必然的に行きつくテーマがレジリエンスである。このテーマについても一言述べておきたいが、それはこのテーマが比較的スムーズに柔構造の概念と結びつくからだ。
レジリエンスresilience とは柔軟性、弾力性、という日本語訳が用いられることが多いが、要するにストレスに晒されたときにそれに柔軟に対応できる能力という意味である。枝にそれを曲げようと力を加えた際に、簡単にポキッと折れてしまうのではなく、適度にたわみ、力から解放されたら再び元の形を戻すとしたら、それがレジリエンスである。(このような例からわかるとおり、レジリエンスは、ストレス stress とともに、物理学の用語だったのだ。)
このレジリエンスという考え方とともに私が示した柔構造について考えよう。基本的には柔構造はレジリエンスを備えている、と考えていいであろう。ただその場合はその際の視点は治療者側にあると言えよう。つまり治療者がいかにレジリエンスを有するか、という発想である。治療構造は単にそこにあるだけでなく、誰かによって常に維持される必要がある。そしてその責任は主として治療者の側にある。先ほど示した例で一回50分のセッションの終了時間を延ばしてほしいというクライエントの要求は、治療構造への挑戦、ないしはストレスと考えることが出来る。それは治療を時間内に終わらせるのは治療者の責任だからである。だから治療者はそれに何らかの形で対応しなくてはならない。その際レジリエンスを有する治療構造とは、患者からの要求に柔軟に対応する治療構造と言えるだろうか? 例えば5分延長してほしいという要求には5分を許容し、15分の延長を求められたら15分延長するべきだろうか。必ずしもそうとは言えないであろう。ではどのような対応がレジリエンスを発揮したものとなるのだろうか。
ここで先ほどの枝の話を例にとり、レジリエンスが発揮されなかった場合を考えよう。それは治療構造がストレスによりもろくも崩れ、壊れてしまった状態と言えよう。患者さんが5分の延長を求めたことで崩れる行動とはどのようなものだろうか。
様々な場合はあるが、ちょっと想像力を働かせていくつか具体例を考えてみよう。まずあまり仕事に慣れていない治療者が、患者さんの要求通りに5分の延長を認めるべきかどうかで判断が出来ず、判断停止になり固まってしまう場合。あるいは5分の延長を治療者が全く受け付けず、そのとりつく島のなさにクライエントが腹を立ててしまう場合。あるいは5分の延長を認めたことで、その後どうしても必要なメール対応やバスルームの使用などの時間のために次の患者とのセッションの開始が遅れ、患者さんが気分を害してしまった場合。同じく5分の延長を治療者の方がとても葛藤を持ちながらも受け入れた結果として、なぜか自己嫌悪になり、そのために大きなストレスを経験した場合。これらを一言で言えば、治療者が柔構造的な発想を持たない場合、と言えるであろう。
柔構想的な発想イコールレジリエンスの発揮、という文脈で論じたが、結局はこれは治療者側の問題に限定されるわけではない。治療者がレジリエンスを有することは、実はそれを患者と共有することで、患者がそれを取り入れることは望ましいだろう。患者が人生でこれまでに体験した様々なストレスにより、考えに柔軟性を失っている際に、それを再獲得するのは治療の一つの目標と言えるであろう。その際に患者の様々な連想やファンタジーを聞き、解釈的な関りを行うことに並行して重要なのは、治療者が柔軟でレジリエンスを発揮するということになる。柔構造的な治療構造は、ある意味では患者がそれを取り入れ、自分の中に自分なりの柔構造を作るプロセスを助けることともいえるのである。


2020年5月10日日曜日

揺らぎ 推敲の推敲 3

 失敗に結び付く心の揺らぎに関しては、もう一つ私達が日常的に体験しているものがある。それは記憶の揺らぎである。記憶はそれがあまり定着していない場合ないしは忘れかかっている場合には、想起されては忘却し、また想起される、というかなりの揺らぎを示す。そしてこれもまた失敗の大きな部分を担っているのだ。
 ちなみに私は以前から、自分自身の記憶の揺らぎには苦労をしてきた。最も難しいのは人の名前だ。誰かの名前を思い出そうとして、ある程度頑張っても出てこないと、これ以上いくら努力をしても最後まで思い出せないという実感が湧くことがある。つまり思い出そうとする努力がかえってその対象を追いやっているという感覚だ。ちょうど漢字の書き順が分からなくなると、考えれば考えるほど正解から遠ざかるのと似ている。これが私の場合ごく身近にあっている人についても起きることがあるのだ。
 すると逆に、いったんは忘れる、ということをしない限り思い出せないという感覚になるし、実際その通りなのだろう。一度ソロバンを御破算にする、ゲームのリセットボタンを押す、という感じだろう。つまり記憶の揺らぎをいったん止める必要があるのだ。
 興味深いのは、ある時に思い出せていた人の名前が、ほんの数分後には急に思い出せないという事がおきるということである。あるいは逆のことも起きる。たとえばテレビに出てきたある男優の名前が思い出せない。しばらく頑張るが無駄だと思い諦めてしまう。ところが1,2 時間してふと名前が出てくる。その時はあまり努力をせず、別のことを考えている最中だったりする。このように明らかに想起には揺らぎが存在するようだ。と言ってももちろんしっかり記憶しているものではなく、うろ覚えのものに対してこれは当てはまることが多い。
 ちなみに私の場合抽象名詞の場合と大きく異なる。抽象名詞なら、思い出そうとしたらそのうち出てくるだろうという予感がすることが多いし、大抵はそうなる。英単語なども結構こうやって出てくる。そしてこれは私が思春期以降持つ傾向なので、加齢の影響とはあまり関係がなさそうに感じる。(私がこのようなハンディのために受験のたびにいかに苦労したかは、聞くも涙、である。)

2020年5月9日土曜日

揺らぎ 推敲の推敲 2


本章は少し長いのでまとめを述べておこう。ここでは揺らぎの欠乏としての発達障害というテーマで論じた。心の揺らぎという現象の本質は、それが不足していた場合にどうなるかを考えることでより明確になったのではないだろうか。
揺らぎの欠如ないしは減少は、それがその人にある程度定着した傾向ならば、その人の脳の一つの特性と言えるだろう。そしてそれが極端になった場合に発達障害、特に自閉症スペクトラム障害と呼ばれるのだ。しかしそれはある種の障害と決めつけることは決してできないような何かでもある。自閉症スペクトラム障害の症状を明確に示していたキャベンディッシュにしても岡潔にしても、掛け値なしの天才なのだ。そして彼らの業績は確かに揺らがない脳の持つ切れ味の鮮やかな論理的思考や突破力に関係している。ただしそれらの揺らぎのなさは強いこだわりや相手の気持の読めなさといった問題も伴なっていた。
本章を終える前に、バロン=コーエンの唱えたシステム化脳と共感的脳の関係性についてもう一度俯瞰しておこう。両者は排他的な関係にあるというのが彼の仮説であった。これは揺らぎとの関連で言えば、揺らぎの欠如と、揺らぎの豊富さとの違いと言い換えることが出来るのだ。そしてその意味ではこの両者は互いが互いを抑制しあう関係性にあるのである。
システム化脳は意味の揺らぎをできるだけ排することで本領を発揮するというところがある。しかもそれが発揮されている間はその人は他人から見られているかということに無頓着になる。授業そっちのけで黒板の前で思索にふけっていた時、岡先生はもはや教師としての姿を外側から、あるいは生徒の側から見る方向には心は揺らがない状態になってしまったのであり、そのことにより数学脳をフル回転させることが出来たのだ。その意味で彼らの脳は意味の揺らぎと自他の揺らぎの両方の低下を見せていた。
他方では共感のためには心は自他の間の揺らぎを最大限に発揮することになる。自分に対する対自的な視点は結局は相手の心を感じ取ることと同様のことである。そしてそれは遡れば母親が赤ちゃんの心をいかに察することが出来るか、という問題に行き着く。母親にとって子供の感じていることはかなり直接的に伝わってくる。新生児が泣いている姿を見て、デビューしたばかりの母親は一緒に目を潤ませる。その時母親はすでに子供と一緒になっている。自分の子供への声掛けは、子供が聞く母親からの声掛けと重複している。そしておそらくここに男女差は顕著に表れているのだ。しかしこれらのシステム化と共感は、対立するだけでなく、それ等自身が共存し、あるいは揺らぎつつ発揮されることがあってもいいのではないか。やはり私はそう願う。しかしおそらくはシステム化脳がある程度以上に突出、ないしは純化しないことが原則なのかもしれない。
本来人間のオスは外で狩猟をし、獲物を持ち帰ることを生業としていた。その時追い詰めたウサギに共感していたら仕留めることなどできない。相手はその瞬間には完全に感情を持たないモノでなくてはならないのだ。他方では人間のメスは子供を守り、養育し、その生存率を高めなくてはならない。そのためには子供の様々な感覚のセンサーとなり、そこでの異常やニーズを敏感に察知することが必要だった。
でも緻密な作戦を立てることのできるウサギ狩りの名人も、家に戻ったらシステム化脳をオフにして、心の揺らぎを取り戻し、良き父親ぶりを発揮できるかもしれない。そもそも人類は一夫一婦制により長い子供の養育期間を過ごしつつ繁栄を遂げてきたのではないか。そこでは特に男性がそのシステム化脳のオンオフ機能を有することが重要なのではないだろうか?
このように考えると、揺らぎ(+)と揺らぎ(-)との間の揺らぎこそが人間により多くの価値を与えるのである。発達障害の病理は、これらのことを考えるうえで極めて多くの示唆を私たちに与えてくれるのである。

2020年5月8日金曜日

揺らぎ 推敲の推敲 1

パターン重視と曖昧さの許容は共存しうるのか ―天才岡潔の例を見る

以上、私たちが日常他人と交流を行う時の曖昧さの許容ということが持つ意味について論じたが、それは曖昧さを排除する傾向と両立しうるのであろうか、という疑問が生じてもおかしくない。もちろんバロン=コーエンが考えたような極端なシステム化脳を持った人の場合、曖昧さに対する耐性は少なくなる傾向にあるだろう。しかし私たちは大抵はシステム化脳と共感的脳の両方の脳の性質をある程度ずつ持ち、それらをうまく使いこなしているのであろう。そしていざとなったら使うことが出来る共感脳を備えていることが、発達障害の人の人生をそれだけ豊かにするのだ。

岡潔先生(1901~1978)
ただものではない雰囲気だ
この問題について考えるうえで日本が生んだ不世出の数学者岡潔先生(1901-1978)の例を挙げたい。岡潔は数学の天才であっただけでなく、「春宵十話」、「日本的情緒」などで情緒の大切さを説いている。彼の人生は決してサヴァン的な面、システム化的な部分だけでなく、共感能力も長けていたのではないだろうか? 文化や感情の問題など、幅広いテーマについてのエッセイでも知られる岡先生は、私の頭の中では、人の気持ちもわかる素晴らしい人物として思い描かれる。バロン=コーエンの言うシステム化脳のモードと、共感脳のモードをスイッチできる能力を持っていたのではないか。
こちらも、やはりただもので
はないオーラを発している
2018年に読売テレビで「天才を育てた女房」というドラマが公開されたが、主人公は、この岡潔がモデルとなっている。天才であり、確かに変わり者であった岡潔(以下、敬称略)は、今でいうアスペルガー障害の傾向を十分に備えていたかもしれないが、きっとそれだけではなかったはずである。
私は頭の中で次のようなシーンを思い描いた。
「そんな岡潔であったが、時々しみじみと奥さんに言ったという。『君には僕のことでいろいろ迷惑をかけているね。済まないと思っているよ。』これで奥方(みちさん)はこれまでの苦労が報われた気がしたという。」
つまりはコンピューターのような働きを見せる先生の頭脳の内奥には、おそらく人間的な面がきっと備わっていて、それが研究の手を休めた際にはふと垣間見られるのではないか、という期待を岡は持たせるのである。

2020年5月7日木曜日

トラウマ難治例 8


考察
以上の考察が示すことについてまとめてみよう。私たちはトラウマケースに「重ね着」される可能性として、発達障害、PD、気分障害、解離傾向などを見た。これらの多くが、早期のトラウマの深刻さと生来の気質の組み合わせから成り立っているという事実も理解した。
単純化して考えるならば、トラウマケースはその「重ね着」の状態が深刻になるほどに難治例として私たちに立ち現れるということが一般に言えるだろう。極端な場合にはASD 傾向やBP を有し、抑うつ傾向や解離傾向を併せ持ち、なおかつ現在進行形でトラウマ状況にあるケースということになる。あるいはさらに正確に言えば、そのような「重ね着」状態を理解することなく、それらに対する治療的な関りを怠ることで、さらにそのトラウマケースは難治例とされるということになろう。問題はこれらの問題をどれだけ「重ね着」するかがトラウマケースの難治性の実態なのだろうかということである。残念ながらその問題について包括的に論じたものを寡聞にして知らない。
ここからは私見を述べさせていただく。私たちはおそらくトラウマ難治例に関して、大きく分けて二つの種類の「重ね着」状態を見ているのではないだろうかと考える。一つはBPを備えたタイプであり、それはおそらく必然的にASD 傾向を併せ持つからであろう。他者をよそ者と見なしてしまうというBPの傾向は、ASDによる「相互の対人的情緒的関係の欠落」によりより深刻な問題を呈するはずだからである。そしてこのタイプは、いわば外部に敵を見出し、感情を外に向ける傾向があるという意味では、外在化タイプの難治例と呼ぶことが出来よう。
他方では、解離の病理が抑うつと結びつくことによる難治例にもしばしば遭遇する。私が日常的に出会う多くの解離のケースから感じるのは、彼らが最も難治になるのは、抑うつによる引きこもりの場合である。それらの多くのケースが回復に向かえない更なる原因は、抑うつ症状により社会機能が低下して自宅から出られないことで、援助者やパートナーとの出会いの機会も持てないことであろう。こちらのほうは、いわば内在化タイプの難治例と言えよう。
もちろんこの両者の併存状態、例えば解離性障害においてBP ASD 傾向が併存する場合もあろうが、解離性障害を有する傾向の人たちの常として、他人の気持ちを分かりすぎる、という問題があり、それはASDBPとはむしろ反対の傾向と言えるのである。
これらのタイプに大まかに分類することの意味は小さくないだろう。一般に外在化タイプの場合には、MBTMentalization-based treatment )などのアプローチが意味を持つであろう。内在化タイプの場合には暴露療法はあまり適さないという方針はおおむね妥当と言える。むしろ支持的なカウンセリングや抗うつ剤による治療が大切である。
しかしいずれのタイプでも重要なのは、現在の生活でのトラウマへの暴露や対人間のストレスに注意を払うことである。現在進行形のトラウマは内在化タイプでも外在型タイプでもそのトラウマケースを難治にすることは疑いない。