2019年8月19日月曜日

揺らぎと死生学 7


いわゆる三島事件 (1970) は極めてセンセーショナルで様々な議論を掻き立てる事件であった。三島由紀夫はノーベル文学賞の候補にも上がったほどの、日本を代表する著名な作家であった。彼は「葉隠」の愛読者であり、信奉者でもあった。彼は日本人の精神が第二次世界大戦後に変質してしまったとし、それまで日本が持っていた伝統的な価値観を取り戻すべきであると熱心に説いた。特に彼は国民が天皇を崇拝し、天皇のもとに一つにまとまるという極めて右翼的な皇国史観を唱えた。
三島の主張は死生観にも及び、葉隠れに表された精神の重要さを説いた。彼が晩年に発表した「葉隠入門」には、死を覚悟することがその人の精神の最高度の成熟を意味し、自殺は人が自由を行使する最高の形であるとした。そしてそれから3年後、実際に三島は自衛隊の駐屯基地に立てこもり、日本の平和憲法に反対し、日本人が再び天皇を中心とした社会を復古することを呼び掛け、それが自衛隊員たちに受け入れられないと見るや、士道に則った儀式化された割腹自殺を遂げたのである。
三島は一見「葉隠」に述べられたような死の覚悟を持ち、自らの自由を最高の形で行使したと取れなくもない。少なくとも三島自身はそれを意図したはずである。しかし彼の行動には様々な反応が見られた。日本の精神分析家の岸田秀 (1978) は彼の行動が含む欺瞞を鋭く突いた。彼によれば、三島は決して自己をリアルな自己を体験することはなかったという。彼はごく幼いころから周囲の大人たちの願望を満足させなければならなかった。なぜなら彼の両親と祖母がそれぞれ盲目的に彼を「愛し」、彼ら同志はといえば非常に葛藤的な関係にあったからである。三島の人生はその最初から三方向に引き裂かれていて、彼が真に自分に自由になり、自分に正直になるためには、自殺することで彼らとの関係を永遠に絶つしかなかったというのだ。三島の行為がいかにヒロイックで自己犠牲的に見えても、彼が死に直面する際にいかに彼の自由さの感覚がもろく、また誤解されたものであったかを示している。三島の行為は自分の自由さを表現したものではなく、それがいかに自分に欠けていたかを図らずも表現したことになるというわけだ。三島の生き生きとした文学的な表現はいわば文学の衣をまとった彼の生命感の躍動と言えたが、後の人生において、その才能が枯渇するに従い、三島は自らをある固定したものにしたいという願望を持った。それはノーベル賞の受賞者で愛国主義者で殉教者であるというある種の理想化された姿、生の躍動感の失われた偶像としての自分を確立しようと試みたわけである。死とは究極的な、揺らぎの終焉というわけだろう。